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Last-modified: 2010-05-12 (水) 01:25:47

第六十九景 槍鬼 そうき

いくが月岡雪之介の屋敷で暮らすのは 自分の存在が大切な男の出世の妨げになることを恐れたためである
武家社会に於いて 良い縁談は武芸に勝る立身の近道なのだ

 

この日 清玄の元より手文(ふみ)が届き 丑満時の廃堂へ呼び出された
逢瀬の場所としてはいささか殺風景である

 

「清玄さま 少しおやつれに」
「灯りを消せ」
星の光も届かぬ雑木林の中 間近にいる清玄の姿さえ暗黒に包まれた

 

「面白いものを見せてやる」
光無き世界では 目開きと当道者の立場は逆転する

 

「いたぞ」

 

暗闇の中 ただ生命の気配のみが感じられる
どこにでもいる狸であるが 正体の見えぬいくの瞳には 金色の羚羊が映っていた

 

清玄がいくを呼び戻したのは “虎の中の虎”と再び戦うためだ

 
 

笹原邸

 

猪又晋吾の叔父 徳次郎
由緒正しい七百石の譜代である

 

「そなたが某の甥 晋吾の指を刎ねた件 何の遺恨もござらん
 我が甥の槍を その身体でしのぎたるとは天晴なもの
 わしはそなたの技量(うで)を買うぞ

 

 右の指を失くした晋吾には もはや槍をあやつること要(かな)わぬ
 そなたの“隻腕の剣術”を仕込んでくれ」
「笹原先生の“許し”は得ております」
「牢人の身の上では暮らし向きも覚束ぬ筈
 わしの屋敷に住み込めば扶持には困らぬぞ」

 

「おことわり申す
 “隻腕の剣術”などは覚え申さぬ 剣術は剣術
 剣は腕で操るものではございませぬゆえ」

 

徳次郎の顔面がみるみる紅潮した
「ぬうう」
源之助の言葉は あまりに“抜き身”すぎた

 

「と 徳次郎どの どうやら藤木どのの胸中は上覧試合の件で一杯のご様子
 武骨な物言いになってしまったことを心よりお詫び申す!」

 

「晋吾 去ぬるぞ」
ドス ドス ドス

 

「藤木源之助どの
 一手 ご指南つかまつる」

 
 

鎌宝蔵院流 笹原修三郎
徳川家の槍術師範とは すなわち天下一の槍の使い手と断言してかまわない

 

ドクン ドクン

 

修三郎は清玄の剣を駿府城で見ている

 

ズンッ
ドサァ

 

「三重どのを連れて駿府より逐電いたせ!
 清玄の剣には及ばぬ!」

 

ドクン ドクン