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ポケットの中で、けたたましく携帯が鳴り響いた。まだ自由な方の手で無理やりスマホを叩き、通話ボタンを押し込む。スピーカーから漏れ聞こえてきたのは、紛れもないディーンの声だった。
『悪い、サム……シェイプシフターの野郎に乗り移られてよ、あやうくゾンビにされるところだった。変な電話とか行かなかったか? ……おい、どうした、サム!?』
答えたい。けれど、声が出ない。男の太い腕が僕の身体をギリギリと締め上げ、スマホを床へと叩き落としたからだ。通話状態のまま、ディーンの焦燥に満ちた呼びかけが遠ざかっていく。
「お前は今日から俺のもんだ。オメガはそのために生きてるんだろうが!」
男の怒号が耳元で弾け、一気に血の気が引いていくのがわかった。それは恐怖だけではない。抗いようのない「オメガの本能」が、僕の精神を内側から食い破ろうとしていた。これほど至近距離で放たれるアルファの剥き出しの威圧は、どんなに鍛えたハンターの理性であっても、耐えきれるものではない。
脳が熱い。全身の細胞が、眼前の支配的な存在に屈服しろと叫び、積み上げてきた理性が音を立てて焼かれていく。
「……あ、ッ……や、め……」
ドン、と図書館の壁に背中を押し付けられた。視界の端で、何人かの利用者がこちらを見たが、すぐに目を逸らして足早に去っていく。あるいはその中に同じオメガがいたとしても、誰も助けには来ない。この歪んだ社会では、アルファの傍若無人な振る舞いは「本能ゆえの権利」として黙認されている。オメガの社会的立場など、最悪の一言に尽きる。だからこそ、僕はあのバンカーという安全な牢獄から出ないようにしていたというのに。
震える手で腰に隠したハンティングナイフの柄を握ろうとした。だが、男の脂っこい鼻息が肌を舐めるたびに、指先から力が抜けていく。
「俺はこれまで何十人も『つがい』を作ってきた。お前もそのコレクションに加えてやるよ。見た目も最高だしな」
「はな……せ……」
声を絞り出そうと肺に力を込めるたび、男が放つアスファルトの焦げ付いたような悪臭を深く吸い込んでしまい、脳が白く霞んでいく。
ディーン、キャス……。
あの日、あんなに疎ましく、恐ろしいと感じたはずの二人の「火」と「雷」のにおいが、今は狂おしいほどに恋しかった。こんな見知らぬ男の毒に塗り潰されるくらいなら、いっそ。
絶望的な渇望と、生理的な嫌悪が混ざり合い、僕の意識はどす黒い霧の中へと溶けていった。
12
「おい、俺の弟から手を離せ」
静まり返った図書館の空気を焼き払うように、低く、重厚な怒りの声が響き渡った。顔を上げずとも分かった。暖炉から爆ぜた薪のような、あの焦げ付いた濃密な炎のにおい。手に携帯を握りしめ、獲物を射抜くような眼光でこちらを睨みつけているのは、間違いなくディーンだった。
二つ向こうの州にいたはずの彼が、なぜここにいるのか。車を飛ばしたとしても丸一日はかかる距離だ。混乱する僕の鼻腔を、次に突き刺したのは、大気を震わせる激しい雷光の前兆――あのオゾンのにおいだった。
「サム。無事か」
ディーンの背後から、静かに、けれど圧倒的な質量を持ってカスティエルが姿を現した。その答えは、彼の存在そのものが示していた。天界の翼を持つ彼ならば、空間を折り畳み、瞬時に移動することができる。ディーンからの緊急連絡を受け、僕の場所をサーチし、二人でここへ跳んだのだ。
「緊急事態だと聞いてな。私がテレポートを駆使した。レバノンの街にいると知った時は、正直驚いたぞ」
「ディーン……キャス……」
僕は男の腕の中で、喘ぐような声を漏らすのが精一杯だった。自由を奪われ、アルファの毒に中てられた僕は、視線で助けを求めることしかできない。二人は、惨めに震える僕を一瞥すると、瞬時に狩人の、あるいは守護者の戦闘へと意識を切り替えた。
一方で、僕を捕らえた男は、自分を上回る二人のアルファの威圧を前にしても、なおも虚勢を張っていた。
「おいおい。アルファが二人だと? つがいでもねぇくせに、部外者が出しゃばるんじゃねぇよ。こいつは俺が見つけた『俺のオメガ』だっつってんだろ」
「彼はオメガという名称ではない。サムだ。今すぐその手を離せ」
カスティエルの声が、雷鳴のように響く。
「右に同じだ。……二人がかりだぞ、分かってんだろうな?」
ディーンが一歩踏み出す。その全身から放たれる火のフェロモンが、男のアスファルトのにおいを力ずくで押し潰していく。
「チッ……分かったよ。降参だ、卑怯者どもめ」
男は舌打ちし、僕の腕を乱暴に放した。
「……そんなに独り占めしたいなら、とっとと歯型をつけて『番』にしちまえばいいだろうが。無防備なまま歩かせてんじゃねえよ」
ゴミのように床へぐしゃりと落とされ、僕は全身を激しくわななかせた。物理的な痛みよりも、男が去り際に放った「歯形」という言葉が、鋭い楔となって心に突き刺さる。精神的にボロボロになり、自力で立ち上がることすらできない。
「サム!」
駆け寄ってきたカスティエルの手が、僕の肩に触れる。その冷ややかで清廉な温度が、熱に浮かされた僕の肌には狂おしいほど気持ち良かった。一方で、ディーンはまだ、逃げようとする男の背中を野獣のような瞳で睨みつけていた。
「お前の勝手な感想なんて、聞いてねえよ。……俺の弟に、その汚い口でひどいことを言った落とし前だけは、きっちりつけさせてもらうぜ」
言うが早いか、ディーンの右ストレートが男の頬を捉えた。衝撃で本棚に叩きつけられた男は、悲鳴を上げる暇もなく、そのまま崩れ落ちて沈黙した。図書室に再び訪れた静寂の中で、僕は二人のアルファに包まれながら、ただ激しく呼吸を乱していた。
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視界がぐにゃりと歪み、足元が心許ない。これまで経験したことのない、暴力的なまでの目眩が僕を襲っていた。見知らぬアルファが放った、あの溶けたアスファルトのような悪臭。それが僕の鼻腔から脳へと直接流し込まれ、理性の回路を焼き切ろうとしていた。
これまで、僕は守られていたのだ。
ディーンとカスティエルが、僕の知らないところでも常に防波堤となり、外の世界に潜む下卑た本能から遠ざけてくれていた。その事実が、今さらながら痛烈な痛みと共に理解できた。
「あ、あ……っ」
一度反応してしまった身体は、熱を帯びたまま収まる気配を見せない。膝をつき、そのまま床に座り込みそうになった瞬間、ディーンの強靭な腕が僕を強引に引き上げた。
「……こんなところで、そんな格好するな」
ディーンの声は低く、硬い。彼は僕を支えながらも、あえて視線を彼方へと逸らしていた。それは突き放したのではなく、僕から溢れ出すオメガの匂いにあてられ、自分自身の本能を暴走させまいとする彼なりの「防壁」なのだ。
ふと見れば、カスティエルも同じだった。彼は既に僕の肌から手を離し、一定の距離を保って立っている。その距離感が、今の僕にはひどく寂しく感じられたが、同時に彼らの持つ驚異的な精神力の証左でもあった。
「ごめ、なさい……」
「謝るな、サム。君は何も悪くない」
カスティエルが、警告するような鋭くも慈悲深い一言を投げかける。
オメガとして自分の第二性を自覚して以来、謝罪は僕の条件反射になっていた。社会的地位の低さを骨の髄まで理解し、何かをされるたびに「自分が原因なのだ」と諦める癖がついていたのだ。けれど、彼らはそれを決して許さなかった。
「帰りたい……。バンカーに、帰らせて……」
二人に泣きつくように、震える声で懇願した。
扉を開けた時の、あの新鮮な空気への感動はどこへ行ったのだろう。今はただ、鉄とコンクリートに囲まれた、あの暗く静かな「檻」が恋しくてたまらない。やはり、僕のような存在は外の世界に出てはいけなかったのだ。
カスティエルの助力により、外に停めてあったインパラへと身体を滑り込ませる。三人が連れ添い、ようやく住み慣れたバンカーの重厚な扉をくぐり抜けたのは、それから一時間も後のことだった。
バンカーの冷ややかな空気が、僕の火照った肌を優しく撫でる。ここには、僕を脅かすアスファルトの匂いも、値踏みするような下卑た視線もない。ただ、「火」と「雷」の、いつもの濃密な気配だけが満ちている。
二つの支配的な香りに包まれている時だけが、今の僕にとって唯一、呼吸を許される瞬間だった。僕はよろめきながら、自分の部屋へと続く暗い廊下を歩き出した。背後で閉まった扉の重厚な音が、外の世界との断絶を告げていた。
14
バンカーのメインホールにある、冷徹なまでに硬い図書室のテーブル。僕はそこに、燃え上がる身体を投げ出した。鉄のひんやりとした感触が、今は唯一の救いだ。少しでも、この異常な熱を収めたかった。
周囲に二人の気配はない。自分たちがアルファであることを自覚し、僕を休ませるために配慮して遠ざかっているのか。それとも、僕が選ぶべき「答え」を出すまで、近づかないと決めたのか。静寂が耳の奥で、心音のように大きく波打っている。
「……はぁ、はぁ……ッ」
おかしい。どれだけ深く呼吸をしても、熱が引くどころか、身体の芯から重く粘りつくような情熱がせり上がってくる。まずい、と思った時にはもう手遅れだった。
あの図書館で見知らぬアルファに晒された毒気のせいか、あるいはあまりの焦燥に自身の周期を見失っていたのか。僕の肉体を支配し始めたのは、疑いようのない「発情期(ヒート)」だった。
「……ぃ、……やだ」
外でこうならなかったのは不幸中の幸いかもしれない。けれど、この開放的なメインホールでヒートを起こせば、鋭敏な鼻を持つディーンたちには一瞬で悟られる。せめて、自室の鍵のかかる内側に逃げ込まなければ。そう思って立ち上がろうとした瞬間、膝から力が抜け、視界がぐらりと反転した。
床にしゃがみ込むと同時に、僕の身体から、せき止めていた「オメガのにおい」が爆発的に溢れ出し、図書室の空気を蹂躙していくのが分かった。
古い書物のページをめくるような渇いた紙の香りと、雨上がりの無垢な大地を思わせる芳醇な生命の匂い。それが熱を帯び、暴力的なまでの誘惑を伴って、バンカーという閉鎖された器を満たしていく。
「あ、あ……あッ……」
喉から漏れる声を抑えようと、自分でも驚くほどの力で両手を握りしめた。けれど、そんな抵抗など無意味だ。図書室のこの一角は、今やアルファにとってこの世で最も抗い難い、最高級の「餌場」と化しているはずだ。
ディーン、キャス。今は来ないでくれ。僕が僕でなくなってしまう前に、獣になった二人に食い尽くされる前に、どうか。
「……た、すけて……ディーン……キャス……」
嘘だ。唇から零れたのは、本能に裏切られた情熱そのものだった。
今すぐ、僕を抱きしめて欲しかった。この悍ましい熱を、二人の巨大な力で塗り潰して欲しかった。大丈夫だとその温もりで安心させて欲しいと、魂が悲鳴を上げている。
宙を掴もうとした手には、冷たいバンカーの虚無しかない。震えながら床に崩れ落ちると、目眩なのか情欲なのか、視界は白く濁って何も見えなくなった。
「はやく……はやく過ぎ去ってくれ……」
汗みずくになった額を冷たい床に押し付け、僕はただ、自分を裏切り続ける肉体の熱に焼かれながら、届かぬ願いを涙とともに零し続けた。部屋に帰ることすら叶わない。絶望的な熱狂だけが、僕の理性をじりじりと焼き尽くしていく。
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街での一件を終え、バンカーに帰還してからも、鼻腔の奥にこびりついたあの匂いが離れない。サムが放った、剥き出しのオメガのフェロモン。あんなに濃密で、理性を叩き割るようなあいつの匂いを嗅いだのは初めてだった。
あいつは今まで、この狭いバンカーで二人のアルファと暮らしながら、どれほどの精神力を使って自分を抑え込んできたんだ。つがいでもない男二人の前で、あんな甘い匂いを一滴も漏らさずに平然と装うなんて、並大抵のハンターにできる芸当じゃない。
「なあキャス、あいつ、大丈夫かな」
インパラから降りたガレージで、俺はボンネット越しにキャスへ問いかけた。俺とキャスの関係も、客観的に見りゃあ奇妙なもんだ。本来なら一人のオメガを取り合って、殺し合いに発展してもおかしくないアルファ同士。だがそうならないのは、地獄から俺を引きずり上げたこいつとの、魂レベルの繋がりがあるからなのか……正直、俺にもよく分からない。
「なんとも言えん。私はアルファだ」
「俺だってそうだよ! だから心配なんだろうが!」
「それは違うな。心配ではあるが、やはり……飢えている。少なくとも私は、な」
カスティエルの朴訥すぎる感想が、ナイフのように胸を刺す。
サムを無理やりつがいにしない。それは俺とこいつの間で決めていた鉄の掟だ。だが、本能ってやつは、抑えられないからこそ本能と呼ばれるんだ。
「あの匂い……君に言うのは申し訳ないが、とても尋常ではいられなかった。サムが自ら帰りたがってくれたからこそ、私は辛うじて踏みとどまれたのだ」
「同感だ……。ガキの頃、あいつに第二性が芽生えてから、発情期のたびに親父が知り合いのベータの家族にサムを預けてた理由が、ようやく分かったよ。あんなもん、間近で嗅いだら正気じゃいられねぇ。つーか……」
今まで、オメガの相手をしようとしたことは何度かあった。こっちが望まなくても、向こうから誘ってくることもあったしな。だが、誰を抱いても心の底から満たされることはなかった。どのオメガの匂いも、俺の本能の最深部を震わせるには至らなかったんだ。
「サムの……運命のつがいは、一人だけなのだろうか?」
キャスの唐突な問いに、俺は言葉を失った。
「そりゃ、そういうもんなんじゃないのか。詳しくは知らねぇが、それに……確かめる術もねぇだろう」
「抱かなければわからん、か」
「おい、まさか!」
「そういうことではない。休戦協定は継続している……。だが、私とて自分の本能までは確約できない」
それは、俺も同じだ。
暗い廊下の先にあるサムの部屋。そこから漏れ出す、古い本と大地が混ざり合ったあの甘美な匂いに、俺たちはいつまで耐えきれるだろうか。
答えが出せない。出せるやつがいるとすれば、それはサム、お前だけなんだ。
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宙ぶらりんな会話を背後に放り投げ、俺は胃袋の生々しい要求に従ってキッチンへと続く無機質な廊下を歩いていた。背後からは、重苦しい沈黙を纏ったキャスがついてくる。いつもの光景だ。だが、メインホールの図書室に差し掛かる手前、まだ入り口まで二メートルはあろうかという地点で、俺の鼻腔に「それ」が突き刺さった。
足が、コンクリートの床に縫い付けられたように止まる。
「……っ!」
喉の奥が、焼けるように熱い。普段なら図書室の重厚な空気の中に溶け込んでいるはずの匂いが、今は鋭利な刃物となって俺の理性を切り裂きに来ていた。新緑の風を纏い、あらゆる生命を育むような、優しくも力強い大地の香り。古びた書物のページが放つ、乾いた知性の残り香。それらすべてが、熟れた果実のように甘く、暴力的なまでの色香を伴って溢れ出している。
サムの匂いだ。それも、ただの匂いじゃない。
「キャス、行くな!!」
反射的に、そのまま吸い寄せられるように歩を進めようとしたキャスの腕を、俺は力任せに掴んで引き止めた。
「……ヒートか?」
キャスの声は、いつもの冷静さを欠いて上擦っていた。やつは足を止めたものの、その体は既に無意識に図書室の方へと傾ぎ、鼻腔を広げてサムのフェロモンをより深く、より濃密に吸い込もうとしている。それは俺も同じだった。肺が、血が、細胞の一つ一つが、あの大地の匂いで満たされることを叫んでいる。
「まずい……俺たちが『ラット』になったら、本当に収拾がつかなくなるぞ」
俺は歯を食いしばり、必死に自分を繋ぎ止めた。オメガのヒートに感化され、アルファが理性を失って暴走する発情状態――ラット。これまでアルファ二人とオメガ一人という、あまりに危うい均衡を保ってこられたのは、俺とキャスの間に無言の了解があったからだ。どちらかがラットに呑まれかけた時は、もう片方が刺し違えてでも止める。サムにさえ決して明かさなかった、血よりも重い盟約だ。
だが、今この状況は想定外だ。俺とキャス、二人のアルファが同時に、サムの強烈すぎる匂いに当てられている。
暴れ狂う本能を鉄のような意志で律し、俺は無理やりキャスを引きずってメインホールから距離を置いた。キャスは足をもつれさせながらも、俺の腕の中で低く唸り声を上げている。
「無理やりだけは、したくねぇんだよ……っ! あいつを、壊したくねぇ!」
「……それは……同意だ。だが、耐えきれんな……これは。あまりに……」
キャスの言葉に、俺は血が滲むほどに奥歯を噛み締めた。同感だ。あの、図体ばかりデカいくせに、本能に晒されると脆く崩れ落ちてしまう可愛い弟。今すぐ駆け寄って、あの震える肩を抱き寄せ、熱に浮かされた体を俺の腕の中に閉じ込めてやりたい。
それが運命の「つがい」というやつなのかどうかは、もうどうでもよかった。ただ、誰よりも近くであいつの熱を感じたい。
「サムの……あいつの頭を、撫でてやりたいんだ……」
キャスが、憑かれたようにぶつぶつと呟く。俺が死ぬ気で我慢している真っ最中に、一番言われたくない言葉を吐き出しやがる。
その無垢で残酷な執着への苛立ちを、俺はキャスを引きずる腕の力へと変えた。指先がやつのコートの袖に食い込む。
「黙れ、キャス。……あいつをこれ以上追い詰めるな。今は、離れるんだ」
俺たちは、もがきながら冷たい廊下を突き進んだ。背後から追いかけてくる、甘く、切ない大地の残香を振り切るように。俺たちの内側で吠える獣を、必死に鎖で繋ぎ止めたまま。
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涙が止まらない。何度拭っても、熱を帯びた新しい膜が瞳を覆い、視界をぼやけさせる。身体の芯は燃えるように熱いのに、肌の表面を冷たい鳥肌がざあっと駆け抜けていく。
ヒートになったのは、もちろん初めてではない。第二性が判明してからも、僕たちは親父と一緒に狩りを続けていた。ウィンチェスターの血統は強靭なアルファしか生まれない――そんな伝説のような自負を持っていた親父にとって、僕が「オメガ」として発現したことがどれほどの衝撃だったかは、言葉にされずとも痛いほど分かった。
「……お前は、違うのか」
絞り出すような親父のあの一言。そこに混じっていた失望と困惑が、幼かった僕の心に深い傷を残した。身体が熱くなるたびに僕はディーンから引き離され、見知らぬベータの家庭に預けられた。隔離され、腫れ物に触れるように扱われる日々。それを繰り返すうちに、「僕はウィンチェスターに要らない子なんだ」という孤独感が膨れ上がり、いつしか家を飛び出すことばかりを考えるようになった。
せめて、ただのベータであれば。
そう願っても、隠しようのないオメガの匂いは成人するにつれて強まり、自分では制御できないほどに溢れ出した。外の世界では、何度もアルファの男たちに牙を剥かれ、執拗に迫られた。力でねじ伏せられ、絶望の中で身を許してしまったことも一度や二度ではない。
やがてディーンが僕を迎えに来て、それからはずっと、彼が僕を守ってくれていた。どれほど過酷な状況になっても、どれほど僕の匂いに彼自身の本能が掻き乱されても、ディーンは「俺たちは兄弟だ」と言って、決して僕の首筋に歯を立てようとはしなかった。一度でも番(つがい)の契りを交わしてしまえば、本当の意味で元の「兄弟」には戻れなくなることを、彼は本能的に理解していたのだろう。
そこにカスティエルが加わり、家族の形が変わった。天使という超越的な存在でありながら、彼もまた強力なアルファの資質を持って僕たちの輪に加わった。そうして、今の危うい三位一体が完成したのだ。
「……だれ、か……」
熱を止めてほしい。図書室の冷たい床に這いつくばり、僕は芋虫のように少しずつ自室への道を辿る。
朦朧とする意識の中で、必死に抑制剤の所在を思い返した。鞄の中にも、サイドテーブルの引き出しにもない。……最悪だ。街へ出た時、予備をインパラの中に置き忘れてきたのかもしれなかった。
「……っ、はぁ……ディ、ン……」
助けを呼びたいのに、喉が引き攣って声にならない。今、彼らを呼べばどうなるか分かっている。二人のアルファを、この熱狂の渦に巻き込んでしまう。けれど、孤独と情欲に焼かれる恐怖が、僕の理性をじわじわと食いつぶしていく。
重厚な図書室の空気に、僕から溢れ出した「大地と古書」の匂いが、毒のように、あるいは蜜のように沈殿していく。自室までは、まだあまりに遠かった。
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ディーンとキャスは、一体どこにいるんだろう。ガレージから戻ってきてもおかしくない時間が過ぎているのに、彼らの足音は聞こえない。彼らに出会いたいのか、あるいは今は絶対に出会うべきではないのか、自分でも判然としなかった。理性では拒絶を叫んでいても、本能が彼らの強固なアルファの気配を、救いを求めて狂おしく渇望している。
「……くそ、っ……」
今ここで理性を手放したら、すべてが終わる。僕は全身の神経を研ぎ澄ませ、サム・ウィンチェスターとしての全精神力を動員した。これまで、どんな上位悪魔や悍ましい魔物とも、冷徹な知力と不屈の意志で戦ってきた自負はある。けれど、内側から噴き上がるこの業火を相手にするのは、まるで素手で太陽を掴もうとするような無謀さに等しい。一瞬でも気を抜けば、積み上げてきた理性が霧散して、獣の叫びが喉を突き破りそうになる。
「は、っ……」
廊下の手すりに指を食い込ませ、なんとか立ち上がった。壁を支えにして、一歩、また一歩と自室へ向かう。一ミリでも精神的な防壁を突破されたら、僕はもう、僕ではいられなくなる。部屋にさえ辿り着けば、予備の抑制剤があるはずだ。あれを過剰なほどに流し込めば、この狂乱も少しは収まるに違いない。
「……ディ、ン……キャス、ぅ……」
唇から漏れた声が、自分でも驚くほど甘く、幼い響きを帯びていた。無意識に、二人に甘える時の呼び方が出てしまう。そんな自分に絶望的な嫌悪を覚えながらも、脇腹から喉元にかけて駆け抜ける熱は、容赦なく腰の奥を刺激してくる。ここに何を求めているのか、何をして欲しいのか。そんなこと、口にすることさえおぞましい。「発情期」なんて、資料の上ではただの乾燥した単語に過ぎないけれど、実際は世界が溶け落ちるような、凄まじい物理的な暴力なのだ。
「……っ!」
角を曲がり、ようやく自室の扉が視界に入ったその時。再び、視界がぐらりと歪んだ。これまでのヒートは、抑制剤でコントロールしたり、ある程度の対策を講じたりした上でのものだった。けれど、これほどまでに剥き出しで、ダイレクトな衝動に襲われるのは初めてかもしれない。
何より今は、二人からこの醜態を隠し通したいという心理が強く働いていた。たとえもう手遅れなのだとしても、せめて僅かでも匂いを抑えなければと、理性が焼き切れるほどの力で耐え、漏れそうになる声に蓋をした。だが、抑え込まれた熱は「戻り熱」となって全身を内側から焼き焦がしにかかる。肺がひしゃげ、呼吸ができない。
「……、……っ!」
我慢に我慢を重ね、ついに漏れ出した息は、まるで溶岩のように熱かった。僕にとってディーンもキャスも、命に代えても守るべき大切な家族なんだ。僕のこの呪われた体質のせいで、彼らの「ラット」を引き起こすわけにはいかない。耐えなければならないんだ。
血が止まりそうになるまで、床を掻くように手を握りしめた。
「……ッ、キャ、ス、……!」
どさ、という鈍い音を立てて、僕の体は廊下に崩れ落ちた。タイルに横たわった肌に伝わる冷たさが、狂おしいほどに気持ちいい。
「ディ……」
意識の糸が、ぷつりと細くなっていく。本来は抑圧すべきではない本能を限界まで封じ込めた反動か、何かの堰が音を立てて突破された。僕はそのまま、底の見えない暗い昏い場所へと、ゆっくりと意識を落としていった。
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目が覚めると、そこは賢人のバンカーに設けられた古い看護部屋だった。かつては医師や看護師が慌ただしく行き来していたのだろうが、今はただ、埃を被った棚に一世紀以上前の薬剤が僅かに残るだけの、寒々とした空間だ。何度か怪我の治療で世話になったことがあるから、どこに何があるかは分かっている。けれど、今の僕を苛んでいるのは、刃物による傷ではない。
「……っ、は」
意識が戻ると同時に、身体の奥に潜んでいた熱が再び鎌首をもたげた。気を失っていたことでピークは過ぎたのかもしれないが、ヒートの余熱は依然として僕の自由を奪っている。
どうしてここにいるんだ。自力で歩ける状態ではなかったはずだ。……ディーンか、キャスが運んでくれたのか。僕のこんな、獣のような匂いを発している身体を。
「キャス……? ディーン? 誰か、いないの……」
「気がついたか、サム」
奥の暗がりから、カスティエルが現れた。彼は片手で目元を覆うようにし、まるで自分自身を厳しく律するかのように立ち止まった。僕のベッドからは五メートルは離れている。それ以上近寄ってこようとしないのは、僕の匂いに当てられて「ラット」に陥るのを、必死で拒んでいるからだろう。僕にできるのは、辛うじて視線を彼に向けることだけだった。
「すまない……。これ以上は近づけそうにない。ここで構わんか」
「いいよ。……キャス、君が運んでくれたの?」
「私だけではない。ディーンも一緒だった。だが……彼は危うくラットになりかけ、今は自分を鎮めるためにシャワールームで冷水を浴びている」
ディーンが。あの強靭な精神力を持つ兄が、僕のせいで理性を失いかけた。その事実に、胸の奥がぎゅっと締め付けられる。
「キャスは……大丈夫なの?」
「私は恩寵がある。だから多少は耐えられるが……それでも長くは無理だ。サム、今の君の匂いは……とてもじゃないが、単に『耐える』というレベルを超えている」
古い書物と、無垢な大地の匂い。彼らが最高のごちそうだと言った僕のフェロモンは、今や愛する家族を苦しめる毒でしかない。
もしこれがディーン相手なら、いつものように反論して誤魔化せたかもしれない。けれど、天使であるカスティエルにここまで率直に言わせてしまった事実は、僕の心を深く沈ませた。
「……僕、ここから出た方がいいのかな」
ずっと胸の奥に秘めていた言葉が、ポツリと零れ落ちた。
「外に出れば、見知らぬアルファに襲われるかもしれない。それは分かっている。でも……少なくとも、君たち二人をこんなふうに困らせなくて済む。君たちの理性を、僕が壊してしまう前に……」
大反対されるのは分かっていた。ディーンは怒鳴るだろうし、キャスは悲しそうな顔をするだろう。でも、愛する二人が僕を前にして「飢え」と戦い、苦悶する姿を見ているのは、僕だって死ぬほど辛いんだ。
視界が、再び熱い涙で滲んでいく。
僕は自分のオメガとしての運命を、これほどまでに呪ったことはなかった。
20
ディーンはそれから半日の間、一度も姿を見せなかった。
カスティエルも、僕の意識がはっきりとし、身体の熱が落ち着いたのを見届けると、逃げるようにしてバンカーを去っていった。もちろん、僕が「ここを出ていく」と口にしたことについては、かつてないほど厳しい口調で否定された。
「どこへ行こうと、何をしてでも見つけ出す」
そう宣告した彼の瞳に宿っていたのは、守護者としての義務感ではなく、一人のアルファとしての、逃走を許さない執着だった。
「……ディーン」
キッチンの椅子に座り、僕はぽつりと兄の名前を呼んだ。
これまでも、共に狩りをする中で僕の匂いに当てられそうになった時、ディーンがモーテルのシャワールームに長時間籠もることはあった。けれど、今回はその比ではなかった。僕をこの手で運び、ヒートの真っ只中にある僕の匂いを至近距離で浴び続けたのだ。彼の理性がどれほどのダメージを負ったのか、想像するだけで胸が痛む。
ようやく動けるようになった僕は、せめてもの罪滅ぼしのつもりで、兄さんのために(得意とは言えないけれど)サンドイッチを作っていた。
「……サム」
背後から、幽霊のように低く掠れた声が聞こえ、僕は息を呑んで振り返った。
そこに立っていたのは、まさに死者のような顔色をしたディーンだった。風呂上がりというより、冷水を浴び続けて体温を奪われたような痛々しい姿。髪の毛先からはまだ水滴が滴り、Tシャツの肩を濡らしている。
「おい……。大丈夫なの?」
「知るか」
ディーンは僕に視線すら向けず、水滴の伝う髪を乱暴に掻きむしりながら、僕の横を通り過ぎた。
驚いたのは、彼特有の、あの暖炉で薪が爆ぜるような火の匂いが、ほとんど消え失せていたことだ。火と水は相克を成す――極限まで冷水を浴びることで、彼は自分のアルファとしての本能を、文字通り凍りつかせようとしたのだろう。
「……キャスから聞いたよ。僕を運んでくれたって。ありがとう、ディーン」
「弟がヤバけりゃ何でもする。それだけの話だ。これまでの狩りと変わらねぇよ」
「それはそうだけど……」
今回のことを、そして今後のことを、きちんと言い募ろうとして言葉を止めた。ディーンは昔から、こうして感情が昂る局面で長々と会話をすることを嫌う。徹底的に話し合うべきだと考える僕とは、根本的な性質が真逆なのだ。
僕はこめかみを軽く押さえ、絞り出すように言った。
「サンドイッチ、食べてよ。抑制剤はもう、山ほど飲んだから。……匂いはもう、してないはずだよ」
そう告げて立ち去りかけ、ふと振り返ると、ディーンはキッチンのシンクに両手をついたまま、微動だにしていなかった。
それは精神統一をしているようにも、あるいは崩れ落ちそうな自分を必死に支えているようにも見えた。その背中があまりに危うくて、僕は改めて決意を固めた。
やっぱり、荷物をまとめよう。
自室にある天使避けの魔法陣を書いた布を持ち出せば、キャスの追跡も撒けるはずだ。僕がここにいる限り、二人の誇り高いアルファは、僕という毒に冒され続けてしまう。
僕は音を立てないように図書室へと戻り、暗い廊下を見つめた。家族を愛しているからこそ、僕はその家族を壊す前に、この檻を出なければならない。汗で張り付いたシャツを脱ぎ捨て、僕は暗闇の中で静かに準備を始めた。