1
寧宗嘉定四年(1211)十一月、金の益都(1)で楊安児の兵が立ち上がった。
これ以前、益都の人楊安国は若いときから無頼漢であり、鞍を売って生業としていた。街の人は彼を楊鞍児と呼び、自ら楊安児と名乗るようになった。金の泰和(章宗・1201~09)中に宋に南侵したとき、山東の無頼たちは往々にして集まって略奪し、金は州県に命じてこれを捕らえた。楊安児はこのとき群盗となっていたが、金に降伏して軍人となり、昇進して防禦使となった。蒙古兵が中都(2)に迫ると、金人は鉄亢敢戦軍を呼んで千余人の兵力を得、唐括合打を都統とし、楊安児がこれを補佐し、辺境を守ることとなった。しかし、楊安児は鶏鳴山まで行くとそれ以上進もうとせず、山東に逃げ帰り、張汝楫とともに徒党を組んで州県を襲い、官吏を殺した。山東は大きな騒ぎとなった。
(1)益都 山東省青州市。
(2)中都 河北省北京市。
2
七年(1214)十二月、金の濰州(1)で李全の兵が立ち上がった。
李全は濰州北海の農家の子であり、ずる賢く凶暴で、人をだますことに長けていたが、民衆には柔和な態度で接していた。馬を素早く乗りこなし、槍の扱いに長け、人は李鉄槍と号した。開禧中、宋軍の戚拱はこれと結んで漣水(2)を奪還した。金の君主が開封に移ると、税の収奪がますます厳しくなった。このため河北・山東の遺民は砦を築いて険要の地に拠り、寄り集まって盗賊となり、州郡を略奪し、赤い上着を着て味方の目印とし、「紅襖賊」と言われた。李全の兄李福も数千の人を集め、山東を略奪して回った。劉慶福・国安用・鄭衍徳・田四・于洋・于潭らがこれに従った。
(1)濰州 山東省濰坊市。
(2)漣水 江蘇省漣水県。
3
八年(1215)二月、金の僕散安貞が益都で楊安児を破った。
楊安児は登州(1)に逃げ、刺史耿格がこれを受け入れた。楊安児は皇帝を僭称し、官僚を置き、天順と改元し、兵数十万を擁した。安貞は山東行省完顔霆・経歴黄国らと花帽軍を率いてこれを打ち破り、兵を殲滅した。楊安児は船に乗って海に入り、岠(山+禹)山(読み不明)に逃げようとしたが、水夫の曲成らがこれを襲い、楊安児は水死した。
楊安児には子がなかったが、妹の四娘子は狡猾で騎射を得意としていた。劉全が残党を集めてこれを奉戴し、「姑姑」と称し、兵はまだ万余を数えた。彼女らは略奪しながら磨旗山まで行き着き、李全はその兵とともにこれに従った。楊氏は李全と私通し、これを夫とした。安貞は夾谷石里哥を派遣して劉二祖を破り、これを斬った。残党は霍儀を頭目に推し、彭義斌・石珪・夏全・時青・裴淵・葛平・楊徳広・王顕忠が従った。
(1)登州 山東省煙台市蓬莱区。
4
知楚州応純之は山東の群盗を率いて朝廷に帰順し、朝廷は忠義軍を置いた。
李全らは島嶼部に出没し、財宝は山積していたが食糧が手に入らず、人を食していた。このとき、鎮江の武鋒の兵沈鐸は山陽(楚州)に亡命し、米商人を誘致して数十倍の利益を得ていた。応純之は沈鐸に玉を贈ってこれに報い、北から来た者を宿舎に泊めていた。このため沈鐸は、応純之が銅銭を回収するのを名目に、淮河渡河の禁令を緩めるだろうと言った。このため北から来る者を止めることができなくなった。
これ以前、楊安児がまだ敗北する前、彼には朝廷に帰順する考えがあった。定遠(1)の民李先は侠客劉佑の家の下僕であった。彼は常に劉佑に従って山陽に物資を送っていた。楊安児は彼に会ってこれを喜び、彼に軍職を与えた。楊安児が死ぬと、李先は山陽に行って沈鐸に取り入り、応純之に会う機会を得、山東の豪傑らが帰順しようとしていると言った。応純之は李先に豪傑らの真意を確かめさせ、彼らに言葉を伝え、沈鐸を武鋒副将とし、高忠皎とともに義勇軍を集め、二つの道から金を討伐させた。李先は五千人の兵を高忠皎に与え、高忠皎は兵を合わせて海州(2)を攻撃した。しかし軍糧の支援が続かず東海(3)に退いた。応純之は北軍がたびたび勝っているのを見て朝廷に報告し、中原を回復できると言った。
このとき、連年不作が続いていたが、朝野とも戦に巻き込まれることはなかった。丞相史弥遠は開禧(寧宗・1205~07)中のできごとに鑑み、非公開でこの義勇軍を受け入れた。応純之に密勅を下し、慰労してこれを忠義軍と号し、王純之の指揮に従わせ、忠義糧を与えた。こうして、東海の馬良・高林・宋徳珍といった様々な人物が漣水に集まり、李全らはこれをうらやんだ。
(1)定遠 安徽省定遠県。
(2)海州 江蘇省連雲港市。
(3)東海 江蘇省連雲港市の南。
5
十一月、李全とその兄李福は金の青(1)・莒州(2)を襲撃し、これを奪った。
(1)青州 山東省青州市。
(2)莒州 山東省莒県。
6
十一年(1218)春正月十日、李全が兵を率いて朝廷に帰順した。李全を京東路総管とした。
7
五月、金の石州(1)の賊馮天羽が敗死し、仲間の国安用が降伏した。国安用を同知孟州(2)事とした。
(1)石州 山西省呂梁市離石区。
(2)孟州 河南省孟州市。
8
十二年(1219)九月、賈渉に淮東制置司を主管し、京東・河北の軍馬を指揮させた。
これ以前、山東の盗賊で朝廷に帰順する者が増えていたが、石珪は計略によって沈鐸を漣水で殺し、応純之も罷免され、権楚州梁丙は彼らに食糧を与えなかった。李先は二ヶ月分の食糧を借り、兵五千を率いて馬良らを併呑し、密州(1)に行き食糧を得ることを願い出たが、梁丙は許可しなかった。このため、李先はまた、すぐに李全に代理で彼らをまとめさせるよう願い出た。梁丙はやはり聞き入れなかったが、石珪に一時軍務を統括させることにした。石珪は食糧を運ぶ舟を奪い、淮河を渡って大いに略奪し、楚州の南渡門まで来ると辺り一帯を焼き尽くした。梁丙は人をやってやめるよう伝えたが、止まることはなかった。
(1)密州 山東省諸城市。
このとき、賈渉は盱眙軍を統治しており、このように上奏した。
「義勇兵が続々とやって来ています。ここは定員を設けることなく、一軍を編成して北岸に置くべきです。さすれば有限の財によって無窮の求めに応じることができるでしょう。飢えれば人を食い、腹が満たされれば命令を聞く。その理、この通りであります。」
このため朝廷は義勇兵を指揮するよう、賈渉に命じた。賈渉は命を受け、傅翼を送って石珪・楊徳広に朝廷に従うよう伝え、略奪がもたらす災いを説いた。石珪らは謝罪した。賈渉は石珪の兵が乱を起こすのではないかと恐れ、滁州・濠州での戦いを教訓とし、石珪・陳孝忠・夏全の兵を二つの軍営に、李全の兵を五つの砦に分散させた。また、陝西の義勇軍の法を用い、彼らの手に入れ墨を施した。選抜された正規軍は三万余りであったのに対し、入れ墨のある者は六万人に満たなかった。正規軍は常に七万人駐屯し、正規軍が義勇軍の数に勝るようにした。朝廷は毎年の軍費を十分の三、四節約することができた。
ここに至り、江淮を三つの制置司で分担することとし、賈渉に淮東を主管させた。
9
この月、金の張林は山東の諸郡を差し出して李全に帰順した。
これ以前、蒙古は益都を攻撃したが、金は守ることなく退却した。益都府の兵張林とその仲間たちは府を再建して金に帰順し、この功により治中となったが、相変わらず好き勝手に暴れまわっていた。知府田琢という者が山東にいたが、税の徴収が過酷だったため民衆の心を失っていた。張林は仲間たちを率いてこれを追放した。田琢は敗れ、開封に帰った。張林は益都を拠点とし、山東の諸郡はみなこれに従った。張林は宋朝に帰順して自らの地位を固めようとしたが、決心がつかなかった。このとき李全が斉州(1)から帰り、張林の意を推し測り、青州城下に兵を送り、人をやって国家の威徳を説き、早々に帰順するよう勧めた。張林は李全が自分をおびき出そうとしているのではないかと恐れ、帰順をためらった。李全は身を挺して城に入り、数人だけを従えた。張林は門を開けて中に入れた。二人が顔を見合わせると互いに喜び合い、張林は自分を預けるべきところを得たと言い、酒を置いて義兄弟の契りを結んだ。
李全は張林の統治の状況を知ると、青・莒・密・登・莱・濰・淄・浜・棣・寧・海・済南の十二郡の版籍を献上した。献上の上奏文にはこう書かれていた。
「斉全土の七十城すべてを三百年の旧主に献上いたします。」
張林に武翼大夫安撫使を与え、京東総管を兼任させた。
(1)斉州 山東省済南市。
10
十二月、李全は泗州を襲撃したが、勝てずに帰った。
このとき大雨・大雪があり、淮河が凍結した。李全は賈渉に願い出た。
「いつも泗州の川に行く手を阻まれていますが、今は平地のようです。東西の城を取って献上させてください!」
賈渉はこれを許した。李全は長槍隊三千人を従え、夜半に淮河を渡り、泗州の東城に向かった。そして凍結した堀を渡って城下に迫り、金人の不備を突いた。ところが、にわかに数百の松明の火が一斉に掲げられ、誰かが遠くから李全に言った。
「賊李三よ、おまえは城を盗ろうとしているのだろう!空が暗いから明かりをつけてやったぞ!」
李全は金に備えがあるのを悟り、兵を引き揚げた。
11
十三年(1220)六月二十四日、賈渉は漣水忠義軍副都統李先を誘い出して殺したが、その部下は石珪を将に推戴して賈渉を拒んだ。
これ以前、李全は化湖陂での勝利の後、諸将を軽んずるようになった。そして、李先の人望が自分を上回るようになったため、賈渉の属官莫凱と結び、李先が謀反を企んでいると謗った。賈渉はこれを信じ、李先に枢密院の会議に出席するよう命じ、その道中でこれを殺し、統制陳選に李先の兵を漣水で統括させた。李先の部下裴淵・宋徳珍・孫武正・王義深・張山・張友の六人は陳選を拒んで受け入れず、石珪を盱眙に迎えてこれを統帥とした。石珪が楚城に到着するまで賈渉はこれに気づくことができず、石珪は漣水に入った。陳選が帰ると賈渉はこれを恥じ、石珪の軍を六つに分割しようと考え、朝廷に許可を求めた。そして修武京東路鈐轄の印と勅書それぞれ六つを出して裴淵らに与え、李先の兵を分担で統括した。裴淵らは表向きこれに従ったが、実際には賈渉の命令に従うことなく、賈渉は大いに恐れた。詔を下し、石珪を漣水忠義軍鈐轄とした。
12
金の長清県(1)令厳実は主将に疑われ、家族を連れて青崖崓に行き、益都の張林を後ろ盾にしてこれを避けた。このとき、趙拱が朝命を帯びて京東に赴き、青崖を通りかかったとき、厳実が帰順を求め、賈渉がこれを報告した。厳実もまた各所に派兵し、至るところの州県が降った。このため太行山の東の地方はみな厳実の命令に従い、厳実は魏・博・恩・徳・懐・衛・開・相等の郡を差し出して帰順した。賈渉は再び趙拱を京東に向かわせ、兵二千を与えた。
李全もまた京東へ行くことを願い出た。賈渉は止めることができず、楚州・盱眙の義勇軍万人を率いて京東へ向かわせた。趙拱は李全に言った。
「将軍は兵を引っさげて黄河を渡ろうとしておられるが、成果なくして帰れば武を示すことができますまい。今、勝った勢いに乗じて東平(2)を取ることはできますかな?」
この言葉を受け、李全は張林の軍と合流して数万の兵力となり、東平城の南を襲撃した。金の行省蒙古綱が東平を守り、李全と張林は汶水を挟んでこれと対峙した。
(1)長清 山東省済南市長清区。
(2)東平 山東省東平県。
翌日、金の監軍王庭玉が騎兵三百を率いて迫ってきた。李全は欣然として馬に乗り、帳の前に控えていた騎兵を従えて迎え撃ち、数人を殺し、その馬を奪い、北の山谷に走った。そこで金の将斡不答の大軍と出くわし、その脇から刺繍をした旗を掲げた女将が槍を持って突撃してきて、李全は危機に陥った。諸将は救援に駆けつけ、李全を救出・離脱して長清に退却したが、精鋭の大半を失った。李全は従えてきた鎮江軍五百人が怒っているのを恐れ、趙拱に彼らを率いて先に帰らせ、自らは残った者たちを率いて滄州(3)に行き、塩を売って得た金を彼らに与えた。その後楚州に帰った。
(3)滄州 河北省滄州市。
13
張林は金の滄州を攻め、王福は城を差し出して降った。
14
冬十月、金は時青を済州(1)宣撫使とした。
これ以前、時青とその叔父の時全はともに紅襖賊に属していたが、楊安児・劉二祖が敗北すると、時青は済州義軍万戸となり、のちに李全に帰順すると亀山に配置され、数万の兵を有していた。
ここに至り、金の統帥府は人をやって時青を味方に引き入れようとした。時青は邳州(2)を借り受けて老人と幼児を住まわせ、盱眙を襲撃して奪還し、淮南を平定して罪を償うことを願い出た。このため金の君主はこの命令を下した。ほどなくして、時青は金に帰順し、京東鈐轄となった。
(1)済州 山東省済寧市。
(2)邳州 山東省邳州市の南。
15
十二月、漣水忠義軍統轄石珪は、漣水に入ったのが賈渉の本意ではなかったため、心に不安を抱いた。李全は賈渉のために石珪を討つことを願い出た。このため、賈渉は李全の兵を楚州の南渡門に並ばせ、淮陰の戦艦を淮安に移し、備えがあることを石珪に見せつけた。また、ある将に命じて石珪の軍を寝返らせ、来る者には銭と食糧を与え、来ない者には与えず、兵たちの心は離散した。石珪は進退窮まり、裴淵を殺し、孫武正・宋徳珍とともに蒙古に降った。石珪が去ると、漣水の兵は属するところがなく、李全がこれを併合することを求めた。賈渉は拒否することもできず、彼らは李全に従うこととなった。
16
十四年(1221)春正月、李全を山東から戻らせ、緡銭六万を与えた。時青が泗州の西城に入った。
二月、金人が救援に来たが、時青は敗北し、帰っていった。
17
十一月、京東安撫張林が背き、蒙古に降った。
これ以前、李全は漣水の忠義軍を併合すると、ますます傲慢になって朝廷を軽んずるようになった。李全が金山(1)に遊びに行くと、仏事を行って国に殉ずることを勧められた。また、知鎮江府喬行簡はもやい舟で李全を迎え、音楽を奏でて歓待した。李全が帰ると部下たちに言った。
「江南は華麗無比だぞ。お前たちと行ってみたいものだ。」
そして舭𦪭(読み不明)船を造り、船で利益を得ようと考えた。膠西(2)は登州・寧海州との要衝であり、各地からの物資が集まっていた。李全は兄の李福にここを守らせ、居座らせた。
(1)金山 江蘇省鎮江市の北。
(2)膠西 山東省膠州市。
このとき、宋金間の交易がようやく再開した。金人は宋の品物を重視し、十倍の値がつけられた。李全は商人を誘って山陽に行き、物資を舟に載せ、その半分を淮南から海州、さらに膠西に送った。李福も物資を車に載せ、その半分に関税をかけ、彼らが各地で貿易することを許した。車夫はみな張林の管理下にあったため、張林はこれを受け入れることができなかった。また、張林は六つの塩場を管理して利益を得ていた。李福は弟が張林に恩を売っていたことを頼みに、その利益の半分を要求した。張林は李福が自由に塩を取るのを許したが、塩場を分けることはしなかった。李福は怒った。
「お前は恩に背くのか?都統とともに軍を率いてお前の首を取りに行くぞ!」
張林がこれに恐れをなしていたところ、仲間の李馬児が蒙古に降るよう説いた。このため張林は京東の諸郡を差し出して蒙古の将ムカリに降った。李福は狼狽して楚州に帰った。張林は賈渉に書簡を送り、蒙古に降ったのは背いたのではなく、李福のせいだと書いた。
18
十五年(1222)二月、李全は泗州を回復した。
19
夏四月、知済南府种贇が張林を討ち、張林は敗走した。李全は青州に入り、ここを拠点とした。
20
十二月、李全を保寧軍節度使・京東路鎮撫副使とした。
これ以前、李全に戦功があったため、史弥遠が官職を与えようとしたが、賈渉はこれをやめるように言った。李全に節鉞が与えられると、賈渉は嘆じて言った。
「朝廷は官爵を与えればその者の心をつかむことができると考えているが、むしろその者がおごるようになるため、官爵を与えるべきではないことを知るべきだ。」
21
十六年(1223)六月、淮東制置使賈渉は、李全が凶暴で制御しがたいため、朝廷に戻ることを強く願い出たが、その道中で死去した。
これ以前、賈渉は義勇兵を制御したく思い、翟朝宗に鎮江副司の兵八千人を統括し、楚州城中に駐屯させた。また、帳前忠義万人を分割し、趙邦永・高友に五千人を統括して城西に駐屯させ、王暉・于潭に五千人を統括して淮陰に駐屯させた。李全は鎮江の兵を軽んじ、帳前忠義を嫌っていた。このため、高友らの勇を称え、出兵のときには必ず自分に従わせるよう願い出たが、賈渉は許さなかった。李全は部下たちと宴会を開くとき、いつも賈渉の帳前将校らを呼んでいた。このため帳前らも李全に従うことを願っていたが、いまだ併合できずにいた。
賈渉が死去すると、丘寿邁が将帥の職務を執っていた。李全は彼にこう言った。
「義軍は烏合の衆であり、軍籍がばらばらで整理されていません。ここは別に新たな軍籍を置き、一つの朝廷のものとし、一人の将帥のもとに統一し、私一人の指揮下に置くのがよろしいでしょう。こうすれば兵の功績と過失を評価し、軍糧の支給にも支障がなくなるでしょう。」
丘寿邁はこれに従った。こうして、李全は帳前忠義と自分の兵を同じ軍籍に記し、軍を併合した。丘寿邁はこれに気づかなかった。
22
八月、李全は邳州を攻めたが勝てず、青州に帰った。
23
十二月、許国を淮東制置使とした。
これ以前、許国は淮西都統の地位にあったが、祠禄(1)に就いて家にいた。彼は賈渉に取って代わりたいと思い、李全は必ず背くであろうとたびたび言っていた。賈渉が死去すると、許国を呼んで帝に謁見させた。許国は、「李全はたいへん狡猾で反乱の兆しは明らかです。豪傑たちが彼の害を取り除くことができなければ、彼は国を売ることでしょう。」と上奏した。これを受け、許国を文官から改めて淮東安撫制置使とし、知楚州を兼任させた。この命が下ると、これを聞いた者は驚いた。淮東参幕徐晞稷は以前から淮東制置使の職に就きたがっていた。彼は許国が制置使に用いられたと聞くと、許国の上奏文に注釈を施して李全に送った。李全は不愉快になった。
(1)祠禄 道観の管理者。引退者が就く閑職。
24
理宗宝慶元年(1225)二月、楚州軍が乱を起こした。
これ以前、許国が軍営に着くと、李全の妻楊氏が郊外で出迎えようとしたが、許国は会おうとせず、楊氏は恥じて帰った。許国が職務にあたるようになると北軍を攻撃し、南軍に対抗する者があれば理由を問わず罪に問い、褒賞金は十分の八、九が支払われた。李全が青州から書簡を許国に届けると、許国はみなに誇って言った。
「李全は俺を尊重して育ててきた。俺が少しでも威を示せば、あいつは走り回って息つく間もなくなるのだ!」
李全がわざと青州に留まると、朝廷は呼び戻すことができず、たびたび贈り物をして李全を呼び戻そうとした。劉慶福も人をやって許国の意向をうかがわせたが、許国の側近はこの者に言った。
「制置はお前たちに害を加えるつもりはない。」
劉慶福はこれを李全に報告した。李全は将校らを集めて言った。
「俺が許国のもとに行かなければ、非は俺にあることになる。生死を考えず行かねばなるまい。」
そして楚州に帰った。許国に謁見すると、側近が李全に言った。
「節使は庭参(1)するのだ。制使は拝礼を強制することはないだろう。」
李全が庭参に行くと、許国は端座して李全の拝礼を受け入れ、やめるようには言わなかった。李全が許国の前を退くと、怒って言った。
「俺は本朝に帰順し、多くの人に拝礼してきた。お前が文臣ではなく、俺たちと同じ身分だったのが恨まれる。お前が以前淮西都統として賈制帥(制置使)に謁見したとき、制帥はお前に拝礼を強制することはなかった。お前は何の功績があって、俺より出世したからといって助け合おうとしなくなったのだ?俺は誠心誠意から朝廷に報いている。背くことなどない!」
許国は盛大な宴を開いて李全をもてなし、厚くねぎらったが、李全は終始不愉快であった。劉慶福は許国の幕客章夢先に会ったが、章夢先は幕を隔てて貌喏(敬礼の一種)するよう要求し、劉慶福も怒った。
(1)庭参 下級の官が長官に北面し、ひざまずいて拝礼すること。
しばらくして、李全は青州に行こうとしたが、許国に引き留められるのを恐れ、推し測って言った。
「あいつがこだわっているのは拝礼に過ぎない。望み通りに拝礼してやれば、俺を惜しむこともあるまい。」
そして節を曲げて許国に拝礼した。みなが集まる中、李全は便箋を取り出して事情を告げた。許国はそれに記された細かい事情を読むと、署名して李全が青州へ行くことを許した。李全は席に着いて再拝し、謝辞を述べた。これより、何かあれば必ず許国に指示を仰ぎ、許可が得られれば必ず許国に拝礼することとした。許国は大いに喜び、家族に言った。
「俺はこの蛮人を信服させたぞ!」
李全が青州に行くと、許国は両淮の騎兵・歩兵十三万を集め、楚城の外で大規模な閲兵を行い、金人の心をくじいた。楊氏と将校らは李全に謀られるのではないかと恐れ、万一に備えた。この後、李全は劉慶福を楚州に戻して乱を起こさせようとしていたが、このとき湖州(2)の潘壬の陰謀が失敗し(巻88-12を参照)、李全らは不安になった。また、楊氏に一人の傲慢な男子を養わせ、これに指を差して人に言った。
「これは宗室だ。」
また、側近に言った。
「いつかお前たちを朝廷の官僚とする。」
盱眙の四将に内応を約束させようとしたが、盱眙の四将は従わなかった。このため、劉慶福は反乱計画の中止を考え、許国に取り入ろうとした。計議官苟夢玉はこれを知って許国に報告した。許国は言った。
「やつを呼び戻せ。戻ったらやつを殺す。(3)俺は戦を知らぬ文官ではない!」
苟夢玉は巻き添えになるのを恐れ、檄文を求めて盱眙に行き、劉慶福に言った。
「制使はお前を殺そうとしている。」
このため二人は結託するようになった。
(2)湖州 浙江省湖州市。
(3)戻ったらやつを殺す 原文は「反即殺我」。四庫本は「反即殺之」と記す。これに従う。
ここに及び、許国が朝起きて職務に赴こうとすると、庭に抜身の刀が並び、客人は驚いて逃げた。許国は声を張り上げて言った。
「無礼は許さんぞ!」
その瞬間、矢が額をかすめ、顔は血で覆われ、許国は逃げた。兵たちは許国の家族を殺し、官署に火を放ち、両司の財はすべて賊のものとなった。許国は近衛兵数十人に櫓に登るのを助けられ、縄梯子で城壁を下りて逃げ、道中の空き家に隠れ、そこに泊まった。賊は通判姚翀を擁して城に入った。姚翀は劉慶福と苟夢玉の兵をねぎらい、軍営に帰らせた。
この日、劉慶福は章夢先を殺し、以前の辱めに報いた。
翌日、許国は逃げる途中で首を吊って死んだ。このことが伝わると、史弥遠はほかに何か起こるのを恐れ、ここは寛容な態度を示すこととした。そして、徐晞稷が以前楚州の副長官、海州の長官となって李全の歓心を買っていたことから、徐晞稷を制置使とし、意を屈して李全をなだめた。
李全は許国の死を聞くと、青州から楚州に帰った。そして、表向き劉慶福が兵を抑えることができず、忠義軍が乱を起こしたとして彼を責め、数人を斬って朝廷に報告し、罪を待った。朝廷は不問に付した。
知揚州趙范は敗走した兵から制置使の印を手に入れ、徐晞稷に与えた。徐晞稷が楚州に行くと、李全は城門に出向いて馬を下り、拝礼した。徐晞稷は階段を下りて拝礼をやめさせ、李全の兵たちは喜んだ。徐晞稷は李全を「恩府」、楊氏を「恩堂」と称し、徐晞稷と李全の地位が入れ替わった。
25
五月、李全は山東の彭義斌に文書を与えた。それにはこう書かれていた。
「許国は謀反を企んだため、誅殺した。お前の軍は俺の指揮下に入るように。」
彭義斌は大声で罵った。
「逆賊め!国の厚恩に背き、みだりに制使を殺しおって!必ず復讐してやる!」
そして文書を届けに来た者を殺し、南を向いて天と人々に復讐を誓い、これを見た者は憤激した。このため、李全は青州から東平を攻めたが勝てず、恩州(1)を攻めた。彭義斌は出兵して戦い、李全を敗走させ、馬二千を奪った。劉慶福が李全を救援しに来たが、また負けた。李全は山に退き、山陽の忠義軍を抽出して北へ向かった。楊氏と劉全はこの難に駆けつけようとしたが、李全が人をやって徐晞稷に彭義斌と和睦するよう命ずる内容の書状を求めたため、戦いは終わった。
(1)恩州 河北省清河県。
彭義斌は沿江制置使趙善湘に以下のような内容の書簡を送った。
「逆賊李全を滅ぼさねば復讐を果たすことはできない。兵を送って淮南を押さえ、漣水・海州に進んで南の道を断ってやれば、やつを捕らえることができよう。やつを平らげたのち、一京三府を回復し、俺が河北で戦い、盱眙の諸将、襄陽の騎士が河南で戦えば中原を回復できよう。」
盱眙の四総管もまた使者を送って書簡を届け、李全討伐への助力を乞うた。知揚州趙范も李全討伐を約束した。しかし、史弥遠は職権を越えて勝手に出兵せず、平穏を享受するよう趙范に伝えた。趙范は書簡を送ってこのことについて強く論じ、このように書いた。
「今上陛下お一人から、上は公卿百執事に至るまで(2)、下は士民軍吏に至るまで、李全が必ず背くであろうことを知らぬ者はありません。先生もそれをご存知のはずです。みなこれを知れば口に出しますが、先生はご存知でありながら何も言わずにおられます。言わずにいるのは実に、内に臥薪嘗胆の志なく、外に戦勝攻取の備えがないからです。先生が隠忍して李全の謀反について言わず、李全討伐の意見を制止する理由を推測するに、朝廷が李全を討伐しない方針を重んじているということでしょう。
(2)上は公卿百執事に至るまで 原文は「下至公卿百執事」。内容からして「下」は「上」の誤り。
領土の安定を徐晞稷に任せ、領土の守備を趙范に任せております。徐晞稷の責務は鎧を作る職人のようなものです。趙范の責務は矢を作る職人のようなものです。人を傷つけることがないであろうことから趙范をそのような任に就けるというのであれば、人を傷つけることを禁じ、人を傷つける言を憎むのはなぜでしょうか?賊は趙范を見れば備えをなし、彼を忌み嫌って勝手なこともできず、他日趙范を大きな変事をもたらす人だと非難して、趙范を退けるよう朝廷に迫るでしょう。先生がこれを信ずることなく、側近が『それがよいでしょう』と言い、卿大夫が『それがよいでしょう』と言えば、先生は『趙范一人を惜しんで災いを招く必要があろうか?』と言って、趙范を縛って賊に引き渡し、趙范は宋の晁錯(3)となるでしょう。とはいえ、趙范を賊に引き渡すことで国家の災いを防ぐことができるのであれば、趙范の死も無駄ではありません。『家を守る番犬は盗賊が嫌がる』という諺があります。ゆえに、盗賊は番犬を見れば、その主人に言ってこれを追い出させ、その後に遠慮なく盗みを働くのです。であるならば、犬を殺すのは盗みをやめさせる役には立たないということです。趙范を哀れに思うのであれば、彼に閑職を与えるべきです。」
史弥遠は耳を貸さなかった。
(3)晁錯 前漢の政治家。呉楚七国の乱に対処して諸侯王の領土削減を進めていたが、君側の奸を排除するとの名目で殺された。
26
六月、彭義斌は山東で勝利し、降伏した李全の兵を自分のものとし、大いに勢力を振るい、東平を包囲した。厳実は蒙古の将孛里海とともに彭義斌を攻めるよう約束していた。しかし、孛里海の兵は来ず、城中の食糧も尽き、彭義斌と和睦した。彭義斌もまた厳実を助けて河朔を奪ったのちにこれを殺そうと考え、厳実を兄としてこれに仕えた。厳実の兵は数千いたが、彭義斌はこれを奪うことはなかった。しかし、青崖の厳実の家族を捕らえて拘留し、彼のもとに送ることもなかった。
27
秋七月、彭義斌は真定を下し、西山に行き、孛里海らの軍と対峙した。
彭義斌は厳実に兵を分け与え、助けるふりをしながらこれを殺そうとした。厳実は彭義斌の兵が迫っているのを知ると、孛里海の軍のもとに走ってこれと合流し、内黄(1)の五馬山で彭義斌と戦い、彭義斌の軍は壊滅した。史天沢は精鋭の兵で彭義斌の背後を突き、これを捕らえた。降伏するよう説いたが、彭義斌は声を大にして言った。
「俺は大宋の臣だ!他人の臣になどなるものか!」
そして死んだ。
ここにおいて、京東の州県は厳実が治めることとなった。
(1)内黄 河南省湯陰県の東。
28
二年(1226)六月、蒙古は李全を青州に包囲した。
李全は、北は山東を略奪し、南は銭と食糧を求め、朝廷を脅し蒙古を疑った。蒙古はこれを攻め、李全は大小百戦を戦ったが不利に陥り、城を兵で囲んで固守した。蒙古はこれを囲むように陣地を築き、夜は狗砦を置いた。糧道が断たれると、李全は兄の李福と相談した。李福は言った。
「二人とも死んでは無益だ。お前の身には南北の軽重がかかっている。俺が孤城を死守し、お前は抜け道から南に戻り、兵を率いて救援に行き、活路を開くのだ。」
李全は言った。
「数十万の強敵、支えるのは容易ではない。俺が朝に出れば、夕方には城が落ちる。兄者が戻った方がいい。」
このため李全が青州に留まり、李福が楚州に戻った。
29
九月、徐晞稷が辞職し、劉琸が淮東制置使となった。
朝廷は李全が蒙古に包囲されたと聞くと、これを殺そうと考え、徐晞稷が軟弱だとして将帥を交代させようとした。劉琸は以前から将帥の地位に就きたがっており、鎮江副都統彭𢖲に自分の名声を広めさせた。彭𢖲もまた劉琸の地位に就くのを切望し、これにおもねっていた。ゆえに劉琸をもって徐晞稷に代え、彭𢖲が劉琸に代わり盱眙を統治した。
30
十一月、劉琸は楚州に到着したが、盱眙の四総管を制御できないことを知っていたので、鎮江の兵を従せるのみだった。夏全がつき従うことを願い出たが、劉琸は彼が狡猾な性格であるのを恐れ、許可しなかった。彭𢖲は自分の声望が劉琸より低いのを見て言った。
「劉琸が夏全がつき従うのを止めたのは、盱眙に災いの種を残しておきたいからだ。劉琸が夏全をはばかっているのに、私が用いられるわけがない。」
そして夏全を激励して言った。
「楚城の賊は三千にも満たない。勇将が山東にいれば劉制使がこの賊を討滅し、一日のうちに功をなすだろう。太尉はなぜこの機会をつかもうとしないのだ?」
夏全は喜び、兵を率い小道から楚城に入った。時青も淮陰から楚城に入った。劉琸は驚き恐れたが、これを退けるわけにもいかず、二人の思惑通りとなった。
このとき、李全は死んだという噂が広まっていた。李福は青州に兵を送ろうとしたが、劉琸が夏全に命じて楚城に兵を並べさせ、李全の兵は震え上がった。李全の妻楊氏は、夏全と和睦しようと考え、人をやってこう伝えた。
「将軍は山東に帰順したのではなかったのですか?狐が死ねば兎が悲しみます。李氏が滅べば夏氏は生きていられますか?将軍に可愛がっていただきたく思います。」
李全は承諾した。楊氏は着飾って出迎え、ともに軍営を回って言った。
「みな夫が死んだと言っています。私は一介の婦人に過ぎず、どうして自立することができましょうか?ここは太尉に夫として仕えるべきであり、そうすれば美女と財宝、武器と食糧はみな太尉のものとなります。お望みであればこれらをお納めください。多言は無用です。」
夏全は心を動かされ、酒を置いてたいへん喜んだ。たけなわの頃、眠りに就こうと帰るふりをし、仇を転じて友とし、李福と謀って劉琸を追い出した。そして楚州の府を包囲し、官署と民家を焼き払い、倉庫番を殺して物資を奪った。このとき、劉琸の精鋭万人が残っていたが、委縮して一令を発することもできず、ため息をつくばかりであった。夜半、劉琸は縄梯子で城壁を下り、身一つで逃げだした。鎮江軍は賊と戦い、その大半が死んだ。将校も多くが死に、武器・鎧・銭・食糧はすべて賊のものとなった。劉琸は徒歩で揚州に着き、兵を借りて自分を守った。
夏全は劉琸を追い出すと、夜に李全の軍営に赴いたが、楊氏はこれを拒んだ。夏全は楊氏が自分を殺すのではないかと恐れ、物資を盗んだうえで盱眙に走り、乱を起こそうとした。盱眙の将張恵・范成進は城門を閉め、夏全は入ることができず、狼狽して金に降った。朝廷はこれを聞き、大いに恐れた。劉琸は自らを責め、ほどなくして死んだ。
31
三年(1227)春正月、姚翀を淮東制置使とした。
朝廷は、姚翀が李全と交友があったため、この命を下した。姚翀が別れのあいさつをしに行くと、帝は言った。
「南北ともにわが赤子だ。どうして二つに分けられよう?朕のためにかの地を安定させてくれ。」
姚翀は楚城の東に着くと、船を岸につけて執務した。そして折を見て城に入り、李全の妻楊氏に会い、徐晞稷を用いて拝礼した。楊氏は姚翀の入城を許し、姚翀は入り、僧寺に泊まり大いに楽しんだ。
32
三月、趙范は史弥遠に上奏した。
「淮東の事情は日々変化しています。淮河を領有すれば長江を領有することができますが、淮河を領有しなければ、長江以北の葦の茂る川股で、敵軍が密かに長江を渡ろうとするでしょう。長江数千里をどうやって防ぐというのですか?ある者は柔らかい言葉で賊をおびき出せば、賊も気づかないうちに緩兵の計(警戒を緩めること)にかかるだろうと言い、ある者は軍営に退いて賊の気を緩めさせれば、賊も気づかないうちにわが領内に深入りさせることができると言っております。また、ある者は焦土作戦を行って城を包囲しようと考え、ある者は烏合の衆を集めて軽率に戦おうと考え、ある者は賊の言葉遣いが時に従順で時に反抗的であるのを見て一喜一憂し、ある者は賊の兵が時に進み時に退くのを見て気を緩めたり引き締めたりしていますが、これらはみな失策であります。策を失えば淮河を失い、淮河を失えば長江を失います。持っているものを失えば悔しさに堪えきれません。
そもそも、兵の種類には敵の侵入を防ぐ兵、遊撃の兵、賊を討滅する兵があります。今、宝応(1)の兵が山陽(楚州)に迫り、天長(2)の兵が盱眙に迫っています。ここは守りにあたる兵万人を増やし、質の良い将を送ってこれを統括すべきです。そして賊が来れば城壁を固くしてその鋭鋒をくじき、来なければ武威を示して国境を圧迫し、隙をみて軍を送り、その不備を突いて勇敢に戦うことを示し、敵が深く侵入しようとしてもわが軍がその虚を突くのを恐れるようにさせるのです。これが敵の侵入を防ぐ兵です。
盱眙に迫る賊には食糧の蓄えがなく、金人もこれを養うことができず、兵を分け略奪によって食いつないでいるに過ぎません。ここは精鋭を動員し、勇敢な将校を与え、土豪を募り、奇襲と伏兵により彼らを皆殺しにするのです。これが遊撃の兵です。
(1)宝応 江蘇省宝応県。
(2)天長 安徽省天長市。
維揚・金陵(3)・合肥で二、三万人の兵を集め、優れた兵を用い、勇敢な将校を用い、鋭利な武器を用い、習熟するまで訓練し、紀律を厳格に行い、賞罰を公平に行い、兵の心構えとして、各人が上官を父母と思い、長のために死ぬよう教えるのです。これを信じて実行すれば、半年で強国となり、一年で賊を討滅することができます。賊がわが国深くに入ることができなくなれば、略奪しようにも奪うものがありません。また、わが軍に討伐されるのを恐れるようになれば、引き返して金に食糧を求めることでしょう。しかし金にそのような余力はなく、賊はこれを恨み、わが国は災いを金に転嫁することができます。ある者は揚州に大軍を置くべきではないと言い、賊の侵入を速めるのを恐れています。これは正しくありません。揚州は国の北門であり、淮東を統べ、長江を防ぎ、運河を守るものであり、ここに備えがないなどあり得ません。よく守る者がいれば、敵は攻めることができません。今、宝応・天長の二つの軍営を置いて要衝を押さえ、二、三の将帥を置いて軍勢を張れば賊将は攻めることができず、わが揚州を侵すことはないでしょう。賊がわが軍の勢いを知らずに揚州を侵すのであれば、これは自ら死にに行くようなものです。」
朝廷は趙范を呼んで議論し、彼を知池州(4)とした。
(3)金陵 江蘇省南京市の南。
(4)池州 安徽省池州市貴池区。
33
五月、李全は青州を差し出して蒙古に降った。
李全の軍が包囲されて一年、牛馬と人を食いつくし、自軍を食おうとしていた。李全は降伏を考えたが、みなが反対するのを恐れ、香を焚いて南を向いて再拝し、首を吊ろうとしたが、鄭衍徳・田四がこれを止めて言った。
「服に例えるなら、胴があって袖がないようなものです。いま北に帰順すれば不運に見舞われることはないでしょう。」
李全は蒙古に降った。
34
劉慶福は山陽(楚州)にいたが、親しくしている者が災いの種となってから心に不安を抱き、李福を殺して朝廷に贖罪しようと考えた。李福はこれを知ると、やはり劉慶福を殺そうと計画した。このため二人は互いに疑うようになり、会うこともなくなった。ある日、李福は病と称して自室を出なかった。十日余りして、劉慶福が見舞いに来た。李福は跳ね起きて刀を抜き、劉慶福を傷つけた。劉慶福は逃げたが、側近らがこれを殺した。李福は劉慶福の首を姚翀に納め、姚翀は大いに喜んだ。幕客杜耒は言った。
「劉慶福は災いの元凶にして一代の奸雄だった。いま頭が落ちて、その大きな手を置くようになった。」
このとき、楚州は夏全の乱が起こってから、物資の蓄えがなくなり、輸送も続かず、みな騒然として李福のせいだと言った。李福はみながこのように言うのを恐れ、たびたび姚翀に会って物資の輸送を促した。姚翀は朝廷の命令がまだ下っていないのを詫びた。
六月、李福はみなの怒りに乗じ、李全の妻楊氏とともに謀り、酒を飲もうと姚翀を呼んだ。姚翀が来ても楊氏は出てこず、賓客の席に座ると李福の側近らもいなくなった。李福は幕客らを呼ぶよう命じ、楊氏に姚翀の二人の妾を呼ばせた。幕客らは異変が起こったことに気づいていたが、やむを得ず官署に出向いた。杜耒が八字橋まで来ると、李福の兵がこれを腰から両断した。李福の兵は姚翀を殺そうとしたが、鄭衍徳が救い出し、姚翀は逃げおおせた。ひげを剃り、縄梯子で城壁を下りて夜に逃げ出したが、明州(1)に戻ったところで死んだ。
朝廷は淮河周辺の乱が続き、将を派遣すれば必ず死ぬため、淮河を軽んじ長江を重んじる姿勢を取ることにした。楚州には将を置かず、楊紹雲に制置使を兼任させた。楚州を改めて淮安軍とし、通判張国明に暫定的に統治させた。その統治のしかたは羈縻州と同然であった。
(1)明州 浙江省寧波市。
35
秋七月、張林らは淮安に戻り、李福を討ち、これを斬った。
これ以前、李全の軍は兵を養うための銭と食糧の輸送が続かず、多くの者が恨み言を言っていた。李全の将国安用・閻通は嘆きながら言った。
「俺たちは米のほかに銅銭二百を受け取り、楚州の物は安いので生を楽しむことができた。しかし、劉慶福が悪事を働いてからは恨みの応酬が続き、俺たちは衣食に困るようになった。」
このとき、張林・邢徳も楚におり、「かつては朝廷の恩を受けていたが、李全の離間策に遭ってしまった。今ここに帰り、朝廷と事を構えるべきではない。」と言った。王義深は以前李全から恥辱を受けたことがあり、「俺はかつて賈将軍の帳前の人であり、彭義斌とともに起義したが、志を遂げずに帰った。」と言った。五人は言った。
「朝廷は銭と食糧を送ってこず、反意ある者が除かれていない。」
そして李福と李全の妻楊氏を殺して朝廷に献上しようと共謀し、兵を率いて楊氏の家に向かった。李福は逃げ出したが、邢徳がこれを斬り、数百人が殺された。郭統制という者がおり、李全の次男李通と妾の劉氏を殺し、これを楊氏と偽った。そしてこの首と李福の首を箱に入れて楊紹雲に献上した。楊紹雲は急いでこれを臨安に送り、朝廷は挙げて喜んだ。
36
八月、知盱眙軍彭𢖲および張恵・范成進・時青に檄文を送り、兵を合流して楚州に行き、自主的な判断で機会をうかがい李全の残党を皆殺しにするよう命じた。
彭𢖲は軽率な性格で、張恵らを従えることができなかった。檄文を受け取ると自分で判断することなく、制置使・朝廷にこの件の処理を任せた。朝廷は時青の人望が厚いことから、彼に処理させることとした。時青は災いが自分に及ぶのを恐れ、密かに青州の李全に人をやってこのことを知らせ、楚州攻撃を先延ばしにした。張恵・范成進は、朝廷の檄文が時青だけに送られ自分たちには届いてなかったため、盱眙に帰り、宴会を開いて彭𢖲を呼び入れた。そして彭𢖲が酔っているのに乗じて縛り上げ、淮河を渡り、盱眙を差し出して金に降った。
37
李全は時青からの知らせを聞くと慟哭し、蒙古の大将にこれを告げて南へ戻ることを願い出たが、許可されなかった。李全は指を一本斬ってこれを蒙古の大将に見せ、南へ戻ったら乱を起こすことを誓った。蒙古の大将は蒙古の君主の命令を受け、李全を山東淮南行省とし、自分の裁量で山東を統治することを許し、毎年金貨を献上することとした。李全は蒙古の張宣差(使者)と通訳数人とともに楚州に帰り、蒙古の衣冠を身にまとい、持参した文書には暦が記されていたが年号がなかった。楊紹雲は李全が来たのを知ると、揚州に引き留めて帰さなかった。王義深は金に逃げ、国安用は張林・邢徳を殺して罪を贖い、郭統制も李全に殺された。
38
十二月、金は李全を淮南王にしようとしたが、李全は辞退した。李全が亀山で完顔訛可に敗北したためであった。
39
李全は時青をおびき出して殺し、その兵を併合した。
40
紹定三年(1230)二月、趙范・趙葵を再度起用し、鎮江・滁州(1)の軍馬を指揮させた。
(1)滁州 安徽省滁州市。
41
五月、李全を彰化保康節度使・京東鎮撫使としようとしたが、李全は辞退した。
李全は楚に帰ると南北問わず広く人を募って兵とした。天長の民は集まって十六の砦を築いたが、連年失業し、官による救済も続かなかった。このため壮健な者はみな募集に応じた。射陽湖に仮住まいする者は数万家に上り、家には武器が置かれ、存分に略奪していた。その中の豪傑周安民・谷汝礪・王十五が長を務め、水砦に寄り集まって成り行きを見ていた。李全は東南の地が船の通行に利があるのを知ると兵に水戦を習わせようと考え、米商人が来ると船を並べて米を買い入れ、水夫を引き留めて一をもって十を教えさせた。また、人をやって船で街へ行かせて桐油を買い、筏を貼り合わせた。南の職人を募って舭𦪭船を造り、淮口から海に出てお互いの船を見合い、いつも射陽湖と海で船に試乗した。また、食糧が少ないのを口実に、船で蘇州の海岸から平江・嘉興に入って米を買い入れていると言っていたが、実際には航路に習熟して都の奪取を狙っていた。また、山東の統治がまだ安定せず、かといって蒙古への毎年の貢納を欠かすこともできないので、表向きは朝廷に恭順の姿勢を示して銭と食糧を受け取り、これを貿易によって蒙古に送っていた。朝廷も李全が山東を往来することにより北顧の憂いがやや緩和されるため、食糧の輸送を絶やさなかった。このため李全は朝廷に遊説し、山陽(楚州)に軍府を置くよう求めた。また、使者を金に入らせた。また、朝廷の装備品を溶かそうと考え、兵士穆椿を京師の皇城に潜入して火を放たせ、御前の武器庫を焼き、先代からの武器と鎧がことごとく失われた。
李全はまず揚州に拠って長江を渡ろうとし、兵を分けて通州(1)・泰州(2)を略奪して海に向かわせた。配下たちは言った。
「通州・泰州には塩場があります。これを先に奪ってわれわれの財産とし、朝廷の利益を失わせるのが最上の策です。」
李全は朝廷の備えを失わせようと考えたが、すぐには塩の輸送路を断とうとはせず、蒙古の李宣差・宋宣差を連れて朝廷を恫喝した。しかし、蒙古は李全の兵を援助せず、李宣差は青州の薬商人であった。朝廷は李全のずる賢さを知っていたが、目先の安定を欲して問い詰めなかった。
李全が買い入れた麦を積んだ船が塩城(3)を通りかかると、知揚州翟朝宗は兵にこれを奪わせた。李全は怒り、盗賊を捕らえるという名目で水陸数万の兵を出撃させ、小道から塩城を突いた。守将陳益・楼彊・知県陳遇は逃亡し、李全は城に入ってここを拠点とした。翟朝宗は慌てふためいて幹官王節を送って軍を退けるよう李全に求めたが、李全は許さなかった。そして鄭祥・董友に塩城を守らせ、自身は兵を連れて楚州に帰り、書簡で朝廷にこう伝えた。
「兵を送り盗賊を捕らえようと塩城を通過したが、県令は城を放棄して逃げた。軍民が驚いていたため、やむを得ず城に入って民衆を落ち着かせたのだ。」
このため朝廷は李全に節鉞を与えて軍を解散させようとし、制置司の幹官を行かせてこれを伝えた。李全は言った。
「朝廷は俺を子ども扱いし、泣けば果物をやると言っている。」
李全は命令を拒否した。朝廷は翟朝宗を罷免し、通判趙璥夫に州を統治させた。
(1)通州 江蘇省南通市。
(2)泰州 江蘇省泰州市。
(3)塩城 江蘇省塩城市。
これ以前、士大夫らは賢愚を問わず李全は必ず背くであろうと思っていたが、これを口にすることはなかった。国子監丞度正はひとり上奏してこのことを直言し、李全討伐の三つの策を献上した。その言葉は剛直かつ激烈であったが、用いられることはなかった。ここに至り、趙范
・趙葵は李全が背くであろうことを憂慮し、たびたび上奏して強く諫言したが、史弥遠は受け入れなかった。
42
冬十月、趙善湘を江淮制置使とした。
このとき、李全は造船に力を入れ、墓を発いて粘板を取り、鉄銭を溶かして釘を作り、囚人の油を煮て油灰を搗き、灯火を並べて夜を日に継ぎ、沿海に逃げた者を呼び入れて水夫とした。また、趙璥夫をだまし、蒙古への備えを口実として五千人分の銭と食糧と誓書・鉄券を求めた。朝廷はなおも食糧の輸送を絶やさず、李全は米を手に入れるとすぐにこれを淮海に自ら運んで塩城に入り、ここの兵に支給した。ほかの軍の兵はこれを見て言った。
「朝廷はただ賊の腹が満たされないのを恐れている。俺たちが賊を殺す必要などない。」
射陽湖の人々はみな恐れ、「北の賊を養えば淮の民が殺される」と言われるようになり、これを聞いた者は嘆息した。李全はまた人をやって金牌(1)を見せて周安民らを脅し、喩口に浮き橋を造らせて塩城の往来を便利にした。
このとき、史弥遠は休暇を取ることが多く、執政らも意に介さなかったが、鄭清之だけはこれを深く憂え、李全を討伐するよう帝に強く勧めた。このため帝は趙善湘を江淮制置使とし、自分の裁量で事を処理するのを許した。しかし、朝廷は内には討伐を計画しながら、外に向かっては調停を説いており、趙范・趙葵兄弟のみが兵を進めて李全を討つよう要請していた。
(1)金牌 軍機が書かれた金の札。
43
十二月三日、李全は突然揚州の湾頭(1)に姿を現し、揚州副都統丁勝がこれを拒んだ。このため李全は城の南門を攻撃した。趙璥夫は史弥遠からの書簡を受け取り、それには一万五千人分の食糧を増やすことを許可し、李全に楚州に帰るように勧めるよう書かれていた。このため趙璥夫は劉易を送って李全の砦に行かせ、この書簡を見せた。李全は笑いながら、
「史丞相は俺に帰るよう勧めているが、丁都統と俺は戦っているのだ。俺をだまそうとしているのではないか?」
と言って書簡を投げ捨て、受け取らなかった。趙璥夫は恐れ、すぐに趙范を鎮江に迎え、趙范も即日趙葵を招いた。趙葵は雄勝・寧淮・武定・強勇の四軍一万四千を率いて鎮江に赴いた。
(1)湾頭 江蘇省揚州市江都区。
このとき、李全は兵を後退させて泰州を攻め、知州宋済が降伏した。李全は官署に入り、美女と金銭を自分のものとした。そしてこれから揚州に向かおうというとき、趙范・趙葵が揚州城に入ったと聞き、鄭衍徳を鞭で打ち据えて言った。
「俺は先に揚州を取って長江を渡ろうとしたが、お前たちは通州・泰州を取るように勧めた。そしていま二趙が揚州に入った。これで長江を渡れるというのか!」
それからしばらくして言った。
「今はただ小道から揚州を突くのみだ。」
そして一部の兵に泰州を守らせ、全兵力で揚州を攻めた。
湾頭に着くと砦を築き、運河の要衝に拠り、胡義に先鋒を率いて平山堂に駐留させ、揚州三城を攻撃する機会をうかがった。李全が東門を攻めると趙葵は自ら戦った。李全は張友に城門に向かって趙葵に出てくるよう叫ばせた。趙葵が出てくると、李全と堀を隔てて馬を立て、互いに苦労をねぎらいあい、李全に何をしに来たのか問うた。李全は言った。
「朝廷はややもすると俺を疑い、今また食糧の支給を絶った。俺は背いたのではない。銭と食糧が欲しいだけだ。」
趙葵は言った。
「朝廷はお前を忠臣孝子として待遇してきた。だがお前は反旗を翻し、城を攻め落とした。朝廷が食糧の支給を絶たずにいられるものか!お前は背いたのではないというが、人を欺いているのか?天を欺いているのか?」
李全は答えることなく、弓を引き絞り矢を抜き、趙葵のもとから去っていった。これより何度も戦い、李全の軍は多く敗北した。李全はいつも言っていた。
「俺は淮河周辺の州県など欲しくはない。長江を渡り海の上を行き、小道から蘇州・杭州に行けば俺に対抗できる者はいなくなるのだ!」
李全は揚州三城を併呑しようとしたが、兵は城下に迫れずにいた。そこで宗雄武が献策した。
「城中には薪がなく、総領所(2)から借りている物資も底をついています。長囲(城を包囲する形の砦)を築けば三城は困窮するでしょう。」
このため、李全はすべての兵と村の農民数十万に砦を築かせて三城を囲み、制置司・総領所からの食糧輸送が絶たれた。趙范・趙葵は三城の各門に出兵して砦を襲撃するよう命じ、火を掲げたときを襲撃の合図とした。夜半、兵を放って砦を攻撃し、多くの賊兵を殺した。これより李全は長囲を守ることに専念し、持久戦により官軍を困窮させることにし、城に近づこうとはしなかった。李全は平山堂で傘を張って音楽を奏で、長囲を築いた。趙范は軽装の兵で牽制するよう各門に命じ、自ら将兵を率いて砦の西に出てこれを攻めた。李全は各門に兵を分けて激しく戦い、辰の刻(午前7時~9時)から未の刻(午後1時~3時)まで、互いに戦い殺し合った。官軍の将校王青は力戦したが、ここに死んだ。翌日、趙范は出兵して大いに戦い、李全軍の食糧数十艘分を奪った。趙葵も力戦したが敗れた。
(2)総領所 軍に支給する銭・食糧を管理する官署。
44
四年(1231)春正月十五日、趙范・趙葵は揚州で李全に大敗した。
このとき、李全は城の塹壕を囲むように土を掘った。趙范・趙葵は諸将に揚州の東門に出て襲撃させた。李全は土の城に逃げ、官軍がこれを追って踏み、踏みつけられ溺れる者がたいへん多かった。趙范が西門に布陣すると、賊は砦を閉ざして出てこなくなった。趙葵は言った。
「賊はわが軍が城内に退くのを待っているのだ。」
そこで伏兵に城壁の一部を破壊させ、兵を中に引き入れて賊をおびき寄せた。果たして賊兵数千が堀のそばまでやって来ると、李虎が力戦し、城のうえから矢と石が雨のように降り注ぎ、賊は退却した。ほどなくして、賊の別動隊が北東から駆けつけると、趙范・趙葵は兵に浮き橋・跳ね橋を持たせて出撃し、三迭陣を敷いてこれを待ち構えた。巳の刻(9時~11時)から未(午後1時~3時)まで賊と大いに戦い、別に李虎らに馬と歩兵五百を率いて賊の背後に回らせ、趙葵が軽装兵を率いて横から突き、三方面から挟撃し、賊は敗走した。
45
当初、李全は謀反を計画したが、うまくいくかわからず、配下の者たちが従わないのを恐れていた。しかし、辺境の変事を喜ぶ者たちは李全を尊重し、計画に賛同した。このため李全は意を決して謀反を起こした。趙善湘・趙范・趙葵が出兵すると、李全の罪を喧伝して討伐に乗り出し、銭と食糧の支給が絶たれ、城を攻めても得るものがなく、戦おうとしても不利に陥り、李全はようやく後悔し、意気消沈して楽しまなかった。あるとき、側近に自分の腕を持たせ、
「これは俺の手なのか?」
と言った。みなこれをいぶかしく思った。
46
夜、趙范・趙葵が朝どこへ向かうか話し合ったところ、趙葵は言った。
「東門から出撃しよう。」
趙范は言った。
「西側ではわが軍は常に不利だから、賊はわが軍を侮るだろう。侮っているところを逆に突いてやれば必ず勝てる。砦を出て西門を塞ぐのが最上の策だ。」
李全は平山堂で酒を置いて盛大な宴会を開いていた。ある見回りの兵が、李全が槍で二つの仏像を引っ掛けて叫んでいるのを見て、これを趙范に報告した。趙范は喜び、趙葵に言った。
「やつは勇敢だが軽率だ。出てくれば捕らえられるぞ!」
そして精鋭数千すべてを西に向かわせた。以前から官軍は賊に侮られており、旗を張って油断を誘った。
李全はこれを望み見て喜び、李・宋の二宣差に言った。
「俺が南軍を一掃するのを見ていろ!」
官軍は賊を見ると猛然と前に進んだが、自分を罠にかけるためであることを李全は知らなかった。趙范は兵を率いて並進し、趙葵は自ら戦い、諸軍は奮い立って戦った。賊はようやく以前の官軍ではないと思い始め、土の城に逃げようとしたが、李虎の軍がすでに月城の門を塞いでいた。李全は進退窮まり、数十騎を従えて北へ逃げた。趙葵は諸将を率い、制勇・寧淮の二軍とともに追撃した。
李全は新塘(1)に逃げ、ため池の水を放水すると泥沼の深さは数尺に及んだ。このとき晴れが長く続き、戦塵が乾いた土のように舞い上がった。李全は馬でここを通り過ぎようとしたが、みな泥沼に足を取られ、自力で抜け出すことができなかった。制勇軍が追いつくと長槍三十本余りが李全をめった刺しにした。李全は叫んだ。
「俺を殺すな!俺は頭目だぞ!」
兵の群れは李全の屍を砕き、その馬と鞍、武器と鎧を分けあった。これとともに三十余人を殺した。いずれも将校であった。李全が死ぬと残党は散り散りになって逃げようとしたが、国安用は反対し、誰か一人を頭目とするよう提案して降伏をよしとせず、淮安に戻って李全の妻楊氏を奉戴しようとした。趙范・趙葵が追撃してこれを大いに破り、李全軍の残党は散り散りになって逃げた。
(1)新塘 安徽省含山県の南。
趙范は揚州に帰り、戦勝を報告した。このため、趙善湘を江淮制置大使、趙范を淮東安撫使、趙葵を淮東提刑とした。趙善湘の末子趙汝楳は史弥遠の娘婿であり、上奏して何かを求めても阻まれることがなかった。趙善湘もまた趙范・趙葵が適切な戦法で勝利したため、彼らを厚くねぎらった。このため昇進に成功したのであった。
47
五月、趙范・趙葵は十万の兵で塩城を攻撃し、たびたび賊軍を破った。そして淮安城に迫り、万をもって数えるほどの賊兵を殺し、二千余りの家を焼き、城中の慟哭の声が天を震わせた。淮安五城はすべて破られ、斬首すること数千、砦を焼くこと万余家に及んだ。淮北の賊が救援に向かおうとすると、水軍がこれを攻撃し、川の中の柵を焼き、五城の残った土地を攻め、賊は恐れをなした。王旻・趙必勝・全子才らは砦の西門に移動し、賊と大いに戦い、これを破った。李全の妻楊氏は鄭衍徳に言った。
「二十年梨花槍をとって戦い、天下に敵はなかった。だが、今はその勢いもなくなり、支えきれなくなった。お前たちが降伏していないのは、私がここにいるからだ。」
楊氏は淮河を渡って去っていった。残された者たちは馮垍らを送って官軍の軍門に降った。趙范はこれを許し、淮安は平定された。