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Last-modified: 2019-02-11 (月) 17:45:43

宋史紀事本末巻二三 丁謂之姦
 
1 丁謂、寇準を恨む
真宗天禧(てんき)三年(1019)六月、寇準を同平章事(宰相)、丁謂(ていい)を参知政事(副宰相)とした。

これ以前、寇準は丁謂と仲が良く、その才能をもって李沆(りこう)に推薦したが、李沆は用いなかった。寇準がこのわけを問うと、李沆は言った。

「丁謂に才能があったとしても、彼の人となりを考えるに、果たして人の上にあるべきだろうか。」寇準は言った。「丁謂は、宰相どのが言うように人の下に抑えておくことができる人物だろうか。」
李沆は笑って、「いつかわが言を思い起こされることだろう。」と言った。

寇準は納得しなかった。

寇準の称揚により、丁謂が高官に登りつめ、寇準と同位となっても彼に対して恭しく接していた。中書で会食したとき、羹(あつもの)で寇準のひげが汚れ、丁謂が起ち上がってこれをふき取ったところ、寇準が笑って、「参政は国の大臣だ。それが私のひげをふこうというのか。」と言った。丁謂は大いに恥じて恨み、仲が悪くなった。
 
2 寇準、同平章事を辞職
天禧四年(1020)六月十六日、寇準が同平章事を辞めた。

このとき、帝は精神病を患い、政事は皇后が決定していた。寇準、李迪(りてき)はこれを憂えた。

ある日、寇準は誰もいないときを見計らって帝に言った。「皇太子は人望を集める方です。陛下は宗廟の重さに鑑み、神器(1)を伝え、方正な大臣を選んで補佐させるようにしてください。丁謂、銭惟演(せんいえん)は佞人です。彼らに太子を補佐させてはなりません。」帝はこれにうなずいた。寇準はひそかに、楊億が上奏を書いて太子監国の職を請うようにさせ、楊億に政治を補佐させようとした。

寇準が酒を飲んでこのことを漏らし、丁謂がこれを聞いた。丁謂は、「最近は上のお体の調子も良いというのに、朝廷はこれをどうすべきか。」と言った。李迪は言った。「太子は外に出れば軍を手なずけ、内に入れば国政をとるのが古からのやり方です。何の不都合がありましょう。」

丁謂は激しく寇準を謗り、その職を解くよう請うた。帝は寇準との約束を覚えておらず、宰相を辞めさせ太子太傅(たいしたいふ)(2)とした。
 
(1)神器 玉璽、鼎など、国家を象徴する物。すなわち帝位。
(2)太子太傅 職務実態のない官の一。従一品。
 
3 李迪、同平章事に
七月十七日、李迪を同平章事、馮拯(ふうじょう)を枢密使とした。
 
4 丁謂、馮拯が同平章事に
二十一日、丁謂、馮拯が同平章事となった。
 
5 周懐政の誅殺と寇準の追い出し
二十四日、入内都知(1)の宦者・周懐政が誅殺された。

二十八日、寇準を知相州(2)に降格させた。
 
(1)入内都知 入内内侍省(皇帝の生活全般の世話をし、朝会、外出、宴会などのとき、側に仕えることを職務とする官署)の長官。
(2)相州 河北省安陽市。
 
当初、帝は病にかかり、不安になり起き上がらずにいた。周懐政の膝の上に寝たとき、ともに話し合って彼を太子監国に任命しようとした。周懐政は東宮官であり、このことを寇準に伝えた。このことが漏れ伝わると、寇準は同平章事を罷免され、丁謂らは寇準を疎んじ、帝と親しめないようにした。

周懐政は恐れをなして不安になり、帝に太上皇となって帝位を太子に譲り、皇后の政治への関与をやめさせ、丁謂を殺して寇準を宰相に復帰させようと考えた。客省使(3)・楊崇勲らはこれを丁謂に密告した。丁謂は目立たない服装をして夜に牛車に乗り、楊崇勲を連れ曹利用のもとを訪れて話し合った。翌日、帝に報告した。帝は詔して曹瑋(そうい)に尋問させ、周懐政は罪に服した。

帝はたいへんに怒り、太子も追及しようとし、群臣も止めようとしなかった。李迪は穏やかに、「陛下には何人の子がいらっしゃるのですか。本当にこれでいいのですか。」と言った。帝は冷静になり、周懐政のみを誅殺した。

丁謂と皇后は結託し、朱能が天書を利用して帝をだましていると告発し、朱能と関係があった寇準をこれに連座させて太常卿・知相州に降格させた。また、翰林学士・盛度、枢密直学士・王曙(おうしょ)を罷免した。朝廷の官僚で寇準と親しい者は、みな退けられた。寇準が降格されたとき、帝は小州に赴任させるよう命じ、丁謂が「遠小の州に赴任させましょう。」と加えた。李迪は「さきの詔には『遠』の字がございません。」と言った。この二人の争いはここに始まった。
 
(3)客省使 皇帝の誕生日に、諸外国に贈り物をしたり、外国の使者の往来に随伴する官。従五品。
 
6 王曽ら、参知政事に
八月六日、任中正、王曽を参知政事、銭惟演(せんいえん)を枢密副使とした。
 
7 寇準、再度降格
八月六日、寇準を道州(1)司馬(2)に降格させた。
 
(1)道州 湖南省道県。
(2)司馬 散官(地位を表すための名目上の官名)の一。正九品。
 
このとき、使者を遣わして朱能を捕らえようとしたが、朱能は中使を殺し、軍を従えて反乱を起こそうとした。だが、ほどなくして軍は壊滅し、朱能は自殺した。寇準はこれに連座して再度道州に降格させられた。

当初、帝は寇準を長江・淮河地方の州に左遷しようとしたが、丁謂は道州に赴任させた。同僚らもものを申さなかったが、王曽だけは帝の言葉をもとにこのことを問いただした。丁謂は振り返って言った。「仮住まいの主人がものを申すな。」これは王曽が寇準に住まいを借りたことがあったのを指したものであった。
 
8 朱能の関係者を処罰
九月、帝の病が癒えた。

八日、ようやく崇徳殿に御して政務を執り、朱能の一味を処罰した。死罪、流罪数十人に上った。

十四日、給事(1)・朱巽(しゅそん)、郎中・梅詢(ばいじゅん)が、朱能の不正に気づかなかったかどで連座し、降格された。
 
(1)給事 給事中。職務実態のない官名の一。正五品上。
 
9 李迪、同平章事を辞す
十一月二十一日、李迪、丁謂が同平章事を辞めた。

このとき、丁謂は専権をふるい、官吏の任命をも帝に報告しなかった。李迪は同僚らに、「私は庶民から身を起こして宰相にまでなった。国に報い、死してなお恨まぬ所存だ。権勢者におもねって保身を図るなどもってのほかだ。」と言った。二府(中書省と枢密院)と話し合ったとき、俸禄と東宮官の職を薦められたが、李迪はこれを断った。丁謂は林特を枢密副使に就かせようとしたが、李迪がこれを阻止し、丁謂は怒りを募らせた。

丁謂が門下侍郎を加えられ、太子太傅(たいふ)を兼ねると、李迪も尚書左丞を加えられ、太子少傅(いずれも名目的な官職)を兼ねた。旧例では、宰相が左丞を兼ねることはなかった。李迪が長春殿に入対すると、帝は内々に勅書を取り出して寝台の前に置き、近臣らに、「これはそなたらが東宮官を兼ねよという命令である。」と言った。李迪は進み出て言った。

「東宮官は増設すべきではなく、命を受けるつもりはありません。丁謂は上を惑わして権力を乱用し、林特、銭惟演を寵愛して寇準を憎んでいます。林特の子は人を殺し、事が収まってもなお不穏です。寇準は無実の罪で遠方に左遷され、銭惟演は皇后と姻戚の家柄であることを利用して、皇后を政治に関与させ、曹利用、馮拯は朋党をなしています。私と丁謂の宰相職を解き、御史台に糾明させてください。」

帝は怒り、命令を保留して下さず、李迪を知鄆州(うんしゅう)に、丁謂を知河南府に左遷した。翌日、丁謂は謝辞を述べにきた。帝は二人の争いについて問い詰め、丁謂が答えた。「私は争っているのではなく、李迪が私を罵っているのです。朝廷に留め置いていただけませんか。」そして自ら伝言の詔を出し、中書に入って再び政務をとった。

このとき、翰林学士・劉筠(りゅういん)が李迪、丁謂がともに辞職する旨の命令を起草していた。丁謂がこれを押し留め、李迪のみが辞職する命令を起草させようとしたが、劉筠はこの詔を受け取ろうとしなかったので、翰林学士・晏殊(あんしゅ)を呼び、これを起草させた。劉筠は学士院(1)から出たとき、たまたま枢密院の南門で晏殊に遇った。晏殊は恐れ恥じ入り、顔を背けて揖しなかった。

丁謂は同平章事に復帰すると、ますます専横にふるまった。李筠は、「奸人が政権を握っている中、一日でもここにいられるか。」と言い、努めて地方への赴任を願い、知廬州(ろしゅう)(2)となった。
 
(1)学士院 詔勅の起草を司る官署。
(2)廬州 安徽省合肥市。
 
10 劉皇后の摂政開始
二十三日、次のように詔を発した。「これより軍事・政治の大事はこれまで通り朕が自ら決定する。その他のことは皇太子が宰相・枢密院などと話し合って実行する。」だが、太子は固く拒んだが認められず、資善堂を開いて太子が親政を行い、皇后が内々に裁決し、丁謂が政務をとり、みなこれを憂えた。

王曽は銭惟演に言った。「太子は幼く、皇后がいなければ即位できまい。しかし、皇后も太子に依存しなければ人心が得られない。皇后が太子を寵愛すれば太子は安泰となり、太子が安泰であれば劉氏(劉皇后)も安泰となろう。」銭惟演は折を見てこれを皇后に伝え、皇后は深く納得した。

<わたくし陳邦瞻は思う、国家の危機にあたり、国家を安定させ、君主を安定させるのは、天下に対する忠義である。しかし、それは知力がなければできぬことである。戸を開け閉めには枢(とぼそ)(扉の回転軸)が必要である。智者は危急の際も、枢をうち立ててこれを回すだけである。

真宗が病に倒れたとき、政務はみな劉后が決定し、太子は皇后の子ではなく(1)、丁謂が専権を握って政治を乱し、銭惟演は皇后との姻戚関係であることから補佐に回った。ひとたび動乱が起これば宋は滅亡したであろう。

当時、寇準・李迪は忠臣であり、彼らの考えは、丁謂と銭惟演を追い出し、皇后の権力を抑えられるようにするものであった。皇后を抑えられれば太子は安泰である。この策が成功しても、それは母子の仲をうまく保つことはできず、その後のことをよく対処できるものでもない。だが、この策が成功しなければ、その災厄は測り知れない。

周懐政の死により、太子が廃されなくなったのは、天のもたらした幸いである。この当時、丁謂を追い出すのは難しくはなかったが、皇后の心を安らがせるのは難しかった。皇后の心が不安であれば、漢の呂后、唐の武后と同じことが繰り返されたであろう。奸人が丁謂のようになろうとするのは、まさにこれによる。このような者は、ことごとく追い出すべきである。皇后の心が安定していれば、丁謂を一匹の豚や腐った鼠のように追い出していただろう。

王曽は銭惟演に善言を言った。「太子は幼く、皇后がいなければ即位できまい。しかし、皇后も太子に依存しなければ人心が得られない。皇后が太子を寵愛すれば太子は安泰となり、太子が安泰であれば劉氏も安泰となろう。」と。皇后は劉氏一族の不安を恐れたに過ぎず、皇后に則天武后の易姓革命のような志があったわけではない。皇后は太子が安泰であれば自分も安泰であると明確に知っていたのであり、よこしまな陰謀が行われることに堪えられなかったのだ。これより小人の僥倖の計は受け入れられなくなった。王曽の一言が皇后の心を深く動かしたのだ。しかしこの言は、銭惟演の進言によらなければ皇后は信じなかったであろう。これが王曽の智者たるゆえんである。莱公(らいこう)(寇準)はよく国の大事を決断したと言われるが、沂公(ぎこう)(王曽)の深遠さには及ばない。>
 
(1)太子は皇后の子ではなく 太子の実母は側室の李氏。
 
11 丁謂らに東宮官を兼ねさせる
丁謂に太子少師を、馮拯に少傅を、曹利用に少保を兼ねさせた。
 
12 丁謂に司空を加える
天禧五年(1021)十一月、丁謂に司空を、馮拯に左僕射(さぼくや)を、曹利用に右僕射を加えた。

このとき、丁謂の権威は日に日に増しており、臣下らはこれに追従したが、起居注・李垂だけは挨拶に伺おうとしなかった。ある人がそのわけを尋ねると、李垂は言った。「丁謂は宰相であるのに、公正な道理によって天下を救おうとせず、権勢を恃みとして、周知の通りのことをしている。いずれ朱崖(1)に行くことになろう。私は彼の仲間になりたくないのだ。」丁謂はこれを聞いて彼を憎み、罷免して亳州(はくしゅう)(2)に赴任させた。
 
(1)朱崖 海南省海口市の南。漢代の地名。
(2)亳州 安徽省亳県。
 
13 丁謂、晋国公となる
乾興元年(1022)二月一日、大赦を行った。

四日、群臣が帝に尊号を奉った。

五日、丁謂を封じて晋国公とし、馮拯を魏国公とし、曹利用を韓国公とした。

14 帝、病に倒れる
十五日(1)、帝が病に倒れ、病状が悪化した。左右の者に「どうしてわが目に寇準が久しく映らぬのだ。」と問うたが、群臣は丁謂の権勢を恐れて何も言えなかった
 
(1)十五日 原文は「甲辰」とあり、五日にあたる。『宋史』には「甲寅」とあり、十五日にあたり、これに従う。
 
15 仁宗の即位
十九日、帝が崩御した。遺詔により、太子・趙受益が真宗の柩の前で即位し、名を趙禎(ちょうてい)(1)と改めた。王曽は遺詔を捧げ持って控え室に入り、詔勅を起草し、皇后が一時的に政治と軍事を裁決し、太子の政務を補佐するよう命じた。丁謂は「権」(一時的に)の字を取り去りたく思ったが、王曽が、「皇帝は幼く、太后が政治をとっている。このように国家の不運は、『権』と称してなおも後の様相を表すに足りるのだ。(『権』の字を使うほどに国家の体制は不安定なのだ。)命令書の増減には定めがある。あなたはこの規範を乱そうというのか。」と言った。このため丁謂は諦めた。

太子が即位したとき、十三歳であった。皇后を尊重して皇太后とし、淑妃の楊氏を皇太妃とした。中書省と枢密院が、太后が政治をとることを議論したとき、王曽は後漢の故事にならい、太后と帝が五日に一度承明殿に御し、太后が帝の右に座り、垂簾聴政を行うよう請うた。

丁謂は専権を欲し、同位の者たちと国政をとるのを望まなかった。そこで入内押班(2)・雷允恭(らいいんきょう)と結託し、ひそかに太后に直筆の書状を降すよう請うた。その書状には、「帝が毎月一日と十五日に群臣に見える。大事があれば太后が臣下を呼び決定する。大事がなくば雷允恭に上奏を禁中に伝えさせ、押印して命令を下す。」王曽は、「帝と太后は居所が異なるので権力が宦官に帰してしまう。災いが生ずることになる。」と言った。これにより雷允恭は権勢を恃みにほしいままにふるまい、丁謂は朝廷内外に権力を及ぼし、誰も抗う者はなかった。ひとり王曽だけは厳粛な面持ちで朝廷に立ち、時代を動かす重要な立場にあった。
 
(1)趙禎 原文は「禛」と記す。『宋史』巻九、仁宗紀は「禎」と記し、これに従い改める。
(2)入内押班 宦官の官職の一。
 
16 丁謂、山陵使となる
二十一日、丁謂を山陵使(1)とした。
 
(1)山陵使 太子の即位のとき、皇帝の墳墓に報告する使者。
 
17 寇準を雷州に左遷
二十九日、寇準を雷州(1)司戸参軍(2)とし、李迪を衡州(3)団練副使(4)とした。
 
(1)雷州 広東省海康県。
(2)司戸参軍 戸籍・賦税を担当する地方官。
(3)衡州 湖南省衡陽市。
(4)団練副使 散官の一。従八品。
 
これ以前、先帝が崩御しようというとき、寇準と李迪だけが後を託すにふさわしいと言った。このため丁謂は寇準を恨み、太后も李迪が自分が即位するのを諫めたことを恨んでいた。そして彼らを朋党をなしているとのかどで告発し、左遷した。連座する者は非常に多く、曹瑋(そうい)も知莱州(らいしゅう)(5)に左遷された。

彼らの地方への放逐が話し合われたとき、王曽はこの処罰が重すぎることに疑義を呈した。丁謂は王曽を熟視しながら、「仮住まいの主人がまだものを言うのか。怖くてその家を離れずにいるのだろう。」と言った。王曽はこの件について争うのをやめた。

学士が地方赴任の命令の下書きを見せると、丁謂は改めて言った。「醜徒が法を犯そうというとき、まさに先帝が病にかかり始めたころであったが、彼らの行いを目にして先帝は病が進んでしまわれたのだ。」そして人をやって李迪に赴任を迫った。ある人が丁謂に言った。「李迪がもし左遷されて死んだら、あなたは士論としてどう思われますか。」丁謂は、「いつか歴史家が記事にするにしても、『天下はこれを惜しんだ。』と書くに過ぎん。」と言った。

丁謂は二人を死なせようと考え、中使をやって勅令を届けさせ、寇準のもとを訪れて贈り物を受け取らせ、錦の嚢(ふくろ)の中に剣をしまっておき、これを馬前に掲げて誅殺の意を示した。中使が道州に着いたとき、みな恐れてなす術がなかった。寇準は地方官と飲んでいる最中で、泰然自若としており、人をやってこう伝えた。「朝廷が準に死を賜うというなら、勅書を拝見したい。」中使はやむを得ず勅書を渡した。寇準は広い場所でこれを拝したが、階段を上って再び宴会に興じ、夕方になって散会した。

丁謂は蔡斉(さいせい)を自分に付き従わせようとし、知制誥になることを許した。蔡斉は引き下がって嘆息し、「先帝の知遇を得たからこそ、いまの私があるのだ。どうして権臣に脅かされてよいものか。罪を得るのを恐れてはいない。」と言い、官職を受け取りに行かなかった。
 
(5)莱州 山東省掖県(えきけん)。
 
18 王曽、墳墓を視察
乾興元年六月十一日、参知政事・王曽に墳墓を視察させた。
 
19 丁謂、宰相を辞任
二十二日、内侍・雷允恭が誅殺された。丁謂が同平章事を、任中正が参知政事を辞任した。

このとき、雷允恭は都監であったが、判司天監(1)・邢中和(けいちゅうわ)が雷允恭に言った。

「墳墓の広さは百歩であり、この形式は子孫の墳墓にもふさわしいかと思われます。汝州(じょしゅう)(2)の秦王(趙廷美)の墳墓のようにするならば、下に石と水があるかが心配です。」
「上は他に子がおられぬ。秦王のようにしたからといって、何が悪いのだ。」
「墳墓のことは重要ですから、土地の調査が必要です。そうしているうちに月日が経ってしまい、恐らく七月の埋葬の時期に間に合わないでしょう。」
「丁謂さまの屋敷を移して上の墓穴とするのだ。馬を走らせて太后に会い、このことを伝えよう。」

雷允恭は横暴なので、これに反対する者もなく、すぐに墓穴を掘らせて太后に報告した。

太后は言った。「これは大変なことを。なぜ軽々しくこのようなことをするのだ。」
「先帝の墳墓を子孫にもふさわしいものにしたのです。何か良くないことでもおありですか。」
太后は納得いかない様子で言った。「退出して山陵使と可否を審議せよ。」

雷允恭は退出し、丁謂と話し合い、丁謂はうなずくだけだった。雷允恭は宮殿に入り、「山陵使も異議なしと申しております。」と上奏した。そして夏守恩に命じて数万の人足に土地を掘らせたが、土と石が混じりあい、水が染み出てきた。人足らの不満は日増しに大きくなり、工事が不成功に終わるのを恐れて作業を中断し、これを太后に報告して指示を待った。丁謂が雷允恭をかばい、どうすればよいかためらった。内侍・毛昌達(もうしょうたつ)が墳墓から帰り、その状況を報告した。太后は詔して丁謂にわけを問うと、丁謂は使者をやって調べさせるよう請うた。群臣がみな墳墓を元に戻すよう請うと、太后は馮拯、曹利用らに詔して丁謂の屋敷を墓穴にした件について議論させ、王曽を視察に行かせた。

王曽が帰ってくると、一対一で上奏するよう請い、「丁謂はよこしまな心を抱いており、雷允恭に墓室を不吉な場所に造らせておりました。」と言った。太后はたいへん驚き、心底怒り、丁謂をも誅殺しようとした。馮拯が進み出て、「丁謂には確かに罪がありますが、帝が即位したばかりです。すぐに大臣を誅殺すれば、天下の耳目を驚かすことになります。」と言うと、太后の怒りが少しく和らぎ、雷允恭らだけを誅殺することにした。

二日後、太后は宰相らを呼び出して言った。「丁謂は宰相の身でありながら宦官と通じ、まず雷允恭に上奏文を渡し、いずれの議題もすでにそなたらと話し合ったと言っていた。だから私はすべて許可していた。また、先帝の陵墓を造営して独断で移し変えようともしていたのだ。危うく国の大事を誤るところであった。」
馮拯らが答えた。「先帝が亡くなられてから、政事はみな丁謂と雷允恭で話し合われ、禁中から命令があったと称していましたが、我々はその真偽を確かめようとはしませんでした。太后さまが自ら彼のよこしまな行いをお調べください。それが国家のためであります。」
任中正だけが進み出て言った。「丁謂は先帝から後事を託されました。罪がありますが、法に従い功績を考慮していただきたく思います。」
王曽は言った。「丁謂は不忠により宗廟に罪を得たのです。功績をあげつらう必要はありません。」

これにより、丁謂を太子少保に降格させ、西京の統治を分担させた。また、任中正を罷免し、知鄆州に転出させた。

故事にあっては、宰相の罷免にあたっては正式に命令書を下していた。しかしこのとき、すぐにでも罷免を執行するため、中書舎人を呼んで命令文を起草し、朝廷に立て札を立てて天下に周知した。

当初、丁謂が進士になったとき、許田の食客となり、胡則が厚遇した。丁謂が高官に登りつめると、胡則はすぐさま任用された。このときになって、丁謂が辞任し、胡則も西京転運使に転出させられた。

改めて馮拯を山陵使とした。
 
(1)判司天監 司天監(天文の変化による吉凶を占ったり、時間・暦数を定める官署)に属する官。
(2)汝州 河南省臨汝県。
 
20 王曽、同平章事に
乾興元年七月三日、王曽を同平章事とした。
 
21 銭惟演、枢密使に
八日、銭惟演を枢密使とした。
 
22 丁謂、崖州へ左遷
二十三日、丁謂を崖州(1)司戸参軍に降格させた。
 
(1)崖州 海南省海口市の南東。
 
当初、女道士の劉徳妙が祈禱師として丁謂の家に出入りしていたが、丁謂が失脚し、劉徳妙も逮捕された。内侍がこのことを問いただすと、劉徳妙は言った。

「丁謂さまは、『お前のしていることは単なる祈禱に過ぎないが、太上老君のふりをして禍福を予言し、人を動かすほうがよい。』とおっしゃいました。このため、丁謂さまの家に神像を置き、夜に庭で祈禱し、雷允恭さまもたびたび祈禱してもらいに来ました。真宗陛下が崩ぜられると、私は禁中に引き入れられました。そして地を掘らせて亀と蛇を見つけ、私に宮殿に持ち込ませ、丁謂さまの家の近くの山洞の中に亀と蛇があったと偽らせました。また、『上がお前が仕えているのが太上老君であるとどうして分かるのかと聞いてきたら、宰相は非凡な人である。このことをわきまえるように。』と言ったのです。丁謂さまは頌を作り、『混元皇帝、徳妙に賜る』と題しました。」

この供述は荒唐無稽であり、丁謂は崖州に左遷されることになった。その家を没収すると、記しきれないほどの多方面への賄賂が置いてあった。丁謂が崖州に行くと、途中で雷州に出た。寇準は一皿の羊の蒸し料理を持たせて州境に迎えた。丁謂は寇準に会おうとしたが、寇準は固辞した。寇準は召使いが丁謂に復習しようとしていると聞き、門を閉ざし賭博に熱中させて外に出させず、丁謂が遠くまで行ってから門を開いた。
 
23 丁謂の懺悔
丁謂は機敏で智謀があり、人並み外れてずる賢かったが、崖州に住むようになってからは、ひたすら仏教の因果応報の説を信奉した。丁謂の家族が西京に寓居したとき、丁謂は書状をしたため、自らを責め、国の厚恩を述べ、家人に朝廷を恨まないよう戒め、洛陽長官の劉燁(りゅうよう)に渡すことにし、家を託すよう祈った。使者を戒め、劉燁が属官といるときを見計らって訪れ、この書状を渡させた。劉燁はこの書状を自分のもとに置かず、朝廷に報告した。太后と帝はこれを見て哀れに思い、丁謂を雷州に移した。
 
24 銭惟演、左遷される
十一月一日、銭惟演が枢密使を辞職した。

当初、銭惟演は、丁謂が政治をとり、権勢が人を押しのけているのを見て、丁謂に追従し、姻戚関係を結んだ。寇準の排斥には、銭惟演の力が働いていた。石に枢密直学士の姓名を刻むとき(1)、寇準の名だけを削り取って、「寇準の名は外して記さぬ。」と記した。御史中丞・蔡斉は、「寇準の忠義は天下に聞こえ、国の枢要たる臣であります。奸族らにごまかしをさせてよいはずがありません。」と帝に言った。帝は急ぎ寇準を批判した部分を削り取らせた。

丁謂が罪を得ると、銭惟演は自分にも罪が及ぶのではないかと考え、丁謂を悪く言って弁明に努めた。馮拯はこれにより彼の人となりが嫌になり、「銭惟演は妹を劉美(劉太后の兄)に嫁がせ、太后さまの姻戚にあたる家柄です。国政に関わらせて祖先の法を廃れさせるべきではありません。彼を罷免するよう願います。」と言った。このため、銭惟演は保大節度使を与えられ、知河陽府(2)となった。

年をまたぎ、朝廷に来て、宰相になろうと考えたが、御史・鞠詠(きくえい)が上疏してこのことを述べた。太后は内侍に鞠詠の上奏文を持たせて銭惟演に見せたが、銭惟演はなおもためらって河陽へ行くのを望まなかった。鞠詠は右司諫・劉随に、「銭惟演が宰相となるのであれば、白麻(3)を取って衆人の前でそしることとしよう。」と言った。このため、銭惟演はようやく河陽に赴いた。

銭惟演は高貴な家柄に生まれ、文章は清麗で、その名は楊億、劉筠(りゅういん)と並び称され、目を通さない書物はなく、喜んで後進を育成していた。彼はかつて、「わが生涯において足りないのは、黄紙(詔書のこと)に署名できなかったことだけだ。」と語ったことがある。ゆえに中書省に入ることを切に求めたのだが、結局は時論に卑しめられることとなった。
 
(1)石に… 原文は「及序枢密題名」と記す。『長編』巻九九、真宗乾興元年十一月丁卯朔の条には、「及序枢密直学士題名石」とある。
(2)河陽府 河南省孟県の南。
(3)白麻 皇帝の詔勅。詔勅に白い麻を用いたため。