日本プロ野球名球会への入会資格(特に抑え投手)における議論にて、永川勝浩(元広島)を引き合いに出して頻繁に用いられていたフレーズのこと。
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経緯
名球会の入会条件は、1978年の設立当時に「昭和生まれ」かつ「NPBで2000安打 or 200勝を達成する」と定められていたが、投手分業制の確立や有力選手のMLB移籍をはじめとする時代背景の変化に伴い、2003年12月に初めて条件改定が行われる。そこで「通算250セーブ」「対象は日米通算記録*1」の2項目が追加された。
改定当初は「勝利数とセーブ数の合算が250を超える投手も含めるべきではないか」、「投手に2種類の入会条件があるならば、打者も本塁打などを条件に加えるべきではないか」など、様々な議論が起こり、特に250セーブについては「200勝に比べて簡単すぎる*2」との声も大きく、「せめて300セーブにしろ」などの批判を集める。その根拠として示されたのが、下記の永川の成績であった。
永川の経歴
2002年に広島に入団し、ルーキーイヤーの2003年に25セーブを記録した永川は、中継ぎ時代を経て2006年以降はクローザーに定着。12月に29歳となる2009年シーズンの終了時点で通算163セーブ(クローザー時代の年平均は31.4セーブ)を挙げていた。しかし、同時期に抑えとして活躍した藤川球児や岩瀬仁紀と比較して好不調の激しさが顕著であったため、ファンからは「リリーフとしては上々だが、名球会入りを目される守護神としては平凡」という評価を受けていた。
以上の経緯から、「(永川のように)先発では到底200勝できないであろう投手でも、抑えであれば毎年25セーブ以上は挙げられる。これを10年続ければ達成可能な名球会入りの条件は、他と比べてハードルが低すぎる」とする認識が強まり、2000年代後半に「永川でも入れる名球会」という文言が定着する。
250セーブの再評価
永川は2009年シーズンを最後に、故障や不調の影響で抑えの地位を剥奪される。2010年以降はわずか2セーブを記録したのみに終わり、通算も85セーブ満たない165セーブで引退した。
永川に限らず、後述のように250セーブが確実視されるペースで登板を重ねながら、故障や不調が原因で一度クローザーを外された後、クローザーに戻れずセーブ数が伸び悩んだ選手が続出したこともあり、現在は 「先発と比べて過酷で故障しやすいリリーフ投手が、チームで1枠しかない抑え投手に何年も固定され続けること自体が困難」という認識(詳細は後述)が浸透。永川(及び250セーブの基準)に対する批判は減り、「2000安打よりよっぽど困難」「サファテでも入れない名球会」*3と称される傾向が強くなった。
ただし、それでも劇場型の若い投手がセーブを積み重ねた際は、名球会煽りが発生する場合がある。
250セーブ達成者の誕生
このように「困難」と称され、惜しくも達成せずに引退する選手も出続ける中、ついに平野佳寿が2023年10月2日に日米通算250セーブを達成。岩瀬が2010年6月16日に達成して以来、実に13年ぶりのセーブ数準拠での名球会入りとなった。
平野の場合は岩瀬や佐々木主浩、惜しくも達成できなかった藤川といった選手のような「絶対的守護神」イメージがファンを含めて薄く、所謂「劇場型」というイメージが先行されがちである。しかしながら、MLB時代でのセットアッパーとしての活躍や、オリックスのリーグ3連覇への貢献、そして史上初の日米通算200ホールド&200セーブという大記録を達成し、2023年シーズン終了時点で日米通算835登板と長きに渡って活躍しているため、(ネタにされることはあるにせよ)達成によって「250セーブの価値が落ちた」という異論を唱える者は殆ど存在しない。
実際に平野は翌シーズン怪我離脱などもあり12登板、7セーブのみと登板数を減らしており、250セーブ到達前に少しでも躓けば困難であることが改めて浮き彫りとなっている。
250セーブに届かず引退した例
- 赤堀元之(近鉄、1989~2004年)
永川より以前の例。当時「ストッパー」と呼ばれる立場だった絶対的な抑えのエースとして1992~1997年までの6年間で5度の最優秀救援投手*4を獲得*5し、27歳になる同年までに合計で121セーブを挙げるなど圧倒的な投球を見せた*6。
しかし、翌年以降は故障や本人の先発志望による配置転換によって、セーブを挙げないまま通算139セーブで引退。
- 馬原孝浩(ダイエー/ソフトバンク→オリックス、2004~2015年)
永川と併せて議論の対象とされていた投手。12月に30歳となる2011年の時点で180セーブを挙げるも、2012年に右肩の故障が原因でチームを離脱。
以降はクローザーに戻ることもなく、オリックスへの移籍を経て2015年に通算182セーブで引退。
- 藤川球児(阪神→MLB→阪神、1999~2020年)
MLB挑戦前の時点で220セーブを挙げ、帰国後は主にセットアッパーとして活躍。39歳の2019年シーズンは抑えを兼任し16セーブを上積みし、達成まであと7セーブと迫っていた。
しかし、翌2020年シーズンは開幕から不調が続き、手術が必要なレベルの故障も抱えていた事実が判明したことで、日米通算245セーブで同年に引退。数字としては惜しくも届かなかったが、61勝140ホールドの先発・セットアッパーとしての実績もあり、2022年に特例で名球会入りが認められた(後述)。
- デニス・サファテ(MLB→広島→西武→ソフトバンク、2006~2021年)
ソフトバンク移籍後の4年間で175セーブ(年平均43.8セーブ)と圧倒的な成績を残し、2017年にNPB記録のシーズン54セーブを達成。
しかし、2018年の5セーブを最後に故障に苦しみ、翌年以降は一軍登板すら無く引退。2020年に股関節の手術を受けた際、本人が「手術後に現役を続けるのは難しい」と語るなどほぼ再起不能であったことが判明している。日本通算234セーブ*7。
- 山口俊(横浜/DeNA→巨人→MLB→巨人、2006~2022年)
高卒4年目の2009年にクローザーに定着し、そこから2012年までの4年間で通算104セーブを記録。後述の松井が更新するまでは通算100セーブ達成の史上最年少記録も残していた。ただし典型的な劇場型であったため、前述のように名球会煽りの対象となることも多かった。翌2013年は不振に陥り、心機一転を図るために先発転向すると、これ以降はメジャー時代*8を除くと大半のシーズンが先発としての稼働だった。
2022年シーズンをもって通算112セーブで引退。
現役選手の例
- 山﨑康晃(DeNA、2015年~)
ルーキーイヤーから守護神として定着し、2022年に(当時)史上最年少での200セーブを達成し、2023年には通算500登板を達成。ここまで故障離脱はなくコンスタントに登板を重ねているが、順調にセーブを積み重ねていたという訳ではなく、2020年は打ち込まれる場面が増加したこともあり翌21年と合わせて合計7セーブに留まった。他にも2017年は一時外されたほか、2023年後半以降は9回以外でも役割を果たせない試合が増えており、250セーブの達成は難しい状況に陥っている。
- 松井裕樹(楽天→MLB、2014年~)
高卒2年目から抑えに定着。かねてから20代での250セーブ達成が可能とも言われていたが、不振による中継ぎ転向および先発転換等の不安定な起用も影響し、2018・2020年の2シーズンは合計7セーブに留まる。復調した2021年も終盤に故障し、酷使の影響を懸念されたものの、翌シーズン以降も安定してセーブ数を稼ぎ、2023年4月5日の対埼玉西武ライオンズ戦で、山﨑を超える史上最年少での200セーブを達成し、同年中に通算500登板も達成した。
2023年シーズン終了時点で通算236セーブとなり、翌年の達成が確実視されたが、オフにポスティング・システムを利用してサンディエゴ・パドレスに移籍。記録達成の為にはMLBへ適応し抑えとなることが求められるが、パドレスには元阪神のスアレスが抑えとして君臨しており、セーブ数を伸ばすことは簡単ではない状況である。
- 平野佳寿(オリックス→MLB→オリックス、2006年~)
プロ入り当初は先発投手だったが、岡田彰布の監督就任で配置転換が行われ入団4年目から中継ぎを務める。7年目以降は(MLB時代を除き)クローザーのポジションに定着した。達成するまでの17年の間で故障離脱はほぼなく、目立った不調年も2015年のみと異次元の鉄腕ぶりを発揮しており、2022年に日米通算200セーブを達成。前述のように2023年10月2日の対日本ハム戦(京セラドーム大阪)で日米通算250セーブを達成した。
- 益田直也(ロッテ、2012年~)
プロ2年目に33セーブを記録。以降は西野や内といったクローザーへ繋ぐセットアッパーとしての起用が多かったが、2019年からクローザーに指名され着々とセーブを積み重ねる。とはいえファンの肝を冷やすようなギリギリの展開も多く、典型的な劇場型抑えと呼ばれている。特に2022年はオールスター明けから立て続けに打ち込まれた結果クローザーの座をオスナに譲り、お役御免と思われていた…が、同年オフにオスナが自由契約となったため翌シーズンもクローザーとして登板を続けている。2024年には「幕張の防波堤」こと小林雅英の持つ227セーブの球団記録を更新し、シーズン終了時点で通算243セーブとセーブ数での名球会入りまであと一歩のところまで来ている。
これらの土台には新人最多記録の72登板*9や、ルーキーイヤーから12シーズンで703登板という酷使に耐える剛腕があってこそと言える。
当時の論調に対する現状
「入会条件を300セーブとすべき」
「250セーブ以上」の条件を達成して名球会入りした投手は岩瀬*10、佐々木*11、高津臣吾*12、平野*13の4人であるが、平野を除く3人は300セーブを達成しており、岩瀬と平野はセットアッパーだった期間も長いため(後述)単純比較はできない。
「抑えを10年続けることは高いハードルではない」
2024年現在、成績の良し悪しを問わず抑えを10年以上務めた投手は名球会入りメンバーの3名(岩瀬・佐々木・高津)のみである。岩瀬は入団から5年間セットアッパーだったほか*14、平野もセットアッパーとしての期間も含めると14年勝ちパターンのリリーフ投手を務めている計算になる。
現代野球ではクローザーに定着していれば、チームがよほど低迷していない限り少なくとも年間50試合ほどの登板が見込まれるが*15、裏を返せば「25Sを10年続ける前提として、年間50試合登板を10年続けるタフネスが必要」と言える。
しかし、NPBの野球史において10年連続で25S以上を記録した投手は皆無である*16ばかりか、10年連続で50試合以上登板を記録したのも岩瀬と宮西尚生の2名のみ*17*18であり、「セーブを挙げる以前に、登板数の安定した積み上げ自体が極めて難しい」事実が伺える。
加えてクローザーはチームの勝敗に直結するポジションのため、成績が低迷すると配置転換されやすいことから常にチーム内でトップクラスの成績を残し続けることが要求される。
したがって「25S×10年は容易い」という認識自体が大きな誤りであることが、現在進行形で証明され続けている。
歴代セーブ数ランキング(日米通算、2024年シーズン終了時点)
NPBでセーブを記録した選手に限る。
選手名 | セーブ数 |
---|---|
岩瀬仁紀 | 407 |
佐々木主浩 | 381(252) |
高津臣吾 | 313(286) |
平野佳寿(40)† | 257(249) |
【名球会ライン(250S)】 | |
藤川球児 | 245(243) |
益田直也(34)† | 243 |
松井裕樹(28)† | 236 |
D.サファテ | 234 |
小林雅英 | 234(228) |
山﨑康晃(32)† | 231 |
増田達至 | 194 |
江夏豊 | 193 |
馬原孝浩 | 182 |
M.クルーン | 177 |
大塚晶文 | 176(137) |
武田久 | 167 |
R.マルティネス(28)† | 167 |
永川勝浩 | 165 |
†:現役(2023年終了時点での年齢を付す)
()内はNPB単独の記録
認識の変遷
2009年
1 風吹けば名無し 2009/08/28 00:57:10ID:fJ3uwFsg
ぶっちゃけ価値ないよな
尻でも初めて抑えやって15セーブできた*19訳だし
尻以上の力を持った投手なら誰でもできるww7 風吹けば名無し 2009/08/28 00:59:37ID:lTXCmN7/
セーブは意味のない指標
24 風吹けば名無し 2009/08/07 10:40:48ID:M/9PXhyF
名球界はせめて300セーブにしろ
2012年
1 風吹けば名無し 2012/10/26 13:56:52ID:vCv1YSEz
逆に考えると永川や馬原の犠牲があったからこそ、
実際に達成した岩瀬が正しく評価されるようになったのではないか
補足
- MLBにおける250セーブ達成者は37人(2021年シーズン終了時点)。
- 2019年、名球会に「特例入会制度」が創設され「特別な価値を見出だせる成績を残した選手」についてはいずれの入会条件を満たさずとも、理事会の推薦を受けた上で会員の3/4以上の承認を得られれば入会が認められるようになったため、永川らの名球会入りの可能性はゼロではなくなった。
- 2022年には本制度を適用し、藤川および日米通算で100勝100S100Hを達成した上原浩治が入会を認められる見通しとなった。いずれも5セーブで入会基準に含まれた藤川と、勝利数・セーブ数・ホールド数がいずれも100以上の上原に対してのため、36勝・165セーブ・79ホールドの永川はあまり望めるものではないと言える。
- しかしいずれにせよ現代野球において達成が相対的に容易な2000安打*20と極めて困難な200勝や250セーブという評価基準が著しくバランスを欠いていることはよく指摘されることであり、基準の見直しや投球回数、登板数、ホールド数、本塁打数などの項目追加がファンの間で議論に上がるのも事実である。
- また、一般には選手にとって名誉とされる名球会だが、(2000本安打、200勝、250セーブなど自体は偉業ではあるものの)入会基準のバランスとは別のポイントにも目を向けると、会の価値自体も古くから議論があった。
- 当初の入会基準が昭和生まれに限定されていた(現在は平成生まれも入会可能)のは発足の中心となった金田が大正生まれの名選手の影響を排除したかったことによるという説が有力で、所詮は金やん会にすぎなかったというのが往時の代表的な批判である*21。活動内容についても野茂などから「もっと有意義な活動をすべきである」と指摘を受けたことがある。
- 一方、金田は晩年に会の私物化によって不興を買い金田派の谷沢健一、堀内恒夫とともに事実上追放に追い込まれたようで、初期の会員の高齢化も手伝い、名球会は少しずつ変革の時期を迎えているようである。