21
僕から見れば、ディーンとカスティエルの間にある絆は、何物にも代えがたい尊いものだった。二人ともアルファという支配的な性質を持ちながら、時に激しく衝突しつつも、根底では深く意気投合し、共に暮らし、戦っている。それは血の繋がりさえ超えた、魂の共鳴のようなものだ。僕という存在を取り合うことで、その美しくも堅牢な関係を台無しにさせることだけは、何があっても避けたかった。僕さえいなくなれば、二人は再び、静かなアルファ同士の平穏を取り戻せるはずなのだ。
カバンには、命を繋ぐための抑制剤を山のように詰め込み、数日分の着替えと当座の食料、そしてカスティエルの追跡を遮断するための天使避けの魔法陣を仕込んだ。共有のクレジットカードは持ち出せなかった。それを使えば、僕の居場所は一瞬でディーンに割れてしまうだろう。これからはどこかで見知らぬ仕事に就き、自力で糧を得なければならない。重い扉を背に、再びバンカーの外へと踏み出した。
空は、僕の門出を祝う気などさらさらないようだった。前回外に出た時とは対照的に、どこまでも低く立ち込めた曇天が昼の光を遮っている。まるで、これから僕を待ち受ける混迷の運命を予兆しているようで、思わず嫌気がさした。肺いっぱいに冷たい空気を吸い込み、僕は重い足をひきずるようにして歩き出した。
山道を分け入り、人気のない廃屋に辿り着いたのは、夜も更けた頃だった。床板には不気味な穴が空き、壁の隙間からは容赦なく夜風が吹き込む。スプリングが完全に死んでいるベッドは寝るに堪えず、僕は辛うじて原型を留めている汚れたソファに身を沈めた。それでも、持ち込んだランプに明かりを灯せば、闇の中に小さな円が浮かび上がり、そこが仮初めの「家」になる。
「ああ……」
溜息が、夜の静寂に溶けていく。肉体的な疲労よりも、精神的な摩耗が限界に達していた。もっと早くこうするべきだったという妥当な後悔と、唯一の家族と離れてしまった圧倒的な寂しさが、交互に波のように押し寄せてくる。
ふと、自分の手のひらを何となく見つめた。
まだ僕たちが十歳かそこらだった、あの遠い日。第二性が発現する兆候すらなく、ただの「ウィンチェスターの兄弟」だった頃。ディーンは不意に僕の手を握り、「サムの手って、なんかいい匂いがするな!」と無邪気に笑っていた。あの時、兄さんが感じたのは、僕を狂わせるオメガのフェロモンなどではなく、ただの弟の体温だったはずだ。
何もかもがシンプルで、愛に本能の毒が混ざっていなかったあの日に帰りたい。僕はランプの淡い光を見つめながら、二度と戻れない過去の記憶を抱き締め、冷たいソファの上で深く丸まった。
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山小屋での生活も数日が過ぎ、僕は少しずつこの不自由な環境に馴染み始めていた。もともと僕は、自分でも認めるほど自立心が強い。スタンフォード大学への進学を機に家出した二年間や、ディーンとの旅路の中で道が分かれた時も、僕は常に「一人で生きる」という選択肢を選び、それなりに上手くやってきた自負がある。ウィンチェスターの血は、どんな過酷な状況でも生存ルートを見つけ出すようにできているらしい。
朝、冷え切った空気の中で目を覚まし、キャンプ用の簡易コンロで温めたレトルト食品を喉にねじ込む。味など二の次だ。スマホのテザリングを使い、古いノートパソコンをネットに繋いで近場の町の求人情報を漁るのが日課となった。食いつなぐためなら、どんな泥臭い仕事でも構わなかった。もちろん、ふとした瞬間にディーンやキャスの顔が浮かび、胸が締め付けられるような寂しさに襲われることもある。けれど、あのままバンカーに留まって二人の理性を焼き切ってしまう未来を思えば、この孤独など安い代償だと言い聞かせて、感情を心の奥底に封じ込めた。
そんな自律的な暮らしが、一ヶ月も続いただろうか。
ルーチン化した抑制剤の服用は今のところ完璧に機能しており、幸いにも町でアルファに絡まれるようなトラブルには見舞われていない。新しく始めたダイナーの店員としての仕事も、ようやく軌道に乗り始めた。
当初、自分の性質を考慮して、できるだけ客と接触しない裏方の皿洗いや清掃を希望したのだが、店を仕切る中年の女性店長に一蹴されてしまった。
「冗談じゃないわ。こんなに高身長で、モデルみたいにハンサムなあなたをホールに出さないなんて、商売の神様に天罰を食らうわよ」
彼女の強引な説得に押し切られ、結局僕はエプロンを締めて接客をすることになった。意外なことに、人と会話をすること自体は嫌いではなかった。事件の聞き込みで培った社交術はこんな場所でも役に立つ。オメガとしての宿命を脇に置けば、この穏やかな仕事は僕にとって「天職」に近いものがあるようにさえ思えた。
もっとも、僕の本当の天職は間違いなく、闇に潜む怪物を狩るハンターだということだけは、誰にも言えない秘密として胸の奥に隠してある。
普通の生活、と言えるほど平穏な日々ではない。それでも、バンカーという閉ざされた檻から飛び出したこの生活には、痛みを伴うほどの新鮮さが満ちていた。町の喧騒や、コーヒーの香り、見知らぬ誰かとの何気ない挨拶。それらすべてが、僕がまだ「人間」としてこの世界に存在していることを思い出させてくれた。
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それは、あまりに不意に起きた出来事だった。
ホールで「本日のオススメ」であるソーセージナポリタンを中年男性のテーブルに置いた、その直後だ。店の奥、従業員通路の入り口あたりから怒声が響いた。
「お前はオメガだろ! 言うことを聞け!」
自分に向けられた言葉ではなくても、背筋にゾクッと冷たいものが走り、わなないた。見れば、中性的な顔立ちをしたオメガらしき青年と、ガタイのいいアルファらしき男が言い争い――というより、一方的な「捕食」の最中だった。
男から漂ってくるのは、灰化した古い骨のような、乾いていて鼻を突く不快な匂い。そのあまりの気持ち悪さに、本能的に足が止まり、僕は背を向けそうになった。けれど、そうしている間にも青年がいたぶられていく音が聞こえてくる。
この世界では、オメガは社会的に弱い。かつて図書館で襲われた時、ディーンたちが来てくれるまで誰も手助けしてくれなかった、あの冷淡さがこの世界の「普通」なのだ。
でも、それでいいのか。僕は今、オメガとしてではなく、一人の人間として、そしてハンターとしてここにいるはずだ。ここで分け入れば事態は深刻になるかもしれないし、せっかく雇ってくれた店長にも迷惑をかけるだろう。けれど、震える手を握りしめた時、僕の中でオメガの本能を上書きする、もう一つの本能が目を覚ました。
「そこまでにしろ!」
僕は男の間に割って入った。至近距離で嗅ぐアルファの匂いは否応なく喉を焼くが、ディーンやキャスが何年も僕の傍で耐えてくれていたあの重圧に比べれば、こんなものなんてことはない。
「嫌がってるだろ。手を離せ」
「店員かあ? いま取り込み中なんだよ、引っ込んでろ!」
「そこまでにしろと言っているんだ」
オメガだとバレなければ、この身長と体格の良さで、その辺のチンピラに負けない自負はある。胸を張って威嚇の気配を纏わせ、後ろ手で青年を逃がそうとした。
「お前……アルファか?」
「なんでもない、ただの店員だよ」
ウィンチェスターの血統に流れるアルファの資質がそうさせるのか、あるいは抑制剤でフェロモンを完全に封じているせいか。匂いさえなければ、僕は大半の人間からアルファだと思われる。
「お前がアルファなら、これは獲物の取り合いなんだよ! どっちかが死ぬまで終わらねぇんだ!」
次の瞬間、僕の頬に熱い衝撃が走り、視界が火花を散らした。右ストレートが顎と歯を直撃し、僕はのけぞる。ハンターの嗜みとして片時も離さない腰のナイフに手が伸びかけたが、寸前で思い止まった。ここはダイナーだ。相手は悪霊でも魔物でもない――はずだった。
「うる、さい……出て行けって言ってるんだ……!」
体勢を立て直し、殴るのではなく組み伏せて無力化しようとした、その時だ。
不意に、男の瞳の奥がどろりとした漆黒に染まった。
「……悪魔か」
声が出るより早く、念力のような衝撃に弾き飛ばされ、僕はダイナーのカウンターにしたたかに腰を打ちつけた。
「ッ、は……」
目眩のする意識で見上げる。護身用のナイフも聖水も持っている。だが、悪魔でありつつ強力なアルファでもある相手は、厄介極まりない。ハンターとして、あるいはオメガとして、ほんの一瞬でも隙を見せれば、一気に畳み掛けられてしまう。僕は痛む腰を庇いながら、戦慄の中で次の出方を伺った。
24
「もしかしてウィンチェスターか? 名前なんて忘れちまったが……兄弟だったよな。お前、兄貴の方か?」
下卑た笑いを顔に張り付かせ、悪魔が距離を詰めてくる。地獄の連中には、僕たちの存在も名前もとうに知れ渡っている。幸い、念力による拘束は解けたようだ。僕はよろめきながらも立ち上がり、睨み付けながらポケットの中のスキットルをまさぐった。中には、ハンターの必需品である聖水が満ちている。
「……そうだよ、僕はディーンだ!」
咄嗟に兄さんの名を名乗った。深い意味はない。ただ、この悪魔がウィンチェスターの区別もつかない下級の類なら、どちらの名を騙ろうと結果は同じだ。
「ディーン、ね。地獄と煉獄から這い戻ってきた、あの」
値踏みするような視線が肌をなぞる。不意に、悪魔がカウンターに残されていたソーセージナポリタンの皿を弾き飛ばした。真っ赤なソースと麺が視界を覆い、僕は反射的に腕で顔を覆う。その一瞬の間隙を、悪魔は見逃さなかった。
「ウィンチェスターの兄貴の方は、極上のアルファだと聞いてる。だがお前からは、そんな気配は微塵もしないな……むしろ、これは」
「うるさい! なんでもいいだろ!」
僕は叫び、手近にあった鉄製のトレイで悪魔の顔を強打した。トレイに聖水をぶちまけると、悪魔の顔面がじりじりと焼け爛れる。
「ぐわっ!」
悪魔がたまらず膝をついた。その停止を、僕は逃さない。
「Contremisce et effuge, invoker……」
ラテン語の悪魔祓いの呪文が、僕の唇から滑り出す。ダイナーのありふれた空間が、たちまち異様な魔術的緊張感に塗り替わっていく。
「ガアッ! ……分かったぞ、お前はサムだな。兄貴の方はもっと脳筋だと聞いてる。こんな呪文をすらすら言えるのは弟の方だ。だったら!」
瀕死のはずの悪魔が、僕の腕を強引に掴み上げた。
「……お前、オメガなんだろ。聞いてるぜ」
「……nobis sancto et terribili nomine,」
すべてに無視を決め込み、僕は呪文の完遂に全神経を注いだ。眼前の悪魔が放つ、骨を焼くような不快なアルファの匂い。自分がオメガであるという自覚。それらすべてを魔術の韻律の中に溶かし込み、封じ込める。
「なあ、つがいがいないって本当なのか? とっくに兄貴に噛まれてると思ってたが……俺が今ここで噛み付いたら、あの兄貴はどんな顔をするかなぁ?」
「……quem inferi tremunt,」
身体の奥が、アルファの毒気に当てられて震えそうになる。過呼吸になりそうな肺を必死で律し、言葉を繋ぐ。
「……te rogamus,」
「アルファに噛まれれば、最高の気分だぞ?」
悪魔は僕の身体に縋り付くように立ち上がり、その汚らわしい牙を剥き出しにした。だが、僕の意志は折れない。アルファの重圧をねじ伏せ、最後の一節を叩きつけた。
「……audi nos!」
次の瞬間、憑依されていた男性の口から、どす黒い煙が勢いよく噴き出した。ひどい硫黄の臭いを残し、悪魔の本体は通気口へと消えていく。
「……っ、はぁ、はぁ……」
悪魔に掴まれていた箇所が、熱を帯びて痛む。物理的な傷というより、あの下劣な匂いに直接肌を焼かれたような不快感だ。
「助かったよ、君……君も、オメガだよね?」
背後から、先ほどの青年が恐る恐る声をかけてきた。振り返ると、そこには震える細い肩があった。同じオメガとして見ても、彼はあまりに貧弱で、無防備に見えた。……あるいは、これが世間一般のオメガという存在の、本来の姿なのかもしれない。
「……ああ。抑制剤を飲んで、もうここから離れた方がいい」
僕は短く告げると、悪魔が消えた排気口をじっと見据えた。そこにはもう、闇の気配はない。
バンカーを出て、一人でダイナーの店員として暮らす日々。けれど、僕の奥底に眠る本質は、決して変わることはない。
(僕は、確かにウィンチェスターのハンターだ)
胸の奥に灯った妙な鼓舞を抱え、僕はエプロンの汚れを乱暴に拭った。
25
インパラの車内には、重苦しい沈黙と、互いの皮膚を焼き切るようなアルファのフェロモンが充満していた。
俺は苛立ちを隠そうともせず、愛車(ベイビー)のアクセルを乱暴に踏みつける。エンジンの咆哮だけが、このまま爆発してしまいそうな俺の頭の中を代弁してくれているようだった。数時間、いやもう何日になるだろうか。俺とキャスは、サムが行きそうな場所を片っ端から走り回っていた。図書館、かつて立ち寄ったバー、ダイナー、古いモーテル。どこもかしこも空振りだ。あいつのお得意の「用意周到」が、今はこの上なく恨めしい。
「キャス、居場所は分かったか?」
助手席で窓の外を凝視しているキャスに、吐き捨てるように問いかける。
「……だめだ。強力な天使避けが施されている。私ですら見たことのないほど複雑で強固なものだ。さすがサムと言うべきか……。これほど短時間で、一体どうやってこれほど強い魔法陣を組み上げたのか」
「こないだ襲われたばかりだってのによ!」
俺はハンドルを叩いた。あいつの「用意周到」には、いつも自己犠牲がセットになっている。俺だって似たような真似はする。だが俺の場合は、自分自身への苛立ちや自己嫌悪が基盤だ。自分なんてどうなってもいいという、内向きの暴力。だがサムの場合は違う。あいつの行動原理はいつも、他者を救いたいという、吐き気がするほどの「善性」に基づいている。自分がいなくなることで、俺とキャスの仲が保たれる……そんな馬鹿げた結論をあいつが出したのだとしたら、俺はあいつの横面を張り倒してやりたかった。
「面倒なことになってたら……あいつ、今、抑制剤が切れてるかもしれないんだぞ」
「ディーン。気持ちは分かるが、一度落ち着いてくれ。アルファやオメガという属性を脇に置いて、一人の人間として考えてみるんだ」
「……無理に決まってんだろ」
俺は低い声で呻いた。
ただの人間……せめて、ベータ同士の兄弟であったなら。あいつに第二性が芽生えて以来、俺は毎日のようにそう願ってきた。サムが初めてヒートを発現した夜のことを、今でも鮮明に覚えている。親父にあいつの部屋から引き剥がされ、サムが泣きながら知らないベータの家に放り込まれたあの夜。あの時のサムの、心細そうで、絶望に満ちた瞳。
これが俺たちの住む「一般社会」のルールだ。オメガは保護され、隔離され、誰かの番になるまで自分を殺して生きる。だが俺は、そんな運命にあいつを渡したくなかった。
「なあ、キャス。俺は、あいつを見つけた時、どんな顔をすりゃいいんだ?」
「それは私も聞きたい。サムをこれほどまでに追い詰めていたとは……」
キャスの苦悩に満ちた声は、そのまま俺の胸を抉った。
閉鎖されたバンカーという空間に、オメガが一人と、強大なアルファが二人。どう考えてもまともな状況じゃなかった。これは一重に、俺が「家族」という形に固執しすぎたせいだ。第二性も、血の繋がりも、本能も関係なく、俺たちは家族でいられるはずだと。あいつはその俺の身勝手な理想を知っていたから、あんなにも長い間、自分の本能を押し殺して耐えてきたんだ。
俺だって、本能という怪物とは毎日戦っている。だが、俺は「家族でいよう」と言い出した張本人だ。その代償として欲望を押し殺すのは当然だ。だが、サムは違う。あいつは何度も、この抑圧された環境から自立しようと、逃げ出そうとしていた。それなのに、俺があいつを繋ぎ止めてしまった。
「……なあ。探すのを、やめないか」
「何を言い出すんだ、ディーン」
「あいつと俺らの立場、仮に見つけたとしても、この先には悲劇しかねぇんだよ。キャス、お前だって本当は分かってんだろ。おかしいと思いながらも、あそこに居続けたのは何でだ?」
居場所を失った天使。カスティエルもまた、行き場を求めてウィンチェスターという「家族」を選んだ。そこに嘘はないと信じている。だが、こいつがアルファであることは、どんな奇跡をもってしても曲げられない事実だ。
「……他の人間たちがどうしているか、オメガやアルファがどうあるべきかは、私には関係ない。私は、自分がどうしたいかを優先した。私は君たちの家族であって、そして、サムを……」
言葉が切れる。キャスらしい、不器用で真っ直ぐな返答。それが俺には、羨ましくもあり、恐ろしくもあった。
「お前と、取り合いなんかしたくねぇんだよ」
「それは同感だと言っている。だからこそ、私たちはあの不文律を守ってきたんだろう。彼を傷つけないという誓いを」
「お前はいいよな、いざとなったら『無かったこと』にできる恩寵があるんだろ。俺はただの、人間のアルファだ。本能に呑み込まれたら、もう元には戻れねぇんだ」
「……無かったことに、だと?」
キャスの声に、静かだが鋭い怒りが宿った。その矛先は、真っ直ぐに俺を射抜いている。
「恩寵は、忘却や修正のための便利な道具ではない! 恩寵を持っていても、私の心に刻まれた痛みや、サムへの……この渇きが消えるわけではない! 私を、何だと思っている」
キャスの怒りは、鏡のように俺自身の自己嫌悪を映し出していた。こいつもまた、自分自身のアルファとしての本能と、サムへの思慕の間で、ボロボロになりながら戦っている。俺たちは似た者同士だ。だからこそ、一度敵視し合えば、地獄の果てまでやり合うことになってしまう。
「……収まれよ。喧嘩してる場合か」
俺はハンドルを握る手に力を込めた。アクセルをさらに踏み込む。
結局、答えなんて出ない。俺たちがアルファである限り、あいつがオメガである限り、どこまで行っても平行線だ。それでも、俺はあいつを探すことをやめられない。
例えその先に、俺たちの絆を木っ端微塵にするような結末が待っていたとしても、あいつのいない世界で生き続けるよりは、地獄の方がまだマシだと思えてしまうからだ。
「……見つけるぞ、キャス。見つけて、あいつに謝らなきゃならねぇ」
ベイビーのヘッドライトが、暗い夜道を切り裂いていく。俺たちは再び、出口のない迷路を、ただひたすらに走り続けた。サム、お前を追い詰めていたのは俺たち自身だったのかもしれない。だが、それでも……俺にはお前が必要なんだ。
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「止まれ!」
キャスの怒号がインパラの狭い車内に響き渡り、俺は反射的にブレーキを蹴り飛ばした。ベイビーのタイヤがアスファルトを削る悲鳴を上げ、俺たちの体はシートベルトを食い込ませながら激しく前のめりになる。
「なんだよ!」「あれを見ろ!」
キャスが鋭く指差した先、ありふれたダイナーの排気口から、どす黒い霧が勢いよく噴き出していた。蠢き、時折オレンジ色の火花を散らすその不気味な黒煙。ただの煙じゃねえ。地獄の住人、悪魔だ。何らかの理由で逃げ出したのだろう。つまりそのダイナーは、たった今悪魔の狩場になっていたということだ。
「キャス、行くぞ!」
アルファの本能がどうこう言う前に、俺たちはハンターだった。インパラを放り出し、腰のナイフを構えて店内に飛び込む。硝煙と硫黄の匂いが立ち込める中、カウンターの影に立っていたのは――あいつだった。
「……サム!?」
「ディーン……」
匂いでは気づけなかった。あいつ、どれだけ抑制剤を飲み込んでやがったんだ。あれほど俺たちの理性をかき乱した、古い本や大地のあの甘美な香りは、完璧に殺されていた。
数日間、喉から手が出るほど探し求めた弟が目の前にいる。いざ再会してみれば、抱きしめたいのか怒鳴りつけたいのか、自分でも整理がつかない。身を硬直させ、言葉を選ぼうと逡巡している間に、後ろから来たキャスに衝突された。
「サム!……」
キャスから漏れた声。そこに宿る、俺と同じアルファとしての狂おしいまでの欲。俺はそれに気づかないフリをした。だが、サムの反応はにべもなかった。
「来るな、ディーン、キャス。僕は一人で大丈夫だ。悪魔も、僕が追い払った」
その瞳に宿る確固たる信念の光。初めて家出をした時と同じ、頑なな拒絶。一度決めたら梃子でも動かないあいつの悪癖だ。
「……サム、帰るぞ」
「帰らない! 僕は一人でいいって言ってるんだ!」
生意気な、分からず屋の弟。俺たちがどんな思いであのお前の匂いに耐え、どれほどの絶望でお前を探し回ったか、何も分かってねえ。「ふざけんな、お前……!」
反射的に怒鳴りつけようとした瞬間、キャスの硬い手が俺の腕を強く掴んだ。無言で首を振るキャス。その青い瞳には、「今は力ずくで解決する時ではない」という静かな、だが確かな警告が宿っていた。またこいつに助けられた。
俺は荒い呼吸を整え、無理やり怒りを喉の奥へ押し込んだ。今にも暴れ出しそうなアルファの衝動を鉄の意志で律し、サムを真っ直ぐに見据える。
「……サム。よく聞け。俺たちは、お前を連れ戻しに来ただけじゃない」
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バンカーへ帰らず、兄さんたちをこれ以上苦しめず、オメガという性別すら関係のない場所で一人で生きていく。それが最善の道だと信じて疑わなかった。けれど、こうして二人の顔を間近に見ると、自分の決断がいかに独りよがりで、彼らへの甘えに基づいた逃避だったのかを痛いほどに思い知らされる。
遅すぎたのだ。何もかも。
「……帰りなよ、二人とも。僕はここでやっていける。悪魔だって、今さっき一人で追い払ったんだ」
必死に声を張り上げた。足元には割れた皿の破片が散らばり、窓から差し込む曇天の光がダイナーの廃墟を寒々と照らしている。歩み寄ろうとするディーンを、僕は鋭い眼差しで射抜いた。視界が涙で滲んで膜を張るけれど、そんな弱さは無視した。
「どうせ、心配だからとか、危ないからとか、そんな理由でしょ! 兄貴面して連れ戻しに来たんだろ! だからこそ、僕はこうして距離を置いているんだ。これ以上、ウィンチェスターの呪いに、僕のこの……呪われた体のことに、二人を巻き込みたくないんだよ!」
感情の高ぶりに呼応するように、体中からオメガの匂いが噴き出していくのが自分でも分かった。抑制剤で無理やり蓋をしていたはずの、古い書物と無垢な大地が混ざり合ったあの香りが、アドレナリンと共にダイナーの空気を支配していく。構うものか。もう隠しようがないのなら、このまま拒絶の盾にしてやる。
「……お前が心配? 違う。心配なんざしてねぇよ、サム。お前が何年ハンターをやってると思ってやがる」
ディーンが、パリンと足元の皿を無造作に踏み割りながら一歩近づいた。その距離が縮まるたび、彼の放つ匂いが僕の鼻腔を突く。暖炉の奥で爆ぜる薪チップの、あの焦げ付いたような濃密な炎の匂い。嫌悪すべきアルファの威圧のはずなのに、僕の細胞は情けないほどにその香りを「安心」だと認識し、無意識に求めてしまう。僕は鉄の心でその本能を締め出した。
「だったら……だったら、放っておいてくれよ!」
「こんなところで、こんなふうに言うつもりはなかった……。だが、もう限界だ」
ディーンが口を濁し、何かを言いかけては飲み込む。その煮え切らない態度に苛立ちが募る。けれど、彼が口を開き切る前に、背後から響く遠雷のような声が空気を震わせた。
「ディーン。君が言わないのであれば、私が先を越させてもらうぞ」
カスティエルが、ディーンを追い越すようにして僕の目の前に立った。深い雨の前の静けさと、重いオゾンを纏った雷鳴の気配。かつては神聖だったその匂いは、今や僕を絡め取ろうとする強欲なアルファのそれへと変質している。
「サム。私もディーンも……君を愛している。一人の人間として、かけがえのない家族として愛しているのは、今更言うまでもないことだ。だが……」
カスティエルの言葉を遮るように、ディーンが割って入った。その瞳には、今まで隠し続けてきたどす黒いほどの熱が宿っている。
「そうだよ! アルファとして、お前が欲しいんだよ、サム。もう、頭がおかしくなりそうな位に、お前のすべてを俺たちのものにしたいと思ってるんだ!」
「……っ、そんなの……」
僕は言葉を失った。
「僕しか身近にオメガを知らないからだろ。他にいくらでも、もっと扱いやすいオメガはいるはずだ。二人なら、誰だって……」
「本気で言ってるのか?」
ディーンが低く、地這うような声で僕の言葉を切り捨てた。
「お前を襲わずに済むように、この溢れ出しそうな本能をどうにか静めるために……俺たちがこれまで何度、お前の『間に合わせ』を探して、見知らぬオメガを抱いてきたと思ってるんだ」
衝撃だった。キャスに視線を向けると、彼は肯定も否定もせず、ただ静かに視線を逸らした。それは、天使である彼ですら、ディーンと同じように一夜限りの慰みを求めて、サム・ウィンチェスターという存在の代わりを探し続けてきたという、何よりの証拠だった。
「誰一人だ。誰一人として、お前みたいな充足感を与えてくれる匂いを持った奴はいなかった。運命のつがいなんて、そんなお伽話は信じちゃいねぇ。だがな、サム。お前じゃなきゃダメなんだ……。たぶん、俺だけじゃない。キャスも、同じだ」
「……その通りだ、サム。私は知っての通り、天使として数千、数万という時間を刻んできた。そのすべての時間をこの地球で過ごしたわけではないが……。これほどまでに、魂の深淵までをかき乱された存在は、君だけだ。他の誰に触れても、虚しさが募るだけだった」
二人の視線は、僕を捕食しようとする飢えた獣のそれではなかった。そこにあるのは、ただ純粋で、痛切なまでの、一人の愛する人へ向けられた真実の告白だった。
その瞬間、僕の中で何かが音を立てて崩れ、同時に満たされていった。
なぜ、僕はあんな山小屋で一人、孤独に耐えていたのだろう。なぜ、自分は拒絶されているのだと思い込んでいたのだろう。
帰りたい場所があり、愛している人がいる。僕がこの数奇な境遇にあっても、絶望の底に落ちきらずに済んだ理由は、ただそれだけだったのだ。
「……わかっ、た。ディーン、キャス……。帰るよ。バンカーに」
身勝手なのは分かっている。こんな廃墟のようなダイナーで、悪魔の硫黄の臭いが残る中で言うには、あまりにロマンチックに欠けるけれど。
僕はゆっくりと両腕を持ち上げ、並び立つ二人の首に手を回した。そのまま、二人を同時に、強く抱きしめた。
ディーンの、荒々しくも温かい炎の匂い。
カスティエルの、深く包み込むような雷の匂い。
これだった。この、互いを焼き尽くし、震わせるような強大な気配こそが、僕の魂が、僕の肉体がずっと欲していたものだった。どちらか一つを選ぶことなんてできない。どちらか一方を失うことなど、自分の半身を削ぎ落とされるよりも耐え難い。
末っ子特有のわがままだと、親父やディーンに笑われるだろうか。けれど、僕はもう二度と、自分を偽って一人で生きていくなんて選ばない。
「帰ろう、僕たちの家に」
僕の声に、カスティエルが包み込むような低音で「ああ」と応える。
「ったく、手がかかるぜ、お前は……」
ディーンが僕の背中に大きな手を回し、不器用ながらも力強く抱きしめ返した。その熱に触れているだけで、あんなに苦しかったヒートの余熱さえ、甘い充足へと変わっていく。
どちらも捨てられない。どちらも、僕には必要なんだ。
炎と雷。その二つに挟まれながら、僕はようやく、本当の意味で息を吸うことができた気がした。バンカーの重い扉の向こう側にある、僕たちだけの歪で、けれど完璧な日常へと戻るために。
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バンカーに辿り着くまでの道中は、驚くほど静穏だった。インパラの狭い密室に三人のフェロモンが満ちる時間は、普通に考えれば異常な緊張感を生むはずだが、僕たちにとっては「今さら」なことだったのかもしれない。二人にとっては、僕を隣に乗せていること自体がもはや当たり前の日常の一部であり、我慢の先にある「受容」だった。山小屋から私物を回収し、身の回りを整え、バンカーの重厚な扉をくぐった時には、既に夕刻の影が長く伸びていた。
「飯食うだろ」
ディーンが、僕の不在だった一ヶ月など最初から無かったかのような平然とした声で言った。
「うん。……何かあれば、食べるよ」
「私は……」
「分かってるよ。だが今日は仲直りの夕飯だ、お前も食え」
ディーンに釘を刺されたカスティエルは、神妙な面持ちで頷いた。ディーンの、やや強引にでも場をまとめ上げる力が、僕たちの間に漂う僅かな気まずさを自浄してくれる。やはりこの兄貴がいてくれて良かったと、心から思った。
ディーンが用意した食卓は、これ以上ないほど豪華だった。ディーンの前には完璧な焼き色のついたステーキ。僕には温かいスープと色鮮やかなサラダ、それに柔らかな白パン。そしてカスティエルの前には、彼が好むピーナッツバターとはちみつのサンドイッチ。それぞれの定位置には、結露したビールの瓶がセットされている。
「本当に、ディーンの料理は最高だね」
「褒めるなよ。いつもと変わらないだろ」
「ここ最近、ずっとキャンプ用の簡易食ばかりだったから……」
栄養効率だけを考えた味気ない食事を、一人で喉にねじ込んでいた日々を思い出し、少しだけ後悔した。ただのサラダだと思って口に運べば、一口サイズに切り揃えられた野菜の調和や、素材の味を引き立てるドレッシングの工夫が伝わってくる。ディーンの、言葉には出さない不器用な慈愛が、僕の胃を温めていった。カスティエルも口元のピーナッツバターを拭いながら、どこか誇らしげに食事を楽しんでいる。
美味しい時間は瞬く間に過ぎ、後片付けが始まった。少し乱暴な手つきで皿を運ぶカスティエルに、ディーンが文句を言いながら苦笑いして皿を洗う。
ここには、僕の知っているすべてがある。何も変わっていない。
アルファだとかオメガだとか、そんな本能の波に飲まれることを恐れて、僕は一体何を怖がっていたんだろう。この閉ざされたバンカーこそが、僕にとって唯一の、自由な居場所だったのだ。
29
シャワーを浴びて熱を冷ましても、身体の芯にある澱のような重みは消えなかった。自室に戻り、少し久しぶりな自分の部屋の壁を見つめる。ディーンはきっと、僕を探し回るために酷使したインパラを整備しにガレージへ向かったのだろう。カスティエルは「見張り」という口実で、バンカーの周囲を警戒しに出かけていった。
表面上は、いつもの静かなバンカーだ。けれど、あのダイナーで告げられた「アルファとしてお前が欲しい」という言葉が、耳の奥で何度も繰り返される。あれは飾り気のない、痛いほどの本音だった。そして、どちらかを選べないまま、答えを宙吊りにしているのは他ならぬ僕自身だ。彼らは待っている。僕が出すべき、残酷なまでの「答え」を。
決められるわけがない。けれど、このまま逃げ続けることもできない。僕は濡れた髪を拭き、意を決して図書室へ向かった。
そこには、あつらえたように二人がいた。ディーンは整備の疲れを流し込むようにビールを煽り、カスティエルはその隣で手持ち無沙汰に瓶を握っている。
「……どうした、サム」
カスティエルが僕の異変を察して視線を向けてくる。今の彼らからは、あの刺すようなアルファの威圧感は消えていた。僕を怯えさせないよう、懸命に「家族」として振る舞ってくれている。その配慮が、今の僕には何よりも申し訳なかった。
「あの……抱いて欲しいんだ。二人に」
言いながら、自分の視線が泳ぐのが分かった。正気じゃない。普段の僕なら絶対に口にしない言葉だ。けれど、決められないのなら、この歪な均衡を終わらせるにはこれしかない。
図書室の時間が、物理的に止まったかのような錯覚に陥った。たっぷり一分。二人は彫像のように硬直していた。
「……おい。お前、自分が何を言ってるか分かってんのか?」
沈黙を切り裂いたのは、ディーンの掠れた声だった。
「二人がかりだぞ。本気か?」
「分かってる。狂ってるよ。でも、僕には選べないんだ。ディーンも、キャスも、僕には命より大切なんだ。そして僕はオメガだ。ここには僕一人しかいない」
僕たちは今まで、アルファとオメガという血の掟を「家族」という言葉で覆い隠してきた。けれど、そんな誤魔化しが一生続くはずがないことは明白だった。いつか本能に焼き切られるくらいなら、自分からすべてを差し出したかった。
「……経験は、ないよな? その、男同士のアルファとしての……」
ディーンの問いに、僕は奥歯を噛み締めた。
「……無理やりなら、何度か。家出していた時に」
「ああん!? また隠してやがったな、この野郎!」
「サム、それは本当なのか? 誰に……」
二人の瞳に、同時に鋭い守護の情念が灯る。
「言えるわけないだろ! 二人とも、すぐに血生臭い復讐を始めるに決まってる。……でも、こんなふうに、僕から誰かにお願いしたことなんて、一度もないんだ」
空気が一変した。ディーンが深く息を吐き、髪を乱暴に掻き回す。
「……あー、もう、分かったよ! だけど、同時に無茶させるようなことは絶対しねぇ。いいな、カスティエル!」
「……承知した。彼に苦痛を与えるのは、私の本意ではない」
「……じゃあ、僕の部屋でいい?」
勇気を振り絞って告げた。オメガが自分の「巣」にアルファを引き入れる。それは、自分のすべてを、魂の最深部まで明け渡すという覚悟のあらわれだ。
ディーンがそっと息を呑む音が聞こえた。彼から、薪チップの爆ぜるような、熱い火の香りが立ち上る。
「……ああ」
カスティエルの瞳が青く澄み渡り、遠雷を予感させるオゾンの香りが部屋を満たした。
「承知した」
僕は震える足取りで、二人のアルファを僕の聖域へと導き始めた。
30
心臓の鼓動が、耳の奥でやかましく鳴り響いている。
意を決して自室の扉を開け、二人を招き入れる。だが、僕が中へ入るよう促した途端、彼らは同時に敷居の前で足を止めた。
「どうしたの……早く、入ってよ」
「いや、ちょっと待て……これは、すげぇな」
ディーンが顔を歪めるようにして、低く呻く。
「なにがだよ」
「あのな、サム。俺たちは、お前の部屋の前だけは通らないように、それこそ血の滲むような努力で避けてきたんだよ。今までずっと」
「……その通りだ。警備上の懸念はあったが、私自身がサムにとっての敵――捕食者になりたくはなかった」
カスティエルの冷静な、けれどどこか追い詰められたような一言に、僕は呆然とするしかなかった。まさか、そんなになるまで我慢させていたなんて思ってもみなかったのだ。やはり、こんな不安定な関係を「家族」という言葉だけで永遠に誤魔化し続けるなんて、最初から無理な話だった。
「もう、隠すことなんて何にもないだろ!」
吹っ切るように、僕は二人の腕を掴んで部屋の中へ引きずり込んだ。決して広くはないバンカーの個室に、大男が三人。僕自身、ウィンチェスターの血筋のおかげかオメガにしてはかなり体格が良い方だ。それだけに、室内は逃げ場がないほど「みちみち」に詰まっていた。
「なあ、一応聞いておくけどよ……。お前、この部屋で一人でシてねぇか?」
「はあ!? 実の弟に、唐突に何を聞くんだよ!」
「私も気にはなっている。この部屋に漂う匂いは……尋常ではない」
ベッドの端に腰を下ろしたディーンと、窮屈そうにソファへ場所を確保したカスティエルが、鼻先をヒクつかせている。
「そういうの、やめてくれよ! そりゃ、僕だって……男だし」
「誰をおかずにしてるかとか、あるのか?」
本当に、兄貴のこういう無神経なところは大嫌いだ。
「……聞いてどうするんだよ」
「俺なのか、キャスなのか。それは死活問題だろ!」
「そんなの、絶対に言うもんか!」
いつもの、他愛のない兄弟喧嘩。けれど、漂っている空気はいつものそれとは決定的に違っていた。正直に言えば、カスティエルが家族になる前は、ディーンに抱かれることを考えながら自分を慰めていた夜もあった。今は……絶対に二人には言わないけれど、二人同時に抱かれる光景を空想しなかったわけじゃない。
だからこそ、今のこの状況は僕にとっても「念願」の一つだったはずなのに。兄貴の無神経な声が、せっかくの決意を台無しにしていく。
「二人とも、やめろ」
カスティエルの低い声が、喧騒を遮った。
「ディーン。……まずは、キスだ」
「分かってるよ! お前が一番ムードを台無しにしてるんだからな!」
冗談めかした口調とは裏腹に、ディーンの片腕が僕の背中に回り、逃げ場を塞ぐように強く押さえつけてきた。クイッと顎を持ち上げられ、そのくすぐったさに身を捩ると、親指で僕の唇をゆっくりとなぞられる。何も抵抗できないまま、荒々しく唇を奪われた。
「ン、ァ……っ」
そこに優しい啄みなんてなかった。熱い舌が強引に割り込み、理性をかき乱していく。口元から漏れた湿り気が唾液となって鎖骨へと落ちる。
0から一気に100へ。それは、長い間飢えに耐え続けてきたディーンが、ようやく鎖を解いたような、凶暴なまでの喜びの色を帯びていた。
むせ返るような火爆ぜたチップの匂いが部屋中に充満し、それに応えるように僕のオメガの匂いもまた、深く、激しく、彼らを狂わせていくのが分かった。