SS『銀狼森の家と助けた理由と』

Last-modified: 2025-06-24 (火) 22:47:14

虚構最高法院サンヘドリン‐エピローグ・ザイシャ『銀狼森の家と助ける理由と』 PL名:クン

あらすじ

 その森には銀の毛並みをもつ狼がいた────。
 サンヘドリンの一つの終焉に立ち会ったザイシャが回想する過去話。師、サレナとの馴れ初め。
 不可解な死を迎え戦う手段と魔力回路の安定を失ったザイシャは森に潜み暮らす呪師サレナに出会う。
 サレナに弟子入りしたザイシャは死霊魔術を修めながら死と回路不順の謎を追い始める。

目次

 第1章 死なぬ少女と濁った瞳と
 第2章 白き茨と横たわる囮と
 第3章 先祖返りと月なき夜天と
 第4章 銀狼森の家と助ける理由と

本編

第1章 死なぬ少女と濁った瞳と

 造られたのは遥か北方の国の寂しい荒野を根城とする魔術結社。
 生まれつき物心つけられた少女は創、造主である頭目の後継者の座を与えられ、生まれたその日から父とも呼べる彼の魔術の秘奥を与えられた。
 そして、与えられた名はザイシャ。ザイシャ・アンディライリー。────今となっては、彼女が失くしてしまった名前だ。

 漂う饐えた臭いに顔を顰めながらザイシャは目を覚ました。
 毛羽立った毛布がずり落ち、肌理(きめ)細かな真っ白い素肌が露わになる。
 弱い視力で緩慢に辺りを見渡す。暗くて仔細はわからないが室内にいるようだった。僅かに見える内装にも、空気に混じる悪臭にも、寝ていたベッドにも心当たりはない。知らない部屋だ。
「…………あれ? 私、はだか?」
 毛布を捲る。ザイシャの身体は下着一枚着けていなかった。周囲に服らしきものも見当たらない。
 寝ぼけて散漫になっている頭のつむじ辺りをくしくしと手で掻く。
 靄のかかった記憶を再生する。昨夜は確か森の中で野宿をしていたはずだが────
「起きたようじゃな」
 闇の奥から嗄れた声がした。老いた女の声だ。
 腐りかけているのか、床板が等間隔に軋みを立てていた。ぎぃ、ぎぃ、と。少しずつ音が近づいて饐えた臭いがむっと強くなる。
 闇から現れたのはやはり、老婆だった。盲かけているのかその両目の大部分は白濁している。顔全体に疥癬のような凹凸した腫れがあり、曲がった鷲鼻の鼻筋の上には大きな疣が出来ていた。御伽噺の魔女のようだと、ザイシャは思った。
 曇ったガラス玉のような目がじろじろとザイシャを眺めている。居心地悪そうに縮まるザイシャに老婆が言った。
「どうした。お主、喋れぬのか」
 老婆に促され、恐る恐るという顔でザイシャが口を開く。
「……い、いえ喋れます。あの……ここは?」
「見ての通りじゃ。世を捨てたババアの見窄らしい庵じゃよ。それよりも。ほれ、こいつをやろう」
 毛布の上にバサリと一式の衣服が落ちる。古い物のようで虫食いと毛羽だらけだ。
「着がえておけ。同性じゃとて、裸でうろつかれては目のやり場に困るからのう」
「ありがとうございます……。…………私の服と荷物は?」
「お主の服ゥ? 知らん。儂が拾ったときにはもう素寒貧じゃった」
「…………。拾った?」
「おう。触媒を集めに行った帰り道にのう。転がっておったぞ、全裸で」
 老い枯れた外見に反し老婆は壮健かつ多弁なようだった。情報が増えるたびに困惑を深めるザイシャを他所に赤黒い舌を機敏に回してまくし立てる。
「にしてもお主、不用心にも程があるじゃろ。知らぬかもしれぬが、この森、狼の大一団の巣があるぞ。あんなところで寝ておったら餌にされても恨み言は言えん」
「はあ……」
「生返事じゃのう……まあ、良い。三日三晩寝込んでおったんじゃ。腹が空いて頭も回らんじゃろう。少し待っとれ、飯を持ってきてやる」
 老婆が踵を返す。ぎぃ、ぎぃ、と音が遠ざかって聞こえなくなった。
 ザイシャは老婆に渡された服に袖を通しながら混乱する頭で情報を整理する。
 森に入った覚えもなければ、無論、裸になった覚えもない。そもそも生まれてこの方眠りについた覚えすらない。
 ザイシャは被造物である。創造主である魔術師は人間的な無駄を彼女に組み込まなかった。睡眠による頭脳のデフラグと肉体の休養は魔術式によって代替されており不要である。ましてや全裸で眠りこけるなどありえなかった。
 長回しのフィルムのように地続きの記憶の最後の方では確か、平原を歩いていた。その直後に暗転が入り、フィルムの切断面に貼り付けられた次のカットが先程の目覚めだった。
 暗転のときに何かが起こり、自分は眠りに……裸で眠りについた。そこまではわかったが、何が起きたかまでは見当をつけられない。判断材料がない。
 それにしても痛手なのは持ち歩いていた礼装の類を失ったことだ。出奔の際に持ち出した創造主手製の礼装の数々は肉体的に貧弱なザイシャの心強い味方であった。なんとしても暗転の原因を究明し、一つでも多くの礼装を回収すべきだろう。
 ────だって、あの中には。
 ザイシャは顔を上げた。思案を止める。胸が悪くなるような腐臭が鼻を刺していた。
 ぎぃ、ぎぃ、と。軋む音が近づいてくる。そのたびに臭気も強く濃くなっていく。
「────はてさて」
 闇の奥から、嗄れた声がした。
「最初は死徒かと思うたが復元呪詛にしては再生の指向が散漫じゃ。では修復機能付きのホムンクルスやゴーレムの類か、それも違う。狼どもが食い残した指先一つから自然再生してみせる芸当、神造級の造物でもなくば有り得ぬ。では神代の産物か。これも否。いくらなんでも魂が若すぎる。何度もバラしにバラして丸三日(・・・・・・・・・・・・・・)考察を重ねてはみたが、儂もまだまだ未熟ということじゃろうのう。とんと見当つかぬわ。わかった事は二つきり。お主が魔力を食って動くこと、そして儂の理外の不死を宿すこと。────のう、小娘。教えてくれぬか。お主の不死の正体を」
 底が見えない深い闇の中から口の端を三日月に釣り上げた老婆が現れる。
 その手に持った皿の上に乗せられていたのは、腐敗臭を撒き散らしながらも、まだ生きているかのように脈動する心臓だった。
「名乗り遅れたな。儂はサレナ。────死霊魔術を修めた呪師じゃ」

 ────死霊魔術(ネクロマンシー)
 魔術協会でいうところの降霊と呪詛の両系統に属した魔術。主に死体を利用・加工する術式全般を指し、この魔術の使い手は魂なき肉体を用いて礼装や使い魔を構築する。
 探求の上で否応なく大量の死体を求められる彼らは古来から常に戦場で危険と共に在り、ゆえに、矢雨を跳ね除け襲いかかる乱戦を相手取る術にも通じている。
 老婆──サレナから漂う饐えた臭いもおそらく多種多様の死体を扱ううちに身体に染み付くという特有の死臭だったのだ。彼らは上にも下にも死体を選り好みしない。無辜なる人も、魔獣も────魔術師も。死せば均しく糧とする。
 サレナが皿に持つ心臓には、臓器それ自体から濃い魔力を感じた。おそらく魔術師の心臓。一流の死霊魔術師の手にかかれば未加工ですら強力な戦闘用礼装一個に匹敵する危険物!
 ザイシャは瞬時に魔術回路を励起させる。────だが。
「ッ! 魔力が……」
「やめておけ。お主の魔力とっくに枯渇しておるわ。このしばらくは常に再生させておったようなもんじゃしのう。魔力を糧に動くその身体じゃ。生命維持に使う魔力まで使い切れば死ぬぞ」
 ザイシャは活路を探そうとするが部屋の隅に寄り添うように置かれたベッドには一方向しか逃げ場がない。当然無防備な背中を晒すのは論外だ。だがこの通り魔力は枯渇し戦う手段は一つもない。
 がくりとザイシャの膝が落ちる。無理に魔術回路を励起させた反動か神経が痺れ上手く立ち上がれない。鋭利なプレッシャーを放つサレナが接近しているにも関わらず────。
 ベッドから動けないザイシャにサレナはゆっくりと近づき、そして────ベッド脇のテーブルに皿を置いた。
「ほぅれ。お主の朝食じゃ」
「…………え?」
「飯を持ってきてやると言ったじゃろうが。儂が使わせた魔力の倍くらいは補給できるはずじゃ。殺したことはそれで許せ」
 理解が追いついていなかった。ぱちくりとザイシャは瞬きする。
 そんなザイシャを見て老婆は「ああ」と合点がいったように声をあげた。
「今のはお主を量った(・・・)んじゃよ。安心せい。もう不死の正体を聞き出す気はない。儂が死霊魔術の使い手を名乗った瞬間、お主の目は儂ではなく心臓を警戒した。つまり死霊魔術が何であるかを知っておった。魔術回路の励起も迅速じゃったな。ということはお主は十分な教育を受け、魔術戦の薫陶まで受けた生粋の魔術師じゃ。ならばその不死、秘奥秘儀の類と見る。────真っ当な魔術師であれば死んでも正体明かさんじゃろ?」
 サレナが語った理屈は魔術師の常識に則ったものであり、そして、いたく合理的なものだった。
 ロジックの穴を探して言葉を反芻するうちに少しずつ、ザイシャの身体から緊張が解けていく。
「不死の絡繰りは聞かんが呼び名くらいは教えてくれぬか? さっきも名乗ったが儂はサレナじゃ」
「ザイシャ────いえ。……ザイシャ。ただのザイシャです」
「家名を名乗れん一人旅者か。訳アリっぽいのう」
 そう言いながらサレナはベッドの端に腰掛け、骨に皮を貼り付けたような腕で頬杖をついた。
「荷を落としたと言っておったな。この一帯には儂が人避けの結界を張っておるから野盗の線はない。大方、身体ごと狼の巣にでも引きずられて行ったんじゃろうな」
「……………………」
「おぅ。露骨に後ろ髪を引かれとる顔じゃな? が、行くのは勧めんぞ。あの狼どもの群長、どうも先祖返りのようでな。そやつの仔らはそこそこ程度の魔術師はお茶の子さいさいに噛み殺す。儂も手を焼かされておるよ」
「そんな……」
 ザイシャの目に落胆の色が差す。そのような狼がうろついているなら迂闊に出歩くことすらできない。
 彼女が創造主から学んだ魔術は概ね作ることに特化している。一部、戦闘に転用できる魔術もありはするが、創造主が手ずから製造した礼装に比べれば蟻と人ほどの出力の差がある。少なくとも先祖返りの狼に勝てる自信はなかった。かといって自分で礼装を作ろうにも込める魔術式は幾らもあれど路銀も材料の調達の宛はない。
 まさに八方塞がりであった。
 頭を抱えるザイシャにサレナは告げた。
「路銀もない魔力もないでは旅は続けられんじゃろ。お主しばらくここにおって良いぞ。その不死の性質は興味深い。昼は儂を手伝い、七晩に一度、殺させよ。もちろん消耗した分の魔力は支給してやるしそれと別に駄賃も渡す。……どうじゃ?」
 白濁した両眼に見つめられながら、ザイシャは逡巡し始める。
 ある一点以外は願ってもない条件ではあった。──不死の秘密を明かすことに繋がりかねないこと。それ以外は。
 家を出奔したとしても彼女は魔術師だ。神秘を晒すこと、理解されることの危険性は骨の髄まで叩き込まれている。手の内を知られることへの嫌厭はもはや本能的恐怖と言ってもいい衝動として根付いていた。
 だが、これは単なる事実として、今の彼女の力で拓ける困難は一つもない。サレナの力を借りなければ生き長らえられるかもわからない。
 長い黙考。
 その末にザイシャはサレナに頷きを返した。
 仮に、ザイシャが死んだとして。サレナは死体を保存し研究資料として心ゆくまで調べ上げるだろう。……そして"サレナはザイシャを殺すこともできる"のだ。ならばリスクを秤に乗せるだけで得られる援助を断る理由はなかった。
「聡い子だの。契約成立じゃ。……それはそうと早く飯を食わんか。死んでは契約も何もないぞ」
 サレナがサイドテーブルから皿を取り上げ、ザイシャの膝上に置く。心臓から立ち上る耐え難い悪臭が鼻腔を刺す。ザイシャの涙腺が温まり始める。
 ただでさえ死肉を生で食べるような経験はしたことがないのに、この肉はおまけに腐っている。家を出る前は鉱石や専用の礼装を食べて魔力を補充していた温室育ちのザイシャには到底受け入れられない食事だった。
 直接手で触れ持ち上げるのに抵抗を覚えたザイシャは皿ごと心臓を持ち上げ口を近づけようとする。……が、舌先が触れる寸前に身体が強い拒否感に支配され、口をつけることが出来ない。
 近づけては拒絶し、近づけては拒絶し、近づけては拒絶し…………ザイシャは皿を膝に戻した。サレナを見上げてプルプルと首を振る。涙は決壊寸前だった。
「ふーむ。そう言ってものう、手持ちはそれしか……いや、確かあれがあったか。ちょっと待っとれ」
 サレナが闇に消え、向こうからゴソゴソと何かを漁る音がする。
 精神の限界を迎えかけていたザイシャの目から安堵のあまり溜まった涙が滑り落ちた。サレナが何を持ってくるかはわからないが、この心臓より酷いことはないはずだろう。この心臓の後なら、この心臓でなければ、何が出ても食べられるとそう思った。────思っていたのだが、
「あったあった。味覚と嗅覚を麻痺させる薬じゃ。ちと古いが効力は残っとるじゃろ」
 虚ろな瞳のザイシャはサレナから受け取った小瓶と心臓を交互に見た。何度も。
 逃れがたい現実は何度見ても質量をもって手元に存在している。お腹はペコペコ。身体を生かす魔力は今にも尽きそうだった。
 どうあっても、食べるしかないのだ。
 その後、ザイシャは意を決して瓶の中身を飲み干すと、腐臭に涙腺を押され滂沱の涙と鼻水を流して何度も何度も嘔吐いてこみ上げる胃液を押し込めて────丸一日かけてようやく平らげると、そのまま気絶した。

 ────翌朝からサレナとの奇妙な共同生活が始まった。
 サレナはザイシャを徒弟のように扱き使った。仕事は日によって変わり、家の掃除や洗濯から家具の修理、触媒や死体収集の荷物持ち、細々とした魔術の下準備、など内容も多岐にわたった。
 仕事の合間はうず高く積まれた蔵書を読み耽って役立ちそうな項目を片端からメモし、不明な点があればサレナに質問し、そして七日に一度は眠らぬ身体に死の眠りが与えられ、翌朝泣きべそをかきながら腐りかけた肉を腹に押し込む。
 そんな一週間の繰り返しを重ねて、新月が何度か沈み、涙こぼさぬ死んだ目で腐肉を飲み込めるようになった頃。不意にサレナがザイシャに尋ねた。
「のうザイシャよ。お主、儂の魔術を学んでみんか?」
 以降サレナとの関係は師匠と弟子に変化した。ザイシャの日中の役目は家事と死霊魔術の学習にすげ変わっていき、荷物持ちの仕事はフィールドワークとなった。いつしか七晩に一度の殺害の約束も形骸化して腐った心臓を食べるだけの行事と化していた。
 日々が過ぎ、季節が変わり、────そうして、師弟に早くも三年が経った。

 この森に集う灰狼の毛並みには時折わずかに銀の輝きが混じる。森の野生の頂点に君臨せし統治者、"先祖返り"の血族の証である。
 神秘を宿す彼らの毛皮は雨水を弾くが如くして一工程による魔術を無力化する。そんなものが群れを為し、獣に、人に、襲いかかる。
 一匹一匹は"そこそこ程度の魔術師"にも抗せる下等の魔獣だとしても集まり波濤となれば人の手に余る災害の化身。呑まれ引き裂かれ腹に収まるのみ。
 群れなす彼らはまさしくこの森の王族であった。法であり、威であり、逆らうこと自体が愚かしい、絶対的存在であった。
 ────ゆえに。孤立したものから仕留めよ。
 その銀の輝きが見えた瞬間、魔術回路を励起させ引き金を弾いた。
「────起動せよ(アクティベート)
 小さな弩から放たれたモノが吸い込まれるように銀混じりの狼の側頭部へ迫る。
 空気抵抗を受け角度を変え続ける矢弾は虹彩を白濁させた魔狼の目玉。茂る広葉樹の葉よりも軟らかなはずのそれが鉄の鏃も通さぬ魔狼の毛皮を、肉を、骨を穿ち、頭脳に踏み入りそして────
 ぽん、と。炒っている豆が鍋で弾けたような音がした。
 魔狼の身体がふらつき、どう、と倒れ込む。
(まずは一匹)
 カウントしながら弩のフットスティラップ(※先端部の環状パーツ。このパーツを踏みながら弦を引く)に手をかけると強化魔術を掛けた全身で弓を引き絞り次弾をセットする。そして回路を落とす。魔狼たちは循環する魔力の音に敏感だ。
 サレナの話によればこの場の魔狼は三匹。狩りの対象は残り二匹。気配を殺し耳に神経を集中して気配を探る。
 耳をすまし。耳をすまし。耳をすまし。聞こえた────背後!
魔弾となりて(セット・フライクーゲル)起動せよ(アクティベート)
 振り向かず後ろ手で矢弾を放つ。弩の先端に埋まった水晶が罅割れ、矢弾に不自然な指向性を与える。
 キャンキャンという悲鳴が高度を下げていき軽い破裂音の後に受け身をしない肉塊が地面に叩きつけられる鈍い音がした。
 回路に火を入れたまま、ザイシャは全身に強化魔術を付与して樹上から飛び降りる。
(……位置がバレてる?)
 ザイシャは落下地点に待ち伏せした普通の灰狼の首を着地の足で蹴り払うやフットスティラップと弦を持つ両手に力を込めて走り出す。
 装填を終えた弩のグリップを右手に握り込むザイシャの脳裏には出立直前に告げられたサレナの忠告が一字一句ありありと浮かんでいた。
 ────そういえば一匹だけ、混じる銀が濃いのがおった。"先祖返り"に近い直系じゃろうな。気をつけておけ。並の魔狼より強いが、それ以上に賢いぞ。
 ザイシャの知る"並"であれば自らが樹下に待ち伏せていた。樹上と樹下。単純極まりない原始的な挟み撃ちで獲物を仕留めにかかったはず。しかしそこに魔狼はいなかった。
 狩人に補足されていない利を取ったのだ。御丁寧に灰狼の身代わりまで立てて。
 一匹目の魔狼の死体を飛び越し木立の間にぽっかり開けた空き地(ギャップ)へザイシャが踏み込んだそのとき。森の下草を硬い毛皮で擦る音が四方八方(・・・・)から聞こえてきた。囲まれている、だけではない。"直系"は明らかに撹乱を狙っていた。
 この距離まで迫られては(おと)では遅い。すかさず懐にある魔狼の瞳を手に取ると回路を接続し360度に拡張した視界で出方を伺う。
 囲いが縮まっていく。鬱蒼と茂る森の中で陽光すら差しこむ拡がりを持つこの空間には岩壁のような死角を広く守れる安全な遮蔽物はない。じりじりと茂みの揺れが近づいてくる。
 ────視界の端で何かが光った。
起動せよ(アクティベート)!」
 強化された肉体が細い片腕で弩を保持し、正確無比に光源を穿つ────刹那、背後の茂みが大きく動いた。陽光の下で毛皮輝かせる濃銀灰の"直系"が獲物の首筋向けて飛びかかる!
 が、────一匹の魔狼がそれを遮った(・・・・・・・・・・・・)
 空中目標に噛みついた魔狼は"直系"の下敷きとなって頭から落ちる。二匹ぶんの体重を受け止めた頸が痛々しくも直角に折れ曲がった。
 即死して然るべき損傷を受けた魔狼はしかし頚椎の変形と筋断裂をものともせず噛み付く顎の力を強め暴れる"直系"を地に押さえつける。
 ザイシャがゆっくりと弩を引き絞り、視覚の拡張に使っていた魔狼の眼球を装填した。
「────起動せよ(アクティベート)

 遠隔操作していた死体への魔力供給をザイシャは切った。
 矢弾の破裂と同時に仕込んでいた死霊魔術の術式が停止し頸の曲がった魔狼は倒れ伏せる。
 ザイシャは先ほど撃ち抜いた辺りを探る。するとやはり身代わりの灰狼が倒れていた。"直系"はまたしても囮を立てていたのだ。……ただ、一つ予想外であったのは。
 陽光を受けて足下で輝くものを拾い上げる。それは長年固着した土埃で鏡面を曇らせた金属の鏡だった。覗き込んだ鏡面には何も映り込まないが代わりに降り注ぐ光を眩しく照り返している。表面には咥えていた灰狼の唾液をべったり付着させていた。
 激しい戦闘の熱に温められ汗まで伝うザイシャの背筋を薄っすらと冷気がなぞり上げる。先ほどの光はおそらく……
「…………賢い。怖いくらいに」

「ただいま帰りました」
 魔力と術式で動く三匹の骸をお供にザイシャは戸をくぐった。
 戸の向こうには一歩先も見えない暗闇が満ちていたがザイシャは気にせず。慣れた様子で壁に手を伸ばすと魔術で点けた火種を水晶の瓶に入れた。
 通過する光を強める性質を与えられた水晶から光が溢れ、触媒や本で溢れかえり雑然とする室内を真昼のように明るくする。
 ザイシャは両手を口に添え、大きく息を吸う。
「サレナ先生! ただいま! 帰りました!」
 張り上げた大声が響く。
 するとドタドタ音がして部屋の奥の戸が勢いよく開いた。その向こうから老婆──サレナが顔を出す。
「んな大声出さんでも聞こえておるわっ! ボケ老人か儂は! まったく……下りて来い。採点してやろう」
 地下室へ続く階段に足を掛けながらサレナが手招きをした。
 ザイシャは魔狼たちの死体を連れ、地下に戻るサレナの後を追う。
 独特の臭気が漂う地下室は死体置き場であり工房である。サレナの許可がなければ弟子のザイシャも入れない。ザイシャが一通りの死霊魔術の基礎を覚えてからは、サレナは日中の殆どをこの工房で過ごしていた。
「……どうですか?」
 ザイシャが尋ねる。目線の先にはサレナが腑分けした三つの魔狼の死体があった。
 骨で作られた解体用ナイフの血を拭いながらサレナは答える。
「殺し方は悪くない。脳も触媒に使えるが……まあこやつらそう大した頭でもないしのう。惜しむほどではなかろう。無論、脳髄が無事であれば死体を操る消費魔力も抑えられるが、一撃で仕留めきる利と比せば微々たる対価じゃろう────が」
 最初の関門は越えられたようだと心のなかで胸をなでおろしていたザイシャは師の言葉の最後の一文字を耳にするや背筋をピンと弓のように張った。
「殺す武器は失格じゃ。五小節なみの用意を再装填に要するなら始めから一小節以上の魔術を使った方が確実じゃろうが。違うか」
「……サレナ先生。お言葉ですが、射出と制御術式の付与を同時に行いながら装填時間を分割できることが──」
「馬鹿者! その分割を出来ず窮地に陥ったばかりじゃろうが! 使い魔越しに見ておったぞ!」
 ぴしゃりとサレナが遮った。
 サレナはザイシャが弩の矢弾とした眼球をつまみ上げる。
「死体の制御術式を仕込まれておるのは弾の方じゃな? 弾の出来栄えは見事なものじゃ。使い切りの行動一つには一つの意味と一つ以上の布石を与えよと以前教えたのも守れておる。じゃが。布石が布石とならぬ状況であればこの弾を使う意味はなかろう。一つ一つが使い切りの手札を無駄打ちせねばならんのは打ち出す武器の不備に他ならない。────弾の出来栄えに満足して他を疎かにしたな?」
「……………………」
「殺した相手をその場で手駒にする、というのはな。たしかに戦いではよくあることだ。しかしの。のべつ幕なしに打った布石は多くが回収されず無駄になる。自分の消耗と負荷を徒に増やすだけじゃ。死体制御の術式を付加するのであれば追尾を付与したようにして弩の側に工夫を凝らすべきじゃった。製作の難度は多少跳ねるじゃろうがお主の腕なら実現できたはずじゃぞ」
 図星を突かれ何も言い返せず黙って項垂れていた弟子は恐る恐る面を上げると師に尋ねた。
「……つまり課題は今回も」
「うむ。再提出じゃ。頑張れ」
「そんなぁ……」
 解剖台に手を掛けながらザイシャの膝が崩れ落ちた。
 ここまで、この数ヶ月の恒例行事。
 再提出の宣告はこれで六度目。そして枯渇しかかったアイデアを振り絞り製作した自信作が弩の礼装であった。
「ボサッとするな。落ち込んでいる暇があった取り分を取って課題に戻れ」
 サレナは魔狼から摘出した心臓のうち二つを木の碗に入れ、ザイシャの顔の横に置いた。置いたその手でしっしっと追い払うジェスチャーをする。
 師としてのサレナはどこまでもスパルタであった。
 衣着せぬダメ出しと無情な再提出要求のセットを食らって何度ザイシャが膝を折ったか。
 そのスパルタぶりは何もこの課題から始まったものでもなく、要求した条件を一つでも満たせていなければ問答無用でやり直しを突きつけザイシャが泣こうが喚こうが絶対に譲歩しない。
 弟子入りを決めた翌朝に彼女が放った二言は、その指導方針を如実に示した言葉であろう。
『何事も死ぬ気で取り組めよ。でなくば儂が死の国の入口が見える境地まで追い込むぞ』
『本当に死んでしまいそうな時は言うんじゃぞ? 死体の保存処理(エンバーミング)は早いほうがいいからのう』
 とんでもない人に弟子入りしてしまったと死ぬ目に合うたびザイシャは思うが弟子入りしてしまったのだから仕方ない。
 床に弩の先端をつけて引きずりながらザイシャは気落ちした背中で階段へ向かう。丸まったまま遠ざかる背をそのときサレナの声が追いかけた。
「ザイシャ。一つ用事を忘れておった」
「?」
「お主なにか拾いものをしておらんかったか? あれが気になってのう。持って来ておるなら見せてくれぬか。ほれ、灰狼の脇から拾った、板のような……」
「……これですか?」
 ポケットから取り出した金属鏡をザイシャはサレナに手渡す。
「やはり魔力の痕跡があるか……」
 金属鏡を表に裏にサレナがしげしげと眺めている。
 ザイシャの師は、曰く、長く生きすぎて暇を持て余しているところがあるらしい。そのせいか用途や構造がわからない魔術的なモノには目がない。ザイシャを拾ったのもその暇つぶしの延長だったと話していた。
 サレナは回路を励起させ金属鏡に魔力を流し込んだ。
 何も起こらない。
「……ふむ。アテが外れたか……。呼び止めてすまなかったのうザイシャ。この板も返そう」
「はあ……」
 生返事で受け取った金属鏡をポケットに収めると再びザイシャは階段に戻っていった。
 ポケットの中で、手のひらにぎゅっと金属鏡を握りしめながら。

 サレナの工房を後にしたザイシャは木立の中を歩いていた。手には落第を食らったあの弩を携えている。
 この森を武器を持たずに出歩くには危険だ。魔狼がいるからだけではない。住まう狼の個体数が余りにも多すぎる。
 現に、索敵させている使い魔と視界を共有すれば、耳を動かし遠くからこちらを伺う狼数匹のグループを幾つか、めいめい別の方角に確認できる。
 中には引き連れた小さな仔らの毛繕いをするものもいた。子育ての季節を大きく外れているというのにだ。
 この森では仔を連れた狼を一年中見かける。繁殖サイクルが狂っているのだろうか? それとも魔獣の域に近づいた狼とはそういうものなのだろうか? ……わからない。
 ザイシャは気配を殺し子連れの一団からそっと距離を取った。
 狼たちの多くは臆病で武器を向けるだけで逃げていくが、魔狼と子連れは例外だ。
 無論ただの灰狼はザイシャの脅威ではない。仔を庇う必死の対峙であろうと手足の一振りでその命を奪える。でも、そうしたくはなかった。
 足向きを変えながサレナから受け取った自分の取り分────魔狼の心臓を口にした。
 当初はその神秘の痕跡から魔術師のそれと勘違いしていたが、サレナがザイシャに食べさせていた腐った心臓の数々も、出元はこの森の魔狼たちだったらしい。
 鍛錬の一環で魔狼を相手取るようになってからは腐った心臓を食べる機会はなくなった。自分で狩れるのなら支給してやる必要もないという判断だろう。
 それもそうだとザイシャは思う。幻想種から継いだ血を通わせたあの心臓は立派な魔術触媒。七晩の一度の殺害が消え去った以後しばらく支給が続いたのがおかしな話だった。
 口中の血と獣臭が喉を滑り落ち、分解炉──人間でいう胃に相当する器官──に火が入る。
 小一時間もすれば心臓内部の神秘を魔力に変換し終えるだろう。
 ザイシャは次の心臓を口に運ぶ。まだ魔力には若干の余裕があったが何らかのアクシデントで死亡する最悪の想定まで勘定に入れると些か心許ない。
 サレナの家で目覚めてからというものザイシャは神秘の経口接種による魔力補給を欠かすことができないでいる。
 それは彼女の魔力量が大きく落ちこんでいたからだ。魔術回路が閉鎖したわけではない。万全の状態のまま生産量が落ちている。
 あたかも樽の中で熟成される酒が蒸発によって目減りするかのように、目に見えぬ天使(ナニカ)がザイシャの魔力を盗み飲んでいた。
 おそらく目覚めの前に迎えた暗転、あの記憶の欠落の間に起こった"何か"がザイシャの魔力を蝕んでいる。
 原因はサレナではない……はずだ。
 ザイシャの魔力枯渇をサレナは殺しすぎて過剰に魔力を消費させたせいだと考えていた。
 だが本来保有する魔力量であれば"三日三晩殺され続けた程度"で枯渇するわけがない。千度殺され粉微塵にされようとザイシャの不死性は揺るがないのだ。
 もしも魔力を奪ったのがサレナならその行いはザイシャの不死を解き明かそうとした目的に矛盾する。眠りについたまま殺せたのだから続ければいい話だ。解き明かすまで眠らせてそれから奪えばいい。貴重な魔術触媒を浪費してまで先に奪う理由はない。
 疑う余地はない。無いと、信じたかった。ゆえに唱える。
「────この身は汝の片我にして真の名を識る者(リフト・リストリクションズ)。『星辰盤(マイェイトニク)』、起動せよ(アクティベート)
 サレナは使い方を間違えていた。
 この礼装は対となる礼装『雁来紅(アマランサス)』────すなわちザイシャとセットで使うものだ。
〈────доброе утро(おはようございます)、雁来紅様。何をお調べしましょう〉
 魔術回路を通して『星辰盤』のナビゲーション音声が頭に流れ込む。
 三年ぶりの再会だ。
 ザイシャは念話の要領で指示を返した。
〈偽典・第三呪詛のチェック。それと魔力の生産量が落ちている。異常や変質……汚染がないか調べて。呪術的なものなら特に〉
〈────精査開始…………端末。異常なし。変質なし。汚染なし────端末内の隠蔽痕跡確認中…………隠蔽なし〉
 思わず安堵の息が漏れ出す。これでサレナの疑いは晴れた。
〈魂や回路に異常や漏出は? 生産量が低下した原因がどこかにあるはず〉
〈────精査開始…………魂への接続ならびに魔術回路。異常なし。漏出なし〉
〈なし? そんなはずない〉
 今のザイシャの一日の魔力生産量は本来の一割にも満たないものだ。
 端末、すなわちザイシャの肉体である『偽典・第三呪詛』に異常がないとすれば他に考えられるのは回路異常か魔力の漏出のどちらかしかない。
 そのどちらでもないとするといよいよ"原因不明の低下"と考える他になくなってしまう。
〈────もう一度、解析なさいますか?〉
 考え込むザイシャに『星辰盤』が指示を仰ぐ。
〈……いや。いい。解析対象を内部から外部に変更(コール・フロップ)。インデックスⅦを呼び出す。登録礼装の探査を始めて。継続型。期間は停止か接続終了まで〉
〈────かしこまりました。お待ちの間に楽しい音楽などいかがでしょうか?〉
〈いらない。余計なことせず黙って探して。報告だけちょうだい〉
 指示の通り『星辰盤』は沈黙した。相変わらず辟易するような杓子定規だった。
 だが最初に取り戻せたのが解析に特化した『星辰盤』であったのは僥倖だ。これで他の礼装も探すことができる。
 『星辰盤』はザイシャの創造主の製作物であり、そして、三年前、この森で目覚める前に所持していた礼装の一つだ。
 ────荷を落としたと言っておったな。この一帯には儂が人避けの結界を張っておるから野盗の線はない。大方、身体ごと狼の巣にでも引きずられて行ったんじゃろうな。
 サレナの予想は当たっていたようだ。
 三年間を足踏みしていた目的へと今一歩踏み出したザイシャの表情はしかし固い。
 狼達の巣に荷が集まっているとしたら新たな問題も浮上する。
 ザイシャが荷物を取り戻すには巣にひしめく魔狼たちをどうにか対処しなければならないのだ。
 今までのように分断し一匹一匹殺していくなら魔狼はザイシャの敵ではないだろう。だが群れともなれば話は違う。一匹処理する間に二匹に襲いかかられては勝ち目がない。
 以前の魔力量であれば不死に物を言わせて突破する策も取れたが、この通り、心臓の摂取を怠ると死にかねないほど魔力は不足している。
 目的地は見えたが決定的に力が足りない。まるで帆の破れた船のようだ。遠く見える灯台の光を眺めながらこの場で波に揺られる他に術がない。もどかしさに唇を噛んだそのとき。
〈────登録礼装の反応検知〉
 『星辰盤』の機械的な声が響く。
〈わかった。距離は?〉
〈────精査開始…………距離三百。二百九十。二百八十────尚も接近中〉
〈接近中……?〉
 嫌な予感がした。
〈────お待ちの間に楽しい音楽などいかがでしょうか?〉
〈いらない。────リミッター・オフ。登録礼装周辺の移動熱源数探知。熱源の中の魔力反応数も〉
〈────熱源。十五。魔力反応。四〉
 予感的中。
 弾かれるようにザイシャは強化魔術を発動し弩を抱えて走り出す。
(これだから星辰盤(コイツ)は!)
 その表情は融通の効かない礼装への怒りで満ちていた。
〈────お待ちの間に楽しい音楽などいかがでしょうか?〉
〈いらない! 戦闘に移行する! 感覚拡張して! 熱源と魔力の感知も! ────あと話しかけるまで黙ってて!〉
 ザイシャの視覚が全方位へと拡がり思考の中に幾重もの波紋が広がる。波紋の揺れが接近する反応──間違いなく狼達──の位置を示し、その揺れを大きくしていく。
 魔力反応は四つ。最低でも四匹の魔狼が迫っている。
 樹上に行き弩を引き絞り、構える。
 連射性のないこの弩では囲まれたら終わりだ。魔弾付与の修復はできておらず奇襲にも対応できない。一匹ずつ倒すしかないが既に居場所は露見している。────ならば近づかれる前に減らすのみ。
 鬱蒼と茂って見通せぬ下草。のっぺりと動かぬその風景の何の変哲もない一箇所に向けてザイシャが弩を向けた。
「────起動せよ(アクティベート)
 遠くで微かな破裂音がした。ザイシャは再び弦を引く。思考の中で魔力を示す"波"が一つ収まった。
 解析礼装『星辰盤』。その真価とはまさに『雁来紅』への接続による圧倒的なまでの情報収集及び処理能力。
 もはや浅薄低密度の遮蔽物など彼女の目の前では裸も同然。全ての波を睥睨するザイシャの目がその一点に留まった。
起動せよ(アクティベート)
 同じ動作を繰り返す。また波が一つ消える。
起動せよ(アクティベート)
 繰り返す。また波が一つ消える。
 思考の中では残された波が激しく揺れる。
 姿を隠しているのにも関わらず居場所を突き止められ狙撃される。その不可解奇怪を引き起こした狩人にひどく怯えて恐慌し波は揺れに揺れていた。
 ギリギリと引き絞る弦が所定の位置に収まり固定される。つがえられた眼球の白濁した視線が茂みの下で踊り狂う最後の波に狙いを定めた。
 ────視界の端で何かが光った。
 光を顧みずザイシャは引き金に指をかける。光源の下に魔狼はいない。『星辰盤』の反射と同じく魔狼の毛皮の輝きに偽装した囮だ。
 が、────引き金を弾こうとした指が止まった。
 ザイシャは一瞬何かを逡巡し、再び引き金に力を込める。
 撃ち放った矢弾は狙った獲物を確かに穿ち、僅かな破裂の音の後、その生命活動を停止させた。
 魔力の反応が逃げ去ってしまうとザイシャは木から飛び降り最後の獲物が潜んでいた辺りに歩み寄る。
〈インデックスⅦ呼び出し。登録礼装の反応距離を計測〉
〈────精査開始…………距離。零〉
 ザイシャの足元に囮役の灰狼が倒れていた。屈んだザイシャは狼の口から礼装を引き抜いた。
「……これで二つ目。だけどハズレ。必要なのはこれ(・・)じゃない」
 独りごちる言葉に落胆はない。立ち上がったザイシャの足取りは力強さを帯びている。燃え上がるようなその瞳は既に、遠い光に力なく手を伸ばした迷い子のものではなくなっていた。
「賢い。怖いくらいに。────なら、利用できるってことだ」

 
 

第2章 白き茨と横たわる囮と

 ────私は、お前を継嗣として生み出した。
 長回しのフィルムのように地続きの記憶の一番最初。初めて目を開いた日。万雷の拍手の中心に佇む創造主が、はじめにそう言った。
 父とも言えるその人は、とある魔術結社の頭目だった。
 とても、とても、偉い人なのだろう。最低限の知識しかインプットされていない生まれたばかりの彼女にも一目でわかった。
 傅くように怯えるように。微笑む唇を震わせながら。居並ぶ魔術師たちが真っ赤な手を叩き続ける光景がそうと理解させたから。
 ────今日からお前はザイシャ。ザイシャ・アンディライリーだ。期待しているぞ、雪仔に届き得る者よ。
 まだ何にも染まらぬ無垢な彼女はそんな偉い人が父であるのがただ誇らしかった。
 名前を貰ったあの日から誰一人と尋ねてこない毎日でも、期待をかけてくれる家族がいるのが何よりも嬉しかった。
 だから耐えて、頑張って頑張って頑張って。…………そして。
 ────お前は分化に失敗し雪仔への道は閉ざされた。廃棄は明朝を予定している。私が与えた名は二度と名乗らぬように。
 棄てられた。取り上げられた。"なぜ?" 初めて浮かんだその感情への答えすら与えられずに。
 その日、血のように赤い疑問の朱がさした。処女雪のような純白の無垢を失った。
 彼女が生まれた日。立ち並ぶ魔術師たちが父の前で示した在り方。あの正しい呼称はなんと言うのだろう。
 確か、真っ先に思ったのはそんなことだった。自分はそんな子供のような疑問の答えを知りたくて、あの場所を飛び出したのだ。

 弩が骨の矢を放った。頭の中で揺れている魔力反応を示す"波"が一つ静まる。
 ザイシャは肩にストックを押し付けたまま、グリップと、そしてボウユニット(※クロスボウの弓の部分全体を指す)の下部に位置するフォアグリップへ微量の魔力を流した。
 弩の前方と後方で二本の魔狼の腱がそれぞれ独立して伸縮し、一秒と経たず弦を巻き上げるや弩の側面部に据付けられた矢筒(クイーバー)から新たな矢弾を送り込む。
 リロードの間も次の波を追いかけていた弩の先端部が装填完了と同時に一点を睨んだ。
起動せよ(アクティベート)
 そして撃ち抜く。
 魔力反応の数は減らない。だが狙いを外したのではない。代わりに熱源を示す波が一つ消えていた。
 ザイシャが消波したのは装填中に光を反射させていた一匹の灰狼だ。
 森に現れた狩人が光る囮に騙されると学習した銀の濃い魔狼たちは"光るモノ"を持たせた子分を一匹以上、自分の群れに同行させるようになった。
 攻撃を仕掛ける際や撤退の際、彼らは子分に命じて狩人の気を引かせる。……今回は撤退の方だったようだ。群れでも最も強かった魔力の反応が猛スピードで遠ざかっていく。
 反応が消え去るのを確認したザイシャは時間稼ぎに使われた哀れな灰狼へと歩み寄る。
 即死だったのだろう。どこか、きょとんとした顔をして、痩せ細った老狼は倒れていた。
 狼の眉間から顎の下まで抜ける空洞からは病に冒された浅黒い血液と髄液が滴り、下草の根に近いところを濡らしている。
 だらんと垂れた舌のすぐ側には古ぼけた銀貨が一枚転がっていた。────またハズレだ。
 腰から抜いていたナイフでザイシャは狼の亡骸を僅かに裂く。
 ナイフの鞘に詰められていた致死の呪毒が、傷口から死した体内に侵入し、仕込まれた使役術式がパスを繋いだ。
 狼の頭部で筋肉が蠕動し、瞼が安らかに閉じていった。まるで涼しい風の吹く午後に木陰で居眠りしているような穏やかな表情だった。
 ザイシャは狼への魔力供給を断った。
「────ごめんね」
 謝罪したのは無力な灰狼と知りながら敢えて狙い殺したことをか。それともこの独り善がりな弔いをか。
 立ち上がり踵を返すと前に向かって歩き出す。次の群れを探し求めて。
 魔狼のなかでも特に賢い"直系"だけが持つ囮の習性。あの日『星辰盤』で囮を看破したザイシャはその習性を利用することを思いついた。
 光った囮は必ず撃ち抜き、撃ち抜けば一匹以上の"直系"を必ず逃がす。
 この繰り返しにより、光る囮の有効性を覚え込ませ、巣から"光るモノ"──金属や鉱石製の物を運び出す。これがザイシャの策だった。
 狼が落とす大抵は先程の銀貨のようなガラクタだったが、繰り返し続けたことで、更に二、三の荷物を取り戻すことができている。
(あともう一つ。アレさえあれば他の礼装がなくても探しに行ける。────あの子(・・・)を)
 思考の中に波が浮かんだ。ザイシャは駆けるようにして高木を登り眼下に弩を向ける。
「────起動せよ(アクティベート)

 いつも通り魔狼たちのパレードをお供に、弩のショルダーベルトを斜め掛けするザイシャが戸口をくぐった。
「ただいま戻りまし……た?」
 室内には既に明かりが灯っていた。
 珍しいことに、常日頃は工房に籠もりきりの師が地下室から出てきている。
 探し物でもあるのだろうか。整頓された書棚をごそごそ漁って、ザイシャが丹念に整えた本の背の向きを荒れ模様に変えていた。
 書棚荒らしを続けるサレナが戸口の方を向いた。その手が止まり、呆れたようにあんぐり口を開く。
「……また大量じゃな今日は」
 サレナはザイシャの足元を見てそう言った。彼女の視線の先では揃って薄銀灰をした魔狼たちの死体が半ダースばかりダンゴになっている。
「仕留め損なったのが援軍を連れてきたみたいで……大変でした」
「苦労したのう。ま、よう帰った。狩りも良いが課題の進みの方はどうじゃ。まだその弩を使っとるんじゃろ? 改良はしておるようじゃが……」
「素案の試作はしているんですが……」
 ザイシャが腰につけた皮製の鞘から刃物を抜き、サレナに渡した。
 サレナは親指と中指で刃の先端部をつまみ、あちこち眺めて検分する。
「儂が調合してやった呪毒じゃな。使役用か?」
「はい」
「なんじゃ迷走しておるのう」
「はい……」
 ナイフの柄が差し出される。ザイシャの手が柄を掴むとサレナは書棚に収められた前後二列の秩序を破壊する作業に戻っていった。ザイシャは受け取ったナイフを元通り仕舞った。
 しばらく本をバサバサと床に落としていたサレナが再び手を止める。
 お目当ての本だろうか。書棚の奥から一冊抜き取るとサレナは地下室への階段に向かっていく。その半ばで彼女は振り返った。
「おや? また行くのか?」
 替えの矢筒を片手に戸を開けようとしていたザイシャが少し立ち止まりサレナに頷きを返す。
「試したいことがあるんです。この死体の処理を先生にお任せしてもよろしいでしょうか」
「儂は構わんが……心臓は補給せんのか?」
「今日は、まだ大丈夫そうです」
「ふむ。あまり根を詰めんようにの。最近のお主の張り切り様では、蘇生一回分の魔力も残っとらんだろう。死体を探しに行くのは手間じゃ。死なんよう気をつけて行って来い」
「はい。行ってまいります」
 ザイシャが戸口をくぐり扉が閉まった後。サレナは折り重なる死体に目をやると指を鈎に曲げてツイと引いた。
 すると魔狼たちの死体が独りでに動き出し、三々五々に立ち上がって、工房のある地下へと移動を始める。
「……しっかしまあ殖えたもんじゃのう。常なら年に十頭も間引けば安泰のはずじゃが、この二年で百以上を殺してまだ魔狼の群れが健在とは。よほどいいもん食っとんじゃろうな」
 最後の一匹が階段に後ろ足をかけるとサレナは後に続いて工房に下りていく。独りごちる彼女の声が石造りの地下室に小さく響いた。
 ────そろそろ、やつが動くかもしれんなあ。

 家を出るなりザイシャの笑みが消えた。奪い返した白い腕環を手に『星辰盤』を叩き起こす。
〈星辰盤。SCSの修復状況を報告〉
〈────доброе утро(おはようございます)、雁来紅様。現在91%です〉
〈なら移動中に終わるのは確実として……試験込みでも間に合うか。動作検証をタスクに追加〉
〈────かしこまりました。お待ちの間に楽しい音楽などいかがでしょうか?〉
〈いらない。解析を外側へ(コール・フロップ)。インデックスⅦ……いやインデックスⅠを呼び出す。登録礼装の探査と感覚拡張を起動。継続型。期間は停止まで。あとは黙って修復に専念して〉
 ザイシャは家の程近くの木立に入るとしばし歩いて、目印の石の前でかがみ込み、軽く隠し場所を掘り返して包みを取り出した。
 土が入らないようにしっかり巻かれた大きな煤染めの布の中には粉が入った小壜が一つ、錆びた簡素なフィブラ(※安全ピンのようなもの)が一つ、手のひらほどの大きさの、針を拡大したような形をした金属棒が計三本。
 ザイシャは包みの中身をポケットに押し込むと布を広げて土を叩いた。顔にくっつけスンスン嗅いでみる。煤の臭いは落ちている。問題なく使えそうだ。
 頭からローブのように布を被り目立つ白色の髪と肌を覆う。首元で布を留めると魔力を注ぐ。布を留めているフィブラに込められた隠密の魔術が起動した。
 腕環を右手首に嵌め、弩を肩にかけ、小壜の蓋を取って中身を一息に飲み干す。
 持ち出した魔力補給用粉末鉱石最後の一本。内包神秘(カロリー)は魔狼の心臓を六つ束ねたより遥かに多いが、消化の進行が遅く、他の物質が分解炉に入っていると反応して爆発する危険物。緊急用にと取っていたが今がそのときだ。
 脳内に以前使い魔でマッピングしておいた狼の巣周辺の地形図を思い描く。ザイシャの足で歩けば直線距離でもここから軽く二十分ほどかかる。高低差を考慮して進むのならもっとだ。
 構築しておいた最短ルートを思い出しながらザイシャは一度振り返った。そこには三年以上もの歳月を過ごした師の家がある。少女は微笑した。
「いってきます」
 そして走り出した少女は闇の中に消えた。

 泥と埃に塗れながらもザイシャはなんとか巣の近くまで辿り着いた。
 思考の中の波紋で敵の位置を探る。哨戒している波が幾つか。巣が近いこともあって監視の密度が高い。潜り抜けるのは難しそうだ。
 ザイシャは針のような金属棒を一本取り出した。残り二本の片方だ。気づかれないように立ち上がり、遠い右方に目掛けて思い切り投げる。そしてすぐに屈む。
 縄張りを見回る薄銀灰の魔狼たちは足を止め金属棒を投げた辺りに一斉に耳を向けている。
 金属棒は仮想輪転魔術回路という礼装だ。魔術回路そのものではなく、本来は身体に直接打ち込んで同調させる。魔術回路の特性を切り替えるための道具だ。
 が、用途上、魔術回路に同調する必要があるので、魔力を生産できずとも流した魔力を循環させることは単独でもできた。
 循環する魔力の音に敏感な魔狼たちを誘きよせるのにはぴったりな礼装だった。
 屈んだままザイシャは左側から回りこむ。背の低い木の枝葉の下を、倒れた大木と地面の僅かな間を、するりと抜けて進んでいく。不便なばかりの小さな体躯もこういうときだけは役に立つものだ。
〈────登録礼装の反応検知。前方。距離。三百〉
 『星辰盤』が反応を示した。探していたものがようやく感知範囲に入ったということだ。
 が、前ということは、間違いなく"あの中"にあるのだろう。
 腹ばいになったザイシャは茂みの間から、前方にある、一枚の板のような広大な岩壁を臨んだ。
 マッピングするうちにわかったことだが、この森は山間に位置するらしく、三方を切り立った崖に囲まれている。
 崖のない側を手前と見たとき、左方にサレナの家、右方にザイシャの狩り場があり、狼たちの巣は奥側の岩壁の洞穴にある。
 洞穴の中は曲がりくねり幾多にも分岐しているようで使い魔の調査だけでは構造を把握し切ることはできなかった。
 厚い岩盤越しの解析を『星辰盤』は不得手とする。礼装自体が発信している信号と違い、解析が必要な魔力反応や熱源の感知は障害物に阻害されやすい。
 ゆえに出来ることであれば洞穴に入るのは避けたかった。あの中に入れば感知能力の多くが制限される。
 最悪の場合、食料となる心臓を魔狼たちから剥ぎ取りながら、狭い感知で地の底まで続いていそうなダンジョンを攻略する羽目になる。
 ザイシャはその覚悟もしていたが、先程の『星辰盤』の反応を見るに覚悟したことが現実となる公算は低く思えた。
 というのも礼装の反応検知が予想したよりも遥かに早い。洞穴は真っ直ぐ進むと百メートル前後で行き止まりになるが、あのぶんなら、洞穴の半分も進まぬところに位置するはずだ。
 考えながら匍匐前進していたザイシャが動きを止める。またしても哨戒網。仕方なく最後の金属棒を投げた。監視を掻い潜り走る。洞穴の入口が見えてきた。
 突入の前に再度『星辰盤』に確認する。
〈登録礼装の反応は?〉
〈────登録礼装の反応検知。前方。距離。五十(・・)
(…………五十?)
 ザイシャは訝しむ。先程探知した場所からここまでそう距離を進んでいないはずだ。
 この『星辰盤』は腹立たしいほど杓子定規だが解析能力だけは確かだ。急に礼装の位置が移動したとしか思えない。
 一瞬、地下水脈の可能性を考える。が、すぐに否定する。反応があった辺りは浅い。水脈のセンはない。
 それに対となる『雁来紅』の視点をベースに解析を行う『星辰盤(これ)』が角度や高低を口にせず前方としか言わないのであれば、それは問題なく前方にあるはずなのだ。
〈────ご移動の間に楽しい音楽などいかがでしょうか?〉
〈いらない。それより反応の位置を共感覚化して〉
 ザイシャは思索を打ち切る。なら一つしかない。狼だ。洞穴の壁に阻まれて反応を探知できなかったのだ。
 弩を抱きしめるように抱え、引き金に被せられている安全装置を外す。いざという時は有視界戦闘で戦うしかない。
 たとえ魔狼ならぬ灰狼であっても、あの中では危険極まりない警報装置だ。先手を取り、仲間を呼ばれる前に殺さなければ。
 洞穴の入口周辺に狼の反応はなかった。出払っているのだろうか。
 警戒しながらも岩壁に張り付き、洞穴の左側からゆっくりと忍び寄る。中の様子を伺う。狼はいない。そして礼装の反応が近い。
 どうやら入口から入ってすぐ、右側へ曲がる分岐を五メートルほど進んだあたりに位置しているようだ。
 拍子抜けしつつも礼装を狼が移動させた気まぐれな幸運を噛み締め、暗い巣の中に入っていく。
 入口付近は風通しがよく湿り気が少ない。洞穴の入口はなだらかな上り勾配で雨水の侵入はなさそうだったが、それでも往来が激しいせいか土の流入が多い。
 地面に散らばる土の痕跡は、途切れ途切れ、細く紐のように伸びている。
 解れた紐の先のように入口から何本も並んで分かれ混じり合う土の痕。礼装を追うザイシャの足下の一本だけが嫌に濃い。
 胸騒ぎがして弩を握り直す。濃い痕跡は数歩行ったくらいで左向きに曲がる。
 空気の流れが微かにある。空間が広がっているようだ。表の岩壁にまで達する穴が開いていないだけで、内部は小さな洞穴のようになっているのだろう。
 曲がり角に取り付く。感知はやはり使い物にならない。弩の装填を確認する。銀の濃い魔狼が待ち受けている可能性もある。
 回路を回し、息を整え、構え、駆ける。────そして。
 そこには、中央に正方形のコアを収めた黒檀の髪留めがあった。三年以上、ずっと探し求めていた礼装だ。
 礼装の下に、倒木があった。人間の手でもなければ運び込むのに苦労するだろうそれなりに大きな倒木だ。
 水気の少ないこの空間では傷みや摩耗も遅いのだろう。古びた倒木は枝のあちこちを未だ鋭く尖らせている。
 その尖った枝の一つに少女がいた(・・・・・)。折れた枝先を口から通し後頭部までを貫かれ、早贄にされて横たわる少女がいた。
 伏せる少女の脇腹には、あたかも、乳を強請っているかのように我先にと仔狼たちが纏わりついていた。
 我先にと、牙を突き立て肉を貪る灰狼の仔らがいた。貪られる────自分(ザイシャ)の身体があった。
(なに、これ────)
 沸き起こる恐慌と怖気で、しっかり構えたはずの弩がガタガタと揺れている。
 そうだ、弩。呼ばれる前に殺さなければ。
 早くなりそうな息を整えて震える手で仔狼に弩を向ける。
 動揺で上手く回路を動かせない。だが装填は終わっている。相手はただの灰狼の仔。引き金にかけた指を引きさえすれば殺せる。
 口に血を付けた一匹の仔狼がザイシャの方を向いた。無垢なその目は成体の灰狼たちのような武器を恐れる心を知らないのだろう。
 初めて見る生きた人間と奇妙な道具を不思議そうに眺めている。そして、きょとんとした顔でザイシャを見上げた。
 その表情が、あの病んだ老狼と被った。
(────あ)
 身体の力が抜ける。
 動きが止まる。
 何かが強い力で彼女を引き倒す。
 背中から倒れたその懐から、星辰盤が落ちた。
 転がっていく金属鏡は、引きずられる自分から遠く、遠く、離れていく。
 そうか、これは。
(────()だ)

 髪を、腕を、足を噛まれる。噛まれ、洞穴の外へ引きずり出される。それは仔らから危険を遠ざけるためではきっとない。
 明るい月下まで獲物を連れ出し、逃げ場はないと知らせるようにぐるり囲んで、破壊の開始を告げるように彼らは牙を剥き出した。
 濃銀灰の狼には、とある特性がある。魔狼のなかでも特に賢い、学習能力に殊更優れる、"直系"だけが持つ特異な習性。
 囮。すなわち────()
 おそらく彼らはザイシャが何かを探しているのも戦う力のない狼を殺すのを躊躇するのも知っていた。自分の死体を前に動揺することも予期していた。
 精神的な苦痛と躊躇で大きな隙を見せると確信を得て、探し物をここに置き、仔狼を囮にしたのだ。
 ずっと見ていた。ザイシャが仔狼に弩を向けるのも。引き金に指をかけるのも。見て、待っていた。罠にかかった獲物を何の損耗もなく(・・・・・・・)襲う好機を。
 背筋を刺すのは爪に裂かれる痛みではない。震えだすような悍ましさであった。
 彼ら濃銀灰の魔狼は、まさしくこの森の王族だ。法であり、威であり、逆らうこと自体が愚かしい。それは、────群れの狼たちにとっても同じことなのだ。獣も、人も、狼も。彼らにとってはただの道具であり玩具。
 真っ先に破壊されたのは彼ら王族を殺しうる不敬の弩、次に足の腱と指先を殺され目を潰される。なんて効率的な無力化。彼らは食うために戦い殺すのではなく楽しむために安全に殺す。
 否応なく再生する身体に魔力を奪われる。分解炉からの供給が間に合わない。そして奪われた端からまた壊される。"直系"たちは破壊を楽しんでいた。楽しむことに手慣れていた。四肢を引き伸ばし千切れぬように抵抗のみを砕き獲物が壊れていく様を丁寧に丁寧に楽しもうとしている。
 人語解さぬ濃銀灰の狼らも、人間が苦痛からあげる断末魔とその滑稽な面白さは理解できた。だから彼らは持ち回りで時々森を抜け出しては数日掛けて人里近い平原まで行き人間を捕まえて来る。抵抗を砕いて運んだらそれからこの森でゆっくりと壊す。
 彼らはよく知っている。生かさず殺さず壊されていく者が上げる叫びはなんとも愉しく心地よい。どれだけ我慢強くともいつかは泣き叫び、それは我慢が強い獲物ほど滑稽愉快極まりない。我慢強いこの小さな人間も直に楽しい玩具に変わるだろう────。
 悪意で満ちたこの光景をザイシャは覚えていた。今なら思い出せた。あの日も同じだった。平原を歩いていたザイシャは濃い銀灰色の狼たちに襲われた。同じように壊された。
 無用に命を奪わずともいつかは飽きるだろうと待っていれば飽きずに飽きずに壊された。そして遥々この森まで引きずられ、勘弁してくれと願いながら森の奥へと引きずられた。
 ……そのとき記憶が暗転し、意識が途絶えたのだ。そこで何が起こったのだろう。わからない。だが、代わりに一つ思い出すことがあった。
 濃銀灰の王族は獲物の悲鳴を楽しもうとするあまり、魔術師との戦いにおいて最優先で殺すべきものを失念する。
(────そうだ。お前たちは決して声を殺さない!)
 尽きかけた魔力を振り絞り、断末魔のごとく叫ぶ。必ず届くと信じて。
この身は偽りの呪詛にして汝の原初の名を識る者(リフト・リストリクションズ)!! 月雫に連なる偽典が呪わしき飽食の茨に命ず(オール・リミッターズ・オフ)!!」
 あらゆる物質を空間ごと喰らいマテリアルに変換するアンディライリー家の秘奥の一。
 傲慢にも神々を銘に呑み込む限定礼装、人工合成環境エロヒム(Synthetic human-made environment "ELOHIM")────偽典・第四呪詛(SH.ME.EL.)
 そのオリジナルであり使い魔(・・・)である決戦礼装は特別な冠名を戴く。
「『金朱孔"偽典・第四呪詛"(プレグラスタチア・シャムエル)』────起動(アクティ)せよ(ベート)おおおおおおおお!!」
 刹那、厚い岩壁を何かが突き破る。
 声に応えてザイシャのもとに駆け参じる。
 それは茨だ。真っ白な数条の茨だ。長く伸びた茨が"直系"たちの包囲を抜けザイシャの右腕を掴む。その腕に巻いた腕環にしっかりと巻き付く。
 すかさず"直系"がザイシャの腕に噛みついた。獲物を引き助けようとする茨にそうはさせじと腕を食い千切る。
 狼の包囲から茨がすっぽ抜ける。その先端に少女の姿はなく僅かに肉片のこびりついた腕環のみがあった。
 哀れ届いた叫びの残響虚しく少女の身体は未だ狼たちの牙と爪の下に残っている。
 だが、────今となっては肉片一つで十分だ。
 引き抜けた勢いで腕環が宙を飛び、茨に突き破られ開通した岩壁の向こうまで転がった。
 腕環転がる洞穴の奥。そこにあったはずの早贄は既に台座ごと金朱孔に喰われて消滅していた。
 死に続ける身体を絶え間なく蘇らせていた(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)魔術回路は爆発的な出力を一点に絞る。
 壁の大穴その向こうの洞穴。そこへ、切歯の音が盛大に響いた。
 失った力のすべてを取り戻した少女は、激情に震える手で足元の金属鏡を拾い上げ、その瞳に抑えきれぬ赫怒を滲ませる。
「……ふざけてる。こんなのどう考えたって漏出でいいでしょ。アナタの定義はどうなっているの星辰盤」
〈────魔力の漏出は検出できませんでした。検出されたのは原因不明の魔力消費(・・・・)です〉
「私アナタのこと大ッ嫌い」
〈────ストレス値上昇。気分を上向きにする楽しい音楽などいかがでしょうか?〉
「いらない! いつかプレイリストのデータ全部引っこ抜いてやる!」
 忠実な茨は隠密機能つきのローブを生成すると怒れる主人の身体に纏わせ、その後ろ髪に巻き付いて一つにまとめ上げる。そして長い髪のようになった茨は少女の背後に無数の棘を逆立てた。
 押し溜めた息を一つ吐き出し感情を切り替えた少女は凛として壁の外への前進を始めた。その姿を見ていた仔狼が一匹、少女の後をぽてぽてと追いかけだす。
 少女が穴から外に抜け出る。仔狼が続こうとする。すると白き茨が棘のない滑らかな鋼となって立ちはだかり岩肌に出来た穴を元通り埋めた。後には、穴のあった場所を、きょとんと見つめる仔狼だけが残される。
 金朱孔(プレグラスタチア)。それは創造主が製造した原初の偽典・第四呪詛(SH.ME.EL.)
 複製品との最大の差異は、複製の際に取り落とされる意思と知能、そして主人への忠誠を持つこと。一度起動すれば主人の意に沿って自律稼働しその背を守る。
 茨の従者を侍らせた少女は、霞のように消失した獲物に戸惑う濃銀灰の"直系"たちを前に堂々と立ち、彼らを睥睨する。
「私の身体は美味しかったですか? いえいえ怒ってはいませんとも。どうせ死なない身体です。お代を取るともいいません。────ですが」
 腕環を嵌めた右手を真っ直ぐに伸ばす。その手へと茨が一条飛び込み自切した。
 茨を横に振るう。その形が変じ槍となる。
 そして、ザイシャは白き槍の穂先を狼たちに向けた。
「ですが今とても腹立たしいことがあったばかりなんです。ちょっとストレス解消に付き合ってくれますか?」

 返答は逃亡であった。尻尾を巻いた"直系"たちが安全圏へと全速で逃げていき、その途中で一吠えした。
 途端、ザイシャの思考の中に大量の"波"が溢れ出す。感知範囲まで読まれていたのか。その範囲外に待機していたらしき魔狼たちが"直系"の吠え声を合図にザイシャに向けて殺到する。
 波を数える意味はない。なぜなら波の数は切れ間なく増大し波濤のように押し寄せてくるのだから。その第一波は三十秒たらずでザイシャに到達するだろう。いくら金朱孔があってもこの数に組み付かれ噛みつかれては一溜まりもない。
「ならば近づかれる前に減らすだけ」
 槍の形が僅かに変化し、空気が割れそうなほどの魔力が穂先に集中した。魔術回路の上で膨大な魔力が回転し、槍に集まる高密度の魔力を更に高めていく。
 アンディライリー家の魔術は概ね作ることに特化している。それはつまり、魔力とマテリアルさえあれば状況に応じて最適な武器を、礼装を、その場で作り出せるということ。
 もはや詠唱の必要はない。決戦礼装『金朱孔"偽典・第四呪詛"』の起動とは即ち、以後、アンディライリーの魔術師が行う戦闘の全て魔術の全ての"一工程化"を意味している!
 ザイシャが左足を前に出した。その足に茨がぐるぐると巻き付き、先端を地面に深く突き刺す。────固定完了。
 右足は後ろに。左手は前に。腕環をかけて槍持つ右手は頭のずっと後ろのほうに。
 弓のように反り返った身体は、単純かつ効率的な、投擲のスタイル。
 軸足に力がかかり、重心移動を開始。強化魔術により全身に行き渡っていたドーピングの全てが右手の先一点に集約される。
 解放(リリース)。放たれた槍が莫大な推進力を得て飛翔を開始する。
 山を描いて翔ぶ槍は向こうから駆けてくる魔狼の一団の未来位置に猛スピードで下降し始める。そして槍が先頭の一匹の頭蓋を穿った。
 茨は固定を解除しながら次の槍をザイシャに渡す。遠くで、ずん、と沈み込むような音がして何か炸裂した。ザイシャの思考の中の波が十ばかり消滅する。
 ザイシャは再び、魔力を槍に集中させ左足を前に出した。
 投擲。集中。固定。投擲。集中。固定。投擲。集中。固定。
 一投げごとに魔狼の一団が消失する。
 しかしそう何度もは通用しない。四度の炸裂の後に殺到する波はバラバラに分かれて動き始めた。
 学習の早さに舌を巻く。シンプルながら効果的な対策により炸裂槍の効率は早くも地に落ちた。が、それは同時に波濤の強さも失われたということ。
 ならば良い。彼らの連携は分断された。槍を使えなくとも何ら構わないとも。そのための武器を作るだけだ。
「孤立したものから仕留める」
 ザイシャの右手の中で槍が変形し弩の形を取った。すかさず茨が足元の壊れた弩の矢筒から骨の矢の束を抜き出しナイフを拾い上げる。
 弩を左手に持ち替えザイシャはナイフを抜く。茨が矢束の先端を掲げた。ザイシャはそこにべったりナイフの毒を塗りつける。
 ナイフを鞘に戻す。右手に茨が飛び込んだ。ザイシャが二つ目の弩を作る。矢束が二分され左右それぞれの矢筒にセットされる。両の片手で弩を構える。そして二方向に向けて同時に引き金を引いた。
 放たれた骨の矢は高速に回転しながら(・・・・・・)空を裂き、木立の間を直線軌道で正確に抜けて、感知範囲の最外縁にいる二頭の魔狼の心臓を貫いた。
 それは弩の形をしていたが、メカニズムとしてはライフル砲に近いものだ。
 白い金属で作られた弦は難解に稼働し、ライフリングを刻んだ砲身のごとく飛ばす矢弾に回転を加える。矢弾を推進させる力を取り落とさずに。
 専用の工作機械がなければ作れるはずがない、余りにも複雑、かつ、ナノメートル以下の領域に至るまでが精緻に満たされた射出機構。
 そのようなものすら即断即興で造り上げる。創れるのだ。偽典・第四呪詛を手にしたアンディライリーには。
 人工合成環境エロヒム(SH.ME.EL.)。神々を銘に呑む傲慢は、担い手へ神々のごとき創造能力を授け、その細部に神を宿らせるがゆえに────。
 重要臓器の破壊とそれに伴う出血性ショック、及び、全臓器への呪毒の転移により、二つの波が沈黙。
 射出から一秒未満。既に次弾は装填され、既に弩は一点を睨んで、既に引き金は引かれ、既に射出は為されている。そして装填は完了し、遅れて二つが沈黙する。
〈────警告。魔力反応接近。最至近反応。距離五十。四十五。四十────〉
 『星辰盤』がアラートを発する。
 個々に散らばった波の幾つかがザイシャの程近くまで接近していた。しかし迫る波には目をくれず外縁部ばかりを狙って射殺していく。
〈────警告。魔力反応至近。距離三十。二十五。二十────〉
〈わかってる。だけど、これでいい〉
 ザイシャの正面、木立の奥で動く影が見えた。獰猛に唸る魔狼が木陰を飛び出す。二つの弩を明後日の方角に向け続ける少女、その無防備な喉笛向けて牙が奔る。
 が、その奔走は叶わない。
 駆け飛んだ魔狼の身体が宙に固定されていた。
 薄銀灰の毛並みの上を白い茨が巻き付いている。幾条もの茨が魔狼の頸を締め付けている。
 酸素を失った魔狼は頸から下を狂ったように暴れさえ茨に噛みつき爪を刺す。だが白き茨はびくとも揺るがず、やがて魔狼の抵抗が弱まっていき、頸から下がだらりと宙に垂れた。
 一方ザイシャは両手の弩を投げ捨てる。毒を塗った矢弾は三十四本。十秒と足らず撃ちきった。否、"撃ち切ることができた"。
 空になった手にナイフが鞘ごと飛び込んだ。器用にもザイシャは片手で腰に鞘をつけながら、またしてもナイフを抜き放つ。
 茨が、今ほど絞め殺した獲物を主人の前に掲げる。ナイフが魔狼の眼窩に突き立てられた。死体からくり抜いた二つの目玉を左手に収め、納刀。魔力を供給する。
 呪毒を経由し埋め込まれた術式。つながった経路(パス)。それを通じて魔力が流れ込み、目玉のない死体が身動ぎを始めた。
 時、同じくして。外縁部に打たれた三十四の布石が死した身を起こす。そして思考の中で増え続ける波が、不意に、その進行を止めた。三十四頭の不死の使い魔が新たな波へと飛びかかり、その到来を打ち消し始めたのである。
 地に落ちた弩二つを喰らっていた茨が一条、右手に飛び込む。先の弩とは多少構造を違えた新たな弩が形成された。隠蔽礼装を起動。眼球を一つ装填し、ザイシャは目なしの魔狼と共に最短ルートの上を走り出す。
 そう。全てはこの瞬間、この混乱をもたらすため。
 いくら金朱孔があっても押し寄せる魔狼を殺し尽くすのは不可能だ。彼らには圧倒的な物量があり、その備蓄量は不明である。魔力という使い切りの武器で応じればいつかは限界が来る。
 ならば尻尾を巻いた"直系"のように踵を返して逃げ延びるか。それも不可能だ。何処までも追いかけ獲物を押し潰すこの大物量の波濤、決して連れては逃げ切れない。
 ゆえ、案じた。彼ら波濤の構成要素である一滴一滴、これを繋いでいる連携を破壊し、集団戦法が破綻したその隙を縫って追跡を撒く一計を。
 ルート上に二頭の魔狼が立ち塞がる。しかしこれも織り込み済みだ。先行させた目なしが片方に食いつき、弩から放たれた眼球がもう片方を殺す。
 リロードしながら噛み合う二頭の隣を駆け抜ける。眼球を装填。弩の狙いを前方に。ルート上最後の魔狼がザイシャに気づく。既に遅い。眉間を打ち抜き、弩を槍に。跳躍。宙返りしながら槍を投擲。目なしを振り切った魔狼の頭が弾けた。着地してまた走り出す。
 隠密礼装が効いている。背後の魔力反応は全て振り切った。逃走経路に近づく魔狼の反応はない。後は巣に潜入したようにまばらな監視の間を縫っていくだけ。
 静かだった。数分も前には魔力反応の波紋が一秒ごとに煩く増えていたのが嘘だったようだ。殺し殺した物量地獄など存在しなかったように森は静けさで充ちている。
 声を潜め、魔力を潜め、走る少女が目指すのは森の出口────ではない。師が待っているあの家だ。
 ここまでの大虐殺を為し、そればかりか、無尽の食料まで奪い去ったのだ。以前以上の執着をもって狼らはザイシャを付け狙うだろう。
 速やかに森を後にせねばならないが、その前に一目、サレナに会いたかった。会って礼を言いたかった。あなたのおかげで助かったのだと。あなたの教えと魔術が私を救ったのだと。
 ザイシャは走る。一心に走る。誰よりも敬愛する師に、三年を共に過ごした……家族同然の彼女に、せめて別れの言葉を伝えるために。
 夢のような日々の終わりはなんとも静かなものだった。
 とても、とても静かだった。
 ……だが、違う。この静けさの本質は、間違っても寂寥などではない。それはまさしく波押し寄せる凶兆とされる"大引き潮"。
 彼女は間違えた。森から逃げるべきだった。家に帰ろうとするべきではなかったのだ。
 ザイシャの頭のずっと後ろ、そこへ魔力反応を示す静かな波が一つ。
 それが一挙に膨れ上がり、天覆う津波のごとく鳴動する!
〈────警告。魔力反応急速接近。距離三百。二百(・・)(・・)────〉
 ザイシャの身体がゴム毬のように跳ね飛ばされた。轢死。飛翔する死体を叩きつけられた巨木が、少女への衝突に込められた力の残滓のみで、直径1メートルはあろう太い胴回りを半ばから真二つに折った。
 息を吹き返したばかりのザイシャの朧げな視界の中で折れた大樹が不自然に軌道を変えた。頭上から大質量が倒れ込む。圧死。
 倒木の下からなんとか白い茨が這い出した。血溜まりの先頭、倒れ伏した状態で再生した主の裸体へと衣着せるようにローブを生成し、樹下から引っ張り出した腕環と金属鏡を元の位置に収めた。
 瞬く間に二度の死を迎えたザイシャは何が起こったかもわからず、ただ、這いつくばった身体を両腕で起こす。
 そこに、悠々と"それ"が在った。
 銀である。灰が僅かに混じる銀色の狼が佇んでいる。
 サイズは他の狼たちとそう変わらない。銀色に光っている。それだけの違い。
 されど。夜に輝くその銀が、時折シルエットが揺らぐその佇まいが、ただ、ただ恐ろしい。
 銀色の狼の後方から狼たちがわらわら追いついた。いずれも毛並みは濃銀灰。安全を好む彼らが揃ったということは、すなわち、この場が何よりの安全圏ということ。
 ザイシャは直感する。おそらくあの銀色こそ────"先祖返り"だ。
 "先祖返り"を囲んだ濃銀灰たちが勝鬨のように大きく吠える。口々に。絶え間なく。
 あたかも虎の威を借る狐が勝ち誇るような情けなさにも見えるその光景を、しかし、ザイシャはそうと解釈できなかった。
 連想するのは彼女が最初に目覚めた日、万雷の拍手の中央に君臨していた創造主────結社の誰もが恐れていた、怪物。
 工房に戻ろうとした創造主がふと思い出して止めと言うまで手を打ち続けた魔術師たち。称賛を顧みない"先祖返り"を囲み天に向かって必死に吠え続ける濃銀灰たち。二景がザイシャの中で重なり、理解した。
 彼らは勝ち誇っているのではない。"先祖返り"を誰よりも恐れている。逆らえば勝てないことを、決して逃げられないことを知っている。
 ゆえに彼らは"先祖返り"の隣という森の何処よりも危険なこの場に集まり、心にもなく讃えている。
 傅くように怯えるように。地を這う虫が風切る翼から身を隠すように。
 震える青い唇に微笑みを糊塗し、虚勢と卑屈で心を鎧い、どうか目に止まらぬようにと願いへつらい、顔色をうかがっているのだ。
 あの在り方の正しい呼称はなんと言うか。アンディライリーを出奔した今のザイシャなら正解を答えられた。
 あれは────畏怖と呼ぶのだ。

 
 

第三章 先祖返りと月なき夜天と

 恐怖に固まっているザイシャの三メートルほど先から"先祖返り"がゆっくりと歩いてくる。夜に爛々と瞬くその瞳がザイシャの姿を捉えた。
 刹那。"先祖返り"の姿が掻き消えた。何かがザイシャの身体を浮き上がらせる。枝に伸びた茨──決戦礼装『金朱孔"偽典・第四呪詛"』が主人の身体を引き上げていた。固い土が瀑布のように舞い、散り落ちる。
 ザイシャが我に返る。噴き上がる土の中心に在った魔力反応の巨大な波、それが静まっていた。さっきまでザイシャがいた場所に"先祖返り"が座っていた。
 優美に座るその足元では、巨人が作った熊手を引いたような、余りにも深い(・・)四条の切創が大地を抉り、傷口の周囲の土を吹き飛ばしていた。
 "先祖返り"がゆるゆると辺りを見回し枝に引っかかっているザイシャを見付けた。再び"先祖返り"が跳んだ。だが構えるほうが早い。
 ザイシャは"先祖返り"の跳躍と同時にナイフを抜いていた。迎え撃つように前に構える。
 呪毒を塗ったこのナイフはかつて師から贈られたもの。五百年ものの神秘が籠もったこの業物は、濃銀灰の"直系"の毛皮すら紙のように裂く特級品の切れ味だ。飛び込んでくれるなら好都合。刺し穿ち、サレナ謹製の呪毒を叩き込む。
 そのときだった。ザイシャは観察するような視線をどこからか感じた。────誰の? わからない。高速で迫る狼の"シルエットが揺らぐ"。
 衝撃。
 激突の後には、腹を大きく裂かれて、心肺の他の内臓がない腹の中を曝け出すザイシャのみが残された。
 茨に吊るされているその身を割るのは真一文字の傷。この切創は爪によるものではない。────ザイシャの手から奪われたナイフだ。
 "先祖返り"は、腰骨から胸部まで届く裂傷の最後尾にナイフを深く突き刺されているザイシャを見上げた。
(────なんだ、この魔狼は?)
 魔性の血に目覚めた、とはいうが、これが、狼か? 魔獣にできる芸当か?
 目の前の狼から感じる魔力反応は大波。されど、先程の大海嘯のごときそれと比べ物にならないくらい小さい。またもや不可解。
 少しでも判断材料を多く得るために、ザイシャは鋭く命令を飛ばす。
〈星辰盤! リミッター・オフ! 対象を限定解析!〉
〈────巨大魔力反応。一。解析開始────"解析不能(エラー)"。解析対象との間に、障害物等ございませんか、今一度ご確認ください〉
 ただでも混乱続きだったザイシャの思考がさらなる当惑に覆われていく。
 当然のように狼との間に障害物は存在しない。そもそも魔力反応を探知できる条件下なら解析も通るはずだ。それとも目に見えない魔力の岩壁が狼の周りに分厚く聳えているとでも?
 そんな想像が浮かんだ瞬間、ザイシャの表情が、凝固した。
 ……いや、違う。そうではない。狼ではない(・・・・・・)のだ。魔術師としての知識が否定する。否定と共にドッと悪寒が吹き出す。
 彼女が表情を固くする間も、不死はみるみる傷を再生させていた。
 生命維持を臓腑に依存しないザイシャの身体は呪毒をものともしない。
 胸を深く刺した瞬間、心臓抉る動作を付与され、その勢いで圧し折れてしまっていたナイフが、ぐ、ぐ、と再生に押し出され、ついにザイシャの身体から抜け落ちた。下草に落ちたナイフの柄が軽い物音を立てる。
 それを見ていた"先祖返り"は人間のように溜息をついた。"(これ)でも効かないのか"とでも言いたそうな気怠さで。
 あの観察するような視線。ザイシャがナイフを構えた直後に感じた視線、その主が誰かを彼女は理解した。
 初めに轢殺。次に圧殺。それから斬殺と刺殺と呪毒殺。仮に、不死の性質を量っていたとしたら────。
 そうとも。魔術師であるザイシャは"先祖返り"の正体を知っている。なにが狼か。なにが魔か。あの知恵と()、到底そんな枠に収まりはしない。
(あれは、根本から存在を違えるもの。────人狼(・・)だ。それも最高位である銀!)
 ────人狼。
 森の人とも呼ばれる幻想種。吸血鬼より遥かに古い起源をもつ、人語を解する獣。
 一般にそのランクは魔獣相当とされるが"目に見えてわかる例外"が一つ。
 それは────銀色。人狼の社会においての最高位の血統を示す月光のごとき銀色の毛並み。
 魔の位階を遥か踏み越え幻獣の域まで達した、月光纏いの大例外────"銀狼"。
 ザイシャの目の前に在るのは確かに、人の手で負える限界の先に立つ、血統書付きの幻想種であった。
 しかし余りにも簡潔でわかりやすい()の特徴。
 にも関わらず、思い至るまで遅れたのも、その正体に勘付かせたのと同じく、ザイシャの魔術師としての知識ゆえに。
(なぜ現代にこんなものが?! ここ数百年での話なんかじゃない、とっくの昔にこのクラスの幻想種は世界を離れて銀狼の血は途絶えているはず!)
 伝説、伝承、神話に描かれる生物。幻想の中にのみ生きるモノ、幻想種。
 大原則として、神秘はより強い神秘に打ち消される。神秘そのものである彼らは、長大なその寿命により、神秘を蓄え、強めていく。
 ゆえに長く生きた幻想種はそこにただ在るだけで魔術を凌駕する。星辰盤の解析が失敗したのもその一例。纏う神秘に阻害され、解析が通らなかったのだ。
 だが、強大な力の代償として、彼らは神秘の薄い現代では生きられない。今の、この世に残っているのは、せいぜいが最下位階の「魔獣」ランク。
 高ランクの幻想種は神代の終焉と共にこの世を去り、世界の裏へと旅立った。幻獣である銀狼も、その血脈を既に枯らしていた。
 いるはずがなかった。存在するはずがないのだ。
(────まさか)
 が、ザイシャの脳裏に走るはサレナの使った呼称。彼女はあの銀狼をなんと呼んだか。
ただの人狼から先祖返りした(・・・・・・・・・・・・・)とでも言うの?! そんな馬鹿げた話がある?!」
 ────その銀は綿々と継がれる貴き血統の先に滴り落ちた色ではなかった。
 未開の森の奥に隠れ潜んだ、灰色毛をした人狼一頭。その仔こそ"先祖返り"である。
 毛並みが違う母親は世界の裏へ行く術を知らなかった。
 銀の毛並みと赤き紋様を生まれ持つ仔には世界の裏を目指す危急がなかった。
 ゆえにそれから七百年。未開の森を未開に保ちながら"先祖返り"はこの世に在る────。
 "先祖返り"が走り出す。その駆足は弩の矢弾よりも遥かに速い。まず間違いなく直線軌道による遠距離攻撃は意味をなさないだろう。
 なぜなら銀狼は、構えられたナイフを見てから奪い取った。つまりその動体視力と神速は"飛んでくる矢を見て、行動を変えられる"。
 ザイシャは左手に取っていた槍に魔力を集中する。魔狼の大群に向け四度放った炸裂槍だ。
 既に銀狼はすぐ目の前に迫っている。固定も投擲も間に合わない。だが、
(この槍は、最初から投げる気なんか、ない────!)
 槍が炸裂した。ザイシャの手の中で(・・・・・・・・・)
 指向性を付与しておいた炸裂が、ザイシャの左腕の手首から先を消し飛ばしながら、"先祖返り"を正面から迎え撃つ。
 反動でザイシャの軽い身体が後方に大きく投げ出された。直後、長短二本の茨が木を掴み、運動を円軌道に変換。角度調整用の短い茨を切断。同時に波を探る。炸裂で舞う土煙の中の魔力反応は、読み通り、ザイシャが後ろに飛んだ場合の未来位置を追って走った。おそらく、無傷。
 だがそれも読み通りだ。この炸裂は距離を取るための行動。だから左手を犠牲にした。茨に繋がれ空中ブランコのように高速でスイングするザイシャの右手の中には槍が形成されていた。スイングによる遠心力と速度を借り、本来の落下点に向けて、槍を投擲する。
 槍が飛翔する。湿り気のある冷たい土煙が早くも収まっていた。やはり"先祖返り"は無傷。落下するザイシャの姿がないと気づいた"先祖返り"が風切り音の接近を聞きつける。"先祖返り"が槍を見た。だが避けない。なぜならその炸裂を"先祖返り"は既に浴びた。────読み通り。
(効くはずがない。ならば避けずに受ける。────"補食"を)
 補食。それは『偽典・第四呪詛』(SH.ME.EL.)という特殊合金自体に備えられた元に戻ろうとする(・・・・・・・・)性質。
 『偽典・第四呪詛』は造られた時の形を記憶する。そして、その形が破損・変形した場合には、周囲の空間を削り取って魔力に変換し、自己復元を行う。これが、補食である。
 本来、変形は相克する概念。原初の『偽典・第四呪詛』である金朱孔や、ザイシャが『偽典・第四呪詛』から造る礼装は、内部記憶を書き換える工程を挟むことによって変形を可能にしたに過ぎない。
 つまり、この書き換えの工程を挟まずして、『偽典・第四呪詛』の形を歪めることはすなわち、補食の発動を意味していた。
 そして補食による空間掘削には、ある特異性があった。────空間自体に干渉するため物理的防御、魔術的防御を貫通するのである。
 戦闘の中でこの特異性を活かせるサイズ・形状の『偽典・第四呪詛』を持ち歩くのは難しい。だが、その大きさ、その形を自在に変形できるアンディライリーならば────。
 創造主たるアンディライリー家当主。彼は千年以上前に死徒を鋳溶かしてこの合金を作ったというが、果たして何に、鋳溶かしたか。ザイシャに知れぬが、一つ、確信することがある。
(たとえ、金朱孔から作った私の礼装が通用しないとしても、金朱孔の分け木による補食そのものは通用するはずだ!)
 最初の炸裂が効かぬことなど重々承知。あれは炸裂させるに意義があった。────布石。
 脅威ではないと知った。傷つけられぬものと知った。ならば避けない。見て(・・)行動を変えない(・・・・・・・)。即ち布石の発動は直線軌道を必中へと変える魔弾付与の策。
 たった今、投じた炸裂槍。そこに、ザイシャが付与したもう一つの顔とは、遠隔起動の変形術式によりターゲットを補食する絶死。コード・ブラインドアース。護りの誓いを貫き不死さえ穿つ厄災の一矢────!
 至近にまで届いた穂先の奥、"先祖返り"はその目で、宙に飛んでいたザイシャを見つけた。ザイシャを凝視する。その足に力が掛かった。しかし遅い。そこは既に補食の範囲内。神速の足とて一工程による発動から逃げ出すこと能わず。
 ────が、"先祖返り"が足を駆動させたのは、ザイシャを狙うためでも、回避するためでもなかった。
 銀狼が、鼻の先にある槍の穂先を、見た。
 そして、飛来する槍を(・・・・・・)咬んだ(・・・)
(────────?)
 不可解な行動だった。されど好機。槍は今、零距離にある。
 結ばれた経路(パス)を通り、銀狼が咥えた槍に魔力が流された。たちまち補食の呼び水となる変形術式が────起動、しない。
(────────不発?!)
 槍を吐き捨てた銀狼がザイシャを見た。
 原因究明の時間はない。右手に作っていた備え(・・)に魔力が通る。槍が当たろうと、当たるまいと、これを大地に向けるのは、初めから決めていた。
 その手に構えるのは、銃。白い拳銃。姿勢制御の不自由な空中、どころか、地上での遠距離狙撃にも向かない、真っ白なマカロフPM。
 ターゲットがどの向きに跳ぶか、その起こりすら見えぬこの一瞬に、ザイシャは確固たる的中の意図をもって9✕18mmの"白い弾丸"を放った。
 銀狼が大きく横に跳んだ。そして再び跳ぶ、ザイシャを目掛けて。未だ銃口の数十センチ先にある、放たれたばかりの白い弾丸の軌道は、到底、銀の跳躍を撃ち抜けるものではない。────このままであれば。
 弾頭が、割れた(・・・)
 中から現れたのは白い子弾。その子弾が六方に撒き散りながら飛翔する。仕込まれた術式によって親弾と同じ構造に(・・・・・・・・)変形、膨張しながら。
 ────三層型SH.ME.EL.収束散弾。通称、消却砲。
 クラスター爆弾のように、二段階に渡って弾頭を分裂、拡散、及び再構築し、爆発的クローニングを遂げた『偽典・第四呪詛』製弾頭による制圧と一斉補食により、拡散範囲内を空間ごと消し去る特殊弾である。
 これが、ザイシャの切り札であり、彼女自身が考案した、正真正銘の最大火力。
 今の今まで、彼女が消却砲を温存し、死に札としたのにも無論、理由がある。
 確かに、目に見える全てを捕食する消却砲の破壊力は折り紙付き。だが、裏を返せば、破壊力が高すぎた。消却砲は、下手に放てば術者をも消し去る。
 消却砲の拡散範囲は、風量、風向、温度、湿度、重力、経緯度、加速量、ライフリングの長さ、手のブレ、空気抵抗、その他諸々の無数の要素で容易に変化した。
 孫弾の補食発動はマニュアル制御でコントロールできるものでなく、ゆえに時限起動、一度放てば術者にも補食は止められない。
 複雑に拡散範囲が変化し、そこに侵入すれば射手自身も補食対象と化す。そも、五体満足で放とうと言うのがナンセンス、そういう欠陥弾頭だ。
 ザイシャはその身に宿す礼装『雁来紅"偽典・第三呪詛"(アマランサス・ヴォズレッシャーツァ)』から不死を得ており、細胞の一片でも残れば蘇生可能である。それでも消却砲は迂闊に切れなかった。撃ち方を誤れば彼女を一片残さず消し飛ばすのだから。
 課された多くの制約をクリアし、消却砲の発射が可能になる一点、それこそが、ここ、茨によるスイング運動の最頂点だった。
 少女の身体がスイングの頂点を超え、更に15°の傾斜が加算されるのと同時に、茨が、木を掴む枝を自切した。ザイシャの身体は放り出され、消却砲の拡散範囲からの速やかな離脱を行う。
 宙を跳び往く"先祖返り"の目が彼女を追った。消却範囲から離れていくザイシャの瞳を、月下に輝くその両目で、見る。否、覗く。そして"先祖返り"は、────なぜか、人間のように目を見張った。
 風は凪いでいた。銀狼が何を考えたか、それはザイシャに伺い知れない。が、それでも良い。問題はない。
 空中に投射された物体のベクトルと速度は、投射の時点で入力、決定される。
 いかな銀狼の神速でも空間が蹴れぬものである以上は方向転換も移動も出来ない。
 あの場所は既に消却圏内にあり、二度目の不発の奇跡が訪れようと、銀狼を圏内に収める残り十九発にまで偶然の手は届かない。回避は絶対に不可能だ。…………そのはずだった。
 彼女は、一つ読み違えていた。
 二本目の炸裂槍、あれをザイシャが投げたとき、確かに銀狼は動かなかった。確かに無傷を確信していた。だがそれは纏う神秘への自信からではなかった。
 避けなかったのではない。待っていたのだ。銀狼が絶対の信を置く"牙"が、飛翔する槍にまで届くときを────!
 ザイシャの思考の中で、魔力反応の波が大海嘯のごとく膨れ上がる。
 宙を跳ぶ銀狼が、翔けた(・・・)
 秒速百メートルの神速はジェット噴射のように魔力を放射しながら、稲妻のような軌道で、今にも補食を始めようとしていた消却砲の孫弾を次々と咬む(・・)
 計三十六個の孫弾すべてに牙がかかり、計三十六個の孫弾すべてが変容を停止させた。
 またしても不発か。またしても奇跡か。
 否。銀狼の牙が咬み、変形術式が沈黙した。それが三十七度起こったのなら偶然であるはずがない。
 槍の不発の瞬間に浮かび、そして振り払った杞憂が、最も恐れていた仮説が、放物線を描いて落下するザイシャの脳裏に、強烈な確信を伴って再浮上した。
("先祖返り"の牙は────破壊する、魔術式を)
 世界にどこかに在るという太陽のごとき狼、彼は蓄積した神秘の重たさのみで、あらゆる魔術を食い破るらしい。
 七百年しか生きていない"先祖返り"に、そんな芸当は不可能だ。代わりに、この銀狼は、式を砕くことに特化した牙を持っていた。
 ────『神代回帰・隔世』
 果たしてこの赤き紋様の力が神代回帰なのか、そして、自身が人狼なのかすらも、狼にはわからなかった。
 産まれるより先に紋様があり、産み落とされる以前の回帰の結果、狼は血脈絶えた銀輝を蘇らせたのだから。
 確かなことは一つ。かの狼が宿す異形の紋様は、西暦以前の人と狼を編成し、肉体の裡に神代の奇跡を具現する。
 無論、奇跡すべてを具現はできない。身に蓄積する神秘の護りなど到底再現不可能だ。仮に分け木の補食を受けたとすれば、命も危うかろう。
 されど、補食は不発し、届かないのだ。その牙に籠もるもの、西暦以降の魔術の式をただの一咬みで砕く奇跡ゆえに。

 消却砲を撃った後も銃を構えていたのが幸いだった。銀狼は二発目を警戒し、魔力放出では追ってこなかった。
 木立をすり抜けるように走るザイシャの表情は苦渋に満ちている。圧倒的不利。頭にはその五字が浮かんでいた。
 魔力だけなら、おそらく匹敵できる。力量差は手札の無尽で誤魔化せる。されど、銀狼の足元にも及ばぬもの二つ。膂力(フィジカル)重量(ウェイト)である。
 膂力は筋断面積に比例し、筋断面積は体躯に比例する。重量の条件はいうに及ばず。ザイシャの身長は九十八センチ足らず。体重は十キロ前後。白兵戦闘の間合い(インレンジ)において、彼女は絶対的なハンディキャップを負っている。
 槍を始めとする長柄は魔術の杖の役目を兼ね、ゆえに、自ら武器を振るうアンディライリーの魔術師は、長柄の遠近での扱いにも習熟している。
 そのアンディライリーでありながら、ザイシャは常に遠距離(ロングレンジ)で戦った。なぜか。
 強化魔術に加え、姿勢制御その他を複雑に併用しなければ、ザイシャの膂力では有効打を与えにくいからだ。更に重量が足りないため、武器を持っていても、ザイシャは相手の攻撃を不死と金朱孔以外で受けきれない。金朱孔で受け止められない攻撃は、捌くことすら困難である。
 変形術式を砕いたあの牙。あれが、あらゆる魔術式を砕くものであれば、ザイシャの不死を担保する『雁来紅"偽典・第三呪詛"』すらも砕き得る。
 すなわち検証のリスクを取ることすら容認不可能。白兵戦闘の間合いを許す愚行は、彼女を速やかに死に至らしめると捉えるべきだ。
 もしも、魔力放出の神速で、至近距離に張り付かれれば、ザイシャに勝ち目はないだろう。
 唯一の救いは、銀狼は狭所での戦闘で、行動を制限されている可能性が高いことだ。
 魔力放出の最初の発動は、ザイシャを轢殺したとき。あのとき、魔力反応は後方から、真っ直ぐ(・・・・)ザイシャに進んでいた。
 次に、消却砲を不発させたときの発動。銀狼は、無駄の多い、稲妻のような軌道で移動を繰り返した。
 察するに、魔力放出での移動は融通が利かないのだ。より具体的に言えば、"直線移動しかできない"。
 はじめ、木立の間で使わなかったのも、あの場が木々の立ち並んだ狭所であり、地上では衝突による自滅の危険があったからに違いない。
 逆に、銀狼の魔力放出は、拓けた場所や、空中では、三十六の孫弾を一瞬にして咬み殺した時のように、存分にその力を発揮するはず。
 倒木による圧死を迎えたとき、倒れる木は、不自然に軌道を変えた。あれも、銀狼が宙に跳んで、蹴り飛ばしたのだろう。
 だから、障害物が多くても加速の終了点さえ安全であれば、魔力放出を使うと考えるべきだ。待ち受けるなら背の高い木や岩盤等を背にする形が望ましい。
 もう一つ。魔狼たちが使う、魔術回路の循環音から位置を探る能力を、おそらく、銀狼は持っていないか、或いは失っている。
 銀狼は動体視力に優れているが、他は鈍い。ザイシャを探すとき、銀狼は常に視覚を頼り、視覚妨害の影響も受けていた。
 そして、炸裂槍の後、空中にいたザイシャが攻撃を受けなかったのは、土煙で姿を見失った後、立て続けに仕掛けたからだ。
 炸裂が離脱のためと察し、正体不明の攻撃を受けた銀狼は、まず見に入り、出方を伺った。よって魔力放出を使わなかった。
 不明であった攻撃の正体を垣間見た今、銀狼は守勢に入るまい。空中機動は、もう、通用しないと見てよいだろう。
 つまり。障害物を背にした狭所での地上戦で魔力放出を封じ、何らかの視覚妨害を行い隙を作る。これが"先祖返り"を迎え撃つ前提条件となる。
 だが、同時にそれは、ザイシャの退路を封じられることでもあり、また、消却砲を使用できないことまでをも意味していた。
(どうすればいい。消却砲でなければ隙を作っても補食は当たらない。かといって離脱の効かない狭所で消却砲を撃てば私も巻き添えだ。どうすれば両立できる)
 走る足は休めずも、ザイシャは左手でガシガシと頭をかきむしる。
 魔力反応は着実に距離を保っている。アップダウンの激しいルートを選んで、魔力放出移動は防げているが、基本的な走破・走行能力では銀狼が遥か上を行く。
 遠く伸長した茨で三メートル超の断層を飛び越す。この場はザイシャが長年狼を殺し歩いた"狩り場"。土地勘と茨での加速で今は銀狼の足に拮抗できている。
 しかしこのままザイシャが走り行けば、在るのは森の三方を塞ぐ崖、指先どころか茨の先すら掛からぬ滑らか極まりなき一枚板。
 彼女の逃走を立ち阻む絶壁は、既に、木々の間に垣間見える二百メートル先の天空へと、高く聳えたその山肌を泰然自若と覗かせていた。
 今から、回れ右して森から逃げるという選択肢は、ザイシャにない。追いつかれた場合、拓けた外では魔力放出移動の好い餌食だ。
 仮に銀狼を撒けたとしても、ザイシャは三年以上ここで過ごした。なら、何も知らない師が帰りを待つ"あの家"は真っ先に疑われる。逃げればサレナが巻き込まれる(・・・・・・・・・・)
 逃げ場はない。迎撃に失敗すれば圧倒的不利の白兵戦に入らざるを得ない。
 距離を取れるのはきっと今回が最後。同じ手はもう通用しない。次で、決めねばならない。
 だからこそ、追いつかれる前に策を講じなければ。"あっちが立てばこちらが立たず"ではダメだ。前提条件と消却砲を両立させなければならないのだ。
(────待て。両立?)
 頭をかきむしる手が、止まる。その語に何か引っかかりを覚えた。
 足が止まる。ザイシャの頭の中では魔力反応が距離を縮め続け、焦りのノイズが忙しなく波打っていた。だが、その焦りすら思考から追い出し、脳を動かすことだけに意識を注ぐ。
 よく思い出せ。見たはずだ。考えろ。自分は何を思い出しかけた。そして、────目に焼き付いていた記憶が一つ、鮮明に思い浮かんだ。
 何かを掴んだザイシャがハッと瞠目した。頭に置いていた左手が顎に添えられる。
(できる、これなら。この条件(・・)であれば両立ができる……でも、可能なの……?)
 そう、できる。
 両立は、できる。
 問題となるのは、その条件の達成が、可能であるかどうか。
 が、ザイシャは迷いを振り払うように首を振り、毅然と踵を返した。
「…………理屈は、まるでわからない。偶然の出来事だろうと思う。それでも、奇跡みたいな偶然だとしても、確かに一度は起こった。私に、できた」
 少女が、顔をあげる。
 強い意思を宿した赤い瞳が、月光を受けて、燃えていた。
「だったら、────再現もできるはずだ」

 空は、満天の星月夜であった。
 輝き満つる夜天より、俄に、厚いレースのような銀光が垂れ、森を煌々と覆い尽くす。
 スポットライトの中央で、雄大に切り立っている一枚崖は、これまでの悠久の歴史の中でそうしたように、巌しき威容を遥か、佇ませる。
 その膝下で鬱蒼と茂る木々たちが、ざわりと、ひとつ、風に身を揺らした。
 崖を背にする少女は、月下に構えた槍を堅く握る。
 魔力反応を示す大波が、もう、すぐそこまで近づいていた。
(来る────!)
 六十秒に満たぬこの僅かな猶予、紙一重であったが、なんとか仕込みは完遂された。
 あちらも待ち伏せを気取ったはず。ゆえに戦いは一瞬で決まる。ザイシャの用意と銀狼の機転、どちらが敵手を凌駕するか、その一点にて雌雄が決す。
 木立の奥に銀の輝きが灯る。刹那。ザイシャの魔力が経路(パス)を伝い、木々の枝先に仕込んだ『偽典・第四呪詛』を起動させた。
(第一段階、クリア)
 展開した『偽典・第四呪詛』は薄い布のように変形し、駆ける銀狼の目前に白幕を下ろす。
 銀狼の前足に力がかかる。跳躍。銀狼の身体が弾丸のように飛翔し、その牙が、ひと繋ぎの緞帳を中央から食い破った。
(第二段階、クリア)
 食い破られた緞帳の裏には銀狼を狙う槍の穂先があった。置かれるように投げられた白き炸裂槍に魔力が走り、変形術式を起動しようとする。
 が、この程度の小細工を予測できない銀狼ではない。咬み閉じたおとがいは既に開かれ、槍に咬み付き、術式を破断する。
(第三段階、クリア)
 少女の手には銃があった。投擲と同時に左手で抜き放った拳銃は、制空圏補食の凶弾放つ、白きマカロフPM。
 槍を止めた銀狼へ向け、今一度、三十六発の死を齎すべく、その両手が銃を構え────だが、
 それすら銀狼は予期していた。またしてもザイシャの思考内に大波濤が現れる。捨て身の加速か? 否、否。そうではない。
 銀狼は、上空向けて跳んだ(・・・・・・・・)。あたかもロケットが飛び立つように、爆撃のごとき魔力の放出と同時に、銀輝が天高く翔け昇る。
 そして加速の終了点にて銀の閃光は角度を変え、一転、地上を目掛けて落下した。狙うは地上の少女。及びその手に持つ砲の阻止。
 少女は反応できない。照準を修正できない。銀狼の爪が軟らかな喉を裂き、後ろ髪と茨をも諸共、彼女の首を断ち切った。刑死。
 しかしその身は礼装『雁来紅"偽典・第三呪詛"』。万雷の拍手の中央に千年をゆうに佇む怪物が御手から創造した不死の檻なれば。
 首を刎ねた、それがどうした。たかがこの程度で呪わしき不死は止まらない。爪が通過した端から、たちまち肉体は再生し、再び少女は稼働する。
 されど、たとえ再生に割いた時が須臾であろうと、須臾の神経伝達の遅れであろうと、眼前に在りしは神速の狼、すなわち絶死の隙である。
 少女の不死が魔術的なものと既に類推していた銀狼は、傷を塞いだ喉笛向けて大きく顎を開いていた。魔術式を破壊するその牙が、細い首を、咬んだ。
 持ち上がろうとした手がぐたりと落ちる。宿す術式を咬み砕かれ、糸が切れた人形のように、少女の身体が静止した────。
(────かかった!)
 使役魔術の停止(・・・・・・・)と同時に二つの影が飛び出した(・・・・・・・・・・)。影が向けるは白き二丁拳銃。揃いの白き消却砲。
 下草の陰より現れし二つの影は揃いの白き髪と赤き瞳を月下に煌めかせていた。右手の腕環と背後の茨が、瓜二つの輪郭で静止する。
 影の姿を認めたとき、はじめて、銀狼は驚愕に身を竦ませた。そこには二人の少女がいた。二人の"ザイシャ"がいた。
 ────両立。
 その語からザイシャが思い出したのは、仔狼らに貪られていた、もう一人の自分の死体。
 如何な理屈かはわからなかったが、ザイシャと死体は魔力を共有し、不死を分け合っていた。
 あのとき、ザイシャが忘我に浸る間も、杓子定規な星辰盤は動じず死体を解析し、詳細なパラメータを記録していた。
 このデータを基にして同現象を意図的に引き起こし、再生という絶対的な特徴(カラー)をもつ囮を用いて誘引、消却砲の成立条件を強制的に満たす。
 これが、ザイシャの頭に浮かんだ、天啓的な両立策の正体である。
 無論、問題となるのは、あの現象を用いても、肉体を駆動させる精神までは分割不可能なこと。だからこそ貪られる死体は不死ながらにして死体であった。
 が、それが死体であるのならば。ナイフの鞘に残った呪毒を塗り込めば死霊魔術で使役できる(・・・・・・・・・・)
 ……難しいことは一つもない。策自体は単純極まりなく、魔狼との戦いで用いた数々の手段の延長でしかなかった。
 それでも、手段を延長させるのが、常識を外れた発想の飛躍ゆえに、必ず、銀狼は絡め取られる。確信し、そして今、策は成った。
(現象を再現できた身体は、たった今壊された一つだけ。魔力を注げるのは私が手に持った消却砲のみ。でも問題ない。"先祖返り"は魔力の流れを感知できない。見分けをつけられない(・・・・・・・・・・)
 二丁拳銃の片方は、確保していた射線を通り、もう一人のザイシャを互いに狙う。あたかもチェス盤上のルークが互いを護り敵陣を睨む、その様のように。
 銀狼は『偽典・第四呪詛』の補食が自身を殺せると直感していたようだった。だが『偽典・第四呪詛』の性質まではきっと把握していない。
 でなければ孫弾すべてを落とすはずがない。銀狼を消却圏内に収めていたのは二十発。しかし止めたのは三十六発すべて。
 空砲を持ったザイシャを逃がしたのもそうだ。銀狼は『偽典・第四呪詛』の脅威を理解していたが、その作動の詳細は知らず、全てを警戒するしかなかったのだ。
 ゆえに二人のザイシャが構える二丁の銃口は、虚を孕んだ二重仮想十字砲火。銀狼がどちらを襲おうとも対処すべき脅威が放たれる。
 しかして後は丁半博打。銀狼が無力化に走るのは本物か、偽物か。
 一瞬の視線の交錯。銀狼が二人の少女を交互に見た。二者が同時に引き金を引き、合わせ、銀狼が魔力放出で一方に跳ぶ。銀狼が狙ったのは────あろうことか本物のザイシャ!
「────────ッ」
 賭けには敗けた。すれ違いざま弾丸を咬み、喉首を狙い銀狼が奔る。その奔走を、殺意を、押し止める術はもはや無い。────が、しかし。
(丁半博打はダメでも、こっちの賭けは勝ちだ────!)
 ザイシャが喉を咬まれたその瞬間。銀狼の遥か後方にて、喉を割いた際に飛び散った血から(・・・・・・・・・・・・・・・)裸の少女が再生される。
 そう。銃口向ける二人のザイシャは、本物、偽物、両方が囮。
 魔術式を一咬みで砕くその牙は、阻止すべき補食の見分けがつかない。
(────ならば選ぶ。丁半博打に乗る。第三の消却砲(・・・・・・)の射程に身を曝す)
 銀狼は不死の破壊を優先し、消却砲と星辰盤を捨て置いた。故に、"それ"に腕を通しさえすれば、ただの一工程にて破壊の散弾は顕現する。
 右腕の礼装を通じて拳銃に魔力が流される。引いた銃爪に押し出され、銀狼を背後から消し飛ばす最後の消却砲が今!
〈SCS再稼働! 消却砲、放て!〉
 今、…………放たれる、そのはずであった。
〈────申し訳ありません雁来紅様。アクセスコードを確認できませんでした(・・・・・・・・・・・・・・・・・・)。偽典・第四呪詛はアンディリーの魔術師のために解放されております。雁来紅様に権限はございません。どうかご了承ください〉
「────────」
 決戦礼装『金朱孔"偽典・第四呪詛"(プレグラスタチア・シャムエル)』。
 この起動とは即ち、以後、アンディライリーの魔術師が行う戦闘の全て魔術の全ての"一工程化"を意味し、それは劣化コピーの『偽典・第四呪詛』でも同じことだ。
 だがここで一つ問う。"アンディライリーの魔術師"の定義とはなんだ?
 様々な定義があるだろう。
 一口に答えられぬ要件もあるだろう。
 が、『"偽典・第四呪詛"管制術式(SCS)』内に定義される要件は、この上なくシンプルだ。
 "アンディライリー家の刻印を、所持していること"。
 ────代替刻印『導手(ギッド)』。
 生家から持ち出した礼装の一つ。腕環型のこの礼装は、生まれたその日に父たる創造主から授かった力。
 『金朱孔"偽典・第四呪詛"』と二つ揃えば、創造主に匹敵する魔術を行使できる、もう一つの決戦礼装。
 刻印を持たぬ者にも『偽典・第四呪詛』を一工程で管制する権限を与える、その『導手』が、────内包する魔術式を砕かれていた。
 ザイシャは常に、右手で武器を構築した。
 『導手』を経由して『偽典・第四呪詛』に魔力を通さなければ管制術式を起動できなかったからだ。
 『導手』を手に入れ、SCSの修復を行った途端、魔狼の巣に殴り込んだのも、金朱孔さえ奪還すれば蹴散らせる自信があったため。
 しかし、余りにも露骨な右手への集中を、あからさまに右手を庇うのを、銀狼の目は逃さなかった。そこで、念のために咬んでおいた。
 対処すべき補食の見分けはまるでつかずとも、銀狼は、その直感的な備えの丁半博打にさえ勝てばよかったのだ。
 消却砲の真贋など捨て置いてよかった。山を背にした囮の少女の腕環が、果たして、本物か、偽物か、その賭けにさえ勝てるのなら。
 凍り付いたようにザイシャは身動きを止めている。その様子から、備えが憂いを払ったと知った銀狼が、彼女を狙い、再び駆け出した。
 茨の助けはない。他の身体ごと消却する前提のこの作戦、三人の彼女の髪を結んだのはワンオフの金朱孔ではなく、形状を模しただけの模造品。
 波濤のような魔狼の大群に、凛として立ち向かった魔術師の姿は、もうどこにもなかった。
 この場に残るのは、魔術を失った裸の少女と、杓子定規な金属鏡と、意思も知能も忠誠もない『偽典・第四呪詛』のみ。
〈────お暇であれば楽しい音楽などいかがでしょうか?〉
 沈黙した彼女に対し、星辰盤が機械的に尋ねた。
 いらない、と、いつものように答えることも出来ず。少女はただ呆然として、走りくる牙を待つ。
 銀狼のもう数歩で少女の首へ魔術式殺しの牙が届こうとしている。それでも少女は身動ぎもせず、ただ力なく座り込んでいた。
 ────刹那。
 声なきザイシャの前に何かが駆け参じる。嗚呼、その姿とは。
 茨だ。真っ白な数条の茨だ。"この場から離れるように言いつけたはずの"あの茨だ。
「────ダメ! 金朱孔!」
 瞳に戻り灯った自意識が、喉から悲痛な叫びをあげる。
 だが、もう遅い。
(────────あ)
 主人を庇った忠実な茨。
 それは、誰も尋ねてこない寂しい部屋で、涙堪えるザイシャと一緒に居てくれた、世界にたった一体の使い魔。
 生き別れ、森へと攫われる道中で抵抗しなかったのを悔やみ続け、何十年かかろうと必ず探し出すと決めた、たった一人の"家族"。
 黒檀の髪留めの中央に収まる正方形のそのコアを、銀狼の牙が、咬んだ────。

「あ、あ、ああ、ああああああああああああああああああ」
 ザイシャは慟哭する。銀狼の姿も目に入らず、破壊された金朱孔を抱え、ボロボロと涙をこぼし続ける。
 月には雲が掛かろうとしていた。少女が戦意を失ったからだろうか。銀狼はなぜかトドメを刺さず、静かに佇んでいる。
 俄に、慌ただしさが近づいてくる。血族である薄銀灰たちと、子分の灰狼を大勢引き連れ、濃銀灰の"直系"たちが群長のもとに参じたのだ。
 濃銀灰たちは群長を讃えるように吠え始める。銀狼はそれを顧みない。興味もなさそうに佇み続ける。
 配下の魔狼たちが自失したザイシャに群がる。そして、あちこちに噛みついて引きずり始めた。
 この無くならない食べ物は群れの共有財産である。
 ゆえに、群れの本当の支配者である濃銀灰が独占する所有物であり、その血族である薄銀灰たちが好きにしていい玩具だ。巣に持ち帰らなければならない。
 月が雲に隠れた。銀狼は何をも顧みず、そこに佇んだまま。ただ、悲しそうに目を細めて、夜天を仰いでいた。
 ────闇のごとき黒が、世界を覆う。
 ザイシャを引きずっている狼たちが急に口を離した。
 あたかも黒布を被せたように、星と月に照らされていた夜の森が、おしなべて漆黒に染まっていく。
 異変を感じた狼たちは、狼狽を露わに空を仰ぎ、尻尾を丸め、パニックになったように周囲を伺い出した。
「────なっておらんのう」
 闇の奥から嗄れた声がした。
 底が見えない深い闇の向こうから、饐えた死臭を伴って、白濁した瞳の老婆が現れる。
「群長の獲物に手を付ける駄犬どもがひぃふぅみぃの……どうなっておるんじゃ"先祖返り"よ。規律を覚えん愚物の始末は群長の役割じゃろ。儂の手を煩わせる気か?」
 年嵩の魔狼たちが尻尾を丸めて怯える横から一匹の魔狼が血気盛んに飛び出した。
 一昨年の春に生まれた年若い魔狼だ。若き魔狼は老婆に近づき、牙を誇示して唸りだす。
 老婆の白濁した瞳が、チラと、鬱陶しそうにそれを見た。
 何の先触れもなく魔狼が転倒した。
 ひっくり返った魔狼は手足をバタつかせ、全身の穴という穴から血を流し、痙攣しながら、それでもまだ死ねずに、赤い口角泡を飛ばして上ずった悲鳴をあげ続ける。
 尻尾を巻いていた狼たちの恐慌はついに限界に達し、競うようにして逃げ始めた。
「殺せ」
 老婆の一言で、立ち籠めた闇が歓喜を叫んだ。闇を構成していた悪霊たちが逃げ遅れた狼たちに殺到する。
 僅か一秒で、周囲は土を掻き苦痛に戦慄く音、そして狼らによる長い断末魔の合唱で満たされた。
 間一髪で悪霊たちから逃れた狼たちは目を充血させ、真っ暗な木立の間を必死に駆ける。だが、その数は、徐々に、徐々に減って、走るその背後に痛々しい吠え声が増えていく。
 逃げ足の数が当初の半分になり、とうとう殿になった一匹のすぐ前で、ざわざわと闇が揺れ動く。
 下草の間から骨と皮だけの黒い腕が何本も伸びて彼の身体を掴んだ。魔狼は狂ったように吠えて、地面に爪を立てる。だが、やがて蟻のようにびっしりと身体を覆う大量の手にゆっくりと引きずられはじめ、そして茂みの向こうへと消えた。
 暗闇が凝固して溢れるかのように、木陰からは無数の悪霊の手が次々伸ばされ、逃げる狼の尾を、足を、しっかりと掴み、一匹、また一匹と、生を呪う無明の奥に連れ去っていく。
 喜悦に咽ぶ悪霊たちは、この森で命を落とした人間たち。襲われ、壊され、飽きがきたところで生きながら食われた犠牲者たちだった。
 彼らは狼たちを殺さない。まだ、殺さない。まずは壊して、それから壊して、壊して、壊して壊して壊して、飽きるまで壊さなければ、その怒りは、怨念は、到底収められはしない。
 いつまでも終わらぬ絶叫は、感染するように森に広がり、愉しげに笑う悪意の囁きが声量を増し続けていた。
 "直系"たちが銀狼を囲み、何かを訴えるように吠え続ける。しかし銀狼はやはり、助けを乞う声にも顧みず、月のない夜空を仰いでいる。
 銀狼の周囲に聞こえた救命の嘆願は、直に群長を弾劾する怒りに変わり、すぐに哀れっぽい鳴き声と水音の混成に一転すると、肉片と血溜まりだけを残して、誰一匹といなくなった。
 老婆が銀狼を恐れる様子もなくザイシャに歩み寄った。
 裸で金朱孔を抱きしめる彼女に、老婆が虫食いだらけの毛羽立った布をかける。
「これ。そんなとこで寝ておったら狼に食われてしまうぞ」
「…………サレナ、先生」
「すまんのう。あやつまで出てくるとは思わなんだ。まあ条件はとうに満たしておったが……」
「条件……?」
「"先祖返り"が戦いに出る条件は二つ。一つ、敵が自身の許可なく森に入った他所者であること。一つ、敵が自身の魔を継いでおらん"ただの狼"を狩る者であること。一つでも満たせば、その牙で報いるに値する敵と見做され、両方満たせば必ず動く。……色の濃い連中、しきりに囮を使っておったじゃろう? さながら"一つの意味と一つ以上の布石"というわけじゃな。────嵌められたんじゃよお主は」
 ザイシャは直感する。自分が、礼装を持ち出すよう誘導していたのではない。
 "光るモノ"を取り返しきれば"光らない"持ち物を探すと濃銀灰たちは考え、追ってくるように誘導したのだ。
 思えばザイシャが殺したのは灰と薄銀灰ばかり。彼らは、学習能力のある濃銀灰は逃がすと理解し、自分たちは一匹しか群れに混じらないようにした。
 そう。自分たちだけは安全圏に留まって、釣り糸を垂らしていた。
 星辰盤を拾った日に背で感じた寒気が。巣穴で覚えた悍ましさが。一体となり身を震わせる吹雪のような凍えとなって蘇る。怖ろしかった。その賢さが。
 震えるザイシャの頭を乱暴に撫で、そしてサレナは一歩、前に出る。
「"先祖返り"よ。こやつが何者かは知っておるな? 貴様の眷属が生かさず殺さず貪り続けた小娘だ。下腹の張った狼が急にぶくぶく増えたと思えば……のう? 殖えるのは良かろう。蘇らせるのも良かろう。じゃが殖えるために蘇らせるのは気に食わん。死は無限にして生は有限。死者の無限を無限の生に転換されては摂理が狂う。吹き荒ぶこの死滅は儂の膝下で摂理を食い荒らした愚かしさへの返報よ」
 銀狼は、反応しない。
 相も変わらず。躍り続ける漆黒の怨念がそよ風かなにかであるように、平然と佇んでいた。
 サレナが続ける。
「この娘は貴様らに肉を削がれ、魂を削がれ、力を削がれ、一つ残った命すら付け狙われていた。確かに貴様の許可なく森に住まい無辜の狼を殺したのじゃろう。摂理に反した殖え方であれ殖えた仔に罪はないのじゃろう。じゃが森に招き込んだのは誰じゃ。享楽のため同胞の命を囮に差し出したは誰じゃ。どちらも貴様の下賤な眷属たちであろう。……人語をも解する賢狼よ、お主なら、わかっておるはず。領分を越えたのは狼の方。この娘は望んで秩序を乱してはおらん。────見逃してやれ。それでは収まらんというなら儂が殺されよう」
「……どう、して」
「ん~?」
 異を唱えるかのように声を上げたのは、銀狼ではなく、少女だった。
「どうして、なの」
「む……どうして、とは。見逃がす確証を聞いておるのか? ま、相性ってやつじゃよ。千年クラスの幻獣の域に鼻先つっこんどる人狼なんぞ儂には殺せぬがそれ以外の狼は皆殺しにできる。やつは身内に甘いからのう。儂とは戦いたくないんじゃよ」
「そうじゃない。どうしてそこまでしてくれるの。私と違って、死んでしまうのに」
「……。儂は悪人じゃがな、こういうのは善しも悪しも関係ないんじゃよ。自分にできる範囲でいい。誰かに手を差し伸べたい。助けになりたい。ふとそう思う。いつかはお主にもわかるときが来る。そのときに助けてやるといい。儂や、お主の使い魔がしたようにの」
 飄々と笑ってサレナが先祖返りの前に進み出る。
「不死のお主はピンとこんかもしれんが、死霊魔術の一番良いところはな。死してもまた会えるということなんじゃよ。────往け。必ず会えるさ」
 弾かれたように走り出す。金朱孔を胸に抱きしめ、心を殺し、背中の向こうから届いた枯れ木を裂くような音にも振り返らず。
 帰りたかった場所へと、ひた走る。帰って、無事を伝えたかった人を、ひとり置き去りにして。
 ────さよなら、サレナ先生。アナタが大好きでした。

 満月が明るかったからだろう。夜空を見あげながら、ザイシャは昔の失態を思い出していた。
 後からならどうとでも言える話だが、当時の彼女には洞察が足りなかった。
 採点するなら二百点満点中の十九点。主たる減点は、無意識の希望的観測。銀狼が余力の温存を考え、攻め手を加減している、という想定から目を背けたこと。
 大地についた異様に深い爪痕。ナイフを奪われる前のシルエットのゆらぎ。そして何より不可解な凝視。
 そうした不明点とも向き合い、正体を暴かねばならなかったのだ。
 例えば爪痕。これは簡単だ。魔力放出。
 "先祖返り"は足から魔力を放出した。ならば、攻撃に使えるのも道理のはず。
 当時は気づいていなかったが、大地に爪痕を刻んだ攻撃や喉を割いた後に首を断った一撃でも、轢殺と同じ巨大な魔力反応を観測していた。
 ログを見返すだけでヒントを得られたはず。明らかな怠慢だろう。
 次にゆらぎ、こちらも想像は難くない。人狼は狼と人の姿をもつのだから。ナイフを奪う前の一瞬。銀狼はその姿を変え、そして、戻ったのだ。
 ゆえに、もし『導手』が生きていても、第三の消却砲が当たったとは限らない。細く、または小さく、変容しながら魔力放出を使えば、木立を抜けられる可能性もあった。
 最後に、凝視。いやはや、これを見抜けなかった愚かさだけで、落第ものだ。
 なんせ"先祖返り"は何か行動を起こすたびに、必ず、ザイシャを見ていた。ああも露骨なのに、なぜ、想像すらしなかったのだろうか。"先祖返り"の目は────
〈────雁来紅様。未登録番号から、お電話です。お取次ぎしましょうか?〉
 もうこれで何度目だったかも定かでない、ザイシャの反省会に、星辰盤の囁きが水を差した。
 礼装は音楽を勧めてはこない。とうの昔にハッキングし、プログラムを書き換えた。
〈いい。新規の番号はアナタを通したくない。自分で出る〉
〈────かしこまりました〉
 人差し指に嵌めた指環(リング)から鉤爪のようなナイフを展開し、服の裾から潜らせると、躊躇いもなく腹を裂く。ぞぶり、と、ザイシャの指が腹腔に潜り込み、その中から携帯電話が取り出された。
 持ち歩く荷物は体内にしまって、両手は空けておく。フリーランスになってから覚えた技だ。
 人間である自認こそあるものの、実際のところ、彼女は人型形状記憶合金である。ホモ・サピエンスと酷似した細胞で構成され、脊椎動物のように血を流しても、系統樹という根本的な所から別物だ。
 顕著な一例が、内臓の欠損。魔力で駆動するザイシャの胴体には、心臓と肺、そして分解炉以外の臓器はない。体内は空洞だらけなのだ。
 こうして、携帯電話や、非常食、拳銃や小型の礼装の類を、隠しておくスペースはゆうにあった。
 点滅する携帯電話に耳を当てる。
「お電話ありがとうございます。フリーランスのザイシャ────」
「あ、もしもしザイシャ~? 儂。儂。愛しのサレナ先生じゃよ~」
 ひどく聞き覚えのある声が定型句を遮る。
 途端、ザイシャの表情が渋くなった。
 衝動的に通話終了ボタンへ伸びそうになった指を、彼女は、なんとか押し留める。
 その口からは、既に、重たい溜息が漏れ出していた。
 悲しくも美しい師弟の別れ、なんて出来すぎた話があるわけもなく、得てして現実というものは綺麗に話をまとめてはくれない。
 後からはどうとでも言えるだろうが、思えば、この話には、おかしなところがありすぎた。そして半ば当たり前のように、最悪かつ最低なオチが用意されていたのだ。
 正直思い出したくもない、ろくでもない思い出……なのだが、今、少しだけ、回顧しよう。
 あれは、そう。金朱孔を抱いた少女が家に帰り着いた頃────

 
 

第4章 銀狼森の家と助ける理由と

 脇目も振らず走っていたザイシャがようやく立ち止まった。後ろを振り返ると、月が出ている。森の約半分を覆っていた、漆黒の怨念のドームは、もう消え去っていた。
 ザイシャは住み慣れた家の戸を開ける。中は真っ暗で、背後から差し込んだ月光が戸口の近くを照らしている。茨を抱いた少女の影が、手狭な家の中へと長く伸びていた。
 壁にかかったランプも点けずザイシャは部屋の奥へと進んでいく。ぎぃ、ぎぃ、と床板が軋む。
 やがて軋みが止まった。少女の前には扉があった。扉の先には階段があり、師がねぐらにしていた地下室がある。扉の表面に、ザイシャの小さな手が、そっと触れた。
「……ただいま、帰りました」
 返事はない、返るはずがない。三年以上、彼女の帰りを迎え続けた声は、あの場で永久に失われたのだから。
 ぽたりと一滴、雫が床に落ちた。扉につけた手が、不規則に位置を下げていき、そして、動きを止める。止まった手の横に少女の頭が並んだ。膝を割るように座り込んだ少女は扉に頭をつけ、涙腺からとめどなく溢れる熱を拭うこともなく、はたはたと膝頭に落とし続ける。
「…………ごめんなさい……ごめんなさい……」
 涙声の謝罪と悔恨が溢れ出す。無謀に狼穴に入らなければよかった。森から逃げていればよかった。もう一度会いたいだなんてザイシャが思わなければ、老婆も礼装も死ななかった
 家族のように思っていた二人はザイシャのせいで命を落とした。その事実の重さが少女の頭を垂れさせ、壊れた蓄音機のように言葉を繰り出させる。
 夢を見る生物でありたかったと少女は強く願う。そうであれば、泣き疲れて迎える糸が切れたような眠りの向こうで、終わらないこの悲しみを一時だけ忘れ、幸せな夢を見れたのに。
 開いたままの戸口から涙声が漏れる間にも、月は少しずつ傾いていた。暗がりに隠れて悲しむ少女の姿は徐々に徐々に光照らされ、明るみにされた咽ぶ悔恨が声量を増していく。
 だが、そのとき。湧き出す後悔と悔恨を潤ませ流し続けていた少女が涙滴る顔をあげた。
 扉の向こうで、今、足音がした。これは夢なのかと、へたり込んだまま呆然と、内側に開いていく扉を見上げる。
「────────サレナ、先生?」
 差し込んだ光が扉の向こうを照らす。
 地下室への扉から現れたのは、ザイシャより頭一つぶん背の高い少女だった。
 青白い月の光に照らされた肌は、その月の光よりまだ青く、血の通わない死人のような、そんな色合いをしていた。
 ザイシャは、まじまじと少女を見上げる。
「…………だれ?」
「……。予想通り、か。察してくれると期待してはおらんかったが、悲しいぞ"ザイシャ"。────それより何をベソベソしておる。お主は魔術師じゃろうが、感情に振り回されるでない。泣こうが、喚こうが、常に論理で動け」
 落胆露わに息を吐いた後、青褪めた肌の少女はザイシャの腕の中を指差す。
「とっとと解析せんか。金朱孔(プレグラスタチア)と言ったな。その使い魔まだ死んでおらんぞ」
 そう言われた途端、弾かれるようにザイシャは魔術回路を起動した。
 目の前の少女への疑問も吹き飛び、食い入るように指示を飛ばす。
〈星辰盤! 対象、金朱孔。限定解析開始!〉
〈────精査開始…………金朱孔"偽典・第四呪詛"。異常あり────詳細を解析中…………内蔵SCS、完全消滅。ブラックボックスを含めた、制御術式の九割以上に破損を確認。現在稼働する機能は、人工知能・金朱孔のみです〉
 やはり、アンディライリーの決戦礼装『金朱孔"偽典・第四呪詛"』は完全に死んでいた。
 内蔵SCSが死んで変形できなくなったこの金朱孔は、もう茨のようにしなることすら出来ない。
 それでも、使い魔としては、まだ生きている。
「……よかった…………」
 ザイシャは新たに安堵の涙を湛え、金朱孔を固く抱きしめた。
「"先祖返り"の目は魂と魔術の概形を読み、牙は壊す式を選んで精密に砕く。お主の心を見て咄嗟に手心を加えたんじゃろうな。……変わらんのう。杓子定規のくせに変なところで甘っちょろいのは」
 ザイシャを見下ろしながら、そんなことを青褪めた少女が言った。その言い分は、彼女が、この森の事情に通じていることを仄めかしていた。
 金朱孔の無事を知って、張り詰めた気が抜けたからだろうか。涙で埋まっているザイシャの心の中に、疑問の朱がぽつりと差した。ザイシャを見下ろす彼女は何者なのだろうか。
 ザイシャの疑問を察したのか「ああ」と得心した声を彼女は漏らした。
「フルネームで名乗ったことはなかったな。我が名は、メギドラ・エイハブ・サレナ。『外天の黒百合』『怨念の墓地』の異名をとる呪師にして、無数の魂を統べる死霊魔術師。────言ったじゃろ? 必ず会えると」
「─────────」
 その台詞を言ったのは、確か────。
 頭が混乱していた。
 理解が追いつかないザイシャが逼迫した声で言う。
「で、でもサレナ先生は────」
「おう。死んでおるぞ。死体も"先祖返り"に八つ裂きにされた。跡形も残っとらん。────だが、そのサレナ先生とやら、いつ死んだ(・・・・・)のだ?」
「……ぇ……?」
「とは申せ、知るわけがなかろうし、答えは教えてやろう。五十年前じゃよ」
 明らかに年数が合わない。今宵この晩まで老婆は動き、銀狼の前でザイシャと会話していた。
 彼女が何を言っているかわからず、瞳孔を揺らしているザイシャを置き去りに、メギドラは愉しげな声で語り続ける。
「元は、なんと名乗っておったか、のう。家族がなんとか、恨みがあるとか、なんか、色々ごちゃごちゃ言っとったのは覚えておるが……あー、忘れてしもうとるな、名前。まあ、名前はとにかく、聖堂教会の代行者じゃな。二十年以上も儂をストーキングしてきてのう。どこに行っても現れて、それはそれは、迷惑なやつじゃった。────じゃから慰謝料の代わりに死体を使わせてもらった。当人は加工される自分の死体を見ながら"これでは神のもとにいけない"とか泣き叫んでおったっけなぁ。あれは良い気味じゃったわ」
 邪悪な思い出を語りながら、メギドラが喉奥でくつくつと思い出し笑いをした。
 ふと気付いたように、メギドラはザイシャの目を覗く。
「おや? まだヒントが足りんのか」
 メギドラに覗き込まれたザイシャの両目は、不安そうにまばたきを繰り返すだけだった。
「そじゃなー。最後の特大のをやろうか。この家に帰るたび、お主も同じことをやっておったぞぉ?」
「……私が……? いったいなんの、」
 話だと、言いかけて。
 ザイシャの声がすぼんでいく。カシャカシャと動き出した思考に合わせ、忙しなく視線が動き始める。
「くっふっふ。ようやく気づいたようじゃな?」
 思い出したのは、魔狼の死体を連れて戸口をくぐる光景。ザイシャがやったのと同じこと。即ち、死霊魔術による死体の使役。
 だが、おそらくそれだけではない。
「…………アナタは、自分自身の、死後の魂までを統べて、いる?」
「ほう。そちらも読み取ったか。正解だ。では。ここで儂の異名をもう一つ教えてやろう。────『悪霊王女』と言うのだ。統括者である少女霊を中心にした悪霊の集合体。移動宮殿住まいの王女というわけじゃよ。ちと気恥ずかしくて名乗りづらいのが瑕じゃがのう。儂をこれ以上克明に表す名もあるまいて」
 死霊魔術がなぜ降霊と呪詛の両系統に属するのか。それは、死霊魔術による使役は原則として霊体に作用するものだからだ。
 銀狼との戦いでザイシャがやったように死体を直接操ることは少ない。あくまでスタンダードは霊体を死体に取り憑かせ操る(・・・・・・・・・・・・・)という形式。死霊魔術師は、操った霊体を介して死体を制御し、使役するのだ。
 では、死霊魔術師自身が、自分の霊体を操り死体に取り憑いたとしたら。それは何を意味するだろうか?
 戦う力がない頃のザイシャが、サレナのフィールドワークの伴にされていた頃、彼女は一度も狼に襲われなかった。
 そこかしこにいた殖えすぎた狼が、サレナの家の周辺には近づきもしなかった。
 ザイシャは出歩く度に魔狼に襲われた。その主因は自分にあるのかも、と、考えたこともあったが、そうではない。
 魔狼はある例外を除いて(・・・・・・・・)均しく襲いかかるものであり、ザイシャがそこを離れたから、格好の獲物と見て襲ってきたのだ。
 思えば畏怖されていたのは銀狼だけではなかった。黒き死の覆いが森に被さったとき、多くの狼、それも年長ばかりが怯えを示した。
 彼らは、その黒が何の先触れであるかを知っていたのだ。おそらくは世代を越えて群れに継承され続けた経験から。
 呪師サレナ。死を超越せし、メギドラ・エイハブ・サレナ。
 彼女もまた幻想種に並ぶ長久の存在であり、この森の頂点へと神のごとく鎮座して、銀狼と同様に狼たちの畏怖を受ける超抜存在だったのだ。
「ノーリアクション、……というより、フリーズしておるな。おーい。聞こえておるか?」
 メギドラは、しゃがんでザイシャの目の前で手を振る。
 彫像よろしく身体を硬直させ、思考を巡らせ続けるザイシャは、視界に入り込んだ手にも反応を示さない。
「ふぅむ、反応が芳しくないのう。そこは普通、驚きに目を回しつつも、奇跡の復活を果たした師に抱きつき、泣いて再会を喜んで、あわよくば一夜の褥を共にするところではないのか? まあ良いか。来ないなら儂から行こう」
 膝づいたメギドラがザイシャの頭を両腕で抱きしめた。
 ザイシャの鼻先が青褪めた胸にぎゅっと押し付けられる。考えることに全精を注いでいたザイシャの思考が、直接的な外部刺激で浮き上がり、瞳を動揺させた。
 反射で腕から抜け出そうとした少女の抵抗をメギドラは易々といなし、愛おしげにザイシャの髪を掻き撫でる。嘶く飼い馬が鬣を撫でられ機嫌を収めるかのごとく、ザイシャの身体が少しずつ、反抗を鎮めていく。
 胸の中の少女が従順に抱擁を受け入れ始めたのを量り、その耳元へとメギドラが唇を寄せた。耳朶に口付けするようにして囁く。
「よし。よし。心細くして済まなかったのう。"先祖返り"を誤魔化すために演技が必要だったんじゃよ。もう、大丈夫じゃ。儂は決して死なぬのだ。そのうち、代わりの身体もまた立てる。じゃが"先祖返り"に気取られぬよう、それまでここを無人にする必要がある。しばらくは儂の工房で暮らそう。安心せよ、奥の方には二人暮らせる清潔な部屋がある。寝台は一つしかないが、それは辛抱しておくれ。儂とお主、睦まじい師弟の仲じゃ。共寝をするのも構わぬだろう? 熱りが冷めたら森を案内してやろう。狼が増えすぎて異変しておったが、本来、この森は実り豊かな森じゃ。健やかな秋を、春を、お主にも馳走してやろうとも。夏になれば山を登ろう。絶景を見下ろせる場所を知っておる。冬になれば雪を滑ろう。こう見えてスキーは得意なんじゃ。ここで暮らそう。家族になろう。ずっと、ずっと一緒にいよう」
 甘い、甘い、囁き。ザイシャの心を奥底から包み込むような、瞳蕩かす声だった。
 意思の熔けきった夢見るような目つきのザイシャが、怖ず怖ずと両腕をメギドラの背中へ回していき、メギドラの囁きに抱擁で返答しようとする。
 が、彼女の腕が俄に止まる。月光に照らされたその瞳の奥に硬い意思は宿っていない。代わりに、道塞ぐ謎を越え、真相へ前進しようとする赤い衝動が、そこで煌々と燃え盛っていた。
「……ほう」
 どこか楽しげにメギドラが囁いた。
「身体を強張らせたな? くふっ。儂を疑うたか。それも、儂が本当にサレナであるかについての疑いではない。もっと別のことだ」
 少女の肩がピクリと揺れる。愉快でたまらないという風にメギドラが口の端を吊り上げた。
「当たりだな。……良い、良い。訊きたいことがあれば遠慮なく尋ねると良い。眠れずむずかる愛し子をベッドに抱えて行く前に、一つだけ、質問に答えてやろう」
 メギドラに抱きしめられているザイシャは、その胸の中で、泳ぐ瞳を隠すように目をつむる。
 彼女の心には、ある、(しこり)のような疑問が残っていた。
 最初に気づいたときには、何か、理由があったのだろうと考えていた。師と死別するのであれば忘れていいはずの疑問だった。
 だが、メギドラが本当にサレナであるのなら。答えを知っているのであれば。ザイシャはもう目をそらせない。問う他にない。そうしなければならなかった。
 なぜなら。彼女は、その瞳に灯す"なぜ"を確かめるために、アンディライリーを出たのだから。
「…………。……訊かせてください」
「うむ。よいぞ」
「……私を殺したのは、アナタですか?」

 くは、と。耳元で笑い声がした。
「惜しいのう。残念でならんのう。────合格。この勝負、お主の勝ちじゃ」
 メギドラの身体がザイシャから離れていく。
 少女の背中に回していたその手には、ドス黒い軟膏のようなものを塗った、骨製の解剖用ナイフが握られていた。
「参考に聞きたい。なぜわかった? お主は、金属の鏡を拾った直後に、儂への疑いを捨てていたはずじゃ」
「……。……他に候補がいないからです」
 メギドラの言う通り、ザイシャは『星辰盤』の入手後、自分を解析して呪術の痕跡を探し、その結果を受けて師への疑いを晴らしている。
 ところが、これは前提を間違えていた。
 "漏出と魔力消費"、その指定を誤って真相へ至れなかったように、解析の指定をザイシャは取り違えていたのだ。
「狼の巣にあった死体を私の礼装が解析して、データを残していました。銀狼との戦いの途中、私に、そのデータを詳細に読み直す機会が訪れました」
 銀狼を迎え撃つその直前、策巡らせるザイシャの思考を僅かに揺らした情報があった。
 魂の分割を再現するために、目を凝らした中のその一行は、解析対象の誤りを如実にザイシャに示していた。
 あのとき、ザイシャが調べたのは自分自身。
 が、殺されたのは今ここに在るザイシャではなく森に在った死体だ。
 解析すべきは、もう一つの自分であり、そこに証拠は眠っていた。
「分析したパラメータの中に在ったんです。────入念に隠蔽された呪術の痕跡(・・・・・・・・・・・・・)が、ほんの僅かに。私の知る限りでは、この森に、呪師はアナタしかいない」
「……推理と呼ぼうには身も蓋もないのう。察してはおったが、反則じみておるな、あの鏡。壊しておくべきだったわ」
 零しながらメギドラが立ち上がった。
 彼女は身体を投げ出すようにしてベッドの縁に腰掛ける。
「敗けたからには、勝者に褒美をやらんとな。真相を知りたいのだろう? 事の始めから話してやろう。まずはそこから立って、どこかに尻を落ち着けよ。少し長い話になる。……ああ、もちろん。儂に肩を抱かれながら、というのでも良いぞ?」
 そう言って、メギドラは自分のすぐ隣を、大仰な仕草で叩いて見せた。
 ザイシャは無言で立ち上がり、ベッドから七歩ばかり離れた辺りで椅子に座る。
 釣れんのう、と、メギドラが苦笑した。
「さて。なぜこの森に儂が住まい、狼どもに恐れられるのか……。人魔を詳らかにする妖精眼と対術の牙を皮切りに、無数の奇跡を身に宿す"先祖返り"は、本来、この世に在るはずのない銀狼の血と輝きをもつ。かつてこの世に在った銀狼らがそうであったように"先祖返り"の銀狼の血は否応なしに神秘と知恵を遺伝させる。お主も骨身に沁みて味わったじゃろうが、半端に知恵を得た獣というのは、時に人よりも醜いものじゃ。増長と堕落で混沌を齎し、群れの秩序を破壊する力ある魔狼。群れという社会の中では、その醜さ、毒に等しく、排除せねば立ち行かん。"先祖返り"のやつも理解しておったようだが、あの通り、泣き叫ぶ子供を見て咄嗟に手加減してしまうくらい、心底甘っちょろい。そこで、出来ないことは、他人にやらせることにした。────二百余年前。代行者に追われ、この未開の森に逃げ込んだ死霊魔術師がおった。本来であれば外敵として追い払うところじゃが、このとき、"先祖返り"に一つ考えがあった。そして"先祖返り"は魔術師に契約を持ちかけた。"秩序脅かす仲間たちを間引いてくれ。間引きの不安で群れが崩れそうならガス抜きの儀式(イニシエーション)のために死んでくれ。ガス抜きで死んだら落ち着くまで出ていってくれ。ついでに人払いと、森で煩く泣き喚いている地縛霊の掃除もやってくれ。代わりにこの地に根を下ろすことを許す。間引いた仲間は好きにしろ"────とな」
 ……それは、甘さとは対極に位置した、知恵ある者の酷薄な身勝手さであった。
 この森は、"先祖返り"の箱庭だったのだ。
 "先祖返り"が定義した世界秩序に則り、"先祖返り"の下した判断に左右され駆動する、自然界を模した人工合成環境(Synthetic human-made environment)
 森の狼達は、上にも下にも、銀狼とメギドラを同列に見て、神のように畏怖した。しかし実態は、神のごとき死の御使いまでもが銀狼の手駒であった。
 無限の命を貪られるザイシャも、殖えすぎた余分な灰狼も、"先祖返り"の遠い子孫である薄銀灰も、森の王族たる直系血族の濃銀灰も、そして森の死を統べるメギドラ・エイハブ・サレナすら、銀狼にとっては、灰狼の群れの運営シミュレーターの、いちパラメータに過ぎなかったのだ。
 月のない空を仰いだ"先祖返り"が、月下に輝く瞳に湛えた悲しみは、きっと、嘘ではないのだろう。されど、銀狼の悲しみの根本は個々に向いたものではない。群れの導きを誤った慙愧の念であった。
 その傲慢な有り様は、神を銘に呑んだどころの騒ぎではない。正しく、この森を統べる(システム)として、"先祖返り"は君臨していた。
「増上慢な契約内容じゃったが、西暦以降の魔術を砕くという物騒な牙で脅しながらの提案でのう。まだ死んで十数年の見習い悪霊の儂に拒否権はなかった。泣く泣く契約を飲んだとも。言われるがまま人払いの結界を敷いて、命じられるまま悪霊を回収し、魔獣級の狼を毎日ヒィヒィ言いながら殺し回って、最後は、拾ってきた死体を操り派手に殺され、以後、この森とその霊地を拠点とするようになった。こうした経緯あって、秩序崩れるとき使いを送り込む死の神と、それを弑する銀狼を、狼どもは畏怖しておったのじゃ。……初めの方は不満もあったがのう、今となっては、安い買い物じゃったわ。年代物の地縛霊は、取り込むまでそりゃもう苦労したが、使役できるまで行けば強力じゃったし、西暦にマウント取っとる銀狼が守護しておる霊地なんぞ、儂のような大悪人が逃げ込むセーフハウスの置き場としてこの上ない。まあ、儂本体の魔術を砕かれんように逐一死体を用意して狼どもに覚え込ませる手順はいるし、向こうの都合でちょくちょく殺され叩き出されるが、必要経費ってもんじゃろう、そのくらい? ……そんなわけで、時々この森に帰っては適当に魔狼を間引き、殺しすぎれば死体を殺させ、いつの間にやら二百余年。倫敦で企みをしくじって、またしても追われる身となった儂は、一年ばかり、この森に引き篭もっておった。────そこに、魔狼に引きずられた小娘がやってきた」
 そう、お主じゃ。メギドラがザイシャを指差した。
「正直な。助ける気はまったくせんかった。悪霊使いの儂としては恨みを抱えて死んで貰った方が後々楽じゃからの。間引き以外で手を出したせいで物言いがつき契約を切られた、なんてことになっても嫌じゃ。……じゃが儂以外は違った。あの濃銀の狼の殺し方はむごい、年端もいかん幼子に味合わせるのは見過ごせん、とな、この森で拾った霊どもが口々に騒いで喧しいのなんの。折衷案として、先に殺してやることにした。怨念に染める手間は面倒じゃったが、まあ、幼い子供程度、儂が一晩丹念に舌先を転がしてやれば簡単に堕ちるでのう。そして、魂を引き抜き、儂に取り込もうとした。────じゃが。その瞬間お主の魂は肉体を再生させた。狼に引きずられている身体を丸々残してな。きっと防衛反応のようなもので、再生はイレギュラーだったんじゃろうな。儂が調べた限り、お主の死体は、魂ある身体から一定以上の距離をとると消滅する。にも関わらず二つの器は両立してしまった。魂に刻まれた魔術回路は、日々狼食われ再生する身体とお主、その双方に魔力を供給し、お主の魔力量は目減りしておったのだ」
 突然メギドラが言葉を切った。
 彼女は、何かを言いたそうに開いたり閉じたりを繰り返しているザイシャの唇に目をやる。
「どうした? 気になることがあれば、話の最中にも質問して構わんぞ」
「……取り決めた、七晩の一度の殺害を取りやめた理由というのは……」
「ああ。今の考察と研究が完成した(・・・・・・・・・・・・)からじゃな。儂はお主の不死を越えて魂を取り込む術を創り上げた。余分な身体を壊し、纏まったお主を改めて殺せば、魂は儂のものじゃ。この頃にもなると、日夜健気に働く小娘がもう可愛くて仕方なくてな。叶うなら今すぐ殺してずっと手元に置いておきたかった、……が、困ったことに、依然解決の糸口すら見つからん問題が残ってもおった。いや、予想外。まさかこの儂が、未だ、魂を堕落に導けておらぬとはな。お主の起源のせいかのう、舌先のチョイで儂を盲愛する従順な娘へ生まれ変わるはずが、チョイどころか、躍起になって仕掛けた思考誘導の呪いや精神干渉の類まで一切効かん。なんたることじゃ。百戦錬磨のこの儂が十分の一も生きておらんオボコ娘すら攻略できんとは。儂の沽券はすっかり襤褸屑同然じゃった……。傷つくのう。悲しいのう。ああ……なんとも面白くなってきたわい。儂は良い暇つぶしを思いついた。まずは、前提を並べて行こう。魂を無理やり犯して嫌われてしまうのは嫌じゃ。そろそろ儂が出て盛大に間引いてやらんと狼どもの秩序が崩れる。そうなれば儂はガス抜きのために死んでやらねばならんし熱りが冷めるまで出ていかねばならん。ガス抜きが終わり儂の履行を見届けた"先祖返り"は秩序を乱した無尽の肉を本来の持主に返還し森から追い出すじゃろう。そこでお主ともお別れじゃ。……ふぅむ。達成までの期間短く条件も厳しいな。なかなか骨が太い遊戯じゃ。そして一計案じた儂は、お主も知る通り、可愛い可愛い小娘を鍛えることにした。修行の一環として自力で生存用の魔力を調達するよう仕向け、魔狼と戦わせ、契約の履行を遅らせた。"先祖返り"の敵対条件を満たしたのを見届け、こっそり礼装を集めておるのを見届け、魔狼には厳しい銀狼がそれでも要請を請けざるを得ない大虐殺を見届け、お主があの牙に砕かれるのを待ち続けた。────銀狼の牙に不死を砕かれたと思い込んだ(・・・・・・・・・・・・・・・・・・)小娘を取り込むためにのう。…………。…………のう。人がキメ顔をしとるんじゃぞ? 鼻がムズムズしていますみたいな表情をする者があるか」
「……銀狼の牙が私の不死を壊せない、今、そう、言いましたか……?」
「何故あやつが真っ先に牙を試さなかったと思っておる? 壊せん、そう理解したからだ。一目で確信したと言っておった。死の専門家である儂が想像するに、お主の不死は、神代以前に溢れていた、死なぬ祝福の類型の一つだ。西暦以降しか壊せぬ牙では文字の通り歯が立たん」
「…………」
「儂はお主が、自身の不死の力を軽んじておるのを察しておった。それじゃから、その過小評価を利用し、銀狼に殺された弟子を師が迎えにゆくというストーリーを描こうとした……が、すんでのところで失敗した。まさかのう。土壇場で魂と肉体の在り方を変質させるとは。予備の肉体候補が幾らでも飛び散っとる切った張ったの最中では、術を使っても他の肉体に魂を奪われるだけ。"先祖返り"のやつも完全に戦気を失い、それどころか、余計な真似をせず契約を履行せよ、とばかりに儂を睨んでおる。こうなっては儂も役目を果たすしかない。そこで、仕方なく最後の勝負に出た。なんのことかは、もうわかるじゃろう?」
 ザイシャは答えない。
 膝に手を置き、口を真一文字に結んで、小さく目を伏せている。
 メギドラが喉奥をくつくつ鳴らした。
「目の前で契約の履行を果たし、ドラマチックな別れと再会でお主をこまし、勢いで誤魔化しそのまま押し切る! ……という、要は、悪足掻きじゃな? が、聡いお主は真相に勘付き心を許さず、今、こうして儂の目論見はすべて崩れた────そういうわけじゃ」
 話が終わる。ザイシャは黙りこくっていた。
 目の奥の方が熱すぎて言葉が痺れてしまっている。疑問で舌をもたげなければ、一生、喋れず口を閉じているような気がした。
 頭の中で反響し続ける情報を上手く反芻できていない。ただ、ぐるぐると、名前をつけられない感情が血流に乗って空転する。
 酷い仕打ちだった。最低な魂胆だった。敬愛した師とは思えぬ狡くて汚らしい本性だった。こんな人物のために涙した自分が惨めに思えた。
 ザイシャは、もうメギドラとは何も話したくなかった。出来ることなら目を伏せたまま、明日の朝日が昇るまで、ずっと黙っていたかった。
 それでもザイシャは顔を上げた。
 残り一つ、確かめねばならない疑問が、彼女の舌を持ち上げていた。
「……質問が、あります」
「なんじゃ」
「なぜ、それを明かそうとしたんですか」
「最後の勝負に負けたからじゃよ。明日にも儂は森を出らねばならん。お主を取り込む機会は逸しておる。じゃったら最後に、敬愛するよう仕向けたサレナ先生が腹に潜めておった企みを明かしておこうと────」
「────違います。私が質問しているのは、明かした理由ではなく明かそうとした(・・・・・・・)理由です」
 瞬間、メギドラから表情が消えた。
「アナタには勝負に出る必要なんてなかった。悪足掻きのための劇的な離別なんて必要なかったんです。客観的に見ても、私はアナタに家族の役を重ね、愛情を抱いていました。ならば、アナタは正体を明かし、ただ履行を果たせばよかった。アナタを慕う私を連れて、共に、森を出ればよかった。これほどの奸計の糸を張り巡らせた、そのアナタです。当然、気づいていたはず。なぜ、────アナタは、私に、最後の勝負というヒントを与えたのですか?」
 ザイシャの視線の先にある、能面のような無表情が、ゆっくりと瞼を閉じる。
 それから程なくして、彼女は観念したように、小さく偽悪的に笑い、横向きでベッドに倒れこんだ。
「……────"先祖返り"に聞いた。金朱孔とやら、お主の家族みたいなものだったんじゃろう。必死に探すわけじゃわい」
 仰向けになったメギドラは、解剖用ナイフを持った左手の甲を両目の上に乗せ、表情を隠す。
「これは儂が策謀した暇潰しじゃ。じゃというに。そやつがお主を庇うのを儂は予想できておらなんだ。あのとき、儂は手を打ち損じ、暇潰しは敗けで終わった。別に、敗けたと言うてもな? 儂しか遊技台に座っておらぬ自分との戦いじゃ。敗けたら敗けたで、庇ったものを蘇らせてそれで帳消し、暇潰しを続行という手もあろう。……がのう。困ったことに、魂なき意思を儂は蘇生できん。九死に一生を得てはおったがそれも"先祖返り"が甘っちょろかっただけの偶然じゃ。敗北は儂の手の届かん場所にあり、ゆえに、あの打ち損じは純然たる儂のミス。言い訳は幾らも利こうさ。じゃが、確かに儂は、その礼装を単なるミスで死に追いやりかけた。己で統べられぬ死を弄びかけた。それに目をつむる、というのは。のう。────矜持に反する。このメギドラ・エイハブ・サレナの主義に則らん。……じゃからせめて、お主に機会を与えることにしたんじゃよ」
 どことなく自嘲を交えて、メギドラは、そう語り終えた。
 ザイシャの膝の上の両拳が、ぎりぎりと音立てて、固く絞られる。
「…………勝手な理屈。なんて浅ましい話。アナタは、傷ついたプライドを粉飾したまま保つために、私を利用しただけです」
「おや。期待しておった理由と違ったか? ならば悪かったのう。これが儂の偽りなき本音であり、呪師としての流儀じゃ。────不死の先達として教えておこう、小娘。儂ら人間は幻想種とは違う。ただの百年、二百で、魂は腐り、個は途切れる。じゃから自分で定めた決め事だけは守らねばならぬのじゃ。蛆が湧きそうに腐乱した自己が、バラバラに崩れてしまわんようにの。……そして。これも儂の決め事の一環じゃ」
 そう言ってメギドラは、ベッド脇のサイドテーブルの上に、ザイシャを殺すのに使おうとした解剖用ナイフを置いた。
「腹が立つじゃろう? この身体は遠い昔に死んでおるが儂の本物の身体じゃ。そのナイフで殺されれば向こう一年は元の形を取り戻せまい。本当の意味で殺されてやることは出来んが抵抗だけはせん。好きなだけ良いぞ。胸がすくまでやるといい」
 そして、ベッドに寝転がったメギドラは、大きく四肢を広げて、居眠りするかの気安さで、柔らかに目をつむった。
 家の中に静寂が立ち込める。
 ぎぃ。小さく床が軋んだ。
 立ち上がったザイシャはサイドテーブルから解剖用ナイフを取り上げる。
 最後の疑問に与えられた答えは、あんまりなものだった。それでも一つ代入できた解がある。彼女の中に渦巻いている"これ"は、メギドラ曰く、怒りの熱なのだ。
 逆手に持ったナイフを怒り震える手で握り込み、ザイシャは、ベッド上で無防備に急所をさらしたメギドラへと向き直る。
 差し込んでいる月の光の中で、メギドラの青褪めた死人の肌が、ぼんやりと発光しているように見えた。薄明るいその胸の中央にこのナイフを突き立てれば、少しは、熱が晴れるのだろうか。
 そういえばと、他人事のようにザイシャは思う。はじめにこの森で目覚めたのは、このベッドの上だった。
 三日間、解剖されていたと知ったときはザイシャも愕然としたが、まさか、それ以前からメギドラの手で殺されていたとは。なんたる間抜けか。笑い話にもならない。
 心を殺して腐った心臓を飲み込んだあの毎日も、根気よく死霊魔術のいろはを教えてくれたのも、身勝手にザイシャを殺すための用意に過ぎなかった。
 お説教臭い死霊魔術師としての心得の教えも、苦心を重ねて課題に合格したときの褒め言葉も、ザイシャの帰りを出迎えた姿も、何もかも嘘で、騙されていた。
 ザイシャが金朱孔を永遠に失いかけたのも、もとを正せばメギドラのせい。すべては彼女の企てで、この家での日々に、本当のことは何もなかった。
 だからナイフを振り下ろし、精算すべきなのだ。ここで。この手で。
 そうするべきと、わかっている。……わかっているのに。ナイフはザイシャの手から滑り落ち、床面に突き刺さる。
 湧き上がる衝動に導かれるまま、ザイシャは倒れ込むようにメギドラの首に手を回し、息が止まるくらい強く抱きしめていた。
 頭の中をぐるぐると巡る感情が、渦巻いていた熱が、目頭を伝って、ベッドに幾つも落ちていく。
 視界が潤んで前が見えず、落ちるものが何か、その感情の本当の名前が何か、ザイシャにはわからなかった。
 ザイシャのつむじの上の辺りから、呆れたような口調の誰かが言う。
「……まだ教えておらんかったが死霊魔術の真髄は舌の回りじゃ。弁舌煽動で感情に訴え敵を操り味方を増やすことができれば、これほどコストパフォーマンスのいい術はない。────殊勝な演技で騙されているとは思わんのか?」
「お腹の底が熱くて熔けそうです。疑いすぎて目がまわります。それでも。何処にも行けず立ち往生していた私を助けてくれたのはアナタです。私を導こうとした目的地がどんなに尊敬できなくても、前に進む力をくれた師匠はアナタです。アナタだったんです。だから……だから、こんなに怒っているのに、騙されているかもしれないのに、アナタに、────大切な人にまた会えたのが、私は嬉しくてたまらなかったんです」
「…………馬鹿者め。言ったじゃろうに。お主は感情に振り回されすぎじゃ」
 嗚咽するザイシャの頭を師の手が掻き撫でた。呆れた口調とは裏腹の、とても、優しげな声色だった。

 翌朝。メギドラは家の裏に置いていた荷車を引っ張り出し、引っ越し用の荷物を押し込んでいた。
 この森を出て数日歩いた辺りの平原には、メギドラの隠れ家が一つあった。森を出るとき、彼女は必要なものをそこに運ぶことにしている。
 死体殺害儀式の履行から一年は森に入らない取り決めとなっていた。しばらく戻れないので荷物も相応に山を作る。
「ザイシャ。ちと、ここの本を抑えてくれんか。詰めれば、一冊入りそうなんじゃ」
 戸口の前で三角座りしているザイシャをメギドラが呼びつける。
 ボサボサの髪を整えもせず、金朱孔を胸に抱いているザイシャは、ぶすっとした顔でそっぽを向いていた。
 メギドラが再び弟子を呼ばう。
「ザイシャ! 聞こえとるじゃろ! 弟子なら師匠を手伝わんか!」
「…………私の師匠はサレナ先生です。アナタの弟子になった覚えはないです」
 ぼそりとザイシャが呟く。
 それを聞きつけたメギドラは深く溜息をつくと、積み込み作業をやめて戸口の前まで足を運ぶ。
「じゃから儂が、そのサレナ先生じゃろうが」
「考えてみれば事情さえ知っていれば何とでも後付けできる話でした。アナタが、勝手に先生の工房に入り込んだ悪霊で、嘘をついているという可能性はあり、それを否定する証拠もありません」
「……ぴーぴー泣いておったやつが昨日の今日でよくツンケン出来たもんじゃな」
「不覚を取っただけです。悔しいですが、アナタの言う通り、感情的になっていました。ですが、今ならアナタの嘘も論理的に否定できます。完璧に」
「手酷いのう。一晩中ベッドで儂に泣かされ、理性を飛ばして、夜が明けるまで肢体を預けた仲じゃろうに。物足りなければ、今晩にでもまた朝まで泣かしてやろうか?」
「そういう品のない言い方やめてください。嫌いです」
「はん。ちょっとしたジョークではないか」
「うるさいです。黙ってください。置いていきますよ」
「わかった、わかった。……しかし、刺々しいわりには、お主に儂が付いていくことへは異を唱えんのだな」
 ザイシャは黙り込んだ。
 もう出発の用意を済ませている彼女が、未だ軒下に座っているのは、メギドラの荷造りを待っているからだ。
「……別に。行く方角は同じみたいですし、同じ道を通るだけなら、反対する理由もありません」
「ほほおーん……」
「なんですかその目は」
「いやあ? ……くっふっふ。素直でないところも可愛らしい弟子じゃなあと思うてのう」
「うるさいです。黙ってください。置いていきますよ」
「はいはい。黙って荷造りをしようとも。……やつもそろそろ、痺れを切らしておりそうじゃしの」
 メギドラの視線は、彼女の家の正面にある、下り坂の入口に伸びていた。
 そこに、出立の履行を見届けに来た、銀狼が佇んでいた。
 じっと戸口の前を凝視する"先祖返り"は、その間、手遊びをするように尻尾を左右にパタパタと振って地面を叩いていたのだが、当初は二秒間隔だった振り子運動は、今や、錘をいっぱいに引き下げたメトロノームのように、忙しなく苛立ちを刻んでいる。
「……あー。アレだいぶキレとるのう。仕方あるまい。本の数冊くらい諦めよう。────忘れ物はないかザイシャ? 取りには戻れんぞ?」
「私は、金朱孔と星辰盤さえあれば後は。どうせ導手がなければ使えない礼装ばかりでした。アナタこそ、必需品に抜けがないか改めてはどうですか」
「持ち出し必須の礼装の類は先に積んでおるし、それこそ本くらい……いや。何か忘れておったような」
「取りには戻っては? そのくらいは待ってあげますよ」
 相変わらず拗ねたような口調でザイシャが言う。
 するとメギドラが何かを思い出して顔をあげ、ぽんと手を打った。
「そうそう。思い出した、そういえば返事がまだじゃった」
「…………返事?」
「"さよなら、サレナ先生。アナタが大好きでした"」
「────────」
 ザイシャの顔色が急変した。
「あ。やはり気づいとらんかったのだな。声に出とったぞ。しかも割と大声で。先祖返りのやつものう。思わず儂と顔を見合わせてしまったようで。お互い気まずいったらなんの」
 ばっと、ザイシャが銀狼の方を見る。銀狼は明後日の方向を向いていた。だが、その首が今ほど曲がったのを彼女は見逃さなかった。
 ザイシャを作動させる思考と運動が、全く同時に完全停止する。
「嬉しかったぞ。こうも熱的な告白を受けたのは一世紀ぶりだろうか。愛いのう。愛いのう。儂もザイシャが大好きじゃぞ~? くふふ、両想いじゃなぁ~?」
 ニマニマ笑いながら、メギドラが黙りこくったザイシャの頭を撫でた。
 その手の下で、ザイシャの頭がぶるぶると振動し始める。
「おお、どうしたのじゃザイシャ? 震えるほど嬉しいのか?」
 ────実のところ、である。
 ザイシャに渦巻いた感情の全てが同じ名前をしていたわけではなく、そして、激情の全てが一晩で収まっていたわけでもなかった。
 一度はナイフを握るくらい腸煮えくり返っていた彼女。メギドラの殊勝な態度もそういうポーズじゃないか疑う心はまあまあどころではなく存在しており、そうしたものを全て飲み込んで再会の喜びと安堵を涙に変えたのが、昨晩の醜態である。
 そして今、またしてもザイシャは溢れ出す感情をこらえきれずボロボロと泣き出していた。喜びと安堵を流し尽くした涙の翌日。ザイシャの中に残っている感情。その名は、怒り。
「……サレナ先生の……サレナ先生の、バカーーーーーーーーッ!!」
 金朱孔を手に、目に涙を溜めてザイシャが駆け出す。
 ただの一瞬で強化魔術を全力でかけたその足取りは高速を超えもはや神速。みるみるうちに小さな背中が見えなくなる。
 "先祖返り"はメギドラを見て人間のように溜息をつく。処置なしと言いたげに首を振った銀狼は、静々と木立の奥に消えていった。
 そして、呆気にとられ、ようやく我に返ったメギドラだけが、その場に一人取り残される。
「どこに行くザイシャ? おい。おーい。ザイシャ? 儂といっしょに行くのでは────あ。さては儂、調子に乗ってイジりすぎたか?」

 そんな下らない一幕を最後に森を飛び出した私────ザイシャは、失った偽典・第四呪詛の代わりに、死霊魔術を武器としてフリーランスの仕事を始めた。
 なんだかんだ、心から信頼した相手に騙されていた(しかもあんなのだった)という事実が心につけた傷は深く、残っていた無垢の欠片を根こそぎ汚され、後遺症で重めの人間不信に陥り、しばらくは金朱孔以外とのコミュニケーションを絶っていたくらいだ。
 金朱孔の修復は五年が過ぎた今でも、依然、終わっていない。そも、埒外の技術をもつ職工である創造主が手ずから産み出した決戦礼装。まだ二十年も生きていないザイシャの腕で直せるものではないのだ。
 それでも自作のSCSを導入して、意思疎通を図る程度のことはできるようになった。ザイシャにとってはそれで十分だ。
 そして肝心のメギドラのことだが、ザイシャは、彼女とは絶縁状態にある。
 ここ数年は、時折彼女がかけてくる電話を第一声で切って、着拒に叩き込むのが定番のコミュニケーションだ。
 いつもなら既に通話を切っているが、ザイシャは指を押し込んでしまいたい衝動を、すんでのところで、なんとか留めた。
「む? まだ切っておらんのか、珍しいのう」
「……。……メギドラ。毎回のようにしている話ですが、切られる前提で掛けてくるの、やめてくれますか」
「心外じゃのう。これも師弟のコミュニケーションではないか。……で、切らんのを見るに儂に言いたいことがあるんじゃろ。また告白でもしてくれるのか?」
 森を飛び出し五年が経ったが、おちょくるような声色も調子も、相変わらずのメギドラだ。
 ちっとも伸びないザイシャの背と同じく、この人は、ずっと変わらない。変わる気もたぶんない。
 けれど、そんな彼女だからこそ。ザイシャが今からする質問にも、きっと答えられるはずだ。
「────"サレナ先生"。私を逃がしたときに言ってくれたこと、覚えていますか」
「……。ふむ。茶化す話題ではなさそうじゃな。もちろん覚えておるとも。お主に教えたことは一つも忘れておらん。────助けたのか?」
「わかりません。あの人なら勝手に自分で助かっていた気がします」
 フェリペ・パスカリーがクラウディア・ヴァイスハウプトを庇ったとき、ザイシャの目には、それが虚実混ざった不可解なものとして見えていた。
 金朱孔による真の献身と、メギドラによる偽の献身。五年経った今となっても、その二つを明確に分ける解を、ザイシャは導き出せていなかったからだ。
 彼による行いが果たして、真偽どちらだったのか、その"なぜ"が気になり、ゆえに尋ねた。
『……それは、アナタの秘奥ではないんですか? 先ほどの裏切りも、初対面の相手にどうしてそこまで?』
『なんでって……僕は女の子の味方だから。理想の女の子を見つけて、その子の恋人になるのが僕の夢なんだ。だったら僕も、それに見合う完璧な男の子にならなきゃ、でしょ?』
 きょとんとして。彼は、さも不思議そうにそう言った。当然とでもいうように。常識でも語るかのように。
 苦痛を堪える表情にさした当惑のまばたき、その瞼の奥に見えたのは高潔な無私などではなかった。灰狼の仔が浮かべたような、金朱孔が秘めていたような、かつてのザイシャが持っていたような、そんな純白の無垢。
 場に疑いを持ち込んでいるのは彼の瞳に映るザイシャの虹彩の朱だけだった。それに気づいて、ようやく、彼女は悟った。
 献身も無私も、ただの結果(・・)だ。行為を崇高に見せているものは、後から生まれた意味付けでしかない。
 彼はきっと。その前進の時に敵は見えなかった。その決断の時に己は見えなかった。
 単純に、無垢に、真っ直ぐに、後先も考えず、ただ切実に、そこにいる人を助けたいと思っていた(・・・・・・・・・・・・・・・・・)
 欲はあるだろう。目的もあるだろう。だが、そうであったとしても、手を差し伸べる瞬間には理由も真偽もない。あるものは純粋な衝動なのだ。
『儂は悪人じゃがな、こういうのは善しも悪しも関係ないんじゃよ。自分にできる範囲でいい。誰かに手を差し伸べたい。助けになりたい。ふとそう思う。いつかはお主にもわかるときが来る。そのときに助けてやるといい。儂や、お主の使い魔がしたようにの』
 彼女の献身は、確かに、偽であった。する必要のない無私を持ち込み、ザイシャを揺るがそうとしていた。
 だが、あの場の全てが偽であったなら、その言葉こそ不要であったのだ。
 愛情を嘯けば、慈悲を装えば、ザイシャを騙し切れる目も増えただろう。銀狼すらも策謀の上に乗せようとした彼女が、それを考えないはずがない。
 ならばその言葉も、彼女の裡から思わず滲み出た言葉だったのではないだろうか。企みすらも一時忘れて衝動的に口をついた、ザイシャのためを思った言葉だったのではないだろうか。
 そうとも。その全てが悪性であったはずがない。だって、彼女は差し伸べる必要のない手も差し伸べていた。
 たった一人のよすがのままあれば、ザイシャの心を転がしやすかっただろうに、それでも彼女は、金朱孔が生きていることを(・・・・・・・・・・・・)まず教えた(・・・・・)のだ。
 もし、その裏に奸悪の糸が引かれていたとしても、あの日々が、教えられ学んだ三年以上が、全て嘘だったわけではなかった。お帰りと言ってザイシャを迎えたその言葉には、嘘はなかった。
 今なら、ザイシャにも、そう信じられた。理由もない、論理の破綻した、目の前の人を助けたいというその衝動が、願いが、自分の中にも宿っていたから。
 ────だから、仮に、自分の行動が、意味も与えないとしても。
「勝手に自分で助かりそうな人だとしても、私は、何か自分にできることをしてあげたいと、そう思った、……と言いますか。そう、思ってしまったんです。ダメですね、今でも感情的になりやすいみたいです」
「そうか。……良いかザイシャ。その心をよく覚えておくがいい。────死霊魔術師の真髄は、舌の回り、とはな。相手に寄り添うことが本意なのじゃ。儂がやる、籠絡や、策謀といった悪行ですらも、始まりはここじゃ。ここを欠かせば、成り立たぬ。感情に振り回されるのはいかん。じゃが、感情を抑え込み無視するのは尚悪い。たとえ霊となっても、我が人なら彼も人。霊魂を従えるのは人を従えるにも同じく。そして自ら他者を感じ、心寄り添おうとする意思なくば、人は人の下に着かぬのじゃよ」
「……私は召喚した悪霊のサーヴァントを力で従えました。メギドラなら彼女とも対話の道を選べたのでしょうか」
「さぁて、な。人に好き好きがあるように霊にも好き好みがあり相性がある。実際に会ってみなければわからぬことよ。────ところでぇ~」
 威厳に満ちていたその口調が、唐突に、甘ったるい猫なで声に変わる。
「のうのうそろそろ絶縁解いてくれんかの~? 電話越しは寂しいんじゃよ~。実際に会って愛しの弟子の成長を確かめたいんじゃよ~。なぁええじゃろ~?」
 辟易したように口の端をひくつかせたザイシャは、左の手のひらで顔を覆った。
(相変わらずこの人は……)
 表情を覆う手のひらの横、隠されていない口元が、仕方なさそうに、笑みを作る。
 メギドラ・エイハブ・サレナという呪師は、本当に、どうしようもない人間性をしている。
 デリカシーはないし、下品なジョークは飛ばすし、騙すし、裏切るし、嘘はつくし、こうして悪いところを挙げれば切りが無い。
 でも、自壊タイマーの終わりが近づく身体の寿命を伸ばすために、騙して裏切って嘘もついて、仕事を選ばず、なんでもやったザイシャが、それでも最後の一歩を踏み外さず済んだのは彼女のおかげでもあった。
 父たる創造主のような、無辜の人々すら手にかける化物に堕ちそうになると、ザイシャはいつも、外道極まる最低の彼女が、それでもたった一つ、自分の矜持にだけは真摯であったのを思い出す。
 その穢らわしくも堂々とした、黒百合のごとき横顔を想起するたび、ザイシャは一歩後戻りし、いつか歩むとそう決めた、元の道を歩き出せた。
 結局のところ、ザイシャは今でも、"サレナ先生"に教え導かれる弟子なのだ。
 それだけは認めてあげようとも。────フェリペ・パスカリーの、あの美しい瞳に免じて。
「────いいですよもう。会うくらいなら別に何度でも。課題の出し忘れもありましたし、こちらもいろいろ、したい話や報告が募っていますから」
「……お? おお? えっ許された儂? 許されたの? マジで?」
「全く許してないです調子に乗らないでください絶縁されたいんですか」
 五年ぶりに、師とまともな会話を交わしながら、ザイシャは歩き出す。
「どこで落ち合いましょう。ロンドンの私の家なんていかがですか。お留守番している金朱孔もいますよ」
「ムリムリ。儂が時計塔に近づいてみろ。ユリフィスやジグマリエの連中が涎垂らして標本採集にやってくるわ」
「ナヴォーレ広場の噴水は?」
「聖堂教会の膝下ローマじゃぞ。もっとムリに決まっとるじゃろうが。……というかお主わかって言っとるよな?」
「なんのことやら」
「あんなに素直でわかりやすい子じゃったのに、しばらく会わんうちに擦れたのう、お主……」
「誰のせいですか。誰の」
「はっはっはっ。話は変わるが、顔合わせのついでに死霊魔術の腕も見たい。死体の多い場所は何処ぞあるか? 戦場とか墓地とか。まあ儂は街中で死体を作るのも吝かでないが」
「サレナ先生、神秘の秘匿という言葉はご存知ですか」
「わかっとる! わかっとる! 冗談じゃよ。……となれば最適は、ここ、かのう」
 ザイシャの足が止まった。
「……戻れるんですか、私が。許可は必要でしょう?」
「ふむ。そうじゃな。少し待っておれ。さっきそのへん歩いとったから訊いてこよう。一度切るぞ?」
 電話が切れた。
 "ここ"。師の言葉が何を意味したか、ザイシャはすぐわかった。
 三年以上を師と過ごした森の家だ。確かに条件だけなら悪くない。
 だが、きっと無理だろう。森を荒らし回った他所者を、あの美しくも残酷な、森と群れの庇護者が許すはずもない。
 程なくして着信音が鳴った。
 少し緊張しながらザイシャは電話を取る。
「……はい」
「もわしもわし~? ザイシャ~?」
「なんですかその変な挨拶。どうして急に無駄なオリジナリティを付加したんですか」
「声が硬いから気を解してやろうという儂の粋な計らいを慮らんそのツッコミ、うむ、確かにザイシャじゃな。……でのう。"先祖返り"に訊いてきた。やはり儂以外の自由な出入りは許可できんそうじゃ。あれは儂個人だけの契約じゃからのう」
 当然の返答であった。
 落胆など、ない。
 わかりきっていたことが検められただけだ。
 そうですか、と、ザイシャが平たい声で返答しようとした、そのとき。「じゃが」という前置きが、言葉の出かかりを遮った。
「事前に申請しとれば別に構わんそうでの。儂の弟子ということもあるし、貢物を持ってくれば滞在は許すそうじゃ」
「……………………。……え?」
 思わず間抜けな声が漏れた。
 その声、聞いたか聞こえずか。師は変わらぬ淀みなさで続ける。
「貢物の内容も指定されておるので気をつけよ。────滞在一日につきチキン・アンド・ワッフル一人前」
「…………ちきんあんどわっふる?」
 一瞬にして。今ほど喉奥から込み上げかけた感情のようなものが、困惑に満ちた鸚鵡返しで塗り潰された。
 チキン・アンド・ワッフル。チキン・アンド・ワッフル?
 また冗談か、或いは聞き間違いかと、師と我を疑うザイシャの耳に、いたって真面目な声色が飛び込む。
「ぬ。知らんのか、チキン・アンド・ワッフル? フライドチキンとバターを添えたワッフルにシロップをかけた料理じゃ」
「知ってます。知ってますが……」
 これは、ただの貢物ではないのだ。
 未開の森に棲む幻想種、それも幻獣の位階にあり、神代紋様まで宿した銀狼が、貢納せよと直々に命じる貢物なのである。
 だというのに。
「……俗っぽすぎませんか?」
 ザイシャは思う。
 そこは鶏とか豚とか羊とか牛とか、そういうのじゃないのか、普通。せめて酒だろう、────と。
「どうものう。あやつ昔は人と暮らしたこともあったようで人間の食べ物に…………む? なんじゃ追いかけてきたのか? 何用あるか」
 電話の向こうで物音がした。
 師は対応に出たらしい。ザイシャは耳をスピーカーに貼りつけたまま、しばし沈黙に耳を澄ます。
 ガサガサという雑音が鳴り、師が通話に戻った。
「……もしもしザイシャ? 聞こえておるか?」
「は、はい」
「貢物なんじゃがな。ちと、条件に変更があった」
「変更、ですか。……ですよね。そうですよね。わかりました、どんな変更ですか?」
「本当は材料持ち込みで現地調理が良いが、フライドポテトとコーラもつけるなら市販の冷凍で我慢するそうじゃ」
「────俗っぽすぎませんか?!」
 未開の森を奔り往く、冷徹で、恐ろしくて、それでいて優麗かつ美しい、月下の銀狼。
 幻想的なそんなイメージが、金槌を叩きつけたクラッカーみたいに、粉微塵になっていく。
 なんだ。幻想種がジャンクフードとコーラって。
 酒の類ですらないのか。子供趣味なのか。だいたいどこで冷凍食品なんてもの知ったのか。
 あまりの衝撃で、あっさりと滞在を許されたことへの驚愕すら、どこかに吹き飛んで思い出せなくなっている。
 あたかも味の濃い甘ったるいシロップを大量に上掛けされたかのように、たちまち薄味になってしまったのだ。
「ええじゃろ、ジャンクフードやコーラくらい。考えてもみよ。人里離れたあの森まで生きた牛数頭を引いてこい、などと言われても困るじゃろ?」
「それはそうですけど……」
 未だ承服しかねているザイシャを説き伏せるように師は言葉を続ける。
「良いか。おかげで労せず滞在許可を貰えるんじゃぞ。そこはラッキーと思って素直に喜んでおけば────ああもうさっきから喧しい! 聞こえておるわ! 会話は順番じゃろうが! ちゃんと伝えてやるから黙って待っとれ。……えー、すまんザイシャ。滞在期間にも条件がついておる。あやつが最低でも三人前は食べたいと────わかった。わかったから引っ張るな。……おほん。お主を見極める時間が必要だから、最低でも三日は滞在するように、と言っておる」
「……………………」
「ポテトにはマッシュルームのケッチャップ以外を認めんそうなので、くれぐれも買い忘れんように」
 頭が痛くなってきた。
 もう二の句すら告げられない。
 人里離れた森に何百年も暮らすというあの銀狼もどき、本当に幻獣なのだろうか。
 なんなんだろう、これ。
 得てして現実は綺麗に話をまとめてくれないと承知していたがこうも締まりのないことがあるのか?
「はっはーん。どうせ狼殺しの一件を気にしておるんじゃろ」
「……それは」
「再三言うたじゃろ。やつが庇護しとるのは魔性を継いどらん狼じゃ。そやつらを駒にしたのは群れのもの。やつの監督不行届が主因であり、お主が殺めたのも不徳が招いた結果。儂らは一度協議し、この結論で決着しておる。お主が気に病む必要はない」
「でも」
「……しつこいわ。誰のおかげでこうなったと思っとんじゃ。お主が殺しちゃった殺しちゃったと、いっっっっつまでも引き摺っておる狼どもじゃぞ」
「…………は……?」
「馬鹿者! "先祖返り"は魂が見える(・・・・・)んじゃぞ! それで訊いてみれば、殺したのは許せんが、死後に礼は尽くしておったし、それ以上に日頃いじめ倒してきた色の濃い連中の方が許せんという感触でのう。仔を殺すのだけは避けていたようじゃし? じゃ、まあ、それなら? 許そうということになって? 協議は円満に結して魂も未練なく旅立ちそれから既に五年が経っております。はい、終わり」
「え、え? ……ええぇっ? ま、ま、待ってください、私そんなの初耳────」
「お主が毎度毎度毎度毎度さっさかさっさかさっさか電話切るからじゃろうがぁっ!! 伝える気はあったわっ!! ……で、────もう良いか? 納得してくれたか?」
「……は、はあ……」
「では納得ついでじゃ。貢物もう一人前追加で頼む。儂も久々に甘いもんを食べたい」
「…………冷凍食品のデリバリーを始めた覚えはないんですが」
「ケチケチいうな。儂はお主の師匠じゃぞ? 帰って来るなら孝行せんか」
 わけのわからない形をした色々なものが、重たい息といっしょに、ザイシャの口から溢れ出しそうだった。
 ……が、まあ。でも。なんにせよ。つまりそれは、里帰りのお許しを得られたということで。
「儂のケチャップは普通ので頼むぞ? ワッフルに掛けるシロップは普通のではなくメープルが良い」
「はいはい! 委細承知いたしました! ……ではメギドラ。来週末にまた」
「あいわかった。綺麗に掃除して待っておるぞ~」
 通話が終了した。
 ザイシャは腹を裂く代わりにポケットのフラップを持ち上げて、その中へと携帯電話を押し込んだ。
 ひとつ大仰に肩を竦める。そして再び歩き出す。歩きながら思う。
 まったくあの森というのは、どこを切り取っても、どう捲っても、一体全体ろくなことがない。
 辛かったり苦しかったり腹立たしかったり、なんだかそんな思い出ばっかりで、僅かにあった気がした美しい輝きや、背負っていこうと思った悔恨も、今ほど砕けたばっかりだ。
 それでも、前に進むばかりの自分が、いつでも戻り帰れる場所とは、きっと、この道の先ひとつきりなのだろう────。
 夕暮れの空の下。お使いに出された小さな少女が、てくてくと家路を辿る。
 道急ぐ背中に大きく伸びた影は、心なしか、その足取りを弾ませているように見えた。

 
 

 虚構最高法院サンヘドリン‐エピローグ・ザイシャ『銀狼森の家と助ける理由と』 了