D/Sの無理やりな結婚式さわぎ。画像はすべてAIのフィクションイメージです。
旦那じゃねーっての
バンカーに夕闇が忍び込み、図書室の古い書物の匂いが冷え始めた頃だった。
キッチンに腰を下ろし、何やら古い文献を眺めていたサムが、ふいにお気楽な調子で声をかけてきた。
「ディーン、お腹空かない?」
その一言が投げられた瞬間、俺の脳内エンジンはフルスロットルで回転を始める。これは単なる空腹の確認じゃない。長年のハンター生活で培われた「サバイバル」という名の、あまりに緻密な相互観察の合図だ。
俺は表情を一切変えず、だが神経のすべてを研ぎ澄ませてサミーを観察する。
あいつの切れ長の視線がゆるやかに上がり、俺の様子を探るように脳内を巡っているのがわかる。コーヒーをすするその呼気のひとつひとつ。俺の返事を待つ間、考え事をする癖で眉間を掻く指先のしなやかな動き。
正直に言えば、さっきバーガーを食べたばかりの俺は腹なんて減っちゃいない。だが、サミーの腹が減っているなら、俺も一緒に食べなきゃいけない。それがこの家――ウィンチェスター家の不文律だ。
「ああ。何食いたい?」
「なんでもいい」
サムは肩をすくめ、間延びした動作でぬるくなったコーヒーを口にした。そのまま、ゆっくりと背伸びをすると足元の指先が、少しだけ疲れたように動く。
この「なんでもいい」の翻訳はこうだ。
『いま僕が何を食べたそうか兄貴が考えて、いくつかの選択肢を提示して。最終的に決める責任は僕が持ってあげるね』
……ったく、面倒な弟だよ。
「ピザ食べるか?」
俺は今日一番の「ハリボテの笑顔」を顔面に貼り付け、脳内の葛藤を完璧に隠し通して見せた。
「パンケーキ食べない?」
食い気味のこれ。ビンゴだ。これは100%、今すぐあいつが食べたいものだ。
俺は「ふぅ」と、呆れ声に聞こえないよう細心の注意を払いながら、肩から深く息を吐き出した。
「……じゃあ、パンケーキ食べよう」
「そうだね。そうしよう」
最後のこの言葉。意味は一つだ。
『メニューが決まったから、さあ兄貴、台所に立って作ってくれ』
俺は貼り付けた笑顔を維持したまま、無言で席を立ち、棚の奥からパンケーキミックスとフライパンを探し始めた。
傍目から見れば、ただの少し間が空きがちなだけの兄弟の会話。だが、この沈黙の行間に詰め込まれた情報の密度こそが、俺たちの長すぎる付き合いの昇華そのものだった。
サムがお手製のパンケーキを山のように平らげ、満足げな顔で自室か図書室に引っ込んだ後のことだ。
俺はキッチンで一人、残された皿を片付けていた。ふと、心の中に溜まっていた言葉が漏れ出す。
「……俺はお前の旦那じゃねーっての!!」
誰に聞かせるでもない、虚空に向けた独り言。だが、その瞬間に背後から気配がした。
「……ディーン、私がいつ君の配偶者になったのだ?」
「うわああああっ!?」
振り返ると、そこにはいつものトレンチコートを纏い、まん丸な青い目でこちらを凝視しているカスティエルが立っていた。俺は心臓が口から飛び出すかと思い、その後、猛烈な勢いで平謝りする羽目になった。
「すまない。君が誰かと結婚したという報告は受けていなかったが」
「違う、違うんだキャス! 今のはサミーに対して……あー、いや、なんでもねえよ!」
サムに一言でも反論すれば、あいつは万の言葉で正論をぶつけてくる。だから結局、俺が折れるしかない。この、反論すら諦めた空気感。完全に熟年夫婦のそれじゃないか。
俺とサムは、確かに年季だけで言えばその通りかもしれないが、間違いなく「兄」と「弟」だ。……はずだ。
俺は自分の頬が熱くなっていることに気づかないふりをして、必死に皿を洗い続けた。だが、背後からの視線が痛い。キャスのあの、何かを悟ったような、それでいてどこかズレた観察者の視線だ。
「……違うからな!」
「何が、だ。ディーン」
「なんでもねえよ! とにかく違うんだ!」
「……ふむ。理由はどうあれ、仲が良いのはいいことだ」
「うるせえ!」
俺の怒号が響く中、キャスは首を傾げたまま、再び図書室へと消えていった。
静まり返ったキッチン。俺は、さっきサムが美味しそうにパンケーキを食べていた時の顔を思い出し、また一つ、深いため息をついた。
やっぱり、俺はあいつの「兄貴」で「旦那」で「召使」なんだろうよ。クソッタレ。
奥さんじゃない
ノートパソコンの青白い光が、僕の網膜をチリチリと焼く。画面には、最新のホログラム加工が施されたFBIの偽造防止ホログラムのテンプレート。
「……またFBI手帳の更新を忘れてるじゃないか、兄貴」
ハンター道具の整理中、ディーンのバッジを手に取って絶句した。数ヶ月単位でデザインが変わるなんて、あんなに口を酸っぱくして言い聞かせたのに。
自然保護官のカードも、害虫駆除業者の身分証も、全部写真が数年前のままだ。
確かにディーンは老けない(というか、鏡を見るのをやめているだけかもしれない)けれど、僕らだって確実に歳は取っている。いつまでも「若手捜査官」で通ると思っているなら、それは単なる希望的観測だ。
「……結局、僕がやるんだろ」
スマホを遡り、先週の狩りの後に珍しく笑っていたディーンの写真を適当なサイズに切り抜く。フォトショップで背景を白く塗りつぶし、カードの台紙に合成する。この「デジタルな内職」に、僕の貴重な読書時間が吸い取られていく。
目が霞む。眠気覚ましのコーヒーを淹れようとキッチンに向かった僕を待っていたのは、地獄のような光景だった。
流しには、脱ぎ散らかした靴下が左右バラバラに放り込まれている。カウンターにはバーガーの包み紙が花びらのように散らばり、床には空のビール瓶が、まるで誰かがボーリングでもしたかのような配置で転がっている。
「……はぁ。どうせもう寝てる…」
そこまで予測できる自分が、本当に嫌になる。それが証拠にバンカーの奥から聞こえる、重低音のいびき。
犯人は、さっさと胃袋を満たして夢の中というわけだ。
さらに僕を打ちのめしたのは、冷蔵庫を開けた瞬間だった。
「……え、嘘だろ」
大切に、本当に大切に、「後で読書のご褒美にしよう」と取っておいた僕用のブルーベリーパイが、影も形もない。
僕は甘いものがそんなに得意じゃない。得意じゃないけど、たまには、一週間のストレスを砂糖で麻痺させたい夜だってあるんだ。
どうせ明日問いただせば、『名前が書いてないから自由席だと思った』とか、心底どうでもいい理屈を並べ立てるんだろう。
もう今日は限界だ。頭痛がひどい。
何もかも放置して寝てやろうと、自室へ続く廊下を足早に歩いた。
「うあ、……ああああ!」
視界の端から飛び出してきた「ピザの空き箱」が、僕の足元を完璧にすくった。
転びはしなかったが、咄嗟にバランスを取った衝撃で、膝を床に強打した。冷たい石の床が、僕の疲労困憊な神経を容赦なく叩き潰す。
痛みと、眠気と、理不尽。
脳が「もう無理だ」と悲鳴を上げている。
洗面台にたどり着く頃には、僕は半分魂が抜けた状態だった。だが、そこにもディーンの「爪痕」は残っていた。
共用の歯磨き粉は蓋がされておらず、口の周りで固まったペーストが化石のようになっている。その横には、パンツか雑巾か判別不能な「かつて布だった何か」が、異臭を放ちながら放置されている。
さらに、シャワールームの入り口には、雨でぐちゃぐちゃになったはずのディーンの変装用スーツが、アイロンもかけられず、一つの有機体のように固まっていた。
僕は全身が崩れ落ちるのを感じながらも、無意識に体が動いた。
一つずつ拾って、洗濯機に入れ、スーツにアイロンをかけ、床の脂を雑巾で拭き取り、FBI手帳をすべて印刷してホルダーに差し込む。
すべてが終わったのは、時計の針が2時を回った頃だった。
その時だ。
「……ん。まだ起きてんのか、サミー。勉強熱心だよな、ホントに」
トイレに起きたらしいディーンが、ボリボリと腹を掻きながら廊下に現れた。
彼は僕が手に持っている「FBI手帳」の束にも、僕の目の下のクマにも、アイロンのかかった自分のスーツにも、一瞥すら与えなかった。
「あんまり詰め込みすぎんなよ。おやすみ」
パタン、と自室の扉が閉まる。一瞬の静寂。
「(……熟年夫婦じゃないか、こんなん)」
僕は、肺の底に溜まったすべての空気を吐き出すように、クソデカい溜息を吐いた。
「僕はお前の奥さんじゃないんだぞ!!」
自分でも驚くほどの音量で、虚空に向かって叫んだ。その直後。
「……サム。今の言葉は、法的な婚姻関係を指しているのか?」
「(……っ!?)」
いつからそこにいたのか、カスティエルが、いつものように目をまん丸にしてそこに立っていた。
「サム……今の言葉の意味を解析したい。君とディーンの間で、私が知らない契約が――」
「黙って」
「だが、ディーンは先ほど――」
「いいから、寝て」
「私に睡眠は――」
「心配しなくていい!!」
すべての言葉に食い気味に返事をし、彼の口を完封した。
耳まで真っ赤になっているのが、自分でもわかる。
今の僕にとって、キャスのあの「純粋すぎる好奇心」は、神経を逆なでする以外の何物でもなかった。
僕はカスティエルを廊下に置き去りにしたまま、自室に飛び込んで鍵をかけた。
ベッドに潜り込み、毛布を頭から被りながら、僕は誓った。
明日こそ、あいつのFBI手帳の写真は、思いっきり「寝起きの酷い顔」のものに差し替えてやる。
どっちでもいいじゃん
「別にどちらが旦那でどちらが妻であっても、本質的な違いはないだろう。結局のところ、発端にあるのは同じ『愛』なのだから」
カスティエルが至極真っ当な、しかし今の状況では火にガソリンを注ぐような言葉を口にした瞬間、ディーンとサムの「いい加減にしろ(よ)!!」という怒号が重なった。本日二度目のダブル・パンチである。
しかし、叫んだ後の沈黙は、先ほどまでとは質の違う、ひどく重苦しい「自意識」に満ちていた。
ディーンは、焦げかけたベーコンを見つめたまま固まっていた。
(……待てよ。なんで俺は、さっき無意識に自分のことを『旦那』側だと思って吠えたんだ?)
あいつにパンケーキを焼き、汚れた服を洗い、好みのビールの銘柄を切らさないように管理する。それは「兄貴」の役割だと思っていた。だが、その根底にある「自分の生活を後回しにしてでも相手を整える」という感覚を、自分の中でどう定義していたのか。その無意識の傲慢さと献身の混濁に、ディーンは激しい眩暈(めまい)を覚えていた。
一方で、サムはテーブルの木目を見つめながら、指先を震わせていた。
(キャスの言う通りだ……。ディーンのFBI手帳を作り、靴下を拾い、アイロンをかける。それを『奥さんじゃない』と否定したということは、心のどこかで自分をその立ち位置に置いていたっていうことか……?)
否定すればするほど、昨夜自分が黙々とこなした「見えない家事」の数々が、新婚生活の献身のような色彩を帯びて脳裏に蘇る。
二人は同時に顔を上げた。そして視線がぶつかる。
「あ」
「あ……」
瞬時に、弾かれたように視線を逸らす。
30年以上、同じ車に乗り、同じ地獄を見てきた兄弟にとって、これは未知の領域だった。ただの「絆」という言葉で蓋をしていた何かが、カスティエルという無垢な探針によって抉り出されてしまったのだ。
そんな二人の葛藤を、カスティエルは一切の茶化しなしに、純粋な知的好奇心を持って観察していた。
「見ていて非常に興味深い。……ならば、いっそのこと疑似的にでも夫婦生活というものを試行してみてはどうだ? その役割を明確に分担することで、不満の所在がより鮮明になるかもしれない」
キッチンの空気が、一瞬でマイナス40度の極地へと凍りついた。
「……もう、やってるよね!?」
先に開き直ったのは、昨夜の疲労で防衛本能が摩耗していたサムだった。彼は立ち上がり、半ばヤケクソ気味に両手を広げた。
「そりゃもちろん夫婦じゃないよ! 兄弟だよ! でも、やってることはどう考えたって似たようなことばっかりじゃないか! 兄さんの世話を焼いて、文句を言われて、それでも翌朝にはベーコンが焼かれてるのを期待してる。これのどこがただの同居人なんだよ!」
「お前……! 待て、サミー! 俺がどれだけ『兄弟』っていう堤防を必死こいて高く積み上げてきたと思ってんだ……!」
「あれもこれも押し付けるからだろ…僕の貴重な読書時間はなくなるし…」
「そんなの俺も同じなの!!」
ディーンは眉間に深い皺を寄せ、愛車インパラを汚された時のような、悲痛な表情で呻いた。
「夫婦と兄弟は天と地ほど違うんだよ! そこを混ぜちまったら、俺たちのこれまでの苦労は何だったんだって話になるだろ!?」
「私は一人っ子のようなものだから、その境界線がよくわからない。……ディーン、夫婦であれば、まず何をするのだ? やはり、結婚式か?」
カスティエルの発言は、もはやとどめの一撃だった。
「……結婚式」
「…………」
ディーンは持っていたフライ返しを静かに置き、両手で顔を覆った。サムは力なく椅子に座り直し、空になったコーヒーカップの底を虚しく見つめている。
図書室から吹き込む隙間風が、かつてないほど冷たく感じられた。
カスティエルだけが、真剣な顔で「白いドレスの手配が必要か?」と脳内で検討を始めている。
「……おい、サミー」
「……なに、兄貴」
「とりあえず……今日は、一日中お互い口をきかないってのはどうだ。……そうでもしねぇと、俺はインパラの中で爆発する」
「……賛成。僕も、キャスの顔を見たら何を言い出すか分からなくて怖い」
二人は、重い足取りでキッチンを後にした。
後に残されたカスティエルは、首を傾げながら、彼らの食べ残した冷えたベーコンを見つめた。
「……やはり、人間は複雑だ。誓いの言葉もまだ決まっていないというのに」
バンカーの朝は、かつてないほど気まずく、そして奇妙な連帯感を含んだまま更けていった。
あるいは最悪のバージンロード
「同居人と夫婦、その境界線はどこにあるのだ。一方は契約に基づき、一方は情愛に基づくと定義するなら、君たちは既に――」
「うるせぇ!!」
バンカーの朝食後、壊れたレコードのように同じ質問を繰り返すカスティエルを突き放し、ディーンとサムは逃げるように別々の方向へ走り出した。行先はレバノンの街。目的は「一人歩きによる精神の平穏」である。あのアホな天使の顔をこれ以上見ていたら、恩寵ごと吹き飛ばしてしまいそうだったからだ。
ディーンが訪れたのは、油と埃と古びた魔術品の匂いが混ざり合う、顔なじみの店だった。店主の親父さんは、ディーンが「訳あり」であることを知りつつ、適度な距離感で接してくれる数少ない人間の一人だ。
「よう、オヤジ。……生きてるか」
「やあディーンか。……なんだ、酷い顔だな。悪魔にでも追いかけられたか?」
「……天使だよ。最悪に理屈っぽい奴だ。それより、なんかいいもん入荷してねぇか? 魔除けでも呪いの武器でも何でもいい」
「魔術品は貴重なんだよ。お前みたいな危険なハンターに渡せるもんはない。……だが、代わりと言っちゃなんだが、俺も困ってるもんがあってな。持ってってくれ」
そう言って奥から引っ張り出されたのは、格式高い黒のフォーマルスーツだった。
「……はぁ? 誰が冠婚葬祭の話をしたよ」
「甥っ子が離婚して置いてったんだ。お前と同い年で、軍隊上がり。体格も背丈もぴったりだ。蝶ネクタイまでセットだぞ。伝統ある仕立て屋の一品だ、タダでいいから持ってけ」
無理やり押し付けられた重い衣装袋を抱え、ディーンは途方に暮れた。よりによって「結婚用」のスーツ。鏡を見るまでもなく、自分にぴったり合うであろうことが、今の状況をさらに皮肉に染め上げていた。
一方、サムは静寂を求めていつもの図書館を訪れていた。だが運悪く、今日は地域住民によるフリーマーケットの開催日だったらしい。
「(……最悪だ。人混みを避けたかったのに)」
踵を返そうとしたサムに、顔なじみの受付の女性が声をかけてきた。彼女は困り果てた様子で、山積みの衣装ケースを指差している。
「あらサム! ねぇお願い、あなたならぴったりだわ。これ、持って行ってくれない?」
「えっ? 何がですか?」
「劇用の小道具だったんだけど、フリマで売れ残っちゃって。あまりにもサイズが大きすぎて、誰も買ってくれないのよ。おうちの片付けついでだったし、捨てるのも忍びないの」
彼女が広げたのは、まばゆいばかりに真っ白なスーツだった。
「190センチのあなたなら、あつらえたように着こなせるはずよ。お願い、タダでいいから! 私の片付けを手伝うと思って!」
「……白の、スーツ……?」
劇用とはいえ、生地は上質で、どこか神聖な輝きを放っている。断り切れないサムの性格を見透かしたような、完璧すぎる「押し付け」。サムは真っ白な布地を抱え、絶望的な予感と共にバンカーへと足を向けた。
二人が帰宅すると、運悪くメインホールのど真ん中で鉢合わせた。手元にあるのは、黒と白の「結婚衣装」。
「……なんだその白いの。サミー、お前まさか……」
「……兄さんこそ、その黒いの……蝶ネクタイまで見えてるけど」
二人が硬直していると、影からぬらりとカスティエルが現れた。
「服の用意は万全だな。あとは神父だが……教会はここにはない。だが案ずるな、私がここで神父の役割を担えばいい」
「…………(魂が抜ける音)」
「…………(膝から崩れ落ちる音)」
もはや怒る気力さえ失い、二人は地面にへたり込んだ。
「なんでこんなことに……! 全部、テメェが変なこと言い出したせいだぞ、サミー!」
「はぁ!? 僕が何をしたって言うんだ! 僕はただ、昨日のことを謝ろうと……!」
「俺は被害者だ! 完全に巻き込まれただけだ!」
「夫婦喧嘩はまだ早い。まずは式を執り行うべきだ」
カスティエルはいつになく厳かな(しかしどこかズレている)表情で、二人をそれぞれの自室へと追いやった。
「控室へ行け。準備ができたら呼ぶ。……ディーン、そのスーツには一輪のバラが必要か?」
「このクソ天使、いまに見てろ。絶対羽根をむしってやるからな……!」
「(なんで俺は着替えてんだ……バカか。脱げよ、ディーン。……でもこれ、冗談みたいにぴったりじゃねぇか。クソッ)」
ディーンは鏡の前で、完璧にフィットした黒いスーツに袖を通していた。
蝶ネクタイを締め直し、自分があまりにも「新郎」らしいことに吐き気を覚える。
一方、サムは――。
「(ジェシカ……助けて……。何で僕は、真っ白なスーツを着て、自分の兄さんとメインホールで向き合わなきゃいけないんだ……)」
サムは白いジャケットのボタンを締め、額を押さえた。
鏡に映る自分は、確かに劇の王子様か、あるいは「奥さん」と言われても否定できないような、浮世離れした美しさを放っていた。
「用意ができたぞ。出てきなさい」
メインホールに、カスティエルの死の宣告に等しい声が響き渡った。
薪を組み合わせた不格好な十字架と、蝋燭の火。
バンカーは今、世界で最も気まずい結婚式場へと変貌していた。
不協和音の祭壇
バンカーのメインホールは、今やかつてないほどの異様な緊張感に包まれていた。
図書室から持ち出された古い燭台に火が灯り、即席で作られた薪の十字架が、揺れる影を壁に長く落としている。空気は冷たく、それでいて二人の男が発する熱気と気恥ずかしさで、奇妙な湿度を帯びていた。
カスティエルは、どこで仕入れたのかやけに詳しい結婚式の知識を総動員し、誇らしげに胸を張っている。いつものベージュではなく、わざわざ用意した「黒のトレンチコート」が、薄暗いホールの中で不気味なほど様になっていた。
「ヘアメイクは……まあ、身内オンリーだし、素材が良いからよかろう。新郎新婦、もっと中央へ。距離が遠すぎる」
にこにこと、それでいて有無を言わさない圧を持って、カスティエルが指示を飛ばす。
「……なんでサミーは着替えてんだよ。普通に脱げばよかっただろ……」
ディーンは毒突こうとしたが、その言葉は喉の奥で震えて消えた。
視線の先に立つ弟、サム。
190センチを超える長身を包む、純白のスーツ。普段のチェックのシャツや機能的なジャケット姿からは想像もつかないほど、その姿は浮世離れして美しかった。磨かれた靴、仕立ての良い布地、そして何より、その長い髪が燭台の火に照らされて金色に輝いている。
「(どこでそんな綺麗な……用意したんだよ……)」
ディーンは心の中で呻き、真っ赤になって顔を伏せた。
あいつは、いつの間にあんな「光」のような男になったんだ。胸の奥が、熱い鉄を流し込まれたように熱い。
「新郎! まじめにやれ! 俯くのは誓いの後だ!」
「わーったよ! キャスの野郎、調子乗りやがって……!」
ディーンは舌打ちをして顔を上げたが、今度は正面に立つサムと視線がぶつかり、再び火傷をしたように視線を泳がせた。
サムはサムで、自分でも制御できないほど激しい鼓動にさらされていた。
目の前に立つ兄、ディーン。
伝統的な黒のフォーマルスーツに、きっちりと結ばれた蝶ネクタイ。それは、普段の乱暴なハンターの面影を消し去り、どこか格式高い名家の主のような、あるいは若くして苦労を背負った軍人のような、独特の「色気」を放っていた。
「……兄貴こそ、用意周到すぎないか? そのスーツ、あつらえたみたいに……」
サムは言い切りながら、ディーンの姿をチラ見する。もとよりディーンは、黙っていれば子供にも女性にも人気が出る、整った顔立ちの男だ。それが正装をしている。似合わないはずがなかった。
「(なんで、そんなのばっかり似合うんだよ……)」
サムは耳まで赤く染め、そっぽを向いた。
「新婦! 前を向け! 視線を逸らすのは貞淑の証ではない、ただの反抗だ!」
「……誰が新婦だ!!」
サムの絶叫がメインホールに響くが、カスティエルは全く意に介していない。彼は厳かに、懐から古びた音楽再生機器を取り出した。
「本来なら入場曲が要るはずだが、このバンカーにあるレコードもCDも、ディーンの趣味ばかりでこの場には似合わない。AC/DCなどは、神聖な誓いの場にはあまりにも……騒がしいからな」
「別にいいだろ! ツェッペリンでも、KANSASでも! 景気よく行こうぜ!」
「却下だ。粛々とした雰囲気が大事なんだ。やむを得ない、これでよかろう……」
カスティエルがスイッチを押すと、バンカーのコンクリート壁に反響して、おごそかな旋律が流れ出した。
バグパイプの、悲しくも美しい調べ。『アメイジング・グレイス』。
素晴らしき神々の恩寵を謳ったその曲は、確かに天使であるカスティエルらしい選曲ではあったが、流れた瞬間に兄弟の顔は引きつった。
「……待てよ。キャス、これ葬式の曲じゃねぇか!」
「いきなり縁起が悪いね……」
その通り。欧米、特にハンターとしての経験が多い彼らにとって、アメイジング・グレイスは追悼や葬儀で流れる、完全な「デッド・ソング」だ。
「……そうなのか? だが、歌詞は救済と恩寵を歌っている。……まあ、君たちウィンチェスターらしいだろう。死を隣り合わせに生きる者たちにとって、これ以上の賛美歌はない」
「……皮肉が効いてるよね。死んではじめて結ばれる、みたいな……あ、ごめん……」
サムが口にした不謹慎な冗談は、ディーンの氷のような、そしてどこか悲痛な睨みのなかに消えていった。
「その目、やめてよ……」
「黙れ、サミー。これ以上、俺たちの運命に呪いをかけるんじゃねぇ」
ディーンは、アメイジング・グレイスの旋律に身を浸しながら、目の前の白いスーツの男を見つめた。
葬式か、結婚式か。
彼らにとって、その境界線はいつだって曖昧だった。
誰かを愛することは、誰かを失う恐怖と表裏一体だ。
この不格好な祭壇の前で、自分たちは一体何を誓わされようとしているのか。
ディーンは、きつく締められた蝶ネクタイのせいで、呼吸が苦しくなるのを感じていた。
「では、始めよう。……ウィンチェスターの兄弟、いや、今日この時だけは、魂を分かち合う伴侶として」
カスティエルの声が、葬送の調べに乗って、深く、重く響き渡った。
バグパイプの旋律が最高潮に達し、図書室の冷たい空気を震わせる。
不思議な光景だった。地下室であるはずのメインホールの隅々に置かれた古いスタンドランプが、まるで聖教会のステンドグラスを透過した陽光のように、赤や青、琥珀色の光を投げかけている。本物の天使が祭壇に立っているという事実が、物理的な空間そのものを書き換えているのかもしれない。
「……愛は寛容であり、愛は情け深い」
アメイジング・グレイスの重厚な調べに乗せて、カスティエルの朗々とした朗読が始まった。
彼は聖書を手に持っていなかった。ただ前を見据え、その言葉を自らの恩寵に刻み込むように発している。音律には不可視の熱が宿り、聞く者の魂を直接揺さぶる。
「愛は高ぶらない、誇らない、不作法をしない」
黒のトレンチコートを纏ったカスティエルは、この場にいる誰よりも神々しく、そして「本物」だった。揺らめく灯火が彼の背後に巨大な影を作り出し、それはまるで、今にも広げられようとしている六枚の翼のようにも見える。
「すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える」
深く、慈愛に満ちた言葉が、カスティエルの低い声に乗って降り注ぐ。ディーンとサムは、その圧倒的な「聖なる気配」に呑まれ、茶化す言葉さえ忘れて立ち尽くしていた。カスティエルの瞳はどこまでも澄み渡り、彼らがこれまで見てきたどの人間よりも気高く、天使そのものとしての威厳を放っている。
「愛は、いつまでも絶えることがない」
最後の一節を言い結び、カスティエルは満足げに、そして優しく微笑んだ。
もしここが何百人もの参列者で埋め尽くされた大聖堂であれば、間違いなく万雷の拍手が沸き起こっていただろう。
「(……あいつ、教会でバイトでもすりゃいいのに)」
「(シッ! 聞こえるよ、兄貴)」
二人の囁き声は、翼を広げるような仕草でアガペー(無償の愛)を体現するカスティエルの存在感にかき消された。しかし、その静寂はすぐに、天使の極めて現実的で事務的な問いかけによって破られることになる。
「さて、他の人間がいないからには、リングベアラー(指輪を運ぶ役)も私が兼任せねばならんな。二人とも、互いにはめ合う予定の指輪を出せ」
ディーンとサムは、同時に顔を見合わせた。
「……ねぇよ」
「……ないよ」
カスティエルの表情が、一瞬にして硬直した。彫刻のような静止。
「なんだと? どうやって結婚式を完結させるつもりだったんだ? 指輪のない誓いなど、弾丸のない銃と同じではないか」
「誰も同意してねぇだろ! 勝手に進めてんのはテメェだろ、キャス!」
「そもそも、こんな展開になるなんて最初からわかってただろ! 誰も指輪なんて用意してきてないよ!」
「……不可解だ。結婚式の準備とは、死線を越える準備と同じくらい綿密に行われるべきだと文献にはあった。君たちはこれほど見事な衣装を揃えながら、最も重要な象徴を忘れるとは」
「衣装だって押し付けられたんだよ! おいサミー、お前なんか持ってねぇのか。紐とか、ワッシャーとか……」
「そんなの指輪の代わりにならないよ! 兄さんこそ、何かアンティークの呪物でも持ってるんじゃないの?」
「呪いの指輪をはめろってか!? 冗談じゃねぇ!」
カスティエルは深くため息をつくと、指先で眉間を揉んだ。神聖な雰囲気は一気に霧散し、いつもの「困り果てた三人組」の空気がメインホールに戻ってくる。
「やむを得ない。……形式など、もはや些末なことだ。だが、何かしら『誓いの証』として交換できるものが必要だ」
カスティエルは祭壇(薪の山)の周囲を見回し、何かを思案するように目を細めた。ディーンとサムは、これ以上何をさせられるのかと、互いの正装姿を意識し直しながら、戦々恐々としてその沈黙を見守った。
指輪交換
バグパイプの重厚な旋律が、メインホールのコンクリート壁に反響し、もはや引き返せない終焉の調べへと変わっていく。
カスティエルの「とんでもない提案(例えば、互いの恩寵の一部を切り裂いて交換するなど)」を必死で拒絶し、三人が妥協の末にたどり着いた「交換できるもの」。
数分後、一段高くなった祭壇の前で、互いに愛銃を向け合う二人の男がいた。
すらりとした長身を純白のスーツで包んだサムは、まさに『スワンソング(世界の終わり)』を想起させる美しき白鳥のようで、その手にはシルバーに輝く愛用の銃が兄の眉間を真っ直ぐに捉えている。
対する黒のフォーマルスーツに身を固めたディーンは、使い込まれたコルト・ガバメントを弟の胸元へ向けた。象牙のグリップが黒の布地に鮮烈な対比を描き出し、その構えは荒野の決闘さながらの殺伐とした空気でありながら、息を呑むほどに完成された美を放っていた。
「……兄貴、僕を撃つなよ」
「当たり前だ。……お前こそ、指が震えてるぞ」
「兄貴に銃なんか、向けたくないんだよ」
「我慢しろ。キャスがうるさいんだ……。早く終わらせるぞ」
震える肘、強張った肩、そして引き金にかかった指先。
カチリ、という静かな撃鉄の音が重なり、直後、空間を引き裂くような轟音が二回、連続してホールに鳴り響いた。
サムとディーンの傍らのテーブルにあった、二人の使い古されたマグカップが、陶器の破片となって同時に粉々に砕け散った。
ディーン側のテーブルにはトーラスの、サム側のテーブルにはガバメントの弾痕が、それぞれ痛々しい穴を穿っている。
「……はぁ。これで、指輪交換ってことでいいよな?」
「……いいよね。ねえ、キャス」
漂い始めた硝煙の匂いの中、二人は顔を引きつらせながらも安堵の笑みを向け合った。
あまりの雰囲気に呑まれ、危うくサムの肩に風穴を開けそうだったディーンと、同じくディーンの脇腹を撃ち抜きそうだったサム。二人は冷や汗を拭い、深く長い息を吐き出した。
「ディーン……もう、終わったね。よかった。……もういいだろ、こんな服、今すぐ脱ぎ捨てて捨てちゃおうよ」
「……待て、サム。俺だって結婚式なんざ詳しくねぇが……。もしかしたら、この後。世にも恐ろしいイベントが、残ってんじゃなかったか……?」
「え……? 僕はジェシカと一緒に暮らしてた頃に、友達の式に出て……それ、きり……。……っ、あっ……」
この後の「伝統的な流れ」を思い出した二人が逃げ出す暇は、微塵も残されていなかった。
「最高の指輪交換だったぞ、二人とも!!」
黒のトレンチコートを翻し、カスティエルが歓喜の声を上げた。その手にはいつの間にかスマートフォンが握られており、不気味なほどの集中力で画面を操作している。
「すべてこの端末で撮影し尽くした。だが、単なる弾丸交換の記録だけでストレージをオーバーさせるわけにはいかない。……次こそが本番だ」
カスティエルは葬送のテーマ曲が流れる中、慈愛に満ちた(しかし逃げ場を完全に塞ぐ)微笑を浮かべた。
「次は、『誓いのキス』だ!!」
その宣言と共に、アメイジング・グレイスの旋律が一段と高く、ドラマチックに響き渡った。
身をすくませ、文字通り銃を持ったまま硬直する兄弟。
バンカーの冷たい静寂の中で、堕天使の宣告だけが非情に鳴り響いていた。
誓いのキス
「指輪はもういい! 早くしまえ、サミー!」
俺は吐き捨てるように言って、愛銃ガバメントをホルスターに戻した。ド派手に鳴り響いた銃声の余韻が、バンカーの石壁を震わせている。
「……指輪じゃないってば。だいたい、こんな格好で銃を構え合うなんて、どこのマフィアの抗争だよ」
サムも溜息をつきながらトーラスをしまい込み、ガックリと肩を落とした。白スーツの肩が、疲労でわずかに震えている。
「……銃弾の交換は済んだ。次は、永遠の愛を誓い合う接吻だ。キスだ、わかるだろう? 私でもそれくらいは知っているぞ」
「……ビールの回し飲みじゃ、だめか? それも立派な誓いの儀式だぜ」
「それは私も君たちとやったことがあるが、それほど神聖なものではなかったと記憶している」
カスティエルは怪訝そうに首を傾げた。あいつの「神聖」のハードルがどこにあるのか、俺にはさっぱりわからねぇ。
「……そりゃあ僕も、これがファーストキスだなんて言わないけどさ。でも、大切なキスは、大切な人のために残しておきたいだろ」
眉を八の字に下げて、サミーが弱音を吐いた。
「……なんかそれはそれで、俺が地味に傷つく感じだが……。まぁ、後半の意見には同意だ。キャス、いいか。兄弟が夫婦になる特別ケースの場合、キスはしないんだよ。これは天使の知らない、人類の高度な文化だ」
俺は必死に人類史を捏造し始めた。だが、キャスは騙されない。
「しかし、テレビでは……。あの、ソープオペラ(昼ドラ)というやつでは、常に情熱的に――」
「あんなもん見るな! クソみたいな番組しかねぇんだよ!」
「……愛し、愛される同士が最も光り輝く瞬間なのだ。それは、天界からも見えるほどに美しいエネルギーを生み出すのだぞ……」
カスティエルが、この世の終わりでも見たかのような、絶望の権化みたいな顔をしてしゅんとなった。
「(……キャス、そんな顔しないでよ……)」
サミーまでつられてしゅんとし始めた。これだよ。こいつらのこういうところが、俺を一番追い詰めるんだ。
「……わかったよ! キスだな! してやるよ! 来い、サミー!!」
俺はヤケクソになって、一段高い壇上へ一人で駆け上がった。
「ふざけるなよ! 無理強いするなら、僕は今すぐインパラを奪って家出するからな!」
サムは完全に涙目だ。俺はあいつの肩を掴んで、小声で囁いた。
「……おい、見てみろよ、キャスを。このすべて……あのバカみたいな薪の十字架も、アメイジングな葬式ソングも、あいつなりに俺たちのことを想っての演出なんだぜ」
「……う……」
「さっきまでの威勢がどこへ行きやがったのか、あんなにしょんぼりしてやがる。……そりゃ俺だって、弟とキスなんて死んでも御免だがよ……」
「……さっきからいろいろしてくれてるのに、僕たち、感謝もしてないもんね。……当たり前だけどさ」
「そもそも、俺らが隠し事して喧嘩するほど、自分たちの私生活に問題があったのが発端だ。俺はもう脱ぎ散らかさない。お前は俺にばかり料理をさせない。いい教訓だと思おうぜ」
「…………。……そうだね。……うん、僕、やるよ」
「よし、行くぞ、バージンロードだ。馬鹿デカいお前をお姫様抱っこなんてできねぇから、手で勘弁しろ。……お手を拝借、ガキ新婦」
俺は一段高い場所で、大袈裟に俯いて跪き、力強く、そして見事な『Bow and scrape(慇懃な一礼)』でサムを迎え入れた。
「……させるかよ、クソッタレ新郎」
サムはそう応じながら、白スーツの裾をふわりと払った。諦めたような、それでいていつもの優しい苦笑を浮かべ、淑女の如き『Curtsy(お辞儀)』で俺の礼を受け入れた。
一瞬、バンカーの時間が止まったかのような、不思議な静謐さがメインホールを支配した。
「ッ、――!!」
その沈黙を切り裂いたのは、カスティエルのスマホのけたたましい撮影音だった。
「素晴らしいな! ハンター生活のどこでそんなポーズを覚えたんだ!? 絵画のようだぞ!」
「こら! それ、連射モードだろ! やめろってば!」
「……まだキスもしてねぇのに。……ていうか、やっぱりやめようかな、もう……」
俺は真っ赤になった顔を隠すように立ち上がった。アメイジング・グレイスの旋律は、いよいよ最後のクライマックスへと向かっている。
壇上はもはや、人知を超えた輝きを放つ「ウィンチェスター・ブライダル」と化していた。本来なら陽の光など一筋も射さないはずの地下バンカーだが、今日この時ばかりは、カスティエルの恩寵が呼び寄せた神聖なる光が満ち溢れている。
俺は目の前に立つ、自分より一回り背の高い「新婦」を見上げて小さくため息をついた。
「……ちょっと屈め! これじゃ届かねぇだろ」
俺は白スーツの裾をぐいと引いた。
「あ、ごめん……」
サミーが首ごとがくんと姿勢を落としたせいで、危うく鼻をもがれるところだった。ったく、デカいだけで不器用なんだから。
「たく……ほら、じっとしてろ」
俺はサミーの首筋を優しく擦るように手を回し、指先を微細に動かした。親指と人差し指を顎に添えて、つま先に力を込めてやや上を向かせる。人差し指でその唇をそっとなぞり上げ、覆いかぶさろうと――。
そこで、俺はサムとカスティエルの二人が、沈黙と硬直の中に凍り付いていることに気づき、いったん動きを止めた。
「……なんだよ」
「い、いや……兄貴、なんか……キス、慣れてるなって……変な汗かいた」
「まったくだ。緊張という言葉はないのか? 流石、百戦錬磨だな。迷いがない」
「まさか、女の子だけじゃなくて男とまでキスしたこともあるの? 弟として、なんか……複雑だな……」
「やれって言ってるからやってんだろ! 余計な分析すんな!」
今の一連の動作は、完全に俺の無意識によるものだった。体に染み付いた「女を落とすための癖」が、まさか弟相手にまで発動するとは計算外だった。だが、ここで引き下がるわけにもいかない。俺は仕切り直すように、サミーの目を真っ直ぐに見据えた。
「いいか、じっとしてろ」
「ん、……」
サミーがゆっくりと目を閉じた。あいつの心臓の鼓動が、俺の指先にまで伝わってくる。壊れそうなくらい、速い鼓動だ。
静寂がホールを包み込んだ。
俺も息を殺していた。弟とキスをするなんて、狂気の沙汰だ。だが、不思議と嫌悪感はなかった。
触れたか触れないかのうちに、ついばむような、淡いキス。
柔らかくて、少し冷たくて、けれど奥の方には確かな熱があった。
その瞬間、俺たちの頭の中に共通して浮かんだ想いは、たった一つだった。
(この匂い、安心するな……まるで巣箱に帰ってきたみたいだ)
パッと離れたとき、俺たちの間には、硝煙の残り香と、気恥ずかしさと、そして言葉にならない安堵が漂っていた。
「……もう、いいだろ?」
俺は下を向いたまま、野獣のような低い声で唸った。隣ではサムも、泣きそうなほど鋭い眼差しをカスティエルに向けている。俺たちの視線と声は、完全に「二人三脚」でこの茶番の終結を求めていた。
「……素晴らしい。十分だ。愛の誓いは、今ここに刻まれた」
カスティエルが満足げに手を叩き、祝福の拍手を送った。
こんなことはもう二度と御免だ。これでようやく、この「結婚式」という名の悪夢が終わる。そう確信した俺とサムの希望は、しかし、この余計な知識を仕入れてきた血塗られた堕天使によって、無残にも粉砕された。
「……さて。次は『初夜』というものをやるのだろう?」
キッチンの空気は、一瞬にして今度はマイナス50度を振り切った。
「………………あ?」
「………………は?」
アメイジング・グレイスの旋律が、不気味なほどドラマチックに反響する中、俺たちは石像のように固まり、キャスの無垢で残酷な瞳を見つめ返すことしかできなかった。
初夜?
スーツを力ずくで剥ぎ取られ、結局いつも通りのタンクトップ一枚という心もとない姿で、僕はディーンの部屋に押し込められた。
背後で「初夜を邪魔する無粋な真似はしない」とかなんとか、トレンチコートの聖職者気取りがのたまいながら重い鉄扉を閉める音が響く。文句は喉が枯れるほど言ったけれど、今のカスティエルには僕たちの抗議なんて羽虫の羽音程度にしか聞こえていないらしい。
「……ディーン」
この部屋は、僕の部屋と大差ないサイズのはずだ。それなのに、今の僕にはここが耐え難いほど狭く、空気が薄く感じられる。扉の前で仁王立ちしているディーンからは、返事とも唸り声ともつかない、苛立ちの混じった音が漏れていた。
「……諦めようよ。いいじゃん、明日まで何もしないで、ただこのままいれば。あいつが満足して扉を開けるまでさ」
「当たり前だ!」
食い気味の返事。扉から離れたディーンは、テーブルの上に放置されていたグラス――それがいつからそこにある水なのか、あるいは飲み残しのウィスキーなのかも不明な液体――を、所在なげに一気に飲み干した。
部屋には、ディーンが喉を鳴らす音だけがやけに大きく響く。
「……僕、床で寝るね」
「ああん? ……いや、お前はベッド使えよ。今日も冷える」
「大丈夫だってば。……兄貴のベタベタした布団なんて触りたくないって、いい加減わかってよ」
「人がせっかく優しく言ってやってんのに!」
一気に空間の熱が上がる。
「ちょ、ちょっと、やめてよ。一応これ……『初夜』でしょ。喧嘩してどうするんだよ」
「同じ部屋で寝ることがか? こんなん、モーテル時代からずっとやってるだろ」
「そうじゃなくて!」
「なんだよ」
「モーテルと違って、ここにはベッドが……それもダブルが一つしかないんだよ。言ってる意味、わかるだろ」
僕が苦虫を噛み潰したように言い切ると、ディーンはようやく事の重大さに気づいたようだった。
そうだ。モーテルに泊まる時は、いつだってツインの部屋を選んできた。それが僕たちの最低限のパーソナルスペースを確保する唯一の手段だったんだ。
けれど、ここはディーンの私室だ。そこにあるのは、兄貴がハンバーガーを食べ散らかした後の油の匂いが染み付いた、使い込まれたダブルベッドが一つだけ。
部屋の隅にあるソファには、拳銃、予備のパーツ、魔除けの塩、そしてあいつが大切にしているレコードなんかが無造作に積み上げられていて、人間が体を横たえるスペースなんて1インチも残っていない。
つまり、僕に許された逃げ場は「床」しかなかった。
「じゃあ、寝るから」
「……勝手にしろ。俺も寝る」
ディーンは不貞腐れたようにベッドに潜り込むと、いつも通り、乱暴に毛布をめくって、ぐちゃぐちゃなまま自分の腹に巻きつけた。数秒後には、もう規則正しい寝息が聞こえてくる。
どこでも一瞬で眠りにつけるその神経は、正直羨ましい。僕だって長年のハンター生活で、インパラの助手席でもボロいモーテルのソファでも寝られる自信はあった。けれど、バンカーを「我が家」だと認識してしまったせいか、あるいはこの奇妙な状況のせいか、冷たい床の上に身を沈めるのは、以前よりもずっと困難なことに思えた。
僕は温度を確かめるように、まず床に腰を下ろした。
……冷たい。
想像以上の冷気だ。バンカーのヒーティングシステムは回っているはずなのに、それともディーンの部屋のダクトだけが故障しているのか。あるいは、体温の高いディーンが気づいていないだけか。
「(……寒っ)」
一瞬で皮膚が粟立ち、指先が白くなる。吐く息こそ白くはならないけれど、体温が急速にコンクリートへと奪われていく感覚に、奥歯が小さくカチリと鳴った。
昔、酔いつぶれたディーンが僕のベッドに吐いた時、怒りに震えながら床で寝たことがあった。けれど、地下の静止した空気と、四月の夜の冷気は、僕の記憶にあるものよりずっと過酷だった。
そっとディーンを盗み見れば、あいつは毛布を独り占めして、繭のように心地よく丸まっている。
まるで寝床を猫に奪われた大型犬のように、僕は硬い床に長い足を伸ばした。
「……おやすみ、ディーン」
返事はいびきが一つだけ。
それがまた、一方通行の、冷え切った熟年夫婦の関係を突きつけられているようで、ひどく惨めな気分になる。
「……っ、はぁ」
身を横たえた途端、全身に底冷えが畳み掛けてきた。
物理学的に言えば、冷気は低い位置に溜まる。今、僕がしていることは、間違いなく一種の軽微な自殺行為に近かった。
僕は膝を抱え、自分の肩を抱いて、長く、凍えるような夜の始まりに身を震わせた。
眠れるわけがなかった。
どれだけ寝返りを打っても、個人的に一番寝やすいと自覚しているうつ伏せになっても、何をしても無駄だった。骨の髄まで冷やしてくる床の温度のせいか、それとも「初夜」なんていう、カスティエルに無理やり演じさせられた茶番のせいで、妙に意識が昂ぶってしまったせいか。
「ふがっ」と、ディーンのいびきが一段落を告げる。
「……うるさいんだよ」
ディーンのいびきなんて、モーテル時代どころか、僕がスタンフォードへ行く前、まだ父さんと三人で暮らしていた頃から当たり前に隣にあったものだ。だから、これは単なる八つ当たりでしかない。
目を覆うようにずっと挙げていた腕をシーツのない冷たい床に下ろした途端、肘と二の腕がまともにコンクリートの冷気に触れた。
「っ、つめたっ!」
思わず小さな悲鳴が上がる。もう、どんな方法でもいいから意識を失いたい。
「……ディ、ン……」
温かさがどんどん逃げていく。無意識に漏れた声は、まだ幼い頃、暗いモーテルの部屋で兄の背中を呼んだ時の言葉遣いそのものだった。語尾を伸ばさず短くちぎるような、情けないほど甘えるような呼び方。そんな声を出すのは、世界中で僕以外にいない。
その時だった。
ベッドから不意に伸ばされた強い腕が、僕の細い二の腕を掴んだ。全身がびくん、と跳ねる。
「な、に……っ」
肺の中に一気に冷気が入り込み、暗闇の中に僕の微かな吐息が白く溶け出していく。
「……あっためといた。ベッド使え、サミー」
「……嫌だって、言ってるだろ。兄貴こそ、床なんて無理だよ」
それが仮に、僕をベッドに上げるための計画的な「あっため」だったとしても。ディーンのベッドについた油や汚れが嫌なんじゃない。こんな殺人的な寒さを、兄貴に味合わせたくないんだ。
ディーンは少し黙ったかと思うと、布団の中でモゾリと動いた。
「じゃあ、こうするしかねぇな」
次の瞬間、とんでもない力で身体を持ち上げられた。抗う隙もなく、僕は気づけば油臭くて、けれど驚くほど暖かいダブルベッドの上に横たわされていた。
二人分の重みに、古いスプリングがぎぃ、と悲鳴を上げる。
「ちょ、っ……ダメだってば!」
「うるせーな。これは誰も凍死させない唯一の方法だって、わかんねぇのか」
「わかんないよ、……」
モーテルでも、こんなに近くで誰かと寝たことはない。当然だ。
けれど、重なり合うような距離で布団に包まれた瞬間、僕たちを包んだのは気まずさではなく、一瞬の静寂だった。
(……やっぱ、このにおい、落ち着くんだよな……)
ふいに込み上げてきたのは、そんな理屈抜きの感慨だった。
ディーンの身体から漂う、使い込まれた革と火薬、そして安物のシェービングクリームの匂い。
僕の身体から移ったであろう、インクと古い紙の匂い。
いつの間にか、それらを『自分の巣の匂い』だと認めていた自分を、ようやく自覚させられる。
「……わかった。朝まで、こうして……」
温かさと絶対的な安心感に、せき止めていた眠気がようやく誘発される。
同じ感覚らしいディーンが、無意識に僕の腰を引き寄せようとする。僕はそれを膝を立てて制止し、これ以上深入りしないように自制しながら、意識をスラバーランド(眠りの国)へと解き放った。
意識が途切れる寸前。
額のあたりに、羽が触れたようなかすかな温もりを感じた気がした。
それが祝福のキスだったのか、それともただの夢の入り口だったのか、確かめる術はもう、まどろみの中に消えていった。

