AI_spn25

Last-modified: 2026-05-01 (金) 15:56:33

救いのなさとおいしいケーキ。性行為はないけどあるようなもんだよなこれ。吸血行為をされた相手にも精神的利益があるよという設定。
時間軸としてはシーズン8くらいか?ディーンヴァンパイア化話のあと、ソウルレスサムが治ったくらい。
未完成っぽい終わり方だけどそんなバッドエンドもいいでしょう。いい天気だし。
とことんツイてないやられる一方のサムは原作ドラマのせいもあって想像しやすくて困る。
topディーン、bottomサム。


血液

1

冬の足音が聞こえる真夜中、ひと気のない森林地帯。狩りの帰りのインパラは、冷えた空気の中で静かに呼吸を止めているようだった。今日は都合よく空き室のあるモーテルが見つからなかったので車中泊と決まったのだ。

僕は後部座席をベッド代わりに、長い脚をくの字に曲げてシート下のクーラーボックスに投げ出すようにして横になっていた。
不意に、前部座席に寝ていたはずのディーンが身動きする振動と音が鼓膜を叩く。

――そろそろだと思っていた。

緩慢な動作で、眠りに落ちかけていた体を起こす。タンクトップ一枚の肌に触れる空気は冷たいはずなのに、意識はまだ遠くの方でふわふわと漂っている。指先に触れるインパラのシートの感触だけを頼りに、なんとか自分を現実に繋ぎ止めた。

腕時計を見れば、時刻は午前2時半。
念のため、枕代わりにしていたジャケットの下にある銃の感触を確かめる。周囲に人の気配も、モンスターの気配もない。それだけが、この静寂における唯一の救いだった。

「…ディーン?」

後部座席から、前方の背もたれに向かって問いかける。答えなど、最初から分かりきっていた。

「サム、……」

切なげな、縋るような兄の声。戦場ではついぞ見せたことのない、異様な熱を帯びた響き。僕の予感は、残酷なほど的中してしまった。

「アレか……」

それから5分。
ディーンは何も言わなかった。
鏡合わせのように、僕もまた沈黙を守るしかない。後部座席から様子を伺うと、ディーンはハンドルにうずくまり、込み上げる熱を必死で抑え込もうとしていた。握りしめた手の爪が、自分を律するように食い込んでいる。

「はぁ、……いつまで黙ってるんだよ」

知らぬ間に、ため息が漏れた。
兄が弟に対して強がりであることは、この世界がひっくり返っても変わらない絶対的な基準だというのか。

「ディーン、なんか言えよ」

言ってくれ。兄貴が『アレ』を欲しがっていることなんて、とうに気づいている。でも、僕からそれを口にすることなんてできない。最愛の兄のためなら、どんなことだってする覚悟はできているというのに。

皮張りシートという薄い隔たり越しに、僕は浅く速い呼吸を繰り返すディーンへと詰め寄った。

「サミー、……」
普段の彼からは想像もつかない、細く、か細い呼び声。

「ディーン」

僕はそれを逃がさないように、強く、縛り付けるような声で応じる。
さらに1分という時間が無駄に消費されたあと、ようやくディーンが口を開いた。

「カラダ……貸してくれ」

言うが早いか。ダムの決壊にも似た勢いで、ディーンが前部座席から後部へと飛び込んできた。
寝そべっていた僕は、体勢の悪さも手伝って、抗う術もなくシートへと沈められる。身長差はあっても、もともとの筋肉の質が違う。かなうわけがなかった。

「わ、かっ……てる、」

乱暴にタンクトップが引き裂かれる音が狭い車内に響く。僕は構わずに、覆いかぶさってくる兄にすべてを任せた。

「あつ、ぅ……っ」

上半身を剥き出しにされ、押さえつけられた状態で、首筋に鋭い痛みが走る。
ヴァンパイアの呪いは解けている。そこに牙はない。けれど、牙ではない人間の、ディーン自身の歯で肉を食いちぎらんとする生々しい感触が、僕を陶酔の淵へと引きずり込んでいく。

「サム……ごめんな」

ひどいことをしている自覚があるのなら、そんな涙声を出さないでくれ。
いつもの反発心が頭をもたげるより早く、得体の知れない快感の先端が背筋を駆け抜けた。抗えない熱が、僕の思考を塗り潰していく。

意識が『落ちる』直前、せめてもの抵抗としてドアのロックを指先で弾いた。
窓の外は冷え切っているはずなのに、インパラのガラスは、瞬く間に二人の男の熱い吐息で真っ白に染まっていった。

2

兄に首筋の皮膚を噛み切られる瞬間、わずかな『痛み』が火花のように散った。
けれど、ディーンの歯と舌が血管の場所を確かめるように蠢き、脈動をより深く感じようと鼻先を押し当ててさらに深く噛み千切られた瞬間、脳の内側をおぞましいほどの快感が駆け抜けた。
これまでに経験したどんな行為とも比較にならない。次元そのものが違う。
くぐもった声が漏れるのを、もはや抑えることなどできなかった。理性ではなく本能が、この身を流れる血そのものが、兄による蹂躙を求めているのだと直感が告げていた。

「……っあ」
「だめだ……」

何かを抑制しようとするディーンの掠れた声が聞こえた気がした。
しかし、その言葉とは裏腹に、僕の体は強引に引きずり上げられた。ドアの上部まで持ち上げられ、両腕を磔にされるように拘束される。狭い車内で体のあちこちが悲鳴を上げているはずなのに、それすらも遠い世界の出来事のように感じられた。病的なまでの快感の前に、抵抗する意志などとっくに霧散している。

ディーンの熱い吐息が首筋から離れない。鼻腔をくすぐる鉄の匂いに煽られるように、僕は無意識に腰を浮かせた。
わずかに自由のきく指先で、ディーンの短い髪を愛しむように撫でる。言葉にならぬ「もっとくれ」という懇願が、その指先に混じっていたのかもしれない。

「サミー……」

大好物のパイを目の前にした子供のような、あまりに無垢で強欲な響き。

「……ディーン、いいから」

僕を持って行け。耳元でそう囁いた。

公認の『許し』が出た瞬間、今度は鎖骨のやや上を深く齧られた。より多くの血が噴き出す場所を、彼は正確に狙っている。
皮膚が破れる瞬間、僕の体はビクッとわななき、直後に風船がしぼむように力が抜けた。あとはもう、ただの反射運動でしかない。

「……あ、う、っ……」

ミシッ、と背骨にまで響くような粘りつく快感が脊髄を駆け抜ける。
溢れ出した血がシートを濡らし、大きな染みを作っていくのが、耳元に広がる熱い感触で分かった。
両腕は鉄の梃子のようなディーンの手に押さえつけられ、下半身は彼の体重で完全に封じられている。動けるわけがなかった。

「ディ、……ーン、」

二度目の吸血は、一回目よりもさらに深く、執拗なものだった。
齧られた右半身から、魂がそのまま吸い出されていくかのように、力と生気が失われていく。

「っぷは……」

不意に顔を上げた兄は、きっとひどい顔をしているんだろう。だから見てやらない。
もっとも、僕だって快感に溺れ、陶酔し、青ざめた無様な顔をしているはずだ。
二箇所の傷から漏れ続ける血は、インパラのシートの下に血溜まりを形成していく。あとの掃除が大変だな、という場違いな感傷は、ディーンの口元から滴った血が僕の頬を汚した瞬間に消し飛んだ。
三日月の光に照らされたその姿は、本来なら言いようのない恐怖の対象であるはずなのに、彼に支配される恍惚感だけが僕を支配していた。

決して、肌を重ねるような性交渉をしているわけではない。
けれど、そんなものよりもずっと深く、血のレベルで繋がっている気がした。

「足んねぇ……」

細く微かな、けれど切実な飢餓の声。僕はそれを聞き逃さなかった。

「いい、……から、好きなだけ……飲め」

ヴァンパイアの餌になっているという自覚は、不思議となかった。
これはディーンだ。僕のいちばん大切な兄であり、唯一の家族。そして、彼にとっても僕は同じはずだ。

ほとんど間を置かず、今度は胸元の中央を深く抉られた。
かつて悪魔除けとして共に刻んだ五芒星の刺青が、互いの熱い皮膚の上で、吸い付くように重なり合う。
信じられないほどの快感の波が引くことなく、常に最高点を更新しながら、僕の指先の末端までを支配し尽くしていた。

3

熱い血が、ベッドと呼ぶにはあまりに頼りないインパラのシートをしとどに濡らしていく。ディーンの口元からなのか、僕の傷口からなのか判然としない水音が、狭い車内にけたたましく響いた。
三箇所の傷は、それぞれが致命傷の一歩手前で絶妙に止められている。それがディーンの理性のなせる業なのか、あるいは単なる偶然なのか。今の僕には知る由もなかったし、知りたくもなかった。

引き波のように去ってはまた押し寄せる快感が、指先から髪の毛の一本一本までを震わせる。ディーンは僕を押さえつけたまま硬直しているらしく、覆いかぶさった彼の荒い吐息だけが、すぐ眼上にあるのを感じた。眩暈を伴う快感に視界は白く霞み、もはや何もまともに見えてはいなかった。

「サム……?」
「……大丈夫か、なんて言ったら……ぶん殴るぞ」

掠れた声で辛うじて軽口を返したが、腕一本動かすことすら叶わない。首筋からの出血を抑えることすらできずにいると、ディーンがぶっきらぼうに止血をしてくれた。それを黙って受け入れる。今、自分から少しでも動いてしまえば、体内に澱のように残る快感の残滓に理性を狂わされてしまいそうで、それが何より怖かった。

「……まだ、足りねぇ……」

数分もしないうちに、鉄の塊を思わせる冷たく重いディーンの声が落ちてきた。

「おい、……」

たしなめるように声を絞り出す。
吸血の頻度は増している。最初に出会った頃よりも格段に。そう、『こうなった』のは昨日今日のことではないが、ディーンの渇きが重症化しているのは明らかだった。
けれど、この行為を拒絶しようという意思は、僕の内側からは一向に湧いてこなかった。

あの、頭の芯がとろけるような快感。
ヴァンパイアにそんな性質があるなどと、どの文献でも読んだことがない。おそらくこれは、僕たち兄弟という血縁だからこそ発現した、歪な共鳴なのだと直感が告げている。
ディーンは吸血によって渇きを満たし、僕はそれによって至上の快感を得る。自ら進んで血を差し出してしまう。これ以上ないほど「ウィン・ウィン」な関係だ――そう自分に言い聞かせ、思考の淵に沈み込む。

物足りなさに耐えかねたディーンが、やおら僕の、もはや力も入らない左手首を掴み上げた。そこは古傷が残っているからやめろと、あれほど言ったはずなのに。

「やめ、……もう、」

それに、もう限界だ。三度の吸血で、僕の血の半分は持っていかれたような感覚がある。実際に体温は急激に低下し、意識がふうっと後ろに引かれていくような、独特の貧血感が全身を支配し始めていた。

「欲しいんだよ……」

あれだけ避けていたはずなのに、その瞬間、空中でふたりの視線が痛いほどにぶつかり合った。
車内に充満する鉄錆の匂いと熱をまともに吸い込んだせいで、堪えていた情動の涙が溢れ出した。それは僕の血と混ざり合い、ディーンの肌の上へと溶けていく。

飢えた獣が、世界でたったひとつの獲物を見つめるようなその眼差しに、身が竦んだ。
貧血のせいで、僕の顔色は最悪だったに違いない。けれど、意味のない問答の末に、僕は決まりきった答えを胸の奥から吐き出した。

「……わかったよ、……早くしろ」

言うが早いか、僕の腕時計は乱暴に引き剥がされ、左手首が深々と兄の歯に刻まれた。ディーンの歯列が僕の脈動を確かめるようにつまみ上げ、遠慮会釈なく肉を引きちぎっていく。
選ばれたのが右腕ではなかったのは、次の狩りに支障が出るという彼なりの思いやりだろうか。未来なんてもうどこにも残っていないというのに。

醒めかけていた快感が、再び猛烈な勢いで襲いかかってきた。
四肢の中でも敏感な手首を蹂躙されたことで、普段とは違うルートを辿って快感が突き抜け、最後には脇をくすぐり、腰の奥を熱く焼き焦がした。

僕が味わっているこの悦びを、きっとディーンは知らないだろう。
「吸血された側が快感を得る」なんて伝承はどこにも存在しない。これは、僕たちふたりだけの、誰にも汚されることのない特別な性質。

4

四回目の吸血も長く、そして深かった。
血まみれの僕をディーンがようやく解放したのは、夜明けが間近に迫った時刻だった。インパラの窓から差し込む光はまだ心細いほどに薄暗いというのに、網膜を焼くようにやけに眩しい。外では鳥たちがかまびすしく響き渡っていた。

首筋に三箇所、手首に一箇所。
客観的に見れば凄惨な自殺未遂を疑われるような有様だが、今の僕はそんな外聞を気にする余裕などなかった。逃げていかない快感と、そこに混ざり合う鈍い痛みを抑え込むことに、ただただ必死だった。

沈黙が支配する車内に、ややあって声が落ちる。

「サム……大丈夫か?」
「ぶん殴るって……言っただろ……」

飢えた獣のそれではなく、いつものディーンの気配に戻ったことは肌で感じ取れた。けれど、こちらの体が動かないのは変わらない。痛みというより、微細な空気の振動ですら身の裡に残る熱を煽り、僕を翻弄し兼ねないからだ。吐き出す息のひとつひとつが鉛のように重く、乱れた呼吸がなかなか収まらない。体内の血液が失われ、酸素濃度が急速に低下しているのは明白だった。

「首の傷……ちゃんと処置しねぇとな」
「今は、いい……」
「だめだ。ばい菌が入るだろ」
「本気で言ってるのか?今さら、そんな……」

これまでの人生で最大級の倦怠感だ。眩暈の上に眩暈が重なり、自由に動かせるはずの四肢がどこか遠くへ消えてしまったかのような感覚。

「サム、マジで死ぬぞ」
「……殺そうとしたのは、誰だ」

頭痛が眩暈をさらに加速させる。肺がフル稼働して空気を求めても、酸素の供給が追いつかない。
足りない。血が、足りないんだ。
不意に、心配そうに僕を覗き込むディーンの顔が視界に映った。もし、ディーンの血を僕が飲めば――そんな思考が脳裏をかすめたが、それだけは死守すべき一線として踏みとどまった。

ここが境界線だ。もし僕がディーンの血を啜り、彼もまた僕を求め続ければ、二度と抜け出せないウィンチェスターの呪いの円環が完成してしまう。ハンター生活どころか、人間としての形すら保てなくなるだろう。それだけは、何としても阻止しなければならない。

「……俺からは、何も言い返せねぇな」

僕の沈黙を別の意味に捉えたらしいディーンが、自嘲気味な笑みを浮かべた。

「ディーン、また足りなくなったら……僕がやるから。それで……」

それがいつまで可能なんだろうか。日に日に必要量を増していくディーンの渇きを潤せるのは、世界に僕しかいないというのに。

「お前に頼るしかねぇ、か……」
「兄貴専属の輸血パックになんて、なるかよ……」
「どうにかするってのか?」

その問いには答えず、少しずつ戻ってきた気力を手繰り寄せるようにして身を起こす。先のことは霧に包まれて見えないが、今は彼が落ち着いたのなら、それでいい。

「たぶん……明日明後日までは、動けないから」
「わかってる。帰ったら寝てろ。急ぎの狩りが入ったらキャスにでも頼むから、気にするな」
「お腹空いた……喉も、渇いたよ」
「待ってろ。包帯巻いたら街まで行って、コブサラダでも買ってきてやる。シートの掃除もしておくから、今は横になってろ」

吸血行為の後、妙に甲斐甲斐しく世話を焼き始めるのも、いつもの光景になりつつあった。
僕は兄の手を借りて介抱されながら、いまだ火照り続ける脳をゆっくりと休める。
あの狂おしいほどの快感が、またいつか得られるのなら。今は、それだけで十分だった。


5

※ディーン視点

あの時から、俺の中で何かが決定的に変わった。
いや、対外的に見れば変化などないはずだ。俺たちはいつものようにインパラを走らせ、世界を脅かす化け物を狩り続ける、腕利きのハンターであり続けている。

だが、あのヴァンパイアにされた日――。
解毒剤で乗り切ったはずのあの呪詛の残滓が、数ヶ月後、魂を取り戻したサムと合流したあたりから、奇妙な『変異』として芽吹き始めたんだ。

それは、抗いようのない飢餓感だった。
ヴァンパイアに成りかけていたあの時の渇きとも違う。単なる空腹や、湿気たビールで誤魔化せるような喉の渇きでもない。眠りにつけば、無意識のうちに隣の誰かを食い殺してしまいそうな、暗く深い、癒えない渇望だ。

「があ、っ、……」

後部座席でサムが寝ているのは分かっている。だが、喉の奥からせり上がってくる獣のような唸りを、もう抑えつけることができない。
求めていた。たったひとつの、絶対的な充足。それはすぐ近くにある。革張りのシート一枚を隔てたすぐ向こう側に。

鼓膜に届くのは、あいつの心音だけだ。落ち着いたリズムを刻む鼓動。安らかに上下する胸の動き。……そうだ、獲物は……サムは、無防備に眠っている。

俺は一体、いつまでこんな真似を続けなきゃならない?
いくら啜ってもこの渇きが癒えないことなんて、百も承知だ。それどころか、血を交わすたびにお互いを離せなくなる、禁じられた泥沼に沈んでいくだけだというのに。

「……サム」

俺の馬鹿野郎。こんな時にあいつの名前を呼ぶな。
脳幹を貫くような、愛しい『対象』の名の響き。それだけで口内に生唾が溢れる。自分の中に流れる呪われた血が、同胞を求めて吠えている。この世界で、弟だけが持ち合わせているあの血が欲しい。どうしようもなく。

自制と欲動の狭間で、俺は前部座席に転がっていたサムの飲み残しの空き瓶を、指が白くなるほど握りしめた。
ダメだと分かっていても、名前を呼ぶ声が止まらない。

「サム、……」

きっと今の俺は、情けないほど切なく、物欲しげな声を上げているに違いない。

「ディーン」

俺の震える声とは対照的な、逃げ場を塞ぐような強い響き。
起きてたのかよ。サムの生まれ持った、あの特徴的な優しい声音が、こんな時でさえ俺の耳を甘く撫でる。その質感に、目の奥で火花が散った。
押し寄せる疼き。爆発しそうな情動。もう、限界だった。

「カラダ……貸してくれ」

せめてもの虚勢で、そう口にする。返せるあてなんてどこにもないくせに。

その後のことは、ほとんど記憶にない。
あいつの長身を組み伏せながら、「筋肉じゃ俺に勝てない」なんて皮肉っていた昔を、一瞬だけ懐かしく思った。全力を叩きつければ、サムはあっさりとシートに沈み、それ以上の抵抗は見せなかった。

「わかっ……てる」

黒いタンクトップを引きちぎれば、俺が叩き込んだ通りに鍛え上げられた、あいつの血肉がそこに脈動していた。
もう、無理だ。
俺はすべての箍を外した。無我夢中で、熱く煮えたぎるこの世でたったふたつのウィンチェスターの血を、喉の奥へと流し込んでいった。

6

朝日がようやく朝日らしい輪郭を結び、僕はどうにか上半身を起こせるようになった。
重い体を引きずり、バックシートの背もたれを掴んで身を支える。指先に、幼い頃に二人で彫り込んだ『D.W』と『S.W』の文字が、確かな凹凸となって伝わってきた。いつもなら温かい記憶とともに眺めるはずのそのイニシャルが、今はひどい背徳感となって僕を刺す。

怠い。どうしようもないほどに。
ディーンが買ってきてくれたサラダも、半分しか受け付けなかった。無理やり喉に押し込んだ水だけが、冷たくなっていく体の中で唯一の異物のように居座っている。

「サム、大丈夫か」

運転席のディーンが定期的に投げかけてくる声の信号だけが、今の僕の唯一の命綱だった。帰宅して動けるようになったら、二発、いや三発くらいはあいつをぶん殴っても罰は当たらないはずだ。

「前見て運転してろ」

返事をしなければ、運転中だろうと構わず後ろを振り向くであろう兄の機先を制する。声はガラガラに枯れ果て、まるで何年も砂漠を彷徨っていたかのような渇きが張り付いていた。

改めて首筋と左手首に意識を向ける。狂おしい快感はもう跡形もなく消え去り、そこにあるのは鈍い疼痛だけだ。いや、それ以上に貧血がひどい。四回の吸血。一度の夜にこれほど奪われたことはなかった。荒い呼吸が、一向に静まってくれない。

染み付いた習慣で、片手で愛銃のトーラスを握りしめる。だが分かっている。今、もしモンスターに襲われれば、僕は抵抗する間もなくあっさりと殺されるだろう。

「……病院、寄るか?」

僕の衰弱を感じ取ったらしいディーンの声は、腹立たしいことに、これ以上ないほど生気に満ち溢れていた。まるで何週間も深い眠りについて、最高の目覚めを迎えた男のような響き。

「帰りたい……」

バンカーへ帰るという意味と、かつての『普通の兄弟』に戻りたいという願い。その両方を込めて、荒い息の間から言葉を手繰り寄せた。

「寝てもだめか」
「寝たうちに入るかよ、こんなところで……」

ベイビーをけなされたに等しい発言だが、今回ばかりはディーンも反論の余地がないらしく、沈黙を守っている。
インパラでの車中泊は、僕たちにとって珍しいことじゃない。モーテルが見つからない夜や、指名手配の手が伸びている時、それは日常の一部だった。ある程度は身体を休められるし、車旅は僕たちの生活そのものだ。
だが、それは『吸血行為がないこと』が大前提だ。こんな風にボロボロになるのは、過酷な狩りだけで十分だった。

「まだ少し……休ませて」

座ったままの姿勢で、全身を後部座席の深い沈み込みに預ける。引くことのない頭痛に耐えかね、こめかみを強く押さえた。

――いつから、こんな歪んだ関係になったんだろう。
記憶の糸を辿れば、あの日……あのモーテルの夜に突き当たる。

7

その日はまだ、狩りの途中だった。
聞き込みと地道な調査で疲れ切ったディーンは、宿に着くなり早々にベッドへ身を投げ出した。僕はいつものように、一日の汚れを落とすためにシャワーの洗礼を浴びる。明日の予定を頭の中で組み立て、一日中着てクタクタになったFBI変装用のスーツを整える……。
鏡に映る自分を見ながら、まるで母親みたいだなと苦笑した。ベッドから聞こえてくるディーンの高いびきが、その思いを強くさせる。

こんな『役回り』は、僕たちにとってなかば当然のことだった。ディーンは、軍人気質だった父ジョンにそっくりだ。僕には母メアリーの記憶はほとんどないけれど、きっと母さんもこんなふうに、父さんが散らかした後の片付けやこまごました世話を焼いていたのだろう。
もし、母さんが生きていて、家族四人でハンター仕事をしていたら。突っ走る父さんとディーンの後ろを、僕と母さんが支えていたのかもしれない。そんな、二度と訪れることのない光景を想像して漏れた自嘲の声が、狭い部屋にやけに大きく響いた。

諸々の片付けを終え、洗面所で一息つく。鏡の中の自分は、いつも通りで、けれどどこか決定的に違っていた。
ルシファーに奪われていた魂が戻ってから、まだ数日。冷酷な『人でなし』だった時期の記憶は霞がかかったように薄い。今の僕がこうして自分を取り戻していられるのは、ディーンのおかげだと分かっていた。早く、元の自分に、元の「兄弟」に戻らなければならない。
冷水で顔を洗い、意識をシャッキリさせてからベッドの温もりを求めようとした、その時だった。

「サム……」

不意に、背後からディーンに気配を消して距離を詰められた。
また悪ふざけか。昔から変わらないディーンの子供じみた行動には辟易することもあるが、それが心を許しきった弟への甘えであることも理解している。

「なんだよ……もう寝かせてくれ」

自分はとっとと寝たくせに、こっちはクタクタなんだ。そう言って軽く押し退けようとしたが、ディーンの体は鋼の彫像のように微動だにしない。

「おい、退けってば」

怪訝に思い、改めてディーンの顔を覗き込んだ。そこにあったのは、見たこともないほど虚ろな瞳だった。その視線は僕の目を見ていない。僕の胸のあたり、心臓がある場所を、射抜くような真っ直ぐさで見つめている。

「ふざけるなよ、ディーン……」

嫌な予感が背筋を駆け抜けた。魔女の呪いか、あるいは別の何かか。天使や悪魔、ハンター界隈でも名の知れた僕らを狙う敵など、数え上げれば切りがない。

「サム……」

掠れた声には、何かを激しく渇望するような響きが混じっていた。
僕は必死に脳内のアーカイブを検索する。今すぐ命に関わる呪いなのか、精神を汚染する傷病なのか。リサーチに没頭しようとした瞬間、視界が揺れた。

「っわ、」

手首を掴まれる。万力のような力で引かれ、抗う間もなくディーンの胸元へ抱き寄せられるような形になった。悪ふざけにしては度が過ぎている。怒りが込み上げた。

「おい! やめろ!」

狭い洗面所の中で、成人男性二人がもみくちゃになる。棚からアメニティが転げ落ち、派手な音を立てた。結局、洗面台に背中を押し付けられる形になったのは僕の方だった。
怪物的な力で押さえつけられる。これほどの力量差があったのか、それとも――僕の困惑を置き去りにして、ディーンの熱い吐息が首筋を掠めた。


兄の熱い吐息が首筋に突き刺さる。彼が何をしようとしているのか、その意図はもはや明白だった。

つい数ヶ月前、ディーンはヴァンパイアだった。魂を失っていた時期の僕は、あろうことか実の兄を感染させ、囮として巣を突き止めるという冷酷な策を講じた……。ディーンから断片的に聞いたその事実は、僕が仕出かした数えきれない残虐な行為の中でも、ひときわ深く僕らの間に禁忌として横たわっている。

「……ディーン、……ヴァンパイアは治ってないのか?」
「あ、……、あ……」

停滞したままのディーンの呼吸が、湿り気を帯びた声が、至近距離で僕の耳を灼く。
トラウマを抉るようなあの時の光景が脳裏で激しくフラッシュバックした。ディーンの変異は、祖父サミュエルが持っていた血清で完治したはずだったのに。
もし、あの時治りきっていなくて、あの日からずっと隠れて犠牲者を出し続けていたのだとしたら。

「まだ、治ってなかったんだな?」

もう一度血清を入手すれば元に戻るかもしれない。そんな僕の淡い希望は、次の瞬間に打ち砕かれた。

「違うんだ……俺が欲しいのは、その辺の血じゃねぇ。お前の血だ……ウィンチェスターの」

ジョンもメアリーもいない今、この世界にたったふたつしか残されていない血統。僕とディーンだけが共有する、呪われた聖域の血。血液を媒介にした魔術や呪いが無数にあるのなら、これもまた、歪な形で結びついてしまったヴァンパイア・カースの一種なのか。

「落ち着け、飲むな……。またヴァンパイアに戻るぞ」

僅かでも自意識が残っているのなら。どんな苦難も誘惑も、その強靭な精神で跳ね返してみせろ。それが僕の知る兄貴であり、ディーン・ウィンチェスターのはずだ。僕には持ち得ない、しなやかで強固な魂の持ち主。

「た え られ な いん だ……ッ!!」

それは絶叫に近かった。耳を突き刺すような怨嗟の声が、ダイレクトに僕の脳を揺さぶる。脳震盪のような眩暈に襲われ、思わず目を瞑った。それが最悪の選択であったことに、直後に気づく。

一瞬だった。
鋭い痛みが首筋を走り、溢れ出した僕の血が鎖骨まで流れ落ちようとする。だがそれよりも早く、ディーンの舌と歯が、まるで最高級の宝物を愛でるようにそれを舐め上げ、深く、深く抉りにかかった。

「ッ、い、……」

やめろ、離せ。
そう抵抗しようとした矢先、まったく別の方向から、柔らかな至福が首をもたげた。
脊髄を一気に駆け上がり、ディーンを押し退けようとしていた両肘を震わせる。耳元で厭な水音を立てるディーンの唇の動きとリンクするように、這い上がってきた感触が腰を突き抜けるような快感へと変わる。

必死にヴァンパイアの呪いを解こうとしていた脳内のリサーチ結果は、甘やかな霧の向こうへと、あっけなく消え去っていった。

8

あとはほとんど『なし崩し』だった。
ディーンを止めなければならないという理性の残滓は、常に意識の上層に張り付いていた。けれど、彼が牙を立て、僕の脈動を喉へと流し込むたびに、その高潔な義務感は目も眩むような快感によって無残に塗りつぶされていく。

狭い洗面所でもつれ合い、くんずほぐれつしているうちに、僕たちはバスルームへと追い詰められていた。冷たいタイルの感触が背中に当たったのも束の間、強引にシャワーヘッドの高さまで引きずり上げられる。
洗ったばかりの、まだ湿り気を帯びた脇腹を深く噛まれた。
鋭い快楽がダイレクトに腰の神経を突き抜け、頭の芯が真っ白に弾ける。ディーンが満足したのか、あるいは我に返ったのか、不意にその拘束を解いた瞬間、僕は支えを失った操り人形のように、ひどい無様な格好で床へと崩れ落ちた。

「ディ、……」

掠れた声でその名を呼ぼうとして、僕は自分の指先が凍りついたように青ざめていることに気づいた。
生まれてこの方、貧血などという軟弱な症状には縁がなかった。だからこそ、今この瞬間に起きている激しい血の薄まり、体内から生命の源が欠落していく感覚は、恐ろしいほどの初体験だった。
ハンターとして死線を潜り抜け、おびたじしい出血を伴う大怪我なら何度も経験してきた。だが、これはそれらとは決定的に違う。傷口から流れ出るのではなく、内側から根こそぎ奪い去られたあとの、空虚な不足感。脳の最奥部がじわじわと冷えていく、死の予感に似た静寂。

それが、単なる失血によるものなのか、それともヴァンパイアに噛まれたことによる未知の作用なのかは、判然としなかった。

ボロ布のようにバスルームの床に転がっていた僕が、這うようにしてようやくベッドまで辿り着けたのは、それから三十分も経ってからのことだった。
僕を運び出し、シーツの上に横たえてくれたディーンもまた、鏡に映った自分を恐れるように、底知れない困惑と葛藤に苛まれているようだった。その痛々しい横顔を見ていると、これ以上彼を追い詰めるような言葉は、僕の喉の奥で凍りついて出てこなかった。
ただ、流れる血が氷に変わってしまったかのように、僕はひどく、ひどく疲れ果てていた。


思考の深淵から這い上がり、意識を現在のインパラの中へと戻す。
窓の外を流れる冬の夜の景色は、あのモーテルの夜と何ひとつ変わらない絶望を孕んでいる。

バックミラー越しに視線が合うことはない。
ディーンは前を見据えたまま、一言も発さずにハンドルを握っている。だが、車内に漂う濃密な鉄の匂いと、僕の体に刻まれた新たな傷の疼きが、あれが夢ではなかったことを残酷に証明していた。

「……なぁ、サム」

ディーンの声が、重い沈黙を切り裂く。
「なんだよ」
「……いや、なんでもねぇ」

言いかけて飲み込んだ言葉の重さを、僕は痛いほど理解していた。
僕たちはもう、ただの兄弟には戻れない。
血を分け合い、魂を削り合いながら、この終わりのない夜を走り続けるしかないのだ。
窓に映る自分の顔は幽霊のように青白かったが、首筋に残る熱い疼きだけが、僕がまだ生きていることを、そして彼に求められていることを、歪な形で肯定し続けていた。

9

夕暮れに染まるバンカーへと辿り着き、弱々しく後部座席のドアを閉める。ふらつく足でカンザスの乾いた土を踏みしめた。
眩暈も、痛みも、あの逃れられない快感も。今はすべて過去のものとして、頬を撫でる冷たい風がさらっていく。後に残されたのは、底なしの沼に沈み込むような果てしない疲労感だけだった。

バン、と苛立ちをぶつけるように運転席のドアが閉まる音が響き、ディーンが車から降りてきた気配を背中で受け止める。今は、どうしても彼の顔を見たくなかった。

「サム……大丈夫か」

それは問いかけというより、すでに「助からない者」へ向けるような、絶望の滲む声だった。なぜか胸の奥から、鋭い苛立ちがせり上がってくる。僕はもっと怒っていいはずだ。なじり、罵倒しても許されるはずなのに。だがそれ以上に、ディーンを、この呪いを止められなかった自分への嫌悪が、怒りと激しく衝突する。

「シャワー……浴びてくる」

明確な返答を避け、インパラの荷物も後始末もすべて彼に押し付けるようにして、バンカーの重い鉄扉を開けた。たったそれだけの動作で、肩で息をする始末だ。首筋や手首からの出血は止まっていたが、こびりついた自分の血痕と汗が肌にまとわりつき、たまらなく不快だった。

一歩、また一歩と、地下のメインホールへと続く階段を下りる。その途中、忘れていた眩暈が左から右へと脳内を突き抜けた。視界が歪み、ぐらりと体が傾く。抗う術もなく、僕はそのまま冷たい床へと転げ落ちた。

「う、っあ、……!」

全身の骨が軋み、バラバラに砕けたかのような衝撃が走る。唯一自分を褒められる点があるとするなら、咄嗟に受け身を取れたことくらいだろう。壁に半身を預けたまま、僕はしばらく動くことができなかった。
ディーンの気配はしない。インパラを直接整備室の格納庫へ入れたのなら、ここへ来るまでにはまだ時間がかかるはずだ。

「ディーン……」

弱々しく漏れた声が、広いホールに虚しく吸い込まれていく。届くはずのない名前。ましてやその主こそが、僕をこんな無様な姿に変えた張本人だというのに。

伸ばした腕は、埃の舞う暗闇の中で行き場を失い、所在なく空をかいた。
あたりに堆積する古い書物の、静かな紙の匂いだけが、傷ついた僕をそっと癒してくれていた。


いつまでそうして床に伏していたのだろうか。
静まり返ったバンカー内に、ディーンの気配は微塵も感じられない。整備室から直接、自分の部屋へ閉じこもってしまったのだろう。
僕は鈍く痛む腰をさすりながら、冷たい階段の手すりを掴んで、這い上がるように立ち上がった。転倒の衝撃で、皮肉にも頭の芯だけは妙にすっきりとしている。だが、できることならもっと穏やかな方法で正気に戻りたかった。

配電盤のスイッチを入れ、メインホールに明かりを灯す。重々しい唸りを上げて息を吹き返したバンカーと同期するように、僕は深く、重い溜息を吐き出した。

「お腹すいた……」

車内で受け付けなかったあのコブサラダは、ディーンが片付けてしまっただろうか。まだ少しでも残っていないか、などと浅ましい考えが頭をよぎる。
日常生活に、あるいは「人間」に戻ろうとするたび、そこには必ずセットとしてディーンが存在している。それは兄弟として当然のことなのに、なぜか今は、重い鎖のように胸を締め付けた。

「だめだ……」

このままでは、体も心もボロボロになってしまう。
ただでさえ、ルシファーが囁く悪夢に苛まれる夜が続いているというのに。これまでのハンター生活において、ディーンが最前線で肉体を削り取ってきたのと対照的に、僕は魂の欠落や大天使の干渉によって、精神をズタズタに引き裂かれてきた。
その精神に加え、肉体までが保たなくなりつつある今、僕たちの危うい均衡はいつまで維持できるのだろうか。

熱いシャワーで肌にこびりついた不快な痕跡を洗い流し、自室にあったプロテインバーを牛乳で無理やり胃に流し込む。
僕は、泥のように澱んだ眠りの淵へと、深く沈み込んでいった。

10

深夜。なぜかふと目が覚め、見慣れたベージュ色の石天井をぼんやりと見上げた。
寝返りを打とうとするたび、ズキズキと疼く体が悲鳴を上げる。枕元の時計に目をやると、時刻は深夜3時を回ったところだった。

いつもならディーンに「ミスター早起き」と揶揄される僕の習慣も、今日ばかりは返上することになりそうだ。もう一度眠りの淵へ戻ろうと、仰向けのまま枕に頭を埋め直したその時――。
「ミシッ」という、微かな、けれど確かな足音が自室の外で鳴った。

この広大なバンカーに誰かいるとするなら、ディーンかカスティエル以外、敵しかありえない。キャスとはしばらく連絡が途絶えている。となれば、選択肢はディーンか敵かの二択だ。ディーンなら声をかけてくるはず。ならば、これは敵だ。

「……ッ」

仰向けで寝たふりを装ったまま、意識を研ぎ澄ませる。枕の下に忍ばせた銃の冷たい感触を脳内で確かめた。いざとなれば、容赦はしない。

カチャリ、と静かに扉が開き、部屋の空気が微かに動いた。新鮮とは言い難い廊下の空気が、僕の頬を撫でる。
引きつけてから仕留めてやる。僕は沈黙を守り、獲物を待つハンターのように息を潜めた。

忍び寄る影と、濃密な人の気配。その動作は、驚くほど淀みなく、素早かった。まるで、この場所を隅々まで知り尽くしている主のように。
不意に、顎をぐいと上に持ち上げられた。至近距離までの接近を許してしまったのは、失血による衰弱か、あるいは注意力が散漫になっていたせいか。

首筋が完全に露呈する。跳ね起きようとした瞬間には、すでに両腕を強固な力で押さえ込まれていた。仰向けのまま、ベッドに深く組み伏せられる。

「ディーン……!」

足で蹴り飛ばそうとしても、半身に体重をかけられていては届かない。
僕にとって、ディーンと敵はもはや二択ではなく、ひとつの存在として結びついている。その残酷な現実が、目の前に突きつけられていた。

ディーンの瞳には、あのヴァンパイア特有の、底知れない渇望が宿っていた。
その視線が射抜いているのは、インパラの車内で蹂躙された鎖骨の合流地点のわずかに上――無防備な喉仏だ。そこでは、急速に失われた血を補おうと、心臓が必死に脈動を刻んでいた。
まだ癒えきらぬ傷口を狙い定め、ディーンは何を語るよりも早く、その場所を舌で抉るように舐め上げた。

「や、……もう、だめだ……」

快感に呑み込まれる前に、せめて抗いたかった。今ですら、僕の精神は千切れそうな糸一本で繋ぎ止められているというのに。
理性を失った魔獣のようなディーンには、もはや言葉など通用しない。分かっていながら、僕は力なく彼の背中を叩いた。
自由にならない右手を伸ばし、枕の下の冷たい感触を探り当てる。

指先が、銃の金属の質感に触れた。


撃てるのか?
自問自答が脳内を駆け巡る。相手は体質的に、真のヴァンパイアではない。僕の血を渇望しているのは事実だが、理性を完全に失った発狂者ではないはずだ。まだ説得の余地も、治癒の道も残されている――そう、信じたかった。

「ディーン、!」

事実、彼はまだ僕の肉を噛み裂いてはいなかった。既にある傷口を執拗に舌でなぞり、残された血を絞り取っているに過ぎない。そのせいか、あの脳を焼くような目眩を伴う快感には襲われず、僕はまだ冷静さを保っていた。

「頼む、……兄貴の力になりたいんだ」

枕の下にトーラスを押し戻し、壁を支えにして背中を持ち上げる。体を起こすと、縋り付くような兄に覆い被さられる形になった。
わずか一滴の滴りさえ逃すまいと、僕の喉元を貪るディーンの頭を搔き抱く。幼子のように傷ついた、小さな背中を優しく撫でた。こんな彼を、僕が殺せるわけがないだろう。

「絶対に治してやるから」
「……サム、……」

この時、初めて彼が口にした僕の名前。その響きを愛おしく反芻しながら、ただひたすらに背中を摩り続けた。しばらく同じ体勢のまま、ディーンは僕の血を吸い上げ続け、僕はそれを受け入れ続けた。

「キャスにでも、相談して……」
「だめだ」

カスティエルの名前を出した瞬間、ディーンはわかりやすいほどの抵抗を示した。彼にとってキャスが、僕ですら立ち入れない別格の存在であることは知っている。だからこそ、今の醜態を見せることなど死んでも選ばないだろう。

「じゃあ、どうするんだよ」

僕の声が鋭く尖る。何かを得るには相応の犠牲と痛みが伴うことを、僕らは嫌というほど学んできたはずだ。
「クラウリーに相談したっていいんだぞ」
「……ッ」

拒絶の返答は、言葉ではなく歯列の感触だった。そっと傷口に歯が当てられ、不意にぐわんと頭が重くなる。まだ決定的に噛まれてはいない、そう思った直後。

「なんとかする、から……!」

その言葉とともに、鋭い歯が僕の肉を壊しにかかった。「なんとかする、だから今は許してくれ」――そんな勝手な懇願が聞こえた気がした。
再燃した苛立ちを塗り潰すように、圧倒的な快感の奔流が押し寄せる。だが今回は、それよりもずっと恐ろしいことが起きていた。

「あ、……あ、は、あっ……!」

上から下へと貫く快感は、真っ直ぐに下腹部まで到達する。視界が火花を散らすほどの法悦。自分がどこにいるのかさえ忘れるほど、体がビクビクと跳ねるのを止められない。ディーンの重み、熱い息、肉に食い込む歯――そのすべてが生々しく脳に刻印される。

けれど、漏れ出る喘ぎはもはや快楽によるものだけではなかった。
あれだけの失血から、ほとんど間を置かない二度目の吸血。背後の冷たい壁に魂ごと吸い込まれていくような、残酷なまでの眩暈。生命の維持が限界に達したことを告げる、体内アラートが鳴り響く。

「あ、……いや、だ……助け……」

まるで無関係な他人に助けを求めるように、僕は震える声を絞り出した。
残されたわずかな血という名の「命」が、指先から零れ落ちていく。すうっと意識の糸が遠のいていく。本能的に何かの終わりを悟った。

反射的に動かした体に、階段から転落した時の肉体的な痛みが追い討ちをかける。容赦のないトドメだった。

助けてくれる兄など、今はどこにもいやしない。
覆い被さり、虚空を掴む僕の手を握り返してくれるディーンは、もういない。

「……――ッ、兄さ、ごめ……ん」

その謝罪が適切だったのかは、もう分からない。
映画のワンシーンのように、ぱたりと腕がシーツに落ちた。あっさりと。
僕の意識は、底の見えない深い闇の奥へと落ちていった。