1
高宗紹興三十二年(1162)六月、帝は太子に帝位を継がせ、太子は即位した。
2
七月、帝(孝宗)は直筆の詔により張浚を呼んだ。
張浚が来ると、帝は感動した面持ちで言った。
「長らくそなたの名声を聞いている。いま朝廷が頼れるのはそなただけだ。」
そして張浚に座席を与えた。張浚は従容として言った。
「君主の学は心を根本とすべきです。一心に天意に合わせれば、できないことなどありません。いわゆる天とは、天下の公理であります。恐れ慎んだ態度で晴朗さを身に帯びていれば、賞罰やもろもろの行いに道理から外れることがなく、人心がおのずから陛下に帰し、敵に報いることができましょう。」
帝は恐れかしこまって言った。
「そなたの言葉を忘れてはならない。」
張浚に少傅(1)・魏国公の位を与え、江淮(長江と淮河の間の地域)を統治させた。
(1)少傅 職務実態を伴わない官名の一。
3
張浚は帝が智勇兼備であるのを見て、和議の誤りを力説し、意志を固めて領土の回復を図るよう勧めた。張浚は、水軍を派遣して海から山東を衝き、諸将に出撃させて掎角の勢(互いに呼応すること)により中原に向かうという作戦を構想していた。翰林学士・史浩は帝が即位する前からの旧臣であり、軍の機密にも関与することがあり、采石(1)・瓜洲(2)に築城することを考えていた。張浚はこれについて、両淮(淮東・淮西)を守らず長江沿岸だけを守れば、敵に弱みを見せ、防衛にあたる兵の士気を損なうことになるため、まず泗州に築城したほうがよいと言った。史浩は不愉快になり、張浚との仲が悪くなり、彼の計画を阻んだ。
(1)采石 安徽省馬鞍山市付近。
(2)瓜洲 江蘇省鎮江市の北。
4
十一月、金は僕散忠義を都元帥とし、紇石烈志寧を補佐とした。
このとき、金の主(世宗)は朝廷を挙げて敵国の礼(金に対する宋の身分)を正そうと考え、僕散忠義に軍事を統括させ、南京(1)に置いて諸軍を指揮させた。また、紇石烈志寧を淮陽(2)に駐留させた。僕散忠義の出発にあたり、金の主は言った。
「宋がわが領内を侵しても以前の通り貢納させるように。さすれば停戦することができる。」
僕散忠義は汴に着くと、士卒を観閲し、要害に分駐させた。
(1)南京 河北省北京市。
(2)淮陽 江蘇省邳州市の南。
5
孝宗隆興元年(1163)春正月九日、張浚を枢密使とし、江淮東路・西路の軍馬を統括させ、建康に官署を開いた。張浚は陳俊卿を推薦して江淮宣撫判官とした。
これ以前、帝は陳俊卿と張浚の子・張栻を行在(臨安政府)に呼び寄せた。張浚は上奏文を送り、帝に建康に行って中原の人々の心を動かし、両淮に軍を出動させ呉璘を救援するよう要請した。帝は陳俊卿に会うと、張浚の動静や普段の様子、顔色について尋ね、言った。
「朕は魏公(張浚)を長城のように頼りにしている。いい加減な噂で彼を動揺させることは許さん。」
張浚は江淮に官署を開くと、すぐに属僚を選んだ。張栻は若いときから内は密議を補佐し、外はもろもろの政務に参与し、官署の者たちはその実務力には到底及ばないと思っていた。張栻は行在に入ると上奏し、進言した。
「陛下は上は祖先の仇と恥に思いを致し、下は中原の民の苦しみを哀れに思い、中に憂慮し、これらを解決したいと思っておられます。私が思いますに、これは陛下の御心の発露であり、天理の存するところであります。どうかますます省察を加え、古代の先例を参考にして賢人に親しんで自らの助けとし、息をつかせる間もないようにすれば、今日の功はたちどころに成し遂げることができるでしょう。」
帝はこれを褒めて受け入れた。
6
三月一日、金の将帥・紇石烈志寧が国書を持参して来朝し、海(1)・泗(2)・唐(3)・鄧・商州(4)の割譲と歳幣を要求した。
これ以前、金軍十万人が河南に駐屯し、両淮を奪い取ると宣言し、朝廷はこれを恐れた。張浚は大軍を盱眙・泗・濠(5)・廬(6)州に置いてこれに備えるよう要請した。
ここに至り、紇石烈志寧は国書を張浚に届け、すべては皇統(金熙宗・1141~49)からの約束であり、この要求が呑めないのであれば兵を集めて相まみえようと伝えた。また、蒲察徒穆・大周人を虹県(7)、蕭琦を霊壁(8)に駐屯させ、食糧を積み城を築き、南攻の計を実行しようとした。
(1)海州 山東省連雲港市。
(2)泗州 安徽省盱眙県。
(3)唐州 河南省唐河県。
(4)商州 陝西省商州区。
(5)濠州 安徽省鳳陽県。
(6)廬州 安徽省合肥市。
(7)虹県 安徽省泗県。
(8)霊壁 安徽省霊璧県。
7
夏四月八日、張浚は命令を受け帝に謁見した。
帝は領土奪還の意を固めており、張浚は即日詔を下して建康に行くよう帝に求めた。帝がこれを史浩に問うと、史浩は答えた。
「まずなすべきは守りを固めることであり、よい諫言であると言えましょう。戦争と講和の協議の主導権は、かの国にあってわが国にはありません。思慮の浅い者(張浚)が教化に寄与しない軍を出撃させるのを許せば、敵がいなくなれば論功行賞して功績を自分のものにし、敵が来れば兵を集めて逃げ隠れ、一時の快楽をむさぼることになり、万世に渡り汚名を着せられてしまいます。」
史浩が退くと、帝は張浚を詰って言った。
「帝王の兵は万全を期するべきだ。試みに出撃させて幸運による勝利を求めるなどもってのほかだ!」
殿上での論争は続いた。張浚は内殿で帝に謁見し、史浩の考えを変えさせることはできず、機会を失するのを恐れていると言った。また、金人は秋になれば必ず辺境を脅かすため、金軍がまだ出発しないうちにこれを攻めるべきであると述べた。帝はこの言に賛同し、軍を出動させ淮河を渡らせようとした。三省・枢密院はこれを知らなかった。このとき、李顕忠・邵宏淵も虹県・霊壁を攻撃する策を献上し、帝は先にこの二つの城を奪取するよう命じた。張浚は李顕忠を濠州に送り、霊壁に行かせた。また、邵宏淵を泗州に送り、虹県に行かせた。
8
五月十四日、李顕忠と邵宏淵は宿州(1)で金人を破った。
(1)宿州 安徽省宿州市。
9
十五日、史浩が辞職した。
三省の者たちは邵宏淵が出兵しているのを見て、初めて出兵の命令が三省を経ていないのを知り、直ちに諸将に檄文を発した。史浩は陳康伯に言った。
「われわれは枢密使を兼職しているが、出兵のことなど知らされていない。ならばなぜ宰相を用いる必要があるのだ?辞職せずしてどうする!」
そして帝に謁見し、言った。
「陳康伯は今回の件を廉潔な者たちの責任にしようとしており、他日必ずや子孫の憂いとなるでしょう。張浚は確固たる意志で戦に臨んでいますが、一旦彼を失えば、陛下は中原の回復を望むことができなくなります。」
言い終わると辞職を強く願い出た。
侍御史・王十朋は史浩の八つの罪を挙げ、言った。
「史浩は邪悪な考えを抱いて国を誤らせ、党派を作り権力を盗み、諫言を嫌い賢人の登用を阻み、君主を欺き陛下を謗りました。」
このため帝は史浩を紹興府に転出させた。王十朋は再度このことを述べ、祠禄(1)を与えられた。
(1)祠禄 職務実態を伴わない官名の一。
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李顕忠は濠州の橋から淮河を渡り、陡溝に到着した。金の右翼都統・蕭琦は拐子馬(1)の戦法を用いて防いだが、李顕忠は力戦してこれを破り、霊壁を回復した。李顕忠は城に入ると民衆に恩徳を施す意思を伝え、一人として殺すことがなかった。このため宋軍に帰服する中原の民が相次いだ。
一方、邵宏淵は虹県を包囲したが、長らく降せなかった。李顕忠は霊壁の降伏した兵を送って損得を説かせ、金の守将・蒲察徒穆・大周仁が降伏した。邵宏淵はこの功績が自分の力によるものでないことを恥じていたが、このとき降伏した千戸(千人隊長)に、邵宏淵の兵が自分の刀を奪ったと訴える者がおり、李顕忠はすぐさまこれを斬った。このため二将は協力しあうことがなくなった。
ほどなくして、蕭琦が李顕忠に降伏した。
(1)拐子馬 乗馬した兵士三人を縄で結び一組にして戦う方法。
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十六日、李顕忠の兵は宿州の城に到着した。金人は防戦したが、李顕忠は大いにこれを破り、二十余里追撃した。邵宏淵が到着すると、李顕忠に言った。
「招撫(李顕忠)は真の関西将軍だ。(1)」
李顕忠は軍営を閉じて兵を休ませ、攻城の計を立てたが、邵宏淵らは従わなかった。李顕忠は部下の楊椿の兵を率いて城を登らせ、北門を開き、ほどなくして城を抜いた。邵宏淵らは最後列から城に向かい、ようやく堀を渡り城に登った。城中で市街戦が戦われ、数千人を斬首し、八千余人を捕らえた。宿州が奪還され、中原は震動した。
勝報が届くと、帝は直筆の詔を下して張浚をねぎらい、言った。
「最近もたらされた辺境からの知らせはみなを歓喜させている。ここ十年来このような勝利はなかった。」
しばらくして、邵宏淵は倉庫を略奪して兵をねぎらおうとした。だが、李顕忠はこれを許さず、軍を城から出させ、現金を与えてねぎらうにとどめた。兵たちは喜ばなかった。
詔を下し、李顕忠を淮南・京東・河北招討使とし、邵宏淵を補佐とした。
(1)招撫は真の関西将軍だ 李顕忠は金軍との戦いに敗れ、一時西夏に身を寄せ、延安招撫使に任命されていたが、それを踏まえた言葉。関西は潼関より西の意。
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二十三日、金の紇石烈志寧は睢陽(1)から兵を率いて宿州を攻めたが、李顕忠がこれを撃退した。
金の孛撒も汴から歩兵・騎兵十万を率いて宿州を攻めに向かい、明け方に城下に迫り、大きな陣を構えた。李顕忠は力を合わせて挟撃するよう邵宏淵に言ったが、邵宏淵は兵を留めて動かず、李顕忠はひとり配下の兵を率いて力戦した。このとき敵の大軍が到着したが、李顕忠は克敵弓(2)を射てこれを退けた。邵宏淵は兵たちに言った。
「今は夏の盛りで、扇をあおげば涼しいものの、この暑さには耐えられない。ましてや烈日のもと鎧を着て苦戦していればなおさらだ。」
これを聞いた者たちは心が動揺し、闘志を失った。
(1)睢陽 河南省睢県。
(2)克敵弓 神臂弓を改良した弓。
夜になり、金の中軍統制・周宏は太鼓を鳴らして大きく騒ぎ声を立てさせ、敵兵が来たと見せかけ、邵世雍・劉侁とともに配下の兵を連れて逃げ出した。続いて統制・左師淵、統領・李彦孚もまた逃げ出した。李顕忠が軍を率いて城に入ると、統制・張訓通、張師顔、荔沢、張淵らは李顕忠と邵宏淵の軍が連携していないのを利用して逃げ出した。
金人は宋軍の虚を突いて再び城を攻めにきた。李顕忠は力を尽くして防ぎ、二千余級を斬首し、積みあがった死体と牛馬の死骸が垣根のように平らな形をなしていた。城の東北の隅に敵兵二十余人以上がいたが、李顕忠は兵が持っていた斧を取ってこれを斬り、敵はようやく退いた。李顕忠は嘆いて言った。
「諸軍が互いに呼応するようにして城の外から攻撃させていれば、敵兵を全滅させ、敵将を生け捕りにし、河南の地は日ならずして奪還できただろうに。」
邵宏淵も言った。
「金は新手の兵二十万を増派していた。もし私の兵が戻らなかったら、不測の事態を招いていただろう。」
李顕忠は邵宏淵に中原を奪還する固い意志がないのを見抜いていたが、孤立するわけにもいかず、嘆じて言った。
「天はいまだ中原を平らげるのを望んでいないというのか?天はなぜこのように私の邪魔をするのだ!」
そして夜になって兵を引き揚げた。
二十四日、符離(宿州)に着いたところで軍は壊滅した。今回の挙兵で物資と兵器はほぼ全て失われたが、幸いにも金軍が再び南下することはなかった。このとき、張浚は盱眙におり、李顕忠は張浚に会いに行き、将軍の印を渡して罪を待った。張浚は劉宝を鎮江諸軍都統制とし、淮河を渡って泗州に入り、将士をいたわった。そして揚州に帰り、自らを弾劾する内容の上奏文を送った。
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二十五日、親征の詔を下した。
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六月四日、張浚が引退を願い出た。
これ以前、宿州に出向いた軍が帰還すると、講和を唱える士大夫らは張浚の失敗をあげつらった。帝は張浚に書簡を与えた。書簡にはこう書かれていた。
「今日の辺境のことは、そなたに多くをゆだねている。そなたは人の言を恐れてためらうようなことがあってはならない。先日挙兵したとき、朕はそなたとともにこの任務を引き受けた。今日もまたそなたとともにこの任務を終えるべきだ。」
これを受け、張浚は魏勝に海州を、陳敏に泗州を、戚方に濠州を、郭振に六合(1)守らせることにした。高郵(2)・巣県(3)の両城の守備を整えて拠点とし、滁州の関山の守備を整えて敵を押さえる要衝とし、水軍を淮陰(4)に、騎馬隊を寿春に集め、両淮の守備を大いに整えた。
(1)六合 江蘇省六合区。
(2)高郵 江蘇省高郵市。
(3)巣県 安徽省居巣区。
(4)淮陰 江蘇省淮安市。
帝は張浚の子、張栻を呼び上奏させた。そのとき、張浚は張栻に上奏文を渡し、こう伝えた。
「古来、有為の君主は、心腹の臣とともに話し合い志を同じくし、統治の功績を立ててきました。いま私はひとり陛下にお供していますが、ややもすれば敵に牽制されてしまいます。陛下はなぜ私などを用いるのですか?」
そして骸骨を乞うた(引退を願い出た)。帝はこの上奏文を読むと、張栻に言った。
「朕は魏公(張浚)に新たな官位を与えるのを心待ちにしているのだ。暇乞いの上奏文を日々送ってきているが、朕は許さんぞ。」
帝は近臣と話すとき、必ず魏公のことを口にし、彼の名を貶めることがなかった。使者を都督府に送るとき、いつも張浚の食事の量と、太っているか痩せているかを見るようにさせた。
ここに至り、帝は宿州の軍が壊滅すると、講和について近臣と話し合うようになった。湯思退を醴泉観使(5)・奉朝請(6)とした。
(5)醴泉観使 道観の管理者の官職の一。
(6)奉朝請 寄禄官の一。
十四日、帝は詔を下して自分を責めた。
ここにおいて、尹穡は湯思退におもねって張浚を弾劾し、江淮東西路宣撫使に降格させた。邵宏淵の官位を降格させ、建康都統制とした。
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王十朋は次のように上奏した。
「私は張浚とは面識がありませんが、彼は敵とともに生きないことを誓ったと聞いており、心から慕っています。以前輪対(1)したとき、金は必ずや盟約を破るであろうから、張浚を任用するよう申し上げました。陛下が帝位を継承されると、江淮の軍を監督するよう彼に命じました。いま、張浚は将を送って二県を取り、ひと月に三度勝利し、みな陛下が張浚を任用したことに感服しております。しかし、一旦わが国の軍が不利に陥ると、よこしまな議論が巻き起こるようになりました。今日の軍は祖先とその陵墓のため、二帝の復讐のため、二百年に渡って有した領土のため、中原の民を弔い罪を罰するため、前代までの誇張を好み事を起こそうとする者とは比べものにならず、ますます軍備を整え、時を待って出動しようとしています。陛下が領土回復の志を持たれれば、一度の失敗でみなの考えが揺れ動くことはなくなります。しかし、異論も入り乱れており、張浚は処罰を待っております。私はどうして御史の職にとどまり続けることができましょうか?流罪もしくは死罪を賜りたく存じます。」
そして言った。
「最近龍大淵を送り、淮南を落ち着かせようとしておられると聞きます。本当ですか?」
帝は言った。
「そのようなことはない。」
また言った。
「楊存中を御営使にしようとしておられると聞きます。」
帝は黙り込んだ。
王十朋を吏部侍郎に改め、その後知饒州(2)に転出させた。
(1)輪対 官僚が輪番で皇帝のもとに行き、時事について見解を述べること。
(2)饒州 江西省鄱陽県。
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二十日、李顕忠の官位を降格させ、筠州(1)安置とした。
(1)筠州 江西省高安市。
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八月八日、陳俊卿は張浚が降格のうえ地方に転出させられることについて、上奏した。
「張浚を用いないのであれば、別途聡明な将のもとに所属させるべきであり、後に功を立てることを望むのであれば、官位を下げて処罰を周囲に示すのもよいでしょう。いま都督の大権を奪い、揚州のような死地に置けば、上奏したいことがあっても台諫がこれを阻み、人心が離散し、どうやって後日の功績を望むことができましょうか?みなただ張浚を憎んで彼を殺そうとするのみで、国家のための計を立てようとしておりません。ここは詔を下して内外を戒めて協力させ、張浚に功を立てさせるようにしてください。」
上奏文が届くと帝は事態を悟り、張浚に江淮の軍馬を統括させることとした。張浚は劉宝を淮東招撫使とした。
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二十日、金の紇石烈志寧は三省・枢密院に国書を送り、海・泗・唐・鄧四州の地と、歳幣、臣を称すること、中原を本来の所有者のものとすることを要求し、直ちに停戦し、さもなくば農閑期を待って戦いに行くと伝えた。帝がこれを張浚に送ると、張浚は言った。
「金は強ければ襲来し、弱ければ踏みとどまるのであって、講和を望んでいるかどうかは関係ありません。」
湯思退は秦檜の一派であったが、急いで講和を求めた。陳康伯・周葵らもみな上奏した。
「敵は講和したがっており、さすればわが国の軍民は休息して自治の計を立て、中原に変事が起こるのを待ってこれを奪い取ることができます。これぞ万全の計であります。」
工部侍郎・張闡はひとり言った。
「かの国が和を欲するのは、わが国を恐れるからでしょうか?わが国を愛するからでしょうか?そうではなく、わが国をだまそうとしているからにほかなりません。」
そして六つの害を述べ、講和を許してはならないと説いた。帝は言った。
「朕もそう思っていた。ひとまずこの意見に従うこととしよう。」
二十七日、盧仲賢に返書を持たせて金の軍営に向かわせ、こう伝えることにした。
「海・泗・唐・鄧などの州は、正隆(金海陵王・1156~61)のときに貴国が盟約に背いたのち、本朝が使者を遣わす前に獲得したものです。歳幣に至っては以前の水準を保つことはできず、両淮の衰退の結果、要求する額は満たせないものと思われます。」
盧仲賢が帝に別れの挨拶をしに来たとき、帝は四州を与えてはならないと言い含めたが、湯思退らは四州を与えるよう命じた。張浚は上奏した。
「盧仲賢は小人であり、いい加減な性格をしています。大事を委任すべきではありません。」
帝は聞き入れなかった。
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冬十月一日、金の将(紇石烈志寧)の言った四つの要求について議論させたが、意見は様々であった。帝は言った。
「四州の地の割譲と歳幣は許すが、君臣の分と中原の帰属については従うことはできない。」
20
十一月二日、盧仲賢が宿州に到着すると、僕散忠義はこれを恐れて威嚇した。盧仲賢は恐れをなし、帰って命令を仰ぐと言い、僕散忠義が三省・枢密院に宛てた国書を持ち帰り、四つの要求が以下のように確定したと報告した。
一、国書を送り、伯父と甥の関係を称すること。
二、唐・鄧・海・泗の四州を手に入れること。
三、歳幣の銀と絹の額は従来通りとすること。
四、かの国の叛臣を帰国させ、中原を本来の所有者に返すこと。
盧仲賢が帰ると、帝は大いに悔やんだ。
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十三日、湯思退は、王之望を金国通問使とし、龍大淵を補佐とし、四州の割譲を許し、歳幣の半額を減ずることを金に求めるよう上奏した。
これ以前、王之望は都督府参賛軍事であり、次のように上奏した。
「君主が戦について論ずるのは、臣下とは違い、天意を受けるのみです。天意を見ますに、南北の形はすでにでき上がっており、互いにもう一方を兼ねるのは容易ではなく、わが方が淮河を渡って北へ向かうことができないのは、敵が長江を越えて南へ向かうことができないのと同じです。攻撃の力を他の場所に移して自らを守り、守りが堅くなったら機に従い事態の急変を抑え、有利な条件を選び状況の変化に応ずるのがよいでしょう。」
湯思退はこの言を喜んだ。ゆえに彼を金に送ることにしたのであった。
このとき、右正言・陳良翰は言った。
「以前送った使者は君命を辱めましたが、大臣らはこの失敗を悔いることなく、王之望を送ろうとしています。これは金が一兵も失うことなく、座して四千里の要害の地を手に入れるということです。決して四州の割譲を許してはなりません。歳幣は陵墓のある地(開封)を手に入れてから与え、大義名分が立つようにしてください。いま、議論がまとまらないうちに王之望が金軍のもとへ行こうとしていますが、恐らく国の名誉を辱めること、盧仲賢だけにとどまらないでしょう。まず誰か一人を先に行かせ、議論が決着してから王之望を行かせることにしても遅くはないでしょう。」
帝はこれに賛同した。
22
二十六日、胡昉・楊由義を金国通問所審議官とした。
張浚は金とはまだ講和すべきでないと強く訴え、帝に建康に行き、兵を進ませるよう求めた。帝は直筆の詔を王之望らに下し、一行の進物を戻し、国境地帯で待機させた。そして胡昉らを先に行かせ、金に四州の割譲は不可能だと伝えさせることとした。
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講和の使者について、朝廷で議論した。侍従・台諫とその他の者十四人が議論したが、講和を支持する者が半数、反対する者が半数であった。胡銓はひとり上奏した。
「京師を失陥したとき、汪伯彦・黄潜善は講和を支持しました。完顔亮が攻めこんできたとき、秦檜は講和を支持しました。みなは言っております、『外は講和しても内は戦を忘れず、講和は権臣の国を誤らせる言である。一たび講和に溺れれば自力で勢いを取り戻すことはできず、それ以上戦うことができるのか』と。」
24
陳康伯らは言った。
「金人が来て講和の話を持ちかけ、朝廷は盧仲賢を遣わしてこれに応じましたが、最も大きな問題は次の三つです。わが国が欲するのは旧来の礼式をやめることであり、かの国もこれに従うでしょう。かの国が欲するのは要求額通りの歳幣であり、わが国はその水準を保つことができません。いまだ結論が出ないのはかの国が四州を欲しがっていることですが、わが国は祖先の陵墓と欽宗の棺がここにあることから反対論が起こり、いまだ与えずにいます。どうか張浚を呼び戻し、百官に諮問し、侍従・台諫に議論させるようお願いします。」
帝はこれに従った。
群臣の多くは金人の要求に従おうとしたが、張浚および虞允文・胡銓・閻安中が上奏して反対し、講和してはならないと述べた。湯思退は言った。
「これらはみな利害が自分に関係ないため、大きなことを言って国を誤らせ、美名を求めようとしているのです。国家の大事が子供の遊びと同じだということがあるでしょうか?」
帝の意はついに定まった。
張浚は朝廷への道中で王之望が金へ向かうと聞き、上奏文を送ってその過ちを力説し、こう述べた。
「秦檜は講和を支持しながら他意を抱き、完顔亮の禍を招きました。秦檜の大罪はいまだ朝廷において正されることなく、彼の一派に悪事を働かせています。大事をなす者は人心を根本とすると聞きますが、今、内外の議論が決着を見ないうちに使者を遣わす詔が下され、中原の将士の敬慕の心を失っております。これでは他日誰が陛下のために命を賭して戦うというのでしょうか?」
帝は聞き入れなかった。
25
二年(1164)春正月二十日、金の将帥・僕散忠義が再び国書を持って講和について協議しに来た。
26
二月、胡昉が宿州から戻った。
これ以前、胡昉が金に到着すると、金人は信用を失ったとしてこれを捕らえた。帝は胡昉が捕らえられたと聞くと、張浚に言った。
「和議は成立しなかった。これも天命だ。これ以後は事は一つの道(戦争)をたどるしかない。」
このため王之望を歳幣とともに帰らせることとした。
ほどなくして僕散忠義は国書を金の主に進呈した。金の主はこれを読むと言った。
「あの使者に何の罪があるのだ?」
このため胡昉を帰らせ、辺境のことは元帥府の判断で処置させることとした。
27
三月一日、張浚に江淮の軍を監督させると、金軍は退いた。
これ以前、湯思退は和議が成立しなかったのを恐れ、国家の大計を定め、上皇に上奏してから今後のことを処置するよう帝に求めた。帝は三省に対して答えた。
「金の無礼な振る舞いは知っての通りだが、そなたはなおも和平について協議しようとしている。今日の情勢は秦檜のときとは違う。そなたの議論は秦檜も及ぶことがない。」
湯思退は大いに驚き、張浚を朝廷から追放しようと考え、王之望らに駅伝を使って上奏させた。
「兵は少なく食糧は乏しく、櫓と兵器がありません。」
また言った。
「四万の兵に泗州を守らせるのは良計ではありません。」
帝は戦をするかどうか判断に迷った。
このとき、戸部侍郎・銭端礼は言った。
「兵は凶器です。ここはどうか宿州の敗北を戒めとし、早急に国是を決め、国家の計を定めてください。」
これを受け、張浚に江淮の軍を監督させることとした。
このとき、張浚が呼び集めた山東・淮北の忠義の士を建康・鎮江の両軍に編入し、その数一万二千人に及んだ。万弩営が呼び集めた淮南の壮士および江西の群盗もまた一万余人に上り、陳敏がこれを統括し、泗州を守った。要害の地にはすべて城と砦を築き、川を険要とする場所には水をためて貯水池とし、長江・淮河の軍船を増やし、諸軍の弓矢と兵器を取りそろえた。金人は大軍を駐屯させ、みなで大声を出し、「剋日決戦(日を定めて決戦しよう)」の文字が書かれた旗があった。しかし、張浚が軍を監督していると聞くと、速やかに撤兵した。
ここにおいて、淮北で宋に帰順する者が後を絶たず、山東の豪族はことごとく宋の支配下に入ることを望んだ。張俊は蕭琦が契丹の名望家の出身で、冷静にして勇猛かつ知謀に富むことから、彼を利用して降伏した兵を自分の指揮下に入れ、檄文により契丹に言い聞かせ、援軍の派遣を約束させようと考えた。金人はますます恐れた。
28
二日、盧仲賢を降格させ、郴州(1)編管とした。
張浚の子、張栻は、盧仲賢は国を辱めたうえ、これといった功績がないと上奏した。帝は怒り、盧仲賢を大理寺の牢獄に下し、勝手な判断で四州の割譲を許した罪を問い、三官を剝奪した。次いで除名し、郴州に流した。
(1)郴州 湖南省郴州市。
29
夏四月二十三日、張浚を罷免し、福州(1)通判とした。
湯思退は右正言・尹穡に、張浚が横暴な振る舞いをし、数え切れないほどの国の財力を浪費したと述べさせ、張深に泗州を守らせて、趙廓に交代するのを受け入れず、命令に背いたと上奏した。また、督府参議官・馮方を非難し、これを罷免した。張浚は督府の職を解いてもらうよう願い出た。
このため、銭端礼・王之望に、両淮に命令を伝えさせ、張浚を朝廷に帰還させることにした。銭端礼は上奏した。
「両淮はうわべでは守りを固めていると言っていますが、守りは必ずしも固まってはいません。うわべでは兵を訓練していると言っていますが、兵は必ずしも訓練されてはいません。」
これは張浚を謗ったのである。張浚は平江に留まり、八回にわたり上奏し、引退を願い出た。帝は張浚の忠義心を察し、彼の志を全うさせてやりたいと思い、少師・保信節度使判福州に任命した。
左司諫・陳良翰、侍御史・周操は、張浚の忠節と人望の高さを述べ、国家の要職を去らせるべきではないと言ったが、いずれも罷免された。
(1)福州 福建省福州市。
30
秋七月二十二日、両淮の防備を取り払った。
湯思退は講和の成立を急ぎたく思い、辺境の防備を取り払わせた。寿春の城の建築をやめ、万弩営の兵を解散させ、船の建造を中止し、貯水池を取り壊し、軍功や賞与を奨励せず、海・泗・唐・鄧州の兵を解散させた。
31
八月、胡銓は上奏した。
「靖康から今まで四十年の間、大きな変事に三度見舞われましたが、いずれも和議が成立しました。ならばかの国と講和すべきでないのは明らかです。肉食の俗人は牢固として破ることができないと、みなが口をそろえて言っており、和議の害を知らないわけではないのに言い争って講和しようとする者は、三つのことを主張しています。すなわち、偸懦(怠惰)・苟安(一時逃れ)・附会(こじつけ)であります。偸懦とは建国のしかたを考えていないということであり、苟安とは鴆毒(毒鳥の毒)を警戒していないということであり、附会とは高位高官を望むということです。大小のもろもろのできごとの原因はこれらに帰せられます。
今日の議論が成立すれば、悼むべきものが十あり、成立しなければ、祝うべきものがまた十あります。これらを陛下のために直言させていただきたく存じます。悼むべきものが十あるとはどういうことでしょうか?
真宗皇帝の時代、宰相・李沆は王旦に言いました。
『私が死ねばあなたが宰相となるだろう。そのとき、決して敵と講和してはならない。出兵すれば外患はなくなるが、国法は滅ぶであろう。敵と講和すれば、以後中国は前途多難となるだろう。』
王旦はこの言葉に賛同せず、敵国と講和しましたが、天下の物資は枯渇しました。王旦は初めて文靖(李沆の諡)の言を用いなかったことを悔やみました。これが悼むべきことの第一です。
宋へ帰ることを願う中原の人々は、陛下の救いを日夜待ち望んでおり、赤子が父母の慈愛を求めるのと同じです。一たび敵と講和すれば中原の民は絶望に陥り、後悔しても及ぶことがありません。これが悼むべきことの第二です。
海州・泗州は今日の籬であり、喉もとであります。かの国が海州・泗州を得て、わが国の籬を破り部屋をのぞき、わが国の喉もとを押さえ命を制するようになれば、両淮を保つことはできません。両淮を保つことができなければ長江を守ることはできず、長江を守れなければ江南・浙江も安全ではありません。これが悼むべきことの第三です。
紹興八年に和議が成立すると、秦檜の建議により、路允迪ら二、三の大臣を南京(1)などの州に派遣し、わが国に土地を引き渡させました。しかし、かの国が盟約に背くと、路允迪らを捕らえ、親征の詔を下し、敵は再び講和を求めてきました。かの国が約束を破り詐術を用いたのはご存知の通りですが、秦檜は事態を悟らず、最初のときと同じようにかの国を重んじ、ますます謹んでかの国に仕え、ますます厚くかの国に賄賂を贈り、ついには完顔亮の侵入を招きました。皇帝は驚き、上皇は海に逃げようとし、行在(臨安政府)と民はがら空きになりました。この失敗はさほど遠くない時期のことであり、これを戒めとしなければ、後から来た車がまた転倒するのではないかと恐れられます。これが悼むべきことの第四です。
(1)南京 河北省北京市。
紹興の和議のとき、最初の議論ではかの国に中原を帰属させないとの結論を出しました。しかし、口もとの血が乾かないうちに以前の結論を変え、かの国に中原を帰属させることに賛成していた者たちが朝廷に戻され、程師回・趙良嗣らは自分の仲間を数百人集め、ほとんど内憂となりました。いま中原をかの国に帰属させることに賛成する者たちを集めて中原を与えれば、謀反を企てる者が変事を起こし、与えなければ敵は決してじっとしてはいないでしょう。謀反を企てる者とは近臣が変事を起こすということであり、敵は決してじっとしてはいないとは、別のことを口実に戦端を開くということであります。完顔亮に南侵の計画があるならば、どうしてこれをじっと待っている必要があるでしょうか?これが悼むべきことの第五です。
秦檜が国政を執ってから二十年間、民の膏血を絞り取って犬や羊の餌とし、今まで国庫にはひと月分の蓄えもなく、千の村、万の集落はせきばくとして蝗や大雨を頼りにしています。今から講和すれば、国をむしばみ民を害すること甚だしいものがあります。これが悼むべきことの第六です。
今日の弊害は戦費がかさんでいることであり、兵を養う費用のほか、歳幣の額が増したため、十年先まで資金が不足し、その費用はおよそ数千億であります。歳幣のほかには私覿(2)の費用があります。私覿のほかには正月や誕生日を祝う使者の費用があります。それらのほかには泛使(3)の費用があります。一人の使者がまだ出発しないうちに一人の使者が来て、民は命令を実行するのに疲れ、国庫は使者を迎えるために枯渇しております。中国を瘦せさせ敵を太らせ、陛下は何をはばかってこのようなことをするのですか?これが悼むべきことの第七です。
(2)私覿 官僚が個人の資格で皇帝に謁見すること。
(3)泛使 臨時の事務処理のため他国へ派遣する使者。
金人は侮蔑に満ちた国書をよこし、陛下の御名を書かせようとし、国号から『大』の字を取り去り、『再拝』の語を用いさせようとしたと聞きます。この書状への対処を議論した者たちは、煩瑣な文章や些細な字句のことなど問題にしない態度を取りましたが、この者たちは斬り捨てるべきだと私は思います。そもそも、城の郊外に敵の砦が多く築かれているのは、卿大夫の恥であります。楚子が鼎の軽重を問うた(4)のは、義士の恥じるところであります。『献』・『納』の二字を入れることに、富弼は命を懸けて反対しました。今、敵はあたり一面にはびこっていますが、砦が多く築かれるのとどちらが恥ずかしいでしょうか?国号の大小は、鼎の軽重とどちらが大きな問題でしょうか?『献』・『納』の二字は、『再拝』の二字とどちらが重要でしょうか?君主は己に屈しこれに従うべきだと思います。さすれば敵の砦が多くとも恥じるに足りず、鼎の軽重を問うても恥じることなく、『献』・『納』の二字についても反対する必要はありません。これが悼むべきことの第八です。
(4)楚子が鼎の… 天下を取ることを計画すること。ここで言う鼎は禹が鋳造させた九つの鼎のこと。夏・殷・周にわたって伝わり、伝国の宝とされた。
かの国の要求が再拝にとどまらず、臣を称するに至り、臣を称するにとどまらず、降伏を求めるに至り、降伏を求めるにとどまらず、領土を納めるに至り、領土を納めるにとどまらず、銜璧(5)するに至り、銜璧にとどまらず、輿櫬(5)するに至り、輿櫬するにとどまらず、晋の懐帝の青衣行酒(6)の真似をさせるに至り、その後に愉快な思いをする、ということが恐れられます。これが悼むべきことの第九です。
(5)銜璧輿櫬 降伏の礼。手を後ろに縛り、璧を口に含んで進物とし、死罪に処せられても異存はないことを表現するために棺を担いでゆくこと。
(6)青衣行酒 晋の懐帝が平陽(山西省尭都区)に逃げたとき、劉聡のために青衣(身分の低い者の服)を着て酒の給仕をした故事。
事ここに至り、わが国に匹夫となるよう求められても、そんなことができるでしょうか?これが悼むべきことの第十です。
今日の情勢を見るに、和議が成立せず、独断が許されるのであれば、使者・魏杞・康湑らを追って連れ戻し、講和の会議を中止して戦士を鼓舞し、哀痛の詔を下して民心を掌握したく思います。天下の人々もそうすべきと考えているでしょう。そうであれば、祝うべきものもまた十あります。
千億の歳幣を減額すること、これが第一。戦備に意を注ぎ、兵の食糧を充足させること、これが第二。陛下の名を書く恥をなくすこと、これが第三。国号から『大』の字を取り去る恥をなくすこと、これが第四。再拝の屈辱をなくすこと、これが第五。臣を称する怒りをなくすこと、これが第六。降伏を求める災いをなくすこと、これが第七。領土を納める悲しみをなくすこと、これが第八。銜璧・輿櫬の酷薄さをなくすこと、これが第九。青衣行酒の惨めさをなくすこと、これが第十。
十の悼むべきことを取り去り、十の祝うべきことを行えば利害は明らかとなります。これは三尺の子供でも分かることであり、陛下が悟らずにおりましょうか?『春秋左氏伝』には勇気のない者は婦人であると書かれていますが、今日朝廷に出仕している者はみな婦人であります。私の述べたことが間違いであるとお思いであれば、流罪を賜り、分をわきまえぬ者への戒めの例としていただきたく存じます。」
32
二十九日、宗正少卿(1)・魏杞を金に送り、講和について協議した。両国の位置づけについては、「甥大宋皇帝某、再拝して叔父大金皇帝を奉る」と称し、歳幣の額は二十万とした。帝は魏杞に対面して言った。
「いま使者を送って、一に両国の位置づけを正し、二に軍を退却させ、三に歳幣を減額させ、四に人に帰順しないようにしようとしている。」
魏杞は十七の事項について述べて問答になぞらえ、帝は各項目に認可を与えた。魏杞は帝のもとを辞するとき、上奏した。
「私は命に従い外国へ出向こうとしています。なぜ尽力しないことがありましょう。万一厭うことがなければ、速やかに兵を送っていただくよう願います。」
帝はこの言をよしとした。
銭端礼もまた国信所大通事(2)・王抃を金の軍営に行かせ、周葵に国書を持たせて僕散忠義および紇石烈志寧のもとに赴かせた。
(1)宗正少卿 宗正寺(宗室の名簿等の管理・宗室の子弟の教育等を担当する官署)の次官。従五品。
(2)国信所大通事 国信所(使者の往来を管理する官署)に属する使者。
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九月二十一日、湯思退を都督江淮軍馬にしたが、出発しようとしなかった。
これ以前、湯思退は講和を急ごうとして、侍御史・尹穡に牢獄を置くよう頼み、戦に備えた施設や兵器の撤去および土地の放棄に賛成しない者二十余人を捕らえて罪に問わせた。このため尹穡を諫議大夫に抜擢した。
ここに至り、湯思退を都督江淮軍馬に任命したが、固辞して江淮に行こうとしなかった。
二十三日、楊存中を同都督とした。
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冬十月二十九日、金兵は再び淮河を渡った。
これ以前、湯思退は帝が後悔したため講和が成立しなくなるのを恐れ、密かに孫造を金に遣わして大軍の力で講和を迫るよう言い含めた。このため僕散忠義らは淮河の渡河を計画した。
これ以前、魏杞が盱眙に留まっていたとき、僕散忠義は趙房長を送り来訪の意図を尋ね、国書を見せるよう求めた。魏杞は言った。
「国書は陛下が自ら封をしたものです。金の主に見えるのは朝廷の命によるものです。」
趙房長は早馬でこれを僕散忠義に報告し、僕散忠義は国書における両国の位置づけが指定の形式通りでないのではないかと疑った。また、商(河南省安陽市)・秦(陝西省咸陽市)の地の割譲および中原を金の帰属とすること、歳幣の額を二十万とすることを求めた。魏杞はこれを朝廷に報告した。このため帝は両国の位置づけを最初の形式によることとし、四州の割譲を許可し、歳幣の額を要求の通りとし、国書を取り替えたが、僕散忠義はなおも満足しなかった。
ここに至り、僕散忠義は紇石烈志寧と兵を分けて清河口から楚州に侵入し、都統制・劉宝は城を捨てて逃げ出した。
このとき、知楚州・魏勝は清河口の金軍への対処に専心した。金人は宋軍の隙をみて武器と鎧・食糧を舟に載せ、清河から出て辺境に侵入しようとした。魏勝はこれを知ると、忠義の士を率いて清河口で防ごうとした。金兵は泗州へ食糧を運ぼうとしているのだと偽り、清河口から淮河に入ろうとした。魏勝がこれを防ごうとすると、劉宝は講和が協議されている最中だと言ったが、聞き入れなかった。
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十一月四日、金兵が国境を越えた。
魏勝は軍を率いて淮陽(1)でこれを防ごうとしたが、卯の刻(午前5~7時)から申(午後3~5時)の刻まで勝負が決しなかった。そこへ金の徒単克寧が新手の兵を率いてやってきた。魏勝は力戦したが矢が尽き、丘に拠って陣を構え、士卒らに言った。
「私はここで死ぬ。逃げおおせた者は帰って天子にご報告するのだ!」
そして歩兵を前方に配置し、騎兵を殿として、淮陰(2)の東十八里の地点に到着したが、矢が当たって落馬して死んだ。楚州は陥落した。
金人は濠州(3)・滁州に入り、都統制・王彦は昭関(4)を放棄して逃げた。
(1)淮陽 江蘇省邳州市。
(2)淮陰 江蘇省淮安市。
(3)濠州 安徽省蚌埠市の東。
(4)昭関 安徽省含山県の北。
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九日、楊存中を都督江淮軍馬とした。
このとき、諸軍は各地に分散して守備についていたが、統率がとれていなかった。楊存中は諸将を集めて彼らを指導し、ようやく互いに援護しあうようにさせた。朝廷は淮河を放棄して長江を守ろうとしたが、楊存中が反対したため沙汰やみとなった。
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十日、湯思退が辞職し、永州(1)居住となった。
太学生・張観ら七十二人は上奏した。
「湯思退および王之望・尹穡はよこしまな人物で国を誤らせ、敵の侵入を招いた罪があります。この三人を斬り、天下に謝罪するようお願いいたします。あわせて彼らの一派である洪适・晁公武を流罪とし、陳康伯・胡銓・陳良翰・王十朋・金安節・虞允文・王大宝・陳俊卿・黄中・龔茂良・張栻を用い、大計を立てるべきであります。」
湯思退は信州(2)に着いたときこれを聞き、失意のうちに死んだ。
(1)永州 湖南省零陵区。
(2)信州 江西省上饒市。
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十七日、陳康伯を尚書左僕射同平章事兼枢密使とした。
このとき、金兵が淮河を渡り、人々は驚いた。張浚はすでに死去していたので、みな陳康伯を宰相とするよう望んだ。このためこの命が下ったのである。
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二十二日、王之望を長江に送り、軍を慰労した。
40
閏十一月五日、王抃は金の二将と会見し、返書を持ち帰った。
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二十四日、王之望が辞職した。
これ以前、金人が揚州に到着したとき、ある者がこれを攻撃するように言ったが、楊存中は長江を渡ろうとはせず、沿岸に砦を築いて守りを固めた。王之望は湯思退と呼応しており、領土を割譲して敵に与えるのを得策と考えていた。帝は折をみて金軍を攻撃するよう都督府に命じたが、王之望はみだりに進軍しないよう諸将に命じた。ある者がこれを非難したため、王之望は罷免された。
42
二十五日、王抃は金へ使者に赴き、陳康伯の返書を持って出発した。
43
十二月十六日、金人と講和について協議したことを受け、以下のように詔を下した。
「最近、王抃を遠く潁水に派遣し、盟約を結んだ。澶淵の盟の信義に基づき、大遼が国書に記した文言の礼儀にならい、朕に皇帝の呼称を用いるよう正し、両国を叔姪(叔父と甥)の関係とした。歳幣を十万減額し、国境を紹興のときと同一にした。
両国の無辜の民を憐れみ、反乱や逃亡を防ぐよう約束し、領土を取り戻すべく、ともに自国の領土に安心して住みたいという気持ちを持とう。金国に取られた数州の民のことを気にかけるに、一時の難に遭い、老人と子供が離散し、働き盛りの年齢の者たちは捕らえられた。このような苦しみを洗い流し、少しく国の衰退によって落ち込んだ気分を和らげるべきである。
戦乱の被害に遭った辺境の州軍は、逃げ出した官吏は許さず、その他の者は釈放せよ。」
これは洪适が起草したものだった。この文章について、以前領土を失ったことは天下にまだ知られていないのに、今これを大赦の文に記しては国の体面を失うことになると世間は評した。
44
乾道元年(1165)三月、魏杞が金から帰った。
これ以前、魏杞が燕山に到着すると、金の館伴(1)・張恭愈は国書に「大宋」と称しているのを、魏杞を脅して「大」の字を取り去らせようとした。魏杞はこれを拒み、言った。
「天子は神聖にして、才能ある者たちが奮起し、みな敵愾心を持っています。北朝が戦をすれば必ず勝つことができますか?」
金の君臣は輪になってこれを聞き、腕を組んで直立した。
金の主は歳幣の減額を許可し、中原の領有権を主張せず、同地に兵を置かないよう元帥府に命じた。魏杞は敵国の礼を正して帰国し、帝は厚く慰労した。
(1)館伴 外国の賓客に随伴する官吏。
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夏四月二十二日、金の報問使・完顔仲らが帝に謁見した。
46
十一月、両淮に散らばっていた忠義の士を集結した。
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三年(1167)六月九日、金は使者を送り捕虜を引き取りに来た。
詔を下した。
「民間に捕らわれている者は、これを返還せよ。軍中の者および寝返った者はこの限りではない。」
48
六年(1170)閏五月、起居郎・范成大が金国祈請使となり、陵墓がある地を返還し、受書の礼(国書を受け取るときの儀礼)を定めるよう求めることとした。泛使としての任務であった。
これ以前、紹興の盟が成立した日、金は勝手な判断で大臣を替えないよう約束させた。秦檜は金に媚びようと思い、礼制について盛んに議論させ、なかでも受書の礼について特に注力した。金の使者が来ると、国書を捧げ持って殿上に上り、北面して寝台の前に立ち、跪いて進み、帝が寝台を下りて国書を受け取り、内侍に渡した。金の主が即位すると使者が来て、陳康伯は伴使(使者に随伴する者)に国書を受け取らせ帝に進呈した。湯思退が政治を執るようになると、紹興の先例に従った。帝はこれを悔い、いつも泛使を遣わしてこれを正そうとした。陳俊卿はしばしば諫めたが聞き入れず、辞職した。
ここに至り、范成大を金へ使者に行かせることとした。出発にあたり、帝は彼に言った。
「そちには卓越した風格がある。だから朕が自ら使者に選んだのだ。みな騒然として使者に出向くのを憚っていると聞く。そのようなことがあろうか?」
范成大は答えた。
「ゆえなくして泛使を送れば紛争の原因となり、捕らえられずに殺されます。すでに私の職務を引き継ぐ者を立てておきましたので、不還の計をお立てください。」
帝は愁然として言った。
「朕は盟約に背くこともせず、兵を出撃させてもいないのに、なぜそちを殺すというのだ?齧雪餐氈(1)とはこのことか。」
范成大は国書とともに受書の礼一節を車に載せるよう願い出たが許可されず、出発した。
(1)齧雪餐氈 異国で雪や毛織物を食するような苦しい生活を耐え忍ぶこと。
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十二日、吏部尚書・陳良祐は以下の通り上奏した。
「陛下は領土回復の志を忘れておられません。しかし、言葉はみなが賛成するより尊いものはなく、このことを察しなければなりません。広く探し求めながら独断に帰することになれば、詳しく調べねばなりません。百官を用いて繫栄することがあれば、百官を用いて滅ぶこともあります。独断によって成功することがあれば、独断によって失敗することもあります。
いま使者を送れば戦端を開くことになり、万一敵騎が辺境に侵入すれば、民は納税が困難になり、州郡は税の徴収に疲れ、兵が並んで災いが起こり、いまだ休まるときがありません。将帥は平凡な者ばかりで、みな遠謀に乏しく、君主の前では死力を尽くすと言いながら、いざ戦陣に臨めばみな生きる道を探し求めます。符離(宿州)の役にあっては戦わずして自ら壊滅し、瓜洲で敵に遭遇したときは、敵を望み見ると驚いて逃げ出しました。これでは誰が戦うことができるでしょうか?これは私が戦に万全を期することができない所以であります。
また、いま獲得しようとしているのは河南です。この地は先年わが版図に帰しましたが、踵を返さぬうちに再び失いました。これが許せないのであれば、いたずらに使者の往来に時を費やすことになります。これを許せば金は必ず高額な歳幣を求め、支配が安定しないうちに民力が虚ろになりますが、わが国は再度これを取り戻そうとしています。この四郡は獲得するのが難しく、領有することはできないでしょう。今またゆえなくして侵された地を取り戻そうとするのであれば、陛下は虚勢によりこれを降すことができるとお思いなのでしょうか?ましてやただ陵墓を取り戻すだけならば、その地は四郡のなかにあります。以前これについて金国と協議しましたが、同国からの返書を読めば、これはほとんど戯れであることがわかります。
この二つは戦端を開く原因であり、使者を遣わす必要があります。さすれば欽宗の棺を取り戻すことができますが、なおお伝えすべきことがございます。このように反省が足りていないのでは、外国と戦をする時間などあるでしょうか?近い場所の支配を安定させることもできていないのに、遠方の地を安定させることなどできるでしょうか?」
この上奏文が受理されると、帝の意思に反したかどで瑞州(1)居住となり、次いで信州に移された。
(1)瑞州 江西省高安市。
50
起居郎・張栻は帝に謁見した。帝は言った。
「そちは敵国の事情に詳しいのか?」
「いいえ。」
「金国は連年飢饉に見舞われ、各地で盗賊が蜂起しているとのことだが。」
「金人のことは存じ上げませんが、国内のことであれば存じております。」
「どんなことだ?」
「近年全国で水害・干害が多発し、民は日に日に貧しくなり、国家は兵が弱く財が尽き果て、官僚はまじめに仕事をせず、頼みとするに足りません。まさにかの国にわが国を狙わせています。私はわが国がいまだかの国を狙うのに十分な力を備えていないのを恐れています。」
帝が長らく黙り込んでいると、張栻は再び言った。
「陵墓が隔絶した場所にあることは、この上ない痛みであると言わざるを得ません。今日陛下のお言葉を受けてかの国を討つこともできず、両国の位置づけを正してかの国との関係を断つこともできません。このような状態で謙遜した言葉遣いと厚い儀礼により、かの国に領土の割譲を要求しても大義は尽くされません。そしてなおも憂うのは、わが国に必勝の形を見ることができないためです。そもそも必勝の形は、定められた国書の文言を正すときにあるのであって、両国の決戦の日にあるのではありません。今はただ哀痛の詔を下し、復讐の大義を明らかにし、金人との関係を断ち、使者を送らないようにすべきです。しかる後に徳を修めて正しい政治を行い、賢人を用いて民を休養させ、将を選び兵を訓練し、内は修養し外は敵を追い払い、進んでは戦い退いては守り、これらをまとめて一つにし、実行を伴う統治をして中身のない文章を書かないようにすれば、必勝の形がおぼろげながら見え、見識が浅く臆病な者でも奮起して先を争うようになるでしょう。」
帝はこの言葉を心から受け入れた。
51
九月十五日、范成大が金から戻った。
これ以前、范成大は金に到着すると、受書の礼と陵墓の地について述べた上奏文を起草し、これを懐に入れて宮殿に入った。范成大が国書を進呈すると、語気は慷慨に満ち、金の者たちは君臣ともに耳を傾けた。范成大は言った。
「両国は叔姪の関係にあるのに、受書の礼においてはこのことに触れておりません。そのため私は上奏したのです。」
そして搢笏(1)を取り出した。金の主は大いに驚いて言った。
「ここは国書を献上する場なのか?」
側近たちは搢笏で范成大を叩いて立ち上がらせようとしたが、范成大はじっと動かず、返書を朝廷に届けようとした。范成大が宿舎へ帰ると金の朝廷は騒然となり、太子の完顔允恭は范成大を殺そうとしたが、ある者がやめるように勧めた。
金の返書にはあらましこう書かれていた。
「講和が再び成立し、以前と同じように山河に境界線を引くこととしたが、貴国から国書が突然届き、鞏県(2)と洛陽の返還を要求してきた。祭祀をやめても祖先を偲ぼうとするならば、臨安に廟を移してわが国からの返答を待ってもらいたい。欽宗の棺がいまだ貴国に帰っていないことについては、これを帰還の途に就かせるべきだと思っている。貴国はへりくだった言葉遣いで受書の礼を変えようとしていると聞くが、尊卑の分をどのようにするかについて、貴国の誓約の誠実さはどこにあるというのだ?」
このため両国の位置づけの修正、欽宗の棺の返還の二つの案件はうまくいかなかった。
(1)搢笏 臣下が君主に謁見するとき、帯に差し挟む竹製の細長い板。メモに用いる。
(2)鞏県 河南省鞏義市。