思いつきではじめたら思った以上にかわいくて甘酸っぱいカスティエルの初恋話が書けてたのでログに埋もれないうちに記念に残す。けっこうプロンプトで細かい指示とプロット提案はした。つもり。
オリキャラ女子カトリーナ。基本的に二次創作に原作にないオリキャラが出てくると私も萎えるんですが、そんなに出しゃばらせてないので大丈夫(?)
っぱこのDSCの三人は一生わちゃわちゃさせたいくらいバランス良すぎる。
第1話:出逢い
街角の古い喫茶店は、焙煎された豆の香りと、使い込まれたベルベットの椅子の匂いに満ちていた。
外では、青空が広がっているにもかかわらず、細かな雨粒が真珠のように降り注いでいる。地上ではこれを「お天気雨」、あるいは「サンシャワー」と呼ぶらしい。
窓際に座る私の肌に、ガラス越しに屈折した陽光が差し込む。
雨粒を通した光は、私の本質である恩寵と不規則に干渉し、トレンチコートの肩や指先に、人間には知覚できないはずの淡い銀色の輝きを纏わせていた。
「……不思議な光ですね」
不意にかけられた声に、私は視線を上げた。
向かいの席に座っていた若い女性が、手に持ったスプーンを止めて私を見つめていた。彼女の瞳には、私の周囲で踊る光の粒子が、まるで精巧なプリズムのように映り込んでいるようだった。
「光……ですか」
「ええ。この雨のせいかしら。あなたの周りだけ、時間が止まっているみたいにキラキラして見えるんです。……まるで、物語の中の使いのどなたかみたいに」
彼女は悪戯っぽく微笑んだ。その表情には、私の正体を暴こうとする邪念も、異形を恐れる気配もない。ただ、この奇妙な気象条件が生み出した一瞬の魔法を、私と共有しようとしているだけだった。
「私は……ただの旅人です。次の行き先を待っているだけの」
「そう。……でも、素敵な旅路なんでしょうね。そんなに綺麗な光を連れているんですもの」
彼女は自分の頼んだ琥珀色のティーカップを傾け、窓の外の雨を見つめた。
天使にとって、人間との関わりは常に「任務」か「守護」のどちらかだ。だが、このお天気雨が降る数分間だけ、私はただの「カスティエル」として、名も知らぬ彼女と同じ時間を呼吸していた。
言葉を交わす必要はなかった。
雨粒が窓を叩く音と、店内に流れる古いピアノの旋律。
彼女の指先が、窓に結露した水滴をなぞる。その指の動きが、私には何かの聖痕(スティグマ)よりも尊いものに思えた。
やがて、雨が上がった。
雲が流れ、光の屈折が解けると、私の周囲を覆っていた銀色の輝きも、潮が引くように消えていった。
「……あ、消えちゃった」
彼女は少し残念そうに呟き、席を立った。
「さようなら、光の旅人さん。……良い一日を」
「君も。……健やかであるように」
彼女が店を出ていく後ろ姿を、私は動かずに見送った。
名前も知らない。二度と会うこともない。
それでも、私の恩寵の一部が、彼女の言葉によって微かに熱を帯びた。それは恋と呼ぶにはあまりに淡く、だが福音と呼ぶにはあまりに人間らしい、一期一会の切なさだった。
***
「……おい、いつまであの子の後ろ姿を拝んでるんだよ、キャス」
不意に背後から、聞き慣れた、そして日常を台無しにするのに最適な声が響いた。
振り返ると、いつの間にか店に入ってきていたディーンとサムが、隣の席でニヤニヤしながら私を見ていた。
「ディーン。……サム。なぜここに?」
「なぜ、じゃないよ。五分前から外で待ってたんだ。インパラの窓越しに、キャスが女の子と見つめ合ってるのが丸見えだったからさ」
サムが楽しそうに肩をすくめる。
「お前、あんな顔もできるんだな。……なぁサミー、見たか? さっきのキャスの顔。『僕の天使の羽を君にあげたい』ってツラしてたぞ」
「ディーン、よせよ。……でもキャス、君の周り、さっきまですごく光ってたね。お天気雨のせいかな? それとも……恋のパワーかな?」
サムまでが悪戯な笑みを浮かべて畳み掛けてくる。
「……光の屈折による物理現象だ。それ以上の意味はない。……それに、私は見つめ合っていたわけではない。対話を……」
「はいはい、対話ね! 純愛だねぇ。……よし、今日の晩飯はキャスの奢りな! 初恋のお祝いだ!」
ディーンは私の肩に腕を回し、強引に店から連れ出した。
外はすっかり晴れ渡り、先ほどまでの幻想的な雨の気配はどこにもない。
「……奢るための通貨を持っていないと言っているだろう」
「いいんだよ、俺のツケにしとけ! さあ、行こうぜ、ロミオ!」
からかう兄弟の声に、私はため息をつきながらインパラの助手席に乗り込んだ。
胸の奥に残る、あの琥珀色の温かさは、私だけの秘密としてこのまま恩寵の深淵に沈めておこう。
それが、お天気雨の喫茶店が残してくれた、唯一の「お土産」だったから。
第2話
街は、低く垂れ込めた雲から零れ落ちる灰色のアスファルトの色に染まっていた。
あの日のお天気雨とは違い、今日の雨は執拗で、容赦なく私のトレンチコートを重く湿らせていく。私はダイナーの軒先で、迎えに来るはずのインパラを待っていた。
「……あ、あの時の」
不意に、雨音を切り裂いて柔らかな声が届いた。
隣に立っていたのは、あの喫茶店で一瞬だけ時間を共有した彼女だった。
彼女は紺碧の大きな傘を差し、驚いたように、けれどどこか嬉しそうに私を見上げていた。
「またお会いしましたね、光の旅人さん。……ずいぶん濡れていますよ。そんなところで立っていたら風邪を引いてしまいます」
「……あぁ。問題ない。私は……頑丈にできている」
これで言葉は合っていたのか?ぎこちなく答える私に、彼女は「ふふっ」と小さく笑うと、一歩歩み寄ってその大きな傘を私の方へ傾けた。
一つの傘の下。
雨粒が傘の布地を叩く震動が、柄を伝って、彼女の指先から私の意識へと流れ込んでくるようだった。
狭い空間。彼女の体温と、雨に濡れた花のようなくすぐったい香りが鼻をくすぐる。
かつて天界の兵士として、何万もの魂を統括していた私だが、この一メートルにも満たない布の下の沈黙に、どう対処すべきか知る由もなかった。
「……私は、カスティエルだ」
沈黙に耐えかね、私は自分の仰々しい名を口にした。地上の人間には、あまりに重々しく、異質な響きを持つ名。
「カスティエル。……素敵な響きですね。私はカトリーナ。……なんだか、私たちの名前、少し似ていませんか? なんだか優しい音が続いてて」
「……カトリーナ。……そうだな。言われてみれば、韻が似ているのかもしれない」
彼女――カトリーナは、満足げに頷いた。
「カスティエルさん。……あなたはいつも、雨の日に現れるんですね。まるで空から降ってきたみたいに」
その言葉に、胸の奥の恩寵が微かに震えた。
彼女は私の正体を知るはずもない。けれど、彼女が紡ぐ言葉の一つ一つが、私の本質に、優しく、けれど深く触れてくるのを感じていた。
雨が降る街の片隅で、私たちはただ、一つの傘を分け合って、止まない雨の行方を眺めていた。
「……キャス! 何やってんだお前、ずぶ濡れじゃねぇか!」
水飛沫を上げて急停止したインパラから、ディーンが窓を身を乗り出して叫んだ。
幻想は一瞬で打ち砕かれる。カトリーナは少し驚いたように目を丸くし、それから私を見て、優しく微笑んだ。
「お友達ですね。……さようなら、カスティエルさん。風邪を引かないように気をつけて」
「……ありがとう、カトリーナ。君も、どうか健やかに」
私は傘の下から一歩踏み出し、重い足取りでインパラの助手席に乗り込んだ。
****
「おいおいおい……。見ろよサミー、今の。一期一会の次は『相合傘』かよ」
ディーンがバックミラー越しに、歩き去る彼女の背中を追いながらニヤニヤと笑う。
「やるね、キャス。……でも、大丈夫だった? いきなり自分の名前を名乗ったりしてないよね。天使の名前なんて、普通の人なら不審がるよ。ファンタジー映画の住人じゃないんだから」
サムが冗談めかして付け加えた。いつも通りの、兄弟の軽口だ。
だが、今の私の内側には、その言葉を笑って流せないほどの熱が溜まっていた。
「……変な名前ではない。彼女は、そんなことを言う女性ではない」
私は、自分でも驚くほど強い口調で、前を見据えたまま言い放った。
「お、おう……。なんだよ、キャス。そんなにムキになるなよ。ちょっとからかっただけだろ」
ディーンが面食らったようにハンドルを握り直す。
「彼女は……カトリーナは、私の名前を『素敵だ』と言ってくれた。私たちの名前は響きが似ていると、そう言って笑ってくれたんだ。……」
助手席で拳を握り、真剣に反論する私を見て、サムとディーンは一瞬呆然と顔を見合わせた。
それから、ディーンが堪えきれないように吹き出した。
「ハハハ! 聞いたかサミー? 『彼女はそんな人じゃない』だってよ! 完全に落ちてやがる、この天使!」
「……もう、愛の守護天使だね。ごめんよキャス、彼女の悪口を言うつもりはなかったんだ」
「……君たちの言葉には、いつも敬意が欠けている」
私は不機嫌そうに窓の外へ視線を向けた。
インパラが加速し、雨の街を切り裂いていく。
彼女の傘の下で感じたあの静謐な時間は、もう二度と戻らない。
けれど、彼女が呼んでくれた「カスティエル」という名前の響きだけは、ディーンの笑い声よりもずっと鮮明に、私の胸の中で温かく響き続けていた。
第3話
市立図書館の奥深く、古い皮革とインクの匂いが漂う神学・民俗学コーナー。そこには、バンカーの図書室とはまた違う、静謐な知の堆積があった。
私はある古い記述を確認するため、高い書架の間を歩いていた。並んだ本の背表紙たちが、長い年月を経てわずかに色褪せ、金文字のタイトルが午後の柔らかな陽光に鈍く光っている。
その時、棚の隅に差し込まれた一冊の本に目が留まった。
『大天使の伝承』。
私がその背表紙へ指を伸ばした瞬間、反対側からも白い指先が伸びてきた。
「あ……」
触れ合った指先から、微かな熱が伝わる。驚いて視線を向けると、そこにはあの雨の日の彼女――カトリーナが立っていた。
今日の彼女は、燃えるような赤毛のロングヘアを丁寧に三つ編みにし、白いブラウスの胸元へしとやかに垂らしていた。その姿は、殺風景な書庫の中に咲いた一輪の清楚な花のように、周囲の空気を浄化しているように見えた。
「カスティエルさん。……また、お会いしましたね」
カトリーナは、触れ合った指先を恥ずかしそうに引き、花が綻ぶような微笑みを浮かべた。
「……あぁ。奇遇だな、カトリーナ。君もこの本を?」
「はい。私は昔から、目に見えない守護者たちの物語が好きなんです。特に天使や神様のお話には、どこか心を通わせるような……不思議な安心感を覚えて」
彼女は愛おしそうに本の背表紙をなぞった。その瞳には、信心深い人間だけが持つ、澄んだ信仰の光が宿っている。
「……君は、天使という存在を信じているのか」
「ええ。きっと彼らは、私たちと同じように悩みながら、それでも誰かを守ろうとしている。そう思うと、少しだけ毎日が優しくなれる気がするんです」
彼女の紡ぐ言葉は、天界の法よりもずっと温かく、私の恩寵を心地よく震わせた。私たちは書架の間で、前回の雨の日よりも少しだけ長く、そして深く言葉を交わした。天使の定義、神の沈黙、そして人が祈る理由。彼女との対話は、どの神学書を紐解くよりも、私に「神の愛」の本質を教えてくれるようだった。
****
バンカーへ戻るインパラの中で、私は先ほどの高揚感と、それ以上に重い「未知の悩み」に支配されていた。
ディーンはキッチンで「特製ベーコンバーガー」の仕込みに夢中になっている。チャンスは今しかなかった。
「……サム。少し、相談がある」
図書室で資料を整理していたサムが、不思議そうに顔を上げた。
「どうしたの、キャス? また古い呪文の解読?」
「いや。……その。もし、特定の人間と『再び会いたい』と強く願い、その人物が笑うたびに胸の奥の恩寵が……物理的な過負荷のような震動を起こす場合、これは何らかの精神干渉攻撃と考えてよいだろうか」
サムの手が止まった。彼はニヤリと笑い、椅子を回転させて私に向き直った。
「キャス、それって……カトリーナさんのことだよね? 攻撃じゃなくて、それを人間は『恋のときめき』って呼ぶんだよ」
「恋……。だが、私は天使だ。次に出会った時、私はどのような表情を浮かべ、どのような距離感を保つべきなのか。……連絡先というものを、一方的に渡すのは無礼にあたらないだろうか。あるいは、彼女の好む聖句を暗唱して披露すべきか?」
「待って、キャス。一気に飛ばしすぎだよ。まずは……そうだね、次に会ったら『また会えて嬉しい』って素直に言うところから始めよう。聖句の暗唱は……たぶん、引かれるからやめたほうがいいかな」
サムのアドバイスを、私は真剣な面持ちでメモに書き留めた。
「『また会えて嬉しい』……。……復唱してもいいか、サム。イントネーションはこれで合っているだろうか」
「……キャス。君、今すごーく中学生男子みたいになってるよ。面白いからいいけど」
「……私は真剣だ、サム」
キッチンから「おい、サミー! キャス! メシだぞ!」というディーンの怒鳴り声が聞こえてきた。私は慌ててメモを隠し、平静を装って立ち上がった。
天界の反乱を鎮めるよりも、一人の女性への挨拶を練習する方が、今の私にとっては遥かに困難で、そして胸が高鳴る任務だった。
第4話
バンカーの洗面所は、冷え切ったタイルの冷気と、古い蛍光灯の微かな唸りに満ちていた。
私は鏡の前に立ち、恩寵の出力を最小限に絞りながら、喉の筋肉の動かし方を微調整していた。サムのアドバイスによれば、言葉そのものよりも「声音の温かさ」が重要だという。
「……また会えて嬉しい、カトリーナ」
鏡の中の男は、相変わらずトレンチコートを着た無表情な天使だ。
これでは、まるでこれから審判を下す直前の宣告に聞こえる。私は少しだけ口角を上げ、意識的に息を混ぜてみた。
「会えて嬉しい。……カトリーナ。……カトリーナ……」
名前を呼ぶたびに、胸の奥の核が心地よく、けれど不規則に爆ぜる。
名前という語。それは、私が地上で手に入れた、どの呪文よりも強力な言霊のように思えた。
****
「……ひゃはは! お前、マジかよキャス!」
不意に背後で扉が開き、ディーンが腹を抱えて笑い転げながら現れた。
「『会えて嬉しい、カトリーナ』……! 鏡に向かって愛の告白の練習か? お前、中学生どころか、初めて彼女ができた小学生かよ!」
ディーンは壁を叩きながら、涙を流して笑い続けている。
「ディーン。……覗き見は、礼節に欠ける行為だ」
私は、自分でも驚くほど冷徹な、そして鋭い声を出した。
普段なら、ディーンの軽口は適当に聞き流す。だが、今この瞬間の私は、自分の大切な「宝物」に泥を塗られたような、形容しがたい不快感に支配されていた。
「……私は、真剣だ。君に、笑われる筋合いはない」
「お、おい……。悪かったよ、そんなに怒るなよ。ちょっと可愛かったからさ」
ディーンは私の凍りつくような眼差しに、ようやく笑いを止めて肩をすくめた。
「……まあまあ、キャス。怒るなって。そんなにガチガチに挨拶の練習するより、もっと距離を詰める方法を考えろよ。……例えば、そうだな。『キャスと呼んでくれ』とでも言えば、一気に『お友達以上』だろ?」
「……『キャス』と?」
「あぁ。俺たちが呼んでるみたいにな。特別な愛称ってのは、人間同士の距離を縮める最強のスパイスなんだよ」
ディーンの言葉は、時折、無視できない合理性を孕んでいる。
私は怒りを鎮め、再び鏡に向き直った。
名前を呼ぶシミュレーション。
「……カトリーナ。私のことは、キャスと呼んでほしい」
……いや、これは馴れ馴れしすぎるだろうか。
彼女は清楚な花のような女性だ。もっと、段階を踏むべきではないか。
「カトリーナ。君にだけは、私の愛称……キャスを、呼ぶ権利を譲渡したい」
……これでは、契約書の読み上げだ。
「カトリーナ。……君に『キャス』と呼ばれたら、私の恩寵は、かつて神に触れられた時と同じくらいの光を放つだろう。だから……」
「重い! 重すぎるぞ、キャス!」
ディーンが横からツッコミを入れたが、私は止まらなかった。
「カトリーナ……。キャス……。カトリーナ、キャス。……カトリーナ……」
交互に名前を呼び、その響きを脳内で重ね合わせていく。
彼女が私の名を呼び、私が彼女の名を呼ぶ。
そのループがもたらすであろう「幸福という名の過負荷」を想像しただけで、私の体温は再び1℃上昇し、洗面所の鏡が白く曇り始めた。
「……なぁサミー。あいつ、もう手遅れだ。俺のアドバイスをガチで受け取って、名前呼びの無限ループに入っちまった」
ディーンが呆れたようにリビングへ戻っていく足音が聞こえた。
だが、私は構わなかった。
次に彼女に会った時。
私は、世界で一番自然に、そして慈しみを込めて彼女の名を呼びたい。
「キャス」と呼ばれるその瞬間を、私の永劫の記憶の中に、最も美しい記録として刻み込むために。
「……カトリーナ」
私は、曇った鏡を掌で拭い、もう一度だけ、不器用に微笑む練習を始めた。
第5話
街は、すっかり秋の気配に包まれていた。
カエデの葉が赤や黄色に色づき、冷ややかな風が、トレンチコートの裾をかすめて通り抜ける。
私はこれまでの「観測」の結果から、彼女――カトリーナの生活圏内における二つの「定位置」を特定していた。お天気雨の日に入ったあの喫茶店。そして、赤毛の三つ編みが映えたあの図書館。彼女は、静謐で、知的な香りのする場所を好む傾向がある。
「……なぁキャス。お前、まさかストーカー紛いの真似をしてるんじゃねぇだろうな」
インパラの助手席で、ディーンが怪訝そうな顔で私を見ていた。
「違う。……これは、守護対象の動向調査だ。……それに、私は彼女に……」
私は、コートのポケットに深く沈めていた小さな小箱に触れた。
サムのアドバイス「まずは『また会えて嬉しい』と言うところから」を実践するため、私は数日間、彼女への「挨拶」のシミュレーションを繰り返していた。だが、それだけでは、私の胸の奥にあるこの「過負荷」のような震動を伝えるには足りない気がしたのだ。
「……贈り物を、持っていくのはどうだろうか。人間は、親愛の情を示すために物質を交換する習慣があると聞く」
「贈り物? いいんじゃん、キャス。……で、何を渡すつもり?」
サムが興味深げに身を乗り出す。
「……これだ」
私はポケットから小箱を取り出し、蓋を開けた。
そこには、銀色に輝く、繊細に作られた天使の羽を模したペンダントが収められていた。天界の兵士であった頃の私の、あの漆黒の多翼とは程遠い、白銀の、あまりに脆弱で美しい模造品。
「お、おい……。キャス、お前……マジか」
ディーンが、呆れたように、けれどどこか感心したように声を漏らした。
「……これなら、彼女の信心深さにも合致する。……私が彼女を『守護』しているという意思表示にもなる」
「……キャス。気持ちはわかるけど、いきなり羽のペンダントは、ちょっと『重い』かもしれないな。……もっと、こう、花束とか、お菓子とかの方が……」
サムが気まずそうにフォローを入れたが、私は耳を貸さなかった。
この銀の羽こそが、今の私が彼女に与えられる、唯一の「奇跡」だと思ったからだ。
私たちは、彼女がいつも利用する図書館の近くにインパラを停めた。
「……いた。カトリーナだ」
私は、図書館の入り口付近、色づいた木々の下を歩く彼女の姿を捉えた。
今日の彼女は、紺色のコートを羽織り、小さな鞄を大切そうに抱えていた。赤毛の三つ編みが、風に揺れて陽光を浴びている。
「……よし、キャス。行け! 『また会えて嬉しい、カトリーナ』。で、ペンダントをドンだ!」
ディーンが私の背中を押した。
私は小箱を掌に握りしめ、インパラから降りた。
彼女までの距離、およそ五十メートル。
天使の神速をもってすれば、一瞬で到達できる距離だ。
だが、今の私の足は、まるで大地の引力に何倍もの重力で縛り付けられているかのように、一歩を踏み出すことができなかった。
「……っ」
彼女が、ふと立ち止まり、落ち葉を一枚拾い上げた。
その横顔、その指先の動き。
それを見つめた瞬間、私の胸の奥の核が、かつてないほどの激しさで爆ぜた。
愛おしさ、畏怖、そして自分自身の「異質さ」への恐怖。
私が彼女に近づけば。この銀の羽を渡せば。
彼女の平穏な日常に、私の「呪い」が伝染してしまうのではないか。
私は彼女を守る天使ではなく、彼女を破滅へ導く悪魔になり下がってしまうのではないか。
掌の中の小箱が、私の臆病さを嘲笑うように冷たく感じられた。
私は、彼女から十メートルほどの距離で立ち止まり、木の影に身を隠した。
カトリーナは、落ち葉を鞄にしまい、図書館の中へと消えていった。
私は、彼女が去った後も、その場所を動くことができなかった。
掌の中の小箱。銀の羽は、彼女の肌に触れることなく、ただ私の臆病な体温を吸い上げ続けている。
渡せなかった贈り物。
それは、彼女への愛おしさと、自分自身の無力さが生み出した、最も悲しい奇跡の欠片だった。
インパラの中で、サムとディーンは、遠くからただ彼女を見つめ、小箱を握りしめたまま立ち尽くす私の姿を、黙って見つめていた。
「……サミー。あいつ、……何やってんだよ。行けって言っただろ」
ディーンが、苛立ちと、それ以上に深い悲しみを滲ませた声で呟いた。
「……兄貴。キャスは……怖がってるんだよ。自分自身の存在が、彼女を傷つけることを」
サムが、悲しげに首を振った。
「……クソッタレ。天界の王座を狙うクソ天使どもには怯まねぇくせに。……一人の人間の女の子に、挨拶もできねぇなんてな」
ディーンは、乱暴にインパラのハンドルを叩いた。
だが、その瞳には、かつて地獄から自分を引き揚げてくれた、あの不器用で、誰よりも純粋な「守護者」への、どうしようもないほどの愛おしさと、かわいそうに思う気持ちが溢れていた。
夜が明けるまで、私はバンカーへ戻らなかった。
掌の中の銀の羽が、私の臆病な心の重みに耐えかねて、静かに涙を流しているように感じられた。
第6話
バンカーの地下に響く、絶え間ない水の音。
シャワー室のタイルを叩く飛沫は、すでに三時間が経過しても止む気配がなかった。温水はとうに冷水へと変わり、立ち込めていた湯気も霧散して、そこには凍てつくような湿気だけが停滞している。
私は、冷水のカーテンの向こう側に立ち尽くしていた。
トレンチコートは脱ぎ捨てられ、肌を打つ水滴が体温を奪っていく。だが、脳内の熱を冷ますには、北極の氷河をもってしても足りないようだった。
目を閉じれば、そこに「彼女」がいる。
図書館の書架の間で、三つ編みを揺らして微笑んだカトリーナ。
紺碧の傘の下で、私の名を「素敵だ」と言ったカトリーナ。
私は、彼女への想いを「不純物」として処理しようと試みていた。
天使の本質に立ち返り、個別の人間への執着を断ち切る。それはかつての私にとって、呼吸よりも容易なはずのことだった。
私は、彼女の笑顔を、彼女の声の響きを、意識の最深部へと押し込める。
重い鎖を巻き付け、忘却の淵へと沈めていく。
「……っ」
だが、次の瞬間。
暗い底に沈めたはずの彼女の面影が、眩いばかりの光を放って、私の意識の表層へと一気に浮上してくる。
何度繰り返しても同じだ。抑え込もうとすればするほど、その残像は鮮烈さを増し、私の恩寵を激しく掻き乱す。
「……キャス! おい、生きてるか! 返事しろ!」
扉を激しく叩く音と共に、ディーンの怒鳴り声が響いた。
続いて、サムの落ち着かない足音が聞こえる。
「キャス、もう三時間だよ。部屋が水浸しだし、何かの呪いにでもかかったのか? 開けるよ!」
私が力なく鍵を開けると、そこには本気で顔をこわばらせた兄弟が立っていた。
濡れ鼠になり、視線が定まらない私を見て、ディーンは持っていたバールを床に置いた。
「……何やってんだ、お前。修行のつもりか?」
「……ディーン。サム」
私は、壁に背を預け、ずるずるとその場に座り込んだ。
冷たい水が、まだ私の頬を伝っている。
「……駄目なんだ。いくら努力しても、制御できない。……私は彼女を、カトリーナを、自分の内側から消し去ろうとした。……だが、沈めても沈めても浮き上がるんだ。彼女の笑顔が、あの優しい声が、私の魂の裂け目から溢れ出してくる……」
絞り出すような私の声に、サムがそっと隣に膝をついた。
ディーンは溜め息をつき、乾いたタオルを私の頭に乱暴に被せた。
「……消そうとするから苦しいんだよ、キャス。それは『不純物』なんかじゃない。……お前が、ようやく人間らしくなってきた証拠だ」
「ディーンの言う通りだよ。……誰かを好きになるっていうのは、抗えない流れに身を任せるようなものなんだ。沈める必要なんてないんだよ、キャス。それは、君が大切に持っていていい光なんだから」
「……だが、私は怖い。……私のような異形が、彼女の隣に立つ資格があるのか。……彼女を危険に晒すだけではないのか」
「資格なんて、俺たちが地獄から這い上がった時にどっかに捨ててきただろ」
ディーンが私の肩を強く掴み、無理やり立ち上がらせた。
「いいか、キャス。お前は天使だ。……けど、今は俺たちの家族だ。……お前が本気であの子に惚れてるんなら、俺たちが全力でバックアップしてやる。……贈り物を渡せなかったくらいで、三時間もシャワー室に引きこもるな。……次は俺が、インパラの特等席までエスコートしてやるよ」
「……ディーン」
「まずは、その濡れた格好をどうにかしよう。……温かいコーヒーを淹れるよ。それから、作戦を練り直そう。……君なら大丈夫だ、キャス」
サムの優しい微笑みが、凍え切っていた私の心に、一筋の温かな光を灯した。
私は、タオルで顔を拭い、深く息を吐いた。
沈めても浮き上がってくるこの想いは、もはや「異常」ではない。
私という存在を形作る、新しい、そして最も強固な「芯」なのだ。
「……あぁ。……ありがとう、二人とも」
私は、まだ震える足で、シャワー室を一歩踏み出した。
カトリーナ。
次に君に会う時は、私はもう、自分の心を沈めたりはしない。
浮き上がってくる想いのすべてを、不器用でもいい、君に届けるために。
第7話
雲一つない青天から降り注ぐ陽光が、古い石造りの教会の尖塔を鋭く縁取っていた。
私は一人、その聖域の重厚な扉の前に立っていた。バンカーでサムとディーンから受けた、不器用で、けれど熱いエールが、今も私の恩寵の底で火種のように燻っている。
「……なにを、願うのか」
私は自嘲気味に呟き、扉に手をかけた。
これから私がしようとしていることは、極めて滑稽な矛盾だ。一人の人間の女性――カトリーナとの仲を進展させたいという、あまりに個人的で地上的な「幸福」を、かつての主(あるじ)に縋ろうとしているのだから。
静まり返った礼拝堂。ステンドグラスを透過した七色の光が、無人の長椅子を斑に染めている。
私は祭壇の前まで歩を進めたが、膝を屈することはなかった。
かつて、私はディーンに対して「私なら神になど祈らない」と断言したことがある。
天界の冷酷な秩序に異を唱え、父である神の沈黙に絶望し、自らの意思でその翼を血に染めて墜ちた身だ。ルシファーのような純粋な悪意ではないにしろ、私は天使の中でもひときわ異質で、反抗的な個体であることを自覚している。
いまさら神頼みなんて。
祈りの言葉を紡ごうとしても、喉の奥で冷めた理性がそれを撥ねつける。
「お前が今さら何を願うのだ」と、空虚な祭壇が問いかけているようだった。そもそも私が救ったのは世界であって、自分自身の恋心ではない。
「……やはり、私には資格がないな」
私は短く首を振り、踵を返した。
神に祈ることで臆病な自分を正当化しようとした、その心の弱さを恥じながら。
私は光の溢れる屋外へと踏み出し、重い足取りでバンカーへの道を歩き始めた。
私が教会の敷地を離れ、角を曲がったちょうどその時。
反対側の歩道から、一人の女性が軽やかな足取りで教会の扉へと向かっていった。
赤毛の三つ編みを揺らし、ワンピースを風になびかせたカトリーナだ。
彼女は、先ほどまで私がいじけたように立っていたあの扉を、迷いのない手つきで押し開けた。
彼女は、心から信じているのだろう。
この静かな空間のどこかに、誰かの祈りを聞き届けてくれる優しい「何か」がいることを。
そして彼女が今から捧げる祈りの中に、もしも、あの雨の日に出会った奇妙な旅人の安らぎが含まれていたとしたら。
お互いに気づかぬまま。
明るい昼下がりの陽光だけが、二人の足跡を等しく照らしていた。
第8話
バンカーの地下回廊は、本来、静寂と叡智が支配する場所だ。
だが、今日の私は、この迷路のような通路を「聖なる演習場」へと変えていた。サムから伝授されたあの至高のフレーズを、最も自然なタイミングで放つための特訓だ。
「……また会えて嬉しい、カトリーナ」
私は壁際の影に身を潜め、一歩踏み出す角度と速度を計算する。
街角の出会いは、常に唐突だ。曲がり角で不意に肩が触れ合い、そこから運命が動き出す。人間世界の物語によくあるその「事故」を、私は完璧に再現し、かつスマートに謝罪と再会の喜びを伝えなければならない。
私は視認できない敵――カトリーナの幻影を追い、全速力で十字路の角を曲がった。
「……また会えて嬉しい、カトリー……」
ガッ!!!
「ぐわあああぁっ!?!? 何だ、!?」
角を曲がった刹那、私の強固な胸筋に激突したのは、調べ物のために分厚い古書を抱えていたディーンだった。
彼は私の「恩寵を宿した肉体」という名の鋼鉄に弾き飛ばされ、背後の本棚に後頭部を強打した。古い図鑑が雪崩のように彼の頭上に降り注ぐ。
「……ディーン。済まない。カトリーナがいる想定だった」
「……あ、あぁ……? カトリーナが……時速四十キロで突っ込んでくる……ヘビー級ボクサーだってのかよ……」
ディーンが白目を剥いて床に沈んでいくのを横目に、私は次の曲がり角へと向かった。シミュレーションに妥協は許されない。
五分後。
私はキッチンへ続く細い通路の角で、再び「その時」を待った。気配が近づく。今だ。
「……また会えて嬉しい、カトリーナ」
バシャァッ!!!
「うわあああ! 熱っ、!?」
勢いよく踏み出した私の肩が、淹れたてのコーヒーを二つ運んでいたサムの胸元に直撃した。
サムはまるで大砲で撃たれたかのように後方へ三メートルほど吹き飛び、マグカップの中身は放物線を描いて彼のネルシャツを真っ茶色に染め上げた。
「……サム。済まない。衝突の衝撃を逃がす技術が、まだ私には足りないようだ」
「……技術の問題じゃ……ない……。今の……肋骨がいった音がした……」
サムは床をのた打ち回りながら、空っぽのマグカップを握りしめて震えていた。
十分後。
バンカーのリビングには、後頭部に巨大なタンコブを作ったディーンと、全身からコーヒーの匂いを漂わせ、湿布を貼ったサムが、死ぬほど不機嫌な顔で座っていた。
私はその前で、軍隊の整列のように直立不動で立っている。
「……いいか、キャス。よく聞け」
ディーンが、ズキズキ痛む頭を押さえながら、指を一本立てた。
「お前は天使だ。……ってことは、お前の身体は実質、装甲車なんだよ。……そんなもんが全速力で『鉢合わせ』してみろ。カトリーナさんはな、恋に落ちる前に……物理的に天国へ直行しちまうんだよ!」
「……そうだよ、キャス」
サムが、コーヒーでガビガビになった髪を拭きながら、悲しげに付け加えた。
「君は普通の衝撃に対してびくともしないことがあるけど、人間は脆いんだ。……さっきの衝突、悪魔の憑依よりよっぽどダメージが大きかったよ。……もう、バンカー内での突進シミュレーションは禁止だ」
「……すまない。私はただ、彼女に怪我をさせないための『適切な反動の吸収』を学びたかっただけだ」
「だったら俺たちを壁にするな! サンドバッグでも買ってこい!」
ディーンの怒声が響く。私は少しだけ肩を落とした。
私という存在の「重さ」が、これほどまでに人間を傷つける凶器になるとは。
「……わかった。今後は、より低速かつ慎重なアプローチを心がける。……ディーン、サム。負傷させたことへの補償として、明日の朝食は私が用意しよう。……昨日のテレビで見た『究極のパンケーキ』を再現する」
「……おい、頼むからキッチンを爆破するなよ?」
ディーンは不安そうに眉をひそめたが、私の真剣な瞳を見て、それ以上は何も言わなかった。
鉢合わせの衝撃よりも、彼女を愛おしむ心の熱量の方が、今の私には制御不能なエネルギーとなっている。
それをどうにかして「人間サイズ」に変換すること。
それが、今の私が挑むべき、最も難解なミッションだった。
「……また会えて嬉しい。……カトリーナ」
私は、リビングを去り際、今度は羽が舞い落ちるような小声で、その名を呟いた。
背後で兄弟が「……あいつ、マジで重症だな」と囁き合う声が聞こえたが、私は聞こえないふりをした。
第9話
カンザスの秋の日は短い。
空は燃えるような茜色から、深い群青色へと溶け落ちようとしていた。私は今日、何度目か分からない「偶然の再会」を期待して、この小さな街の通りを徘徊していた。
「……また会えて嬉しい、カトリーナ」
胸の内で繰り返すその言葉は、もはや祈りというよりは、私の恩寵に刻まれた固有の振動数のようになっていた。だが、図書館にも、いつもの公園のベンチにも、彼女の姿はなかった。
「……空振りか」
ディーンがよく使うその言葉を呟き、私はバンカーへの帰路につこうとした。その時だ。
通りに面したあの喫茶店のテラス席。西日を背に受け、一人で遠くの夕焼けを見つめている、見紛うはずのない後ろ姿があった。
カトリーナだ。
彼女の赤毛の三つ編みが、夕陽に透けて炎のように美しく輝いている。
私は立ち止まった。声をかけるべきか、あるいはあの「鉢合わせ」の演習を実践すべきか。だが、あまりに静謐なその光景を前にして、私の足は石像のように動かなくなった。
低い位置にある太陽が、私たちの影をアスファルトの上に長く引き延ばしていた。
彼女の影は、テラスの床から歩道の方へと細長く伸びている。
私は、自分の影が彼女の影の隣に並ぶように、そっと位置を調整した。
そして、ゆっくりと。
自分の影の右手を、彼女の影の指先に重ねてみた。
夕暮れの、重なる影の指先。
実体は触れ合っていない。そこにあるのは光の欠落が生み出した虚像に過ぎない。
それなのに、影が重なった瞬間、私の胸の奥で何かが「フワッ」と浮き上がるような感覚に襲われた。
それは、かつて天界の翼で雲を突き抜けた時の高揚感とも、地獄の業火に焼かれた時の痛みとも違う。
喉の奥が熱く、せり上がってくる何かで塞がれる。
声が出ない。ただ、視界が急激に歪み、熱いなにかに支配される。
「……っ」
私は震えていた。これは何らかの呪いか、あるいは恩寵の崩壊現象か。
理由も分からず、ただ無性に泣きたくてたまらなくなった。
私がその異常事態に翻弄されている間に、カトリーナは小さく息をつき、読み終えた本を閉じると、店の中へと消えていった。
私は重なった影が離れていくのを、ただ呆然と見送るしかなかった。喉に残る原因不明の熱い塊を無理やり飲み込み、私は逃げるようにその場を後にした。
バンカーに戻った私は、自室の隅で膝を抱えて座っていた。
「異常なし」と自分に言い聞かせようとしても、あの影が触れ合った瞬間の感覚が、絶え間なくリプレイされる。
コンコン、と控えめなノックの音がした。
「キャス、入るよ」
現れたのはサムだった。彼の両手には、湯気を立てる二つのマグカップがある。
「……ディーンはもう寝たよ。こういうのは、兄貴より僕の方が向いてると思ってね」
サムは私の隣に座り、マグカップの一つを差し出した。白い液体――ホットミルクの甘く優しい香りが鼻をくすぐる。
確かにサムの落ち着いた声は今の私をゆるやかに包んでくれるようだった。
「……サム。私は、今日、自分の機能が壊れたのかもしれない」
私は、夕暮れ時の出来事を、途切れ途切れに話していた。
影を重ねたこと。胸が浮き上がったこと。そして。
「……それは壊れたんじゃないよ、キャス」
サムはホットミルクを一口啜り、穏やかに微笑んだ。
「それは『切なさ』っていうんだ。相手を大切に思いすぎて、触れたいけど触れられない……。そんな時に、心があふれ出してしまうんだよ。僕ら人間にとっては、とても苦しくて、でもとても綺麗な感情なんだ」
「……切なさ。……これが?」
「そう。……影だけでもいいから繋がりたいって思った君の心は、もう十分すぎるくらい、カトリーナさんに届こうとしてる。……泣いてもいいんだよ。それは君が、彼女を心から愛おしいと思ってる証拠なんだから」
サムの言葉は、夕暮れの影のように静かに私に寄り添った。
私は渡されたホットミルクを口に含んだ。
温かな熱が喉を通るたび、飲み込んだはずの熱い塊が、ゆっくりと形を変えて溶けていくのが分かった。
「……サム。私は、次こそは影ではなく、彼女の本当の手に……」
「うん。その時は、たぶん僕たちがちゃんと見守ってるから」
真夜中のバンカー。
一人の天使が、初めて知った「切なさ」という名の痛みを、ホットミルクと共に静かに受け入れていた。
第10話
凍てつくような冬の風が、カンザスの街路を鋭く吹き抜けていた。
本来、私に移動の制約などなかったはずだが、恩寵の衰えと共に、私は地上の物理法則という不自由な檻に閉じ込められている。
「今日はインパラの総点検だ。ネジ一本まで磨き上げるからな。キャス、買い出しは歩いて行け。足腰を鍛えるのも修行のうちだぞ!」
ディーンの豪快な(そして一方的な)宣言により、私は両手に食料品の袋を下げ、慣れない公共交通機関を利用することになった。サムから教わった「バスの乗り方」のメモを脳内で反芻しながら、私は停留所へと辿り着いた。
夕暮れの間際、家路を急ぐ人々が作る列の先頭に、その人はいた。
赤毛の三つ編みを白いマフラーに埋め、寒さに身を縮めるカトリーナの後ろ姿。
心臓が、まるで不調をきたしたエンジンのように騒がしく脈打ち始める。
私と彼女の間には、十人ほどの人々が並んでいた。声をかけるにはあまりに遠く、かといって列を乱して詰め寄る勇気も、今の私にはない。
「……カト……ナ」
乾いた喉から漏れたのは、自分でも情けなくなるほど掠れた声だった。
サムの「素直に嬉しいと言えばいい」という言葉が頭を巡る。
「あえて……うれし……」
勇気を振り絞った言葉は、隣に並ぶ子供が上げた「バスが来た!」という無邪気な歓声にかき消され、彼女の耳に届くことはなかった。
バスの扉が開き、人々が吸い込まれていく。私は流れに逆らえず、ただ彼女が乗り込むのを最後尾で見守るしかなかった。
彼女が立っていた場所。雪が薄く積もったアスファルトの上に、場違いな輝きを放つ「何か」が落ちていた。
私は反射的にそれを拾い上げた。
それは、一枚の古い金貨だった。
ずっしりとした重みがあり、表面には緻密な彫刻が施されている。バスのエンジン音が遠ざかっていく中、私は手のひらの中の小さな光を見つめ、深い溜め息をついた。
また、声がかけられなかった。
半分だけの沈黙。私の内側だけで完結してしまった、行き場のない対話。
バンカーに戻った私は、図書室の明かりの下でその金貨を精査した。
ルーペを覗き込んでいた私の背後から、サムがコーヒーを持って近づいてくる。
「おかえり、キャス。……何それ、珍しい金貨だね」
「……あぁ。カトリーナが落としたものだ。バス停で、拾った」
金貨の縁に刻まれた微細な文字を読み解くにつれ、私の指先が微かに震えた。そこに記されていたのは、失われた古いラテン語の聖句だった。
『天の翼持つ者よ、その光で地上を照らし、迷える魂の道標となれ』
「……これは、十八世紀頃に作られた天使を讃えるための骨董品だ。信心深い者が守護を祈って持つ、極めて希少なメダルだろう。……彼女は、これを大切にしていたはずだ」
私は、金貨に宿る微かな祈りの残滓を感じ取り、途方に暮れた。
彼女の大切な遺失物。それを手元に置いているという事実は、守護者としての矜持を傷つけると同時に、奇妙な幸福感をもたらしていた。
「……どうすればいい、サム。私はまた、彼女に何も言えなかった。それなのに、彼女の魂の欠片のようなものを預かってしまった」
「……それは『次に会う理由』ができたってことだよ、キャス。今度は逃げちゃダメだ。この金貨を返すっていう立派な目的があるんだから」
サムは優しく私の肩を叩いたが、私の視線は手の中の金貨に釘付けになったままだった。
天使を讃える言葉が刻まれた黄金。
それを彼女が持っていたという事実は、私と彼女の間に、目に見えない運命の糸が繋がっていることを示唆しているのだろうか。
「……カトリーナ。君は、私を探しているだろうか」
夜の静寂の中、私は一枚の金貨を握りしめ、冷たい金属に自分の熱が移るまで、ただじっと座り続けていた。
第12話
カンザスの街は、暴力的なまでの色彩と光に包まれていた。
ホリデーシーズン。人間たちが「家族」という概念を再確認し、一年で最も賑やかに、そして感傷的になる季節だ。
バンカーのキッチンでは、ディーンが「地獄のクリスマス・パーティ」と称して、三段重ねのチーズバーガーと特大サイズのピザを要塞のように積み上げていた。サムは日々の血生臭さを洗い流すかのように、コーヒーをコーラに替え、不自然なほど爽やかな笑顔でトナカイの飾り付けに勤しんでいる。
「おいキャス! 突っ立ってねぇでこのピザを運べ。今日は狩りも休みだ。食って飲んで、黙示録のことは忘れろ!」
「……あぁ。分かった、ディーン」
私は返事こそしたが、心はここにはなかった。ポケットの中にある、あの冬のバス停で拾った黄金の金貨。指先でなぞる聖句の感触だけが、私の実在を繋ぎ止めている。
ディーンたちの喧騒を背に、私は一人、夜の街へと繰り出した。
誰もが誰かと肩を寄せ合い、白い息を吐きながら笑い合っている。私はその幸福な奔流の中を、所在なく漂う難破船のように歩き続けた。
あちこちを回り、最後に辿り着いたのは、街外れの小さな教会だった。
堂内からは清らかな聖歌が響き、ステンドグラスから漏れる光が雪の積もった地面を七色に染めている。自分のような、天界を追われ、神に背いた存在がここへ足を踏み入れる不釣り合いさは、誰よりも私が重々承知していた。
だが、今の私が求めているのは神の赦しではない。
神ではないもの。この地上で、私の恩寵をただ一人揺さぶる、あの赤毛の三つ編みの女性――カトリーナに逢いたい。その一念だけが、私をこの神聖な場所へと導いていた。
礼拝堂の入り口。人混みがふわりと割れたその先に、彼女がいた。
白いコートに身を包み、聖歌に耳を傾けていた彼女が、何かに導かれるようにゆっくりとこちらを振り返った。
その瞬間。
一瞬の、目が合った瞬間の石化。
私の視界から、周囲の喧騒が消えた。
聖歌の調べも、人々の話し声も、クリスマスの鐘の音も、すべてが真空の中に吸い込まれていく。
私はぎこちなく、その場に石像のように固まった。指先一つ動かせない。言葉を紡ごうとしても、喉の筋肉が完全に機能を停止している。
だが、驚いたのは私だけではなかった。
カトリーナもまた、目を見開いたまま、金縛りにあったようにその場から動けずにいたのだ。彼女の頬が夕焼けのような朱に染まり、持っていた聖書を握りしめる指が白くなっている。
私たちは、数千年の時を隔てて再会した彫像のように、見つめ合ったまま動けなかった。
「また会えて嬉しい」という言葉も、「金貨を拾った」という事実も、すべてが石化した思考の中に閉じ込められてしまった。
「あ、すみません!」
「メリークリスマス!」
無情にも、ミサを終えた群衆の波が私たちの間に割り込んできた。
幸せそうな家族連れや恋人たちの壁が、一瞬にしてカトリーナの姿を私の視界から奪い去る。
私は人混みを掻き分けようとしたが、冬の重い外套の波に押し流され、気づいた時には彼女の気配は夜の闇に溶けて消えていた。
「……ただいま」
バンカーに戻った私の声は、墓石のように冷たく響いた。
リビングでは、ディーンがコーラを片手に「ダイ・ハード」を鑑賞し、サムがピザを頬張っている。
「おかえりキャス! ……って、なんだその顔。お前、サンタにプレゼントでも拒否されたのか?」
私は答えず、図書室の椅子に沈み込んだ。
せっかく逢えた。あんなに、はっきりと目が合ったのに。
なぜ、私は一言も発することができず、ただの石になってしまったのか。そして、なぜ彼女もまた、あのように固まっていたのか。
「……サム。私は、やはりこの地上で生きるには不向きな存在なのかもしれない」
「どうしたの、キャス。……カトリーナさんに会えたんだろ?」
「……あぁ。だが、目が合った瞬間、私の全世界が停止した。……彼女もまた、私を見て凍りついていた。……あれは、私の不吉な本質が、彼女を怯えさせてしまったということだろうか」
深く落ち込む私の背中を見つめ、サムとディーンは顔を見合わせた。
「……なぁサミー。あいつ、自分の『石化』と相手の『照れ』の区別がついてねぇぞ。……救いようがねぇな」
「……兄貴、そこは『純粋すぎる』って言ってあげなよ。……大丈夫だよキャス。次は……次は石にならないように、僕たちが特訓に付き合うからさ」
カスティエルは、ポケットの中の金貨を握りしめた。
聖夜の奇跡は、彼に再会というギフトを与えたが、同時に「石化」という名の過酷な試練を突きつけた。
天使が本当の言葉を届ける日は、まだ、雪の下に深く埋もれたままだった。
第13話 恋ってやつは
バンカーの図書室は、ホリデーシーズンの浮かれた空気と、男三人の行き場のない熱気に満ちていた。
テーブルの上には、空になったビールの瓶が戦死者のように転がり、ディーンは椅子に深くふんぞり返って、琥珀色の液体を喉に流し込んでいる。
「いいか、サミー。俺たちはこれまで、悪魔や天使、果てはリバイアサンまでぶちのめしてきた。だがな……」
ディーンは、向かいの席でゾンビのように項垂れ、指先で一枚の金貨をいじり続けているカスティエルを指差した。
「目の前のこいつを見てみろ。世界を救った最強の兵器が、たった一人の人間の女と目が合っただけで石像になりやがった。……これじゃあ、メドゥーサに睨まれた方がまだマシなツラだぞ」
「兄貴、言い過ぎだよ。……でも確かに、キャスの症状は深刻だね」
サムは手元のビールを揺らしながら、観察眼の鋭い学者のような目でカスティエルを見つめた。
「キャス、お前は羨ましいくらいの馬鹿だ。……いいか? 駆け引きも、ウィンクも、気の利いたジョークもいらねぇ。まずはその『直立不動の不審者モード』を解除しろ。お前が固まれば相手も固まる。物理法則だろ?」
ディーンが、かつて数多の女を泣かせてきた経験則を叩きつける。
対照的に、サムは穏やかな、いわゆる「セラピスト・モード」の声を添えた。
「……でも、それが気持ちってやつだよ、キャス。誰かを想って、上手くいかなくて、一人で勝手に傷ついて……。君は今、天界のどのルールにも縛られず、自分の意思で『苦しむ自由』を手に入れたんだ。それは、すごく人間らしい、尊いことなんだよ」
「……サム。君の励ましは、時折、私の恩寵を余計に疲れさせる」
カスティエルは顔を上げず、沈んだ声で応えた。彼の掌の中では、カトリーナが落とした天使の金貨が、虚しく黄金色の光を反射している。
沈黙が図書室を支配した。
ディーンが次のビールに手を伸ばそうとしたその時、カスティエルが、消え入りそうな声でぽつりと漏らした。
「……少し思い出しただけで、……抱きしめたくなるんだ」
「…………は?」
ディーンの手が、空中で止まった。サムもまた、飲もうとしていたビールを吹き出しそうになりながら、目を見開いてカスティエルを凝視する。
「……あの時、教会の入り口で目が合った瞬間。彼女の瞳の中にあった驚きと、戸惑いと、……それから、冬の空気よりも澄んだ彼女の体温を想像しただけで。……私は、自分の存在そのものが、彼女という引力に吸い込まれていくような感覚に陥る。……ただ、強く、抱きしめたくてたまらなくなるんだ」
「…………」
兄弟は、言葉を失って愕然とした。
彼らが想像していたのは、もっとこう、中学生レベルの「どうやって話しかけよう」という微笑ましい悩みだった。だが、カスティエルが口にしたのは、恩寵のすべてを賭けた、あまりにも純粋で、剥き出しの「愛」だった。
「……おい、サミー。聞いたか? こいつ、そこまで純情だったのかよ」
「……驚いたよ。……天使って、恋をするとここまで真っ直ぐになっちゃうんだね。……やっぱり可愛いな、キャス」
サムが、思わずといった様子で相好を崩す。ディーンもまた、呆れ果てながらも、愛おしくてたまらないという風に笑った。
「……『可愛い』とはどういうことだ。私は、至極真面目に、自分の身に起きている深刻な事態を報告したはずだ」
カスティエルは不服そうに眉をひそめたが、その勢いはなく、再び椅子の中へと深く、ゾンビのように沈み込んでいった。
「いいんだよ、キャス。恋ってやつは、スマートにこなすもんじゃない。……お前みたいに、無様に、真っ直ぐに、泥濘(ぬかるみ)にハマるのが正解なんだ」
ディーンは、カスティエルの肩を力いっぱい叩いた。
「……よし! 今夜はもう一軒、バーガーを注文するぞ。キャス、お前のその『抱きしめたい欲求』を、今はバーガーにぶつけろ。……カトリーナさんに会うのは、その後だ!」
「……私は、バーガーを抱きしめる趣味はない」
「屁理屈言うな! ほら、サミー、電話しろ!」
バンカーの夜。
不器用すぎる天使と、それを囃し立てる兄弟。
彼らの前には、まだ解決すべき問題も、倒すべき悪魔も山積みだった。
けれど、今この瞬間だけは、一人の男が抱えた「初恋」という名の、あまりに美しく、あまりに面倒な難問に、三人がかりで挑んでいた。
恋ってやつは、天使をも、地上の泥沼へと引きずり込んでしまうらしい。
けれど、その泥沼は、どの天界の雲の上よりも温かかった。
第14話 書きかけの、宛名のないアレ
一月の凍てつく空気が、バンカーの石壁を通り越して足元から忍び寄ってくる。
正月の騒がしさが一段落し、ディーンは図書室のテーブルに置き去りにされた「それ」を見つけた。
一見すると、古い魔術の術式か、あるいは解読不能な呪文の羅列に見えた。宛名はない。だが、その几帳面すぎるほど整列した、針の先で書いたような極小の文字。虫眼鏡なしでは判読不能な密度。
「……おいサミー。キャスの奴、ついに禁忌の呪文にでも手を出したか?」
ディーンは不用意にその紙を広げ、目を細めた。
「どれ……貸してごらんよ」
サムが横から覗き込む。そこには、旧約聖書から引用されたと思われる、愛と献身に関する「クソ長」聖句が、びっしりと、地獄の契約書並みの緻密さで綴られていた。
だが、その膨大な引用の海を泳ぎきった最下部。
そこには、聖句の壁にサンドイッチされるようにして、震える手で書かれた一文があった。
『また会いましょう、カトリーナ。――カスティエルより』
「…………」
兄弟は同時に沈黙した。
それは、天使が数夜を徹して悩み抜き、己の知識のすべてを総動員して書き上げようとした、この地上で最も「重苦しく」、そして「純粋な」ラブレターだった。
「……なぁサミー。これ、本人に返してやった方がいいよな? 放置しとくと、キャスがこの聖句の重みで自爆しそうだ」
「……そうだね。これをカトリーナさんが読んだら、愛の告白じゃなくて『天界からの召喚状』だと思っちゃうよ」
二人は苦笑しながらも、その「書きかけの、宛名のないアレ」を丁寧に畳み、ちょうど図書室に戻ってきたカスティエルに手渡した。
「……キャス。これ、テーブルに落ちてたぞ。大事な……『研究資料』だろ?」
ディーンが茶化すこともなく、静かに差し出す。
カスティエルはそれを受け取ると、一瞬だけ、書かれた文字を愛おしそうに見つめた。だが、彼は何も言わず、そのままバンカーの重い扉を開けて外へと出た。
一月の乾いた突風が、吹きさらしの大地を駆け抜けていく。
カスティエルは、迷うことなくその手紙を指先から離した。
「……あーあ、もったいない。あれ書くのに、相当時間かかっただろ?」
ディーンが扉の影から声を上げる。
真っ白な紙は、冬の烈風に煽られ、まるで翼をもぎ取られた鳥のように、空高く舞い上がっていった。
「これでいいんだ、サム、ディーン」
カスティエルは、遠ざかる白い破片を、晴れやかな、それでいて少しだけ寂しそうな瞳で見送った。
「言葉を並べ立てても、彼女に届くのは私の『知識』だけだ。……私は、次に彼女に会う時、この紙ではなく、私のこの声で伝えたいと思っている」
「……言うようになったじゃねぇか、この羽なし天使」
ディーンは感心したように鼻を鳴らし、カスティエルの肩を叩いた。
手紙は消えた。だが、彼の中にあった迷いや、聖句に逃げ込もうとする臆病さも、あの突風が一緒にさらっていったようだった。
「……じゃあ、次は練習通りの挨拶だな、キャス」
サムの言葉に、カスティエルは小さく、けれど力強く頷いた。
一月の冷たい空気に、彼の吐く息が白く混ざる。
宛名のない手紙は、今ごろどこかの荒野に落ちているだろう。けれど、彼の心の続きは、まだ誰にも書かれていない真っ白なページとして、これからの再会のために残されていた。
「……腹が減ったな。戻って、何か温かいものでも食べよう」
「あぁ、賛成だ。今日はディーンの特製シチューか?」
三人の男たちがバンカーの中へ消えていく。
吹き付ける風だけが、主を失った言葉の残骸を、どこまでも遠くへと運んでいった。