AI_spn27

Last-modified: 2026-05-01 (金) 23:07:03

続編。もともとガブリエルのトリックスター・ワールドのつもりでジェミニのせいにするため書き換えたので台詞や細部が変なのはゆるして。


580年後

バンカーの図書室。いつものように埃っぽい空気の中で、サムが古い文献のページを捲り、カスティエルがその横で神妙な顔をして文字を追っていた。ディーンはと言えば、お気に入りの椅子に深く腰掛け、冷えたビールを片手に「そろそろ何かマシな事件はないのか」とぼやいていた。

その直後だった。鼓膜を打つ、パチンという軽快な指の音。

世界は一瞬にして、バンカーの黄ばんだ電球の光から、目に刺さるような無機質な白色光へと塗り替えられた。

「……おい、またか。ジェミニの野郎、今度は何を企んでやがる」

ディーン・ウィンチェスターが顔を上げた時、鼻を突いたのはカビ臭い紙の匂いではなく、完璧に濾過された清潔な空気と、ほのかに漂うシトラスの香りだった。

「……ハァ、ハァ……。みんな、大丈夫か? ここは……どこだ」

サムが立ち上がり、周囲を見渡す。そこは、超近代的なデザインのラウンジだった。壁一面が巨大な強化ガラスになっており、その向こう側には、吸い込まれるような漆黒の宇宙と、虹色に輝く星雲が広がっている。

「……強力な魔力……いや、テクノロジーと魔術が高度に融合している。ディーン、サム。私たちは今、地上にはいない」

彼らが立っているのは、宇宙移民を運ぶ超豪華恒星間客船『プロメテウス号』の展望デッキだった。周囲には、乳白色のコールドスリープ・ポッドが整然と並んでいるが、三人が出てきたポッドだけが火花を散らし、黒煙を上げている。

ジェミニ「ハーイ、スターシップ・ウィンチェスターの諸君! 今回のサバイバルはちょっとした『未来体験』だ!」

空中に、派手な船長の制服を纏ったジェミニのホログラムが現れた。彼は合成シャンパンを片手に、銀河を背景にして優雅に浮いている。

「ジェミニ! 悪趣味な映画ごっこはもう飽きたんだよ。さっさと元の場所に帰しやがれ」

ジェミニ「おっと、そう焦るなよ。この船は最高だぜ? 食事はミシュラン級、ベッドは雲の上、おまけにキャスのための『恩寵活性システム』まで完備してある。……ただし、一つだけ小さなトラブルがあってね」

「トラブル……?」
ジェミニ「君たちが起きた時の衝撃で、100時間後に作動するはずだった『帰還システム』が、ポッドと一緒にオシャカになっちゃった。つまり、この船の自動航行を止める手段はもうない。目的地までの残り時間は……まあ、パネルを見てみなよ。じゃ、素晴らしい宇宙の旅を!」

ジェミニのホログラムが消え、ラウンジの中央にあるメインパネルが赤く点滅した。

目的地:新天地ガイヤ

現在速度:光速の0.2倍

到着予定時刻:580年後

「……580年? 嘘だろ……」
「……5世紀以上だと? 俺たちはただの人間だぞ! 目的地に着く頃には、塵どころか原子も残ってねぇ!」

三人の背後で、壊れたポッドの残骸が不気味に沈黙していた。
100時間の期限は、もはや意味をなさない。彼らは永遠に近い時間の檻に放り込まれたのだ。


恒星間客船の中は、まさに贅を尽くした極楽だった。
レストランに行けば、望む限りの豪華な食事が全自動で提供される。寝室は、重力を最適化した極上のマットが体を包み込む。さらに、カスティエルのために用意された「恩寵活性室」は、天界の輝きを模したエネルギーが充満しており、彼が地上で失いつつあった力を強引に引き出していた。

「……ハァ。肉は最高、酒も本物。映画館に行けば公開前の新作まで観れる。……なのに、これっぽっちも楽しくねぇのは何でだろうな」

ディーンは、ラウンジの豪華なソファで、最高級のバーボンを煽っていた。窓の外では、静寂そのものの宇宙が流れている。彼らにとっての「サバイバル」は、飢えや渇きではなく、圧倒的な「時間の重圧」へと変貌していた。

「兄貴……。僕は、船のデータベースを全部洗ったよ。でも、コールドスリープ・ポッドの修理マニュアルだけが、システムから抹消されてる。ジェミニの仕業だ。……僕たちは、このままここで老いて死ぬのを待つしかないのか?」

サムは、数時間前まで熱心に調べていた端末を床に投げ出した。彼の瞳には、絶望の影が濃く落ちている。
普通の人間にとって、580年という歳月は、生きながらにして墓場に入るのと同義だ。

「……サム。ディーン。私は……」

カスティエルは、活性化された恩寵によって、かつてないほど鋭敏になった感覚で二人を見つめた。
彼には見える。二人の細胞が、一分一秒ごとに僅かに劣化し、死へと向かって進んでいる残酷なプロセスが。

「私は、死なない。この船が目的地に着く頃、私は今と変わらぬ姿で、そこに立っているだろう。……だが、君たちは……」
「ああ、そうだな。俺たちは数十年でガタが来て、100歳になる前にくたばる。お前はそれからの500年を、この鉄の塊の中で、俺たちの骨と一緒に過ごすことになる。……ジェミニ、テメェの狙いはこれか」

カスティエルにとって、これはかつてない試練だった。
親愛なる友人たちが老い、病み、自分の腕の中で息を引き取る。その後の数世紀を、たった独りで永遠の旅を続ける。それは、どんな拷問よりも残酷な運命だった。

「キャス……もし僕たちが死んだら、君は一人でどうするつもりだい?」
「……私は、君たちを見捨てない。君たちの命が尽きるその瞬間まで。……いや、尽きた後も、私は君たちの魂の痕跡を守り続けるだろう」

カスティエルの言葉は静かだったが、その奥には悲痛な決意が秘められていた。
活性化された彼の恩寵は、皮肉にもその「孤独」をより鮮明に描き出していた。

その時、客船のアナウンスが優雅なチャイムを鳴らした。

『乗客の皆様にご案内します。本日は展望デッキにて、500年後のガイヤ入植を祝したスペシャルディナーが用意されています。どうぞお楽しみください』
「……皮肉じゃねぇか。500年後に死んでる奴らに向かって、入植を祝えだとよ」

ディーンはグラスを叩きつけるように置いた。
華やかなBGMが流れる豪華客船。
しかし、その実体は、カスティエル一人を永遠に閉じ込めるための、美しくも冷酷な棺桶だった。

「……サミー。このまま、あいつの書いたシナリオ通りに終わってたまるか。……キャス、お前のその『パワーアップした恩寵』で、この船のエンジンを逆噴射させるなり、ワープさせるなりできねぇのか?」
「……試してみる。だが、この船の物理障壁は私の恩寵を反射する構造になっている。ジェミニは、私が内側から壊すことも予測しているようだ」

三人は、再び宇宙の深淵を見つめた。
100時間のタイムリミットが迫る中、彼らが戦うべき敵は、もはやトリックスターだけではない。
それは「永遠」という名の、無慈悲な神の視点そのものだった。


開始から48時間が経過した。
船内には、24時間周期で正確に切り替わる「疑似的な昼夜」が設定されていたが、漆黒の宇宙を滑るこの鉄の揺り籠において、それは単なる照明の明滅に過ぎなかった。

「クソ、もう何度目だ、この映画」

ディーンは船内の豪華なシアタールームで、最高級のポップコーンを床にぶちまけながら、何度も繰り返される往年の名作映画を眺めていた。どんな娯楽も、どんな美食も、580年という果てしない時間の前では、砂を噛むような退屈に変わる。

一方、サムは中央コンピュータールームに籠り、血走った目でモニターの文字列を追い続けていた。

「……おかしいんだ、ディーン。この船の航行記録(ログ)を遡っても、出発地点の記録がどこにもない。地球を出発したはずなのに、その座標が存在しないんだ」
「……そりゃそうだろ。ジェミニが作ったお人形さんごっこの世界なんだ。最初から『出発地』なんてねぇのさ」

ディーンは投げやりに言い、革張りの椅子から立ち上がった。その足取りは、心なしか重い。


その頃、カスティエルは船の最深部にある「恩寵活性室」の光の中にいた。
シリンダーの中で脈動する青白い光が、彼の本質である「天使の力」を強制的に引き上げ、神経を研ぎ澄ませる。しかし、力が強まれば強まるほど、彼が感じる「恐怖」もまた、鋭利な刃となって彼の心を切り裂いた。

「……ディーン。サム。私の耳には、君たちの細胞が一つ、また一つと死に絶えていく音が聞こえる。この船が刻む時間は、君たちの命を確実に削り取っている」

カスティエルは活性室を出て、展望デッキで二人と合流した。
二人の顔には、たった二日間とは思えないほどの疲労が刻まれている。580年という「概念」そのものが、人間の精神を内側から腐食させているのだ。

「……ジェミニ。姿を現せ。君の目的は、私に彼らの『死』を見せつけることか?」

カスティエルが虚空に向かって叫ぶと、ラウンジのピアノの前に、いつの間にかタキシード姿のジェミニが座っていた。彼は不協和音を一つ鳴らし、皮肉な笑みを浮かべる。

ジェミニ「おっと、察しがいいねぇ、キャス。……どうだい? 完璧な力、完璧な環境、そして『愛する友人たちの最期』を特等席で看取れる権利。これ以上の贅沢があるかい?」

ジェミニはピアノの鍵盤を叩き、激しい曲調へと変えた。

ジェミニ「サムとディーンは、あと数十年で死ぬ。その後、君は一人でこの銀河を旅するんだ。五百年後の目的地に着く頃、君は彼らの名前さえ思い出せなくなっているかもしれない。……それこそが『永遠』を持つ者の、真の姿だと思わないか?」
「……テメェ……!」

ディーンが銃を抜こうとしたが、ジェミニは指を一振りして、その動きを封じた。

ジェミニ「怒るなよ、ディーン。俺はキャスに『教育』をしてるだけだ。お前ら人間と、俺たち天使は、住む世界が違うんだってことをな。……さあ、キャス。選択肢をあげよう。今すぐ俺が指を鳴らして、この船をバンカーに戻してやってもいい。……ただし、交換条件だ。サムとディーンの『魂』を、俺のコレクションに加えさせてもらう」
「……魂を……?」
ジェミニ「そう。死ぬことも、老いることもない。俺のギャラリーの中で、永遠に美しいままで保存してやる。そうすれば、キャス、君は二度と『喪失』を恐れなくて済む。……悪くない提案だろ?」

沈黙がラウンジを支配した。
カスティエルは、凍りついたように動かないサムとディーンを見つめた。
二人がいつか自分を残して去っていく。その未来は、カスティエルにとって何よりも恐ろしい「真実」だった。もしジェミニの言う通りにすれば、この「別れの痛み」から解放されるのではないか。そんな甘い毒が、彼の恩寵を揺さぶる。

「……ジェミニ。君は、彼らを『物』として扱えと言うのか」

カスティエルの声が、低く震える。

ジェミニ「そうだよ。愛なんてのは、結局のところ執着だ。執着を形にして残す。それが神に近い存在の、正しい愛し方さ」

カスティエルは、ゆっくりと歩き出した。
ジェミニの前を通り過ぎ、展望デッキの大きな窓に手を触れる。
そこには、数え切れないほどの星々が、冷たく、しかし確かに輝いていた。

「……以前、私はある人間から教わった。『人は死ぬからこそ、その一生が輝くのだ』と。……サムとディーンがいつか私の元を去る。それは変えられない運命だ。だが、その有限の命を、君の歪んだコレクションにする権利は誰にもない」

カスティエルが振り返った。その瞳には、ジェミニさえも一瞬たじろぐほどの、青白い怒りの炎が宿っていた。

「……私は、彼らを見届けないのではない。彼らが生きる『今』を、この手で守り抜くのだ。……たとえ、その後が五百年の孤独であろうとも!」
ジェミニ「……フン。相変わらず、理屈の通じない頑固者だ。……いいだろう。なら、最後まで『人間らしい死』を夢見て、この銀河の塵になりなよ」

ジェミニが姿を消すと、船全体が激しく揺れ始めた。
メインモニターの数字が、異常な速さでカウントダウンを開始する。

船内エネルギー臨界:残り三時間

生命維持装置:強制停止シーケンス開始

「……キャス! ジェミニが、船のシステムを暴走させた! このままだと、100時間を待たずに……船が爆発する!」
「……へっ、望むところだ! 五百年後の未来より、今ここで派手に散る方が俺たちらしいぜ。……キャス、サミー、行くぞ! 最後の悪あがき(サバイバル)だ!」

豪華客船の優雅なBGMが止まり、耳を劈くような警報音が鳴り響く。
三人は、火花が散る廊下を駆け出した。
五百八十年の孤独よりも過酷な、三時間の決戦が幕を開けた。


船内全域に鳴り響く警告音は、もはや悲鳴のように聞こえた。

残り、1時間20分
メインモニターに映し出される赤字のカウントダウンが、僕たちの命の灯火を削っていく。

「……ダメだ、このコード……幾重にもプロテクトがかかってる。ジェミニ、君は最初から、僕たちに解除させる気なんてなかったんだね」

僕はキーボードを叩く指を止め、悔しさに唇を噛んだ。
豪華な内装は次々と剥がれ落ち、剥き出しになった回路から火花が散っている。恩寵活性システムさえも暴走を始め、部屋全体が眩いほどの青白い光に包まれていた。

「……おい、サミー、弱気になるな。あいつは『いたずらの神』だろ? 必ずどっかに『非常口』を用意してるはずだ」

ディーンは激しく揺れる床に踏ん張り、僕の肩を強く叩いた。その目はまだ、諦めていない。
だが、僕たちのすぐ傍で、カスティエルは静かに一点を見つめていた。彼の瞳は、活性化された恩寵によって、もはや人間のそれとは違う神々しい光を放っている。

「……サム。ディーン。出口は……システムの中にはない」

カスティエルがゆっくりと口を開いた。彼の声は、爆発の予兆に震える船内でも、驚くほど澄んで聞こえた。

「ジェミニが壊したと言った『100時間後の帰還システム』……それは物理的な装置ではない。この世界の『因果律』そのものだ。彼は、私という存在に、君たちの死という『永劫の孤独』を突きつけることで、私を天界の冷酷な歯車に戻そうとした」
「……難しい話はいい。で、どうすればここから出られるんだ?」
「……私が、この船の『時間』を繋ぎ止める。活性化された私の恩寵を、全て燃料(エネルギー)として船のコアに流し込むんだ」

カスティエルの言葉に、僕とディーンは息を呑んだ。

「キャス、そんなことをしたら……君の恩寵はどうなる? 活性化されているとはいえ、そんな無茶な出力をしたら……君の本質が焼き切れてしまう!」
「……構わない。580年後の孤独を生きるより、今、この瞬間に君たちと共に帰る道を選ぶ」

カスティエルは僕たちに背を向け、暴走する恩寵活性シリンダーへと歩み寄った。
その背中には、目に見えないはずの「重圧」がのしかかっているように見えた。彼は、自分自身の永遠を犠牲にして、僕たちの数十年の命を救おうとしている。

「……待てよ、キャス! 英雄気取りはやめろ。もっと他に方法が……」
「ディーン。君が私に教えてくれたはずだ。『家族のためなら、何だってする』と」

カスティエルが振り返り、微かに微笑んだ。その瞬間、彼はシリンダーの剥き出しになった高圧電極を、両手で強く握り締めた。

「があああああああああああああ!!」

カスティエルの絶叫と共に、船内を上回るほどの眩い光が溢れ出した。
青白い恩寵の奔流が、船のシステムを無理やり書き換えていく。五百八十年という果てしない時間が、恐ろしい速度で巻き戻され、圧縮され、僕たちの「今」へと収束していく。

世界が白く塗りつぶされる。
その光の渦の中で、僕はジェミニの声を聞いた気がした。

ジェミニ「……やれやれ、本当にバカな奴らだ。自分の『永遠』を、たった数十年のために使い果たすなんて。……でも、まあ。その『バカさ』こそが、俺様が愛した人間たちの輝きだったかな」

パチン、という指を鳴らす音が、遠くで聞こえた。


「……ッ、ハァ、ハァ……!!」

僕は、激しい衝撃と共に硬い床に叩きつけられた。
目を開けると、そこはバンカーの図書室だった。
埃っぽい空気、古びた地図、そして――冷めたコーヒーの匂い。

「……戻った、のか? おい、サミー! 無事か!」

ディーンが隣で咳き込みながら立ち上がった。彼の腕には、先ほどまでの宇宙服の感触ではなく、使い込まれたネルシャツの感触が戻っていた。

「……ああ。戻った。……キャスは!?」

僕たちは慌てて周囲を見回した。
カスティエルは、僕たちの少し後ろで、壁に寄りかかるようにして座り込んでいた。
彼のトレンチコートは煤けており、何よりも、その瞳からあの神々しい輝きが消えていた。

「……ハァ……。サム、ディーン。……私は、まだここに……いるか?」
「ああ、当たり前だ! 完璧に、バンカーの一等席にいやがるよ」

ディーンが駆け寄り、カスティエルの肩を抱いた。カスティエルの恩寵は枯渇しかけ、その身体はひどく冷えていたが、間違いなく「僕たちのキャス」だった。

「キャス……君、本当に無茶をしたんだね」
「……580年を一人で過ごすよりは、マシな選択だったと確信している。……ディーン、その、ビールを一本くれないか」

ディーンは一瞬驚いた顔をしたが、すぐに最高の笑みを浮かべて頷いた。

「ああ、とっておきの冷えたやつを持ってきてやるよ。……サミー、今日は宴だ。宇宙の果てまで行かなくて済んだお祝いにな」

テーブルの上には、いつの間にか銀色の小さなカプセルが一つ置いてあった。
ディーンがそれを開けると、中には小さな紙切れが入っていた。

『宇宙旅行、お楽しみいただけたかな?

 星の輝きより、君たちの「一瞬の意地」の方が眩しかったぜ。

 追伸:キャスの恩寵は、そのうち戻るように「調整」しておいた。安心して眠りなよ。 ――G』

ディーンはメモをゴミ箱へ放り、僕たちに笑いかけた。

「……ったく、あいつは最後まで余計なお世話だ」

窓のない地下の図書室。
しかし、僕たち三人は、どんな星空よりも美しい、安らぎという名の「今」の中にいた。
580年後の未来よりも、この不完全な現在(いま)こそが、僕たちが勝ち取った最高のサバイバルの報酬だった。

ピエロ2 サムのピエロ恐怖症二倍増しver

バンカーの冷たい空気。サムが淹れたばかりのコーヒーの香りが、指を鳴らす乾燥した音一つで奪い去られた。

「……ああ、クソッ! またあいつか!」

ディーン・ウィンチェスターが叫んだ瞬間、視界は極彩色の閃光に飲み込まれ、次の瞬間には、肺が焼けるような澱んだ空気の中に放り出されていた。

「……ハァ、ハァ……。みんな、無事か? ここは……」

サム・ウィンチェスターが顔を上げたとき、その瞳は恐怖に大きく見開かれた。
そこは、無限に続くかのような狭い回廊だった。幅は大人一人が通るのがやっと。壁にはスプレーで殴り書きされた下品な落書きが所狭しと重なり、頭上では不気味な赤いネオンが「EXIT」という文字を嘲笑うように明滅させている。

「……強力な魔力、そして悪意を感じる。ジェミニ……いや、トリックスターの仕業だな」

カスティエルが背後を振り返り、その表情を硬くした。
回廊の奥、赤い闇の中から「ズル……ズル……」と、重い金属を引きずる音が響いてくる。

「おい、なんだあの音は……」

音の主がネオンの光の下に姿を現した瞬間、サムの喉から、掠れた悲鳴が漏れた。
そこにいたのは、常軌を逸した巨体を持つピエロだった。
カラフルなはずの衣装は返り血と煤で黒ずみ、白塗りの顔には裂けたような笑みが描かれている。その手には、引きずるほど巨大な、錆びついたナタが握り締められていた。

ジェミニ「やあやあ、諸君! 今回のテーマは『トラウマの克服』だ!」

空中に、ポップコーンを頬張るジェミニのホログラムが現れる。

ジェミニ「ルールは簡単。この迷路を100時間走り続けて出口を見つけるだけ。休憩? ノンノン。止まれば、あの愛らしいピエロ君が君たちを細切れにしてくれる。……サミー、君にとっては最高のデートスポットだろ?」

「……っ、あ……あ……」

サムの顔から血の気が引き、膝がガクガクと震え始める。
理性的で、常に論理的な解決策を見出す「ウィンチェスターの頭脳」が、その瞬間に完全に崩壊した。

「サミー! しっかりしろ! 走るぞ、おい!」

ディーンがサムの腕を掴み、強引に走り出す。
背後では、巨大なピエロがナタを振り上げ、迷いのない殺意と共に加速を始めていた。


開始から3時間が経過した。
回廊は執拗なまでに曲がりくねり、死角の先には常に新しい「赤」が待ち受けていた。

「……僕、は……もう……。あいつが、あいつの靴の音が……」

サムの呼吸は異常に速い。彼は普段の彼ではなかった。
ピエロへの根源的な恐怖が、彼の脳内の論理回路を焼き切ってしまったのだ。角を曲がるたびに「ピエロがいるんじゃないか」という妄想に取り憑かれ、ネズミが横切っただけで「ドラえもん」のように飛び上がってパニックに陥る。

「落ち着け、サミー! あれはただの幻覚、いや、ジェミニの作ったお人形さんだ!」

ディーンはサムの背中を押し、狭い通路を突き進む。回廊の幅は一人分しかないため、彼らは縦一列になって走らざるを得ない。先頭をディーンが、中央を震えるサムが、そして殿(しんがり)をカスティエルが務めていた。

「ディーン、サムの心拍数が危険域に達している。彼の瞳に映るものは、もはや現実ではないようだ」

カスティエルが背後の闇を睨みつける。
数メートル後ろでは、あのピエロが巨大なナタを壁に擦り付け、火花を散らしながら「ヒヒヒッ……」と低い笑い声を漏らしている。ナタが壁を削る「ギギギィ」という音が、サムの精神をさらに追い詰めていく。

「……ダメだ、右に行ったら……あいつが待ち伏せしてる……左も……全部あいつの顔に見える……!」
「右も左もねぇよ、一本道だろ! サミー、俺を見ろ! 俺の背中だけを見てりゃいいんだ!」

ディーンは必死に声を張り上げた。
道中、壊れた自販機がいくつか置かれていた。中には水やポテトチップスが残っているのが見える。喉はカラカラに渇き、胃袋は悲鳴を上げている。だが、指先が自販機のボタンに触れようとした瞬間、背後から「ドォン!」という衝撃音が響く。
ピエロがナタを振り下ろし、彼らが先ほどまでいた床を叩き割ったのだ。

「止まるな! ほんの一瞬の猶予も与えられていない!」

カスティエルがサムの腰を抱えるようにして前へ押し出す。
サムはもはや、自分を支えているのが誰なのかさえ分かっていないようだった。彼の武器であった「論理」も「冷静さ」も、この赤い迷宮の闇に溶けて消えてしまった。

「……あいつが来る……ボクを、ボクを笑いながら……」
「笑わせとけよ! あんな下手クソなメイクの奴に、ウィンチェスターが負けるわけねぇだろ!」

ディーンは不敵に笑ってみせたが、その掌は汗でじっとりと濡れていた。
サムの弱体化は予想以上だった。彼を支えながら、この極限の飢えと渇き、そして終わりのない運動に耐えなければならない。

100時間のうち、まだ3時間。
赤いネオンは、絶望の深さを象徴するように、いつまでも赤く燃え続けていた。


開始から28時間が経過した。
もはや、時間の経過を知らせるのは僕の脈動ではなく、背後で一定の距離を保ち続ける「死の足音」だけだった。

赤いネオンの光が、壁に描かれた稚拙な落書きを不気味に浮かび上がらせる。それは、引き裂かれた風船だったり、牙を剥いた怪物だったりした。だが、今の僕の目には、そのすべてが「あいつ」の顔に見えていた。

「……ハァ、ハァ……。ディーン……もう、ダメだ……。壁が、壁が笑ってる……」

僕の声は、自分でも情けないほどに震えていた。
喉は焼けるように渇き、胃袋は自分の粘膜を消化し始めているような激痛を訴えている。だが、それ以上の苦痛が僕の脳を支配していた。

ピエロ。
色鮮やかな服を纏い、不自然なまでの笑顔を貼り付けた、あの異形の存在。
子供の頃からのトラウマが、ジェミニの魔力によって増幅され、僕の理性を完膚なきまでに叩き潰していた。

「ズル……ズル……」

錆びついた巨大なナタがコンクリートを削る音。
それは、僕の心臓を直接撫で回しているかのような、悍ましい感触だった。

「サミー! 壁を見るな! 俺の背中だけを見てろって言っただろ!」

ディーンが僕の腕を掴み、強引に前へと引きずる。
兄貴の体温だけが、僕がまだ「人間」であることを繋ぎ止める唯一の錨だった。ディーンもまた、極限の疲労の中にいるはずだ。レザージャケットは汗で重く沈み、呼吸は荒い。それでも、彼は一度も僕の手を離さなかった。

回廊の先に、一台の自動販売機が見えた。
照明は壊れ、薄暗い影の中に佇んでいるが、その中には確かに水とポテトチップスの袋が残っていた。

「……水だ。サミー、キャス、あそこにあるぞ!」

ディーンの瞳に一瞬、希望の光が宿る。
だが、僕たちが自販機の数メートル手前まで差し掛かったその時。

「キャハハハハハハ!!」

天井から、耳を劈くような高笑いが降ってきた。
ネオンが激しく明滅し、一瞬の闇。
再び光が戻ったとき、自販機の上には、あの巨大なピエロが跨っていた。

「……う、ああああああああっ!!」

僕はその場に飛び上がり、カスティエルの背後に隠れた。
足が震えて、力が入らない。頭の中は白くなり、論理的な思考なんて、宇宙の彼方へ消え去っていた。

ピエロが、自販機を素手で握りつぶす。
貴重な水が、粉砕されたプラスチックと共に床にぶちまけられた。
あいつは僕に向かって、真っ赤な口を大きく開け、長い舌をベロリと出した。

「サム、伏せろ!」

カスティエルが天使の刃を抜き、ピエロに向かって投擲する。
だが、刃はピエロの体をすり抜け、壁に突き刺さった。

「……やはり、実体ではないのか。だが、あのナタの殺意は本物だ」

ピエロが自販機から飛び降り、巨大なナタを振り上げる。
風を切る「ゴォン」という重苦しい音が響く。

「走るぞ! 食ってる暇も飲んでる暇もねぇ! あいつ、俺たちをじわじわとなぶり殺しにするつもりだぜ!」


35時間を経過した頃、回廊はさらに狭くなり、視界は「赤」以外の色を拒絶し始めた。
僕の意識は、もう半分以上、現実から遊離していた。

「……ディーン。ねぇ、ディーン。僕の足……どこにあるの? もう、見えないんだ」
「お前の足はちゃんとそこにある! 動いてる! 俺が保証してやるよ、サミー!」

ディーンは僕の肩を抱きかかえるようにして、半ば引きずりながら進む。
僕はもう、自分の体重を支えることさえできていなかった。
頭をよぎるのは、あのピエロの白塗りの顔だけ。
あいつが僕の喉をナタで切り裂き、その返り血を浴びて、風船のように膨らんでいく……そんな妄想が、網膜に焼き付いて離れない。

「……僕、は……バカだ……。ハンターなのに……ただのピエロに……」
「サム。君はバカではない。君の脳が、あまりにも過酷なストレスから身を守るために、一時的に『思考』を停止させているだけだ」

カスティエルが僕のもう片方の腕を支える。
天使の無機質な、しかし力強い体温が、僕のパニックを僅かに鎮めた。

「いいか、サム。君の『理性』という武器が今は使えないのなら、私の『意志』を使え。私が君を出口まで運ぶ。君はただ、呼吸を続けることだけを考えればいい」

僕は、キャスの青い瞳をぼんやりと見つめた。
そこには、僕の崩壊した世界とは違う、揺るぎない静謐があった。

「……キャス……君は……怖くないの?」
「怖い。だが、君を失うこと以上に怖いものなど、この迷宮には存在しない」
「……ケッ、かっこいいこと言い出しやがって。……サミー、聞いたか? 天使様がお墨付きをくれたんだ。お前はただ、俺たちの間を走ってりゃいい」

ディーンは僕の頭を乱暴にかき回した。
背後では、ピエロが壁にナタを擦り付け、火花を散らしながら「ズル……ズル……」と追いかけてくる。
赤いネオンの下、三人の影が一つになって、回廊を駆け抜けていく。

僕の武器である「理性」は死んだ。
だが、代わりに僕を支えるのは、兄の荒々しい愛情と、守護者の揺るぎない献身だった。

残り、65時間。
本当のサバイバルは、僕がこの「恐怖」という名の迷宮を受け入れるところから始まるのだ。


開始から95時間が経過した。
もはや、時間の観念は粉砕されていた。赤いネオンの光は網膜に焼き付き、目を閉じても視界は血のような赤に染まったままだ。

「……ハァ……ハァ……ガハッ……」

僕は、もはや走ってすらいなかった。ディーンとカスティエルに両脇を抱えられ、足を引きずりながら、ただ前へ運ばれているだけの肉塊だった。
極限の飢えと渇きは、喉を鉄の味に変え、胃袋を焼ける石のように重くさせていた。だが、背後から響く「ズル……ズル……」というナタの音は、僕たちが死ぬまでその足を止めることを許さない。

「……サミー、あと、少しだ……。あそこだ、あそこに大きな扉が見える……」

ディーンの声はガラガラに掠れ、その肩は激しく上下していた。タフな兄貴でさえ、僕という巨体を支えながら五日間近く走り続けた代償は、隠しきれないほどに心身を蝕んでいる。カスティエルもまた、恩寵の光を失い、蒼白な顔で僕の腕を支え続けていた。

その時、回廊の突き当たりに、これまでとは違う、重厚な鋼鉄の扉が現れた。
その扉には、スプレーではなく、刻印として 『EXIT』 と記されていた。

「……出口……?」

希望が脳に微かな酸素を送り込む。だが、扉に辿り着く寸前、背後の闇が爆発した。

「キャハハハハハハ!!」

巨大なピエロが、人間には不可能な跳躍で僕たちの頭上を飛び越え、扉の前に立ち塞がった。
錆びついた巨大なナタが、赤いネオンを反射して鈍く光る。あいつの白塗りの顔、裂けたような口元、そして――感情の欠落した硝子玉のような瞳。

「……ひ、っ……あ、あああああ!!」

僕は再び、幼児のような恐怖に支配され、その場に崩れ落ちた。
全身がガタガタと震え、呼吸が止まる。
あいつが、ナタを振り上げる。
あいつが、僕の喉元を狙っている。
あいつが、僕を笑っている。

「……させねぇよ、このクソ野郎……!!」

ディーンが、持てるすべての力を振り絞ってピエロに突っ込んだ。だが、空腹と疲労で足元がおぼつかない。ピエロは嘲笑うようにナタの柄でディーンを薙ぎ払った。

「ぐっ……!!」
「ディーン!!」

カスティエルが天使の刃を手に飛びかかるが、ピエロは異常な膂力でカスティエルの首を掴み、壁に叩きつけた。カスティエルの口から血が漏れ、その身体が力なく床に沈む。

ピエロは、倒れた二人には目もくれず、恐怖で動けなくなっている僕へと、ゆっくりと歩み寄ってきた。
巨大なナタが床を擦り、「ギギギィ」と耳障りな音を立てる。
あいつの顔が、僕の鼻先まで近づく。

「(……怖い……助けて……誰か……)」

僕は目を閉じた。
だが、その暗闇の中で聞こえてきたのは、ピエロの笑い声ではなく、ディーンの、消え入りそうな声だった。

「……逃げろ、サミー……。前を、見ろ……」

僕は、目を開けた。
そこには、僕を守るためにボロボロになり、それでもなお僕を逃がそうと手を伸ばす、兄の姿があった。
そして、僕の盾となって傷ついた、天使の姿があった。

その瞬間、僕の中で何かが弾けた。
ピエロへの恐怖が消えたわけではない。
だが、その「恐怖」以上に、二人を失うことへの「絶望」が、僕の脳の休眠していた部分を強制的に再起動させたのだ。

「……ああああああああああ!!」

僕は、ネズミに出くわしたドラえもんさながらの、支離滅裂で爆発的なエネルギーを解き放った。
論理? 理性? そんなものは知るか。
僕は床に落ちていた自販機の破片を掴み、咆哮と共にピエロの腹部へ体当たりを食らわせた。

「ボクの、兄貴に……キャスに……触るなぁぁぁ!!」

ピエロが驚愕に目を見開く。
僕はピエロの首にしがみつき、なりふり構わず、その白塗りの顔を拳で殴り続けた。
恐怖が怒りに、怒りが衝動に変わる。
巨大なナタが僕の肩を掠めたが、痛みすら感じなかった。
僕はただ、僕の大切なものを脅かすこの「仮面」を、粉砕することだけを考えていた。

僕がピエロの顔面を渾身の力で引き裂いたその時、あいつの身体が、紙吹雪のようにバラバラに弾け飛んだ。

「……パチン」

聞き慣れた指を鳴らす音と共に、赤いネオンが消え、世界が静寂に包まれた。

ジェミニ「……いやはや。火事場の馬鹿力とは言うけどさ、サミー。君のパニック・パワーは、ちょっとした核爆弾級だね」

崩壊した回廊の中央に、ポップコーンの袋を持ったジェミニが立っていた。彼は呆れたように、しかしどこか満足げに肩をすくめた。

「……ハァ……ハァ……。ジェミニ……。テメェ……」

僕は肩で息をしながら、ジェミニを睨みつけた。
ジェミニはニヤリと笑い、出口の扉を指差した。

ジェミニ「100時間、おめでとう。君は自分の恐怖を、文字通り『殴り飛ばした』わけだ。……まあ、あんななりふり構わないサミュエル・ウィンチェスターを見られただけで、僕の100時間は有意義だったよ」

ジェミニの姿が薄れていく。

ジェミニ「次はもっと、君が『冷静』でいられない世界を用意しておくからさ。……じゃ、バンカーで良い夢を」


「……ッ、ハァ、ハァ……!!」

目を開けると、そこはバンカーの図書室の冷たい床だった。
古書と塵の匂い。
窓のない、しかし僕たちにとっての唯一の安息の地。

「……戻った、のか? おい、サミー……。お前、さっきの凄かったぜ……」

ディーンが、痛む身体をさすりながら、信じられないものを見るような目で僕を見つめていた。カスティエルもまた、壁に背を預け、穏やかな微笑を浮かべている。

「……ごめん、ディーン。僕、最後の方は何をやってたか……全然覚えてないんだ」

僕は、自分の拳を見た。
赤く腫れ上がり、小刻みに震えている。
あんなに怖かったピエロの残像は、もうどこにもなかった。

「サム。君は恐怖を克服したのではない。恐怖を抱えたまま、それ以上に大切なもののために戦ったのだ。……それは、どんな勇気よりも気高い」
「……ありがとう、キャス」

テーブルの上には、いつの間にか一本のミネラルウォーターと、小さなメモが置いてあった。

『ピエロのメイク代、高くついたぜ。

 追伸:サミー、君のあのアッパーカットは100点満点だ。 ――G』

ディーンはそのメモを奪い取り、丸めてゴミ箱へ投げ捨てた。

「……ったく、あいつは最後まで余計なお世話だ。……ほら、サミー、キャス。シャワーだ。その『赤』を全部洗い流してこい。その後は……俺が最高に旨いサラダ、いや、ステーキを作ってやるよ」

サムは苦笑し、兄の差し出した手を借りて立ち上がった。
足取りはまだ重いが、心は不思議と軽かった。
赤い迷宮も、巨大なナタも、もう僕を縛り付けることはできない。

バンカーの地下に、三人の不器用な笑い声が静かに響いた。

不夜城のギャンブラー

パチン、と指を鳴らす乾燥した音が鼓膜を叩いた。
次の瞬間、俺の鼻腔を突いたのは、バンカーの埃っぽい空気じゃなく、安っぽい香水と、焦げたタバコ、そして強烈なカネの匂いだった。

「……ああ、クソッ。またかよ。ジェミニ、テメェいい加減にしろ!」

俺――ディーン・ウィンチェスターが目を開けると、そこは網膜を焼き切らんばかりのネオンが明滅する、巨大なカジノ都市だった。空は見えない。ただ、紫やオレンジの極彩色の光が、ガラス張りの高層ビル群を不気味に照らし出している。

「……ハァ、ハァ……。兄貴、無事か? ここは……ベガスじゃないな」

隣でサムが、眉間に深く皺を寄せながら周囲を警戒している。その隣には、トレンチコートを羽織ったまま、無表情で空を見上げているキャスがいた。

「……重力に僅かな歪みを感じる。そして、地脈を流れるエネルギーが……回転している。サム、ディーン。これはただの街ではない。巨大な『仕掛け』だ」

その時、頭上の巨大なモニターに、タキシード姿でシャンパングラスを持ったジェミニが映し出された。

ジェミニ「ウェルカム、ウィンチェスター・ブラザーズ! そして私の堅物な兄弟キャス! 今回のテーマは『オール・イン』だ。見ての通り、この街は最高級のスイートルームも、食べ放題のビュッフェも、全部君たちのものさ」
「だったら、さっさとチェックアウトさせろ。俺はハンバーガーとビール、それに自分のベッドがあれば十分なんだよ」
ジェミニ「そう焦るなよ、ディーン。ギャンブルのルールは簡単だ。この街全体が、実は巨大なルーレット盤になってる。数時間おきに、天空から銀の球が降ってくる。球が止まった街区は……『ハズレ』だ。街ごと闇に沈み、消滅する。生き残りたければ、常に『当たり』の区画へ走り続けること。100時間、勝ち続ければ君たちの生還だ」
「……そんなデタラメな……。どの区画が当たりかなんて、どうやって判断するんだ!」
ジェミニ「それは勝負師の勘ってやつだよ、サミー。さあ、第一投が始まるぜ。グッドラック!」

ジェミニの姿が消えると同時に、街全体がズズズ……と地響きを立てて動き始めた。
見上げれば、ビルの合間を縫うようにして、月ほどもあろうかという巨大な銀色の球が、轟音と共に落下してくるのが見えた。

「……おい、サミー、キャス! ボサっとしてる暇はねぇぞ! 勝負王のお通りだ。死にたくなきゃ、俺の勘に全賭けしやがれ!」

俺はインパラのキーを握り直し、隣に停まっていた最高級のオープンカーに飛び乗った。
100時間のサバイバル。ディーラーは神の悪戯、賭け金は俺たちの命だ。


開始から3時間が経過した。
俺の心臓は、V8エンジン顔負けの速さでビートを刻んでいた。

「右だ! サム、キャス、右のネオンが青い区画へ飛び込め!」
「兄貴、根拠は!? あっちの区画の方が地盤が安定しているように見える!」
「根拠なんてねぇよ! カジノの女神が俺の耳元でそう囁いたんだよ!」

俺はアクセルを床まで踏み込んだ。タイヤが悲鳴を上げ、アスファルトを焦がす匂いが鼻を突く。背後からは、想像を絶する轟音が迫っていた。

「ゴォォォォォォォォン!!」

巨大な銀の球が、俺たちが数秒前までいた高層ビルを一瞬で粉砕し、更地へと変えていく。その衝撃波で車が浮き上がりそうになるが、俺は必死にハンドルを抑え込んだ。
球が止まると同時に、その周囲の街区が音もなく闇に飲み込まれ、深い奈落へと消えていった。

「……ディーン。君の推測は正しかったようだ。あの区画は消失した」
「推測じゃねぇ、勘だ。……ハァ、ハァ……。いいか、二人とも。ギャンブルってのは確率論じゃねぇ。流れを読み、運を掴み、最後には度胸で決める。ジェミニはこの街をルーレットにした。なら、俺はこの街のクセを読み切ってやる」
「……兄貴、君のギャンブル好きには何度も肝を冷やしてきたけど……今回ばかりは、その『悪い癖』に期待するしかないみたいだね」

サムが青い顔をしながら、シートベルトを握りしめている。
一時の静寂。だが、俺たちの足元の地面は、再び不気味な震動を始めた。

「……休憩は終わりだ。次の球が来る。おい、キャス、空を見てろ。球がどの角度から降ってくるか、お前のその天使の眼で教えてくれ」
「了解した、ディーン。天空の気流が乱れている……北北西。あの巨大な金色のホテルの真上だ」
「よし。金色のホテルは『ハズレ』の匂いがプンプンしやがる。あそこから三つ隣の、あのボロい安宿が並んでる区画へ向かうぞ!」

俺は再び車を走らせた。
カジノ都市のネオンが、俺たちの焦燥を嘲笑うように輝いている。
俺はこれまで、ポーカーでカネを失い、ビリヤードで車を賭け、何度も身を滅ぼしかけてきた。だが、今この瞬間のアドレナリンは、それらとは比較にならないほど熱い。

「……見てろよ、ジェミニ。お前のイカサマ、俺が全部ひっくり返してやるぜ」

銀色の死神が、再び空から降り注ぐ。
俺はバックミラーに映る絶望を睨みつけ、アクセルをさらに強く踏み込んだ。

残り時間、90時間。
俺たちの命を賭けたチップは、まだテーブルの上に残っている。


どれくらいの時間が経った?
デジタル表示の時計は、この不夜城のネオンに紛れて正確な数字を教えてくれない。だが、俺の身体が悲鳴を上げている。ハンドルを握りしめる指は硬直し、アクセルを踏む右足は小刻みに震えていた。

「……ハァ、ハァ……。ったく、休憩なしの連チャンってのは、老体には堪えるぜ」

俺は、ホテルのバルコニーから、かつて街の一部だった「巨大な闇」を見下ろした。
数時間前まで煌びやかな噴水ショーを繰り広げていた第12街区は、今はもう存在しない。巨大な銀の球――死神のダイスがそこを通り過ぎ、すべてを奈落へと叩き落としたからだ。

「……兄貴。さっきから計算してるんだけど、球が落ちる間隔が短くなってる。ジェミニは、僕たちを追い詰めて楽しんでるんだ。……次は、30分後だ」

サムが、血走った目で古い地図と格闘している。あいつの「秀才の脳みそ」はこのカジノ都市の法則を解き明かそうと必死だが、ジェミニの悪戯に論理なんて通用しねぇ。

「ディーン。君の疲労は深刻だ。少し私が運転を代わろうか」
「いいや、キャス。お前の運転じゃ、女神様が逃げちまう。……ギャンブルの鉄則を教えてやるよ。ツキが回ってる奴から、絶対に座を譲っちゃいけねぇんだ」

俺は無理やり口角を上げ、不敵な笑みを作ってみせた。
実際、俺はこれまで一度も外していない。第六感が、次に「死ぬ」街区を正確に捉えている。だが、その確信が強まれば強まるほど、俺の肩には二人分の命という、とんでもなく重いチップがのしかかってくる。

「レディース・アンド・ジェントルメン! ショー・タイムだ!」

空全体からジェミニの声が降り注ぐ。
と同時に、地響きが始まった。天空のドームが開き、あの巨大な銀の球が、眩いスポットライトを浴びながら姿を現す。

「来たぞ! ディーン、次はどこだ!? 計算上は西の商業エリアが危ない!」

「いや、風の流れが南へ変わった。……ディーン、決断を」

俺は目を閉じ、耳を澄ませた。
カジノの喧騒、ビルの軋み、そして……心臓の音。
俺の中の「ギャンブラー」が、冷や汗と共に叫んでいる。

「……中央だ。あの巨大なエッフェル塔のレプリカがある、一番派手な広場へ突っ込むぞ!」
「……正気か!? あそこは一番狙われそうな場所だぞ!」
「いいから信じろ! ジェミニなら、裏の裏をかいてくるはずだ。あいつは俺たちの絶望が見たいんだ。だったら、一番『あり得ない』場所こそが、最高の安全地帯(セーフ・ゾーン)だ!」

俺はインパラのアクセルを床まで蹴飛ばした。
背後では、巨大な銀の球が商業エリアを木っ端微塵に粉砕していた。衝撃波が車体を浮かせ、フロントガラスにヒビが入る。

「……っ、死にやがれ!!」

サイドブレーキを引き、タイヤを滑らせながら広場の中央へと滑り込む。
目の前を、巨大な銀の壁のような球の側面が通り過ぎていく。轟音で鼓膜が破れそうだ。
球は、俺たちのわずか数メートル横を通り過ぎ、隣の高級マンション群を飲み込んで止まった。

静寂が訪れる。
俺たちは、生き残った。

「……ハァ、ハァ……。当たった。……兄貴、君は本当に……」
「……勝負師、という言葉では足りないな。君は運命とダンスを踊っているようだ」

俺はハンドルに額を押し当て、荒い息を整えた。
勝った。だが、勝利の味は砂のように苦い。
周囲を見渡せば、街の半分以上が既に消滅している。残された「当たり」の街区はどんどん狭まり、次の勝負の難易度は跳ね上がるだろう。

ジェミニ「ひゅー! 素晴らしい! ディーン君、君の勘には恐れ入るよ。でもさ、ギャンブルの醍醐味ってのは、負けた時にこそあると思わないかい?」

ホログラムのジェミニが、俺の隣のシートに現れた。
あいつはニヤニヤしながら、俺の肩に手を置く。

ジェミニ「次が100時間目の、最後の一投だ。……教えてあげようか? 次は、君の目の前にある二つの区画のどちらか一方が消える。確率は二分の一。……どうする? 愛するサミーとキャスを道連れにして、最後まで『勘』に全賭けするか?」

「……テメェ……」

ジェミニ「それとも、俺様と別の賭けをするかい? 君一人がここで降参すれば、二人は確実に元の世界へ戻してやる。……さあ、どうする? ウィンチェスター家のヒーローさんよ」

俺は、隣に座るサムと、後部座席で静かに俺を見守るキャスの顔を見た。
二人の瞳には、俺への絶大な信頼が宿っている。
それが、今の俺にはどんな呪いよりも重かった。

「……ディーン。僕たちは、君に従うよ」
「ああ。君が選ぶ道が、私たちの道だ」

俺は唇を噛み切り、ジェミニのニヤけた面を睨みつけた。
最後の一投。
俺の全人生を賭けた、最悪で最高のゲームが始まろうとしていた。

残り時間、一時間。
銀色の死神が、俺たちの真上で静かに獲物を定めている。


残り、15分。

極彩色のネオンが、断末魔の叫びみたいに激しく明滅している。
俺の目の前には、二つの道があった。
右は、眩いばかりの光に包まれた「ダイヤモンド・エリア」。左は、今にも崩れ落ちそうな「スラム・エリア」。

ジェミニが提示した確率は、二分の一。
だが、俺の心臓はさっきから、どっちの道も「ハズレ」だと警鐘を鳴らしてやがった。

ジェミニ「さあ、ディーン。タイムアップだ。俺様と取引するか、それとも愛する家族を連れて地獄へダイブするか……。決めるのは君だ」
「……ハァ、ハァ……。サミー、キャス。俺の勘を、最後まで信じるか?」

俺は震える手でハンドルの感触を確かめた。掌の汗が滑る。人生で一番高い賭け金だ。

「……信じるよ、ディーン。君が外したことなんて、一度もなかった」
「そうだ。君の『不条理な強運』に、私の存在を賭けよう。……迷うな、ディーン」

二人の声が、俺の脳内に渦巻くノイズをかき消した。
俺はバックミラーに映る、空から降り注ぐ巨大な銀の球――「銀色の死神」を睨みつけた。

「……ジェミニ。お前の言う『二分の一』なんて、端から信じてねぇんだよ」

俺はハンドルを大きく切り、右でも左でもない、中央の「奈落」へと車を急加速させた。

そこは、街区と街区の隙間。
ルーレット盤で言えば、数字すら書かれていない、回転盤の 「軸(心臓部)」 だった。

ジェミニ「……おい、ディーン! そこはコース外だぞ! 消滅する暗闇のど真ん中だ!」
「うるせぇ! カジノってのはな、客が勝つようにはできてねぇ。だが、一つだけ絶対に負けない奴がいる。……それは『ディーラー』だ!」

俺は、街の中央にそびえ立つ、ジェミニのホログラムを投影している管制塔の真下へとインパラを滑り込ませた。
ここが、この世界の唯一の「固定点」。
ルーレットがどんなに回ろうが、球がどこに落ちようが、盤の中心だけは動かない。

「ドォォォォォォォォン!!」

凄まじい衝撃。
巨大な銀の球が、左右の両エリアを同時に粉砕した。
ジェミニの言った「二分の一」は嘘だった。右を選んでも左を選んでも、俺たちは消滅していたはずだ。

だが、俺たちがいるこの一点だけは、嵐の目の中みたいに静止していた。

「……チェックメイトだ、ジェミニ」

光が溢れ出し、カジノ都市のネオンが一つずつ、静かに消えていく。

ジェミニ「……やれやれ。まさか、ルーレットの球じゃなく、盤の軸を狙うなんてね。ディーン・ウィンチェスター。君の『ズルさ』は、もはや芸術的だよ」

白い光の中で、ジェミニが苦笑しながら手を振った。
彼が指を鳴らす音が、遠くの街の喧騒みたいに聞こえた。

「……あばよ、イカサマ師。次会うときは、本物のポーカーを教えてやるよ」


「……ッ、ハァ、ハァ……!!」

俺は、椅子から転げ落ちるようにして床に手をついた。
鼻を突くのは、懐かしいバンカーの埃と、使い古された地図の匂い。

「……戻ったのか? おい、サミー、キャス!」
「……ああ。……無事だ。……生きてる、僕たち」

サムは隣で、酷い乗り物酔いをしたような顔で座り込んでいた。
キャスは、窓のない図書室の天井を見上げ、静かに呼吸を整えている。

「……ディーン。素晴らしい勝負だった。君は、運命に勝ったのだな」
「……ケッ、運命なんて大層なもんじゃねぇ。ただの『意地』だよ」

俺は、ガタガタと震える膝を必死に抑えながら立ち上がった。
テーブルの上には、いつの間にか一組のトランプと、小さなメモが置いてあった。

『ロイヤル・ストレート・フラッシュ。

 君の強運に免じて、今回のチップは返してやるよ。

 追伸:インパラのガソリン、満タンにしておいたからな。 ――G』

俺はそのメモを丸め、屑籠へと投げ入れた。

「……サミー。悪い、ビールを持ってきてくれ。……今夜は、一歩も動きたくねぇ」

サムは苦笑しながら、ゆっくりと冷蔵庫へと向かった。
俺は椅子に深く腰掛け、バンカーの静寂を噛み締めた。
100時間の狂騒、銀色の死神、極彩色のネオン。
すべては幻だったかもしれない。

だが、ハンドルを握りしめた俺の右手の震えと、この圧倒的な「生」の感触だけは、どんなカジノのジャックポットよりも、最高に本物だった。


0% ディーンの高所恐怖症二倍増しver

パチン、という乾いた指の音が脳内に響いた瞬間、俺の平穏は音を立てて崩壊した。
数秒前まで俺は、バンカーの自室でインパラの整備マニュアルを読み耽っていたはずだ。だが、次に目を開けたとき、俺の視界を占めていたのは、どこまでも続く残酷なまでの青空と、暴力的な太陽の光だった。

「……っ、熱つ……!!」

焼けるような熱さに背中を跳ね上げ、俺は悲鳴を上げそうになった。
俺が寝かされていたのは、砂漠のど真ん中にそびえ立つ、巨大な通信塔の頂上にある狭い鉄板の上だった。
広さは畳一枚分もあればいい方だ。周囲には手すりも、壁もない。あるのは、足元から地平線まで広がる、絶望的なまでの「高さ」だけだった。

「……ああ、嘘だろ。嘘だと言ってくれ」

俺の心臓は、インパラのV8エンジンよりも激しくビートを刻み始めた。
俺は、高所恐怖症だ。飛行機だって酒なしじゃ乗れねぇ。それなのに、この高さは何だ?
雲が、俺の足元を悠々と流れていく。風が吹くたびに、この巨大な鉄の槍は不気味な軋み音を立てて左右に揺れる。

「ジェミニ……!! 出てきやがれ、このクソ野郎!!」

俺の絶叫は、吹き荒れる強風にかき消された。
すると、空中にホログラムが浮かび上がる。アロハシャツを着て、アイスキャンディを舐め回しているジェミニだ。

ジェミニ「よお、ディーン。絶景だろ? 今回は特別に、君の『一番の弱点』を克服するセラピーを用意した。題して、『ディーン・ウィンチェスターのスカイ・サバイバル』だ!」
「セラピーだと!? テメェ、俺を殺す気か!」
ジェミニ「まさか。出口はちゃんと用意してある。君のポケットにあるスマホを見てごらん」

俺は震える手でポケットを探り、スマホを取り出した。画面をタップするが、反応はない。

ジェミニ「電池は0%。助けを呼ぶこともできない。でも、その塔の最上部、あと二十メートルほど上に、特設の電源ラインがある。そこに充電器を繋いで、サミーに電話をかけられたら、君の勝ちだ」

俺は上を見上げた。塔の頂点には、さらに細いアンテナの骨組みが天に向かって伸びている。そこへ行くための梯子は、途中で無残にひしゃげ、使い物にならなくなっていた。

ジェミニ「梯子は壊れてる。君の自慢の腕力と根性で、その骨組みを登るしかないね。あ、言い忘れてたけど、君の恐怖心、通常の五倍に増幅しておいたから。……それじゃ、グッドラック!」

ジェミニの姿が消える。
俺は、震えが止まらない指で、鉄板の縁を必死に掴んだ。
下を見てはいけない。そう思えば思うほど、俺の視線は吸い込まれるように、遥か数千フィート下のアスファルトのような大地へと向かってしまう。

「……ハァ、ハァ……。サミー、助けてくれ……」

俺の喉は、砂を噛んだようにカラカラだった。


灼熱。
通信塔を構成する鉄骨は、太陽の熱を吸収し、今やフライパンのように熱せられている。
俺の手元に残されたのは、半分ほど水の入ったペットボトル一本だけだ。これを飲み干せば、俺の命はあと数時間で干渉し、干からびたミイラになるだろう。

「……やるしかねぇ。ここで待ってても、サミーもキャスも来やしねぇ」

俺は腰からベルトを外し、命綱代わりに鉄骨へ巻き付けた。気休めだと分かっているが、何かに繋がっていないと、意識が遠のきそうだった。
俺は鉄板から、最初の鉄骨へと足をかけた。

「……ひ、っ……」

足元が、揺れた。
五倍に増幅された恐怖は、俺の三半規管をズタズタに引き裂く。平衡感覚が狂い、地面が俺を強烈な重力で引き寄せているような錯覚に陥る。
冷や汗が、目に入って痛い。

「落ち着け、ディーン。……これは、ただのジャングルジムだ。インパラのエンジンの上に乗ってるのと変わらねぇ……」

嘘だ。全然違う。
一歩。たった30センチ登るだけで、全身の筋肉が拒絶反応を起こして痙攣する。
風が吹く。
突風が俺の背中を押し、塔が「ギィィィ」と悲鳴を上げる。

「……っ、あああああ!!」

俺は鉄骨にしがみつき、目を固く閉じた。
頭の中に、サミーの顔が浮かぶ。
あいつは今頃、消えた俺を探して必死に古い文献を漁っているだろうか。それとも、キャスと一緒にインパラを走らせているだろうか。

『ディーン、諦めるな。君はいつだって、不可能を可能にしてきただろ』

耳元で、サミーの声が聞こえた気がした。幻聴だ。熱に浮かされた俺の脳が見せる、都合の良い幻想。だが、その声だけが、俺をこの高さに繋ぎ止める唯一の希望だった。

俺は再び目を開け、上を見た。
電源ラインまで、あと15メートル。
錆びた鉄の感触が、手の平を赤く染める。

「……サミー。待ってろ。すぐにお前に、愚痴の一つでもぶちまけてやるからな」

俺は再び、震える指先を次の鉄骨へと伸ばした。
喉の渇きは、既に限界を超えていた。だが、俺はまだ水を飲まない。
この地獄の頂点に辿り着いた時、最後の一口で自分を祝ってやるんだ。

地上数千フィート。俺のサバイバルは、まだ一歩目を踏み出したばかりだった。


どれくらいの時間が経ったのか、もう分からない。
照りつける太陽は、俺の頭蓋骨を直接熱して中身をドロドロに溶かそうとしているみたいだ。
指先の感覚はとっくに消えて、今はただ、熱された鉄骨の熱さが皮膚を焼く痛みだけが、俺がまだこのクソ高い場所で生きていることを教えてくれる。

「……ハァ、ハァ……。クソっ、この……野郎……」

喉の奥が張り付いて、声がまともに出ない。
鉄骨にしがみついたまま、俺は震える手で腰にぶら下げたペットボトルを手に取った。
残りは、あと三口。
たった三口のぬるい水が、今の俺にとってはインパラのガソリンよりも、いや、キャスの恩寵よりも価値のあるもんだ。

俺は唇を湿らす程度に一口だけ含み、大事に喉へ流し込んだ。
生き返る……なんてことはねぇ。ただ、死ぬのを数分だけ先延ばしにした気分だ。

上を見れば、ゴールである電源ラインが、陽炎の中でゆらゆらと揺れている。
あと、10メートル。
地上なら、3秒で駆け抜けられる距離だ。
だが、ここではその一歩一歩が、地獄の最下層から這い上がるような絶望を伴う。

「……見ろよ、サミー。お前の兄貴が、こんなところでセミみたいに震えてやがるぜ」

自嘲気味に呟いた言葉が、突風にさらわれて消える。
風が吹くたび、この巨大な針は「ギギギ……」と身悶えするように揺れる。
その度に、俺の心臓は口から飛び出しそうになる。
五倍に増幅された恐怖は、俺の脳に「今すぐ手を離せば、この苦しみから解放されるぞ」と甘く囁き続けていた。

登り始めてから数時間が経過した頃、俺は最大の難所にぶち当たった。
目の前の鉄骨が、落雷か何かで無残にねじ切れ、一メートルほどの空白地帯ができていた。

「……冗談だろ」

そこを突破するには、命綱なしで、反対側の細い支柱へ飛び移るしかない。
下を見れば、そこにはただの「虚無」が広がっている。
砂漠の地平線が、俺を嘲笑うように不気味に歪んで見えた。
高所恐怖症ってのは、単に「高いところが怖い」ってだけじゃない。
足元の安定が失われた瞬間、世界そのものが牙を剥いて襲いかかってくるような、そんな圧倒的な孤独感だ。

「……ハァ、ハァ……。落ち着け、ディーン。お前はウィンチェスターだ。……こんな鉄クズに負けてたまるか」

俺は目をつむり、サミーの顔を思い浮かべた。
あいつの、あの小癪な、でもどこか安心させる「兄貴、大丈夫?」っていうあの声。
俺がいなくなったら、あいつはまた一人で無茶をするだろう。
野菜ばっかり食って、変な呪文を唱えて、髪も切らずにボロボロになって……。

「……あいつを、一人にするわけにはいかねぇんだよ」

俺は、切れた鉄骨を強く蹴った。
重力が俺の身体を地面へと引き込もうとする。
空中で、一瞬だけ、俺は完全に「自由」になった。
指先が、反対側の支柱に触れる。

「ガギィッ!」

火花が散るような音がして、俺の右手が支柱を掴んだ。
だが、衝撃で左手が滑る。
俺の身体が、宙に投げ出された。

「……がっ、あああああ!!」

必死に右腕一本で全体重を支える。
肩の関節が外れそうな激痛が走る。
足が宙を掻き、空虚な空間を蹴る。
下は、何もない。
ただ、死という名の深い闇が待っているだけだ。

「……っ、ぬ、ううううううう!!」

俺は、折れかけた精神を「怒り」で繋ぎ止めた。
ふざけるな。
こんな、ジェミニのくだらねぇ悪戯で終わってたまるか。
俺はまだ、サミーに言わなきゃいけねぇことが山ほどあるんだ。

俺は左手を伸ばし、力任せに支柱を掴み取った。
そのまま身体を引き上げ、再び鉄の檻にしがみつく。
心臓が、耳元で太鼓みたいに鳴り響いている。

さらに数十分。
俺の手は、もはや自分のものじゃないみたいに感覚を失っていた。
だが、ついに。
俺の目の前に、あの銀色の電源ラインが現れた。

「……ハァ……ハァ……。見つけた……」

俺は震える手で、ポケットからスマホと充電器を取り出した。
電池は0%。画面は真っ黒だ。
俺は鉄骨に自分の足を固定し、不安定な体勢のまま、慎重にコネクタを電源ラインのポートへ差し込んだ。

頼む。
動いてくれ。
これが繋がらなきゃ、俺はただの「高いところに登ったバカ」で終わっちまう。

数秒の静寂。
そして――。

「ピッ」

という小さな、でもこの世で一番美しい音がして、画面にリンゴの……いや、充電中のマークが灯った。

「……っ、よっしゃあ!!」

俺は叫んだ。
高所恐怖症なんて、一瞬だけ忘れていた。
だが、本当の勝負はここからだ。
ジェミニのルールは、「サミーに電話をかけること」。

画面に1%の表示が出るのを待つ間、俺は最後の一口の水を飲み干した。
ぬるくて、錆の味がする水。
でも、それは俺の人生で最高の美酒だった。

俺は、電話帳を開いた。
一番上に登録されている、あの名前。

「……出ろよ、サミー。頼むから、すぐに出やがれ」

コール音が鳴り始める。
風はさらに強まり、俺の身体をこの塔から引き剥がそうと荒れ狂っていた。
俺は鉄骨を、恋人を抱きしめるよりも強く、死に物狂いで握りしめた。


「ピッ」という、あの頼りない電子音が、荒れ狂う風の中で確かに俺の鼓膜を震わせた。

スマホの画面に、ぼんやりとリンゴのマークが浮かび上がる。
電池残量は、依然として0%。だが、電源ラインからの細い血脈が、死にかけたこの機械に最後の「命」を吹き込もうとしている。

「……ハァ、ハァ……。頼む、動け。サミーに……あいつに繋がなきゃ、俺は……」

鉄骨を掴む右手の握力は、もう限界を超えていた。指先の皮膚は熱と摩擦でズタズタになり、自分の血で支柱が滑る。五倍に増幅された恐怖は、俺の三半規管をかき混ぜ続け、視界に入る雲の動き一つで、胃袋が口から飛び出しそうな嘔吐感に襲われる。

「ゴォォォォォォォォ!!」

突風が俺の身体を真横から叩きつける。
足場にしていた細い鉄の棒が、ミシミシと嫌な音を立てて撓(しな)った。

「……ひ、っ……!!」

俺はスマホを口に咥え、両手で必死に支柱にしがみついた。
下を見るな。下には何もない。あるのは死と、ジェミニの嘲笑だけだ。
俺が見るべきなのは、この薄汚れた画面の向こう側にいる、たった一人の弟の存在だけなんだ。

画面の数字が、ついに「1%」に変わった。

俺は震える指で、ロックを解除した。
指紋認証は、血と泥で反応しない。俺はパスコードを何度も打ち間違え、呪詛を吐きながら、ようやく連絡先の最上段にある「Sam」の文字をタップした。

頼む。
出ろ。
出やがれ、サミー。

プルルル……プルルル……。

コール音が、永遠のように長く感じられた。
空からの照りつける熱光線が、俺の意識を朦朧とさせる。
3回、4回……。
もし、この電話の向こうがジェミニの作った偽物の音声だったら?
もし、あいつが俺のことなんて忘れて、どこかでサラダでも食ってたら?
そんな疑念が頭をよぎった瞬間、スピーカーから聞き慣れた、少し焦ったような声が響いた。

『……ディーン!? ディーンなのか!? どこにいるんだ、今すぐ場所を教えてくれ! キャスとずっと探してるんだ!!』
「……サ、サミー……」

声を出そうとしたが、渇ききった喉は、カサカサとした枯れ葉の擦れるような音しか出せなかった。
俺は必死に唾液を絞り出し、肺に残った最後の空気を絞り出した。

「……サミー。……上だ。……めちゃくちゃ高い、塔のてっぺんにいる……。……怖いんだよ、サミー。……足が、震えて……っ……」

俺の口から出たのは、ハンターの英雄らしからぬ、ただの「高所恐怖症の男」の情けない泣き言だった。
だが、サムの声は、それを笑うどころか、より一層強く俺を鼓舞した。

『……大丈夫だ、ディーン! 落ち着いて聞いて。君のスマホのGPSを今キャスが追跡してる。ジェミニの魔力に干渉して、座標を特定したんだ! あと少し、あと少しだけ持ちこたえてくれ。君ならできる!』
「……っ、ああ……。分かってる……。……でもな、サミー。……俺、もう指が動かねぇんだ……」

その時だった。
俺がしがみついていた支柱の根元が、強風と経年劣化に耐えきれず、鈍い金属音と共に砕け散った。

「……!? あああああああああああ!!」

スマホが手から滑り落ち、空中へ放り出される。
俺の身体も、固定を失って仰向けに、空へと投げ出された。

落ちる。
背中を重力が掴み、視界が真っ逆さまに回転する。
数千フィート下の砂漠が、大きな口を開けて俺を飲み込もうと迫ってくる。
五倍の恐怖が、俺の意識を真っ白に塗りつぶした。

だが、その落下の最中。
スマホのスピーカーから、サムの絶叫が聞こえた。

『ディーン!! 目を閉じるな!! 離さないからな!!』

その声と同時に、俺の背中に、温かくて力強い「何か」が触れた。
落下速度が急激に殺され、俺の身体は空中で静止した。

「……間に合った。ディーン、私をしっかり掴め」

俺が薄目を開けると、そこには煤けたトレンチコートをなびかせたキャスが、俺の襟首を掴んで空中に浮いていた。
その顔は、いつになく真剣で、そしてどこか怒っているようにも見えた。

「……キャス……? お前……遅いんだよ、クソ野郎……」
「すまない。ジェミニの仕掛けた空間の壁を破るのに、少し時間がかかった。……サムが君に繋いでくれたおかげで、道標が見えたんだ」

空中に、再びジェミニのホログラムが現れた。
あいつはアイスキャンディの棒を放り投げ、感心したように拍手を送ってきた。

ジェミニ「ブラボー! まさか、あの電池切れ寸前のスマホに全てを賭けるとはね。ディーン、君の『弟への執着心』は、重力さえも書き換えるのかい? ……まあ、約束だ。サバイバル成功、おめでとう!」

パチン、と指を鳴らす音がした。


「……ッ、ハァ、ハァ……!!」

俺は、冷たい床に顔を押し当てたまま、激しく呼吸を繰り返した。
鼻を突くのは、懐かしいバンカーの埃と、古い本、そしてコーヒーの匂い。

「……戻った、のか? ……地面だ。動かない、冷たい、最高の地面だ……」

俺は床を這い、コンクリートの感触を全身で確かめた。
指先はまだ震えていて、掌には鉄骨の錆が赤くこびりついている。

「ディーン! 良かった、本当に……」

サムが駆け寄り、俺の肩を抱きかかえて椅子に座らせた。
俺はサミーの顔を見るなり、あいつのネルシャツを思い切り掴んだ。
本物のサミーだ。
デカくて、髪が長くて、心配そうに眉を下げた、俺の弟だ。

「……サミー。……お前、次から電話は3コール以内に出ろよ。……一秒でも遅れたら、俺は心臓が止まってたところだぜ」
「……善処するよ、兄貴。でも、あんなに正直に『怖い』なんて言うディーンは初めてだったから、こっちも寿命が縮まったよ」

サムは苦笑しながら、俺に冷たい水を差し出した。
俺はそれを一気に飲み干した。
砂漠で飲んだ、あの錆びた味のぬるい水じゃない。
バンカーの、何の変哲もない、最高の水だ。

カスティエルは図書室の隅で、静かに自分の服を整えていた。

「ディーン。君の高所恐怖症は、少しは改善されたか?」
「……ふざけんな。改善どころか、これからは二段ベッドの上段に上がるのもお断りだ。……しばらくは、地面から一インチ以上離れるようなことはしないからな」

俺は椅子に深く身を預け、震える手でビールを掴んだ。
100時間の空中サバイバル。
ジェミニの悪ふざけのおかげで、俺の寿命は確実に十年は縮まっただろう。

だが、あの絶望的な高さの中で、スマホの画面に「1%」が灯った瞬間の、あの圧倒的な「生」の感覚。
そして、電話の向こうから聞こえてきた弟の声。
それは、どんな極上の酒よりも、俺をハンターへと引き戻してくれる特効薬だった。

テーブルの上には、いつの間にか小さなキャンディの包み紙が置いてあった。
そこには、殴り書きでこう記されていた。

『空の旅はお楽しみいただけたかな?

 次はもっと「地面」に近い、アリの巣の中なんてどうだい?

 追伸:高所恐怖症、治ってないといいけどね。 ――G』

俺は無言でそのメモを破り捨て、ゴミ箱へと投げ入れた。

「……サミー。今夜はステーキだ。……それも、なるべく『低い』場所にある店でな」

サムは笑いながら頷いた。
バンカーの地下。窓のないこの閉鎖空間こそが、俺にとってはどんな絶景よりも美しい、最高の世界だった。

天界ディストピア

バンカーの図書室に漂う、古書と冷めたコーヒーの匂い。サムがページを捲る微かな音と、ディーンが不機嫌そうに地図を睨む気配。カスティエルはただ、窓のない壁を背に、彫像のように静止していた。
その平穏を切り裂いたのは、あまりにも聞き慣れた、そして忌々しい指の音だった。

パチン。

「……ああ、クソッ、またかよ!」

ディーン・ウィンチェスターが叫んだ瞬間、世界は極彩色の閃光に飲み込まれ、次の瞬間には、肺を刺すような冷たく乾燥した空気へと変貌していた。
視界が開けたとき、三人が立っていたのは、目も眩むほど整然とした白い街路だった。建物はすべて鋭角な硝子と鋼鉄で構成され、塵一つ落ちていないアスファルトが鏡のように空を映している。

「…みんな、無事か? ここは……」

サムが立ち上がり、周囲を見渡して息を呑んだ。
空には太陽ではなく、巨大な幾何学模様の光輪が浮かび、そこから「管理」の視線が降り注いでいる。街の至る所にあるスピーカーからは、感情を排した美しい賛美歌が、ノイズ一つなく流れ続けていた。

「……天界の波動を感じる。だが、これは私の知る天界ではない。……より残酷で、効率的な……」

カスティエルが言いかけたその時、空中に巨大なホログラムが浮かび上がった。
そこに映し出されたのは、最高級のスーツを纏い、キャンディを弄ぶジェミニの姿だった。

ジェミニ「ようこそ諸君! 今回のテーマは『ディストピア・サバイバル』だ。見てくれよ、この完璧な秩序を。ここでは、かつて俺様の兄弟たちが望んだ『最高の平和』が実現されているのさ」

「ジェミニ! テメェ、何のつもりだ。さっさと元の場所に帰しやがれ!」

ジェミニ「そう焦るなよ、ディーン。今回は特別ルールだ。この街を統治しているのは、慈悲を忘れた天使たちの『管理局』。そして残念ながら、お前ら人間は……ここでは『生物資源』として分類されている」

「資源……? どういう意味だ」

ジェミニ「言葉通りの意味だよ、サミー。管理に値しない非効率な個体は、例外なく資源化工場へと送られ、天界を維持するエネルギー……つまり『ソイレント・エナジー』に変換される。……あ、キャス。君は天使だから自由だよ。同胞の側に付くか、それともその『管理資材』たちと一緒にスクラップになるか……。君の自由意志ってやつを見せてくれよ。じゃ、グッドラック!」

ホログラムが消えると同時に、街の端から「カツン、カツン」と、軍靴のような冷酷な足音が響いてきた。


街の空気は、恐怖さえも凍りつかせるほどに無機質だった。
サムとディーンは、カスティエルの先導で路地裏へと滑り込んだ。だが、この街には「汚れ」が存在しない。隠れるためのゴミ箱も、放置された車両も、影を作る積み荷もない。すべてが清掃され、管理され、計算し尽くされている。

「……ハァ、ハァ……。冗談じゃねぇ。隠れる場所が一つもねぇぞ。サミー、あの建物はどうだ?」
「ダメだ、ディーン。あの硝子のドアを見て。生体認証システムが組み込まれてる。……僕たちは『未登録の資材』だ。近づいただけで警報が鳴る」

サムの観察通り、街の至る所にある監視カメラ……「天使の眼」が、常に街区をスキャンしていた。
カスティエルは二人を背に隠し、神経を研ぎ澄ませた。

「……来る。伏せていろ」

角の向こうから現れたのは、白い法衣のような戦闘服に身を包んだ三人の天使だった。彼らは現実世界の天使よりも一回り大きく、その背中には金属的な光沢を放つ六枚の翼が、機械的な精度で折り畳まれている。

天使A「第42街区、スキャン完了。未登録個体反応あり。カテゴリーC(資源用資材)と断定。確保し、工場へ搬送せよ」

その声には、憎しみも悦びもなかった。ただ、古くなった電球を交換するかのような、事務的な響きしかなかった。

「……資材だと? ふざけやがって。俺はウィンチェスターだ、お前らの燃料になるために生きてるんじゃねぇ!」

ディーンが天使の刃を抜き、飛び出そうとしたが、カスティエルがその腕を制した。

「待て、ディーン。今の君たちの力では、彼らには勝てない。この世界の天使は、ジェミニの意志によって強化されている。……私が対処する。君たちはその隙に、あの換気ダクトへ向かえ」

カスティエルは静かに歩み出た。天使たちの冷徹な視線が彼に注がれる。

天使B「同胞カスティエル。貴公の行動ログに異常あり。なぜその『資材』を庇護する。それは非効率な行為だ。速やかに引渡し、再教育(リセット)を受けよ」
「……私にとって、彼らは資材ではない。友であり、家族だ。その概念が理解できないなら、貴公らはただの動く機械に過ぎない」

カスティエルの瞳が青白く発光する。対する天使たちは、一斉に光り輝く槍を展開した。
戦いは一瞬だった。カスティエルの放った衝撃波が路地を揺らし、硝子の壁に亀裂が走る。その隙に、サムとディーンは換気ダクトの中へと滑り込んだ。

狭いダクトの中を這いながら、サムは壁越しに聞こえる音に耳を澄ませていた。
「ドォン」という重苦しい音と共に、街の地下から振動が伝わってくる。

「ディーン……聞こえるか。この振動。……工場のボイラーの音だ。……さっき見たモニターのデータによると、一時間ごとに数千人の人間が、あそこで『加工』されてる」
「……胸糞悪いな。ジェミニの野郎、最悪な世界を作りやがった。……キャス、お前は本当に大丈夫なのか?」

ダクトの出口で待ち受けていたカスティエルは、法衣の一部を血で汚していた。彼の手には、先ほどの天使から奪い取ったデバイスが握られていた。

「……私は大丈夫だ。だが、街の全域に『資材確保』の特命が下った。……私への同胞としての敬意は、もう失われたようだ。今や私は、管理システムにおける『エラー』として認識されている」

カスティエルが見せたデバイスの画面には、街の地図が赤く染まっていく様子が映し出されていた。
隠れる場所は、もうほとんど残されていない。
そして、街の遥か彼方、巨大な煙突から立ち上る灰色の煙が、ゆっくりと空を覆い始めていた。

「……あれが資源化工場か。……あそこに行けば、ジェミニの言う『核』があるのかもしれない」
「ああ。逃げ隠れするのは俺たちの柄じゃねぇ。……カスティエル、お前はどうする。天使としての特権を捨てて、俺たちと一緒に地獄へ突っ込む覚悟はできてるか?」

カスティエルは、ディーンの目をじっと見つめ返し、僅かに口角を上げた。

「……私は、最初から地獄に落ちている。君たちの隣という、最も騒々しく、最も愛おしい地獄にな」

三人は、無機質な硝子の街を駆け出した。
背後からは、翼の羽ばたきを模した、機械的な駆動音が迫っていた。


資源化工場――『ソイレント・エナジー・プラント』。
街の外縁部にそびえ立つその巨大な建築物は、まるで地表に突き刺さった巨大な墓標のようだった。上空を覆い尽くす下級天使たちの羽ばたきは、もはや神聖な旋律ではなく、数千台のドローンが発するような不快な高周波の唸りとなって街に降り注いでいる。

「……ハァ、ハァ……。見て、ディーン。あの搬送ベルトを」

工場の地下搬送口へと続くスロープ。そこには、表情を失い、家畜のように数珠つなぎにされた何百人もの人間たちが、機械的な足取りで進んでいた。彼らの瞳には、恐怖さえも残っていない。管理局の天使たちによって、既に『精神の去勢』が行われているのだ。

「……胸クソ悪ぃどころの話じゃねぇな。あいつら、人間をただの乾電池か何かだと思ってやがる。キャス、あそこを突破できるか?」

ディーンは錆びたパイプの影に身を潜め、入口を固める重武装の天使たちを睨みつけた。彼らはこの世界の法であり、秩序そのものだ。

「……正面突破は自殺行為だ。だが、私の認証コードはまだ完全には抹消されていない。私が『没収した資材』を搬送するという名目で、君たちを内部へ連れて行く。……ただし、中に入ればもう後戻りはできないぞ」

カスティエルの表情は、これまでになく険しかった。彼にとって、この世界の天使たちは自分と同じ顔をし、同じ言語を話す。だが、その魂は極限まで効率化され、慈悲をノイズとして切り捨てた『完成形』なのだ。

工場内部は、外部の静寂とは打って変わって、巨大なタービンが咆哮を上げ、高圧の電気が奔る地獄のような喧騒に包まれていた。
カスティエルは冷徹な「管理官」を演じ、サムとディーンの首に偽の制御首輪を装着して、中央処理棟へと足を進めた。

天使C「管理官カスティエル。そのカテゴリーC個体は、未登録の浮浪個体か。なぜ即座に現場で処理しなかった」

通路の途中で、巡回中の監視天使が足を止めた。その冷たい視線が、サムとディーンの全身をスキャンするように走る。

「……この個体群は、管理局に反抗する地下組織の情報を保持している可能性がある。抽出室にて、記憶の全摘出を行う予定だ」

カスティエルの声は、一分の隙もなく無機質だった。
監視天使は数秒間、電子的な処理を行うように沈黙した後、「許可する。効率的に行え」と短く告げて去っていった。

「(小声で)……おい、今の演技、100点満点だぜ、キャス。いつかアカデミー賞でも狙えるんじゃないか」
「……冗談はやめてくれ、ディーン。心臓が人間のそれと同じくらい激しく鼓動している。……行くぞ、ここが『濾過室』だ」

重厚な防音扉が開いた瞬間、サムは絶句した。
そこには、巨大な硝子の筒が果てしなく並び、その中には液体に満たされた人間たちが浮かんでいた。彼らから吸い上げられた「魂の光」が、天井の導管を通じて中央の巨大な蓄電池へと集約されていく。

「……そんな。魂を……直接電力に変換しているのか。これじゃ、死ぬことさえ許されない。彼らは永遠に、このシステムの一部として消費され続けるんだ」

サムは、硝子の筒に触れた。中の男と目が合ったが、その瞳には光がなかった。ただ、生命活動を維持するための最小限の電気信号だけが流れている。

ジェミニ「(放送で)やあ、見学ツアーは楽しんでいるかな? 壮観だろ、サミー。これが君たちの愛する人類が辿り着いた『究極の再利用』だよ」

天井のスピーカーから、ジェミニの嘲笑が降ってくる。

ジェミニ「戦争もなく、飢えもない。一部の『資材』が犠牲になるだけで、他の選ばれた市民は永遠の平穏を享受できる。これこそ、天使たちが夢見たユートピアだと思わないか? ……さあ、キャス。君の仕事の時間だ。その二人の『資材』をシステムに投入するか、それともこの工場ごと爆発させて、街の平和を終わらせるか……。選ぶのは君だ」

その瞬間、工場の警報が鳴り響いた。
カスティエルの認証が、ついに「反逆者(エラー)」として全システムに通知されたのだ。

「……へっ、バレるのがちょっと早かったな。サミー、準備はいいか。このクソッタレな発電所を、石器時代に戻してやろうぜ!」
「……ああ。このシステムの核――メイン・リアクターを破壊すれば、街全体の管理網が崩壊するはずだ。ジェミニの悪戯を終わらせるには、それしかない」
「……私が先頭に立つ。君たちは私の影に隠れて、リアクターを目指せ。……もう、同胞としての手加減はしない」

カスティエルが天使の刃を抜くと、その背後から純白の翼が、怒りに震えるように力強く広がった。
工場の奥深く、青白い魂の光が渦巻くリアクターを目指して、三人の決死の突入が始まった。

背後からは、数千の翼の羽ばたきと、冷徹な追跡者たちの声が迫っていた。

「エラーを排除せよ。資源を確保せよ。」

残り時間、5時間。
灰色の煙の向こう側に、本当の夜明けは来るのか。


メイン・リアクターの深部は、眩いばかりの青白い光に満ちていた。
それは、数万人の人間の「魂」が強制的に濾過され、高密度に圧縮されたエネルギーの奔流だ。中央に鎮座する巨大な硝子の円柱の中では、雷鳴のような放電が絶え間なく繰り返され、その余波が僕たちの皮膚をピリピリと焼く。

「……この中心核(コア)を叩けば、システムは連鎖的に崩壊する。でも……同時に、今ここに接続されている何千もの魂が、虚無に消えてしまうかもしれない」

僕――サムは、モニターに映し出される非情なデータに目を見開いた。ジェミニが用意したこの「究極の効率化」は、破壊することさえも犠牲を強いるように設計されていた。

「……へっ、あいつらしい性格の悪いトラップだな。だが、このまま『電池』として消費され続けるのが、あいつらにとっての幸せだってのか? 俺はそうは思わねぇ」

ディーンがショットガンに岩塩弾を装填し、リアクターを守る守護天使たちの群れを睨みつける。
背後からは、翼の駆動音を響かせた追跡者たちが、無機質な包囲網を狭めてきていた。

「……私が、魂の流出を食い止める。サム、君はリアクターの緊急停止プロトコルを上書きしろ。ディーン、私とサムの背中を守ってくれ」

カスティエルが前へ出た。彼の背後で、純白の翼が限界を超えて発光する。この世界の「完璧な天使」たちを相手に、彼は自らの本質を削りながら戦っていた。

「パチン」

不意に、すべての音が消えた。
激しい放電も、天使たちの羽ばたきも、ディーンの荒い呼吸さえも。
静止した世界の中、リアクターの天辺に、一人の男が腰掛けていた。

ジェミニ「……いやはや。本当に、救いようのないバカたちだねぇ。キャス、君のその『欠陥品』への執着には恐れ入るよ」

ジェミニは、手にした板チョコを噛み砕きながら、軽蔑と憐れみが混ざった視線をカスティエルに向けた。

ジェミニ「見てみなよ。この世界では誰も飢えず、誰も争わない。天界は満たされ、地上の『資材』たちは、痛みを感じる間もなくエネルギーとして社会に貢献する。……これこそが、君たちがずっと追い求めてきた『平和』の完成形だと思わないかい?」
「……ジェミニ。魂を燃料にする平和など、ただの死だ。君が作ったこの世界には、意志がない。苦しみがない代わりに、喜びも、赦しも、愛もない」
ジェミニ「愛? そんな非効率な感情が、何を生むっていうんだ。……まあいい。取引をしよう、キャス。君が今ここでその二人を差し出すなら、この世界の『管理者』として君を迎え入れよう。君の失った力も、尊厳も、すべて返してやる」

カスティエルは、静かに僕とディーンを振り返った。
その瞳には、ジェミニの誘惑に対する迷いなど、塵ほども存在しなかった。

「……私は、最初から持っている。管理者という座よりも、力よりも、遥かに尊いものを。……ジェミニ。君は自由を謳歌しているようでいて、実はこの『完璧さ』という檻に、誰よりも閉じ込められているのではないか?」

ジェミニの表情から、笑みが消えた。

ジェミニ「……フン。相変わらず、可愛げのない弟だ。……好きにしなよ。ただし、システムを壊せば、君たちは二度と『現実』という名の地獄へ戻れないかもしれないぜ?」

ジェミニが指を鳴らすと、世界が再び動き出した。
カスティエルは咆哮と共に、自らの恩寵をリアクターの核へと流し込んだ。

「サム! 今だ!」
「……っ、いけぇぇぇ!!」

僕はコンソールを叩き、魂の濾過プロセスを逆転させた。
青白い光が、爆発的な輝きと共に飛散する。
システムに囚われていた魂たちが、拘束を解かれ、天へと昇っていく。
硝子の街が、鋼鉄の工場が、無機質な秩序が、自分たちの「重み」に耐えかねて崩壊を始めた。


「……ッ、ハァ、ハァ……!!」

僕が目を開けると、そこはバンカーの図書室の冷たい床の上だった。
鼻を突くのは、懐かしい埃の匂いと、冷めたコーヒー。

「……戻った、のか? ……ああ、クソ、身体中が痛ぇ。……キャス! お前、生きてるか!」

ディーンが床を叩きながら起き上がり、隣に倒れていたカスティエルの肩を掴んだ。
カスティエルは、トレンチコートを泥と煤で汚しながらも、ゆっくりと目を開けた。

「……ああ。……資材には、ならずに済んだようだ」

カスティエルの瞳からは、あの不自然な輝きは消えていた。
だが、そこにはジェミニの作った完璧な天使たちには決して持ち得ない、静かで温かな「意志」が宿っていた。

テーブルの上には、いつの間にか一箱の「ソイレント・グリーン」と銘打たれたクラッカーと、一枚のメモが置いてあった。

『リサイクルはお早めに。

 不完全な世界へ、おかえり。

 追伸:キャス、君のその「エラー」っぷり、嫌いじゃないぜ。 ――G』

ディーンはそのメモを無言で丸め、ゴミ箱へ投げ捨てた。

「……二度と御免だ。……おい、サミー、キャス。こんな冷めたコーヒーじゃなくて、もっと人間らしい、不健康で旨いもんを食いに行くぞ」
「……ああ。賛成だよ、ディーン」

窓のないバンカー。
しかし、そこにはどんな硝子の街よりも鮮やかな、僕たちの「日常」という名のサバイバルが続いていた。
三人の足音が、静かな廊下に重なり合って響いていく。