矛盾継承換点ベツレヘム‐エピローグ・アデリーザ『箱の中の希望』/『箱入り娘と明日の希望』 PL名:クン
まあ人生ってそんなものか。
紹介状を手渡されたあの日。真っ先に浮かんだのは失意でも悲哀でもなく時計塔で慣れ親しんだ諦念だったのを覚えている。
"自分なりに努力したつもり"を迎えるゴールが自分はいてもいなくてもいい存在という宣告だった。そんな経験はこれで三度を数えた。
降霊科創立以来の劣等生。なんて考古学科に移籍する前のレッテルも俄に思い出したはずだ。レッテルを貼られるだけ良かったのかもと最初に落ちこぼれた法政科の講師の無関心をたたえたガラス球の瞳をも連想しながら。
アデリーザ・エインオードは陰鬱に向かいたがる回顧と一緒に取り出したばかりの豪奢な封筒を手帳の奥付あたりに仕舞い込んだ。
他でもない考古学科のロードの手ずから封蝋を垂らされたその封筒の中身とは"カルデア"宛ての紹介状。アデリーザがもつレイシフト適性、そして"時間旅行による遺物調査"の映えある第一回調査担当者という肩書を保証した書状である。
見目ばかりがいい外れ籤。考古学科ではそう呼ばれていた。
カルデアから発行されたタイムマシンの搭乗チケットはあくまで特異点攻略作戦参加のおまけという但書つきであった。
さながら週末一泊二日で西欧各国周遊を謳う弾丸ツアーだ。ホテルでシャワーを浴びるタイミング以外スケジュールが詰まりきった右から左への旅行プランに等しい。調査に割かせる余暇など祖国に持ち帰りたい異国情緒を土産物売り場で選別する時間と大差あるまい。
でなくば人類史崩壊の危険が伴うチケットを安売りするものか。何もさせるつもりがないから人理の守護者らは頑として振らなかった首を縦に下ろしたのだ。
暗黙とはいえそれは明白なことだったし、それを承知で考古学科は握手に応じた。そもそも遺物調査を執り行うつもりもなかった。調査はいずれ実現させたいものだが今やることではない。考古学科の目的はその前段階を向いている。
レイシフトを始めとしたカルデアの機能を利用したい者はごまんといるが、彼らが真に欲するは整理券。列の最後尾に並び数ヶ月から数年に及ぶ不確定な待ち時間を経てまで費用対効果のレビューすらないタイム・レジャーへの参加を熱望する魔術師はいない。
カルデアとの共同調査プロジェクトが発足した事実。これこそが整理券。すなわち考古学科のロードが第一回調査に求める全てである。有り体に言えば席取り係だ。送り込む調査担当者は誰だっていい。何もさせないのだから。
だからこそ先だっての外れ籤という呼び名だ。ファースト・ペンギンへの任命は短い探求人生の空費を肩代わりする人柱(レビュアー)への異動命令を意味した。
値札を貼ればまず間違いなくペンギン一羽よりも安価であろう考古学科きっての"人畜無害な"魔術師に白羽の矢が立ったは当然の帰結と言える。無才アデリーザ・エインオードの生涯がいくらか目減りしなかろうが魔術世界繁栄に寄与する貢献量は変動はない。その事実は未来視能力がなくとも見え透くのだから。
──あ。今ちょっと泣きそう。
熱を持ち始めた目の端と世界を瞼でシャットアウト。アデリーザはうつ伏せの我が身をベッドに投じる。枕の柔らかな感触が顔型に凹む。努めてそのクッション性エトセトラに思いを馳せるようにする。フワフワで気持ちいいなあとか。でも少し臭い始めたからカバー交換したいなとか。そうしたどうでもいいことで頭を埋め尽くす。ここ数ヶ月で飛躍的に上達した毎朝のルーチン。
慣れたもので数分と経たずアデリーザの表象は凪いだ水面を取り戻す。
──ここ数年で上達したのが頭を空にする速度だけってことをギリギリまで思い出さないのがコツかなやっぱり。
自嘲ぎみな述懐をしながらアデリーザはベッド脇に落ちた手帳を拾って立ち上がる。
現在時刻はUTC+0基準で日付変更五分前。そろそろ船が接舷した頃合いだ。
フィルムに包まれた未開封の防寒着。船員からの不要な気遣いを部屋に残してアデリーザは極寒の搭乗口へ足を向ける。
身を切るような極点の冷気。防寒用の簡素な魔術礼装すら上手く使えない無能な魔術師では十分と持たず凍死するだろう。
しかしアデリーザの肌はあたかも身に纏う薄着に相応しい春の陽気の中にあるかのように震えも竦みもせず、そして降りかかろうとする氷雪のすべてを圧壊させる。
手帳を開いて地図の写しをアデリーザは取り出す。カルデアへのアクセスには標高数千メートルクラスの山を一つ超える必要がある。そう思うと今から憂鬱になる。
素手で触れば肌が張り付き凍りつくはずの冷却されきった転落防止柵。それに寄りかかり体重とメランコリックな頬を預けると、アデリーザは透明な溜息をついた。
「やだなあ……一時間くらい歩きそう」
アデリーザ・エインオードになぜ白羽の矢を立てたか。
その理由を問われたなら、推薦者はきっとこう答えたはずだ。
"エインオードなら世界が滅びようと死にはすまい。死地から生還するだけの仕事にはうってつけの怪物だ"────と。
エピローグⅠ『箱の中の希望』
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────そこは箱の中だったのだと思う。
朧気ながら思い出せるのはいつも薄暗かったこと。
子供用のベッドがむりやり詰め込まれた細長くて窓のない部屋。
一つきりの扉は毎月の『摘果』まで施錠されたまま。
日に三度ハッチから差し込まれる冷たいトレイの手触りを時計の代わりに数えていた。
血縁上の父が用意した『規格外品』用の隔離圃場。
私が生まれ、育ったのはそんな場所だった。
ひどい場所だったと今では思う。でも、幼い私は疑問すら抱かなかった。
それは"普通"を知らなかったから。……じゃない。
『摘果試験の結果を伝えようアデリーザⅡ。……忌々しいことに筆記はまたお前がトップだ。次の試験までの生存を許そう。せいぜい学べ。貧弱な回路の失敗作にも買手がつくかもしれんぞ』
生きるためには疑問を抱く時間すら惜しかった。
ただ、それだけの話。
*
変化は私が六歳を迎えた春の日だった。
『これはこれは! よくお越しくださいましたミスター・エインオード。ようこそ私の城へ。アフタヌーンティーを用意させております。応接室にご案内しましょう』
『いや結構だ。余計な修飾は省いてくれヴィニュロン。予定が詰まっている。手短に済ませたい』
『失礼。ではすぐに商品をお持ちいたします』
ヴィニュロンの甘ったるい猫なで声と、彼の来客の声が扉の向こうからした。
小さな私は扉に張り付いて耳を尖らせていた。
ヴィニュロンの工房の客人は子どもを買い求めにやってくる。
買われるのは私じゃない。明るい部屋にいる魔術回路が正常な子たち。
そんなこと小さな私もわかっていたけど、それでも、淡い期待と深い落胆はいつでも付き物だった。
ほら。きっとすぐに足音は小さくなっていく。
ほら、ほら。もうすぐに。
────ガチャリと、開かないはずの扉が開いた。
『朗報だぞアデリーザⅡ。お前の買手が現れたようだ』
少しだけ違ったのは足音の大きさと見たこともないヴィニュロンの満面の笑み。
アデリーザの第一子だった私はその日を境にアデリーザ・エインオードになった。
*
小さくうめきながらアデリーザ・エインオードは目を覚ました。
まだぼやけた視界の向こうは少なくともマイルームではない気がする。
掛けられた毛布を辺りを捲り、弛緩しきった上半身を起こして辺りを見回す。
両手に収まっていたはずの夢の中身が指の隙間を抜けていく手触りを覚える一方、記憶が少しづつ鮮明さを取り戻していく。
たしか、令呪書の調整に来ていたはずだ。
それでいつものように失敗して、ダ・ヴィンチ所長代理が張り切って再調整にのめり込んで……どうやら自分は待ち飽きて眠ったらしい。
部屋の明かりは落ちている。人気もない。
留守、だろうか?
この部屋は魔術師でもあるダ・ヴィンチの工房。アデリーザを寝かせたまま出歩くのは少々不用心な気がする。それとも喫緊の問題でもあって呼び出されたのだろうか。
怪訝に思い立ち上がろうとした拍子、毛布の間から紙片が落ちた。
拾ってみる。ダ・ヴィンチの置き書きのようだ。
「新しくカルデア入りする子が来たからちょっとだけ顔出してくるね☆」──とのこと。
半乾きのインクで走り書きされたダ・ヴィンチらしい理由に気が抜けて、くすり、と思わず声を漏らす。
ニアミスだったらしい。今さっき出ていったばかり、というところだろう。
緩まった口元が平坦な一文字に戻っていき、また寝転がったアデリーザは手の甲で目を覆った。
────嫌な夢を見た。
シャトーにいた頃の生活はあまり鮮明にしたくない思い出の一つだ。
摘果──一世代百余名の実子を篩分ける厳格かつ機械的な審査、これにより上質な商品を生産し売買するヴィニュロンを名乗る男こそアデリーザの実父だった。
母親の方はわからない。知っているのは名前がアデリーザということくらいか。
ヴィニュロンは自分のシステムを誇っていた。だから基準を満たしたアデリーザは摘果を逃れられた。
だが、一度でもヴィニュロンが気まぐれを起こせば。
……そんな怯えが、知識を詰め込むために頭から追い出した空想が、あの箱のような部屋には充満していた。
勉強地獄の日々はエインオードに買われても変わらなかったが、それでも部屋に窓があるだけずっといい。
少なくとも、朝にカーテンを開ければ陽光が暗がりを消し去るのだから。
現在もアデリーザは薄暗い部屋が苦手だ。トラウマというほどでもないが似たようなものかもしれない。
明かりの落ちたこの部屋のような場所にいると後ろ向きな考えと実体のない焦燥に襲われる。
我ながら情けない話だ。今なお箱の中にいるわけでもないだろうに。
*
『君を買ったのは、適性を見出したからだ』
養父となる魔術師は出し抜けにそういった。
『適性。資質。資格と言ってもいい。無意識のようだが君は自己存続に最適な解を常に感知し選択している。罠を敷き詰めた私の工房を無警戒に歩いてなお生存するのが証だ。──満足行く結果だ。明日、刻印の一部を移植する。今日はもう床につきなさい』
────ひとつだけ質問させて貰えますか。
『構わないとも。訊きなさい』
────資格って、何の資格なんですか?
『ああ。そのことか。────世界を救う資格だとも』
*
それは今の彼女では朧気にすら思い出せない、箱の中の記憶。
養父のもとで過ごした日々。
あの日々は、客観的に見ても決して悪いものではなかったと思う。
毎日毎日課題の山で、食事とトイレとお風呂以外は自分の部屋に籠もりきり。それはシャトーと変わらなかったけど、
『もう終わったのか? ……君は優秀だな。この様子なら学習工程もいくらか短縮できそうだ』
褒められる、という見返りがあるのが嬉しかった。
だからこれはシャトーのように忘れたい記憶ではないのだ。
忘れるようになっていた。
それだけの話。
『パンドラの箱を知っているねアデリーザ』
既に"君"ではなくアデリーザと呼ばれていた十二歳の私は大きく頷いた。
『ギリシア神話に登場する"この世の災い"を閉じ込めた箱、または甕、ですね。ヘパイストスが泥から作り出したパンドーラーに神々が贈ったとされるものです』
『そうだ。我々エインオードはそのパンドーラーにルーツをもつと伝えられている。その血と、その原罪をね。私が伝承科に籍を置くのも原罪を注ぐため、かもしれない』
『だから私を?』
『……悪いとは思うよ。今となっては情も湧いている。君は間違いなく私の娘だ。やめられるものなら今からでも』
『────お養父さま』
『ああ。わかってる。"空虫の腑"は活動期に入りつつある。"箱"に封じなければならない。……もう一度訊こうアデリーザ。今後、君は自己矛盾にすら気付けない歪なモノに成り果てる。本当にそれでいいのか?』
『はい。────エインオードの娘として原罪を背負い、箱の中に封じ込まれた"希望"の役目を演じます』
世界を救う資格。それは破滅をすり抜ける才覚。"たとえ封印するものを知らずとも必ず生存し箱を守る"能力。
その役割とは二度とパンドラの箱が開かれないように、内側から蓋を縫い留める"希望"。
"希望"自身が箱を開けてしまわぬように、箱についての記憶は砕け、起こる矛盾は受容される。
エインオードの魔術とは世界を脅かす災厄と、代償となる希望を、一緒に箱に詰め込む封印術式だった。
ただ一人の人間と引き換えに、人理の破滅一つを閉ざす。
当時、養父の助手の真似事をしていた私にも、代償の法外な軽さがよく理解できた。
だから、あのときの私も後悔なんて微塵もしていなかった。
むしろ誇らしさすら感じていた。隔離圃場で枯れ落ちる運命だった私が誰かのために役立てるなんて。これが私の生まれた理由だったんだ、と、その喜びで胸が熱くなった。
でも、ただ一つ。心残りは、
────最後くらい、また褒めてほしかったな。
*
────箱の中にいる。
そんな空想にとらわれるのはやはり部屋が暗いからか。
部屋から出られるものならそうしているが扉は頑として開かない。
せめて部屋に明かりを灯したかったが他人の工房で動く気にはなれず、厚い金属扉にぴったり張り付いて誰か来ないかと耳を尖らせている。
ダ・ヴィンチ所長代理の早いお帰りを願うばかりだ。
もうどのくらいこうしていたか。気が滅入っているせいか秒針が進む音が異様に大きく、間延びして感じる。
ふと思った。今の自分はまるっきりシャトーにいた頃のようだ。
マスターとして作戦に参加することになって、でも上手くいかなくて、自分なりに努力はしてもやっぱり良くはならなくて。
どうすれば前に進めるかもわからず頭をからっぽにしてがむしゃらであろうとしている。
涙は出てこない。
暗がりに飲まれたときのネガティブはいつでもそうだ。悲観するのでもない悔しいのでもない。ただ重たい諦念に浸る。そういうもの。
つまるところ、アデリーザの根底には諦めがある。不十分だから、不適格だから、──だから仕方ない。
考古学科の進退とか、世界の命運とか、そういう大きなものを背負うのに自分は向いてない。向いてないからせめて自分なりに頑張ることにして、ダメだったら仕方ないと諦める。
たぶん自分ってどんな風に生きてもそんな人間だ。アデリーザはそう思っている。
だから、────暗がりを出られない。
自嘲気味に笑う。
「誰か、開けてくれる人がいればいいのにね」
────突然、暗がりが去った。
扉に寄りかかっていたはずのアデリーザの上体が勢いよく背後に倒れ、しこたま後頭部を打つ。
「~~~~~~~~~~っ!」
痛くはない。
この声は遠い昔に形どられた反射の残り香でしか無いものだ。
遅れて扉が開いたのに気づく。きっと部屋の主が帰ってきたのだろう。
カルデアの面々にもアデリーザの頑強さは広く知れ渡っている。目を開ければ呆れ顔をしているダ・ヴィンチが────
「だ、大丈夫?! すごい音してたけど?」
初対面の、誰かがいた。
「────あれ?」
まだ面立ちに幼さが残る、アデリーザの一つ下くらいの少年。
カルデアには一月以上逗留しているが、彼のような人物には見覚えがない。
「あっ」
そして思い至る。
ダ・ヴィンチの書き置きにあった"新しくカルデア入りする子"。それが彼ではないか?
「えっと。今日カルデアに来たマスターの人……でいいのかな?」
「あっはい、そうです。────じゃないよ! 今すぐ病院、じゃなくて医務室! ヤバいぶつけ方してたって!」
「大丈夫大丈夫。痛みはまったくないし」
「余計にヤバいんだが!?」
くすっ。小さな笑いが漏れた
初対面にも関わらず、血相を変え、自分のことのように騒ぎ心配する姿があんまり面白くて。
さっきまでの後ろ歩きな思考回路なんてさっぱり洗い流したみたいにぷすぷすと微笑みだけ湧き上がる。
「ほんとに大丈夫だって。魔術師なんだ私。身体強化で怪我してないよ。……そうだ。私、アデリーザ・エインオード。考古学科から来たの。あなたの名前は?」
「ぼ、僕? えと、僕の名前は────」
1
クロロ・ルード・デニスだけではない。
根拠のない楽観を抱いていたのは彼だけではなかったはずだ。
全てが上手く行っている。この道行きの先できっとハッピーエンドが待っている。
そんな夢物語があるのだと、信じていた。
イオも、ルミも、いつだって冷静なあの愁火さえもが、一様に表情を硬くしていた。
「……なんだよ、それ」
絞り出すように呟いたクロロに向け、能面のような顔のダ・ヴィンチが機械的に繰り返す。
「"アデリーザ・エインオードの帰還に失敗した。コフィンに反応もない。生存は絶望的だ"」
「────クロロ!」
イオが叫んだ。呼吸の間隔を狭め続けるクロロがひときわ大きく膝を笑わせ、その身体が傾いでいく。
崩れ落ちるクロロを受け止めたのは彼の契約サーヴァント、実体化したプリテンダーだった。
"ありがとうシャル様"。そう言おうとして、クロロの喉から掠れた呼気がひゅぅひゅぅと漏れる。
「喋っちゃダメ。落ち着いて。ゆっくり息をしなさい」
遅れ駆け寄ったイオはクロロを座らせ、すー、はー、と自ら呼吸して手本になる。
愁火は少しづつ正常な呼吸を取り戻していくクロロから視線を外し、ダ・ヴィンチを見やった。
唇を硬く結んで目を閉じていたダ・ヴィンチの瞼が開き、ようやく視線が合う。
「……教えてくれ、ダヴィンチ女史。彼女はなぜ帰れなかった」
返答を待つ愁火の目は何かを堪えるように微かに揺れる。
それはどこか、告解のために聖堂の門戸を叩く者の眼差しにも似ていた。
愁火の瞳に滲む懺悔を、そのとき、ローゼンクロイツが視線に割って入って鼻で笑い飛ばした。
「早合点するな。悪役を嘱望するタマでもねえだろ、お前」
「な……」
「お前が考えている理屈は的外れだ。そんなシンプルな話じゃないんだよ」
クロロの背中をさすって介抱していたイオが奇妙なやり取りを訝しむ。
「……悪役? どういう意味?」
「"自分が観測した結果ハズれた"とMrウレイビは考えていたのよ」
当人らだけで通じた会話を正しく読み取れたのは、この場でルミだけだった。
未だ理解の及んでいないイオはルミに尋ねる。
「なんのこと? サー・ローゼンクロイツに言われて私たち外を観測しないように────」
「その前よ。Mrウレイビが反応を追ったでしょう?」
「あ……」
イオは思い出す。
アデリーザが消えて混乱するイオたちが落ち着きを取り戻せた理由。
生きている。そう愁火が保証してくれたあの一幕を。
「でもそれって────」
言いかけたイオの腕の中からクロロが抜け出した。
愁火をぎゅっと見つめてまだ復調していない息を懸命に声に変える。
「……やめてよ、愁火。誰のせいでこうなったとか、僕、そんな話嫌だ。したくない」
「あ、ああ。……すまない、クロロ」
クロロに追従して、ローゼンクロイツがダ・ヴィンチに釘を刺す。
「断っておくがお前もだ。所長代理だからどうだと話をややこしくしてみろ。その脳みそくり抜いてやる」
「ミスター・ローゼンクロイツ。私は────」
「────俺の知る"万能の天才"なら。愚かな過去よりも一厘に満たぬ未来に目を向けるはずだ」
「……………………」
ダ・ヴィンチは目をつぶり黙考する。
ベストを尽くしたとはいえ存在証明が不完全なマスターを送り出したのは自分。
後悔は彼女の中で燃え燻っていた。
ゆえに無表情に徹さねば平静を装えなかったが……
「……うん。そうだね。……。よし。切り替えようじゃないか!」
にんまりと不敵に。
ダ・ヴィンチは笑んでみせた。
「絶望的とは言ったが可能性はゼロじゃない。ならそれを実現してしまうのが万能の天才というものさ!」
「天才的切り替えよ、ダヴィンチ女史。それで、なにか方法があるのよね?」
「うん。天才的な質問だルミ。それがね。実は手がかりすら見つかってない!」
「ほほう。……ほほう?」
ルミが目をしばたたかせる。
それもそのはず。ダ・ヴィンチの言うことは「丸っ切りノープランです」と言ったも同然の大暴投である。
呆気に取られているのはルミだけではない。イオと愁火も耳を疑い思わず顔を見合わせていた。
種明かしの始まりは突如点灯したブリーフィング用のモニターだった。
コンソールを叩き、なにか、プログラムを実行したローゼンクロイツはルミたちの方に向き直る。
「焦るなよ今を生きる天才。手がかりはこれから作るんだ。────愁火の観測データを解析してな」
「俺の……?」
「だから言ったんだよ。早合点するなって。お前の判断は非の打ち所がない正解だったんだ」
アデリーザ・エインオードの存在証明は不完全だった。
管制室からは彼女を観測できず、支給した魔術礼装と契約サーヴァントから逆算する他なかった。
すなわち、彼女に何が起こってもその出来事をカルデアが認知できないのも同じである。
本来であれば手がかりどころか糸口もない。暗中でゼロの可能性を模索する他なかったのだ。
しかし、愁火はアデリーザを追った。
「胸を張れ。首の皮一枚でお前が奇跡を繋いだ。────このクリスチャン・ローゼンクロイツに」
ただ反応があったというそれだけの、漠然とした観測だ。
隈なく解析しても手がかりなど僅かたりと知れないかもしれない。
そう、並の魔術師なら。
ローゼンクロイツは挑戦的に口の端を釣り上げる。
その瞳に燃えるのは決して自信ではない。
捻くれて、しかし力強い、言い逃れもできないほど堅く裏打ちされた"自負"であった。
「望まず背負った名ではあるが、腐っても薔薇十字の盟主だ。三十分寄越せ。"望まれた役割"程度、果たしてやるさ」
2
三十分寄越せ。その宣言を裏付けるようにローゼンクロイツはタイマーをセットした。
『いいか。こいつは予定じゃない。確定事項だ。三十分後にブリーフィングを開始する。それまで身体を休めておけ』
ダ・ヴィンチとローゼンクロイツの指揮に従いスタッフたちが慌ただしく管制室を行き交う。
片隅に座り込んだクロロは蜂の巣を突付いたような喧騒を呆けたように眺めていた。
タイマーは残り二十五分を切ろうとしている。
……二十五分。そう、二十五分後に全てが決まる。決まってしまう。
何にも触れられていない空っぽな自分の手をクロロは強く握りしめる。
ここに座ることしかできないでいる自分が。ひたすら無力でもどかしかった。
「クロロ」
はっとクロロは目を見開く。
内在への自沈から覚めた彼をイオが見下ろしていた。
イオは手に提げていたポリ袋から背の低いペットボトルを数本取り出しクロロに差し出す。
「食堂でね。来客用のウェルカムドリンクを分けて貰ったの。好きなの取って」
「……ありがとうイオさん」
無作為に飲み物を受け取る。
クロロの様子を伺っていたイオの目に少しだけ安堵の色が混ざった。
「熱いから気をつけなさい。ルミとウレイビも。……特にルミ」
「……遅かったようだ」
「ふぇんふぁいらからふぇひきひょ」
350ml入りのペットボトルはよく温められている。熱いくらいだった。
蓋を開け、クロロはゆっくりと容器を傾けた。
喉を滑り落ちる苦みが、冷たく竦み切った心を暖める。
背中のほうで張り詰めていた緊張感が僅かに緩んでいくのを感じた。
「落ち着いた?」
クロロの横に座りながらイオが尋ねた。血色を取り戻した顔をクロロは無言で縦に振る。
それにしても、と、わざとらしくイオが前置いた。
「意外。クロロがブラックを取るとは思わなかったわ」
イオが敢えて日常の話をしているのがなんとなくわかった。
クロロはそれを汲み取って、まだぎこちなくも話題に乗ってみせる。
「は、ははっ。やだなあ。ブラックコーヒーくらい飲めるってば。子ども扱いしないでよイオさん」
「そっか、お茶が一本余ったから返してくるわね」
「申し訳ありません差し支えなければ取り替えていただけないでしょうかイオ様」
「……そんなとこだと思ったわよ」
溜息つきつきイオはポリ袋を手渡す。
クロロは開栓したペットボトルを傾け中身を一口含んだ。美味しさが身体に染み渡る。
「あんたね、見ないで選ぶから間違えるのよ?」
「返す言葉もございません」
「……私も人のことはいえないでしょうけど」
「え?」
「間違えたの、本数。一本多かったでしょ? ────アデリィのぶんを数えちゃったの」
アデリーザの消失直後、動揺していたはクロロだけではなかった。
彼と同じくらいかそれ以上にイオも混乱し狼狽していた。
それはイオにとってアデリーザが大切な友人だったからだ。
平常通りしっかり者のイオに見えているのは、表面上を取り繕っているだけなのだろう。
おそらくイオだけではないのだ。
らしくもない早とちりをした愁火も。マイペースぶりに違和感が残るルミも。きっと。
「クロロ。私は何もできないのが悔しい。本当は座って待っていられない。友達を助けたい。立って動きたいの」
イオは堰を破って流れ出した言葉をそこで止めた。
「でも私たちは体力を回復して備えることしかできない。だからお願い、もしクロロも同じなら、一緒に耐えてほしい」
「うん。……ごめん。イオさんに心配させてばっかりだな、僕」
「謝らなくていいのよ。友達なんだから。…………それよりもアデリィが帰ってきた後の話をしない?」
「帰ってきたあと?」
「いろいろ予定はあるでしょ? クロロは告白の返事があるし。あとお別れ会のセッティングも」
「その件については目下考案中で────ってお別れ会?」
「アデリィが言ってたじゃない。"今回の調査が終われば一度帰る"って」
「────────あ」
そうだった。
その後の衝撃的な出来事で忘れていたが、アデリーザはベツレヘム特異点を修復したら時計塔に帰ると言ったのだ。
健康的な顔色に戻っていたクロロがみるみる血の気を引かせていく。
「どうしようイオさん! 僕〆切までに告白の返事思いつく気がしない!」
「えっ。うん。そうね、頑張りなさい」
「素気ない反応にも程がある!」
「まあそんなことよりもお別れ会が問題なのよ」
「そんなこと?!」
「アデリィが好きな──……よく注文してたメニューや飲み物に心当たりはある? 食材の取り置きを頼もうかと思ってるの」
そのときだった。
火傷した舌を出し、愁火に患部を診て貰っていたルミの耳が、ぴくりと動いた。
あ、と愁火が言い切らぬ一瞬のうちに、音もなく、堂々と二人を割って座ったルミは、自信に満ちた腕組み姿で回答する。
「愚問というものだわ。イオ。────サルミアッキよ」
「…………。急なお願いはできないでしょ。早めに確認したかったのよ。どう、クロロ?」
「え、僕には……わからないかも」
「……クロロでも?」
「だって自慢じゃないけど僕、アデリーザちゃん一緒にご飯食べたこと無いよ? イオさんこそ知らないの?」
「それが……私もアデリィとご飯したことないのよね。食堂で会ってもいつも先に済ませてるみたいで」
「サルミアッキを食べるのも見てないわ」
「…………ルミ」
「ルミさんすげぇ! イオさんに無視されてまるで動じてない!」
「当然よ、天才だもの」
「天才関係あるかなぁ……」
オーバーなリアクションをとるクロロ。
自信たっぷりにズレたことを言うルミ。
呆れながらどこか楽しげな様子のイオ。
「……………………」
一歩及ばぬものの、いつもの調子に近づいていく会話を耳にし、愁火が微かに頬を緩めた。
同時に。足りない一歩、消えてしまったアデリーザの帰還が叶うことを強く願う。
が、愁火はこうも思っていた。
────願っているのは、残る不安を捨てきれないからだ。
不安。もしくは疑い。一度直視したそれらを捨てきれるほど愁火は楽観的になれない。
ローゼンクロイツを信用していないわけではなかった。あの男が果たすと言ったのだ、手がかりは示されるはずだ。
しかし、ローゼンクロイツを示した手がかりを自分たちは手がかりにできるのだろうか。そんな疑念があった。
イオは言っていた。今は座して待つしか無い。と。まったくその通りだ。
ローゼンクロイツとダ・ヴィンチ。人類史上最高峰のブレインが揃う場で愁火が口出しできることなどない。
それはわかっている。わかっていても、考えを巡らせてしまう。
まだ見落としがないか。まだ思い出せるものがないか。まだ自分に出来ることはないか。まだ。まだ。まだ。
他人はこの感情に"求道"というラベルを貼る。だが愁火にとっては、ただの、未熟の証だ。
世には知らぬことが多すぎて、上を見るだけ果てしない。
ゆえに、人は自己という定まったリソースの限界を見定め、どこかで折り合いをつけねばならない。
愁火はその一般論のようには在れない。
追求し、邁進し、迂回を知らぬ幼子のように愚直な前進を続けることしかできない。
立ち上がり、小さく呟く。
「…………俺には、お前たちのほうがずっと大人びて見えているよ」
不意にルミが顔を上げた。
「なにか言ったかしら、Mrウレイビ」
ぽてぽてと歩きよってくるルミに、愁火は頷きを返す。
「ああ。席を外す。少し確認したいことができた」
「……そう。だったら"任せる"わ。いってらっしゃい」
「────!」
「言ったでしょ、天才なのよ、私」
パチリと一つウインクを残してルミは雑談の輪に戻っていった。
「…………すごいな、君は」
心からの称賛だった。
愁火の不安──仮説が正しければ"ブリーフィング以降、愁火たちに出来ることはない"。
おそらく、そのことをルミも勘づいていたのだ。
勘づきながら、おくびにも出さずクロロたちのメンタルケアを優先した。
なんと器用なのだろう。きっと愁火がどれだけ努力を重ねてもルミのようにはなれまい。
なれないからこそ今、背筋を伸ばし、愁火は管制室の中央を見据えて歩んでいるのだから。
「ミスター・ローゼンクロイツ」
愁火に名を呼ばれ、男は振り返る。
「なんだよ、この忙しいときに。お前は十分やってくれた。今は回復に努めて────」
「コフィンに、アデリーザ以外の反応はなかったか?」
「…………と、言うと?」
「アデリーザの持ち物が何か残ってたんじゃないか? ポピュラーな例に沿うなら服あたりが……」
ニヤリと、ローゼンクロイツが笑んだ。
「合格! お前も入れ! 食堂にはもう何人かやっている。直に裏付けが取れるだろう。正念場だ、回る頭は一つでも多くほしい」
愁火は強く頷きテーブルに着く。
きっと愁火が思いつくようなことは、数歩も先に、ローゼンクロイツたちの頭に浮かんでいるだろう。
今の愁火がどれだけ手を尽くしても出来得ることはただの再確認。車輪の再発明でしかない。
車輪の再発明、結構だとも。恥など憂いになるものか。
愚かしくても力尽くさずいられない。それが愁火なのだ。
「念の為、認識のすり合わせをしておこう。アデリーザ・エインオードはなぜ帰れなかった? 招かれたのか? 取り替えられたのか?」
「どちらでもない。自らハズれるシステムだった。彼女が至り、取り残されたのは────仙境だ」
3
きっかり三十分。ローゼンクロイツの宣言通りにブリーフィングが始まった。
集まったクロロたちにB4用紙の資料を渡した彼は、解析したデータをモニターに映し出す。
「まずは解析結果からだ。愁火が追跡した反応は惑星内かつ特異点外のものだった。この時点で、俺たちはアデリーザの居所を星の内海と推定した。ここまではいいな?」
「まったく良くないけどぉ!?」
劣等生の全霊の叫びが管制室に轟いた。その隣でイオもコクコクと頷いている。
「サー・ローゼンクロイツ。順序立てて説明してくれないと困ります」
「……わかったよ」
渋々顔でローゼンクロイツが折れた。
「資料にもあるがアデリーザは"観測不能体質"だ。カルデアはギヨームやお前らの観測情報から逆算することで存在証明ないし観測をしたわけだ。────なら自明だろ?」
クロロとイオは揃って首を横に振った。
ローゼンクロイツの表情が苦虫を噛み潰したようになる。
「ふふ。天才的解説が入り用みたいね?」
「…………ああ。頼んだ天才小娘。噛み砕いた説明をしてやってくれ」
「二人とも。これは簡単な論理問題よ。アデリーザが人類史のテクスチャ上にいれば私たちはここにいないの」
アデリーザ・エインオードは観測ができない特殊体質をもつ。
しかし、観測不能といっても全てが不能なわけではない。現に肉眼で目視でき会話も可能である。
観測不能体質に影響されないこうした観測手段はいくつかある。
カルデアは周囲の環境や人物を観測することで間接的にそれを再現し、組み合わせで存在証明を成立させていた。
愁火が反応の追跡に使用したのも、この組み合わせ観測と同じシステムである。
では、仮に、アデリーザが"焼却された世界"に飛んだとする。
アデリーザを観測するには周囲の環境をスキャンし、観測しなければならない。
つまり、愁火が追跡を行った時点で"焼却された世界"が観測され、事象が確定してしまうのだ。
愁火がアデリーザの生存を確認し、人理焼却を解消できた時点で、アデリーザが別のテクスチャに在るのは明白だった。
「でもルミさん。それなら、どうしてアデリーザちゃんの反応を追えなくなったの?」
「逆算に使われたのがヴィーダの観測だったから。覚えてる? あのときヴィーダはアデリーザと同時に消えていたのよ」
「じゃあ追跡できなくなったのは……」
「そ。魔力供給の仲達をしていた令呪書を失い、魔力切れに陥ったヴィーダが退去したってわけ」
回転椅子に座って床を蹴り、説明の間、暇そうな顔で回り続けていたローゼンクロイツが動きを止めた。
「納得してくれたか?」
「あ、はい。お待たせしてすいませんサー・ローゼンクロイツ」
「ルミさん最高! ローゼンクロイツより天才!」
「ふっ、それほどでもあるわね」
「……あーいい。もういいわかった。お前らはそれでいい。話を進めるぞ」
ローゼンクロイツがコンソールを叩き、スライドを切り替える。
眼鏡姿のダ・ヴィンチがクロロたちの前に進み出た。
「ここで当然の問題にぶつかった。星の内海といっても色々ある。侵入方法も多様なものだ。神隠しやチェンジリング、はたまた特定の手順を辿る。到底絞り込めない」
異郷訪問の伝承は世界各国に残されている。
しかし、何の理由もなく異郷に入り込む伝承は珍しい。
流れ着く、招かれる、取り替えられる、順路に従う、追放される。
大抵はこうしたルールのもとに侵入を許され、退出を許されるのである。
よってアデリーザがどんなルールを用いたかを予測できなければ帰還の可能性は無きに等しい。
「転機は君たちの雑談だったのさ。アデリーザがいつも先に食事を摂っていたと言っていたねイオ?」
「は。はい」
「それは正解であり間違いだったんだ。カルデアに入館して以来、アデリーザは一度も飲食を行っていない」
「……え? えーと……それはどういう」
「断食断水をこの数ヶ月続けていた。────そういうことになる」
「アデリィはどうしてそんなことを……」
「わからない。断言はできないが、おそらく無意識の行動だ。自分の中では辻褄が合っていたのさ」
ダ・ヴィンチがローゼンクロイツに合図し、スライドが移る。
「断食断水がルールだった、そう我々は発想し、該当するものを見つけた。それが仙人の住まう異郷────仙境だ」
仙人。一般的にそれは道教における超越者を表す。
彼らは精を練って内丹を、森羅万象を練って外丹を生成し、不老不死と神通力を身につける。
類まれなる研鑽の上に成り立つその力は神にも並ぶ、あるいは超えるものともされる。
「道教の仙人には種類がある。天仙・地仙・尸解仙といってね。アデリーザのコフィンには彼女の帽子が残っていた。それが、尸解仙の特徴に符合したんだ」
尸解仙とは肉体的な死をトリガーに不老不死を得る仙人のことだ。
厳しい道教の修練を経て、修めたその先で肉体の死を迎えた彼らは、衣冠・竹杖などの持ち物を痕跡に残して消失する特徴を持つ。
そして、コフィンを使ってレイシフトした人間は、生きていると同時に死んでいる。
アデリーザはおそらく、この二重写しの死により尸解へと至り、仙境に渡ったのではないか。そうダ・ヴィンチたちは仮定したのだ。
「んん? ……それ変だよダ・ヴィンチちゃん。コフィンの中は不確定なんでしょ? 死んでるかもしれないけど、生きていないわけじゃない」
「いいところに気づいたね。そう。重ね合わせということは、確定していないということでもある。死の確定を契機にする尸解の条件は満たせない」
「じゃあどうやって……」
不安そうに声を窄ませるクロロに向けて、ダ・ヴィンチがにっこりと穏やかに微笑んだ。
「────でもこれは、あくまで一般的な道教の仙人であればの話なんだ。そのあたり、愁火、説明よろしく」
「クロロ。仙人と呼ばれるのは厳格な道教者だけではない。よりインスタントな例もある。その一つが陽勝仙人だ」
陽勝。平安中期に存在した"天台宗の僧侶"。
奈良の牟田寺で仙法を学び、金峰山での修業を経て仙人へ至った人物である。
彼の修行は人間らしい生活から遠ざかり、衣食を完全に断って菩提に縋るというものだった。
現世の跡を消し去った彼は、最後に、着ていた袈裟を松の木に懸け、姿を消し去ったと伝えられる。
「陽勝仙人の死は目撃されていない。生死不明瞭な状態で、ただ、消えたんだ。────似ていると思わないか?」
クロロがハッと顔を上げる。それを見届け微笑する愁火は、表情を抑え、解説を続ける。
「この考えに至り俺達は、発想を逆転させた。アデリーザが使ったシステムは断食断水だけで完結していたが、それだけでは足りなかった。だから死の体験を交え原典に近づけたのではないか、とな」
不可能を可能とする仙人という超越者。これに拠る神仙思想に則りながらも、道教は行者に不可能を強いらない。
教えとは今を生きている人間のために存在する手順であり、人間の身のまま不可能を成し遂げるようには出来ていないのだ。
仮に、アデリーザが道教的概念を用いて尸解に至れたのだとしたら、断食断水の過程を辿る必要はなかった。
道教で求められる修行は、辟穀、すなわち食事制限。完全な食断ちではない。食べなければ人間は死んでしまう。
であるならば、消え去る以前から彼女らは超越者であった。アデリーザも陽勝も、現世に在るだけの仙人であった。
そして、足りぬ最後のひと押しを手に入れるために尸解という儀式を模倣した。────これが、カルデア首脳陣の出した結論である。
「断食での神通力獲得は久米仙人伝承にも見られるな。伝承によるとこの久米仙人は一度神通力を失っている」
「え、なんで?」
「若い女の太ももに見惚れたからだ」
「……な、なんだそれ」
"仙人"という言葉の清廉なイメージからは連想できない、あまりにも俗っぽい理由にクロロは絶句する。
「クロロと気が合いそうね」
「天才的同感」
「二人とも僕をなんだと思ってるの?!」
「……続けるぞ。久米仙人は七日の修行を経て神通力を取り戻した。その修行にも陽勝同様に断食の維持が含まれている」
衣食と縁を断ちて人から離れる。
愁火の言う仙人はこのロジックの延長上に象られる概念である。
「"人らしさを失ったから人でなくなる"。道教仙人の修行風景に比べればあまりにも安直だが、説得力のある理屈だな」
「────逆を言えば安直ゆえに脆く失われやすい。久米仙人がいい例だ。人の身に落とすことで救出できる目は高い」
補足したローゼンクロイツを愁火は頷きをもって肯定する。
「現世に残されたアデリーザの痕跡を辿り、縁を繋いで仙境から引きずり下ろし救出する────ダヴィンチ女史が名付けて曰く"零落作戦"だ」
愁火はカードサイズの機器とアデリーザの残した帽子をクロロに手渡した。
「それは女史とミスター・ローゼンクロイツが突貫工事で開発した"縁を繋ぐ"礼装だ。持っていけ、クロロ」
「持っていけ……って愁火は?」
「深い縁を持つ人物であるほど作戦の成功率は上がる。俺たちはお前ほど付き合いが濃くない」
一瞬、愁火はイオを見る。そしてほんの少し目を伏せた。
その理由はすぐにダ・ヴィンチとローゼンクロイツから明かされることになった。
「すまない、イオ。我々の力では一つ完成させるのが限界だった」
「まだ言ってなかったがこの作戦は大規模特異点の修復直後で不安定な今しか実現できない。タイムリミットがあったんだ」
「────────」
イオは小さくうつむき、しかし、間をおかず毅然として顔を上げる。
「それなら仕方ないですよ。────クロロ! アデリィのこと頼むわよ!」
「よかったのイオさん……?」
「言ったでしょ、我慢だって仕事よ。────アデリィはね。"好き"なものがない子なの。そんなあの子が唯一好きと言ったあんたならきっと見つけられるわ」
「…………うん」
二人のやり取りを見届け、ダ・ヴィンチは大きく頷いた。
「────タイムリミットは九十分! ◯四◯◯、そこが刻限だ! 只今より"零落作戦"を開始する!」
4
そして、──────ただ時間だけが過ぎた。
5
彼は、家族に愛されなかった子供だ。
"失敗作"、"出来損ない"、そんな烙印を押され相応の扱いをされてきた。
クロロとて、生みの親や家を自分の人生より尊重しようとは思っていない。
お互い様の断絶だ。クロロたちは納得ずくの相互排他の上にある。
クロロは愛情を期待し、家族は才能を期待し、双方が期待外れの結果を迎えた。
そして────互いに期待することを諦めた。
彼は、家族に愛されたかった子供で、愛されるのを諦めた子供だった。
だから、クロロの喉奥には管制室で口に出せなかった言葉が残っている。
『あの子が唯一好きと言ったあんたならきっと見つけられるわ』
────でもね、イオさん。好きの種類ってたぶん沢山あるんだ。
ベツレヘムで見た"愛"の姿。
それは決して一元的でなく、多種多様の在り方を内包したものだった。
"好き"という言葉もきっと同じでライクとラブに収まらない複雑性を秘めている。
誰かを嫌いたくないから込み上げる"好き"。
誰かの注目を集めたくて汲み上げる"好き"。
誰からも愛されるはずがないと諦めた心に覆い被せる"好き"。
形にならないナニカを納得するため貼り付けるレッテルとしての"好き"。
十五歳のクロロでも、こうした"好き"の種類を知っている。
────アデリーザちゃんは僕と同じなんだよ、イオさん。
落ちこぼれ、輪を外れ、身を寄せる場所も立つ瀬もない。
それが時計塔でのクロロとアデリーザだった。孤独でたまらない二人だった。
同じ経験があるから、同類だから、なんとなくクロロにはわかる。
"好き"がないのではなく諦めたのだ。レッテルとしての使い方すら忘れるほどに。
だって、────カルデアのどこを探してもアデリーザの痕跡は見つからないのだから。
管制室を出て走り続きだったクロロの足がついに止まった。
喉はとっくにカラカラになって切りつけられたような痛みまでする。
しかしドクドクと心臓が早鐘を打つのは疲れのせいでも痛みのせいでもない。
動悸はアデリーザのマイルームを出たときから鳴り出したものだった。
かつてクロロは彼女の部屋に招かれた。そのときは「綺麗に片付けられた部屋だ」としか思わなかった。
そうではなかった。
抽斗にも、クローゼットにも、彼女のマイルームに私物と呼べるものおよそ一切は存在しなかったのだ。
────"人らしさを失ったから人でなくなる"。
愁火の言葉が蘇り、力の抜けた手から唯一の痕跡が抜け落ち転がる。
やはり彼はいつでも正鵠を射ている。
アデリーザが送ってきただろう生活はまったく人間味が欠いており、それゆえ、執着せず何をも諦めた彼女は濁す痕もなく飛び去った。
その証左として、彼女を見つけられない少年が真夜中の廊下に一人うずくまっている。
「……少し休憩なさい。酸素が足りない頭でいくら考えてもまとまりませんわよ」
霊体化を解いたプリテンダーはクロロの身体を起こし、壁に寄り掛かるように座らせる。
時刻は午前三時二十六分五十五秒。作戦開始から既に一時間が──作戦時間の三分の二にも及ぶ時間が──経過しようとしていた。
休んでる暇はないのだ。これでも訓練を積んだマスター。身体も頭もまだまだ動かせる。
気持ちだって今も急いている。が、心は鉛のように重たくなり立ち上がろうとしてくれない。
「……。……アデリーザちゃん、本当に帰りたいのかな」
ぽつりと。
弱音だらけの心から雫が漏る。
「シャル様も見たでしょ。アデリーザちゃんの部屋。何もない。空っぽだった」
「ええ。新品みたいだったわね。備品の封も切られていなかった」
「でもアデリーザちゃんはそうじゃない。笑ったり泣いたりするんだ。普通に。僕みたいに」
「………………」
「だったら色んなことが辛かったんじゃないかな。本当は嫌なことがもっといっぱいあったんじゃないかな」
流れ始めればもう抑えは効かなかった。ざわざわとした胸の内がとめどなく溢れていく。
「仙境とかよくわからないけど、修行を積んでも行きたい場所なんでしょ? ならきっと良いところだよ。帰ってこないほうが幸せかもしれない」
「……告白の返事は良かったのかしら」
「それは、……。……マリちゃんと約束したし、しなきゃって思ってるけど。僕、まだ良い返事が思いつかないんだ。────だって」
奥深くから込み上げてくるもの。
ベツレヘムでずっと心のなかに燻っていたもの。
「だって僕には────アデリーザちゃんが僕なんかを好きだと言ってくれた理由がわからないんだよ」
それは、突拍子もない告白への当然の疑問だった。
『あ。そうそう。私クロロくんのこと好きだよ。────ラブの意味で。へへ。なんとなく心変わり?』
彼女がした告白は、好意と心変わり、それ以外の情報を持たなかった。
なぜ彼を好きなのか。なぜ変わったのか。
アデリーザの告白をどう受け止め向き合うべきなのか。
なにを期待していたのか。
クロロにはわからない。知る由もないこと。
自問はクロロの心中でひとときもやまず続けられ、今も答えの置きどころは見えずいる。
ゆえに落着せざるを得ない────期待に応えられなかった自分ではアデリーザの期待に応えられるわけがないと。
「僕はカッコよくないし、無能で、誇れるものも取り柄もない。アデリーザちゃんに渡せるものもない。……言えないよ。そんな僕がアデリーザちゃんに帰ってきてほしいなんて」
プリテンダーは手に提げていた日傘を霊体化させた。
そして両手でスカートの膝裏を折り、クロロの前にしゃがみ込む。
「取り柄がないなんて大袈裟ね。少なくとも一つはあるわ。貴方の目にも見える形で」
プリテンダーはクロロの手を取った。
その甲に刻まれた印を彼女の指が差す。
「貴方は私に認められたマスター。────取り柄ではなくて?」
「それ、は……」
「誇れるものではないと言いたいなら舐められたものね。殺してしまおうかしら」
「…………ごめんなさい」
殺意を込めた脅しを向けられてなおクロロは萎れた顔で肩を落としていた。
腑抜け調子に収まる気配はない。プリテンダーは溜息をひとつ吐いた。
「……ナーサリーから一つ言伝を預かっています。貴方が馬鹿なことを言い出したらって」
ここで済ませてもいいわね?
プリテンダーにクロロは小さく頷き返した。
こほん。プリテンダーが息を整える。
「────『恋が一生続く一点物と思わないことね童貞くん』」
「……伝言を頼んでまで僕を罵倒したいのか??」
「まだ続きがあります────『だから今の恋に精一杯自惚れなさい』」
「……。…………?」
「いいこと。貴方は十五歳。花であればまだ蕾。責任や能力の有無を理由に想いを閉ざす必要ありませんわ」
「────────え?」
「枯れ落ちた木の花が翌年の春また咲き誇るように。一つの恋が実を結ばずとも貴方にまた恋は咲く。失敗してもいい。背負わなくていい。人生は続いていくのですもの」
「そ、そんなのダメだ! 勝手すぎるよ! 僕がよければアデリーザちゃんがどうなったっていいみたいなの嫌だ!」
「独り善がりになれとは言っていません。貴方の選択が未来に起こすあらゆる"変化"。選ぶ前からそれを重荷とすることはないと言ったのですわ」
プリテンダーの声音はいつになく穏やかなものだった。
「自分を卑下しているようですけれど、貴方、同年代の子たちに比べたらずっと賢い子ですわよ? そして重すぎるくらい責任感が強い」
「シャル様……」
「早熟であるべき魔術世界に咲いた貴方は春に生きると嘯きながら心を蓋している。そんな邪魔なもの、開け放っておしまいなさい。────貴方はどうしたいの」
「……僕は、…………」
期待に沿える自信はなかった。まったく。
恋愛事なんて始めてだから告白にどう返せばいいかもさっぱりだった。
でも、そうした細々としたものから大きなものまで、全てを一旦忘れてもいいのなら。
「────いいのかな。僕なんかが迎えに行っても」
「あの子に告白されたんでしょう? もっと自惚れていいんじゃないかしら」
それでいいのなら。
一つ、たった一つだけ。思い出せた心当たりがあった。
「シャル様。アデリーザちゃんがいそうな場所を思い出したんだ。……でも、これ外したらすごく恥ずかしいと思う」
「恥ばかりの人生を送り続けたのに今更気にすること?」
「……それも。そうか」
「────まだ青々しく茂る貴方の春では、失敗も恥も、いずれ花咲く滋養となる。後のことは考えず精一杯自惚れて走ればいいのよ」
プリテンダーは「ああ。でも」と取ってつけたように言い加えた。
「避妊くらいはしなさいな。妊娠までいくと責任逃れ不可能ですわよ」
「ちょっとシャル様ぁ?! 良い話が一瞬で台無しになったけどぉ?!」
おかしそうに、ふふ、と微笑んで。
────そんな言伝だったと私は思いますわ。
他人事のようにプリテンダーはそう締めくくった。
*
走る。走る。走る。
プリテンダーのくれた言葉に背を押され、帆に風を受けたようにクロロは走る。
自惚れているだけかもしれない。一人で舞い上がってるのかもしれない。
それでも、今はそんな自分でありたい。
彼女が彼の何を好きになったかわからなくても、何を期待したかもわからなくても。
彼女にとっても、その出逢いはかけがえのないものだったと信じて走る。
────だって僕は、君が好きになってくれた僕のどこかを誇りたいから! 知りたいから!
走る。走る。────見えてきた。
クロロは廊下脇の内線を取り管制室にコールする。
<はいはーい。こちら中央管制室>
「ダヴィンチちゃん! 明かりは!」
<頼まれた通りこちらで赤外線センサーを切っておいたよ。扉のロックも解除してある。いつでもオッケーさ!>
「ありがとう!」
どうして明かりを点けてはいけないのか。
理由をダヴィンチたちは聞かなかったしクロロ自身よくわかっていない。
ただ、あの日、アデリーザは"暗い部屋"にいたような気がしたのだ。
時刻は午前三時五十分弱。
これが空振りならもう後はない。
それでも他に思いつく場所もないのだ。当たって砕ける他にない。
そして、クロロは──────"ダ・ヴィンチの工房の前"で回路を励起させた。
6
──────そこは箱の中だったのだと思う。
薄暮のなかを私はたゆたう。
なにも見えない。深い霧に包まれているような薄暗いところ。
どうしてこんな場所に来てしまったかも、自分の名前がなんだったかも、私にはわからない。
知っていたような気もするけど、もう、思い出せなくなってしまった。
(────あなたは■■■■■・■■■■■■。カルデアは箱の中のあなたを観測できず召喚したキャスターの縁から逆算して存在証明を行う他なかった。そしてサーヴァントを失い、人理が一度絶えたことで、コフィンの中のあなたを証明するアンカーは消え去った。だからここにいる)
誰かの囁きが聞こえた気がした。
たぶん、それは私に移植された小さな魔術刻印のもの。
頭がぼんやりとして、思考が上手く纏まらない私には、少し複雑すぎて。
疑問に答えてくれたのはありがたいけど、残念ながら内容は殆ど聞き取れなかった。
(────なぜ令呪書を使い切った。説明は受けたはずだ。あれは内外の干渉を拒むあなたに代わり"令呪を緩慢に解きほぐしサーヴァントに魔力供給する"礼装。世界からの観測を失いかねない特異点において縁の存在証明を欠くは悪手のはず。あのような愚策はとるべきでなかった)
相変わらず囁きの内容は難しすぎてよくわからない。
でも、声に含まれた棘から、それが私を糾弾するものであるのはわかった。
令呪書────ああ。きっと軍人のようなサーヴァントたちとの戦闘のことだ。
『もらうよ。全力全開!』
令呪書を壊し、壊れた幻想の起爆をもって加速した一撃。
あの瞬間に出し得た最速最大の攻撃は最上級の神秘たるサーヴァントの身さえ貫いた。
だが────
(────それは、仮にあなたが行動しなくとも得られた勝利だ)
そう。令呪書を失ってまで私が討ち取る必然性はなかった。
あの場には沢山のサーヴァントが味方にいた。
私が動かずとも何の損失もなく勝利できるはずだった。
わかっていた。令呪書を使ってまで打って出る理由はない。
合理的に判断すれば全くの無駄で、ただの浪費。囁きが私を責めるのも当然だ。……でも、
「…………仕方ないじゃん。カッコいいとこ見せたかったんだから」
好きな人がいた。
鉱物科から来た、まだ顔立ちに幼さが残る男の子。
私よりひとつ年下で、私と同じ劣等生で、────それでも明るく笑いかけられる人。
出逢いは確か春の日だった。
ほんの少し手違いで所長代理の部屋に閉じ込められてしまった日。
なぜか扉を開けたのは、所長代理じゃなくて着任したての彼だった。
『そういえば、どうして■■■くんが来てくれたの?』
『初対面でもう名前呼びなの!? す、すごいぞカルデア! ……あの、僕も名前で呼んでいいかな?』
『うん。いいよ。■■■くんなら』
『ぐはっ────お、おお落ち着け僕。破壊力に負けるな。これがカルデアの普通なんだ。まずは質問に正直に答えて好感度を落とさないように────コホン』
スーハースーハーと慌ただしく深呼吸した後、彼は一つ咳払いした。
『実は■・■■■■所長代理に頼まれたんだ。自分の工房で眠ってた女の子が出られなくて困ってるかもしれないから、よければ荷物を置きがてら様子を見てきてくれないかって』
『わー、人使い荒ーい。…………あれ? ────でも■■■くん。荷物持ったままだよね?』
工房──所長代理の部屋は少し奥まった区画に位置していた。
魔術師なら当然の感覚だ。
工房とは研鑽の秘奥を記録し、そうでなくても落ち着いて研究するための場所。
人の出入りが頻繁なところになんて作ってられない。
それゆえにロビーからのアクセスはお世辞にも良好とは言い難いものだった。
向かう場合は職員用マイルームが分布するエリアを通過し、もうしばらく歩くことになる。
にも関わらず。
彼は、大きな旅行鞄を引きずっていたのだ。
『来る途中に置いて来なかったの? 重そう』
『……そうしたいのも山々だったんだけど、居住エリアの入口にくるまで部屋番号を聞き忘れたことを忘れてて』
『引き返して聞いてくればよかったのに。ロビーと居住区画なら近いんだしさ』
私は彼が握っていた来客用パンフレットを借りて、館内地図の上を指でなぞり経路を示す。
居住区画入口から工房への道行きはロビーから居住区画入口までの距離の倍以上ある。
先ず引き返し荷物を置いてくるべきだ。それが合理的な判断というものだろう。
そうした方が明らかに労力は少なく済む。────しかし、
『え、だめだよそんなの。それだと■■■■■ちゃんが困るじゃん』
こともなげに彼はそう言ったのだ。
『閉じ込められてたんでしょ? だったら早く行かなきゃ。……まあ荷物は重いけどさ』
照れもせず、得意にもせず、まるでそれが当たり前であるかのような平静な横顔で。
思いも寄らない答えに戸惑う足は止まり、重い荷物を引きずる彼の背中をただ見つめた。
私は、なにも言えなかった。
発すべき言葉も思いつけないまま、ばくばくと心が脈打って耳の先が熱くなるのを感じていた。
私を助けに来てくれたから、とか、自分を心配してくれた人だから、じゃない。
彼という人は誰にだって隔てなく優しさを向けられるのだろうと、そう理解して、
その有り様が私には、────たまらなくキレイに見えたんだ。
────私は、綺麗なモノじゃない。
記憶が虚ろな今の私は、代わりに普段なら思い出すことのできない記録を参照できた。
例えば、世界を救う決心をしたかつての視点だったり、自分のなかの矛盾の客観視だったり。
今ならわかる。
私という一つの生命は、きっと生存することのみに特化していた。
どれだけ不自然に歪んで外れてしまってもそれが至上命題たる自己存続のためなら是認するエゴイスティックでろくでもない生存機械が私だ。
ああ、なんて利己的なヒトデナシ。だからこそ憧れてしまったのだ。……私とかけ離れたキレイな人に。
『■■■くんはさ。やさしーよね。どうして?』
そんな問いを投げかけたことがある。
業務連絡のため私の部屋へ足を運んだ彼を無理に引き止めて話し込んでいたときのことだ。
あの日の私はまたサーヴァントの召喚に失敗して、少し機嫌がよくなかった。
つっけんどんな調子にビクついた彼の恐る恐るとした息遣いを覚えている。
『どうして……とおっしゃいますと?』
『私がミスったり失敗しても■■■くん助けてくれるよねーって。いつも。────なんで?』
『あのぅ質問を質問で返してすいません■■■■■ちゃん。……僕なにか粗相をしました?』
『なんでって思っただけ。────なんで?』
『今日の■■■■■ちゃん怖くない?! やっぱり怒ってるよね!? 怒らせたの僕だよねごめんなさい!!』
『いいからそういうの。────なんで?』
私の"なんで責め"に彼はすっかり青ざめて萎縮してしまっていた。
かわいい。意地悪すると見せるこんな表情も私は好ましく思っていた。
でもこれは少しやりすぎ。キレイな彼に嫌われたくなくて私はごめんと一声謝る。
『本当に気になっただけなの。私は■■■くんに何か返せてるわけでもないでしょ?』
『……そんなことないよ! 可愛い■■■■■ちゃんと過ごせるだけで僕は幸せさ!』
『へー。可愛くなかったら助けてくれないんだ』
『訂正させてくださぁい!! 助けます!! 女の子なら誰でもハッピーでしたぁ!!』
『ふーん。女の子なら誰でもいいんだね』
『もしもし■■■様ぁ聞いてるぅ?!(小声) 僕さぁ女心の正解わからなくなってきたの助けてぇ!(小声)』
……しまった意地悪がまた出た。と、数秒ぶりの反省。
君が可愛いからいけないんだ、なんて私は言い訳がましい自分を追い出して本題に入った。
『女の子ならって言うけど。でも■■■くん。■■■■さんが困ってても助けるでしょ?』
『えっ■■!? いやだ!! あんな顔も成績も良いエリート助けたくない!! あいつ僕がいてもいなくても自力救済できるじゃん絶対!!』
『……助けたくないってことは、助けはするんだ』
『そりゃ助けるけどさあ!!!!』
肺いっぱいの空気を使ってなんとか汲み上げた心の奥の本音。
言葉としてカタチを為したそれには一種の情けなさすら漂っている。
私は思った。────ああ。やっぱりこの人はキレイだ。と。
『■■■くんのそういうところ。私、好きだよ』
『え? う、うん。ありがとう……』
唐突な好意に麻痺したその顔に、私は、ちらりと、当惑が差しこんでいた気がした。
なぜ、こんな他愛のないことで褒められたんだ。そんな疑問が浮かんでいたように。
『────これはどう解釈すべきだ? ■■か? ■■を助けるから好き? まさかあいつの総取りなのか?! ちくしょうハーレム野郎!!!!』
私が突いた僅かな虚は火口に落ちた雪のように熔け失せて、すぐに見慣れた彼の中に埋もれてしまう。
でも私の瞼の裏側には一瞬見えた彼の心が未だ焼き付いていた。
だからだろうか。……その日。ようやく、ほんとうにようやく。
私はずっと見ないふりをしていた事実に思い至った。
『────────────────ぁ』
彼がキレイな人だからこそ、彼にとって自分は何も特別ではないのだ、と。
『………………ね。■■■くん。明日の午後は予定ある?』
『明日? シミュレーター訓練の後はなにもないよ』
『■■■くんの部屋に遊びに行ってもいい?』
『……へゃ? へやって……部屋? ルーム?』
『うん。その部屋』
同時に、なにか、胸を焦がす不確かなものも私の中に生まれた。
あえて言語化を行うのなら────私は、彼の目を独り占めしたいと願うようになったのだ。
『────え、ええええええっ?! ちょ、ちょっと! ちょっとそれは!! いきなりすぎて心が!! 心とかその他諸々の準備が!! 心臓が保たない!!』
『そっか。じゃあ午後の訓練終わったら食堂でお茶するとか。まだ心臓だめそう?』
『お茶くらいならたぶん……え、待ってそれ。喫茶デートみたいな?! 二人きり?!』
『二人きりがよかった?』
『知ってた!!!! ……■■ちゃんたちにも声掛けておくかぁ』
……あの日はちょっとだけ失敗してしまったわけだけど。
つまり、同じだ。令呪書を使ったのも、同じ理屈。
後先考えずに精一杯やって、失敗しちゃった。
それだけの話。
『勝利! ぶいっ!』
『何もしないまま決着ついた…■■■■■ちゃんすげえ!可愛い上に強いとか最強じゃん!?』
『そうかな? え、えへへ……』
カッコいいところを見せたら、また私を見て目を輝かせてくれるかなって。
そう思ったから、精一杯の全力を出し切った。
ほら。ね? 好きな人の目を引きたいって、なにも特別なことじゃないでしょ?
(────思慕が真実と証明する根拠はない。あなたの肉体は私たち■■■■■■の贖罪を踏みにじり、あなたの情動をトリガーにこの恒久の生存へ至った。感情は脳内物質が生み出す虚構。それが肉体に操作されたものではないと証明するロジックをあなたには構築しえない)
即座に、囁きが私を否定する。
合理は囁きの主張の方に在った。たしかに、客観視すればそう判断するのが正しい。
私の身体は自己の存続にのみ貪欲だ。
どんな失敗も成功も、私の身体が引き起こしたのなら全てが存在を続けるためにある。
仮にその望みの行き着く先がこの不明瞭な場所での漂流だったとしたら。
そう仮定すれば、あの特異点で起きたゆらぎが、告白が、肉体からの衝動に操られていた可能性は否定しきれない。
それなのに。それでも私は、この想いが自分のものだと確信を抱けた。そう信じられた。
(────なぜ?)
明瞭な根拠だとも。
「だってね。────クロロくんがどんな返事をしてくれるか、私、知りたくてたまらないの!」
どのくらいこうして漂っていたかもわからない。
今の自分はまるっきりシャトーにいた頃のように、どこにも行けない暗がりの中、箱が開くのを待っている。
でも私の心は軽やかで、冷たい落胆すら重くはない。
この箱を開けてくれる人がいることを、その人の名前を、もう、私は知っているから。
ほら。きっとすぐに足音が近づいてくる。
ほら、ほら。もうすぐに。
────ガチャリと、存在しないはずの扉が開いた。
霧の海を漂っていたはずの私の身体が勢いよく背後に倒れ、しこたま後頭部を打つ。
「~~~~~~~~~~っ!」
痛くはない。
この声は遠い昔に形どられた反射の残り香でしか無いものだ。
遅れて見下ろす誰かに気づく。頬をつたいそうな大粒の雫を、上着の袖に隠した彼に。
悪戯心が湧いてきて、なんだか意地悪したくなった私は、拗ねたような声を作ってみる。
「もう、遅いよぉ。ずっと待ってたのに」
「……待たせちゃったかな、ごめんね」
「ウソウソ。気にしてないよ、来てくれたんだから。それより、私、返事を聞きたいな?」
「それも、ごめん。頭の中ぐちゃぐちゃで、気が利いたこと何も浮かばなくて、もうちょっとだけ待ってほしいんだ」
「仕方のないやつだね君は」
「でも、もし、会えたら絶対言おうと思ってたことがあって、良いかな。それが代わりでも」
「……聞かせて」
濡れる目元を袖で拭った彼が王子様みたいに膝づいて、みっともなくポロポロと涙をこぼしている私へと、明るい笑顔を懸命に向けた。
「────おかえりなさいアデリーザちゃん。僕を好きになってくれてありがとう」
「────ただいま。クロロくん。開けてくれるって信じてたよ」
エピローグⅡ『箱入り娘と明日の希望』
*あらすじ*
零落作戦の後、アデリーザはローゼンクロイツに半月のカルデア残留を命じられた。
降って湧いた予定白紙化現象で途方にくれるアデリーザはイオ主催の祝勝会に誘われる。
1
アデリーザ・エインオードは神妙な面持ちで指先に摘んだものを凝視している。
眼球運動を止めることたっぷり十秒。ちらりと同席者の様子を伺った。
クロロがハラハラと挙動不審に、イオは心配そうに、そしてルミは爛々と期待に目を輝かせている。
指先の揺るがぬ現実へ視線を戻す。観念し、腹を決め……ぱくり。
「……あっ案外おいし────────」
ぴしり。そんな音が食堂に響いた気がした。
石のように固まったアデリーザの目が遠くなっていく。
そのときルミが席から立ち上がり食卓の上に身を乗り出した。
「────いけるわアデリーザ。サ道の入口はあと少し。峠を越えればむしろ癖になるわ」
「無理だよルミさん。あれギプアップの目だよ。マットはタップしないけどタオル投げてくれないかなって顔なんだよあれは」
「ジュース飲む、アデリィ?」
コクコクと高速で首肯したアデリーザはイオが差し出したアップルジュースを呷る。
喉をくぴくぴ鳴らしてサルミアッキの後味を流すとアデリーザは安堵の溜息をついた。
「──……うん。一年に一回くらいなら食べてもいいかな」
アデリーザの感想まで聞き遂げて満足気に席についたルミは鷹揚に頷く。
「ふふ、罪の味に魅了されたサルミアッキピーポー。また一人増やしてしまったようね……」
「ルミ? 気づいて、遠回しに一生食べなくていいって言ってるわよ」
「……俺は結構いけると思うな、この飴」
「愁火!?」
アデリーザは二杯目のアップルジュースをストローでちびちび飲みながら彼らを見ていた。
ああ。帰ってきたんだなぁ。
掠れた囁きではない、雑多に入り混じる生きた音の耳触りから、今更のような実感が改めて押し寄せてくる。
耳を傾けながら、ぢゅー、と音立てて氷の隙間の甘味を吸っていると、ふと、イオと目があった。
「どしたのイオちゃん?」
「あ、……詳しく聞いてなかったなって。アデリィはこの後どうするの? しばらくカルデアに滞在するんでしょ?」
「うん。それが私にもわからないんだ」
アデリーザのスケジュールは一旦白紙となった。
出来事が出来事なだけにカルデアでの経過観察が続くことが決まったのだ。
本来なら今朝の貨物船で考古学科にとんぼ返りする彼女が未だカルデアに残留しているのもこうした理由でのことだ。
「ローゼンさんは二週間は残れって言うし、そうするつもりだけど、その後はぜんぜん」
「……なら、マスターを続けるのか?」
問いかけた愁火に首を振る。
「"直接見えないのはやっぱり危ない"ってダ・ヴィンチさんが。……だから、やることなくて暇そうなんだ」
途方に暮れてベッドに座っているアデリーザをイオが誘ったのが、イオの主催するこの"祝勝会"である。
もっとも、それは大仰な響きと裏腹に、食堂の一画を借りて飲み物とお菓子を摘むささやかなお茶会だったが。
最初こそ「途中でいなくなった自分が祝勝会なんて」と遠慮したアデリーザだったが来てよかったと今は思う。
こうして話していると抱えていた悩みや不安がほんの少しずつだが薄れていく気がしたのだ。
「────ところで、ご実家から分厚い手紙が届いたそうね」
「ごふっ────?!」
……気がしていたもの、目下悩み中だったものが急速に濃度を取り戻した。
「ル、ルミちゃんがなぜそれを……」
「まあ天才にはお見通しってワケ。────Mrローゼンクロイツがペラペラ話して回っていたわ」
「なにしやがってくれるのローゼンさん!?」
愁火がさっと目を逸らした。身に覚えを感じたようだ。
……どうやらこの"エピソード"はアデリーザの想像をはるか越える規模で流布されたらしい。
実家。つまり、アデリーザが養子になったエインオード家。
アデリーザの体質を解析できなかったダ・ヴィンチは本事件のあらましと一緒に質疑をエインオードに送った。
回答は期待していなかった。ただでも胡散臭い星見台、質問がエインオード家の魔術に関わるものであれば尚更だ。
エインオードの子女を巻き込んだ、という追求を躱すための政治的な布石が本命。そうダ・ヴィンチは言っていた。
ところが、これがある意味で思いも寄らない顛末を迎えた。
養女が現在カルデアに在籍するとは知らなかったエインオード当主から、カルデア宛の抗議文が届いたのである。
「ダ・ヴィンチさんは抗議文って言ったけどぜんぜん違ったよ。九割方私へのお説教だよ。──なのに言い触らしたのあの人!? カルデア中に!?」
「言い触らしたみたいね。カルデア中に」
「────…………ううう、箱があれば入りたい」
アデリーザはヨヨヨとクロロの右腕に縋り付く。
クロロの頬がみるみる真っ赤になっていった。
「ぼ、僕なるよ! アデリーザちゃんの箱になってみせる!」
「なったところでどうするのよ……」
紅潮の熱で脳味噌まで茹だったらしいクロロにイオが呆れ半分ツッコミを入れる。
そうする傍らで、イオは一瞬だけ、からっぽになったアデリーザのグラスを確認し、ほんの少しの安堵を目尻に載せた。
2
『おいイオ。お前も魔術師なら"起源"くらいは知ってるだろ?』
出し抜けに、ローゼンクロイツがそうイオに尋ねた。それが会話の始まりだったはずだ。
"零落作戦"の翌日、メディカルルームで精密検査を受けるアデリーザが心配になってこっそり見舞いに行った昼下がりのことだ。
ガラス窓の向こうのアデリーザは幸せそうに寝入っていて、その寝息と計器類が鳴らす規則正しい電子音の他に室内の音はない。
検査を担当したローゼンクロイツが無言でイオに差し出したマグカップ、そこから無機質な部屋の中へと独特の香気が広がっていた。
味はそれなりだが低温でも香りが立つ極地用コーヒーをイオが一口啜ると、ローゼンクロイツが先程の問いを彼女に投げかけた。
『……少しなら。えーと、魔術世界における起源はすべてのモノにある原初の方向性……でした、よね?』
『では、その原初の方向性とやらは人間にどう作用している?』
『…………。……人格や存在意義の根幹を成す宿命で……魔術属性に影響、する……?』
『間違ってはいないが、そう四角張った言葉で考えなくていい。要はそのモノの構築理念となる"用途"だよ』
『用途……?』
『森羅万象は機能的デザインを必ず宿している。起源の領分もそこだ。どのように世界に干渉するか。その手段を製造段階で設定する役割にある』
板書中の教師のように明後日の方を向いて解説していたローゼンクロイツが突然、きょとん顔のイオを見やる。
『全然宿命っぽくないなって思ってるだろお前』
『えっ……は、はい。思ってました……』
苦手な科目で指名された生徒のように固まるイオ。ローゼンクロイツは芝居がかった様で鼻を鳴らしてみせた。
『いいか。そもそも宿命とは直線的な予定説ではなくイマを膨大に積層した集合物だ。悪因悪果という言葉を聞いたことはあるか?』
『はい。悪いことをすれば、必ず悪い結果や報いが訪れることですよね』
『世界は複雑に入り組んでいる。ゆえに必ずしも悪因に悪果が返るわけではないが、生涯に渡り悪因を入力し続ければ悪果が大半を占めるだろう。起源も同じことだ』
『……つまり。全体像を俯瞰すれば起源は宿命のように働いている、ということですか?』
『なんだ飲み込みが早いな。そういうことだ。その生涯に現れる傾向、いわば"属性"が起源による宿命。あくまで属性で全てじゃない』
ローゼンクロイツは右手に持つティーカップを指先で叩いて見せる。
『こいつは紅茶を飲むために造られ、その用途で最大の効果を発揮するから何をするにもまず紅茶が中心にある。でもこうしてコーヒーを飲んだっていいわけだ』
ただ困ったことにな、ローゼンクロイツがそう言いながらコーヒーを呷る。
彼の目線の先にはスヤスヤと寝息を立てているアデリーザの姿があった。
『起源覚醒者と言うが、何かの拍子にそうした遊びを失って"用途"によってしか世界に干渉できなくなった人間が出てくる』
『……サー・ローゼンクロイツ。それではアデリィも?』
『おそらくな。人の心も社会性も単一の用途に堪える規格じゃない。覚醒すればどこかを故障する。どう壊れたのかは……わかるだろ?』
カルデアに来てからというものアデリーザは断食断水を続けていた。
ともすればカルデアに派遣される以前からその状態だったのかもしれない。
だがアデリーザはイオがいつ食堂に誘っても「もう食べちゃった」と嘘をつき断っていた。
ダ・ヴィンチは、それらが無意識的な記憶の摺り合わせによるのではないかと推測していた。
あの言葉はつまり、壊れた箇所がそこだったということなのだろう。
彼女に与えられた"用途"は断食断水を求めていた。それが人間的に不自然だから矛盾を質すため捏造したのだ。
『……アデリィに、このことは』
『話してないしお前も話すな。起源はパンドラの箱のようなものだ。タブーと知るほど開きやすくなる。無自覚の可能性が残るなら現状維持がベストだな』
『治るんですか?』
『壊れたら終わりってもんでもねえよ。ああした境遇なら生存リソースを抑える形の覚醒はよくある話だ。前例に倣えば毎日飲み食いしてりゃ寛解するさ』
『────境遇?』
『あ? もしかして知らなかったのか? あいつ、生まれは人身取引業者のプランテーションだぞ』
『────────』
『そうした連中でも底の奴らは明日を拝むために何かの"後押し"が必要になる。きっとあいつの場合は起源だった。だから"箱が開いた"んだよ』
『……え……? え? 人身取引って……』
身近な日常の世界からは遠い語句。
ニュースや教科書で耳慣れていたはずのそれを耳にして、イオは驚きに打たれた。
まだまだ世界にありふれている悲劇の一つと知っていたのに────驚いてしまった。
しかしローゼンクロイツは平然とした顔で言い放つ。
『おいおい。そんなに驚くか? 奴隷は"有史以来人類の経済活動の中心にあった商品"だろう?』
────……救済だと? ああ、知っているよ。"この世界にどこまで行っても存在しないもんだ"。
────そんな空想を求めるから……そんなありえないもんに! 縋りつくから!!
────人間はいつまでたっても!! 嘆き悲しんでいるんだろうがァッ!!
ミームの叫びがリフレインする。その嘆きの根幹にあったのは、理性を獲得してなおも獣性に転ぶ理由を求める人類への憐憫だ。
神のせいだから、理解できないから、知らなかったから、そう言って誰かの悲劇をないものとする。
イオの遠い先祖たちが奪われ傷つけられる痛みを知りながらカナン人たちの痛みを見出さなかったように。
あるいは友人の異常に気付けなかったイオのように、見えていないものに蓋をして、小さな世界を回していく。
歴史とは、人類の歩みとは、醜い獣性を死角に押し込め忘れ去ることで成り立っている。
それだからミームが泣き叫んだように、悲劇に救済が訪れてはくれないのだ。
『……そう気に病むなよ』
テーブルの下でぎゅっと拳を握って押し黙るイオに向け、ローゼンクロイツが慰めるように言った。
『突き放す言い方をして悪かった。俺の生前からすれば現代の諸々はマシに見えちまうんだ』
イオは小さく首を振る。
『…………サー。違うんです。少し悔やんでるだけなんです。私が見ないふりをしていなければって』
アデリーザが嘘をついていることをイオは察していた。
食堂に一番乗りしたときがあった。室内にアデリーザの姿はなく食堂を出るまでそれは同じだった。
そして帰りがけにアデリーザとすれ違って、イオは降って湧いた衝動にかられ、彼女を朝食に誘ってみた。
するとアデリーザはお決まりのように言った。ごめん、もう食べちゃったんだ。────と。
食堂でなくとも食事は取れる。もしくは遅い夜食でも食べたのかもしれない。だからそれ以上は踏み入らなかった。
友人に避けられているとは思いたくなくて、目を逸らした。彼女の身に起こっていた異常を見逃した。
『目を背けず向き合っていればアデリィはあんな危険な目に合わなかったかもと、そう、考えてしまって』
イオが見過ごしたからアデリーザの異変が露見しなかったように、小さな死角が救済を阻んだ悲劇もこの世にはある。
ミームの嘆きの奥底にはそうした悲劇も数多く含まれていたのではないだろうか。そう思うと。思えば、思うほど。
『そんな自分を情けなく思ってしまうんです』
ローゼンクロイツは黙り込んでいた。
二人きりのメディカルルームを静寂が覆う。
静けさに耐えかねたイオがマグカップを手に取ろうとした、そのとき。
『……人間は不都合を死角に押し込める生き物だ。でもな。見えたものを忘れないよう刻むこともできるんだ。お前の魔術だってその一つかもしれないぞ』
ローゼンクロイツが急にイオの魔術へと水を向ける。
咄嗟のことで反応できず、イオはカップを取り落としそうになりながら、一拍遅れでローゼンクロイツに尋ね返す。
『……。……えっと、サー・ローゼンクロイツ。仰る意味が……』
『まあ俺の勝手な考えだ。本当はどうかわからねえが──いいか? "炎の蛇"というのは"イスラエルの民の咎に対して"差し向けられた受難だ』
奴隷として酷使された民たちとそれを先導する預言者が安住の地を求め荒野へ旅立つ冒険譚。
新約以前に綴られた古き契約の物語────旧約聖書。
イオの魔術の原型である"炎の蛇"は、旧約聖書の冒険者たちが道中に遭遇した受難と奇跡、その無数のうちの一つだ。
カデシュの荒野からカナンを目指す一行はエドムの王に領地の通行を拒まれ国境沿いの迂回を余儀なくされる。
モーセと民らは険しいホル山を越えて紅海に抜けようとするが、その最中、モーセの兄アロンが命を落としてしまう。
アロンを亡くした嘆き。まともな食料も水もない葦の海の悪路。身と心を耐え難く苛む苦難の連続。
そんな旅行きに襲いかかったのが、噛み傷から燃えるような痛みを与える毒蛇。"炎の蛇"だ。
受難に苦しむ民たちは神に祈った。そして。神は応えた。
────貴方は燃える蛇を作り、それを旗さおの上につけよ。すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる。
預言者は言われたように一つの青銅の蛇を作り旗ざおの上につけた。以後は、蛇に噛まれた者も青銅の蛇を仰ぎみると生き長らえた。
このありがたい青銅の蛇は後の世でも信仰され、ヒゼキヤ王による偶像崇拝の払拭が起こるまで続いたそうだ。
でもこの話にはちょっとした酷いオチがある。元はと言えば"炎の蛇"は神が送り込んだものだった。
紅海の道からエドムを迂回しろと神様が言ったのに民が不平不満を漏らすから毒蛇を送って罰したのだ。
昔、日曜礼拝でこのエピソードを聞かされて、神様はなんて理不尽で横暴なんだ、と誰かが小さく零したのをイオは覚えている。
『"炎の蛇"の逸話はいずれもコミュニティ内にのみ向いている。よって因果応報が精算された以上、"炎の蛇"を特別視する理由はない』
『どうしてですか?』
『人間社会において罪は定量の概念だからだ。ゆえに贖いや赦しと秤にかけて相殺できる。そして相殺したなら"消えてなくなる"、忘れていいんだ』
『いいえ、サー。それはおかしいです。告解で赦しを得たとしても罪を犯した事実までなくなるわけではないはずです』
イオが反論する。するとローゼンクロイツは「そう。お前の言う通りだ」とあっさり頷いた。
『人間は定量である罪を定性的な概念として"刻みたがる"。きっとお前の先祖も同じだ。それで消えてなくなると思いたくなかったんだよ』
獣性に溺れるために信仰を弄する生物と人を定義するなら"蛇の鎖"には矛盾がある。"遺す意味がない"のだ。
もし神に寄りかかっているのなら贖罪で雪がれた罪に拘泥する必要はない。それは神の赦しと共に消えさったものだ。
贖ってなお、間違え、許された自分をなかったことにして明日を生きたくないから、"炎の蛇"を信仰し、刻んだのではないだろうか。
それがローゼンクロイツの展開した美しい"憶測"だった。
イオにはすぐわかった。捻くれ者の彼は自分から語っておいて美しいだけのガラスの憶測を信じさせたいとは思えないのだ。
青銅の蛇への信仰は"旧約よりも古い契約"、すなわちユダヤ民族の原初信仰に根ざしていたとも考えられる。
そうでなくとも毒蛇という普遍的な災厄を跳ね除ける偶像は民間信仰を受けるにふさわしい媒体だ。
だからこそヒゼキヤ王は、カナンのアシェラも、青銅の蛇も、区別なく砕いた。シナイ山から戻ったモーセが金の牛を砕いたように。
ローゼンクロイツはそれを知るから、青銅の蛇には触れもせず、この話が穴だらけの綺麗事だと伝えるために彼女の魔術を例にした。
そう。これは綺麗事だ。青銅の蛇信仰と同じくローゼンクロイツが言及しなかった事柄がある。
たとえ罪や悔いを託すのが人間の性質だとしても、託された相手が受け継いだものを死角に隠さぬとは限らないのだ。
百人が裡に刻んだ教訓のうち次代に継承されるものはいくつあるだろう。孫世代までいくつ取りこぼされるのだろう。
そんなどうしようもない生き物が人間であるからこそ、ミームはベツレヘムに慟哭したのだ。
でも。
『サーの仰るとおりでしたら私のご先祖様って傍迷惑な人ですね。自分の悔いを子孫代々伝えようだなんて』
この世界のどこまで行っても救済は存在しないのだとしても、それでも、イオは思う。
遠い先祖がどんな想いを込めて"炎の蛇"を自分に刻んだかは今を生きるイオに見えぬ死角の中にある。
だったら様々な解釈が混在してもいいはずで、それは先人たちの足取りの中にも言えることだ。
例えばベツレヘムでイオたちが戦った反英霊ナチス。彼らは総体としては吐き気のする悪徳を体現した存在であった。
だがそんなナチスたちの中にも、自我を保っていた二人のように本来は個があり立場があり、それぞれの考えがあったはずだ。
イオたちの前に現れた姿は悪因の他の選択肢を奪われた姿であり、友人の"食事を済ませた"という嘘と同じで本意ではなかったのかもしれない。
ならば彼らの宿命のどこかにローゼンクロイツが語る砂糖菓子のような綺麗事も確かにあったと、そう考えることは許されるのではないだろうか。
神の名のもとに虐殺を繰り返した者が、死角に隠した獣性に転ぶ人類が、密かに刻んだ物の先に善き救済があって欲しいと願うことは許されるのでないだろうか。
それは、もしかすれば安楽椅子から世界を見ている視野狭窄の絵空事かもしれない。
それでも今ここにいるイオは信じてみたい。
ベツレヘムからの二千余年に醜い"変化"が待つとしてもその中にある"愛"を信じると、凛としてイオたちに告げた、あのマリアのように。
『……。ま、先祖を恨んでやるなよ。忘れっぽい人間が"たった数千年"で前に進めたのは、お前の先祖みたいに傍迷惑なやつが無数にいたからだ』
ローゼンクロイツは僅かに押し黙り、それから軽口を叩くような調子で返した。
短い沈黙はイオが彼の本意を理解したうえで肯定したことを読み取ったからかもしれない。
『イオ。お前に死角があっても負い目にするな。悔いが残れば刻めばいい。そうして刻んだものは誰かを明日へ押す希望に変わる。たぶんな』
一方的に長広舌を締めると、イオの返事を待たずローゼンクロイツは席を立つ。
慌ててイオは立ち上がり、アデリーザの一件で揉んでいた気を晴らしてくれた彼に頭を下げる。
『お心遣いありがとうございます、サー・ローゼンクロイツ。少し楽になりました』
『やめろ。暇潰しの雑談で礼を言われる筋合いはない。……鍵は奥の机の上にある。戸締まりを忘れるな。俺が様子を見に行ってやると思うなよ』
そうして。心底、嫌そうな顔をしてローゼンクロイツは去っていった。
*
この"祝勝会"をイオが催したのは、そんな一幕があったから、……かもしれない。
断食断水。何も食べず、何も飲まない異常。
友人に"祝勝会"への参加を遠慮されて、実はイオは、その異常が蘇ったのではないかと内心で不安を抱いていた。
だが、イオの目の前では、水滴のついたペットボトルにアデリーザが手を伸ばしグラスへと中身を注いでいる。
テーブルに用意した飲み物に一通り手をつけた彼女だから、一段とお気にめしたのが"それ"だったらしい。
「アデリィ、またアップルジュースなの?」
「ん? うん。私これ"好き"かも」
「……。……そっか」
────なら。きっと大丈夫だ。
好き。人間味といっしょにイオの友人が忘れかけていた言葉。
その言葉を聞いたから、ようやくイオは、本当に、本当に、安心できたのだ。
「でもアデリィ。一人で飲みすぎよ? 私も飲みたかったのに」
「ご、ごめんイオちゃん。……飲む?」
「ううん。飲んじゃっていいわ。まだ在庫が残ってたから、それ取ってくる」
冷蔵庫にはまだ一本ストックがあった。調理場へ向かおうと、イオは席を立つ。
そのとき、視界の隅、食堂の入口に誰かの白い髪色が見えた気がした。
入口に視線を向ける。もうその姿は見えない。
白昼夢のように急ぎ消えていった後ろ姿の向こうに、イオはあの日の会話の続きを思い出した。
『一つだけ、最後によろしいでしょうか』
『あ?』
『どうして私に、話をしてくれたんですか?』
『……あー……それはな。…………あくまで一般論だが、ただの"可能性"だとしてもだ』
友達に嘘をつかれていたかもしれない。そう思い続けるのは気分悪いだろう?
歯切れも悪く言った、そんなローゼンクロイツを思い出した。
────あの方、やっぱりツンデレじゃないかしら。
きっと嫌がるんだろうなと思いながらも、足早に去った優しい誰かの背に向けて、イオはぺこりと首を垂れた。
3
祝勝会は十五時で閉会。愁火はイオからそう聞いていた。
時刻は十四時三十二分十八秒。
現状報告やベツレヘムでの思い出話にも一段落つき、ルミの淹れた紅茶で各々ゆったりと渇いた喉を潤している。
和やかな空気に浸っていた愁火は、ふと、聞きそびれがあったのを思い出した。
「……それにしても、聞き覚えのある名前とは思ったが、本当にあのエインオードだったのか」
「知ってるの愁火?」
「……」
「何だよその間! 僕をなんだと思ってるの!? 鉱石科選りすぐりの劣等生だぞ!? 知るわけないだろ!!」
「ああ、いや。悪い。誤解させた。……知ってるかと訊かれると、俺も多くは知らないと思ってな」
「愁火に知らないことがある……??」
「……お前こそ俺をなんだと思ってるんだ? エインオードというのはな、クロロ。伝承科の貴族なんだ」
伝承科。それは時計塔においての異物。設立時から最も在籍する生徒が少ないとされるこの学部は酷く閉鎖的である。
時計塔を覆う"政治"の色すら、かの学部は欠くようだった。よって外から知れることは多くなく、干渉の機会も少ない。
愁火に言えるのは、そこが西暦以前の魔術師らの根城で、カルデアという場に似つかわしくないことだ。
ゆえ、今となるまで、愁火の中でアデリーザとエインオードが合致しないでいたのだ。
「確かにお養父さんはカルデア嫌いかも。ろくでもない組織だーって手紙に何度も書いてた」
「…………なるほど。そんな組織に刻印を継いだ娘が所属していれば抗議文を送って当然か」
「え?」
「……ん?」
アデリーザと愁火が顔を見合わせる。
「私、刻印は継いでないよ……?」
「……んん?」
愁火の記憶ではアデリーザは右腕を覆う巨大な魔術刻印を宿していたはずだ。
アデリーザとの齟齬の正体を掴めず愁火は目をぱちくりとする。
「あ」
アデリーザがなにかを思い出して顔を上げた。
申し訳無さそうにきゅっと目をつぶったアデリーザは顔の前で手を合わせ愁火に頭を下げる。
「ごめんウレイビさん! うちの刻印が特殊なの忘れてた。エインオードの魔術刻印は"複写"出来るんだ」
「……可能なのか、そんなことが」
「みたい。私が持ってるのは一代限りのコピーの一部。当主が受け継ぐのは全身を覆う大きさの原盤の方だよ」
「エインオードの魔術特性に由来するもの、なのか?」
「わからない。刻印を写せるのは"原罪は定量ではなく利子のように膨れあがるものだから"ってお義姉ちゃんは言ってたけど────」
「────お姉ちゃん!?」
ガタッ。大きな物音がして、話に聞き入っていた愁火の視界を遮るものがあった。
正体は床を蹴るように勢いよく椅子から立ち上がったクロロだった。
「アデリーザちゃんお姉さんいるの? アデリーザちゃんに似てる? どんな人? 美人? 彼氏とか────あいだだだだだだ!!!!」
クロロが悲鳴をあげ、その身体が浮き上がる。
にっこり笑ったアデリーザがクロロの両耳をギリギリと捻りあげていた。
「ん~~~~~~~? 浮気かな~~? 浮気したのは右と左どっちの耳かな~~?」
「ごめんなさい! 冗談だから! ほんとうに冗談のつもりだったから! 嘘じゃないって!!」
「面白い冗談だね~?」
ふふふふふ。表情だけで笑っているアデリーザの目に感情はなく、聞き入る様子もない。
説得に応じる気配がないと察するやクロロは蒼白になった。
挙動不審に揺れる目が愁火の姿を捉え、パクパクと口を開いて救助を要請する。
しかし愁火はすげなく首を横に振った。
────今のはお前が悪い。
「イオさんルミさぁん助けてぇ!! ヤバいって!! もげる!!!! 耳もげちゃう!!!!」
*
ルミは優雅な所作でソーサーからティーカップを取り上げた。また一口、傾ける。
食堂の戸棚に眠っていたラベルのない茶葉は初めて味わうようでどこか慣れ親しんだ不思議なフレーバーだ。
その香りに誘われたのか、遠い昔に忘れていた、幼いルミが祖母に教わった知識の一つが温かに蘇りゆく。
「耳といえば知ってるかしらイオ? 日本ではホワイトブレッドのクラストをパンの耳と呼ぶらしいの」
「ふぅん……ホワイトブレッドだけなの? 不思議な感じね」
「いま必要な情報かなぁ!? その豆知識って僕の耳より優先されるべきことかなぁ!?」
*
結局、愁火のとりなしによってクロロの両耳は解放された。
顔面蒼白のクロロは若干鬱血した耳の感触を探るように、しきりに手で擦り、未だに存在を確かめている。
愁火はチラと壁時計に視線をやる。現時刻は十四時五十分ちょうど。そろそろ会はお開きとなる。
"原罪は定量ではない"というエインオード家の理論は興味深く続きを求めたかったが、その時間もなさそうだった。
よって彼は、耳をもがれかける前から落ち着きを失っていたクロロ──時計塔で血統主義に悩まされた彼に水を向けてやることにした。
「取り込み中悪いが、クロロ。アデリーザに訊きたいことがあるんじゃないか?」
ビクッとクロロの背筋が跳ねた。
「あれえ? そうだったのクロロくん?」
アデリーザがこてりと首をかしげる横でクロロが勢いよく顔を上げアワアワと愁火を見る。
「な、なんで愁火が知って……」
「貴族と聞いた途端に挙動不審になり話に割って入ってでも家族に話題を変えようとする。……俺でもわかる」
アデリーザが椅子ごとクロロに身体を寄せ、ぐぐっと顔を近づける。
「訊いてくれればよかったのに。……それとも二人きりじゃないと言えないこと?」
「違っ、違う! そうじゃなくて、あの……貴族ってことはもしかしてアデリーザちゃん、血統バリバリのお嬢様だったり?」
「ううん。血統ナシナシの養子ー。お嬢様は……持ってるのはビルばっかりだなあ。お屋敷がないからお嬢様でもなさそう」
「よ、よかった。血統主義でロミジュリったらどうしようって僕……」
「お養父さんが何か言ってきても駆け落ち上等だもん。クロロくんと一緒ならどこへだって行っちゃうよ」
「アデリーザちゃん……!」
感涙込み上がる情けない顔をしていたクロロはそのとき、会話の違和感に気づいてピタリと動きを止めた。
「────────ちょっと待った。ビルばっか?」
急に表情を固くし怪訝な目を向ける彼をアデリーザは不思議そうに見つめる。
「?? 毎年貰うよね、ビル? クリスマスとかに」
「個人所有!? しかも毎年!? 僕の彼女が箱入りお嬢様すぎる!!!!」
アデリーザの眉は下がっていよいよ困惑を深めていく。
「え? えええ……? でも私が住んでるの普通のアパートだよ?」
「住んでる家の問題じゃないのよアデリィ……」
目を覆いながらイオが漏らした。その隣のルリすら唖然としている。
一方で愁火は、あまりの価値観の相違に頬を引き攣らせる自分を感じながら唐突に思う。
アデリーザとの共通項は脱俗辟穀だけではなかった。
実在する人物として伝承された陽勝仙人。おそらくは彼も────"素封家"なのだ。
陽勝仙人は俗姓を紀氏とする。
紀氏。真っ先に浮かぶのは武内宿禰にルーツを持ち八色の姓では朝臣の姓を賜った古代豪族。
陽勝がその"紀氏"かはしれない。
それでも、はるばる能登から齢十一の息子を天台の最高学府延暦寺に登らせた家だ。
家格は定かでなくとも、紀氏の経済状況が豊かだったことは容易に推測できる。
また、陽勝は"裸なる人を見ては衣を脱て与へ"る人物とされている。
継続的に新しい衣を用立てられる資力を備えていたのである。裸なる人がいる衣服が貴重な時代にだ。
そう、つまり、陽勝もアデリーザも、脱俗をする以前から"地に足がついていない"存在だった。
道理で決して馬鹿ではないアデリーザがベツレヘムで「話がわからない」と言い放つわけだ。
人々や大地がどう動こうと浮足立った彼女には無関係な事情、実感を伴わない話なのだから。
「見損なったわ、Mrクロロ。財産が目的だったのね」
「違うよぉ?! 僕も初めて知ったよぉ?!」
「財産が目的じゃない……はっ。────目的は身体」
「ルミさん僕で遊んでるね????」
思考の海に沈み込んでいた愁火が我に返った。
まだ引き攣っている顔筋を強引に動かし、ごほんと咳払いをする。
「……アデリーザ。君の価値観は変、とまでは言わないが、危うい」
「ウレイビさんまでぇ……?」
「流石にな……。しばらく暇なんだろう? その間に摺合せてみるのはどうだ。こうして、魔術や才能ではなく日常のことを誰かと話しながら」
そして、地に足がついた価値観の意外なまでの"豊かさ"を知るといい。密かに、愁火は願う。
なぜならその"豊かさ"の下地とは、ベツレヘムから二千年以上、明日を信じて醜くも愚直に邁進した人類の"轍"。
ゴドフロアが、マルクスが、レイチェルが、アルリムが、ニーチェが、────人の心と歩んだミームが。
何に苦悩し、迷い、愛憎しながら向き合っていたか、それを知るのが先人たちに払える敬意だと思うから。
「そういうわけだ────責任重大だな、クロロ」
「……え? 僕が全責任を負う感じなの?!」
「付き合ってるんでしょ?」
「軌道修正頑張りなさいMr逆玉」
「私、引っ越したほうがいいのかな……?」
宴も酣な閉会予定時刻五分前。収拾をつけようもない喧騒の連鎖。
恍け、叫び、笑い、呆れ、そこには一歩たりとも欠けがない。
だから、次の歩みへ進む前に、愁火は僅かに頬を緩めることにした。
────ああ。"いつもの調子"だ。
矛盾継承換点ベツレヘム-エピローグ・アデリーザ『箱の中の希望』/『箱入り娘と明日の希望』 了
あとがき(2025/10/28)
2025/01/18・26開催のセッション『矛盾継承換点ベツレヘム』で勝手に書いたSS群の再編集版。
元は時系列的なつながりの薄い四編ほどのSSで、加筆修正が面倒くさくて放置していたがようやく改稿終了。
直後のバレンタインが昇天しそうな仏を堕落させる話で死ぬほどビビった思い出。先に書き終わって良かった。
追記(2025/12/17)
誤字&時系列ミスの修正ついでに書き下ろしを追加→SS『ベターエンドであるように』?
ついでにどうでもいいことをメモっておくと、エピローグのタイトルには寓意があったはずだ。
「箱/の中/の希望」「箱/入り娘と明日/の希望」という対応があって、蓋を開いて中身が現れたことを表現したかった……ような気がする。
どうでもいいな。