1
寧宗開禧二年(1206)十二月、蒙古のキャウンテムジンがオノン河で帝を称した。
テムジン以前にボドンチャルがあり、その母をアランゴホアといった。アランゴホアは二人の子を産んだが、夫を亡くして一人で生活していた。夜寝ていると、しばしば光が腹のあたりを照らし、さらに三人の子を産んだ。ボドンチャルはその末の子である。その後、彼らの子孫は繁栄し、それぞれ部族を作り、烏垣の北に住み、畏羅・ナイマン・九姓ウイグルの故城カラコルムと境を接し、代々遼・金に貢ぎ物を納め、韃靼に従属していた。
イェスゲイの代になると諸部族を併呑し、その勢いはますます大きくなった。タタール部を攻めたとき、部族長のテムジンを捕らえた。帰還の途中、跌里温盤陀山に駐留し、ここで子が生まれ、テムジンと名づけた。イェスゲイが死ぬと、テムジンはまだ幼年であったため、多くの者は同族のタイチウトの部族に帰順した。タイチウトは七つの部族を合流させて三万人となり、テムジンの部族を攻めた。テムジンとその母ホエルンは部族の者たちを率いて十三の翼をなし、大いに戦った。タイチウトらは敗れ、やや落ち着くことができた。このとき、タイチウト部は土地が広く民も多かったが規律がなく、配下の者は言った。
「テムジンは人に服を着せるときは自分の服を着せ、人を馬に乗らせるときは自分の馬に乗せるといいます。これぞ真の君主というものです。」
そして彼らはテムジンに帰順し、タイチウト部の勢いは衰えた。
ほどなくして、タタール部が金に背いた。テムジンはオノン河から兵を率い、金軍と合流してともにタタール部を滅ぼした。この功績によりテムジンは察兀禿魯に封ぜられた。中国で言うところの招討使に当たる。
テムジンはナイマン部が強盛を誇っているのを見て謹厳にこれに仕えていたが、ナイマンがテムジンの領土に侵入して略奪すると、テムジンは多くの民を帖麦垓川に集め、ナイマンの討伐について話し合った。ナイマンのタヤンカンは沆海山に砦を築き、蔑里乞の諸部族と合流し、兵の勢いはすこぶる盛んだった。テムジンはこれと大いに戦い、タヤンカンを捕らえて殺し、ナイマンの諸部族はことごとく壊滅し、テムジンはますます強盛となった。
明年、西夏を攻め、力吉里寨を破り、落思城を経て、大いに略奪して帰った。
ここに至り、諸部族の長らをオノン河の水源に集めて即位し、九斿の白旗を立て、諸王と群臣は尊号を献上し、チンギス皇帝と名乗った。
これ以前、紹興(高宗・1131~62)のとき、金人はたびたび蒙古を攻撃したが勝つことができず、これと講和した。金の君主は衛王完顔允済を靖州に送り、テムジンの貢納品を受け取らせた。完顔允済はテムジンの顔立ちを立派だと評し、帰って金の君主に報告し、一計を案じてこれを排除するよう要請したが、金の君主は許可しなかった。テムジンはこれを聞いて完顔允済を恨んだ。
2
テムジンは即位すると出兵してナイマンを攻め、これを滅ぼし、杯禄可汗を捕らえて帰った。
3
嘉定元年(1208)冬、蒙古はトクトおよびクチュルクハンを征伐した。
このとき、オイラートなどの部族が蒙古軍の先鋒と遭遇し、戦わずして降伏した。そして彼らを案内役とし、蔑里乞部を攻撃し、これを滅ぼした。トクトは流れ矢に当たって死に、クチュルクは契丹へ逃げた。
この年、金の君主完顔璟が死去し衛王完顔允済が後継者となった。
4
二年(1209)三月、ウイグル国が蒙古に降った。ウイグルは唐の高昌である。
5
五月、蒙古兵が霊州(1)に入り、夏の君主耶律安全は娘を献上して蒙古に降ることを願い出た。夏はここから衰退していった。
(1)霊州 寧夏回族自治州銀川市の南。
6
三年(1210)十二月、蒙古が金に侵入した。
これ以前、金の君主完顔允済が帝位を継ぎ、蒙古に詔を送り、これを拝受するよう伝えた。蒙古の君主は金の使者に言った。
「新たな天子は誰だ?」
「衛王です。」
蒙古の君主は南面に唾を吐いて言った。
「中原の皇帝は天上の人がなるものだ。そなたらのような凡庸で惰弱な者がなるものなのか?このような者に拝礼などするものか!」
そして馬に乗って北へ去っていった。金の使者が帰ってこのことを報告すると完顔允済は怒り、蒙古が貢納品を持ってきたら蒙古の君主を殺そうと考えた。蒙古の君主はこれを知ると金との国交を断絶し、兵を配置して備えとし、金の北西の国境地帯にたびたび侵入し、その勢いは盛んであった。金人は恐怖に震え、人々が辺境のことを話すのを禁じた。
7
四年(1211)夏四月、金は人を遣わして蒙古に和睦を求めたが、蒙古は許さなかった。
これ以前、金の納哈買住が北の辺境を守っているとき、蒙古が侵攻しようとしているのを知ると、急ぎ金の君主に報告した。金の君主は言った。
「かの国にはわが国と戦う理由がない。お主はどうしてそのようなことを言うのだ?」
納哈買住は言った。
「近ごろ蒙古は近隣の部族を従わせ、西夏は君主の娘を献上し、矢と盾を休むことなく作っています。また、蒙古の軍営は男子を馬車に乗せ、馬の消耗を惜しんでいます。これらの動きがわが国を狙うのでなければ何だというのでしょう?」
金の君主は納哈買住が独断で戦のきっかけを作ろうとしているとして、これを捕らえた。
蒙古は連年雲中(1)・九原に侵入して休むことなく、大水濼を突破して進んだ。金の君主はようやくこれを恐れるようになり、納哈買住を釈放し、西北路招討使粘合合打を送って和睦を求めたが、蒙古の君主は許さなかった。このため金の君主は平章政事独吉千家奴・参知政事ワンヤンクシャに命じて撫州で省を取り仕切らせ、西京留守フシャリクシャクに枢密院を取り仕切らせ、辺境の有事に備えた。
(1)雲中 山西省大同市。
8
金の独吉千家奴・ワンヤンクシャが烏沙堡に到着すると、まだ防備を整えないうちに蒙古兵が急遽やって来て、烏沙堡・烏月営を抜き、白登城(1)を破り、西京(2)を攻めた。ここまで七日間のことであった。フシャリクシャクらは恐れをなし、配下とともに城を捨てて包囲を突破して逃げた。蒙古の君主は精鋭の騎兵三千でこれを追い、金兵は大敗し、翠屏山まで追撃した。そして西京および桓・撫州を取った。続いて蒙古の君主は子のジョチ・チャガタイ・オゴデイの三人を派遣し、兵を率いて雲内(3)・東勝(4)・武(5)・朔(6)・豊(7)・靖などの州を取った。
これより徳興・弘州(8)・昌平(9)・懐来(10)・縉山(11)・豊潤・密雲(12)・撫寧・集寧、東は平(13)・灤州(14)を過ぎるまで、南は清(15)・滄州(16)に至るまで、臨潢(17)から遼河を過ぎ、南西は忻(18)・代州(19)に至るまで、すべて蒙古に降った。
(1)白登城 山西省大同市付近。
(2)西京 西京大同府。山西省大同市。
(3)雲内 内蒙古自治区フフホト市の南西。
(4)東勝 内蒙古自治区トクト県。
(5)武州 山西省神池県。
(6)朔州 山西省朔州市。
(7)豊州 内蒙古自治区フフホト市の東。
(8)弘州 河北省陽原県。
(9)昌平 河北省北京市昌平区。
(10)懐来 河北省懐来県。
(11)縉山 河北省北京市延慶区。
(12)密雲 河北省北京市密雲区。
(13)平州 河北省盧龍県。
(14)灤州 河北省盧龍県の南。
(15)清州 河北省青県。
(16)滄州 河北省滄州市。
(17)臨潢 内蒙古自治区バイリン左旗。
(18)忻州 山西省忻州市。
(19)代州 山西省代県。
9
閏九月、蒙古の君主は撫州を破ると、兵馬を休ませ南に向かおうとした。金の君主は招討使完顔九斤・監軍完顔万奴らに兵を率いて四十万と号し、野狐嶺(1)に駐屯させ、完顔胡沙が大軍を率いて後に続いた。ある者が九斤に言った。
「蒙古は新たに撫州を破り、戦利品を配下に与え、馬を野原で放牧しています。これに乗じて恐れることなく襲撃すべきです。」
九斤は言った。
「それは危険なやり方だ。騎兵と歩兵がともに進み、万全を期すのがよかろう。」
蒙古の君主はこれを聞くと、兵を獾児觜に進めた。九斤は配下の石抹明安を送って蒙古に挙兵した理由を尋ねようとしたが、明安は蒙古に降り、内部の事情を話した。
蒙古の君主は九斤らと戦い、金兵は大敗し、人馬は踏みにじられ、死者は数え切れなかった。蒙古が勢いに乗じて進むと、クシャはその鋭鋒を恐れ、抵抗することなく兵を引いて南へ向かった。蒙古兵はこれを追撃して会河堡まで行き、金兵はまたも大敗し、クシャはわずかに身一つで逃れ、宣平に走った。蒙古兵は勝った勢いに乗じて宣平に迫り、晋安県を攻略した。遊撃隊が居庸関(2)に到着すると、守将完顔福寿は関を捨てて逃げ、蒙古兵はこれを攻略した。
金の中都(3)は厳戒態勢をとり、男子が城を出るのを禁じた。蒙古の遊撃隊が都城に来ると、金の君主は南の汴(開封)に逃げようとした。衛兵らが死を誓って迎撃すると、蒙古兵は大きな損害を出し、金の群牧監(馬を飼育する官署)を襲い、その馬を駆って逃げた。このため金の君主は汴に逃げるのをやめた。秦州刺史朮虎高琪を通玄門に駐屯させ、クシャを咸平路兵馬総管に降格させた。将士に対する罰が軽かったため、彼らはこれ以後命令を聞かなくなった。
(1)野狐嶺 河北省張家口市の北西。
(2)居庸関 河北省北京市の北西。
(3)中都 河北省北京市。
10
十一月、金の徒単鎰はこのとき初めて上京(1)留守となり、蒙古兵が日々北西を攻めているのを見て言った。
「事態は急迫している。」
そして兵二万を選び、同知(副官)烏古孫兀屯にこれを率いて守らせた。金の君主はこれを褒め、徒単鎰に右丞相を与えた。徒単鎰は上奏した。
「わが国は韃靼と交戦して以来、あちらは兵を集中して行軍し、こちらは兵を分散させて守ってきました。兵を集中して分散した兵を攻めれば、こちらが敗れるのは必然です。大きな城に入って力を合わせて防ぐのが最上の方法です。昌・桓・撫三州は豊かな土地で、人はみな勇敢です。ここは彼らを城内に移して兵力を増し、人畜と財貨を失うことのないようにすべきです。」
参政梁𤨠(読み不明)は言った。
「そのようなことをすれば自ら領土を狭めることになります。」
金の君主は梁𤨠の策に従った。徒単鎰は再び上奏した。
「遼東は国家の根本であり、中都から数千里離れています。万一ここが襲われれば、周辺の州府は戦の成り行きを見守るようになります。そのような州府に事情を報告させれば判断を誤ることが多くなるでしょう。行省(中央官庁の出張所)を置いて大臣を派遣し、同地の動揺を安定させるべきです。」
金の君主は喜ばず、
「故なくして行省を置けば、いたずらに人心を動揺させるだけだ。」
と言って従わなかった。しかし、三州を失い、東京(2)が守ることなく陥落したと聞くと、金の君主は大いに悔やんで言った。
「丞相の言に従えばこんなことにはならなかっただろう。丞相に会うのが恥ずかしい!」
(1)上京 上京臨潢府。内蒙古自治区バイリン左旗。
(2)東京 東京遼陽府。遼寧省遼陽市。
11
フシャリクシャクは西京を放棄して帰り、蔚州(1)に向かった。クシャクはここで国庫の銀五千両と衣服・祭礼の道具などの物資を盗み、官民の馬と随行の人を奪い、紫荊関(2)に入って来水(3)令を殺した。中都に入ると、金の君主はこれを問いただすことなく、右副元帥とした。このためクシャクはますます遠慮しなくなり、兵二万を要求し、北上して宣徳(4)に駐屯しようとした。金の君主はこれに三千の兵を与え、嬀川(5)に駐屯させた。クシャクは不満を抱いた。
(1)蔚州 河北省蔚県。
(2)紫荊関 河北省淶水県の西。
(3)来水 河北省淶水県。
(4)宣徳 山西省大同市の北西。
(5)嬀川 河北省懐来県の東。
12
フシャリクシャクは駐屯地を南口(1)に移そうと考え、尚書省にこのような内容の文書を送った。
「韃靼の兵が襲来すれば支えることはできない。この身は惜しむに足りないが、三千の兵のことが案じられる。このため十二の関・建春・万寧宮は保つことができない。」
金の君主はこの言葉を憎み、当局に拘留して取り調べさせた。十五の罪を数え上げ、罷免して郷里に帰らせた。
(1)南口 河北省北京市昌平区の西。
13
蒙古の君主は宣徳を攻略すると徳興府(1)を攻撃し、城壁に穴をあけて登った。金人はこれを防ぎ、蒙古兵は不利に陥った。蒙古の君主の第四子トゥルイとチグゥ駙馬が盾を持って先に登り金兵を射た。金兵は退き、蒙古は徳興域内の城と砦をことごとく抜いて去っていった。金人は再びこれらを守った。
(1)徳興府 河北省涿鹿県。
14
六年(1213)五月、金の君主完顔允済は再びフシャリクシャクを右副元帥とした。
15
金の君主は再びクシャクを用い、将兵を燕城(中都)の北に駐屯させた。徒単鎰はこれを強く諫めたが、金の君主は聞き入れなかった。クシャクは仲間の完顔醜奴・蒲察六斤・烏古論奪剌らと乱を起こそうと画策した。金の君主は、蒙古兵が居庸関にいるのにクシャクは日々狩りに夢中になって軍をねぎらうことがなかったため、使者をやってこれを責めることとした。使者が来るとクシャクは怒り、「知大興府(1)徒単南平が謀反を起こしたため、詔を奉戴して討伐に赴く。」と称した。そして軍を三つに分け、章義門から城に入らせ、自分は別の一軍を率い、通玄門から入った。クシャクは城兵の抵抗を恐れ、先に一騎を東華門に行かせ、
「韃靼が北の関所に来て接戦となっているぞ!」
と大声で叫ばせた。そしてまた一騎を行かせ、同じようにさせた。そして仲間の徒単金寿に徒単南平を呼び出させた。南平は事情を知らずに広陽門に行ったところ、クシャクに出くわした。クシャクは馬上から刀を抜いて南平を殺した。完顔石古乃は乱が起こったと聞き、兵五百を集めて迎え撃ったが勝つことができず、みな戦死した。クシャクは東華門に行くと、護衛斜烈乞児らがこれを引き入れた。クシャクは宮殿に入り、近衛兵を配下の兵と交代させ、監国都元帥と自称し、大興府に居を定め、兵を並べて自衛し、芸者と仲間を集めて酒を飲んだ。
(1)大興府 中都のこと。河北省北京市。
翌日、兵を使って金の君主に屋敷を出るよう迫ってここに住み、衛兵二百人に守らせた。クシャクは仲間たちに官職を与えようと思い、宦官らに玉璽を取りに宮殿に向かわせた。尚宮左夫人鄭氏は玉璽を手に取ってこれを拒み、言った。
「玉璽は天子が用いるものです。クシャクは臣下であるのに、これを手に入れて何をするつもりですか?」
宦官は言った。
「いま天命は大きく変わり、主上ですらその地位を保つことができないのです。ましてや玉璽など。私はこれを渡すことで自分を許そうと思います。」
鄭氏は大声で罵った。
「あなたたちは宮中の近侍であって最も恩恵を受けた者たちです。それが君主の難に際して死をもって報いることもなく、かえって反逆者となって玉璽を奪おうというのですか!私はきっと死ぬことでしょうが、玉璽は絶対に渡しません!」
そして瞑目して何も言わず、宦官らは帰った。クシャクはまた人をやって宣命の宝物を奪い、仲間数十人に官職を与えた。
このとき、丞相徒単鎰は落馬して足を負傷し、休暇を与えられていたが、乱が起こったと聞くとすぐに中書省に入ろうとした。ある者が徒単鎰に言った。
「官署はみな兵が守っていて入ることができません。」
しばらくすると兵が街で人探しを始めたため、徒単鎰は屋敷に帰った。クシャクは帝位を僭称しようとしたが、躊躇して意を決しかねていた。そこで徒単鎰の人望が厚いのを利用しようと考え、彼のもとを訪ねた。徒単鎰は従容として言った。
「昇王は章宗の兄、顕宗の長子であり、多くの人望を集めています。元帥がこれを帝に立てれば万世に渡る功績となります。」
クシャクは黙然とし、宦官李思中を遣わして金の君主を屋敷の中で殺した。
このとき、完顔綱は兵十万を擁して縉山で省の職務を取り仕切っていたが、クシャクはこれを誘い出して殺した。そして国境地帯の軍を中都・平州に移動させ、騎兵を薊州(2)に駐屯させ、自分の身を守った。徒単銘らを送り、彰徳に昇王完顔珣を迎えさせた。
九月、完顔珣は燕に行き、即位した。子の完顔守忠を太子とした。完顔允済を廃位して東海郡侯としたが、のちに衛王とし、諡を紹とした。
(2)薊州 河北省北京市の東。
16
蒙古兵が懐来に来ると、金の元帥右監軍朮虎高琪がこれを防いだが敗北し、死体が四十余里にわたって続いた。蒙古は勝利の勢いに乗じて古北口に向かったが、金兵は居庸関を守り、入ることができなかった。このため、蒙古の君主は可忒蒲察らをここに留めて守らせ、自らは兵を率いて紫荊関に行き、五回嶺で金兵を破り、涿(1)・易(2)二州を抜いた。また、遮別に命じて兵を率い、南口から戻って居庸関を攻めさせてこれを破り、北口に出て可忒蒲察の軍と合流した。
(1)涿州 河北省涿州市。
(2)易州 河北省易県。
しばらくして、諸部隊の精鋭五千騎を選抜し、ケフテイ・ハタイの二将と合流し、中都を囲んで守った。蒙古兵は皁河に行き、高橋を渡ろうとした。フシャリクシャクは足を病んでいたため、車に乗って督戦し、蒙古兵は大敗した。翌日、両軍は再び戦ったが、クシャクは傷が深いため軍を指揮することができず、朮虎高琪に禁軍五千で蒙古兵を防がせようとした。しかし、高琪は約束の時間に到着できず、クシャクはこれを斬ろうとした。金の君主は高琪には功績があるとして、死罪を免除するよう命じた。クシャクは兵力を増強し、高琪に出戦を命じて言った。
「勝てば罪を償うことができる。勝たなければお前を斬る!」
高琪は出戦したが、夕方から明け方にかけて強い北風が吹き、石と砂を巻き上げ、周囲を見渡すことができず、金兵は壊滅した。高琪はクシャクに殺されるであろうと考え、金軍を率いて中都に入り、クシャクの屋敷を囲んだ。クシャクは造反が起こったのを知ると、奥の姫垣を登って逃げようとしたが、服が引っかかって地面に落ち、足を怪我した。高琪の兵はこれを斬った。高琪はクシャクの首を取り、宮殿に行き自分を処罰するよう願い出た。金の君主はこれを許し、クシャクの罪を明らかにし、その官爵を剝奪した。そして高琪を左副元帥とし、配下の将兵に対して論功行賞が行われた。
17
このとき、蒙古のムカリは兵を率いて金に侵入し、金兵を破って進軍していた。永清(1)の人史秉直は親族らを集めて言った。
「いま国家は動乱の中にあり、わが一族はどうやって生き残ればよいだろうか?」
それからしばらくして、蒙古に降った者はみな放免されると知り、村の中の数千人を引き連れ、涿州の軍門まで行き、降伏した。ムカリは史秉直を用いようとしたが、史秉直は辞退した。このため子の史天倪を万戸とし、親族らを覇州(2)に住まわせた。
(1)永清 河北省永清県。
(2)覇州 河北省覇州市。
18
十二月、蒙古の君主はケフテイとハタイを燕城の北に駐屯させ、降将楊伯遇・劉材の漢軍四十六都統を分け、韃靼兵を三つの進撃路に分けた。そして子のジョチ・チャガタイ・オゴデイの三人を右軍とし、太行山に沿って南下し、保州(1)・中山(2)・邢(3)・洺(4)・磁(5)・相(6)・衛輝・懐(7)・孟(8)の諸郡を破り、小道から黄河に到着し、平陽(9)・太原の間で大いに略奪した。
(1)保州 河北省保定市。
(2)中山 河北省定州市。
(3)邢州 河北省邢台市。
(4)洺州 河北省邯鄲市の東北。
(5)磁州 河北省磁県。
(6)相州 河南省安陽市。
(7)懐州 河南省沁陽市。
(8)孟州 河南省孟州市。
(9)平陽 山西省臨汾市。
別の将蒲察らは海に沿って東に進み、灤・薊州を破り、遼西の地を略奪した。蒙古の君主は自ら軍を率い、子のトゥルイとともに中間の道を行き、雄(10)・漠(11)・清(12)・滄・景(13)・献・河間(14)・浜(15)・棣(16)・済南(17)などの郡を破り、兵を率いて大口(18)から中都に迫った。
(10)雄州 河北省雄県。
(11)漠州 河北省任丘市。
(12)清州 河北省青県。
(13)景州 河北省蠡県。
(14)河間 河北省河間市。
(15)浜州 山東省浜州市。
(16)棣州 山東省恵民県。
(17)済南 山東省済南市。
(18)大口 河北省北京市の西。
このとき、中原諸路の兵はみな山後に行って敵を防ぎ、村民を兵とし、城壁を登って守った。蒙古はみな一族を駆り出して襲来し、父子兄弟は往々にして遠くから呼び合って互いの位置を確認した。これより金人は断固として守る意志を失い、至るところの村々はみな降伏し、九十余郡を破った。両河(河北・河南)・山東の数千里に渡って、民はほとんど殺戮され、金帛と婦女、牛馬と羊は根こそぎ奪い去られ、家屋は焼かれ、城は廃墟と化した。だが、大名(19)・真定(20)・青(21)・鄆(22)・邳(23)・海(24)・沃(25)・順・通州(26)は兵が堅く守って破られずにいた。
(19)大名 河北省大名県。
(20)真定 河北省正定県。
(21)青州 山東省青州市。
(22)鄆州 山東省東平県。
(23)邳州 山東省邳州市。
(24)海州 江蘇省連雲港市。
(25)沃州 河北省趙県。
(26)通州 江蘇省南通市。
19
七年(1214)三月、蒙古の君主は山東から戻り、燕城の北に駐屯した。
諸将は勝った勢いに乗じて城を破るよう求めたが、蒙古の君主は聞き入れず、使者を金の君主のもとに遣わしてこう伝えた。
「お主の山東・河北の郡県はことごとくわが手中にあり、お主が守るのは燕京だけだ。天はお主の力を弱めたというのに、私がお主を危地に追いやれば、天は何というであろうか?私がいま軍を帰せば、お主は軍をねぎらい、わが諸将の怒りを鎮めることができよう。」
丞相朮虎高琪は金の君主に言った。
「韃靼の人馬は疲れ切っています。一戦を決するべきです。」
完顔承暉は言った。
「なりません。わが軍は都城にいますが、兵の家族は全国各地に住んでおり、彼らが命令に従うかどうかはわからないのです。戦って負ければ彼らは散らばってしまい、勝ったとしてもやはり妻子を思っていなくなってしまうでしょう。国家の安危はこの一挙にかかっています。使者をやって講和し、かの国の軍が帰ってから国家のための計を練るのが最上の策です。」
金の君主はこれに賛同し、承暉を派遣して講和について協議させた。蒙古の君主は金の公主を望んだ。そのため、金の君主は先帝完顔允済の娘、および金帛、男女の童僕それぞれ五百、馬三千を与えた。
20
夏四月、金と蒙古が講和した。蒙古の君主は帰り、居庸関を出た。金の君主は蒙古と講和したことにより、全国に大赦を行った。
21
五月、金の君主完顔珣は、国が窮地に陥り兵は弱く、資財が欠乏し中都を守れないため、汴(開封)に遷都してはどうかと提案した。左丞相徒単鎰は諫めた。
「天子が動けば北方を守れなくなります。今は講和が成立し、兵を集め粟を積み、都を固守するのが上策です。南京(開封)は四面を兵に囲まれていますが、遼東はわが国の根本の地であり、山に拠って海を背負い、険要の地として頼むに足ります。この一面だけを守って後図をはかるのが次善の策です。」
金の君主は聞き入れず、平章政事都元帥完顔承暉・左丞抹撚尽忠に太子完顔守忠を奉戴して中都を守らせ、皇后とともに開封に向かった。
蒙古の君主はこれを聞いて怒った。
「講和して遷都するとは、疑心を抱いて恨みを捨てず、ただ和解することによって私をだまそうというだけのことだ。」
そして再度の南侵を計画した。金の君主は良郷(1)に着くと、支給していた鎧と馬を官に返還するよう、護衛の禁軍に命じた。禁軍の兵士らはこれを恨み、遂に反乱を起こして将帥素温を殺し、斫答・比渉児・札剌児の三人を将帥に推戴し、北へ帰った。承暉はこの変を聞くと盧溝を塞いだ。斫答はこれを破り、使者をやって蒙古に降伏を願い出た。蒙古の君主は石抹明安を送って斫答を助け、兵を合流させて燕京を包囲した。
金の君主はこれを聞くと、人をやって太子を呼び寄せようとした。応奉翰林文字完顔素蘭は反対した。平章朮虎高琪は言った。
「主上がここにおられるのだから、太子はこれについてくるべきだ。お主は都城を完全に守り切れるというのか?」
素蘭は言った。
「完全にとはいかないものの、太子があちら(中都)におられれば気勢を強く保つことができ、狭隘な地形と守る者がいれば都城は恐れるものがありません。昔、唐の明皇(玄宗)が蜀に逃げたとき、太子は霊武(2)にいました。天下の心をつなぎとめるためだったと思われます。」
金の君主はこの意見を聞き入れず、太子を呼び寄せた。太子が出発すると、中都の人々はいよいよ敵軍を恐れるようになった。
(1)良郷 河北省北京市の南東。
(2)霊武 寧夏回族自治州銀川市の南。
22
九月、蒙古の将ムカリは進軍し、金の北京を攻めた。
守将銀青は兵二十万を率いて花道で守ったが、敗北して戻り、城を囲んで固守した。その副将完顔昔烈・高徳玉らは銀青を殺し、寅答虎を推戴して将帥とした。ムカリは史天祥らに進攻を命じ、寅答虎は城を差し出して降伏した。ムカリは降伏するのが遅かったことに腹を立て、寅答虎を生き埋めにしようとしたが、蕭也先は言った。
「北京は遼西の重鎮です。降伏したのに生き埋めにすれば、この後誰が降伏するでしょうか?」
ムカリはこの意見に従った。ムカリは上奏して寅答虎を権北京留守とし、吾也児を権兵馬帥府事とした。
ここにおいて、金の順・成・懿・通州は相次いで蒙古に降った。
23
八年(1215)二月、金の中都が包囲されて久しく、完顔承暉は、抹撚尽忠が軍中に長くいるため、兵をことごとく彼のもとに配属させ、自らは軍の方針を掌握し、人を送って明礬で書いた報告書により朝廷に急を告げた。金の君主は左監軍永錫に中山・真定の軍を統率させ、左都監烏古論慶寿に大名の軍一万八千、西南路の歩兵・騎兵一千、河北の軍一万を統率させ、御史中丞李英に大名へ軍糧を運ばせ、行省孛朮魯に使者を続けて派遣させ、中都を救おうとした。李英が大名に到着すると兵数万を得たが、統御しようとしても普段からの規律がなかった。
三月、李英が酒に酔っているとき、覇州の北で蒙古軍に遭遇して大いに敗れ、運んでいた軍糧をことごとく失った。李英は死に、士卒も殲滅された。慶寿・永錫の軍はこれを聞くと、算を乱して逃げ帰った。これより中都は援軍が来なくなり、内外の連絡が絶たれた。
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完顔承暉は抹撚尽忠と話し合い、ともに国家のために殉じようとしたが、尽忠は聞き入れなかった。承暉は怒り、席を立って屋敷に帰った。しかし、兵権は尽忠にあり、承暉はどうすることもできなかった。そこで家廟を発つとき、左右司郎中趙思文を呼んで言った。
「事ここに至った以上、わが死をもって国家に報いるのみだ。」
五月一日、承暉は遺表(遺言の上奏文)を書き、尚書省令史師安石にこれを渡して清書させた。いずれも国家の大計を論じ、平章政事朮虎高琪の悪行について述べ、都城を保つことができないことを謝罪する内容であった。普段と同じように従容とし、家財を出し尽くし、家族を呼び出してこれを分け与えた。一家は挙げて号泣したが、承暉は平然とした顔をし、師安石と酒を酌み交わして言った。
「私の五経の知識はすべて先生から授かったものです。この教えを守って実行に移し、虚文に終わらせない所存です。」
酒が回ると筆を取って別れの言葉を書いたが、最後の二字の順序を逆に書き、筆を投げて言った。
「こんな間違いをするとは、心が乱れているのだろうか?」
そして師安石に言った。
「行ってください!」
師安石が門を出ると泣く声を聞いた。師安石は引き返してどうしたのか尋ねたが、承暉は毒薬を飲んで死んでいた。家族らは慌てて承暉の遺体を中庭に埋めた。
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この日の暮れ、中都にいる金の君主の愛妾らは抹撚尽忠が南へ逃げようとしていると聞き、旅装を整えて通玄門に来た。尽忠は偽って言った。
「私が先に出てあなたたちとともに道を開こう。」
愛妾らはこれを信じ、尽忠は一部の愛妾と親族とともに先に城を出たが、残された者を顧みることはなかった。蒙古兵は遂に中都に入り、多くの官吏と民が死に、宮殿は入り乱れる兵によって焼かれ、火はひと月余りも消えることがなかった。
このとき、蒙古の君主は桓州におり、燕が陥落したと聞くと、使者を送り石抹明安らをねぎらい、国庫の財物を運ばせて北へ帰った。
ここにおいて、金の祖先らの肖像画は壊され、愛妾らは死んだ。尽忠は中山に行き、親しい者に言った。
「もし愛妾らとともに行っていれば、われわれはここにいることはなかっただろう。」
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師安石は承暉の遺表を持って開封に行き、尚書令を与えられた。尽忠が開封に来ると金の君主はこれを許して罪に問わず、彼を平章政事とした。