短編集格納庫。
イケメン勝負
バンカーの夕飯時、テレビから流れる低俗なバラエティ番組の笑い声が、思いもよらない火種を投下した。
「さ、審査員はキャスだよ」
「はっきりさせようぜ。俺とサム、どっちがイケメンだ?」
皿洗いの手を止めたディーンが、大真面目な顔でカスティエルに詰め寄った。隣ではサムが、否定しつつもどこか期待を込めた眼差しで、長く豊かな髪を無意識に整えている。
今、この広いバンカーにいるのは、ウィンチェスター兄弟と一人の天使だけ。逃げ場のない状況で、カスティエルは「不幸な審判」という、これまでのどの試練よりも不可解な任務を与えられた。
「待て。私が適任とは思えない。……せめて、クラウリーか、あるいはロウィーナあたりを呼んで意見を聞くべきではないか?」
カスティエルが困惑し、眉間に深い皺を寄せて提案すると、兄弟は間髪入れずに声を揃えた。
「絶対ダメだ。ここには強力な悪魔除けがあるからね、高い酒も飲まれちゃうしクラウリーを招き入れるわけにはいかないよ」
「魔女なんか呼んでみろ、帰すほうが百倍面倒くせぇことになるだろ!」
言い合いながらも、二人はずいずいとカスティエルとの距離を詰めてくる。その圧倒的な「人間」の圧に、カスティエルは思わず一歩後退した。
「なんやかんやで、キャスのほうが世間的にはモテてるみたいだけどさ……」
サムが少し拗ねたような困り顔で続ける。
「僕だってそれなりに、身だしなみには気をつけてるんだよ? 知識だけじゃなく、清潔感だって重要だろ」
「俺だってそうだ!」
ディーンが負けじと胸を張る。
「ってか、俺のほうが人生経験も、アッチのテクも豊富に見えるだろ!? ハンサムっていうのは、そういう『色気』も含めてのことなんだよ」
「兄貴はただの乱暴者だよ……」
「お前こそただのデカいオタクだろ!」
騒々しく始まった兄弟喧嘩を前に、カスティエルは言葉を失い、絶句したまま立ち尽くしていた。数分遅れてようやく状況の意味を咀嚼し、深く、長く呼吸を整える。
「……どちらがハンサムか、ということだな。……それは難しい問いだ。どちらも別々の魅力があり、一つの枠に収めることはできない。サムは知性的で穏やかな美しさを持っているし、ディーンは……その、非常に意志の強い、生命力に満ちた顔立ちをしている」
「逃げるなよキャス! じゃあ質問を変えてやる」
ディーンが身を乗り出し、悪戯っぽく笑った。
「もしキャスが女の子だとしたら、俺たちのどっちと付き合いたい?」
「天使に性別や性的な嗜好はない!」
「想像力はあるだろ! 仮定の話だよ」
「私は神の兵士だと言っているんだ、ディーン!」
カスティエルの叫びも虚しく、兄弟の追求は止まらない。
ボロボロの翼を休める暇もなく、天使は「家族」という名の、最も攻略困難な迷宮に閉じ込められていた。
窓の外では星が静かに瞬いているが、バンカーの中では、いつまでも終わらない不毛で愛おしい議論が、夜の更けるまで響き渡っていた。
昨夜の「どっちがイケメンか」という不毛な議論の火種は、翌朝になっても燻っていた。朝食の席、ディーンは鏡で自分の顎のラインをチェックし、サムは心なしかいつもより丁寧に髪を梳かしている。
それを見つめていたカスティエルの、感情に起因する「キラキラとした欠片」のような鋭い瞳が、静かに二人を射抜いた。
「……昨夜の問いに対する、私なりの『仕返し』をさせてもらおう」
コーヒーを啜っていたディーンがむせ返り、サムが手を止める。カスティエルは、いつになく冷徹なまでの真剣さで言葉を継いだ。
「君たちは自分たちの『魅力』について論じていたが、守護者である私から見れば、検討すべきは別の点にある。すなわち、『どちらがより手のかかる守護対象か』ということだ」
「おいキャス、藪から棒に何を……」
「黙って聞いてくれ、ディーン。まずは君だ」
カスティエルは重戦車のような無表情で、ディーンを指差した。
「君は常に最前線に立ち、自らを盾にする。敵が誰であろうと、肉体がボロボロになるまで止まらない。昨日も一昨日も、君の傷を癒やすために私の恩寵(パワー)は限界に近い。君を守るということは、絶え間なく崩壊していく堤防を素手で支え続けるようなものだ」
ディーンは「一閃」の涙を堪える時のような複雑な顔をして、言葉を呑み込んだ。
「そして、サム」
視線が弟へ移る。サムは「僕にはそういうのいいから……」と言わんばかりに視線を逸らしたが、カスティエルの追及は容赦ない。
「君は肉弾戦を好まない理論派だ。だが、皮肉なことに君は『流れ弾』の類を引き寄せる天賦の才がある。リサーチに没頭している背後から、あるいは混戦の最中から、君は常に予測不能な角度で傷を負う。君を守るということは、どこから飛んでくるか分からない透明な矢を、全方位から警戒し続けることだ」
バンカーのキッチンに、重苦しい沈黙が降りた。
カスティエルは、かつて湖畔で見せたボロボロの翼を、今は誇り高く隠しながら、最後にこう断定した。
「結論を言おう。ディーン、君は『私を死なせる気か』と思わせるほど無茶をする。サム、君は『いつの間にか死んでいるのではないか』という恐怖を私に植え付ける。……どちらが優れているかではない。どちらも、私をこれ以上ないほどに疲弊させる、最悪の守護対象だ」
「……」
「……」
兄弟は、ぐうの音も出なかった。
カスティエルは数分遅れて、自分の言葉が彼らに与えた衝撃を咀嚼し、猫のようにビクッとしてから、ほんの少しだけ顔を赤らめた。
「……だが。その『最悪』な二人のために、私はこのボロボロの翼を広げ続けている。それが私の、この世界における唯一のアイデンティティだからだ。……これで、昨夜の質問の答えになっただろうか?」
ディーンは照れ隠しに「うるせぇ、あっち行け!」と怒鳴りながらも、カスティエルのマグカップに並々とコーヒーを注ぎ足した。サムは困り顔で笑い、そっと自分の上着の裾を整えた。
結局、誰が一番「イケメン」かなんてことは、この歪な家族にとってはどうでもいいことだった。
みんなイケメンでみんないい
武器の手入れする三人
バンカーの地下深く、武器庫の空気は独特の重みを持っている。そこは単なる貯蔵庫ではなく、三人がそれぞれの技術と祈りを武器に注ぎ込む「聖域」でもあった。
作業台に並べられたのは、数多の血を吸ってきたナイフ、マチェーテ、そしてカスティエルのエンジェルブレードだ。ディーンは使い古したオイルを布に染み込ませ、黙々と冷たい鉄を拭い、研ぎ澄ませていく。
銃の整備も得意だが、彼が真に心血を注ぐのは愛銃コルト1911だけだ。しかし、刃物は違う。
「……よし、いい面構えだ」
ガスバーナーの炎で熱せられ、赤く染まった鋼を金槌で叩く。金属の叩きつけられる高い音が、地下室にリズムを刻む。熱い炎を鉄に染み込ませ、その反発を指先で感じる時、ディーンは自分が一心不乱な鍛冶職人になったような錯覚に陥り、ふと自嘲気味に苦笑した。
(いまいちガラじゃねぇな……)
だが、手を止めることはない。サムが、あるいはキャスが、弾切れの果てに最後の一振りとして頼るのは、このナイフだ。
「……死ぬんじゃねえぞ」
無言の祈りを込めて、彼は刃を研ぎ続ける。その一閃が、家族の命を繋ぐ最後の防波堤になることを願って。
ディーンが「力」を注ぐ一方で、サムは「緻密」を極めていた。
作業机の上には、幽霊狩り用の塩弾、魔女の呪いを打ち消す特殊弾、そして複雑な紋章が刻まれた対悪魔用の弾丸が、ミリ単位の精度で並んでいる。
これは単なる武器の整備ではない。薬学の知識と、古い書物から解読した呪文を組み合わせた、高度な錬金術に近い作業だ。
「あと0.5ミリ……いや、0.2ミリか」
かつて大学で学んだ化学の知識を総動員し、サムはピンセットとルーペを操る。ディーンなら「やってられるか!」と放り出すような神経を使う作業だが、これこそがサムの独壇場だった。
深夜のバンカー、武器庫の片隅だけが青白いランプに照らされている。灯りが消えることはない。彼が作り出す一発の弾丸が、予測不能な怪異から兄を、そしてキャスを守るための唯一の「正解」になると知っているからだ。
バンカーの外、三日月が静かに湖面を照らす夜。
カスティエルは独り、足首まで水に浸かり、銀色の十字架を握りしめていた。
彼は凹んだアルミカップで湖の水を静かにすくい上げる。その指先が水面に触れると、低く、長い詠唱が夜の空気に溶け出した。
「……」
本来、教会で神父が数日間かけて祈りを捧げ、生成される「聖水」。だが、主の戦士である彼にとっては、それは僅かな儀式で済むことだった。
「Amen.」
呟きと共に、カスティエルはカップの縁にそっと口付けた。その瞬間、ただの水だった液体にポワッと青白い光が灯り、清廉な魔力が宿る。悪を滅する武器の「素」が、彼の祈りによって誕生した瞬間だった。
ふと、自分の背後に浮かぶ、飛べない翼の残像が水面に映る。
カスティエルはそれを見つめ、静かに息を吐いた。
「これで、彼らを守れるだろうか」
冷たい鉄を研ぐ兄、緻密な罠を編む弟。そして、水を聖なる力に変える天使。
三人の異なる祈りが、暗闇に蠢くモノたちを迎え撃つ準備を整えていく。
考えてみたら聖水ってボトルにミサンガポイーで作れるよね。ジョンとかそうしてたし。
カスティエル発信の場合のくだらないTFW喧嘩
ディーンにとってカスティエルとの喧嘩は、サムとのそれとは勝手が違う。
サムとなら、怒鳴り合い、インパラのドアを叩きつければ、数時間後にはビールを片手に「悪かった」で済む。それはもはやウィンチェスター家の呼吸のようなものだ。
だが、天使は違う。彼が沈黙すると、バンカーの空気そのものが凍りつくような錯覚に陥る。
原因は、些細な、本当に些細なディーンの軽口だった。
倉庫の整理中、カスティエルがかつて人間として生きていた頃の「コンビニ店員服」を見つけ、ディーンがニヤニヤしながら言ったのだ。
「これだよ、これ。お役所仕事が大好きなキャスには、この制服が世界一似合ってるぜ」
皮肉のつもりですらなかった。だが、カスティエルは動きを止め、氷のような瞳でディーンを見据えた。
「……君の、その『木こり』のような服に言われたくない」
ぴしゃりと、しかしどこかズレた反論を残し、天使は羽音さえ立てずに部屋を去った。それ以来、三日。カスティエルはディーンと一切口をきいていない。
「……なぁ、サミー。アイツ、何がそんなに気に入らなかったんだ? 木こりって、チェックのシャツのことか? 褒め言葉だろ?」
図書室で、ディーンは所在なげにベーコンを弄ぶ。
「ディーン、キャスは『自分に役割を押し付けられること』に敏感なんだよ。……ストレートに『ごめんね』って言って仲直りしちゃいなよ」
ノートPCから目を離さず、サムが呆れたようにけしかける。
「子供かよ……。クソ、分かったよ。言えばいいんだろ、言えば」
ディーンは重い腰を上げ、天使が潜んでいるであろうキッチンへと向かった。
ディーンとカスティエルの「冷戦」を仲裁したはずのサムだったが、彼自身もまた、別の火種を抱えていた。
普段、サムとカスティエルは「穏便派」として非常に仲が良い。直感で突っ走るディーンの手綱を二人で引くのがウィンチェスター家の様式美だ。しかし、その「観察眼」が身内に向けられた時、事態はややこしくなる。
「サム。腹痛を隠すな」
キッチンでハーブティーを淹れていたカスティエルが、背後を通ったサムを呼び止めた。
「……へ? なにが? 僕は何ともないよ、キャス」
「嘘だ。君の歩幅が右側に3センチ偏っている。怪我をしているのだろう」
サムの顔が引き攣った。以前の狩りで負った脇腹の傷。それは外傷としては塞がりつつあるが、内臓に達するほど深かったのは事実だ。
「……怪我はしてたけど、腹痛なんて言い方、やめてくれよ。内臓疾患みたいじゃないか!」
「どちらにしても、君が事実を隠蔽していることに変わりはない。内臓の損傷は生命維持に直結する。詳らかにするべきだ」
カスティエルの正論が、サムの神経を逆撫でする。心配からの言葉なのはわかってはいるが、この怪我はずいぶん前の話だ。「3センチ偏っていた」なんて無意識の範囲かカスティエルの見間違えとしか思えない。
「詳らかにしたくないから隠してるんだ! ほっとけって言ってるだろ!!」
「拒絶は懸命ではない」
「そういう問題じゃないんだよ!!」
珍しく、バンカーにサムとカスティエルの怒号が響いた。
ちょうど「ごめん」を言いに来たディーンが、その光景を見て硬直する。
「……おいおい、今度は何だ? お前ら仲良し平和主義コンビが喧嘩かよ」
ディーンが慌てて割って入る。サムは真っ赤な顔をして黙り込み、カスティエルは無表情のまま不満を全身から漂わせている。
「サム、どうした? 話を聞いてやるから、吐き出せよ。な?」
ディーンがサムの肩に手を置こうとすると、サムは獲物に狙われた小動物のように縮こまり、さらに距離を取った。
「……兄貴には、一番関係ないだろ!!」
「……え、俺!? なんで俺が刺されてんの!?」
カスティエルとの冷戦、そしてサムとカスティエルの理論派同士の激突。
ウィンチェスター家のリビングは、誰が誰に謝ればいいのか分からない、カオスな「感情の渋滞」に陥っていた。
図書室に漂う空気は、もはや「重苦しい」を通り越して「物理的に痛い」レベルに達していた。
右側では、カスティエルが広げた医学事典を無言で指でなぞり、その正確すぎる「内臓損傷のリスク」を無言の圧力として放っている。
左側では、サムがノートPCの陰に隠れるように丸まり、兄の「話を聞く」という親切心さえも「今はその距離感が一番きつい」と全身で拒絶していた。
ディーンは、その中間地点で立ち尽くし、一分間ほど天井を仰いだ。
「……あー、もう!! いい加減にしろ、この似非ラブアンドピース野郎ども!!」
ディーンの怒号がバンカーの石壁を震わせた。
サムが肩を跳ねさせ、カスティエルが不思議そうに首を傾げる。
「内臓疾患だの、木こりの服だの……。お前ら、自分の言ってることの小ささが分かってんのか!? 悪魔を地獄に叩き落とす連中が、なんで『ごめん』の一言で詰まってんだよ!」
「ディーン、私は事実を述べているだけで……」
「兄貴、だってキャスが……」
「うるせぇ! 二人とも黙れ!!」
ディーンはキッチンへ向かい、冷蔵庫からキンキンに冷えたビールを三本、乱暴に掴み出してきた。
ディーンは、カスティエルの医学事典の上に一本、サムのノートPCのキーボードのすぐ隣に一本、叩きつけるように置いた。
「いいか、ルールは一つだ。このビールを今すぐ飲み干せ。一滴残らずだ。……そして、飲み終わるまでに、自分が悪かったところを一つだけ、一言で言え。余計な理屈(ロジック)は全部抜きだ!」
サムはビールの結露を見つめ、カスティエルは「アルコールは解決にならない」と言いたげな目でディーンを見たが、ディーンの眼光に押され、二人はしぶしぶ栓を抜いた。
「……まずはキャス、お前からだ」
カスティエルは一気にビールを煽り、喉を鳴らした。そして、少しだけ顔を赤らめて呟く。
「……ディーン。君の服を……その、実用性の低いファッションだと決めつけたのは、早計だった」
「……お、おう。……まあ、そうだな(たしかに木こりっぽいけどな)」
次はサムだ。彼は半分ほど飲んだところで、深く溜息をつき、ディーンとカスティエルを交互に見た。
「……ごめん、キャス。心配してくれてたのは分かってたんだ。……ただ、あの『腹痛』っていう言い方は……本当に、胃腸風邪みたいで恥ずかしかったんだよ」
「……そうか。ならば次は『腹壁の穿通性損傷』と呼ぼう」
「いや、普通に『怪我』でいいだろ!!」
サムの叫びに、ようやく図書室に笑い声が戻った。
ディーンは二人の肩を、今度は拒絶されることなく、力強く引き寄せた。
「ほら見ろ。理屈なんてビール一本で流せるんだよ。……さあ、次は俺の奢りでピザだ。キャス、お前の分は野菜多めにしてやるからな」
二人が顔を見合わせ、苦笑いする。
結局、ウィンチェスター家の秩序を守るのは、いつだってこの「野性的で、直感的で、誰よりも不器用な兄」の力技だった。
くだらない喧嘩をするキャスと力技解決の兄を見たかっただけにすぎない。
Reddit評価を気にするTFW
バンカーの図書室では、ノートPCを囲んで三人の男たちが頭を突き合わせていた。きっかけはサムが見つけた海外の巨大掲示板、Redditのスレッドだった。
タイトルは「『スーパーナチュラル』の3人組、君たちが一番好きなところはどこ?」。
「おい、サミー。これ、俺たちのことだよな?」
「そうだよ、ディーン。ファン……いや、協力者たちが僕たちの活躍をどう見てるか、ちょっと興味ない?」
「……人間の評価か。興味深い。客観的な戦闘データとして分析の価値があるな」
かくして、ハンターと天使による、前代未聞の「自己エゴサ会」が幕を開けた。
「よお!見ろよ!このコメントの数!」
ディーンがスクロールする指を止め、鼻を高くした。
「『やっぱり戦闘シーンはディーンが最高にかっこいい!』ってさあ! 聞いたか? 『ガンアクション、フリーファイト、何を見てもディーンは野性的でクール』だとよ。わかってるじゃねぇか、この“Winchester_Lover”って奴」
「『兄貴としての威厳と、渋くて重い声が素敵』か……」サムが画面を覗き込み、少し皮肉げに笑う。「確かにディーンの声は胃に響くからね」
「だろー? だろー?」
「『子供の頃のシーンからぜんぜん変わってないのが好き。あの髪型真似してみたい』だって」サムの視線を見て取ったカスティエルが無機質に通訳する。「……つまり、精神的に成長していないということか?」
「サミーくん? 羨ましいからって、キャスに意地悪な通訳させなくてもいいんだよぉ?」
不満を述べるディーンだったが、カスティエルがさらに下のコメントを見つけ、眉をひそめた。
「待て……『でも毎回ファットなメニューばっかり食べているよね。あれで40超えたらいろいろヤバそう~』という意見があるぞ。どうなんだ、ディーン。肝機能やコレステロール値の懸念を、見ず知らずの人間たちが共有している」
「俺の体は大丈夫だっての! 呪いでもねぇのに外野が騒ぐな!……もういい、次だ! サムのをみろ!」
「なになに……? 『最初の頃はルシファーの器とか悪魔の血とかで守ってあげたい可愛い弟ポジションだったのに、いつの間にか逞しくなってたよね』……か」
サムは少し照れくさそうに髪をかき上げた。「そ、そうかな? 僕、そんなに強くなったかな」
「『兄貴があんなに脳筋特攻野郎だからこそ、サムの理性的な性格がなんか、安心するよね』だと?……おい、俺は某Aチームのコングじゃねえんだぞ!」
「『知ってた? 戻ってきたコルトで敵を確実に仕留めたのはサムだけなんだよ? スナイパー技術半端ないってこと!』か…」
カスティエルが感心したように頷く。「確かにあのコルトは、ディーンも私も一度は手にしたが、土壇場できちんと『使えた』のはサムだけだったな。君の集中力は人間としては特筆すべきものだ」
「ちょっと、キャスまで褒めすぎだよ……」
鼻の下を伸ばしかけたサムだったが、ディーンが意地悪な笑みを浮かべて画面を奪い取った。
「安心しろ、サミー。ちゃんと落とし所はあるぞ。『でも普段の狩りだとあんまり活躍してないよね、なんか傷を負って倒れてるシーンばかり思いつく』だってさ。あーあ、兄貴として嘆かわしいな。お前、気絶のプロかよ?」
さらにカスティエルが首を傾げる。
「『人間の女より悪魔とか怪物と寝た数の方が多い』……。サム、これはどういう意味だ? 君は異種族間交流のスペシャリストとして認定されているのか?」
「……もう見るなよ! 次! キャスのはどうなんだよ!」
「『ド真面目にド天然ボケ! やっぱりカスティエルがいたからこそドラマが楽しくなったよね』『あのとぼけた感じで神の兵士の天使ってのが許せない~トレンチコート最高♡♡♡』……。やべぇ、キャス。ハートマークが3個もついてやがるぞ」
「『ねえ、カスティエルが銃を持ったシーンのカッコ良さ見た!? いつも短剣だからびっくりしちゃった、堕ちた天使に銃なんて無敵すぎー!』」
サムが微笑む。「確かに、コルトの黒い銃身とトレンチコートの明るいベージュのコントラストは、映像的に映えてたよ」
カスティエルは真剣な顔で画面を見つめている。
「『聞いて! カスティエルの非公式テーマ曲! Angel with a Shotgun!』……ほう。歌詞は……『君を守るためなら信仰だって捨てて構わない』か。……そんなに高潔な自覚は無いが、メロディは悪くないな」
「にしても、キャスのコメントだけ桁違いだね」サムがさらに下へスクロールし、吹き出した。
「ほとんどが兄貴とキャスのカップリングトークだけどさ」
「……なんだと?」ディーンの顔から余裕が消える。
「だってほら! 『ディーンだけを愛する天使なんて完全に運命共同体じゃん!』ってさ。あはは! そういえばキャスの恩寵って、兄貴の魂とが一番しっくり来るんだっけ?」
「そ、それは確かに以前そう言ったが……」カスティエルはそっぽを向いた。
「……ケースバイケースな事も……ある」
「いいじゃん、認めちゃえよ。あ、僕は別に拗ねてないけどね」
「変な話にして行くんじゃねぇ! ネットの書き込みなんて全部デタラメだ、解散!!」
ディーンが強引にノートPCを閉じ、真っ赤な顔で図書室を出ていく。
その後ろ姿を見送りながら、サムとカスティエルは顔を見合わせ、少しだけ誇らしげに、そして困ったように笑い合うのだった。
バンカーの図書室。静寂を破ったのは、再びサムが画面をスクロールさせる指の音だった。Redditの書き込みは、ついに三人の「衛生管理」という極めてプライベートな領域にまで踏み込んでいた。
「……おい、これを見ろ。キャスのトレンチコートについての考察だ」
サムが苦笑しながら読み上げる。
「『カスティエルは天使だから風呂も入らないし洗濯とかはしないと思うよ。分子分解とかしちゃうんじゃない?』……だってさ。たしかに、キャスが洗濯機を回してる姿は想像できないな」
「お前まだそんなもんを見て…それにしても分子分解……?」ディーンが怪訝そうな顔でカスティエルを見る。「おい、お前、あのドロドロの返り血とか、おっさんの加齢臭が染み付いたジミーの服、どうしてんだよ。まさかそのままか?」
カスティエルは心外だと言わんばかりに、シュッと背筋を伸ばした。
「失礼な。私は恩寵を用いて、衣類の繊維に付着した有機物や汚れを原子レベルで剥離させている。君たちが石鹸と温水で行う非効率な作業を、私は一瞬で完結させているのだ。分子分解という表現は、あながち間違いではない」
「でもさ、キャス」サムがさらに別の書き込みを指差す。
「『でも、あれだけ血まみれになっても着替えてないとしたら、それはそれで……不潔だよね』。……ファンは、君の『見た目』が変わらないことに、リアリティの欠如を感じてるみたいだよ」
「……不潔だと?」カスティエルはショックを受けたように、自分の袖口を見つめた。
「私は常に清浄だ。だが……そうか。人間には、私が『洗っているプロセス』が見えないから、不信感を抱かせるのか」
「そうだぞ、キャス。努力が見えないと評価されないのが人間社会だ」ディーンがニヤニヤしながら追い打ちをかける。
「待て……これは何だ」
カスティエルが画面の最下部にある、一際熱量の高いコメントを音読し始めた。
「『そうだよね、じゃないとディーンとのしっぽりした一夜でも、色気が無くなっちゃう』」
「…………」
「…………」
バンカーの空気が一瞬で凍りついた。
「……しっぽり?」カスティエルが小首を傾げる。
「サム、この日本語由来と思われる語彙の定義を教えてくれ。私とディーンが共有する『一夜』とは、大抵がインパラの中での仮眠か、安モーテルでの地図の解読だが、そこに『色気』という概念は必要なのか?」
「……もうやめろぉ!!!」
ディーンが叫びながら、顔を真っ赤にして椅子から立ち上がった。
「なんだよ『しっぽり』って! 誰だこの書き込みした奴! 出てこい! 俺とこいつの間にあるのは、血と汗と、せいぜいビールの臭いだけだ!!」
「……ディーン、落ち着け。君の血圧が上がっている」
カスティエルは至って冷静に、しかしどこか決然とした表情でトレンチコートの襟を正した。
「分かった。ファンたちの懸念を払拭しよう。今夜、私はこのコートを物理的に『洗濯』する。……サム、君の使う『フローラルな香りの柔軟剤』を貸してくれ。私に『色気』が不足しているという指摘は、天使としての名誉に関わる」
「……いや、キャス。そういう意味じゃないと思うんだけど……」
その夜、バンカーのランドリールームでは、トレンチコートを乾燥機にかけてじっと見守る天使の姿があった。
翌朝、カスティエルからは、戦場にはおよそ似つかわしくない「春の野原」のような甘い香りが漂い、ディーンは「鼻がムズムズする!」と一日中くしゃみをし続ける羽目になった。
「しっぽり」――その語感の背後に隠された「心を許した者同士が過ごす、親密で静かな時間」という定義を、カスティエルは辞書とRedditの文脈から完璧に理解した。……あるいは、理解したつもりになってしまった。
「なるほど。ディーン、私は学んだぞ。人間にとっての『色気』とは、清潔感だけではなく、他者との距離感の問題なのだな」
翌晩。カスティエルは、いつもの不自然なほど至近距離に立ち、ディーンの顔をじっと覗き込んだ。柔軟剤「春の野原」の香りが、ディーンの鼻腔を容赦なく刺激する。
「……おい、近い。近いって。あとその匂い、森の中で目立つからやめろって言っただろ」
ディーンが椅子を引いて距離を取るが、カスティエルは音もなく詰め寄った。
「ファンたちは、私と君の間に『しっぽり』とした情緒を求めている。……サム。照明を落としてくれ。ルクス(照度)を下げることが、親密さを醸成する第一歩だとネットに書いてあった」
「……あはは、わかったよ」
面白がったサムが、図書室のメインライトを消し、琥珀色の読書灯だけを残す。
薄暗くなった図書室。カスティエルは、トレンチコートの襟を少しだけ寛げ、椅子に深く腰掛けるディーンのすぐ隣に立った。そして、どこで覚えたのか、少し低く、湿り気を帯びた声で囁いた。
「……ディーン。今夜の月は、インパラのボディを銀色に染めているだろうな。……どうだ。二人きりで、エンジンの構造について語り合わないか? 『しっぽり』とな」
「……ぶっ!!」ディーンが飲んでいたビールを噴き出した。
「キャス、お前……そのポーズ、なんだよ! なんで壁に手を突いて俺を閉じ込めてんだ! あと声! 風邪引いた時みたいな声出すな!」
「これは『壁ドン』と呼ばれる親密なコミュニケーションの手法だ。Redditによれば、これで君の心拍数は上昇し、私との間に不可逆的な絆が形成されるはずなのだが」
「心拍数は上がってるよ! 恐怖と困惑でな!!」
ディーンは真っ赤な顔で立ち上がると、カスティエルを押し返した。
「おい。まるで僕がいないかのようにするのやめてくれない?『二人きり』じゃないんだけど…」
呆れたサムの肩竦めが薄暗い部屋に影を落とした。
「いいか、キャス。俺たちの『親密さ』ってのは、地獄で背中を預け合ったり、安モーテルでクソみたいなパイを分け合ったりすることだ。……こんな、ライトを消して小声で喋るようなもんじゃねぇんだよ!」
「……そうなのか? だが、ファンたちは……」
「ファンはファンだ! 俺たちのことは、俺たちが一番分かってる。……お前がその、ダサいコートを着て、空気を読まずに俺のパーソナルスペースを侵略してくる……。それが俺たちの『しっぽり』なんだよ。……いや、言葉の使い方が違うな。とにかく、普通にしろ!」
カスティエルは、少しだけ残念そうにトレンチコートの襟を正し、元の無表情に戻った。
「……理解した。つまり、私は私のままであれば、十分に『色気』とやらを発散しているということか」
「……まぁ、そういうことにしとけ。……サム! 明かりを点けろ! 目がチカチカする!」
サムが照明を戻すと、そこにはいつもの、少し仏頂面のディーンと、首を傾げる天使、そして爆笑を堪える弟の姿があった。
ネット掲示板の喧騒は、バンカーの静寂の中に溶けて消えた。彼らに必要なのは、飾られた言葉や演出ではなく、ただ隣に「いる」という、代えがたい事実だけだったからだ。
「……ところでディーン。次の『しっぽり』とした狩りでは、私がBGMを担当してもいいか? 『Angel with a Shotgun』のサビを……」
「……それだけは、絶対に、絶対にやめろ!!!」
海外のファンサイトに混ざりたいなあ。だめなんだろうなあ。
ウィンチェスター相談室
兄弟の老後はボビーみたいにお悩み相談室になる。
バンカーの談話室には、二つの電話のベルが同時に鳴り響いていた。今やハンター界のレジェンドとなったウィンチェスター兄弟の元には、全米の仲間から「手に負えない事態」や「壊れた心」の相談が絶えない。
ディーンは電話機を肩に挟み、呆れ果てたように額を押さえて首を振った。
「……お前自身がシェイプシフターに姿を奪われて、相棒の恨みを買っただと? それで落ち込んで酒に溺れてるってのか?」
電話口の向こうで情けない声を出す若手ハンターに、ディーンの怒声が飛ぶ。
「バカ野郎! そんな暇があるなら、そのシェイプシフターをとっとと見つけ出してぶっ殺せ! 銀の弾丸を浴びせて、ナイフでめった刺しにして、そうだな……頭の上に家の一軒くらい落っことして、跡形もなくぺちゃんこにしてやりゃいいんだよ!」
「ディーン、家を落とすのは建築基準法に違反するし、物理的にも困難だ」
横から大真面目に突っ込むカスティエルを肘で押し除け、ディーンは鼻息荒くビールを煽った。彼の提唱する解決策は、常に「物理的な徹底復讐」だ。
復讐が虚無を生むことも、失ったものは戻らないことも、誰よりディーン自身が知っている。だからこそ、彼は敢えて強引なまでに力強く、どん底にいる相手の腕を強引に引き上げる。戦士の低く、容赦のない、だが確かな熱を帯びた声が受話器を通じて相手を鼓舞していた。
その数メートル先では、サムがもう一台の電話を耳に当て、ディーンとは対照的な沈痛な面持ちでいた。
「……恋人がヴァンパイアになった、だって?」
サムの瞳には深い同情と共感が宿る。その声は、冷たい雨の中で傘を差し出すような優しさに満ちていた。
「そうか。……ああ、わかるよ。本当に辛いことだ。胸が張り裂けそうなのも、何もかも捨ててしまいたい気持ちも、僕には痛いほどわかる」
サムは言葉を選び、相手を光のある場所へと導くように、ゆっくりと語りかける。
「でも、彼女を救えるのは……本当の意味で引導を渡してあげられるのは、君にしかできないことなんだ。それは残酷なことじゃない。愛だよ」
相手の嗚咽を静かに受け止め、サムは力強く、だが穏やかに続けた。
「大丈夫だ。君はまた前を向いて歩ける。そのために必要な手助けなら、僕がいくらでもするから。一人で抱え込まなくていいんだ」
あまりに丁寧で慈愛に満ちた言葉遣いに、傍らで聞いていたカスティエルも思わず深く頷いてしまうほどだった。
「よし、次は『呪術』の続きを見るぞ」と満足げに電話を切るディーンと、「資料をまとめて後で送るよ」と優しく通話を終えるサム。
彼らはまだ知らない。
全米のハンター専用掲示板やSNSの裏グループにおいて、「地獄の底からケツを叩いてほしいならディーン」、「暗闇の中で一緒に泣いて救ってほしいならサム」という、『ウィンチェスター兄弟・お悩み相談室:どっちに電話する?』という一大人気投票が、日夜熱く繰り広げられているという事実を。
「……何か、視線を感じるな」
カスティエルが不思議そうに二人を見つめていたが、兄弟はただ、いつも通りの休日を再開させるためにソファへと向かった。
ボビーのあとを継いだガースのあとを継いだウィンチェスター兄弟お悩み相談室してほしい。
ゲームする三人
窓のないバンカーの図書室は、今日ばかりは絶好のゲーム日和だった。
ディーンが好むのは、指先に心臓の鼓動が伝わるようなアクションやFPSだ。コンマ数秒の反応速度が勝敗を分けるヒリついた緊張感。彼はその極限状態をぶっちぎる瞬間を何よりも愛している。
「――このクソ野郎、絶対チーターだろ!!」
ガン、と鈍い音が響く。クラッシャーさながらにキーボードを叩きつけたディーンが、ディスプレイを睨みつけた。プレイしていたのは世界的な人気を誇るFPS『APEX』。大作ゆえに蔓延する不正プレイヤーの餌食になり、ディーンの堪忍袋の緒はとうにぶち切れていた。彼は吐き捨てるように電源を落とし、コントローラーを放り出す。
「……あー、クソ。あれで口直ししねぇとやってられん」
不機嫌のどん底にいたはずのディーンが、ふと独特のほのぼのとしたメロディを口ずさみ始めた。
「……どうせ僕らは♪ 死んでいる、死んでいる、死んでいるみたい~♪」
およそ死闘の直後とは思えない間の抜けた歌声と共に、別のゲームが起動する。画面に踊り出たのは『デッドライジング』。ゾンビの大群を相手に、ショッピングモールのあらゆる日用品を武器にして戦う、カプコン製の「ゾンビ無双」バカゲーアクションだ。
「時にはCD10枚投げつけられて殺される~♪」
ディーンが歌い続けているのは、かつて公式が発表した伝説のプロモーションソング『どうせ僕らは』。
画面の中のディーン(の操作するキャラ)は、歌の歌詞をなぞるようにCDをかき集め、それを手裏剣のごとき精度でゾンビの群れに叩き込んでいく。次々と吹き飛ぶ死体。先ほどチーターにボコられた苛立ちは、このバカバカしい爽快感の中に霧散していった。
「そのうち殺される~♪ だけど前に歩いていく~♪ どうせなら好きにやる♪」
「……その歌、歌詞がまんま兄さんのことみたいだから、不吉だしやめてくれよ。……デッドラ? 懐かしいな」
淹れたてのコーヒーを手にやってきたサムが、モニターを覗き込んで苦笑した。
「これリマスターが出たんだよ!新作も発表されてるし… いいかサミー、これに勝るバカゲーが他にあるか? ゾンビ視点の自虐ソングまで作りやがった、最高にイカれた会社だぜ」
ディーンは鼻息も荒く、蟻のように群がるゾンビたちを、なぜか巨大なクマのぬいぐるみでなぎ倒していく。そのあまりに生き生きとした、そしてあまりにシュールな戦闘風景に、サムは「ほどほどにな」とだけ言い残して席を立った。
地獄の王や天使と渡り合う日常の合間。
バンカーの片隅では、今日も「死んでいるみたい」な陽気なメロディが、カウボーイの機嫌を直すために響き渡っていた。
バンカーの図書室、リサーチ用の重厚なモニターには、ディーンの派手なアクション画面とは対照的な、影の深いコントラストが映し出されていた。
サムは基本的にゲームにのめり込むタイプではない。だが、膨大な古文書の解読や呪文の照合に脳が焼き切れた時、彼は静かに、そして執拗に「死」を繰り返すジャンルへと逃避する。彼の愛する領域は、何度も死んで死んで死に尽くしながら、その屍を乗り越えて先を見つけ出すローグライクだ。
「……やっぱ、ショットガンが最強だな」
今、彼が長々とやり込んでいるのは『West of Dead』。燃え盛る骸骨の頭を持つ保安官が、煉獄のような暗闇を駆け抜けるガンアクション・ローグライクだ。アメコミ調の漆黒と鮮烈な光が交錯する世界観は、どこか彼ら兄弟の日常を皮肉っているようにも見える。
カン!
ゲーム内の部屋にあるランタンを灯すと、激しい明滅と共に闇が払われる。光に晒された死霊たちは動きを停滞させ、サムはその隙に冷徹な精度でトリガーを引く。光を戦略の要とするこの仕組みが、慎重派のサムにはたまらなく心地よかった。
「よし、武器開放、っと」
一渡り戦い、納得のいく「価値ある死」を迎えてリザルト画面を見届けると、彼は続けざまに別のタイトルを起動した。『Caves (Roguelike)』。
一見すると古めかしいピクセルアートの画面だが、その実は、一度ハマれば二度と地上へは戻らせない濃厚な高難易度ゲームだ。開始数秒で理不尽な死が訪れることすらある過酷な環境。だが、その絶望を実力でねじ伏せた瞬間に放出される脳内麻薬が、サムの知的好奇心を刺激してやまない。
「……またそんな不気味なやつを。死んだらそこまでだろ、現実もゲームも」
背後から覗き込んだディーンが、呆れたように鼻を鳴らした。
「兄貴はわかってないね。死は終わりでも絶望でもない。死んでも経験は残るんだ。それが次の周回の最大の武器になる。……それに、これを見てよ」
サムは滔々と語り始める。
「必死に駆け回って山のように集めた戦利品を、こうして吟味して取捨選択してるだけで、時間を忘れちゃうんだ。次はもっと深く潜れる、次はもっと効率よく敵を倒せる……その積み重ねが最高なんだよ」
理屈っぽい解説を始めた弟の熱量に、ディーンは苦笑して肩を竦めた。
(まあ、リサーチも頭脳戦もサムに丸投げしてるとこあるしな。そのお詫びになるなら、これくらいは多めに見るか……)
ディーンは、サムが山積みの戦利品リスト(インベントリ)を幸せそうに整理しているのを確認すると、そっとその場を立ち去った。
「おい、サミー! あと一時間だけだぞ! それ以上やったら、そのモニターを塩で清めてやるからな!」
遠ざかる兄の怒鳴り声を受け流しながら、サムは再び、暗い洞窟の奥深くへと意識を潜らせていった。
「キャスが部屋から出てこない!」
「またテレビだろ? 録り溜めた刑事ドラマでも観てるんだよ、放っておけ」
「違う、一ヶ月だぞ!? さすがにおかしい。扉の隙間から漏れる光が、ずっと緑色と茶色のドットなんだ!」
ディーンの剣幕に押され、サムも重い腰を上げた。いくら天使とはいえ、一ヶ月も引きこもるのは尋常ではない。二人は意を決し、カスティエルの部屋の扉を勢いよく蹴破った。
そこにいたのは、虚空を見つめて黙々と指を動かす、異様な集中力を纏った天使だった。
カスティエルが魅了されたのは、サンドボックスゲーム――『Minecraft』だった。
無から有を創造し、世界を再構築するその作業は、かつて自身のボスである「神」が行った所業をなぞるかのようで、彼の傷ついた恩寵に奇妙な安らぎをもたらした。だが、その探求心は、広告に誘われるまま手を出した日から、彼の天使生を修復不可能なほどに変えてしまった。
「キャス! もういい、お前の王国は誰も壊さないから落ち着け!」
ディーンが悲鳴のような声を上げる。
「やあ、ディーン、サム……見てくれ。私の天空都市だ」
カスティエルが指し示した画面には、遥か50,000×50,000ブロックという広大すぎるフィールドに、緻密な神殿風の天空都市が築かれていた。点在する建築物はもはや微細な彫刻の域に達し、土ブロック一つ、水流の一滴、樹木の一本に至るまで、神の計算によって配置されている。周囲を徘徊するブタやウシ、オオカミさえも、彼にとっては完璧に配置されたアートの一部だった。
寝食を必要としない天使にとって、マイクラは底なしの沼だった。
「次は、ネザーで全自動のレッドストーン回路を開発せねば……」
「もういい! ネザーのマグマは全部抜き去っただろ! 干上がりすぎて地獄の面影もねぇよ!」
「だめだディーン。エンドに『神の居城』を作るという、私自身の任務があるんだ」
「わざわざエンドラを倒さずに、ペットに見立てて檻に入れてから城を建てるなんて、やってることが無茶苦茶だよ!」
「私なら出来る!! 私は、この世界の神だ!!」
暴走するカスティエルを羽交い締めにし、無理やり部屋の外へ引きずり出そうとする兄弟。だが、執念に燃える天使の怪力に、二人は木の葉のように弾き飛ばされた。
「いかん!!!!」
突然、カスティエルが絶叫した。その形相は、ルシファーが復活した時よりも悲痛に満ちている。
「クリーパーだ!! 私のアートが、あいつの不条理な自爆で……!!」
ドォォォォン、という虚しい効果音が部屋に響き渡る。
一ヶ月の心血を注いだ天空都市の一部が、緑色の悪魔によって無慈悲に吹き飛んだ。
静まり返る室内。カスティエルは深淵を覗くような瞳で画面を凝視し、やがて静かに、そして恐ろしいほど低い声で呟いた。
「……ワールドを、作り直す」
「おい待て、最初からやる気かよ!!」
兄弟の制止も虚しく、バンカーには再び、ブロックを積み上げる「コト、コト」という乾いた音が響き始めた。
好きそうなゲームは個人の感想です。
感情は持たないでください
『感情は持たないでください』
『それがあっては、この先きっと辛すぎる』
脳裏をかすめて飛び去っていく「誰か」の言葉に、意識の端が震えた。カスティエルは、遠ざかる意識の底で、蛍のように浮かんでは消える小さな光の中を漂っていた。
「ああ、また私は死ぬのか」
視界が白濁していく。その終わり際、かつて刻み込まれた絶対の禁忌が、古い断層のように剥がれ落ちては流れていく。
『人を愛さないでください』
『守るものは弱さになり、あなたはきっと後悔する』
天使として鋳造され、生かされてきた悠久の年月。億を数える時の中で、不文律として守り続けてきた神の教えが、今や遠い残響となって脳内を吹き抜けていく。
『自ら何かを選択しないでください』
『革新は安寧を揺らがせ、時にすべてを破壊する』
忠実な神の僕。個体としての存在意義の欠如。世界が正しくあろうと誤っていようと、介入する権利など持たぬ「機構」の一部。そこに命などないに等しかったはずだ。
『余分な知性は持たないでください』
『真実を知る必要はない』
私とディーンの違いは何だ。喜びも、悲しみも、これほどまでに似通っているというのに。あるいは似ているからこそ、私たちは求め合い、時に激しく憎しみ合うのか。
『情けはかけないでください』
『白と黒の間を見れば、あなたはきっと戸惑う』
この震える心は、一体誰のものだ。踏みにじられた「感情」という名のバグ。機械仕掛けのような涙。それは初めからそのように設計されていたプログラムに過ぎないのか。それとも――。
「カスティエル!! 起きやがれ、この唐変木!!」
不意に、鼓膜を震わせる怒声が響いた。
その声は、驚くほど温かい。痛いと泣くこの心を、もはや疑うことなどできない。人として、この胸に宿る熱量は、一体誰に帰属するものなのか。
「キャス! 早く目を覚ませ!」
強引に引き戻された視界の先、空は遥か遠くにあった。
悪霊に追い立てられ、ビルから落下した一般人の女性。彼女を抱え込み、クッション代わりに頭から地面へ激突した。飛べない天使としての、精一杯の「選択」。
すぐ傍らには、震えながらも無傷で立ち尽くす女性の姿。そして、心配のあまり苛立ちを爆発させているディーンが、こちらを覗き込んでいる。少し後ろでは、サムが周囲を警戒しながら安堵の吐息を漏らしていた。
ああ。私は、また「人」として生きることを許されたのだ。
「……すまない。ディーン。サムも」
差し出された無骨な手と、それを握り返す自分の手。
どちらも同じように、ひどく温かかった。
amazarashiのアンチノミーが好きでした
Don't wake me up(起こさないでくれ)
寂れた町のバーの片隅、サム・ウィンチェスターの周囲だけは、まるでスポットライトが当たっているかのように活気に満ちていた。
天性の社交性と、誰からも愛される末っ子気質の賜物だろう。サムがにこりと微笑めば、頑固な老人から警戒心の強い若者まで、面白いように口を開く。彼は単に情報を引き出すだけでなく、相手の話に真摯に耳を傾け、礼儀正しく接し続ける。その誠実な佇まいに、店内の対外的な評価はうなぎのぼりだった。
「ねえ長身のイケメンさん、何か知りたいことでもあるの?」
「この街じゃ見ない顔だね、一杯おごらせてよ」
次々と声をかけてくる客たちに対し、サムは心底楽しそうに応対を続けている。一方、カウンターの端で苦いビールを煽るディーンは、そのコワモテで取っつきにくそうな外見のせいもあって、話しかける者は稀だった。
ふとした合間に、サムが口角を緩めながらようやく自分のビールを口にする。その横顔を見て、ディーンは直感した。
(……こいつ、相当キてやがるな)
久しぶりの「他人との他愛ない会話」に心が潤っているのは確かだろう。だが、傍目には人懐っこいゴールデンレトリバーにしか見えないその笑顔の裏で、サムが無意識に神経を削り、無理をして「善き協力者」を演じ続けていることを、ディーンは見抜いていた。
また別の客が、お調子者そうな足取りでサムに近づこうとしたその時。
ディーンはサッと腰を上げた。
彼は店主から無造作にスケッチブックを借りると、太いマジックで一筆書き殴った。
『Don't wake me up(起こさないでくれ)』
「え、兄貴……?」
ぽかんとするサムの横にどっかりと腰を下ろし、ディーンはその大きな頭を軽く叩いて、自分の肩へと強引に引き寄せた。
「……あ」
何かに気づいたように、サムがふっと力を抜いて俯く。
「ありがと、ディーン」
「気にするな。……ちょっと寝とけ」
ぽんぽん、と大きな掌がサムの背中を叩く。
知らぬ間に溜まり続ける精神的な澱を見抜くのは、いつだって本人より兄の方が先だった。弟の重みを感じながら、ディーンもまた、背後の喧騒をシャットアウトするように目を閉じた。
その後、バーの片隅で寄り添って眠りこける二人を見つけたとある「地獄の王」が、ニヤニヤしながらスケッチブックの余白に一筆書き足した。
『Moose and squirrels are hibernating.(ヘラジカとリス、冬眠中)』
さらにその数分後、どこからともなく現れたとある「天使」が、寒くないようにと二人の肩にそっと自分のトレンチコートを掛け、満足げに消えていったのは、また別の日の笑い話である。
元ネタのファンアートがある。
かっこつける練習
「んー……やっぱ、だめかなあ……」
三人の狩り日和、夜明け前の澄んだ空気が漂うモーテルの駐車場。狩りは無事に片付き、あとは帰路につくばかりという時間帯だ。
「何を唸っている、サム」
「あ、いや……なんでも。なあ、キャス、ちょっとこれどう思う?」
ピザの最後の一切れを平らげるまで動かないと言い張るディーンを部屋に残し、先にインパラへの機材収容を始めていた二人。不意にサムが助手席のドアを開けたり閉めたり、奇妙な反復運動を始めた。
補充用の聖水瓶を手にしたカスティエルは、その不可解な挙動をじっと見つめる。
「……新しい悪魔召喚の儀式か?」
「違うよ。ほら、FBIの捜査官になりきって、車から降りた瞬間の『立ちポーズ』ってあるだろ?」
バタン、カチャ。サムはそう言いながら、助手席に滑り込んでは外に立ち、スッと背筋を伸ばす動作を繰り返した。
「ああ、あれのことか。いつぞや私が試みた際、『お前がやっても夜勤明けの事務員にしか見えないからやめろ』とディーンに酷評されたやつだな」
「あはは、それはひどいな。でも、潜入捜査において『一瞬のシルエット』が与える説得力は馬鹿にできないんだ」
サムは熱を込めて語る。ハイスクール時代の演劇部(大道具係)の経験ゆえか、彼は見せ方や演出に関しては意外なほどこだわりが強い。
「僕の場合、どうしても背が高すぎて、動くたびに重心がぶれて不格好に見える気がして……」
「ふむ。高身長の悩みというのは、世間一般にはあまり口にしない方が良さそうだが……私とて、君たちが巨大すぎるせいで、この器のサイズ感に一抹の劣等感がないわけではない。ジミーのせいではないがな」
「そうかな? ……でもさ、やっぱりディーンはずるいよ」
「何がだ?」
サムの口調が、にわかに熱を帯び始めた。
「あんなに食生活も生活習慣もデタラメなくせに、なんであんなに腹筋は割れてるし、立ち姿はモデルみたいに完璧なんだ! 中肉中背のくせに何を着ても似合うし、立っても座っても、どこをどう切り取っても画になりすぎるだろ!」
「サム……」
「仕事中のあいつに、写真写りの悪い瞬間なんて存在するのか!? どこをスナップショットにしても、一流ファッション誌のブロマイドにしか見えない。まともに見られないのは、酒を飲んで床に転がってる時くらいだよ!」
「サム、落ち着け。声がでかい」
「腕も脚も太すぎず細すぎず、バランスが良すぎるんだ。特にガチモードの乱闘シーンなんて、どこでシャッターを切られても隙がないだろ! ……あ、言っておくけど、これは別に褒めてるわけじゃないからな!」
カスティエルは、あまりの勢いに一歩後ずさった。
「……そうなのか? てっきり、重度の『兄自慢』が始まったのかと思ったが」
「違う! ……いや、まあ、過去にちょっとは自慢したこともあるかもしれないけど……そうじゃない、相棒として僕だってそれなりに見栄えを良くしたいんだ。説得力は大事だろ?」
インパラのフロントドアを片手で開き、コートの裾を払いながら颯爽と立ち上がる。その何気ない動作一つとっても、兄に負けている気がしてならない――そんな弟の切実すぎる(そして少々ズレた)対抗心。
カスティエルは、どこまでこの兄弟は些細なことで競い合うのだと呆れつつも、そっと悪戯っぽく微笑んだ。
「安心しろ、サム。本人には今の話、黙っておいてやろう」
「……絶対だぞ! 本人が知ったら有頂天のバカになって、一生イジられるんだからな!」
これが「平和」ゆえの悩みであるならば、悪くない。
ピザを完食し、何も知らないディーンが階段を駆け下りてくる音が聞こえた。それが、彼らにとっての開戦のゴングだ。
「おいお前ら! いつまで油売ってやがる、とっとと片付けろ!」
一人きりのピザ祭りを堪能し、満足げな表情でこちらへ駆け寄ってくるディーン・ウィンチェスターの姿を、カスティエルはゆるゆると嘆息しながら見つめていた。先ほどまでサムと交わしていた「モデル立ち」の議論。それが単なる弟の僻みではなく、極めて客観的な事実に基づいたものであることを、カスティエルは改めて痛感せざるを得なかった。
「いつまで突っ立ってやがる。とっととずらかるぞ!」
FBIの変装用スーツを纏ったままのディーンが、急かすように声を荒らげる。その姿は、確かに驚くほど様になっていた。
まず、その所作に一分の隙もない。長年のハンター生活で骨の髄まで染み付いた、周囲への警戒と戦闘への即応性。それが上質なスーツという殻に収まることで、皮肉にも「極めて優秀で油断のならない連邦捜査官」という完璧な擬態を生み出している。
サムに「絶対に緩めるな」と釘を刺され、律儀に結ばれたネクタイは、ディーンの魂の色を象徴するかのような深い赤のアメリカ式右下がりのレジメンタル。それが黒に近い濃紺のスーツと合わさることで、赤と黒という、強さと苛烈さを内包した彼らしい色彩美として結実していた。
車に手をかけ、身を乗り出すようにしてこちらを覗き込むディーンを見れば、彼が単なる中肉中背ではないことがわかる。彼は十分に長身であり、骨格も逞しい。ただ隣に立つサムが、人類の規格を超えてデカすぎるだけなのだ。
ホルスターの拳銃を何気なく叩いて位置を確かめる仕草。人目も憚らず、いましがたまでピザを切り分けていたのだろうナイフの汚れを拭いながら手の内でくるりと回し、鞘に収める流麗な手捌き。その一つひとつが、本人無自覚のままに「超武闘派のエリート捜査官」という、暴力的なまでのカリスマ性を放っていた。
「サム、確かにこれは……」
つい、サムとの約束を忘れて同意の言葉を漏らしそうになったカスティエルだが、慌てて隣の弟を見上げて、言葉を飲み込んだ。
練習の成果か、あるいは生まれ持った資質か。サムもまた、ディーンと対を成す形で見事に完成されたシルエットを描き出していたのだ。
ディーンが「動」と「直感」を象徴するなら、サムは間違いなく「静」と「知性」を司る美形だ。規格外の身長と、アメフト選手のような逞しい肩幅。本来なら野暮ったく見えるはずのロングコートも、彼が羽織れば足先まで完璧なラインを描く、舞台衣装のような美しさへと昇華される。
胸元を飾るクールなブルーのネクタイは、「ディーンとオソロの色なんて御免だ」という無意識の反抗心から選ばれたものだったと記憶しているが、それが彼の透徹した知性を極限まで引き立てている。Macの最新ノートパソコンを開き、スターバックスのテラス席で難解な暗号を解読していても、誰もが「やり手の頭脳派エリート捜査官」だと信じて疑わないだろう。
「兄貴こそ、いつまで食べてるんだよ。ピザの匂いが車内に充満してるじゃないか」
「うるせぇ、俺のガソリンだ。文句言うな!」
いつもの、代わり映えのしない兄弟喧嘩。しかしその光景すら、今のカスティエルの目には、これから重要犯人を追い詰めるための高度な作戦会議(ブリーフィング)を行う、最強の相棒同士にしか見えなかった。
「ふむ……」
カスティエルはそっと、自分の着古したベージュのトレンチコートの裾を引っ張ってみた。
ヨレヨレの襟、緩んだネクタイ、どこか浮世離れした自分の風体。
「この二人と『家族』として並び立つために……私も何か、特別な演出を考えるべきだろうか。例えば、このコートの翻し方一つとっても……」
「キャス!! 何をブツブツ言ってやがる、さっさと乗れ!」
「帰ろう、キャス。ディーンがまた機嫌を損ねる前に」
既にインパラの運転席に陣取り、急かすようにハンドルをバンバンと叩くディーン。そして、助手席から優しい苦笑を浮かべて手招きするサム。
その二人の、あまりにも自然な、そして完璧な「ウィンチェスターの円」の中に招き入れられ、カスティエルは肺に溜まった重い息を、静かに吐き出した。
「今行く、待ってくれ」
「キャスー? どうしたの?」
「なんだよサム、キャスのやつまたマイクラか? それともエンドラをペットにする計画でも練り直してるのか」
バンカーの図書室、サムが首を傾げながらディーンに問いかける。
「いや、なんか違うな……僕のヘアケア製品を貸してくれって持って行ったっきり、一時間も戻ってこないんだよ」
その時、バン、と勢いよく扉が開いた。現れたカスティエルの姿に、二人は思わず息を呑み、言葉を失った。
そこにいたのは、いつもの「くたびれた天使」ではなかった。
ほとんど彼の皮膚の一部と化しているベージュのトレンチコートは、この瞬間のために徹底的に吟味され、再構築されたようだった。裾の翻り方は迷いなくシャープに研ぎ澄まされ、エポレットからストームフラップ、背中を守る重厚なストームシールドに至るまで、戦闘服としての起源を誇示するようにピンと張り詰めている。
颯爽としたAラインを描くインバーテッドプリーツは、彼が本来「神の兵士」であったという峻烈な記憶を呼び覚まさせる。ウエストベルトに備わったDリングが、鈍い輝きを放ちながら彼の腰元を引き締めていた。
さらに、二人の目を引いたのはその頭髪だ。
ヘアケア製品は功を奏したらしい。いつものバカ丁寧な七三分けではなく、サムから借りたワックスを駆使したのだろう、無造作ながらも計算された野性的な短髪にまとまっている。今まさに最前線への号令を待つ軍人だと言われても、誰もが納得するであろう剛毅な佇まい。
カスティエルは二人よりも背が低い。だが、その身体に凝縮されたエネルギーは、物理的な筋力よりもなお強靭で、したたかに見えた。
何より、全身から溢れ出しているのは圧倒的な「神格性」だ。浮世離れしていながら、決して不快ではない超然とした威厳。不可視であるはずの青白いオーラがつま先まで宿っているかのように錯覚させ、深淵を湛えた青い瞳は、静かな、しかし確固たる意志を感じさせた。
「や、やあ。……ウィンチェスター」
無理に固めた髪がまだ気になるのか、ちょいちょいと指先でいじる仕草。それは間違いなく、かつての軍人の敬礼を彷彿とさせる鋭い所作だった。目の前に二人同時に現れたせいで、どちらの名前を呼ぶべきか迷い、結局苗字で呼んでしまったその無骨ささえも、神の兵士としての高踏さを孕んでいる。
「……どう、かな」
近寄り難いほどのオーラを纏いながら、どこか気恥ずかしそうに頭を掻く。その一瞬の隙が、張り詰めた空気を劇的な平穏へと塗り替えた。神の兵士が、ただの「人間に近い天使」へと戻る瞬間の、溜息の出るような美しいグラデーション。
「お、おう……なんだかよく分かんねぇが、決まってるじゃねぇか」
ディーンが呆気に取られたように呟く。
「キャス、もしかして……さっきの僕たちの話、気にしてた?」
サムの問いに、カスティエルは少しだけ視線を泳がせ、やがてスッと穏やかに微笑んだ。
「何のことだ。私は……ただ、君たちの家族であるというだけだ」
その微笑みは、感情の起伏が乏しいカスティエルが見せるものの中でも、ひときわ稀少なものだった。「天使の微笑み」という言葉がこれほど似合う瞬間はないほどに、それは柔らかく、慈愛に満ちていた。
「……キャスに変装はいらないね。そのままの君でいてくれ」
サムは肩を竦めて苦笑した。天使が本気で「身だしなみ」という概念に目覚めた時の恐ろしさと、それ以上に眩い救いのようなものを、彼は確かに見たのだった。
真面目にかっこつけたらどうなるかと思ったらかっこよかった。
男所帯
朝の柔らかな光がバンカーのキッチンに差し込み、サムは丁寧にハンドドリップしたコーヒーの香りを静かに楽しんでいた。穏やかな一日の始まりを確信していた彼に投げかけられたのは、あまりにも、そして救いようもなくしょうもない言葉だった。
「おい、ち〇こ見せろよ」
サムはマグカップを口元で静止させたまま、聞き間違いを疑うようにゆっくりと首を巡らせた。視線の先には、食後のリラックスモードというよりは、もはや緊張感の欠片も失ったディーンが立っていた。
「……は?」
「サイズの比較は男の常識だろ。ガキの頃、モテに直結するって散々競い合ったじゃねえか」
「それは……まあ、確かにやった記憶はあるけど。……いま? このタイミングで?」
サムの困惑を余所に、ディーンはキッチンのテーブルに腰掛け、まるで今日の狩りの作戦でも練るかのような真面目な顔で続けた。
「ここには俺とお前、それにカスティエルしかいねえんだぞ。男所帯なんだ、本来ならパンツなんていちいち律儀に履いてる必要すらないくらいの環境なんだよ」
「そういう最低なノリ、本気でやめてくれよ……。僕らはもう三十を過ぎた大人だろ。せめて爽やかなコーヒータイムを完結させてくれ」
「大人だからこそ、現実を直視しなきゃいけねえんだよ、サミー」
ディーンはなおも食い下がるが、サムは深い溜息と共に視線をコーヒーの表面に落とした。
テレビドラマの画面に映し出される彼らは、常に悲劇的な運命を背負い、血と泥に塗れながらもどこか英雄的な気品を纏っている。だが、カメラが回っていない、あるいは「尺」の都合でカットされた彼らの真実の『男同士の家庭』は、こうも下品で、下らなく、そしてどうしようもなく、ただの「野郎の共同生活」でしかなかった。
男同士の所帯は、時に下品で無骨なものだが、悪いことばかりではない。そこには、言葉にせずとも通じ合う、奇妙で厚い連帯感が流れている。
ある日の午後。バンカーのメインホールで、カスティエルが魂の抜けたような顔で立ち尽くしていた。その異変にいち早く気づいたディーンが、ビールを片手に声をかける。
「どうした、キャス。地獄の門でも開いたようなツラしてるぜ」
「あ、ああ、いや……」
「なんだよ。……はは、さては失恋か?」
ディーンが冗談めかして笑うと、カスティエルは驚愕に目を見開いた。
「……なぜ、それを!? 私の表情から心の機微を読み取ったのか?」
「適当に言ったのに図星かよ! マジか」
ディーンが吹き出す中、カスティエルは落胆した様子で、今も赤みの引かない頬をそっとさすった。
「ガソリンスタンドの女性店員にな……『君のガソリンになりたい』と、最上級の誠意を込めて伝えたんだ。そうしたら、世界が終わるかと思うほどの勢いで引っぱたかれた」
「……アハハ、バカだな~」
図書室の影で聞き耳を立てていたサムが、呆れ果てたように会話に加わった。一刀両断もいいところのストレートな言葉だが、その口元はけらけらと笑っている。それは、愚かな失敗を犯した同胞たる男に対する、彼なりの慰めだった。
「まあまあ、気にするなキャス! 振られた時はパーッとやるのが一番だ」
ディーンがカスティエルの肩を力強く叩き、サムに目配せをする。
「今夜は俺とサムの奢りだ! 町に出て、最高の一夜にしてやるぞ。朝まで飲み明かそうぜ!」
失恋した友には、死ぬ気で奢る。それは男同士のルール、ある種の儀式のようなものだった。
勝ちと負け、あるいは序列と実力がはっきりと価値観を左右する男社会の片鱗。これもまた、物語の「本筋」ではなかなか映し出されない彼らの特徴だ。
たとえば、サムはディーンの圧倒的な「かっこよさ」にうっかり見惚れてしまった時ほど、ムッとした顔をして「自分にだってそれくらいできる」と対抗心を燃やして強調しようとする。
また、兄弟が二人で巨大な偉業を成し遂げた直後、カスティエルがふらりと単独行動に走るのも、ただの気まぐれではない。彼は彼で、兄弟と肩を並べるための「手柄」を、男としての証明を、密かに求めて荒野へ向かうのだ。
下品で、負けず嫌いで、それでいて誰かが傷つけば財布を空にする。そんな彼らの「日常」は、今夜もビールの泡と共に深まっていく。
ガチで男所帯やったらこんなもんではないか?
映画日和
バンカーの深部、かつては無機質な倉庫だった一画は今やディーン・ウィンチェスターの執念が結実した究極のシアタールームへと変貌を遂げている。
かつてスクービー・ドゥーの世界に吸い込まれた際の幽霊騒ぎで見るも無残に破壊された巨大テレビ。
ディーンはその喪失を嘆くだけでなく復讐に近い情熱を持ってより巨大な「怪物」を買い直した。
壁一面を支配する90インチのスクリーンは暗転した室内で圧倒的な存在感を放っている。
部屋の片隅にはディーンお手製のバーカウンターが設えられた。
本物のバーのような品揃えとまではいかないものの、使い込まれたウイスキーのボトルと冷えたビールのラベルが並ぶその空間は、隠れ家的なバーシアターの趣を醸し出している。
かつてスクリーンの前に鎮座していた二つの特等席には新たに同型のチェアが一脚追加されていた。
今、その三つの椅子にはサム、ディーン、そしてカスティエルが並んで座り、膝の上で踊るポップコーンを蹴散らしながら一丁のリモコンを巡って激しい争奪戦を繰り広げている。
「待て、ディーン! 先週も君が選んだはずだ」
「兄貴、少しは僕らの意見も……」
「ダメだ。ここは俺が作った俺の城だ。設計者に優先権があるのは当然だろ!」
ポップコーンの粒が宙を舞い、影がスクリーンを遮る中、最終的にリモコンを勝ち取ったのはやはりディーンだった。
サムは根負けしたように深い溜息をついてチェアに深く腰沈め、カスティエルも「やれやれ」と言いたげな無表情のままトレンチコートの裾を整えて身を預ける。

「やっぱこれだぜ。大画面で見るなら、これっきゃねぇ」
ディーンが操作すると、あらゆる動画配信サービスと契約を結んだスクリーンが唸りを上げ、名作の幕が開いた。映し出されたのは『大脱走』。
1963年の作品ゆえ、映像の質感にはどうしても古めかしさが付きまとう。
しかしスティーヴ・マックィーンが演じるヒルツ大尉の不敵な笑みとパワフルな脱走劇は、90インチのスクリーンを通すことで色褪せない迫力を伴って蘇った。
捕虜たちが収容所の地下で、息を潜めてトンネルを掘り進める際の土の匂いまでが漂ってきそうな臨場感。
看守との神経を削り取るような心理戦、そしてあの有名なオートバイでの疾走シーン。
「……さすがに名作だよね。僕もこれは、学生の頃に何度も見たよ」
サムが思わず感嘆の声を漏らす。
ウィンチェスター兄弟にとってこの映画は単なる娯楽ではない。
劇中の暗号や合図を元に狩りの現場で使う独自のコードをいくつか作り上げたほど、彼らの人生にも深く根を下ろしている作品だった。170分という長尺も、彼らにとっては一瞬のように感じられた。
ディーンがリモコンを滑らせ、次に選び出したのは意外なタイトルだった。
スクリーンに躍り出たのは『マインクラフト・ムービー』。
世界的なゲームをベースにした、2020年代半ばにおける比較的新しいエンターテインメント映画だ。ジャック・ブラック演じるスティーヴと、ジェイソン・モモア演じるギャレット。ブロマンスの境界線を危うく漂うコメディタッチの友情劇に、ディーンはやんやの喝采を送り、バーボンを片手に声を上げて笑った。
「ディーン、君はもっと……こう、ウエスタン映画を好んでいたのではなかったか?」
カスティエルが、極彩色に彩られたブロックの世界とディーンの横顔を交互に見比べ、怪訝そうな声を出す。サムもポップコーンを口に運びながら、兄の意外なチョイスに目を細めた。
「僕も驚いたよ。さっきの『大脱走』みたいな硬派な戦争映画は兄貴らしいけど、こういう現代的なファンタジー系も守備範囲だったの?」
「おいおい、バカにするなよ。俺たちの稼業を考えろ。あらゆる世界の形態を知っておくのは情報収集の一環だ! それに……」
ディーンはグラスを揺らし、少しだけ不満げに口を尖らせた。
「……ウエスタン映画ってのは、最近じゃ新作がなかなか出てこねぇんだよ。『シェーン』やら『夕陽のガンマン』やら、昔の名作はもうヘビーローテーションしすぎて、セリフを全部暗記しちまった」
「最近でも、4Kレストア版の『ドル三部作』とかが出てるじゃないか。画質は最高のはずだよ」
サムがフォローを入れるが、ディーンは頑固に首を振った。
「あれだって結局は、昔の映画の復元だろ。もちろん素晴らしいけどよ、新作が見たいんだ。昔のやつは、あの頃のノイズ混じりのままで記憶しときたいんだよ」
画面の中では、ジャック・ブラックが叫び、モモアが豪快に暴れ回っている。ディーンは文句を言いながらもその最新のエンターテインメントを心底楽しんでいるようだった。
「まあ、このシアタールームで三人並んで座ってるなら、こういう騒がしい映画も悪くないな」
ディーンの呟きに、サムとカスティエルは顔を見合わせ、静かに微笑んだ。バンカーの重い扉の向こう側には常に死と隣り合わせの日常が待っているが、この90インチのスクリーンの前だけは、三人の「平和」が確かに守られていた。
バンカーに設えられたシアタールームには、90インチのスクリーンが放つ眩い光が充満していた。
次にリモコンを奪い取ったのは、カスティエルだった。
彼は使い慣れない電子機器をまるで天界の戦士が「天使の刃」を構えるかのような真剣な面持ちで振り上げると、動画配信サービスの膨大なラインナップを凄まじい勢いでスクロールし始めた。
「……まあね。この中で、こういうエンターテインメントに一番飢えてるのはキャスだってことは分かってたけどさ」
サムが、めまぐるしく切り替わる画面を見つめながら呆れたように、だがどこか温かな眼差しを向けた。
カスティエルは人間たちの文化や物語を学ぶことに深い関心を寄せており、特にドラマや映画のバックストーリーを追うことには並々ならぬ熱意を持っている。
「とっとと決めろ! せっかくの連休なんだ、時間を無駄にするんじゃねぇぞ」
バーカウンターで次のビールを物色していたディーンが背後から吠えるように促した。
カスティエルの指が止まり決定ボタンが押し込まれる。
「よし、これにしよう」

選ばれたのは『キューティ・ブロンド』だった。
チャーミングなエル・ウッズことリース・ウィザースプーンが数々の困難や偏見にさらされながらも持ち前のポジティブさと行動力で道を切り拓いていくコメディ映画の名作だ。
「あーね……。なんとなく、予想通りだよ」
サムが苦笑いしながらコーラを煽った。
カスティエルが選ぶ作品は往々にして「人間の感情の機微」や「ひたむきな努力」に焦点を当てたものが多い。
「ほんとにキャスは、こういう……女が主役のドラマだの映画だのが好きだよな」
アクションやウエスタンを好むディーンは自分の趣味とは180度異なる選出に興味なさげに肩をすくめる。
しかし、スクリーンの中でエルがピンクの衣装を翻し法廷で鮮やかに勝利を収める様子を、カスティエルは瞬きも忘れたような真剣さで見入っていた。
95分の本編が終了し、エンドロールが流れ始めると、カスティエルは満足げに深く椅子に身を沈めた。
「何を言うんだ、ディーン。愛はとても美しいものだ。そして、自分の信じる正義や目的のために、前向きに愛を追い求める彼女の姿勢もまた、非常に美しい」
「はいはい、ご立派なこって」
ようやく苦痛から解放されたと言わんばかりにディーンが温くなったビールの最後の一口を飲み干した。
彼は立ち上がり、照明をつけようとしたが、カスティエルの手が再びリモコンへと伸びた。
「まだだ! もう一つ、見たいものがある」
「まだ見るのかよ……。お、おい、待て……」

うんざりした声を上げていたディーンの手が止まった。
次にセットされたのは、大御所俳優レオナルド・ディカプリオが主演を務めるアクション大作『ワン・バトル・アフター・アナザー』だった。
娘を守り抜きながら血塗られた自身の過去に立ち向かう元革命家ボブの物語。
激しい銃撃戦や爆破シーンの合間に、不器用ながらも娘との絆を取り戻そうとする父親の葛藤が、90インチのスクリーンに克明に映し出されていく。
サムはその映像を眺めながら、ふと、隣に座るカスティエルの横顔を盗み見た。
スクリーンに反射する光が天使の静かな青い瞳を揺らしている。
「……なんか、キャスとクレアみたいだね」
サムが感嘆するように呟いた。
クレア・ノヴァク。カスティエルの器であるジミー・ノヴァクの娘であり、カスティエル自身が深い責任と家族のような愛情を感じている少女だ。
「このボブという男は革命家だけど、キャス、君は天使だ。どれほど不器用であっても、自分を必要としている娘や家族に向き直ろうと足掻く姿は、君によく似ているよ」
サムの言葉にカスティエルはしばらくの間、黙ってスクリーンを見つめていた。
物語の終盤、満身創痍のボブが娘を抱きしめるシーンで彼はポツリと、消え入りそうな声で答えた。
「私は、この男ほど立派ではない。……それでも、これは私がとても憧れる生き方だ」
ディーンは何も言わずただ静かに新しいビールを開け、二人の間に置いた。
バンカーの外では現実の時間が静かに流れている。
たとえ外の世界でどんな戦いが待っていようとも、この青白い光に包まれたシアタールームの中だけは不器用な家族たちが物語を通してお互いの魂の形を確かめ合う時間が続いていた。
バンカーにディーンが作り上げたシアタールームでは、90インチの巨大スクリーンが放つ光が三人の顔を青白く照らしていた。カスティエルが選んだ映画が終わり、次にリモコンを握ったのはサムだった。
ディーンがポップコーンを口に放り込みながら、弟の先手を打つように声を上げる。
「サム、お前の映画の趣味なんてのは長年の付き合いでよく知ってるよ。言わなくても分かる。どうせ『あれ』だろ」
「……あれ、とは何のことだ?」
一人だけハイコンテクストな会話の文脈から置いて行かれたような顔をして、カスティエルがぽかんと口を開けた。
サムは兄の皮肉に答えることなく、慣れ親しんだ手つきで冷静に特定のカテゴリーへとカーソルを滑らせていく。そして、迷うことなく一つのタイトルを決定した。

スクリーンに映し出されたのは、不気味な静寂と灰色の霧が漂う街の情景だった。同名の有名ゲームを映画化した『サイレントヒル』だ。
「サムの好みはホラーか。……なるほど、合点がいく」
画面を見つめ、カスティエルが心底納得したように深く頷いた。
「こいつ、ゲームの方も全作品ハマり倒してたからな。呆れるぜ」
ディーンは半分呆れたように言いながら、ポップコーンをガリガリと噛み砕く。
映画は、主人公ローズが娘のシャロンを救うため、呪われた地「サイレントヒル」へと足を踏み入れる物語だ。そこはクリーチャーがうごめく異世界であり、ただの廃墟ではない。サイレンが鳴り響くたびに世界観が変貌し、平穏な「表世界」から、血と錆にまみれた「裏世界」へと強制的に引きずり込まれる。
「これには面白い都市伝説があってさ」
サムの口調に熱が帯び始める。
「『サイレントヒル(静かな丘)』の名前の由来が、日本の『静岡』だって説があるんだ。調べれば調べるほど設定が深くてね。静岡県庁がエイプリルフールに『サイレントヒル県に改名する』ってネタを発表したこともあるほどなんだぞ」
「お前のダークなトピック好きには、兄貴として悲しくなるぜ」
ディーンがビールを煽りながら顔をしかめた。
「魔物や怪物なんて、現物のほうを死ぬほど見てきただろ。今更フィクションで見たいか?」
「ホラーは違うんだ! 普段の僕たちの常識や知識では分析できないような『ありえない状況』が、まっすぐに脳を突き刺してくる。その恐怖がエンターテインメントになるんだ。次に何が起きるかわからない不条理さが、すごく、こう……」
自分の熱量が行き過ぎたことに気づき、サムが少し恥じらうように言葉を途切らせた。すると、隣に座っていたカスティエルが、その大きな手のひらでサムの肩を優しく叩いた。
「人は、あまりに過酷な恐怖に直面し続けると、むしろ虚構の恐怖を見ることでそれを制御しようとすることもあるという。サム、君がそれだけ凄惨な経験をしてきた証拠だろう」
「……分かってくれる? ピエロが出てこないホラー映画に限定されるけど、どうしても好きなんだ。じゃあ、次はこれね」

サムの指先が次に選んだのは、先ほどの不条理ホラーとは一転して、壮大なスケールのSF金字塔『インターステラー』だった。
滅亡に瀕した地球を救うため元テストパイロットのジョセフが宇宙へと旅立ち、未知の惑星を探る物語だ。
終盤に登場する時空を超越した「五次元回廊(テセラクト)」の映像とそこで明かされる伏線回収の鮮やかさは、観る者を圧倒する。
「SFか……。ホラーよりはマシだが、相変わらず内容が重くて暗そうだな」
批評家のような目つきでディーンが画面を見やる。
「この映画の監修は物理学者のキップ・ソーンでね。ワームホールやブラックホールの描写が、科学的な現象として本物のように感じられるのがすごいんだ。すべてのシーンに、ちゃんとした科学的根拠に基づいた計算があるんだよ」
サムが誇らしげに語る中、ディーンはチェアに深く沈み込み欠伸を漏らした。
「……ていうか、眠くなってきたな。ドンパチはいつ起きるんだ? もっと派手な爆発とかは?」
「派手な破壊がメインの映画じゃないってば……」
一方で、カスティエルは画面に映し出される相対性理論の視覚化に深く見入っていた。
「サムらしいチョイスだ。相対性理論や重力の仕組みを、ここまで映画としての規模に落とし込むとはな。天使の視点を持ってしても、人間に対してこれほど上手く『宇宙の理』を語ることはできない」
「だろ? ディーンも、たまにはこういう『考える名画』を見たほうがいいよ。脳を休ませすぎだ」
「あんだと!? 人を脳筋扱いするな!」
ディーンの怒鳴り声と共に再びポップコーンの粒が舞う。
90インチのスクリーンには、冷徹な宇宙の深淵が映し出されていたが、その前の特等席には不器用で、それでいて確かな絆を持った家族の温かな喧騒が満ちていた。
自分の好きな映画しか出てねぇ…
