第15話 カウントダウン
バンカーの図書室は、深夜二時を回っても重苦しい沈黙と、ビールの空き缶が立てる乾いた音に支配されていた。
ディーンはテーブルに広げた「カンザス州・詳細マップ」の特定の地点――あの喫茶店と図書館――を、穴が開くほど見つめている。隣では、サムが古い伝承調査ではなく、カスティエルの「初恋迷走ログ」をノートにまとめていた。
「……なぁサミー。俺たち、これまで何度も世界を救ってきたよな?」
ディーンが、ボソリと呟いた。
「あぁ。ルシファーも、リバイアサンも、アマラも。……相当な修羅場をくぐってきたね」
「なのに何だよ。……あいつの、あの『石化』だけは、どんな魔術や武器を使っても解決できねぇ。……見てろよ、今もあそこで、金貨を見つめて『カトリーナ……』って呟きながら、置物みたいになってる」
ディーンの視線の先には、図書室の隅で、微動だにせず黄金のメダルを握りしめているカスティエルの姿があった。その背中は、かつて天界を揺るがした軍団長のものとは思えないほど、小さく、そして不器用な情熱に震えている。
「……なんとかしてあげたい。……本気でそう思うよ」
サムがペンを置き、溜め息をついた。
「キャスは僕たちのために、何度も自分の幸せを後回しにしてきた。天界を裏切り、家族を失い、人間になろうとして……。そんなあいつが、初めて見つけた『自分のための光』なんだ。……何としてでも、その手に掴ませてあげたい」
「だろ? ……よし。決めた。作戦変更だ」
ディーンは、ビールの残りを飲み干し、力強くテーブルを叩いた。
「もうあいつの『自主性』に任せてたら、黙示録が三回くらい来ちまう。……次は、俺たちが環境を整えて、あいつの背中を……いや、ケツを全力で蹴り飛ばしてやるんだよ」
「具体的にどうするの、ディーン?」
「まず、あの金貨だ。あれを返すっていう『正当な理由』がある今のうちに、強制的に二人きりにさせる。……キャスには、あの子の好きな本をあらかじめリサーチさせて、会話のネタを脳内にインプットさせる。……で、当日は俺たちが周囲一キロを完全封鎖して、悪魔も天使も、空気の読めない歩行者も一人も通らせねぇ」
「……それはちょっとやりすぎじゃないかな」
サムは苦笑したが、その瞳にはディーンと同じ、決意の火が灯っていた。
「でも、背中を押すのは賛成だ。……キャスに必要なのは、勇気じゃない。『逃げ場のない状況』なんだよ。……僕たちが隣で、銃じゃなくて、笑顔で『行け』って言ってあげること」
二人は、隅で固まっているカスティエルを振り返った。
彼はまだ、自分が兄弟によって「人生最大の強制イベント」に放り込まれようとしていることなど、露ほども知らない。
「……おい、キャス! ぼーっとしてんじゃねぇぞ」
ディーンが明るい声を出し、カスティエルの肩を組んだ。
「明日だ。明日、決着をつけるぞ。……お前が石になろうが、金塊になろうが、俺が車であの子の目の前まで運んでやる。……いいか? お前はただ、その手に持ってるもんを返して、『また会えて嬉しい』って言うだけでいい」
「……ディーン。私は……」
「『私』も『だが』も禁止だ。……お前は一人じゃない。……俺たちがついてる。だろ?」
サムも反対側に回り、カスティエルの背中を優しく、けれど強く押した。
「待て! 『明日』は早すぎないか……!?」
あまりにも目の前すぎる期日。カスティエルの声が裏返った。
彼は弾かれたように立ち上がり、手に持っていた金貨を落としそうになりながら、目を見開いて兄弟を交互に見つめた。
「ディーン、サム。君たちの熱意には感謝する。……だが、明日は……明日の私は、まだ『石化』のプロセスを完全に克服できていない可能性がある。……それに、金貨を返す際の所作について、まだ三千通りのシミュレーションのうち、二百通りしか終わっていないんだ!」
「三千通り……!? お前、狩りの作戦より練り込んでんのかよ!」
ディーンが呆れたようにのけ反った。
「いいか、キャス。恋ってのはな、準備万端で挑むもんじゃねぇ。……勢いと、その場のノリだ。……お前が三千通りも考えてる間に、カトリーナさんは別の男と……」
「やめてくれ! その想像は、私の恩寵に物理的な亀裂を生じさせる!」
カスティエルは本気で耳を塞ぎ、図書室を右往左往し始めた。
彼のトレンチコートの裾が、焦燥感に煽られてバタバタと音を立てる。
「……兄貴、キャスの言うことも一理あるよ」
サムが仲裁に入るように手を挙げた。
「今のキャスを無理やり連れて行っても、たぶんカトリーナさんの前で、本当に……物理的に『石』か『置物』になって終わる。……そうなったら、僕たちでもフォローしきれない」
「……サム。君は、私の脆さをよく理解している」
カスティエルは救われたような顔でサムを見た。
「……ちっ。わかったよ。……じゃあ、いつならいいんだ? 来週か? 来月か?」
ディーンが腕を組んで問い詰める。
カスティエルは指を折り、真剣な面隔で計算を始めた。
「……シミュレーションの完遂に三日。……喉の筋肉の弛緩トレーニングに二日。……そして、彼女に贈る言葉の選定……いや、これは手紙を捨てたから、口頭でのリハーサルにさらに……」
「一週間だ」
サムが断言した。
「来週の木曜日。……それまでに、キャスは『石にならない特訓』を終わらせる。……僕とディーンは、その間に完璧な『外堀埋め』を完了させる。……それでどう?」
カスティエルは少し震えながら、けれど覚悟を決めたように小さく頷いた。
「……分かった。一週間後だ。……それまでに、私は……人間としての、いや、一人の男としての……『完成』を目指す」
3. 束の間の休戦
「よし! じゃあ決まりだ。決戦は来週の金曜。……それまでは、この金貨を磨くなり、鏡に向かって微笑むなり、好きにしろ」
ディーンはビールの最後の一口を飲み干し、カスティエルの肩をポンと叩いた。
「……なんとかしてあげたい、っていう俺たちの気持ちは変わらねぇ。……だから、逃げるなよ、キャス」
「……あぁ。……分かっている」
カスティエルは、再び金貨を握りしめた。
「明日」という破滅的なデッドラインが遠のいたことで、彼の表情には、微かな安堵と、それ以上に重い「決意」が宿っていた。
一週間の猶予。
それは、天使が「運命」という名の戦場に立つための、最後の準備期間。
バンカーの夜は、嵐の前の静けさを湛えながら、ゆっくりと更けていった。
「……サム。……『また会えて嬉しい』の後に、『今日は天気がいいな』と付け加えるのは、情報の重複だろうか」
「……キャス。寝ようか」
第16話 木曜日の、名もなき支配者
「決戦の木曜日」まで、残り6日。
バンカーの図書室だけでは飽き足らず、私は再びあの市街の図書館へと足を運んでいた。サムとディーンには「敵情視察だ」と告げてきたが、実際にはカトリーナという名の「福音」が、どのような知に触れているのかを知りたかっただけだ。
彼女が以前手に取っていた『大天使の伝承』の周辺棚を、私は一冊ずつ丁寧に指でなぞる。
どうやら彼女は、人間が長い年月をかけて作り上げた「曜日別の天使守護説」に興味を持っていたようだった。
私は、棚の隅で静かに眠っていた革装の古い文献を開いた。
そこには、月曜日から日曜日まで、それぞれの曜日を司る天使の役割が記されている。
月曜日はガブリエル、火曜日はカマエル……。
読み進めるうちに、ある一文が私の視界に飛び込み、恩寵が激しく火花を散らした。
【木曜日、カスティエル。木星の支配者。慈悲、自由。赦しや豊かさをもたらす】
「……っ!?」
私は危うく椅子から転げ落ちそうになり、慌てて机を掴んだ。
私だ。いや、私と同じ名を持つ、人間たちの想像力が生み出した影。
だが、そこに記された「自由」という言葉が、今の私の胸にあまりに鋭く突き刺さる。天界の歯車であることを辞め、一人の女性に恋い焦がれる今の私は、皮肉にもこの記述通りの存在になろうとしているのではないか。
その衝撃で本を揺らした瞬間、ページの間からハラリと何かが床へ落ちた。
それは、丁寧に作られた一葉の押し花だった。
私の瞳の色によく似た、深く、吸い込まれるような青色のデイジー。
拾い上げると、微かに、けれど確かな香りが鼻をくすぐった。あの雨の日の傘の下で、そして図書館の書架の間で感じた、カトリーナの香り。
彼女はこの本を読み、自分の名に似た「木曜日の天使」の頁に、この青い花を栞として挟んだのだ。
「……カトリーナ」
私はその押し花を、壊れやすい奇跡を扱うように、そっと掌で包み込んだ。
ポケットの中にある、あの黄金の金貨。そして、この青いデイジー。
彼女が落としていった二つの「欠片」が、私のトレンチコートの中で重なり合う。それは、来たるべき「木曜日」を生き抜くための、何よりの糧となった。
「へぇ……『自由』ね。確かに、今のキャスにはぴったりじゃねぇか」
バンカーに戻り、事の顛末を報告した私に、ディーンが意外そうに、けれどどこか嬉しそうに鼻を鳴らした。
「木曜日の天使、カスティエル。……彼女、あの相合傘の日にキャスの名前を聞いて、びっくりしたんだろうね。自分が読んでいた本の中の天使と同じ名前だったんだから」
サムが優しく微笑みながら、私の肩に手を置く。
「……彼女は、私をその『自由をもたらす天使』の再来だと思ったのだろうか。……だとしたら、私は彼女の期待を裏切ってしまわないだろうか」
「裏切るわけねぇだろ。お前はもう、誰よりも自由に、自分の足であの子に会いに行こうとしてんだ」
ディーンが私の背中を力いっぱい叩いた。
「自由っていうのは、迷う権利があるってことだ、キャス。……その青い花を持って、胸を張って行ってこいよ」
私はポケットに手を入れ、押し花の感触を確かめた。
一週間後の木曜日。
木曜日の天使が、自由という名の翼を広げ、たった一人の女性へと墜ちていく日。
そのカウントダウンは、青いデイジーの香りと共に、静かに、けれど確実に進み始めていた。
第17話 街角の、0.5秒の会釈
「決戦の木曜日」まで、残り5日。
バンカーの重い扉を蹴り開けるようにして戻ってきた私の足取りは、かつてないほど軽やかだった。いや、物理的に数センチほど床から浮いていたかもしれない。
「おい、キャス! 帰ったのか。……なんだその、宝くじにでも当たったようなツラは」
リビングでショットガンの手入れをしていたディーンが、怪訝そうに顔を上げた。キッチンでサラダを作っていたサムも、ボウルを抱えたままひょっこりと顔を出す。
「ディーン、サム。……見てしまった」
私は、胸に手を当て、深く、深く息を吐いた。
それは、買い出しの帰り道、いつもの賑やかな交差点での出来事だった。
向こう側の歩道から歩いてくる、あの紺色のコートと赤毛の三つ編み。カトリーナだ。
私の心臓は、サムが決めた「予定日」を待たずして勝手に爆発的な鼓動を刻み始め、足はいつものように、コンクリートに埋め込まれたかのように石化した。
「……っ」
まただ。また声が出ない。
教会の時のように、ただの不審な置物として彼女の視界を通り過ぎるのか。そう絶望した瞬間だった。
彼女が、私に気づいた。
彼女は一瞬だけ、あの時と同じように驚いたように目を見開いたが、すぐにふわりと、春の陽だまりのような微笑を浮かべた。
そして、すれ違う間際の、わずか0.5秒。
彼女は「先日はごめんなさい」とでも言うように、小さく、けれど丁寧に、私に向かって会釈をしてくれたのだ。
「あれは、天使の微笑だ!!! 間違いない、天界のどの階級の輝きよりも純粋で、慈愛に満ちていた!!!」
私は図書室のテーブルを叩き、エクスクラメーションマークを振りまくような勢いで報告した。
「会釈だぞ、サム! わずか0.5秒の動きの中に、私の存在を肯定し、前回の非礼を(非礼なのは私の方だが)許し、さらに未来の再会を約束するような……そんな深淵なる慈悲が込められていたんだ!!!」
「わ、わかった、落ち着けキャス! 目が血走ってるぞ!」
ディーンが苦笑しながら、興奮して鼻息の荒い私の肩を抑え込む。
「会釈一つで昇天しそうになってる天使なんて、お前くらいなもんだぜ。……まぁ、あっちから挨拶してくれたってことは、嫌われてねぇどころか、脈アリってことだな」
「脈……? あぁ、私の恩寵の脈動なら、今も臨界点を超え続けている!!!」
「……よかったね、キャス」
サムが、本当に嬉しそうに目を細めてサラダのボウルを置いた。
「あんなに落ち込んでたのに、今はまるで……雨上がりの子犬みたいだよ。……彼女もきっと、君に会えてホッとしたんだと思う。あんなに石みたいに固まってた君が、ちゃんとそこに立ってたから」
「……そうだろうか。……あぁ、そうに違いない」
私は、ポケットの中の押し花と金貨を、そっと外側から撫でた。
カトリーナの0.5秒の会釈。
それは、私という不器用な異邦人に与えられた、この地上で最も美しい入国許可証だった。
「残り5日。……私は、あの微笑に相応しい挨拶を、必ずや成し遂げてみせる」
「おう、その意気だ。……まずはその、浮き足立ってる身体を地面に降ろせ。……飯にするぞ」
ディーンの呆れたような、けれど温かい声が響く。
バンカーの夜。一人の天使は、人間の少女がくれた刹那のギフトを胸に、かつてないほどの幸福な眠り(あるいは瞑想)へと沈んでいった。
第18話 カウンターの端と端
「決戦の木曜日」まで、残り4日。
その夜の空気は、不吉なほどに冷え込んでいた。
私たちは隣町での小規模な悪霊退治を終え、泥と火薬の匂いを拭い去る間もなく、ディーンの一存で一軒のバーへと滑り込んだ。
「あー……クソ、喉がカラカラだ。サミー、キャス、今日は俺の奢りだ。好きなもん飲め」
ディーンが勢いよく扉を押し開ける。そこは、剥げかけたペンキの壁と、安っぽいライの香りが充満する、絵に描いたようなならず者のたまり場だった。
だが、カウンターを横目で見た瞬間、私の恩寵は凍りついた。
カウンターの右端。薄暗い照明の下、場違いなほど清らかな影がそこにあった。
カトリーナだ。
彼女は、煤けた木のテーブルにはおよそ似つかわしくない、一脚のグラスを前にして静かに座っていた。彼女の白い指先が、グラスの縁をなぞっている。
「……っ」
私は、反射的にカウンターの左端へと移動し、彼女と最大級の距離を取った。
カウンターの端と端。
その間にある数メートルの空間は、今の私にとって、天界と地獄を隔てる深淵よりも遠く、そして険しいものに感じられた。
どうして。なぜ彼女が、このような粗野な男たちが怒鳴り合う場所にいるのだ。
彼女の持つあの「聖なる静寂」が、この濁った空気の中で汚されてしまうのではないか。
私は動揺のあまり、注文を聞きに来たバーテンダーに対し、瞬きを繰り返すことしかできなかった。
私の「異常事態」に気づいたのは、ディーンよりも先だった。
カトリーナが、ふと顔を上げた。
端と端で、私たちの視線が真っ直ぐにぶつかり合う。
彼女は驚いたように目を見開き、それから、今まで見たこともないような「気恥ずかしそうな」表情を浮かべた。
彼女は慌ててバッグを掴むと、飲みかけのグラスを置いて、逃げるように店を出ていった。
カラン、とドアのベルが無情に響く。
「おい、キャス! 何してんだ、追いかけろよ!」
ディーンが私の肩を小突き、入り口を指差した。
「あんな顔した女の子を一人で帰す気か? チャンスだろ!」
だが、私の足は一歩も動かなかった。
彼女が去った後の、あの空っぽの椅子を見つめることしかできない。
「……いや、無理だ。ディーン」
私は掠れた声で呟いた。
「彼女があのような場所にいた理由を、私は理解できない。……彼女はもっと、光の溢れる場所にいるべき存在だ。……私が、私たちが、この血生臭い世界を彼女の視界に持ち込んでしまったのではないか。……私は……」
「キャス、考えすぎだよ」
サムが心配そうに隣の席に座った。
「彼女にだって、何か理由があったのかもしれない。……ほら、顔色が真っ白だよ」
「……私は、彼女を守る資格などないのかもしれない」
私はカウンターに突っ伏した。
残り4日。
かつてないほどの自己嫌悪と、彼女への独占欲に近い懸念が、私の中で渦を巻いていた。
彼女の背中を追いかける勇気さえ持てない、情けない天使。
私は、彼女が口をつけたグラスの残り香を、遠くからただ悲しげに眺め続けることしかできなかった。
第19話 「決戦の木曜日」まで、残り3日
あのバーでの出来事以来、私の足はすっかり竦んでしまった。彼女を不快な場所へ追い込んでしまったのではないかという自責の念が、澱のように恩寵の底に溜まっている。図書館、教会、喫茶店……どこへ行っても、彼女の影を探しては、見つけるのが怖いような、見つけられないのが寂しいような、矛盾した感情に引き裂かれそうになる。
「……サム。私は、どこで彼女を待てばいいのだろうか」
そう呟いても、バンカーにいる弟分からの返事はない。私はただ、あてもなく街の境界線を越え、緩やかな坂道を登り続けていた。
辿り着いたのは、街を一望できる、切り立った高台だった。
そこには遮るものが何もない。冬の終わりを告げるような鋭い風が、四方八方から吹き抜け、私のトレンチコートを激しく羽ばたかせている。
かつて、私には翼があった。
高度数万フィートの成層圏から、この地上の営みを見下ろしていた頃。私にとって「空」は単なる空間であり、「風」は移動の抵抗に過ぎなかった。
だが、今の私は違う。
冷たい風が頬を打つ痛みも、肺に吸い込む空気の重みも、すべてが「生きている」という実感として胸に刺さる。
『自由』。
先日、図書館で見つけたあの記述が脳裏をよぎる。木曜日の天使、カスティエル。自由を司る者。
皮肉なものだ。翼を失い、一人の女性への想いに身を焦がして立ち往生している今こそ、私はかつてないほどに「自由」を渇望し、そして享受しているのだから。
「……カトリーナ」
風の音に紛れ込ませるように、その名を呼んだ。
ここは、誰とも約束していない場所。彼女がここに来る保証など、どこにもない。
けれど、このどこまでも高く、どこまでも遠くへ繋がっている空の下であれば、私の声が、私の祈りが、彼女の元へ届くような気がした。
私はポケットの金貨に触れた。
もし、運命というものが本当に存在するのなら。
もし、人間が作り上げたあの古い本の内容が、微かでも真実を突いているのなら。
「また会いたい。……いや、必ず、君を見つけ出す」
それは誰かに強制された任務ではなく、私の意志で選んだ「契約」だった。
夕闇が迫り、街の灯りがポツポツと灯り始める。
私は高台の端に立ち、風に向かって深く息を吸い込んだ。
残り3日。
もはや、逃げる場所はない。迷いも、恐怖も、この風にさらして飛ばしてしまおう。
私は踵を返し、バンカーへと続く坂道を降り始めた。
背後で風が、まるで私の背中を押し出すように強く吹いた。
約束しなかったこの場所で、私は自分自身と一つの約束を交わした。
木曜日。どんなに石化しようとも、どんなに不器用でも、私は彼女の前に立つ。
自由を司る天使としてではなく、彼女に恋をした、ただのカスティエルとして。
第20話 「決戦の木曜日」まで、残り2日
私の恩寵は、もはや制御不能な暴風雨のようだった。胸の奥が締め付けられるように苦しく、胃のあたりには鉛を流し込まれたような不快な重みがある。人間が「吐き気」と呼ぶその現象が、実体のないはずの私を苛んでいた。
朝、バンカーの出口へ向かう私を、サムは「いってらっしゃい」と穏やかな聖者のように見送り、ディーンは「おい、胃薬持っていくか? 顔が青白いぞ」とニヤけながら声をかける。もはや、これが私たちの日常の儀式となっていた。
私は、いつもの交差点の角に立ち、冬の終わりの高い空を見上げた。
澄み渡るような青。雲ひとつないその広がりを眺めながら、私はある種の甘美な逃避に浸っていた。
「……彼女も、今、この空を見ているのだろうか」
もしそうなら、それだけで十分ではないか。
同じ街に住み、同じ太陽の光を浴び、同じ景色を見ている。
それは、触れ合うことも言葉を交わすことも叶わない、けれど最も清らかな「共有」の形に思えた。
血塗られた両手。数えきれないほどの命を奪い、神に背き、煉獄を這いずり回ったこの身。
そんな私が、彼女の清廉な世界を土足で荒らす権利など、どこにあるというのだ。
「同じ景色を見ている」という錯覚に浸りながら、私はこのまま、遠くから彼女を見守るだけの「置物」に戻るべきではないのか。
バンカーに戻り、意気消沈して図書室の椅子に沈み込む私を、兄弟は見逃さなかった。
サムが私の隣に座り、冷たい水を入れたグラスを差し出す。
「キャス、また『自分にはふさわしくない』なんて考えてるんだね。……その謙虚さは君の美徳だけど、今はただの臆病に見えるよ」
「……サム。私は、彼女と同じ空を見ているだけで幸せなのだと気づいた」
「嘘をつけ!」
背後から、ディーンの怒鳴り声が飛んできた。
彼は手に持っていたレンチを放り出し、私の目の前に立ちはだかった。
「いいか、キャス。お前がさっきから言ってるのは、自由じゃねぇ。ただの『放置』だ。……お前はあの本で読んだだろ? 自分は『自由』を司る天使だってな」
「……あぁ。だが、私にその資格があるとは思えない」
「自由ってのはな、何してもいいって意味じゃねぇんだよ!」
ディーンが私の胸ぐらを掴み、力任せに揺さぶった。
「文字通り、『自ら』を『由(よし)』とするってことだ! 自分の行動の根拠を、他人や神様や、ましてや『ふさわしくない』なんていう環境に置くんじゃねぇ。……自分の意志、自分自身に置くってことなんだよ!」
ディーンの喝が、私の恩寵の核を激しく打ち据えた。
自らを由とする。
彼女に会いたい。声を聴きたい。その衝動の根拠を、自分自身の外側に求めてはいけないのだ。
「……ディーン。私は、自分の意志で彼女に会いたいと思っている。……それは、私が決めたことだ」
「だったら、空を見上げて満足してんじゃねぇよ。……地面を這ってでも、あの子の目の前まで行け」
ディーンの手が離れ、彼は満足そうに鼻を鳴らした。
サムが横で、少しだけ誇らしそうに微笑んでいる。
残り2日。
同じ景色を見ているという錯覚は、もういらない。
私は、彼女の瞳の中に映る「私」を見に行かなければならない。
自由という名の翼は、今、ようやく本当の羽ばたきを始めようとしていた。
第21話 「決戦の木曜日」は明日。
もはや私の日常の一部となった図書館の二階。静寂とインクの匂いが漂うその場所で、私はいつものように『天使の系譜』が並ぶ本棚へと足を運んでいた。だが、運命という名の歯車は、予定日を待たずして、あまりに唐突に回転を速めた。
階段を上がりきった、陽光の差し込む踊り場。
曲がり角で鉢合わせたのは、他でもないカトリーナだった。
「……っ!」
心臓が跳ね、反射的に道を譲ろうとした。私が右へ動けば、彼女も戸惑ったように右へ。慌てて左へ避ければ、彼女も鏡合わせのように左へ。
かつてディーンとサムを相手に繰り返した「衝突シミュレーション」の悪夢が脳裏をよぎり、私は再び石化の術中に落ちようとしていた。
その時だった。
「ふふっ……」
目の前で、カトリーナが堪えきれないといった様子で吹き出したのだ。
彼女は、硬直しかけていた私の肩に、そっと、羽根が触れるような軽やかさで手を置いた。
「じっとしてて。……そのまま」
囁くような声。至近距離でもたらされたのは、あの「天使の微笑」だった。
彼女の指先から伝わる体温が、私の強張った肉体を、恩寵の末端からゆっくりと解かしていく。
私の喉の奥で、何かが熱く震えた。
これまでの数えきれないほどの練習、シャワー室での独白、夜の散歩道でのリハーサル。そのすべてが、今、一本の濁りのない奔流となって溢れ出した。
「……会えて嬉しい、カトリーナ」
淀みない、けれど重みのある私の声。
彼女は一瞬だけ、丸い瞳をさらに大きくして驚いたが、すぐに「くすくす」と鈴を転がすような笑い声を上げた。
「……ええ、私も。会えて嬉しいわ、カスティエル」
その笑い声の可憐さに、私は再び思考が停止しかけた。だが、ディーンの「自らを由とせよ」という怒鳴り声が脳内で響き、私の背中を強烈に押し出した。
「カトリーナ。明日、……午後の三時に、いつもの喫茶店で会わないか」
自分でも驚くほどの勢いだった。空気に紡がれた言葉は、迷いなく彼女へと届く。
カトリーナは、少しだけ頬を染め、いたずらっぽく微笑んだ。
「ええ、カスティエル。喜んで。……明日、楽しみにしてるわね」
……その後の記憶は、断片的だ。
私の頭は過熱したエンジンのように沸騰し、視界は真っ白な光に包まれていた。彼女が去り際、もう一度振り返って手を振ってくれたような気もするが、定かではない。
気がつくと、私は両脇をがっしりと掴まれ、床を引きずられるようにして図書館の出口へと運ばれていた。
「おい、しっかりしろキャス! 顔がニヤけすぎて、もはや指名手配犯みたいなツラだぞ!」
「兄貴、静かに! ……やったね、キャス。完璧なアポイントメントだったよ」
見れば、FBIのバッジこそ出していないが、完全に「捜査官モード」の鋭い目つきをしたディーンと、得意げに親指を立てるサムが私を抱え上げていた。二人は隅の書架の影から、今の始終を完璧に、そしてニヤニヤしながら見守っていたのだ。
「……サム。ディーン。……私は、明日……彼女と……」
「わかった、わかったから! あとはバンカーで聞く。……まずはその、魂が抜けかかったツラをどうにかしろ!」
私は兄弟に引きずられながら、窓の外の青空を見上げた。
木曜日の天使が、ついに「明日」を掴み取った。
自由という名の本当の物語は、ここから始まろうとしていた。
第22話 木曜日の天使、出陣
「決戦の木曜日」がついに幕を開けた。
バンカーの自室で、私は鏡の前に直立不動で立っていた。
トレンチコートはサムが徹夜でアイロンをかけ、筋一本ない完璧な仕上がりだ。ディーンからは「これをつけていけ」と、彼が大切にしている(そして、少し匂いのきつい)高級香水を無理やりスプレーされた。サムからは「身だしなみは足元から」と、彼のお気に入りのシャンプーを借りて髪を洗った。恩寵の輝きとは違う、人間界の「清潔」という概念を全身に纏ったつもりだ。
ポケットには、素朴な紙袋が一つ。
あの古い金貨と、青いデイジーの押し花。彼女の忘れ物を、私は世界で一番大切な宝物のように、その中に収めていた。
「よし、完璧だ。キャス、顔色が悪いぞ。もっとシャキッとしろ!」
リビングに下りると、ディーンがインパラのキーを片手に、ニヤニヤしながらも真剣な目で私を見ていた。サムは「緊張しすぎないで。深呼吸してね」と、穏やかな聖者のような微笑みで私の背中をさする。
「……あぁ。ディーン、サム。私は……征ってくる」
「おう、征ってこい! 木曜日の天使の実力、見せてやれ!」
ディーンの激励を背に、私はバンカーの重い扉を押し開けた。
約束の時間は午後の三時。だが、私は緊張のあまり、二時間も前に街へと到着してしまった。
所在なく街をうろつく私の足は、吸い寄せられるように、あの不吉なバーへと差し掛かった。カウンターの端と端で、彼女と視線が交差した、あの場所だ。
重苦しい記憶が蘇り、その場を離れようとした、その時。
「――やめて! 放して! これから約束があるの!」
聞き間違えるはずのない、澄んだ鈴の音のような声。けれど、今は恐怖に震えている。
カトリーナだ。
「うるせぇ! こないだここで貸した金、きっちり利子付けて返せっつってんだよ!」
野卑な男の怒鳴り声が、バーの中から木霊する。
私は考えるより先に、身体が動いていた。
バーの扉をけたたましく蹴り開け、店内に踏み込む。
薄暗い店内の奥。
一人の巨漢の男性が、カトリーナの腕を強引に掴み上げ、壁に押し付けていた。
彼女の白い頬には、はっきりと赤い手跡が残り、唇からは一筋の血が伝っている。彼女の瞳は恐怖に濡れ、けれど、抵抗を止めようとはしていなかった。
「……っ!!」
私の恩寵が、臨界点を超えてスパークした。
彼女の清廉な世界を汚し、その肉体を傷つけたその男に対し、私はかつてないほどの、純粋な「怒り」を覚えた。
「彼女を……放せ」
地獄の底から這い出たような私の声に、巨漢の男が振り返った。
「あぁ? なんだテメェは。引っ込んでろ、このトレンチコート野郎!」
私は、男に向かって突進した。
天使の力やエンジェルブレードを使う必要はない。人間相手なら、この実体化した肉体の体術だけでいい。殺すわけにはいかないのだから。
私は男の腕を掴み、人間に可能な限界の力で捻り上げた。男が悲鳴を上げ、カトリーナの手が離れる。
「逃げて! カスティエル、後ろ!」
カトリーナの悲鳴に、私が振り向こうとした、その瞬間。
グシャ
嫌な音がして、私の足元に、あの素朴な紙袋が落ちた。
いつの間にか、巨漢の男の仲間、さらに四人のチンピラが私を取り囲んでいたのだ。
その中の一人が、落ちた紙袋を容赦なく踏みつけ、さらにそれを引き裂いた。
「んだよ、いいもんが入ってると思ったら……ただの古いコインと、ゴミみたいなドライフラワーじゃねぇか!」
チンピラが、粉々になった金貨と、無残に引き裂かれた青いデイジーの押し花を、床に投げ捨てた。
「…………」
私の世界が、真っ白な光に包まれた。
彼女の忘れ物。私が、彼女への想いを込めて、大切に守ってきた、あの二つの「欠片」。
それが、目の前で、愚かな人間たちの足によって蹂躙され、ゴミのように扱われた。
その瞬間。
私は、木曜日の天使として、あるいは一人の男として、完全に『覚醒』した。
「――あァァァァァァァッ!!!」
私の咆哮と共に、バーの天井の明かりが激しく明滅し、火花を散らして弾け飛んだ。
窓という窓が、恩寵の衝撃波によって粉々に砕け散る。床に亀裂が走り、地響きが店内に鳴り響いた。
そして。
薄暗い店内の壁に、私の背後から、黒々とした、煤けた残骸のようでも確かな二対の翼の影が投影された。それはかつての栄光の翼ではなく、怒りと悲しみに染まった、破滅の翼だった。
私は、ただ怒りに我を忘れていた。
彼女を傷つけた者。彼女の大切なものを壊した者。
そのすべてを、この手で塵に帰すまで、私の怒りは収まらない。
木星の支配者たる木曜日の天使は、今、太陽の熱を帯びた復讐の天使へと変貌していた。
「――キャス! やめろ!相手は人間だぞ、殺す気か!」
「キャス、落ち着いて! 彼女が見てるよ!」
砕け散るバーの中に、ディーンとサムが飛び込んできた。二人が、暴走する私の腕を必死に抑え込む。
もし、彼らの止めが入らなければ。
このバーは、そこにいるチンピラたちと共に、恩寵の濁流によってスクラップにされていたかもしれない。
私は、兄弟に抑えられながら、荒い息を吐き続けた。
壁に投影された黒い翼の影が、ゆっくりと消えていく。
瓦礫の山と化したバーの中で、私はただ、粉々になった青いデイジーの残骸を見つめ、初めて、己の力の「恐ろしさ」を知った。
第23話 陽だまりに触れた堕天使
粉々に砕け散ったガラスの破片が、冬の薄日に反射して残酷なほどに輝いている。
静まり返ったバーの中で、私は己の醜い怒りの残骸を見つめていた。壁に投影されていた黒い翼の影は消えたが、剥き出しになった私の「本質」は、もはや取り返しがつかない。
カトリーナに合わせる顔など、今の私にはなかった。その資格も、言葉も、時の彼方に置き忘れてきてしまったのだ。あろうことか、自分が人間ではない「本物の天使」であることを、最悪の形で見せつけてしまったのだから。
「サム、ディーン、行こう。……私の任務は終わった」
「おい、待てよキャス!」
「キャス、まだ彼女が……!」
引き止める兄弟の声を振り切り、私は出口へと足を進めた。
今の私に何ができるというのだ。この手で彼女の世界を壊し、恐怖を植え付けた。せいぜいできるのは、彼女の記憶から私という存在を、この惨劇ごと消し去ってやることくらいだ。
「もういい。もういいんだ……」
地獄の底から響くような、擦り切れた声。自分でも嫌気がさすほど惨めだった。
「待って! ……カスティエル!」
背後から届いたのは、震えながらも、凛とした強さを持った彼女の声だった。
私は立ち止まった。振り返る勇気すらないまま、項垂れる。
「……カトリーナ。私は……」
「天使なんでしょう? ……ふふ、とっくに気づいてたわ。あの日、傘の下で名前を聞いた時から。……それに、あなたが私の一番好きな本に出てくる『木曜日の天使』だってことも」
「……そんな素敵な存在じゃあないんだ」
私は自嘲気味に、重い言葉を吐き出した。
「私は兵士だ。天界の、血塗られた道具だ。神の命令一つで街を焼き尽くし、冷酷に命を奪う。今だって……君やこの店を、私の怒りだけで粉々にしようとした」
「……でも、今のそれは、誰かの命令じゃないんでしょ?」
その言葉に、私は吸い寄せられるように向き直った。
瓦礫の中に立つ彼女は、唇に滲んだ血を拭い、あの「天使の微笑」を湛えて私を見ていた。
「そうだ。……誰の命令でもない。私の……自由な意思だ。君を傷つける者を許さないという、私自身の……」
「じゃあ、あなたは冷徹な天国の兵士なんかじゃないわ」
カトリーナが一歩、私に近づいた。
「私のために怒って、私のために駆けつけてくれた……私とデートをしてくれる、大切な『キャス』よ」
「……っ!」
衝撃が走った。
天使に感情がないと言い出したのは、一体どこの誰なのだ。
今、この胸の奥から溢れ出し、頬を伝い落ちる熱い涙は、一体どこから来ているというのだ。
私は、磁石に引き寄せられるように彼女へと歩み寄った。
ぎこちなく、けれどこれまでの人生で最も優しく。
私は両腕の中に、春の陽だまりのような温もりを持つ彼女を、壊れ物を扱うように抱きしめた。
「……すまない。……ありがとう、カトリーナ」
彼女の髪から、あの青いデイジーと同じ香りがした。
私はもう、木曜日の天使でも、天界の兵士でもない。
ただ、彼女を愛おしむ一人の男として、この温かな光の中に溶けていきたかった。
「これからも……たまに、会いましょうね。カスティエル」
そう告げて、少し照れくさそうに笑って去っていったカトリーナを見送り、私たちはインパラに乗り込んだ。
車内には、使い切った高級香水の残り香と、どこか晴れやかな沈黙が流れている。
「……おいおい、見たかよサミー。あのキャスが、ついに『男』になりやがったぞ」
ディーンがバックミラー越しに私を覗き込み、これでもかというほどニヤニヤしながらアクセルを踏み込んだ。
「本当だね。あの抱きしめ方、あんなに練習した成果が出てたじゃない。ねえ、キャス?」
サムも後ろを振り返り、悪戯っぽく笑いながら私の肩を小突く。
「……うるさい。私は、彼女を保護しただけだ」
「保護ねぇ! まぁ、あんなに派手に店を壊しときながら『恋人』なんて言ってもらえるんだから、お前は世界一の幸せ者だよ」
「……あぁ。……そうかもしれないな」
私は窓の外、遠ざかっていく街の灯りを見つめた。
ポケットには、粉々になった金貨と押し花の代わりに、彼女の手のひらの温もりが残っている。
堕天使の翼はもう二度と元には戻らないかもしれない。
けれど、この「自由」という名の陽だまりがある限り、私はどこまでも飛んでいけるような気がしていた。
インパラのエンジン音が、夜の静寂を切り裂いて走る。
兄弟のふざけ合った笑い声が、不器用な天使の「初恋」の成功を、何よりも盛大に祝っていた。
第24話 買い過ぎたコーヒー豆の袋(サム想起回)
カスティエルが「デート」という名の聖域へ足を踏み出してから、バンカーの空気はどこか間の抜けた、それでいて穏やかなものに変わっていた。
サム・ウィンチェスターは、図書室の重厚なテーブルの上に、茶色の紙袋を三つ並べていた。中に入っているのは、地元のロースターで手に入れたばかりのコーヒー豆だ。いつもなら一袋で十分なはずなのに、なぜか手が勝手に動いて、予備の予備まで買い込んでしまった。
「……買い過ぎたな」
サムは苦笑しながら、袋の口を開けた。ふわりと広がる香ばしくも苦い香りが、鼻腔をくすぐる。
これまでの数週間、サムの仕事は「弟」や「ハンター」であること以上に、「恋愛相談員」であり「監視役」だった。
カスティエルの支離滅裂な独白を聞き、パニックを鎮め、時にはディーンの荒っぽい激励に注釈を入れ、図書館の隅で不審者さながらに息を潜めて見守る。
そんな「騒がしい日常」が、カトリーナとの約束が定まったことで、ふっと凪の状態に入った。
ディーンは「キャスがいないと酒がまずい」とぼやきながらインパラの整備に出かけ、カスティエルは今ごろ、鏡の前で百回目か千回目のネクタイの調整をしているだろう。
急に訪れた静寂の中で、サムは自分のためにコーヒーを淹れる。
一人分。
あんなに大量に買った豆の、ほんのひと掴み。
「……カスティエル」
サムは、ドリップポットから落ちる細いお湯の筋を見つめながら、その名を呟いた。
あんなに不器用で、言葉の裏表もわからず、常に「使命」の重みに押し潰されそうになっていた天使が、今では「明日の約束」のために右往左往している。
それは、サムにとって、どんな魔術の解読や悪魔の封印よりも、人間という存在の可能性を感じさせる出来事だった。
「人の気持ちってやつだよ」
かつて彼にかけた言葉が、自分自身にも返ってくる。
誰かのために心を砕き、世話を焼き、時にはお節介なほどに介入する。そうして疲れ果てた後に飲む一人分のコーヒーが、なぜかいつもより少しだけ、甘く感じられた。
買い過ぎたコーヒー豆は、きっとすぐに無くなるだろう。
カスティエルが戻ってきて、また「コーヒーは、私の恩寵にどのような化学変化をもたらすのだ」と的外れな質問を始めれば。あるいはディーンが「キャスの惚気話を聞くには、カフェインが足りねぇ」と文句を言えば。
サムは淹れたてのカップを手に取り、窓のない図書室の天井を見上げた。
この厚いコンクリートの壁の向こうで、大切な友人が、一人の男として光の中に立っている。
「……うまくやりなよ、キャス」
誰に聞かせるでもない独り言。
サムはコーヒーを一口啜り、ふと、余った豆を一袋、カスティエルの部屋の前に置いておこうと考えた。
彼がいつか、彼女をこのバンカー(あるいはもっと相応しい場所)に招く日が来た時のために。
買い過ぎた豆の袋は、ウィンチェスター兄弟と一人の天使が手に入れた、新しい「日常」の予兆だった。
サムは静かに本を開き、もう一口、温かい苦味を飲み干した。
第25話 レンチとか、スパナとかで直せないもの(ディーン想起回)
バンカーのガレージには、不機嫌な金属音と、古いオイルの匂いが充満していた。
ディーン・ウィンチェスターは、愛車インパラのボンネットに深く身を沈め、手慣れた手つきでボルトを締め直していた。
手の中にあるレンチの感触は、彼にとって世界で最も信頼できる真実だ。
力を込めれば締まる。逆らえば緩む。壊れたキャブレターも、摩耗したプラグも、適切な道具と情熱さえあれば、元通り……あるいはそれ以上の咆哮を上げるマシンに直すことができる。
だが、今、彼の胸の奥にある妙な「ザワつき」だけは、どの工具箱を探しても合う道具が見当たらなかった。
「……ちっ。どいつもこいつも、勝手にしやがって」
ディーンは、わざとらしく大きな音を立ててスパナを放り出した。
図書室ではサムが「買いすぎた豆」で妙に丁寧なコーヒーを淹れ、肝心のカスティエルといえば、数時間前から自室に籠もって、鏡を相手に「人間らしい表情」の最終調整に入っている。
あの大戦を共に戦い抜き、地獄も煉獄も一緒に這いずり回った相棒が、今や一人の人間の女に骨抜きにされている。
ディーンは、カスティエルがカトリーナの名前を口にするたびに、自分の役割が少しずつ変わっていくのを感じていた。
これまでは、キャスが道を踏み外せば力ずくで引き戻し、迷えば背中を蹴り飛ばしてやればよかった。それは、エンジンの異音を聞き分けてパーツを交換する作業に似ていた。
だが、今のカスティエルが抱えている「恋」という名のバグは、物理的な干渉を一切受け付けない。
「……俺にできるのは、香水をぶっかけることくらいか」
ディーンは苦笑し、汚れたウエスで手を拭った。
カスティエルが彼女のために流した涙、あのバーで見せた暴走、そして彼女に抱きしめられた時の、あの「救われた」ような顔。
それらは、ディーンがどれほど彼を愛していようと、親友として、家族として、決して立ち入ることのできない、聖域のような場所だった。
カスティエルの心に空いた穴や、彼が求めていた「自由」。
それは、レンチとか、スパナとかで直せるものではなかった。
彼自身の意志で、一人の女性の手を借りて、時間をかけて修復していくしかないものだ。
「……あーあ。湿っぽいのはガラじゃねぇな」
ディーンは、インパラの漆黒のボディを、愛おしそうにパチンと叩いた。
「おい、キャス! まだ鏡見てんのか! 時間だぞ、さっさと出てこい!」
ガレージから図書室へと続く通路に向かって、ディーンは声を張り上げた。
不器用な天使が、世界で一番大切な「デート」に向かう。その背中を、誰よりも力強く、誰よりも乱暴に、けれど誰よりも優しく送り出すこと。
それが、工具では直せないものを抱えた相棒に対し、今のディーンができる唯一の「整備」だった。
「サミー! コーヒーもう一杯だ。……キャスが帰ってきたら、盛大に茶化してやるからな」
ディーンは再びレンチを手に取り、今度は少しだけ晴れやかな気分で、インパラの次のメンテナンス箇所を探し始めた。
目に見える不具合は、俺が全部直してやる。
だから、目に見えない幸せくらいは、自分でもぎ取ってこい――。
鉄の匂いの中に、かすかに残るディーンの香水。
それは、言葉にできない絆の香りがしていた。
第26話 青い、青い空*1
バンカーを出て、いつもの見慣れたカンザスの道を歩く。
今日の空は、不自然なほどに澄み渡っていた。雲ひとつないその広がりは、かつて私が翼を羽ばたかせていた高天原の輝きにも似て、それでいて、今の私にはもっと別の、より確かな色に見えていた。
ポケットの中には、もう金貨も押し花もない。
それらはあのバーの瓦礫の中で失われ、形としては消えてしまった。だが、今の私の指先には、それらよりもずっと温かい、カトリーナの手のひらの感触が、恩寵の奥深くにまで刻まれている。
「……カスティエル」
自分の名前を、心の中で反芻してみる。
かつてその名は、天界の階級を示す記号であり、命令を遂行するための符号に過ぎなかった。だが、彼女の唇から漏れたその響きは、不思議な魔法のように、私という存在をこの地上に繋ぎ止める「楔」となった。
見上げる空は、青い、青い空だ。
かつて数千年も見続けてきたはずのその色は、なぜ今日、これほどまでに私の視界を揺さぶるのだろうか。
それは、私が「自由」になったからだ。
誰かの命令で飛ぶのではなく、自分の足で、約束の場所へと歩いているから。
隣でサムがコーヒーを淹れ、ディーンがインパラを磨いている、そんな些細な日常の延長線上に、彼女と会う時間が繋がっている。その奇跡のような連続性が、ただの青色を特別な色彩へと変えていた。
ふと、歩道に咲く名もなき小さな花に目が留まった。
以前の私なら、それを見ても「植物の一種」として処理していただろう。だが今は、その花びらが風に揺れる様子に、彼女の三つ編みが跳ねるリズムを重ねてしまう。
私は、もう一人ではない。
天界を追われ、家族を失い、深い孤独の淵に立たされていた堕天使は、今、二人の兄弟と、一人の女性という、この地上で最も強固な「絆」の中にいた。
「……あぁ。空が、眩しいな」
私は独り言を零し、少しだけ目を細めた。
涙ではない。ただ、あまりに透明な光が、私の新しく手に入れた「心」に、真っ直ぐに差し込んできただけだ。
遠くに、いつもの喫茶店の看板が見えてきた。
予定の時間は、もうすぐだ。
私はトレンチコートの襟を正し、ディーンから借りた香水の残り香を一度だけ深く吸い込んだ。
「待たせてすまない、カトリーナ」
まだ彼女の姿は見えない。けれど、この青い、青い空の下のどこかに、彼女が私を待ってくれている。その確信だけで、私の足取りは羽が生えたかのように軽くなった。
石化することもなく、震えることもなく。
私は今、自らの意志で、光の中へと踏み出していく。
木曜日の天使が、一人の男として、彼女という名の陽だまりに触れるために。
見上げる空はどこまでも高く、どこまでも青い。
それは、私が手に入れた自由の、そして愛の、果てしない証明だった。
第27話 踏みぬいたのは地雷
バンカーのキッチンは、不穏な静寂に包まれていた。
事の発端は、カスティエルがカトリーナとの「今後」について、あまりにも真剣な顔でサムに相談を始めたことだった。「人間との深い絆が、もし肉体的な結びつきに至った場合、恩寵への影響は……」などと大真面目にのたまう親友に対し、ビールを煽っていたディーンの口から、それは不用意に飛び出した。
「おいおいキャス、先走りすぎだろ。いいか、絶対に**『ネフィリム』**なんか孕ませるなよ。天界が大騒ぎになって、今度こそこのバンカーごと吹き飛ばされるからな」
ハハッ、と軽い冗談のつもりで笑ったディーンだったが、次の瞬間、キッチンの気温が氷点下まで急降下した。
「……ディーン。今、何と言った」
カスティエルの声は、地獄の底から響く地鳴りのようだった。
いつもならディーンの軽口を受け流すか、あるいは的外れな返球をする彼が、今はこの世の終わりを見るような冷徹な瞳でディーンを射抜いている。
「あ? いや、だから……冗談だよ。天使と人間のハーフなんて、天界の連中が血眼になって消しに来るだろ? めんどくせぇ事態になるのはゴメンだって話で――」
「冗談だと?」
カスティエルがゆっくりと立ち上がる。その背後に、一瞬だけ黒い翼の残像が揺れた。
「君は、私と彼女の未来に、ただの『面倒な事態』というラベルを貼ったのか。……私が彼女を愛し、もし新しい命を望む日が来たとして、君はそれを『バンカーを危険にさらす地雷』だと断じたのか!」
「おい、キャス、落ち着けって! そんな深い意味じゃ――」
「ディーン、君は傲慢だ」
カスティエルの言葉が、ナイフのようにディーンの胸を抉る。
「君は私に『自由になれ』と言った。自らを由とせよと。……だが、その自由が君の都合(バンカーの安全)を脅かす可能性があると知った途端、君はそれを呪いのように忌み嫌うのか」
「……あぁ!? 誰がそこまで言ったよ! 俺はただ、現実的なリスクの話を――」
「その『現実』の中に、私の幸福は含まれていないのか!」
カスティエルの叫びに、テーブルの上のグラスがピシリと音を立てて震えた。
彼は激しい怒りに肩を震わせ、ディーンがこれまで見たこともないような、深い絶望と軽蔑が混ざった眼差しを向けた。
「……君にとって、私はやはり『便利な兵器』でしかないのだな。管理の行き届いた、牙を抜かれた天使。……幻滅した、ディーン」
カスティエルはそれだけ言い残すと、背を向けてキッチンを去った。バタン、と彼の自室の扉が閉まる音が、バンカー全体に虚しく響き渡る。
残されたキッチンで、ディーンは手に持ったビールの瓶を、力任せにテーブルに置いた。
隣で一部始終を見ていたサムが、深いため息をつきながら頭を抱えている。
「……ディーン。兄貴の取り返しのつかないレベルのうっかり発言癖はよく知ってるけど…今のは、さすがに最悪だよ。……完全な地雷発言だ」
「……わかってるよ! クソッ……」
ディーンは自分の失言の重さに、今さらながら打ちのめされていた。
「ネフィリム」という言葉が、天界においてどれほどの禁忌であり、同時に「愛の結晶」を否定する残酷な響きを持っているか。何より、カスティエルがどれほど真剣にカトリーナとの「普通の人間としての未来」を夢見ていたか。
「……あいつ、あんなに怒るなんて思わなかったんだよ」
「キャスはもう、君が思っている以上に『人間』なんだよ、ディーン。……あの子を守るためなら、彼は世界だって、君だって敵に回す覚悟ができてるんだ」
ディーンは、自分の右手をじっと見つめた。
レンチやスパナでは直せない、親友との間に生じた巨大な亀裂。
「自由」を説いたはずの自分が、無意識のうちに相手を「枠」にはめようとしていた。
今夜、バンカーの空気はかつてないほどに重く、冷たい。
ディーンは、キャスの部屋の扉をノックする勇気も持てないまま、ぬるくなったビールを黙って飲み干した。
第28話 空っぽのコップ
「決戦の木曜日」を越え、ようやく手にしたはずの安らぎは、あまりにも無神経な一言によって粉々に砕け散った。
バンカーを飛び出した私の胸中では、まだ収まりのつかない怒りが黒い渦を巻いている。ディーンのあの言葉――私たちの未来を「リスク」と呼び、生まれてもいない命を「厄介事」と断じたあの傲慢さ。
これまで幾度となく彼を信じ、背中を預けてきた日々さえも、今は色褪せて見えた。
「……愛想が尽きた、というのは、こういう感覚なのだな」
私は独り言を吐き捨て、四月の柔らかな風が吹く街角を、あてもなく歩き続けた。
いっそ、このままバンカーには戻らず、カトリーナと二人だけでどこか遠くへ消えてしまおうか。天使でもなく、ウィンチェスターの兵士でもない、ただの男として彼女と生きる。その選択肢が、今の私にはかつてないほど現実味を帯びて感じられた。
気がつくと、私は約束の時間でもないのに、いつもの喫茶店の前に立っていた。
吸い込まれるように店に入り、彼女とよく座る窓際の席へと目を向ける。
そこには、彼女の姿はなかった。
ただ、つい数分前まで誰かが座っていたことを示すように、空っぽのコップがひとつ、ポツンと取り残されていた。
窓から差し込む春の光が、ガラスの縁でキラリと跳ねる。
飲み干された水の跡。わずかに残る、氷が溶けた後の湿り気。
それは、彼女という「日常」が確かにそこに存在し、そして流れていっていることの証明だった。
私はその空のコップを見つめながら、不意に、自分の心がそれと同じように空虚であることに気づいた。怒りで満たされていたはずの器が、彼女の不在という現実を前にして、急激に乾いていく。
「……カトリーナ」
私は、彼女が座っていたであろう椅子の温もりを想像しながら、そっと席に腰を下ろした。
開け放たれた窓から、四月の風が吹き込んでくる。それは花の香りを運び、私のトレンチコートを優しく揺らした。
もし、ディーンと決別し、すべてを捨てて彼女の元へ行ったとして。
私は彼女に、何を与えられるのだろうか。
嘘と隠し事のない人生か。それとも、かつての仲間を失ったという「欠落」を抱えたままの自分か。
空っぽのコップは、何も語らない。
ただ、満たされていた時間がそこにあったことだけを静かに主張している。
ディーンの言葉は確かに「地雷」だった。許しがたい暴言だ。
けれど、その毒に当てられて、カトリーナとの間に築き始めたこの穏やかな時間を、自暴自棄な決断で汚してしまっていいはずがない。
私は、店員が持ってきた新しい水の入ったグラスを手に取った。
冷たい水が喉を通り、少しだけ頭が冷えていくのを感じる。
「……私は、まだ空っぽだ」
知識はあっても、経験が足りない。自由は手に入れても、その使い方がわからない。
だからこそ、私は学び続けなければならないのだ。ディーンと喧嘩し、サムに諭され、そしてカトリーナの微笑みに救われる。その不格好な循環こそが、今の私という「人間」を形作っているのだから。
私は立ち上がり、テーブルに代金を置いた。
カトリーナの座っていた席に残された空のコップに、心の中で一度だけ別れを告げる。
四月の風は、まだ少し冷たさを孕んでいた。
けれど、バンカーへ向かう私の足取りは、先ほどよりもずっと地に近い場所を歩いていた。
怒りは消えない。ディーンにはきっちりと謝罪を要求するつもりだ。
だが、私は彼女と、そしてあの騒がしい家族と共に、この空っぽの器を一つずつ「思い出」で満たしていこうと決めた。
窓の向こうで、春の空がどこまでも高く、澄み渡っていた。
第29話 警告灯と重い足音
喫茶店を出てバンカーへと続く帰り道、私の視界を鮮やかな赤毛が横切った。
カトリーナだ。
ディーンへの煮え切らない苛立ちで濁っていた私の意識が、一瞬で彼女という光によって濾過されていく。
「カトリーナ!」
もはや石化することもなく、喉を滑らかに通り抜けた呼び声。
だが、振り返った彼女の表情には、いつもの陽だまりのような微笑みはなかった。そこにあったのは、焦燥と、何かに追い詰められたような強張った色だ。
「……ごめんなさい、カスティエル。今、すごく急いでいるの」
彼女はそれだけ言い残すと、私の制止を待たずに足早に立ち去った。
その背中には、見えない警告灯が激しく点滅しているような、不吉な予感があった。
胸の騒ぎを抑えられず、私は無意識に彼女の後を追っていた。
彼女が向かったのは、街の外れ、深い森の奥へと続く未舗装の道だ。湿った土を踏みしめる重い足音だけが、静まり返った木々の間に響く。
「……キャス」
背後から聞き覚えのある声がし、私は反射的に肩を震わせた。
木陰から現れたのは、心配そうに眉を寄せたサムだった。その声は制止の色をはらんでいる。
「ディーンのあの発言については、僕からも謝るよ。後でこっぴどく叱っておくから。……でも、さすがに本気のストーカー行為はまずい。彼女にもプライバシーがあるんだ」
「違うんだ、サム。彼女の様子がおかしかった。……何か、大きな問題を抱えている」
「キャス、それは恋をしている男の過保護だよ。……さあ、一度バンカーに戻って頭を冷やそう」
サムの言葉は正論だった。だが、私の「守護天使」としての本能が、それを拒絶していた。
サムを振り切り、さらに森の奥へと進むと、そこには古びた一軒の小屋が佇んでいた。
地元の人間なら近づかない、悪名高いチンピラの金貸しが根城にしているという噂の場所だ。
カトリーナの姿は、すでにその重い扉の向こうへと消えていた。
私は小屋の数メートル手前で足を止め、鼻腔を突く独特の刺激臭に眉を潜めた。
「……硫黄だ」
隣にいたサムの表情も、一瞬でハンターのそれに変わった。
わずかだが、確かな悪魔の前兆。
あのバーで彼女を襲った男たちが、単なる人間のチンピラではなかった可能性。あるいは、彼女が抱えている「借金」という名の重荷の裏側に、もっとおぞましい何かが潜んでいるのか。
「サム。……これはもう、私の私情ではない」
私はトレンチコートのポケットの中で、かつての戦友であるエンジェルブレードの冷たさを求めた。だが、手の中にあるのは彼女から預かったままの「ぬくもり」の記憶だけだ。
「わかってる。……でも、慎重にいこう。悪魔が絡んでいるなら、カトリーナが『契約』の生贄にされている可能性がある」
小屋の窓から漏れる微かな光が、湿った森の地面を不気味に照らし出す。
警告灯は、もはや点滅ではなく、絶望的な赤色で固定されていた。
私は再び一歩、踏み出す。
今度の足音は、怒りでも恋慕でもない。
愛する者を地獄の淵から引きずり戻すための、重く、決然とした「戦士」の足音だった。
第30話
山小屋の内部は、外の静寂が嘘のような地獄の縮図だった。
腐りかけた木材の匂いに混じり、鼻を突く強烈な硫黄の臭気が充満している。壁には黒い塗料――あるいは血で描かれた悪魔の儀式の紋章が刻まれ、床には数多の「契約者」たちの成れの果てが転がっていた。
「カトリーナ! どこだ!」
私はサムと共に、エンジェルブレードを抜き放ち、闇を切り裂くように奥へと進んだ。
だが、最奥の扉を開けた瞬間、三体の悪魔が影から飛び出してきた。
「天使が迷い込んできたぞ、兄弟たち!」
下級悪魔たちの猛攻を受け、私は肩に深い傷を負った。聖なる銀の輝きで二体を消滅させたものの、最後の一体の不意打ちに膝をつき、そのまま奥の広間へと荒々しく押し出された。
広間の中心、革張りの椅子に深々と腰掛けていたのは、仕立ての良いスーツを纏った一人の男だった。
その瞳は、深淵のような闇に溶けない、不気味に燃える赤い瞳を湛えている。
「おっと、随分と騒がしい客だな。カスティエル、だったか?」
男が指を鳴らすと、私の恩寵が金縛りにあったように凍りついた。通常の天使の力も、サムが持つ悪魔狩りの短剣も通用しない。この男は、地獄のヒエラルキーでも上位に位置する、名のある上級悪魔だ。
「この女はな、借金という名の『契約の締め切り』がとっくにかさんでるんだよ!」
上級悪魔が冷酷に言い放ち、その足元へ、布切れのように一人の女性を投げ捨てた。
傷だらけになり、力なく床に伏せっているその姿に、私の心臓が止まりかけた。
「……カトリーナ」
カトリーナは、血の混じった息を吐きながら、絶望に濡れた瞳を私に向けた。
「……ごめんなさい、カスティエル。……どうしても、昔の恋人を生き返らせたくて。……少し前に、この悪魔と契約してしまったの。その、魂の期限が……もう、迫っているの」
「昔の、恋人……?」
その言葉は、上級悪魔の一撃よりも深く、私の魂を貫いた。
彼女が図書館で天使の本を読み漁っていたのは、私を待っていたからではなかったのか。
「神や天使」に縋っていたのは、死者を呼び戻す奇跡を求めていたからだったのか。
私が勝手に抱いていた「恋」という名の希望が、砂の城のように音を立てて崩れ去っていく。
「ハッ! 傑作だな!」
放心する私を見下ろし、上級悪魔が遠慮のない一撃を私の腹部に叩き込んだ。
衝撃で私は壁まで吹き飛ばされ、激しい痛みが全身を走る。視界の端では同じく縛られ傷めつけられているサムの姿が映る。
「天使がこの街をうろついているのは知ってたが、あまりに腑抜けたツラをしてるから、雑魚だと思って泳がせておいたのさ。案の定、女一人に現界のルールも忘れて溺れてやがるとは!」
上級悪魔がゆっくりと歩み寄り、私の髪を掴んで無理やり顔を上げさせた。
その赤い瞳が、私の瞳の奥にある絶望を、楽しそうに覗き込む。
「さあ、天使。お前の愛する女の魂を、目の前で回収してやろう。……それが、契約の『締め切り』だ」
カトリーナの啜り泣く声と、悪魔の嘲笑が、腐った小屋の中に響き渡る。
私は、力の入らない指先で、床に散らばった青いデイジーの幻影を必死に探していた。
第31話 鳥が高く飛び立つためには
朽ちかけた小屋の静寂を切り裂いたのは、荒々しいブーツの足音と、聞き慣れた金属の撃鉄音だった。
「――おい。俺の大切な家族に、汚ねぇ手で触ってんじゃねえよ」
逆光の中に立つその影は、紛れもなくディーン・ウィンチェスターだった。その手には、この世で屠れないものは五つしかないと言われる伝説の銃、コルトが握られている。
「コルトだと!? 馬鹿な、そんなものがまだ――」
上級悪魔が驚愕に目を見開いた瞬間、乾いた銃声が轟いた。眉間を撃ち抜かれた悪魔の肉体から、不浄な光が漏れ出し、断末魔と共に霧散していく。ディーンは流れるような動作で残りの下級悪魔たちを叩きのめし、私とサムを縛り付けていた恩寵の枷を粉砕した。
悪魔たちが消え去り、小屋には重苦しい沈黙が戻った。
立ち尽くす私の足元で、カトリーナは顔を上げられないまま、震える肩を抱えていた。
「……あなたを裏切ってしまった。……私こそ、救いようがないほど汚れているわ」
「カトリーナ……」
「これだけは言わせて。あんな悪魔と契約したって、あの人が生き返らないことくらい、心のどこかでは分かっていた。……でも、あなたには、本当に助けて欲しかったの。あなたの眩しさに、縋りたかった」
彼女の声は、後悔の礫となって私の胸を打つ。
「何を言っても言い訳ね。キャス……いいえ、カスティエル。私はあなたの何倍も、薄汚れた人間なのよ」
「違う!」
私は、自分でも驚くほどの大きな声で彼女の言葉を遮った。傷ついた肩を抑え、私は彼女の目を見つめるために膝をついた。
「カトリーナ。人は人を愛するものだ。そしてそれは、決して汚れたものなんかじゃない。君が過去の……誰かを大切に想い、必死に抗おうとしたその気持ちを、どうか否定しないでくれ。……それは、この数ヶ月で私が、君や私の友人たちから教わったことでもあるんだ」
「キャス……」
カトリーナが、堪えきれずに顔を覆って泣き崩れる。私はその涙を拭う代わりに、必死で口角を持ち上げた。脆く、壊れそうな、精一杯の笑顔。
「ありがとう。……私はカスティエル。木曜日の天使だ」
あえて、人間が名付けた「役目」を名乗った。
それは、私がもう彼女一人のための「キャス」ではないという、あまりに静かな、決別の合図だった。
鳥が高く飛び立つためには、執着という名の重りを捨てなければならない。たとえその重りが、命よりも大切な恋心だったとしても。
私は背後で見守っていたディーンとサムに、短く目配せを送った。
二人は何も言わず、ただ深く、私を受け入れるように頷いた。
私は奥歯を噛み締め、一度も振り返ることなく、カトリーナに背を向けて小屋の出口へと歩き出した。
「……っ」
天使に感情がないなんて言ったのは、一体誰なのだ。
今、頬を伝い、足元の泥に冷たく落ちていく雪のような涙は、どこから溢れてくるというのだ。
その答えが何であれ、今の私には帰る場所がある。
インパラの後部座席。ガレージのオイルの匂い。サムが淹れる苦すぎるコーヒー。
バンカーに戻れば、失恋した一人の天使を、二人の家族が盛大に、そして不器用なほど優しく癒してくれるだろう。
暖かい春風が、私のトレンチコートを遠慮気味に揺らした。
空はどこまでも高く、自由だった。
キャラ改変はできるだけおさえて、カスティエルのぎこちなさを前面にW兄弟のニヤニヤをスパイスにした感じのプロンプトからこんな話に。でも考えてみたら原作ドラマでも何回かキャスはドタバタ恋愛してるよね。まあこれもifのひとつということで。 
あんまりプロンプト書かないとぜんぜん進展しないショートストーリーばかりなんだなという学びがあった