1
理宗淳祐三年(1243)二月、余玠を兵部侍郎四川制置使とした。
余玠は家が貧しく、零落して素行が悪く、功名を喜び大言を好んだ。長短の詩を作り、淮東制置使趙葵に謁見した。趙葵はこれを褒めて幕府に留め置き、水軍を率いて淮河から黄河に入って開封に行かせたところ、至る所で武功を挙げ、淮東制置副使に推薦された。帝に謁見したとき、このように言った。
「今の世禄を受け継ぐ家の男子、試験場の学生、農村の豪族は、ややもすれば夷狄となり、みなこれを指して粗野な人と言い、これを退けて凡庸な人であると言っております。陛下には文武の士を一つとし、どちらか一方に重きを置かないようにしてください。一方に重きを置けば必ず両者は衝突するでしょう。文武が衝突するのは国の利益になりません。」
帝は言った。
「そなたの人物と議論はどちらも非凡なものだ。一方面の軍務の処理に当たらせるべきだ。」
そして四川宣諭使の職を与えた。
ここに至り、制置使・知重慶府の職を与えられた。
2
蜀の財貨と租税のうち、戸部・三司(1)に入るのは五百余万緡、四総領所(2)に入るのは二千五百余万緡であって、金銀・綾絹・錦の類は含まれなかった。宝慶三年(理宗・1227)に関外を失い、端平二年(理宗・1235)に蜀の地が破られてから、残っている州郡はいくらもなく、国の物資はますます窮迫するようになった。ここに至るまでの十六年間、宣撫使を与えられた者は三人、制置使は九人、副使は四人、ある者は長期である者は暫定で、ある者は凡庸である者は貪欲で、ある者は残酷である者は偽りに満ち、ある者は遠くを治める職にありながら実際には赴かず、ある者は戦端を開こうとして考えを巡らせたが、遂に功績を挙げることがなかった。両川には紀律がなく、監司・将帥はそれぞれ勝手に号令し、ほしいままに地方長官を処罰し、綱紀が失われていた。
(1)戸部・三司 戸籍・財政を司る官署。北宋前半までは三司がこの機能を担っていたが、元豊以後戸部に取って代わられた。
(2)総領所 淮東・淮西・湖広・四川に置かれ、軍人に支給する金銭・食糧を司った戸部の出先機関。
余玠が到着すると、招賢館を官署のそばに建て、将帥の居所のように帳を置いた。余玠は下令して言った。
「みなの意思を集め、忠義による利益を広げるのは、諸葛孔明が蜀を拠点とした所以である。何か良い考えがあって私に伝えようと考えている者は、近ければ官署へ出向き、遠ければ地元の州郡に伝えよ。さすれば礼を尽くしてその者を朝廷に送り、高い爵位と重い賞与が与えられ、朝廷は功に報いるのを惜しまないだろう。豪傑の士よ、機会をつかみ功績を挙げるのは、今がその時だ!」
自分のもとへ来る者がいれば、余玠は礼をもって接することをいとわず、その者の歓心を得た。その者の言に用いるべきものがあれば、その才に応じて任用し、用いるべきものがなくとも、厚く贈り物をして謝意を表した。
播州(3)の冉璡・冉璞兄弟は、文武の才がありながら夷狄の中に隠居し、地元の将帥から招かれても応じることがなかった。しかし、余玠が聡明な人物であると聞くと、兄弟は相率いて謁見しに来た。余玠は賓客の礼でこれを迎え、厚く待遇した。兄弟は数ヶ月滞在したが、自分たちの意見を言うことがなかった。余玠は兄弟を別の宿舎に移し、常に人をやってその行動を観察させた。兄弟は終日ものも言わず向かい合って座り、泥で山と川、城と堀の形を地面に描き、立ち上がるとゆっくりと去っていった。こうしてまた十日余りが過ぎると、兄弟は余玠に会うことを求め、人払いして言った。
「今日の西蜀の計を立てるに、その要諦は合州(4)の城に移ることにあります。」
余玠は思わず立ち上がって言った。
「それは私と同じ考えだ。だが、良い方法がないのだ。」
「蜀口の形勝の地で釣魚山に勝るものはありません。ここに移るようお願いします。ここをふさわしい人物に任せ、粟を積んで守らせれば十万の軍にも勝り、巴蜀は守るまでもありません。」
余玠は大いに喜び、側近にも相談することなく、この考えを朝廷に報告し、兄弟を官に抜擢するよう求めた。このため、冉璡を承事郎として合州に派遣し、冉璞を承務郎として合州通判とし、拠点を移すことについてすべてを任せることとした。この命令が下ると、官署の者たちはみな騒然として、口をそろえて反対した。余玠は怒って言った。
「拠点の移動がうまくいけば蜀は安泰だ。そうでなくば、私はひとりここに居続けることにしよう。諸君には関わりのないことだ。」
このため、青居・大獲・釣魚・雲頂・天生など十余城を築いた。いずれも山に拠って砦とし、碁盤の駒のように散在し、諸郡の府となった。また、金戎軍を大獲城に移し、蜀口を守らせた。沔戎軍を青居城に移し、興戎軍をまず合州の旧城に駐屯させ、次いで釣魚城に移し、ともに内水(涪江)を守らせた。利戎軍を雲頂城に移し、外水(岷江)を守らせた。こうして、腕で指を動かすように自在に兵を指揮し、城兵の気勢を互いに高め合い、兵を置き軍糧を集め、必守の計をなした。民はようやく安堵した。
(3)播州 貴州省桐梓県付近。
(4)合州 四川省重慶市合川区。
3
十年(1250)冬十月、余玠は出兵して興元を攻めたが、攻略できなかった。
余玠は慷慨して自ら誇り、「故地を取り戻し、天子に返そう」と語っていた。そして数年の間城と砦を建て、関所と隘路を築き、駐屯地を増やしたため、辺境の警備は万全なものになった。このため余玠は出兵を決意し、諸将を率いて辺境をめぐり、興元を攻撃した。このとき蒙古の将汪徳臣・鄭鼎と遭遇し、大いに戦って帰った。
4
十二年(1252)二月、蒙古の将汪徳臣が沔州に城を築いた。
ほどなくして、利州(1)にも城を築いた。これより蒙古は且つ耕し且つ戦うようになり、蜀の領土を取り戻すことができなくなった。
(1)利州 四川省広元市。
5
冬十月、蒙古の汪徳臣は成都を略奪し、嘉定(1)に迫り、四川は大いに動揺した。
余玠は諸将兪興・元用らを率い、夜に門を開いて力戦し、撃退した。
(1)嘉定 四川省楽山市。
6
宝祐元年(1253)五月十七日、余玠を呼び戻した。
7
六月十三日、余晦を四川宣諭使とし、余玠の代理とした。
これ以前、利州都統王夔は凶暴な性格で「王夜叉」と号し、武功を頼みに専横なふるまいをし、命令を聞かず、至る所で収奪したため、蜀の人はこれに苦しんだ。
これ以前、余玠が蜀を統治していたとき、嘉定に行くと王夔は配下の兵を連れて迎えに来たが、連れてきた兵は貧弱な者二百人だけであった。余玠は言った。
「都統の兵は精強だと聞いていたが、見ればこのように疲れ切っている。期待していたものと違うではないか。」
王夔は答えた。
「わが兵は貧弱ではありません。貧弱に見えるのは将軍の威厳に驚いて従う姿勢を見せているからでしょう。」
しばらくすると、蒙古軍の声が雷鳴のように響き渡り、川の水が沸き上がり、軍旗が鮮明にはためいた。水軍の兵たちはみなおののいて色を失ったが、余玠は泰然自若とし、兵たちに賞与を与えるよう命じた。王夔は引き下がって言った。
「儒者にこの人ありだ。」
余玠は久しく王夔を処刑したく思っていたが、王夔は大軍を握っているため、うかつに動いては蜀を危機に陥れるであろうと憂えていた。そこで側近の楊成に相談した。楊成は言った。
「いま王夔を処刑せねば、その勢いは強くなり、ややもすれば西蜀は危機に陥るでしょう。王夔は蜀にあること久しく威名を誇っていますが、呉氏には及びません。呉氏は中興危難のときにあって、百戦して蜀を保ち、これを四世に渡って伝え、その権威はますます強まりました。呉曦が反乱したとき、諸将はこれを滅ぼし、一匹の豚を狩るかのようでした。ましてや王夔には呉氏のような功績はないというのに呉曦のような反逆の心を持ち、猪突の勇を頼んで法度を軽んじ、兵を放って民を殺戮し、同位の者を軽視し、呉氏が優秀な人材を得てその地位を確固たるものにしたのとは違います。いま奴を殺すのは一夫の力があれば足ります。奴が大軍を動かしてから殺そうとするのは困難なことです。」
余玠の意は決した。夜、余玠は王夔を呼び出して計略にかけ、楊成に王夔の兵を代わりに統率させることにした。王夔が軍営を離れると、すぐに楊成配下の新たな将が単騎で入ってきた。将兵らは驚いてどうすべきかわからず、楊成が将帥としての命令により彼らを説得すると、彼らは相率いて拝礼した。王夔が余玠のもとへ来ると、余玠はこれを斬り、楊成を推薦して文州刺史とした。
このとき、戎州(1)の将帥は統制姚世安を代理にしようと考えていた。余玠は軍中の代理を立てる弊害を改めたいと思っており、三千騎で雲頂山のふもとまで行き、将を送って姚世安に代わらせようとしたが、姚世安は門を閉じて受け入れなかった。姚世安は丞相謝方叔の子と甥と親しく、ここに至り、謝方叔に助けを求めた。謝方叔は、「余玠は軍を統率する心を失い、私が取りなさなければ、すぐにも変事が起こるだろう。」とうわさを流した。また、姚世安に余玠の過失を教えるように言い、それを帝の御前で述べた。帝はこれに惑わされ、姚世安は余玠と争うようになり、余玠は鬱々として楽しまなかった。
(1)戎州 四川省宜賓市。
余玠は四蜀を統治していたが、帝に上奏文を送るとき、語気に遠慮の色が見られず、帝は落ち着かなかった。このとき、徐清叟が帝に謁見し、余玠について述べた。
「余玠は君主に仕える際の礼を知らないのです。陛下はなぜその不意を衝いて彼を呼び出されないのですか?」
帝は答えなかった。徐清叟は言った。
「陛下は余玠が大軍を握っているため、呼び出しても来ないとお思いではないのですか?思うに余玠は武人としての心を失ってはいますが、そのようなことはないでしょう。」
帝はこれに賛同し、資政殿学士の称号を与えるとの名目で余玠を呼び戻し、知鄂州余晦に交代させた。
8
秋七月、余玠が死去した。
余玠が蜀を治めるようになると、都統張実に軍を統括させ、安撫王惟忠に財政を統括させ、監簿朱文炳に賓客の接遇を任せ、いずれも常識的な方法を採っていた。余玠は学問に奨励して人材を養い、労役を軽くして民力を豊かにし、税を軽くして商人を招いた。蜀が豊かになると京湖からの食糧輸送をやめ、辺境の警戒が薄くなり、南東の兵を撤退させた。宝慶(理宗・1225~27)以来、蜀の将帥でこれに及ぶ者はなかった。しかし、長らく臨時の権限を用い、人に疑われるのも顧みず、勇退しなかったため、讒言を招くに至った。また、機捕官(人々の動向を伺う官)を置き、官僚らの動向を調べさせたが、特に小人たちの動向を伺い、みな疑い恐れた。ここに至り、帝から呼び出されると不安になり、一夕にして急死した。あるいは毒薬を飲んで死んだとも言われ、蜀の人々にこれを悲しまぬ者はなかった。
<薛応旂は言う、宋の弱さは天がそのように制限したかのようであり、わずかに一人の人物を得たとしても讒言により陥れられてしまった。宋の全盛期からこのような風潮があった。熙寧(神宗・1068~77)・元豊(神宗・1078~85)以後、君子と小人は相容れることなく、南渡以後はこの傾向がますます激しくなった。嘉定(寧宗・1208~24)・宝慶(理宗・1225~27)のとき、残忍な金が滅んだが、一方で蒙古が勃興した。余玠は蜀を治め、その方法は道理にかない、一木の支えとするに足るものであった。しかし、謝方叔・徐清叟といった輩が余玠に疑惑をかけて死に至らせた。ああ、余玠の死後、蜀以外の地も宋の領有ではなくなり、宋の国運がどうなるかも推して知るべしである。次いで余玠の家財を没収して軍をねぎらったが、余玠が忠義の士でなければ家財を没収されることもなかっただろう。>
9
二年(1254)八月、利州西路安撫王惟忠を大理の獄に下した。
余晦は蜀を治めるようになると、王惟忠が蒙古に通じていると誣告した。王惟忠は獄に下され、市中で斬られた。
10
十月二十八日、余玠の官職と品階、および余晦の辞令書を剥奪した。
これ以前、侍御史呉燧らが余玠の苛斂誅求に関する七つの罪について述べた。余玠が死去すると、その子余如孫は官署の庫に積まれた財をすべて国庫に返納した。余玠の家財を帳簿に記録し、これを軍に分け与えてねぎらった。余如孫は銭三千万を持っていることを認め、これを連年取り立て、ようやく国庫を満たすことができた。