巻92 三京之復

Last-modified: 2025-08-27 (水) 14:41:08

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理宗端平元年(1234)六月、軍を出動させ、三京(さんけい)(1)を回復するよう(みことのり)を下した。

このとき、趙范(ちょうはん)趙葵(ちょうき)は時の勢いに乗じて中原を平定させようと考え、黄河を守ること、潼関(どうかん)に拠ること、三京を回復することを提起した。みな時期尚早であるとしたが、鄭清之(ていせいし)だけはこの案を強く支持した。このため、趙范に命じて官署を黄州(2)に移し、即日兵を進ませることとした。趙范の参議官丘岳は言った。
「新興の敵(蒙古)が新たに盟約を交わして退却しましたが、その勢いは盛んです。しかし、得たものを捨てて人に与えることがありましょうか?わが軍が行けば、敵は必ずすぐにやって来ます。そうなれば軍の進退の拠りどころを失うのみならず、ここから戦が始まることでしょう。また、千里を長駆して空城を争い、これを得たとしても、食糧の輸送に努めることとなり、必ずや後悔することでしょう。」
趙范は聞き入れなかった。

(1)三京 東京開封府(河南省開封市)・西京河南府(河南省洛陽市)・南京応天府(河南省商丘市)。
(2)黄州 湖北省黄岡(こうこう)市。

史嵩之(しすうし)もまた荊襄(けいじょう)飢饉(ききん)に近い状態にあり、まだ挙兵すべきではないと言った。杜杲(とこう)も国境を守ることの利と出兵の害を述べた。喬行簡(きょうこうかん)はこのとき休暇中であり、以下のような上奏文を送った。
「八陵(3)には朝見の道があり、中原には回復の機があり、有為の資質を持つ者があれば、有為の機会を得ることができます。ならば事を成功に導くには、座して策をめぐらすべきです。私は挙兵しても功績がないのを憂えるのではなく、戦を続けられなくなるのを憂えるのであり、功績があっても戦を続けられなくなれば、憂いは深くなります。

(3)八陵 北宋の七人の皇帝(太祖から哲宗)と太祖の父宣祖の陵墓。

古来、英君というものは必ず先に内を治めてから外を治めてきました。陛下が今日の内政を見るに、成功を収めることができましたか?いまだ成功していませんか?まだ皇帝の権力を握る前、その弊害はいくつありましたか?いま親政を行っておられますが、改めることができた弊害はいくつですか?君子を用いたく思っても、いまだ彼らの志は完全には遂げられておらず、小人を退けたく思っても、いまだ彼らの心は完全には変わっておりません。陛下は弊害を改めようとお考えですが、士大夫はいい加減で責任を果たそうとしていません。

朝廷には賄賂や汚職の禁令がありますが、州県は汚職にまみれて飽くことを知りません。新たな紙幣を発行しようとしても、地方で発行される新券は価値が低くて普及せず、物価を安定させようとしても、都の物資は以前の価格と同じで変わることがありません。法律や規則は弛緩(しかん)して行われず、賞罰や号令は軽視されて厳格さを欠いています。これらはみな陛下の国内の官吏であり、彼らに命令しても従わず、彼らに何かさせようとしても従うことがありません。これでは天地を開閉し、天下を統一し、奸雄(かんゆう)を制し、夷狄(いてき)をくじこうとしても、自分の思い通りになるでしょうか?これが、私が憂えることの第一です。

古来、帝王が民を用いようとすれば、必ず先にその心をつかんで根本としてきました。数十年来、上下とも利を懐に抱いて接し合っていますが、いわゆる義というものがあるのを知りません。民が命令を守ることに不満を抱けば、いざという時にその場にとどまって死力を尽くす者がいるでしょうか?将校を愛さなければ、陣に臨んで勇気を奮い起こして前進する者がいるでしょうか?恨みと怒りを普段から募らせ、難を見れば避け、敵に会えば逃げ、自分の利益だけを気にかけるようであれば、他の者を救うことなどありません。人心がこのようであり、陛下が民を団結させ、北へ行き戦に従事させようとしないのであれば、忠義の心がどうやって芽生えるというのでしょうか?ましてや、わが国の民は州県の収奪に苦しみ、豪族による兼併に困窮し、飢えと寒さに苦しむ民は時勢に乗じて恨みを晴らそうとし、茶と塩を略奪する盗賊はすきを見て動こうとしており、国内の憂いはいまだ安定しておりません。万一国外で戦が起これば、強敵に拘束されて休むこともできず、潢池(こうち)赤子(せきし)(4)(反乱分子)が再び江(江蘇)・(びん)(福建)・東浙(とうせつ)(浙江東部)でわき起こるようになります。これをどうするのでしょうか?民は愚かではありますが侮ってはなりません。地方の軍備が貧弱なのは、民が平素から軽んじていることです。往時の江・閩・東浙の反乱は、いずれも辺境の兵の力を借りて制圧しました。今なお彼らは山谷に多く隠れており、村を襲おうと伺っています。彼らは朝廷が北方と戦っているのを知っており、互いに連携してはいないものの、そのよこしまな心を動かさずにいるでしょうか?これが、私が憂えることの第二です。

(4)潢池の赤子 「海のほとりは遥かに遠いため、聖化に(うるお)っておらず、その民は飢寒にくるしんでいるのに、役人がこれを(すく)わない、そのことが陛下の赤子を盗賊にさせ陛下の兵を潢池(いけ)の中に翻弄させているだけのことです。」(小竹武夫訳『漢書』巻89循吏伝第59ちくま学芸文庫、1998、p.410)を典拠とする語。のち、反乱・造反を意味するようになった。

古来、英君というものは、必ず将を選び兵を訓練し、財を豊かにし食糧を充足させてから事を行ってきました。今、辺境は広く開けており、出兵するにも一つの道では足りません。陛下の将で一つの方面を受け持たせるに足る者は何人ですか?勇敢でよく戦える者は何人ですか?博識で智謀に富む者は何人ですか?屈指の実力を持つ者二、三十人を得なければ、彼らに尽力させることはできないでしょう。陛下の兵でよく戦える者は何万人ですか?複数の道から京師・洛陽に赴く者は何万人ですか?留まって淮南(わいなん)襄陽(じょうよう)を守る者は何万人ですか?二、三十万人を軍籍に入れなければ、前に進んで攻め取ることはできないでしょう。将帥の威望が高ければ、その気概によって帰順を勧め、褒賞によって激励し、軍に推挙して将とすべきであり、帰順を受け入れて兵とすべきですが、私は銭と食糧がどこから出ているのか知りません。

十万の兵を出動させれば日に千金を費やします。千里にわたって食糧を送れば、兵は飢えることになります。今の食糧の輸送は、毎日やむことがなければ毎月行うことになり、毎月やむことがなければ、毎年行うことになります。何千の金を積めばその費用を供出できるかを知らないのです。今、民には(けい)(打楽器の一種)を吊り下げた部屋が多く、州県には空の庫が多くなっています。大軍を一度動かせば、その費用は多くの方面にかかります。どうやってそれを賄うおつもりですか?今、陛下は金帛(きんはく)を愛することなく、辺境の臣からの求めに応じておられますが、一度ならよくても二度目は応じることができず、二度目まではよくても三度目は応じることができない状態です。再三辺境からの求めに応じても戦が終わっていないとすれば、停戦したければ以前の功績(取り戻した領土)を捨てることになり、無理にでも続けようとすれば力がありません。国に物資が足りなければ民もまた耐えることができません。まだ北方の土地の奪還を図ることもできずにいるのに、南方で騒動が起こるのを私は恐れています。

中原が踏み荒らされた結果、各所が何もない荒野となっていますが、東南に運べる米があったとしても、道のりは遥かに遠く、どうやって食糧の欠乏を解消できるというのでしょうか?淮南(わいなん)から進むとして、もし渡れる川があったとしても、盗賊に奪われる心配がないとでもいうのでしょうか?襄陽(じょうよう)から進むとしても、米を背負う必要があり、三十(しょう)で一石の重さになるため、目的地に届けることができないでしょう。もし千里の外に軍を置けば糧道が続きません。まさにこのとき、孫武・呉起が参謀で、韓信・彭越(ほうえつ)が将帥であれば、このような策を用いることはないでしょう。いつか食糧の輸送が続かなくなれば、進むことも退くこともできなくなり、聖慮を煩わせることでしょう。これが、私が憂えることの第三です。

ここはどうか聖意を堅持し、国論を定め、入り乱れた俗説を絶たれるようお願いいたします。」

帝は聞き入れなかった。

2


淮西(わいせい)総領呉潜は、挙兵して河南を回復すべきであり、これを軽んじてはならないと大臣らに説いた。
「金が滅んで北(蒙古)と隣り合わせとなりました。ここは和をもって形とし、守りをもって実とし、戦をもって応とすべきです。かつて、わが国はまず荊襄(けいじょう)から進んで空城を取り、兵を集結して(さい)州を攻めました。一たび戦端が開かれれば、戦火は徐々に広がり、民は狼狽(ろうばい)し、死者が折り重なり、みな肝脳を地に(まみ)れさせ、城を得ても荒蕪(こうぶ)な地に過ぎず、捕虜を得ても氏素性の知れない者に過ぎませんでした。わが国内の害毒はこのようであり、辺境の臣に国を誤らせた罪があるのは言うまでもありません。近ごろ進軍して失われた土地を回復しようと計画する者があり、優れた見解と言うべきです。しかし、取るのはたやすいとしても、守るのはたいへん難しく、出征の準備が何の役に立つのでしょうか?民は窮乏して耐えられず、その度合いが深刻であれば変化をもたらし、その多くが盗賊となるでしょう。今日のこと、軽々しく議論するものではありません。」
大臣らはこの言に従わなかった。

3


()州全子才に命じ、淮西(わいせい)の兵万人を集結して開封に向かわせた。

このとき、汴京(べんけい)都尉李伯淵(りはくえん)李琦(りき)李賤奴(りせんど)らは崔立(さいりつ)に侮られたため、これを殺そうと謀った。全子才の軍が来ると聞くと、李伯淵らは書状を送って降伏を約束し、表では崔立とともに防備について協議するふりをした。李伯淵は封丘門を焼いて崔立を動揺させた。崔立が不安になっているところ、李伯淵がやって来て火を見に行くよう崔立に言った。崔立は苑秀(えんしゅう)・折希顔ら数騎を従えて封丘門に赴いた。崔立が戻ろうとすると、李伯淵は自らこれを送るふりをし、突然崔立を抱きかかえて馬に乗せた。崔立は言った。
「お前は私を殺すつもりか?」
李伯淵は言った。
「貴様を殺すことに何のためらいもない!」
そして匕首(あいくち)を取り出して首を刺し、崔立は馬から落ちて死んだ。すると伏兵が立ち上がり、元帥三合が苑秀を殺した。折希顔が後からやって来て、崔立が馬から落ちているのを見ると人と戦ったのだと言い、両者を和解させようとしたが、やはり兵に殺された。

李伯淵は崔立の遺体を馬の尾につなぎ、宮殿の前まで来て、大声でみなに言った。
「崔立は人を殺し物を奪い、淫乱暴虐にして大逆不道なこと、古今に例を見ない。これを殺すべきか否か?」
みな口をそろえて応えた。
「斬り刻んでも足りないくらいだ!」
そして崔立の首をさらし、承天門を望んで哀宗を祭り、軍民みな慟哭(どうこく)し、崔立の心臓を取り出して食う者もいた。崔立ら三人の遺体を宮殿の前の(えんじゅ)の木の上に懸けた。

4


全子才は開封に駐屯し、趙葵(ちょうき)(じょ)州から進発して淮西(わいせい)の兵五万で()州を取り、泗州から開封に行って全子才と合流した。趙葵は全子才に言った。
「われわれは潼関(どうかん)に拠り黄河を守ろうと考えていたが、今開封に留まること半月になる。急ぎ洛陽・潼関を攻めないのは、何を待ってのことだ?」
全子才は食糧が集まっていないからだと答えたが、趙葵は攻撃を急ぐよう促し、鈐轄(けんかつ)范用吉(はんようきつ)樊辛(はんしん)・李先・胡顕らに兵一万三千を率いさせ、淮西制置司機宜文字徐敏子を監軍とし、先に西に行くよう命じた。また、楊誼(ようぎ)に命じて()強弩(きょうど)軍一万五千をこれに続かせた。各軍に五日分の食糧を支給した。

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秋七月、徐敏子が進発し、和州寧淮(ねいわい)軍正将張迪(ちょうてき)に二百人を率いて洛陽に向かわせた。張迪が城下に着くと、城中は寂然(せきぜん)として応ずる者がなかった。夜になると三百余家の民が城壁を登って投降し、張迪と徐敏子は城に入った。蒙古はこれを聞くと兵を南下させた。

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徐敏子が洛陽に入った翌日、軍糧がすでに尽きていたため、(よもぎ)を採って小麦粉と和えて(へい)を作ってこれを食した。楊誼(ようぎ)は洛陽の東三十里の地点に行き、宴会が終わって朝食をとっていたとき、数里の向こうに赤と黄の傘が立っているのが見えた。みなが驚いていると、蒙古の伏兵が蓬の草むらの中から突然立ち上がった。楊誼は備える暇もなく、軍は総崩れとなり、蒙古軍から逃れるため洛水に入った者は数知れず、楊誼は身一つで免れた。

この夜、敗残兵が洛陽に逃げてきて報告した。
「楊誼隊は蒙古軍によって壊滅しました。今、蒙古軍は洛水の北岸に拠っています。」
このため洛陽の軍は気を奪われた。

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八月、蒙古軍は洛陽城下に到着すると砦を築いた。徐敏子はこれと戦ったが、勝敗がつかなかった。士卒は食糧に困り、馬を殺して食った。徐敏子らは留まることができず、軍を引き揚げた。趙葵(ちょうき)・全子才は開封にいたが、史嵩之(しすうし)が食糧を送らなかったため、食糧に困窮した。回復した州県はいずれも空城であり、兵の食糧を調達することができなかった。蒙古軍はまた黄河の寸金淀(すんきんでん)の水を決壊させて官軍の方に流した。官軍は多くが溺死し、退却して南へ帰った。

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九月六日、趙范(ちょうはん)は洛陽に入った軍が敗北したため、「趙葵(ちょうき)・全子才が軽率に支隊を送って洛陽を回復しようとし、趙楷(ちょうかい)劉子澄(りゅうしちょう)が作戦計画に関わって失敗し、軍は無秩序に退却し、後列の部隊の敗北を招きました。」と上奏・弾劾した。これを受け、以下のように(みことのり)を下した。
「趙葵は一階級降格とし、河南・京東の屯田と辺境防備担当とする。全子才は一階級降格とし、唐・(とう)・息州の屯田と辺境防備担当とする。劉子澄・趙楷は降格・罷免とする。」
また、趙范は、「楊誼(ようぎ)隊が敗北したのは、徐敏子・范用吉が救援に向かうのを怠り、洛陽の軍が支え切れなくなったためです。」と言った。これを受け、詔を下した。
「范用吉は武翼郎に降格とする。徐敏子は降格・罷免とする。楊誼は降格・停職とする。功を立てて罪を償え。」

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十二月十五日、蒙古は王檝(おうしゅう)を遣わし、盟約を破ったことを問責した。

二十七日、鄒伸之(すうしんし)らを遣わして返礼した。これ以後、黄河・淮河(わいが)の間に寧日がなくなった。