1
理宗宝慶三年(1227)七月、蒙古の君主テムジンが六盤山(1)において死去した。在位二十二年、廟号を太祖とした。テムジンには六人の子がいた。長子をジュチといい、せっかちな性格で戦を得意としたが、早世した。次子をチャガタイ、三子をオゴデイ、四子をトゥルイといった。ここに至り、トゥルイが監国(君主に代わり暫時国政を見ること)を務めた。
(1)六盤山 寧夏回族自治区隆徳県の北。
2
紹定二年(1229)八月、蒙古の君主オゴデイが即位した。
オゴデイは太祖が死去したと聞くと、霍博(1)から駆け付けた。耶律楚材は太祖の遺詔により諸王を集め、オゴデイに君主に即位するよう求めたが、トゥルイが監国を務めており、諸王の意は決しかねていた。楚材は監国に言った。
「これは国家の大計です。早く決めなければ変事が起こるでしょう。」
このため、監国は和林(カラコルム)の東の庫鉄烏阿剌里で、諸王とともにオゴデイを即位させた。このとき諸事が草創期ということもあって、儀礼は簡素で、楚材が定冊の礼を行い、皇族・諸王・首長らが列をなして拝礼した。
また、中原が新たに平定されたが、支配が行き届いておらず、地方の長官が生殺与奪の権を握っており、少しでも意に沿わぬ者がいれば刑罰をちらつかせてこれを従わせ、一家全員が被害に遭うこともあった。楚材はこのことを報告し、これをやめさせるよう命令した。
(1)霍博 新疆ウイグル自治区ホボクサル・モンゴル自治県。
3
淳祐元年(1241)十一月、蒙古の君主オゴデイが死去し、廟号を太宗とした。
オゴデイは酒をたしなんでいたが、晩年にはそれがひどくなり、耶律楚材がたびたび諫めたが聞き入れなかった。このため楚材は酒槽の鉄製の口を持って献上する姿勢を取りながら言った。
「この鉄は酒にむしばまれてこのような姿になっています。ましてや人の五臓はどうなるとお思いですか?」
蒙古の君主は酒量を少し減らすようになった。
この年の二月、病が篤くなり、脈が途絶えた。第六皇后乃馬真氏はどうすればよいかわからず、楚材を呼んで尋ねた。楚材は答えた。
「今、官僚は悪人が多く、官位を売ったり買収に応じて不正な判決を下したりして、無実の罪で獄に下されている者が多くいます。ここは天下に大赦を行うべきです。」
皇后はすぐにもこれを実行しようとしたが、楚材は言った。
「これは君命でなければなりません。」
しばらくすると蒙古の君主は息を吹き返し、皇后がこの話を伝えるとうなずいた。大赦が発せられると脈が戻った。
十一月に入ると、蒙古の君主の病が小康を取り戻した。楚材は太一(星の名)が見えるのをよい兆候だとし、狩りに行くべきではないと言った。側近たちは言った。
「騎射をしなければ何を楽しみにすればよいのだ?」
蒙古の君主は五日間狩りに出かけ、帰路に鈋鉄𨬟胡蘭に立ち寄った。アブドゥル・ラフマーンが酒を勧め、夜を徹して飲み明かし、帰った。その翌日、死去した。
オゴデイは何事にもちょうどよい程度を見定め、万事行き過ぎることがなく、中原は物資豊富で人が増え、羊と馬が群れをなし、天下太平と称された。
4
これ以前、蒙古の君主は命令を発し、孫のシレムンを後継者とした。シレムンは蒙古の君主の第四子クチュの子であった。
ここに至り、皇后は楚材を呼んでこのことについて尋ねた。楚材は言った。
「これは異姓の臣があずかり知らぬことです。先帝の遺詔があるので、これに従うべきです。」
皇后は従わず、カラコルムで称制(皇帝の代理)となった。
5
四年(1244)五月、蒙古の中書令耶律楚材が憂いのうちに死去した。
このとき、蒙古の皇后乃馬真氏が称制となり、アブドゥル・ラフマーンが国政を執り、その権力は天下を帰服させた。皇后は皇帝専用の紙に自ら文章を書いて命令を発した。楚材は言った。
「天下は先帝の天下です。朝廷には制度があり、今これを乱そうとされるならば、私は詔を奉戴いたしません。」
また、アブドゥル・ラフマーンが建議したことを令史が記録しなければ、その手を切断するとの命令が下った。楚材は言った。
「国の制度・慣例については、先帝がすべて私にゆだねたのであり、令史は何の関わりもありません。理にかなう命令であれば実行に移しましょう。しかし、命令を行うべきでないのであれば、私は死をも厭いません。まして手の切断が何だというのでしょう。」
皇后は不愉快になった。楚材は憂いのために病となり、死去した。
ある者が楚材をそしって言った。
「楚材は宰相になって二十年経ちますが、天下の税の半分を自分の家に入れています。」
そこで皇后が楚材の家を調べさせたが、琴阮(1)十余、古今の書画・金石・遺文数千巻が見つかるのみだった。楚材は宰相であったとき、色を正して朝廷に立ち、節を曲げることなく、常に国家の利害、人民の幸不幸について温和な態度で述べていた。太宗は言った。
「そちは民のために泣こうと思うか?」
楚材はいつもこう言った。
「一利を得るは一害を除くに及ばず、一事を生じるは一事を減ずるに及びません。」
人はこれを名言とした。
(1)琴阮 阮咸が作ったとされる、月の形に似た琴。
<宋子貞は言う、元は大乱の後を受け、天綱人理はほとんど失われ、加えて南北の政治はおおむね道理に反し、国と国を往来する臣はみな降伏した蛮族の者で、言語は通じず、考え方も一様ではなかった。楚材は一書生としてひとりその間に立ち、学んだことを実行しようとしたが、それは難しいと言うべきであった。そのためその才能を発揮できたのは十のうち二、三もなかった。楚材がいなければ人はどうすべきかわからないだろう。>
6
このとき、蒙古の諸王は、トゥルイの第四子クビライについて、天下を治める才能があると考え、延藩府の旧臣と各地の文学の士が国家を治めるための方針について問うた。
これ以前、邢台(1)の人劉秉忠は英邁で高遠な志を持った人物であり、このとき十七歳であった。邢台節度使府の令史となり、親を養ったが、鬱々として楽しまない日々が続き、ある日筆を投げうち、嘆じて言った。
「私の家系は代々官僚を輩出してきたが、今は没落して刀筆の吏となってしまった。男子たるもの不遇をかこつようであれば、隠居して栄達の道を求めるべきだ。」
そして令史の職を捨て、長らく武安山に隠れて僧となり、雲中に行き来した。たまたまクビライがほかの僧を呼び寄せたとき、劉秉忠はこの者とともにクビライのもとへ向かった。クビライに謁見すると、劉秉忠は質問に答え、クビライと意見が一致した。劉秉忠は読まない書はなく、天文・律歴(音律と暦法)・三式・六壬・遁甲(2)に精通し、天下のことを詳細に論じ、クビライは大いにこれを愛した。劉秉忠はまた張文謙を推挙し、これを掌書記とした。
(1)邢台 河北省邢台市。
(2)三式・六壬・遁甲 いずれも陰陽五行説に基づく占いの方法。
7
六年(1246)秋七月、蒙古の君主グユクが即位した。
グユクは太宗の長子であった。母の六皇后が四年間称制となっていたが、ここに至り、諸王百官がグユクを即位させようと提案した。このため汪吉宿滅禿里でグユクが即位したが、政治はいまだ皇后に握られていた。
8
八年(1248)三月、蒙古の君主グユクが横相乙児で死去した。廟号を定宗とした。
このとき、国内で大きな干害があり、川が涸れ、野草が焼け、牛馬の十分の八、九が死に、人は生きることができなくなった。諸王と各部族は諸郡に使者を送り財貨を要求し、西域・ウイグルからは宝石を取り、日本からは鷹と鶻を取り、駅馬が連綿と列をなして昼夜絶えることがなく、民力はますます困窮した。皇后オグルガイミシュはクチュの子シレムンを抱いて聴政していたが、諸王と大臣の多くが不服であった。
9
十一年(1251)六月、蒙古の君主モンケが即位した。
これ以前、定宗が死去したのち、長らく君主が立つことなく、内外は騒然としていた。ここに至り、諸王木哥と大将ウリヤンハダイらが一堂に会し、誰を立てるかを協議した。このとき、定宗后が遣わした使者がこの席におり、こう言った。
「昔、太宗は皇孫シレムン様を後継者に命じ、諸王百官はみなこれを聞いていました。今、シレムン様がいるというのにほかの者を君主に立てようとしていますが、シレムン様を何だと思っているのですか?」
ウリヤンハダイらはこれに耳を貸すことなく、モンケを闊帖兀阿蘭で即位させ、彼の父トゥルイを追尊して帝とし、廟号を睿宗とした。シレムンと諸弟は心穏やかならず、このためモンケは自分の即位に異論のある者を調べてこれを拘禁し、首謀者を捕らえて処刑した。全国に一時的な措置を発布し、不急の労役をやめさせ、諸王と大臣が乱発していた官印・詔令・命令をすべて中央に集約し、政治はようやく一つの権力に統一された。
10
秋七月、蒙古の君主は弟のクビライに漠南(1)を統治するよう命じ、漠南の軍民はフビライがこれを統治することを許し、金蓮川に府を開いた。
このとき、姚枢は蘇門に隠居していたが、クビライは趙璧を遣わしてこれを呼び寄せた。姚枢が来ると、クビライは賓客の礼をもって待遇した。姚枢は数千言の書を書いてクビライに献上し、初めに帝王の道について、次に現在取り組むべき課題について、三十ヶ条を述べた。クビライは彼の才能を気に入り、何かあれば必ず彼を呼んで質問した。姚枢はクビライに言った。
「今、土地・人民・財貨はみな漢の地にあり、王がこれらをすべて持つのであれば、天子とはいったい何なのでしょうか?のちに必ず王との関係が悪化するでしょう。ただ兵権だけを握るのが最上であり、これらのことはすべて当局に任せれば、物事は順調に進むでしょう。」
クビライはこの意見に従った。姚枢はまた、経略司を開封に置き、兵を分置して屯田を耕させ、西は襄州・鄧州から、東は清口・桃源(2)まで、砦を並べて守るようクビライに説いた。
(1)漠南 ゴビ砂漠以南の地。
(2)桃源 湖南省桃源県。
11
十二年(1252)二月、蒙古の君主は、以前諸王がシレムンを君主に立てようとしていたため、太宗后を拡端の居地の西に移し、諸王を辺境に流した。定宗后とシレムンの母は、まじないにより人を圧伏しようとしたとのかどで死罪とし、シレムンは没脱赤で禁錮に処された。
12
六月、蒙古の君主は中原に同姓の者を封じようと考え、弟のクビライに開封・関中のうち、どちらかを選ばせることとした。姚枢は言った。
「開封は黄河が河道をひっきりなしに変え、土はやせて水分が少なく、塩分が生じるため関中に及びません。宮廷所有の田は最上のもので、古名を天府陸海といいます。」
この言を受け、クビライは関中を蒙古の君主に求めた。蒙古の君主は言った。
「関中は戸数が少なく、河南・懐州(1)・孟州(2)は土地は狭いが民は多い。利益のある方を取るがよい。」
このためクビライは関中・河南の地をすべて領有することとした。
クビライと姚枢が夜に宴会を開いたとき、姚枢は、宋の太祖が曹彬に南唐を取らせたとき、曹彬の軍は一人も殺すことなく、市場は店を移すことがなかったと述べた。クビライは喜んで言った。
「私もそれに倣おう。」
姚枢は称賛して言った。
「王がそのような姿勢であれば、民の幸いであり、国の福であります。」
(1)懐州 河南省沁陽市。
(2)孟州 河南省孟州市。
13
開慶元年(1259)秋七月、蒙古の君主モンケが合州(1)城下で死去した。
モンケは沈着果断で口数が少なく、酒を楽しむことなく、祖先の法に従うと言っていた。狩りを好み、みこの占いを信じ、何か事を起こすときは必ず彼らに問い、暇な時間がなかった。廟号を憲宗とした。
(1)合州 四川省重慶市合川区。
14
景定元年(1260)三月二十四日、蒙古の君主クビライが即位した。
これ以前、クビライが南方征伐から北へ帰ったとき、廉希憲は、アリク・ブケが劉太平および大将霍魯懐に命じ、関右(潼関以西の地)で尚書省の業務を行わせていると聞き、諸将と結んで秦(陝西)・蜀を動揺させるのを恐れ、趙良弼を送って様子をうかがわせるよう要請した。趙良弼は証拠となる動きをつかみ、報告に帰った。このとき、諸王カダアン・オグル、モゲ、タガチャルが開平(1)に集まり、フラグも西域から使者を送り、クビライに帝位に就くよう勧めたが、アリク・ブケだけは来なかった。廉希憲らは強く言った。
「先に仕掛ければ人を制し、後に仕掛ければ人に制せられます。物事の成否、国の安危は間髪を入れることも許されません。すぐにも大計を定めるべきです。」
クビライは帝位を三度辞退したが、諸王・大臣は固く要請し、ついに即位した。
(1)開平 内モンゴル自治区ドロンノール県。
次いで以下のように詔を下した。
「朕は祖先を思うに、天下を創造し、四方を領有し、武功を立ててきたが文治に欠け、五十余年を過ごしてきた。時には先後があり、事には緩急があり、天下の大業は一人の帝王、一つの朝代が兼備できるものではない。先帝が即位したばかりのころ、風が吹き雷鳴が轟き、国が大いに栄えようとする勢いがあり、国を憂え民を愛する心は自分の身に迫るほどであったが、賢人を尊重し能力ある人を用いるという道においては、ふさわしい人を得られなかった。夔門(2)の軍を率いているとき、急遽先帝は崩御した。遺恨があるというのに天寿を全うすることができようか?朕は長江を渡り中国の奥深くに入ろうとしていたが、わが国で全軍が騒動になり、民が驚愕し、一時も落ち着いていられないと聞いた。朕はこれを恐れ、駅馬を乗り継いで帰ったのであった。目前の急変が落ち着いたとはいえ、国外での戦は収まらず、集まって協議し、よい提案を募ることとした。思いがけずも同姓の諸王たちは朕を推戴し、左右万里の諸王と大臣は招集してもいないのにやって来て、図らずして集まった。みなは言った。
『国家の帝位は長く空けてはならず、神と人から負託された責任は一時も放棄してはなりません。』
今日この言葉の通りにしようと思えば、太祖の嫡孫、先帝の子のなかで、聡明で年齢も長じているのは朕ただ一人であった。
『南征の間にあっても常に仁愛の念をもち、広く民衆に救済を施し、天下の主であるべきです。天は道理に従う者を助け、人は才能ある者を薦めようとするものです。祖先の遺訓である伝国の大典はここにあります。従わない者などおりません。』
朕は即位を再三にわたって固辞したが、みな切々と即位することを求め、死をもって誓うほどであった。このため朕は衆論に従い、帝位に就くこととした。朕は愚かなうえ多くの困難があり、淵の水を渡るかのようで、悠然と渡ることを知らない。即位の初めにあって、深遠な法を改め、時の変化に合わせるべきであり、今日にあっては実益を施し、空虚な文言を尊ぶべきではない。太平の世がすぐに到来するものではないとはいえ、飢えと渇きはまず先に解決すべき務めである。ああ、天命は定まり、喜んで上天の命に応じ、自らこの負託に応え、祖先の法を忘れることはない。天に頼って建国し、民とともに新たな政治を始め、朕の力の及ばないところは遠近の親族を頼り、内外の文武の官は心を共にし力を合わせ、行うべきものを進め、行うべきでないものを廃せよ。各地にこのことを告げ、わが意思を理解させよ。」
(2)夔門 四川省奉節県の東にある峡谷の名。蜀の門戸に例えられる。
15
夏四月、蒙古のアリク・ブケはクビライが即位したと聞くと、アランダールに命じて漠北の諸部で挙兵させ、各地に腹心らを送り、将軍を交代させ、金品を贈り、士卒に物を与えた。また、劉太平・霍魯懐に関中の金銭と穀物を接収させた。
このとき、クンドゥカイは先代の将兵を六盤山に駐屯させており、劉太平らは密かにこれと結託していた。クンドゥカイはまた成都のメリク・ホージャ、青居(1)のキタイ・ブカのもとへ人を送り、ともに反乱を起こすよう約束させた。アリク・ブケはカラコルムで帝を自称した。
(1)青居 四川省南充市の南。
16
五月、蒙古の劉太平・霍魯懐は、廉希憲が来ると聞くと、駅馬に乗って急ぎ京兆(西安)に入り、反乱を起こすよう謀議した。秦州の人々は、以前アランダール・劉太平らにひどい目にあわされていたため、彼らが来ると聞くと、みな肝を冷やした。二日後、廉希憲が来るとクビライの詔書を見せ、六盤山に人をやって落ち着くよう言い聞かせた。
ほどなくして、城門の斥候がある急使を中に引き入れると、その急使は六盤山から来たと言った。廉希憲はこの者に尋問し、劉太平・霍魯懐とクンドゥカイ、メリク・ホージャ、キタイ・ブカが結託しているのを知った。廉希憲は部下を集めて言った。
「主上が我らを使者に命じたのは、まさに今日のためだ!」
そして人をやって劉太平・霍魯懐らを捕らえ、劉里馬を送って成都でメリク・ホージャを処刑し、汪惟正を送って青居でキタイ・ブカを処刑した。また、総帥汪良臣に秦州・鞏州(1)の諸軍を率い、クンドゥカイの討伐に向かわせた。汪良臣がまだ命令を受けていないうちに別れの挨拶をしに来ると、廉希憲は佩いていた虎符(2)と銀印をほどき、これを汪良臣に与えて言った。
「これらは陛下が自ら下した密命だ。君はただ私のために働いてくれればよい。命令書はすでに上奏された。」
汪良臣は出発した。また、蜀の兵四千を選抜し、蒙古の将八春にこれを率いさせ、汪良臣の援軍とした。このとき、劉太平らの罪を許す詔書が届いたが、廉希憲は牢獄で劉太平らを殺すよう命じ、彼らの死体を街中にさらしていたところ、この詔書を受け取りに出向いた。クンドゥカイは京兆に備えがあるのを知ると、西に向かって黄河を渡り、甘州(3)に向かった。アランダールがカラコルムから兵を率いて到着すると、クンドゥカイとともに南へ向かった。このとき、諸王カダアン・オグルも騎兵を率い、八春・汪良臣とともに三つの道に分かれてこれを防ごうとした。
(1)鞏州 甘粛省隴西県。
(2)虎符 虎の形をした札。兵権を表す。
(3)甘州 甘粛省張掖市。
布陣を終えると、強風が砂を巻き上げるなか、汪良臣は兵に下馬を命じ、短剣を持った兵が敵陣の左翼を突き、敵陣の背後に出ると、その右翼を攻撃して敵陣から出てきた。八春は敵陣の前方を突き、カダアン・オグルは精鋭騎兵を率いて敵軍の帰路を断ち、甘州の東で大いに戦い、クンドゥカイ、アランダールを殺し、関西・隴西は平定された。
廉希憲は使者を送り、刑を停止して大赦を行い、諸軍を徴集し、独断で汪良臣を統帥とした罪を自ら弾劾した。蒙古の君主は言った。
「そなたには一方面のことを任せ、自主的に判断させようと思っている。通常のやり方にこだわっていては、機を失することだろう。」
そして廉希憲に金虎符を与え、平章政事とし、秦・蜀の行政を一任することとした。商挺を参知省事とした。
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二年(1261)冬十月、蒙古の君主クビライは、アリク・ブケが命に背いたとの名目で自らこの討伐に乗り出し、シムルトゥで戦った。諸王カダアン・オグルらはアリク・ブケの兵三千人を殺し、タガチャルの軍が複数の道から襲撃して大いにこれを破り、北へ五十里の地点まで追撃した。クビライは諸軍を率いてこの後を追い、三方面からアリク・ブケに迫り、その部将の多くが投降した。アリク・ブケは北へ逃げ、クビライは引き返した。
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五年(1264)秋七月、蒙古のアリク・ブケはシムルトゥでの敗北以来、軍を立て直すことができずにいた。
ここに至り、諸王ウルン・タシュ、アスタイ、シリキおよび謀臣ブルガイ、阿里察、脱忽思らは自ら上都(1)に戻った。蒙古の君主は、諸王がいずれも太祖の血筋であることから、彼らを許して不問に付した。しかし、謀臣ブルガイらは処刑された。
(1)上都 内モンゴル自治区シリンゴル盟正藍旗の南。