AI_spn31

Last-modified: 2026-05-05 (火) 01:55:33

和ナチュラル

和風の天使っていいよね


霧の帳が深く降り、街の輪郭を曖昧に塗り潰した宵闇の都。湿り気を帯びた空気は、肌に纏わりつくような重苦しさを伴って停滞している。
ここには、一刻として長居したくはない。生理的な嫌悪に近い感情を抱きながら、私は腰に佩いた二振りの刀を引きずるような足取りで歩を進めていた。

早く、主に戴いた天命を果たさねばならない。
だが、この「肉体」という名の器は、驚くほどに不自由で、かつ厄介な代物であった。
鼻緒が食い込む草履の足は泥を掴むように重く、黒い着流しも重厚な袴も、霧の水分を余すことなく吸い込んで肌に張り付いている。天上の翼を失い、地に足をつけて歩くという行為が、これほどまでに疎ましいものだとは思いもしなかった。人の器とは、これほどまでに摩擦と自重に支配された不完全な構造体なのだろうか。

「…っ、」

ふいに、霧の向こうから現れた小さな影と衝突しそうになり私は咄嗟に両腕を突き出してその衝撃を受け止めた。
視線を落とせば、そこには私を見上げる何者かがいた。小柄な体躯、幼い顔立ち。つい先ほどまでこの都の片隅で遊んでいたのだろうか。
ようやく辿り着いた都の果て、こんな時刻に子供が一人でいることへの疑念が浮かぶが、それよりも先に、予定を狂わされたことへの冷めた溜息が漏れた。その吐息は、白く濁った霧のなかに音もなく吸い込まれていく。

いつもならば、背にあるはずの『翼』でこんな矮小な都など一息に素通りしていただろう。
慣れぬ人の足で遠回りをしすぎたツケが、この不本意な遭遇であった。

「危ないぞ」

自然と、私の声は硬く、張り詰めたものになった。
人間という種がどれほど脆弱であるか、私は嫌というほど知っている。僅かな衝撃、些細な過ちで、糸が切れるようにいとも簡単に壊れていく存在。

かつて天使として、この都よりも遥かに広大で栄華を極めた都を、戦火をもって滅ぼしたことは一度や二度ではない。他の同胞たちがそうであるように、私の中に人間に対する特別な情愛などは存在しなかった。
しかし、その壊れやすく、予測不能な動態に対する「興味」、あるいは底知れぬ「好奇心」が胸の内に燻っていることだけは、否定できない事実であった。

「あんたこそ危ねえよ」

返ってきた声には、私の威圧を撥ね退けるほどの覇気が籠もっていた。
私はふと、意識の焦点をその子供へと合わせる。年齢は十になるかならぬか。その査定に狂いはないはずだが、その小さな体に宿る生命力は、身に余るほど強く視線に乗って伝わってきた。
どこぞの血気盛んな郷士の息子だろうか。しかし、毅然とした視線の端に、微かに震える雫が溜まっているのを私は見逃さなかった。この夜闇の霧のなか、少年はたった一人で泣いていたのだ。

「どうした」

無意識のうちに、私はその煤けた頭を撫でながら、彼と同じ高さになるよう膝を折った。
至近距離で見やる彼の瞳は赤く腫れており、そのあまりに純粋な悲痛さに、言葉を失う。少年もまた、驚いたように私の顔を凝視し、瞬きを忘れたように眼を離さない。

「…すげえ、蒼い目なんて初めて見た」

場違いな感嘆に私は答えず、ただ彼の視線を受け止めたまま、同じ問いを静かに重ねた。
人間の距離感、あるいは感情の機微というものは、いまだに霧を掴むようで要領を得ない。だが、目の前の存在を無視することは、今の私にはできなかった。

「どうか、したのか」
「…弟が」

少年は、くすん、と鼻を鳴らした。
途切れ途切れに紡がれた言葉によれば、彼には四歳年下の弟がいるのだという。しかし、その弟は「とある事情」によって山へと連れ去られ、明日には災厄を焼くための供物として火に焼かれる運命にあるのだと。
直接関わったことはないが、これもまた人間たちが悠久の時のなかで積み上げてきた、逃れられぬ『業』の一つなのだろう。人の定めとは、なんと脆く、儚きものか。

「君の弟は、忌み子か…」

生まれついて呪い、あるいは災いをもたらすと定義された子を人間はそう呼ぶのだと、かつて同胞から聞いた覚えがある。
目の前の少年からは、そのような忌まわしき波動は一切感じられない。だが、彼がふと手を開き、あるいは走り出そうとする所作の端々に、名もなき何らかの気配が揺らめいている。
つい先刻まで、彼はその弟と遊んでいたのだろう。そして、その温もりを剥ぎ取るようにして、弟は連れ去られたのだ。

「俺は、弟を守りたい」

その言葉には一切の迷いがなかった。澄んだ声には、理不尽な運命に抗い絶対に弟を救い出すという強固な意志が宿っている。
とはいえ、わずか十歳の子供の力は、あまりに細く、あまりに心許ない。その事実を前にしたとき、私はほとんど反射的に、天の禁忌を侵すような命破りの言葉を口にしていた。

「力を貸そう」

チャキ、と懐の刀を僅かに鳴らしてみせる。
天使の刃と謳われるその一振りは、鞘から放たれる微かな金属音だけで、並の悪鬼や呪いを退ける霊威を秘めている。その音に呼応するように、少年の呼気が熱を帯びて上がっていく。

不意に、都を包んでいた深い霧が、意志を持っているかのようにサッと左右へと分かれた。
雲の隙間から、宝石を砕いたような光の粒が地上へと射し込んでくる。

「…嗚呼」

それは返事ではなく、震えるような感嘆の声であった。
光を浴びた少年の瞳は、煤けて見えた先ほどとは一変し、天上の至宝にも勝る見事な「翡翠」の色を湛えていた。光が射してようやく理解できた。これは、美しく、そして類稀なる強い魂の色だ。

「はやく、弟が」
「案ずるな。私は君を…君たちを守る」

夜が明けようとする空に、白銀の月が残照となって浮かび上がっている。
霧が晴れた空を仰ぎ、私は静かに刀の柄に手をかけた。


今宵の月は、実に最高だ。