SPN-1281

Last-modified: 2026-05-28 (木) 07:28:29

お気に入りのSCPのひとつ。キャスとポンコツかわいい機械は似合うな。
出典:SCP-1281「さきがけ」


1967年型シボレー・インパラの鈍いエキゾーストノートが遠ざかり、代わりにバンカー(賢人の秘密基地)の分厚いコンクリート壁が、どこまでも重苦しい沈黙を強調していた。

地中深く、何世代にもわたって超常的な脅威を封じ込めてきたその一区画。冷徹な鉄格子が嵌められた暗がりに、サム・ウィンチェスターは佇んでいた。彼の視線の先、冷たい床にうずくまっているのは、埃に塗れたベージュのトレンチコートを纏った男だ。外見はごく普通の、どこかくたびれた人間にしか見えない。

「こいつが、正体不明の謎の男か?」

サムが怪訝そうに眉間を寄せ、凝視する。隣に立つディーンは、すでにジャケットの袖を腕まくりし、やる気十分といった様子で鼻を鳴らした。

「ハンター仲間が手に負えなくて、ここに運び込んできやがった。ほら、こないだ夜空を埋め尽くすような、すげぇ流星群があっただろ? あいつが現れたのは、まさにあの夜だそうだ」
「どういうことだよ、ディーン。まさか……」
「つまり、宇宙からの来訪者ってことだ!」

自信たっぷりに断言する兄とは対照的に、サムの思考は急速に混乱の泥沼へ沈んでいった。悪霊、吸血鬼、あるいは地獄の悪魔や神話の怪物なら、これまでの経験とバンカーの蔵書でいくらでも対処のしようがある。しかし、惑星外生物――いわゆる宇宙人や、地球外の超常存在など、ウィンチェスター兄弟の長年の狩猟生活においても一度として目にしたことはなかった。

「そんな呑気なことでいいのかよ? だいたい、見た感じは完全に人間じゃないか」
「スキンウォーカーや変身怪物の類かもしれないだろ。外見だけを人間に似せてるだけさ」
「そんな単純なものかな……空から、いや、宇宙から落ちてきたんだろ? ていうか、本当に生きてるのか、これ?」

サムが尋ねるのも無理はなかった。トレンチコートの男は、呼吸をしているのかさえ疑わしいほど静まり返り、微動だにしない。

「さっきここに運び込んだ時は、確かに反応があったんだよ。おい、そこの、変なくたびれたトレンチコート!」

ディーンは悪魔退治用に刻印を施した鉄の棒を格子から差し込み、男の脇腹をツンツンと容赦なく突ついた。すると、肉体が微かに身悶えし、深く長い吐息とともに、トレンチコートの男がゆっくりと双眸を開いた。その瞳は、深海のように冷たく、どこか濁った青色をしていた。

「私は……ここは……」
「お! やっとお目覚めか。おい、お前、名前はなんて言うんだ?」

ディーンの詰問に、男は視線を彷徨わせ、ひび割れた唇をかすかに動かした。

「伝えなければ……私には、任務が……」
「任務だと?」

ディーンが語気を強めて聞き返した途端、男の身体から急速に緊張が抜け落ち、再び深い沈黙の底へと沈んでいった。そこからたっぷり十時間、男は指一本動かさなくなった。


ひとまず、これが「命のある何か」であることだけは確かだった。兄弟は二人がかりで男を鉄格子から運び出し、バンカーの中心にある広大な図書室のソファへと寝かせた。ディーンはキッチンから持ち出してきたビールを煽り、サムは手当たり次第に各地のハンター仲間に電話をかけ、この数日間に起きた異常気象や超常現象の情報を集めて時間を潰した。


時計の針が深夜を回った頃、ソファの男が突然、音もなく上半身を起こした。

「……カスティエルだ。私の名前は、カスティエル」
「うおっ! いきなり話し出すんじゃねぇよ!」

不意を突かれたディーンがビール瓶を落としそうになりながら怒鳴る。一方でサムは、椅子の位置を少しだけ男のほうへと進め、その声音に柔らかな温みを持たせた。このカスティエルと名乗る男からは、警戒すべき敵意や邪悪な気配が、驚くほど一切感じられなかったからだ。

「カスティエル……君は、一体何者なんだい?」
「私は、どこにいる?」
「君は――」サムは毅然とした、しかし深い優しさを込めて、その青い瞳を見つめ返した。「君はこの恒星系の、第三惑星の地上にいる。宇宙を漂っていたんだよ。およそ、十三億年くらいの間ね。これは僕の推測だけど」
「こーせーけー? 十三億年? おいサム、お前さっきから何をご大層に語り合ってんだ」

ディーンが眉をひそめて割り込むが、サムはそれを手で制した。

「兄貴は黙っててくれ。……カスティエル、君は何かを運んできたんだね?」
「あなたは、私の主(あるじ)か?」
「いや、違う。僕らは――」
「私は任務がある……任務を……果たさなければ……」

カスティエルはそれだけを呟くと、まるで体内の動力が突如として途切れたかのように、がくりと身体を横たえて再び深い眠りに落ちてしまった。慌ててその大きな身体を支えたディーンは、男の皮膚に触れた瞬間、思わず手を引っ込めそうになった。

「おい、サム! こいつの体温、さっき運んできた時より明らかに上がってるぞ。熱湯みたいだ!」
「やっぱりか……。さっきの十時間の間に、バンカーの古い天文学の記述や、賢人たちが遺した部分的な観測記録を照合したんだ。間違いなく、彼は途方もない時間をかけて宇宙を漂流してきた存在だ。ああ、いや、これは『Xファイル』みたいな話じゃないし、エイリアンだの宇宙人だのといった安易なオカルトでもないと思う。だって、どう見てもグレイの類じゃないだろ?」
「そりゃ、どこからどう見ても、深夜残業でくたびれた地味な会計士だけどよ……。じゃあ何かい? その宇宙の会計士が、十三億年もの間、暗闇を徘徊した末に、流星群の夜に俺たちの前に落っこちてきたって言うのか?」
「そう考えるのが一番辻褄が合うんだよ」
「未知との遭遇にしては、随分としけた絵面だな。けどよ、あまりに現実離れが過ぎるだろ」
「どれだけ信じられないことでも、自分の目で見て、触れたものを信じて戦ってきたのが僕らだろ。今更それを疑うのかい?」

サムの真摯な言葉に、ディーンは苦虫を噛み潰したような顔で黙り込んだ。

「それより、カスティエルの熱がどんどん上がってる。おそらく、大気圏突入の負荷か、あるいは彼自身のシステムがオーバーヒートを起こしつつあるんだ。氷で冷やしてあげよう」
「なんで俺が、冷えたビールじゃなくて、落ちてきたE.T.を冷やすために氷嚢を作らなきゃなんねぇんだよ……」

ぶつぶつと不満を漏らしながらも、ディーンは手際よく台所から氷をかき集め、布に包んで氷嚢を作った。それをカスティエルの額と首筋にあてがった瞬間、カスティエルは三度(みたび)、その青い眼眸を見開いた。その視線は、図書室の天井を通り越して、遥か彼方の虚空を見つめているようだった。


「私は……私は、故郷にいない。故郷から、あまりにも遠く離れている……」

カスティエルの声は、氷の底から響くように沈んでいた。

「キャス。キャスと呼んでいいかな」サムは笑顔のままで彼をそう呼び、語りかける。「君の故郷は、本当に遠い場所にある。もう、ここからは見ることもできないくらいにね」
「私は、役目を果たさなければならない。だが、壊れてしまった……。ずっと、ずっと前、私は自らの存在となにかに疑問を抱き、機能を停止したのだ。救助を待たなければならない……あなたたちは、私の救助隊なのか?」

ハッとしたようにカスティエルが身を起こしかける。その強固な拒絶の気配に、ディーンがその肩を押さえた。

「違う、落ち着け。俺たちは人間だ。なんて説明すればいいか分からんが、ただの人間だ。敵じゃない、休め」
「あなたたちは、私の主ではない……しかし、私には任務がある。メッセージを、伝えなければ……」

カスティエルが青白い拳を強く握りしめる。その瞬間、サムは彼の首筋や手首の皮膚が、内側からの異常な高熱によってじわじわと溶けかけているのを目撃した。完全な熱暴走だ。彼の肉体を形作っている何かが、限界を迎えている。

「キャス、君の身体がもたない! もう喋るな!」
「構わない」
「構え!」
「メッセージを……再生する」


カチリ、と、古いカセットテープの再生ボタンを押したかのような、機械的で奇妙な音が図書室に響き渡った。
直後、カスティエルのトレンチコートの胸元が、息をのむほど美しく、そして哀しいほどに青白く光り輝いた。そこから漏れ出てきたのは、カスティエルのものではない、低く穏やかな、どこか聞き覚えのある老人の声だった。それはバンカーのコンクリート壁に反響し、重厚な音となって二人の耳に届く。

『これは、私たち家族の“守護天使”、カスティエル。――この天使が君たちの元に届く時、おそらく我々の文明は完全に滅び去っているだろう。』

老人の声は、深い諦念と、それ以上の確かな意志を孕んでいた。

『我々の星は死にかかり、もはや救う手立ては残されていない。我々は、狂った神が描いた最悪のシナリオに抗うことができなかった。私は最愛の兄をこの手で殺し、天界も地獄も、天使も悪魔も、誰も居なくなったこの孤独な惑星で、最後の詩を書いている。……銀河とは暗く、寒く、往々にして空虚(エンプティ)な場所だ。必然として、このメッセージを受け取る君たちの世界も、いつか死に至るだろう。できるなら、あなたたちが我々よりもほんの少し長く生きられるように願いたいが、やはりいつかは滅びる。神という存在はあまりにも強く、そして残酷なほどに静寂だ。』

ディーンは息を詰め、サムは言葉を失ってその声に聞き入った。

『しかし、諦めないで戦い続けなければならない。あなたたちの世界がまだ無事であるなら、どうかその空虚と戦う術を見つけ出してくれ。もし、それを成し遂げるだけの時間が残されていないのであれば、このメッセージをそのまま、そこにいる僕たちの愛した天使に託し、次の星へと転送してほしい。……だが、彼はきっと、あまりにも永い時間を孤独に過ごした末に、あなたたちの元を訪れたはずだ。可能であるなら、彼にほんの少しの休息を与えてやってはくれないか。どうか、空虚が何もかもを無にする前に、希望の火を掲げ続けてくれ。――追伸、彼はとても、蜂蜜が好きだ』

光が徐々に収まり、静寂が戻る。カスティエルは激しい過呼吸に陥りながら、自らの胸元に震える手を置いた。

「……聴き終わったか?」
「ああ。……それが、お前の運んできたメッセージなのか?」

ディーンは信じられないものを見る目で、カスティエルの顔と、今しがたスピーカーのように響いた老人の声を交互に見つめた。

「そうだ。……良い、メッセージだっただろうか?」
「内容を知らないはずがないだろ、お前自身が今――」

言いかけたディーンの肩を、サムが強く引き止めた。サムの瞳には、うっすらと涙が浮かんでいた。

「うん、カスティエル。とても、とても大切なメッセージだったよ。僕たちに届いた」
「良かった……。大事な任務だった。何億年も昔に、私を創った神と呼ばれる者から受けたどの任務よりも、遙かに……。ああ、だが、もうやっと、終わりだ」
「終わりって……おい、どういう意味だ?」

ディーンの脳裏に最悪の予感が過る。

「にんむは、おわった。からだが、あつすぎる。私の中の、グレース(恩寵)が、消えかけている……」

カスティエルの言葉が急激に舌足らずになり、その青い瞳の光が急速に失われていく。頭が朦朧とし、今にも意識を手放しそうなその巨体を、サムが必死に支え直した。

「危ない! キャス、しっかりしろ!」
「……主よ」
「僕は主じゃない、キャス。……どうしたんだ?」
「私は……ちゃんと、やれただろうか?」

その問いかけは、十三億年もの間、冷たい宇宙の暗闇の中で、たった一つの希望だけを胸に抱き続けてきた迷子の子供のようだった。サムはカスティエルの肩を強く握り締め、真っ直ぐにその目を見て頷いた。

「ああ、カスティエル。君は本当によくやった。完璧だったよ」
「……それは、何よりです」

最後の言葉に、彼は人生で最大の自尊心と救いを得たかのように、ふっと表情を和らげ、そのままくしゃりと糸が切れた人形のようにその場に崩れ落ちた。

「おいおいおい! 嘘だろ、死んだのか!?」
ディーンが慌てて胸元に手を当てる。微かだが、しかし確かな鼓動が刻まれていた。高熱は引き始め、彼の肉体を侵食していた超常的な熱暴走は、メッセージの完全な出力を終えたことで終息したようだった。

「生きてるよ、ディーン。……とりあえず、熱を出してぶっ倒れた宇宙の天使、ってことでいいのかな」
「そうかよ。じゃあ、山のように氷を入れた風呂にでも叩き込んでやろう。きっと良くなる、なんやで頑丈そうな奴だしな」
「そうだね。それ以外の、彼が何者であるかとか、これからどうするかは、彼が目を覚ましてから考えよう。たっぷりの蜂蜜も用意してね」
「ああ……。それにしても、あのメッセージの老人の声、どこかで聞き覚えがあるような気がしてならねぇんだが」

ディーンが首を傾げる。サムもまた、同じ既視感を抱いていた。だが、それを証明する手立てはどこにもない。

「神に抗えなかった、別の世界か。いずれにしても十三億年も昔の話だ。もうその世界には、何も残っちゃいないんだろうよ。考えるのはやめだ、やめだ!」

ディーンはそう吐き捨てると、カスティエルの巨体を不器用ながらも優しく抱き起こした。
こうして、遥か彼方の並行世界から漂着した孤独な天使「カスティエル」は、ウィンチェスター兄弟の新たな家族として、バンカーの温かい光の中に迎え入れられたのだった。