山守 義雄(やまもり よしお)

Last-modified: 2024-04-29 (月) 03:04:12

情報

異名【広島のドン】【呉の親分】【西国の青鬼】
性別男/男
性格侠客
人称ワシ/おどれ
年齢94歳
生年月日1929年12月2日
体格179cm/88kg
容姿yamamorihan.jpeg
好き広島の街
得意ステゴロ
嫌い根性ない奴
苦手都会
出身広島県・呉市
所属帝愛グループ/天政会・会長
位階SSS

広島の裏社会を牛耳る「天政会」の会長。帝愛グループの主戦力幹部である【十刃】の1人でもあり、第七刃の序列に位置する。広島県呉市に生まれ僅か16歳で渡世入りを果たした。共政会は日本裏社会では帝愛グループを始め三代目錦政会秘密結社・八咫烏に次ぐナンバー4の規模を誇る一大勢力である。
かつて呉の顔役である海生逸一の資金援助を受けて「土建業山守組」を立ち上げた。海掃事業に乗り出す傍ら博徒組織としても活動を始める。若頭の坂井鉄也を始め大友勝利・武田明・新居勝巳・槙原政吉など現在の重鎮もこの時代から所属していた。企業活動は順調で経済基盤は徐々に拡大し事業の追い風に乗ってライバル組織であった土岡組の幹部・若杉寛を籠絡、組長の土岡博を殺害し「第一次広島抗争」に勝利。立て続けに起こった日本裏社会最大の抗争である「第二次広島抗争」にも勝利し若くして広島裏社会の頂点に立った。錦政会会長の雷電とは広島抗争の件で劣悪な関係にあったが、現在は極道者同士で争っても仕方ないと和睦している。
任侠とは何かを理解しており、極道の本分は受けた恩を返しカタギを守る謝恩奉仕の精神だと心得ている。特にシマにしている街の人達からは非常に慕われており、シマ内での犯罪は激減している等、極道でありながらも彼の存在がある種の街の治安維持にもなっている。組員達に対しても基本的に寛容で彼らの能力を認め、ある程度の個人裁量や独自行動を認めるばかりか失礼な発言にも鉄拳制裁予告をするだけに留めている。一方で時には組織を守る為に非情な決断を下す事もある清濁併せ呑む人物。だが過酷な任務を下した際は敢えて自分が率先してその咎の一端を背負う事で覚悟を見せる等、最低限の筋は通す。極道としては常に独立と中立を保ち他所にシマを広げる事は決してしない。また、故郷の広島やそこに住む人々を想う気持ちは本物で、同時に自分の共政会が表と裏の両方で長きに渡って彼らを支えて来たという強い自負を持っている。とは言え若い頃は広島極道らしくイケイケ気質だった様で、市街地でも普通に殺し合いをしたり賭博場で喧嘩をするのも日常茶飯事であった。現在でも極道黄金期の無法極まっていた戦後の広島を懐かしがる事がある。
極道全盛期の時代に「強い奴か超強い奴しかいない」と言われた広島極道の激しい抗争を生き抜いてトップに君臨し彼らを従えただけあって異常とも言える強さの持ち主。中国武術の技をメインにした戦法を取り、その実力は日本最大の極道組織である錦政会の会長・雷電をして「強い」「広島極道の象徴」と言わしめる程。本人曰く「広島裏社会の地獄を潜り抜けて来た」らしく、身体中に刻まれた傷が戦後広島の魔境から成り上がった事を物語っている。故に身体能力と格闘能力は非常に高く、戦闘能力は勿論、僅かな手掛かりや挙動から敵の動きを察知する洞察力にも優れている。

仁義なき戦い・広島血風譚

第一次広島抗争

山守義雄
呉にヤクザは二つもいりゃせんのじゃ
 
土岡博
呉におってよ、わしらより大事な客がおるかい

1967年~1968年。山守組vs土岡組の抗争。
広島市の抗争と呉市の抗争に分かれる。本来は別々の抗争である。呉で勝利した山守組が広島で勝利した土岡組を吸収する形でその後の第二次広島抗争へと突入していく事となるので第一次広島抗争としてひとまとめに語られる事が多い。呉の抗争は博徒・土岡組と山村組の抗争である。呉の覇権を狙って新興の山守組が土岡組に挑んでいった。呉の顔役・海生逸一の思惑や小原組の動きも無視できず、山守組の内紛もあって複雑さを増している。また、抗争終結後の翌年に本格的に錦政会が介入して来るようになった為、彼らと敵対関係にあった「本多会」と同盟を結んでいる。
広島の抗争は戦後の広島市の博徒・岡敏夫(岡組組長)の勢力拡大に伴い的屋・村上組との地域覇権争いが起き、終戦直後に広島で岡組が勢力を伸ばす過程で岡組舎弟・打越信夫(打越会会長)が対立する葛原一二三を東広島で射殺し岡組内で勢力を伸ばす結果となった。戦後の混乱期を経て、広島の勢力図は広島市では岡の勢力が拡大し、その中でも舎弟・打越、若衆・網野光三郎、服部武などの勢力が台頭した。また呉市では山守義雄の勢力が拡大し若頭・坂井鉄也、若衆・美能幸三らが台頭していた。

第二次広島抗争

山守義雄
広島の喧嘩言うたら殺るか殺られるかで…東京モンの首晒しちゃるわい!!
 
地道行雄
ぶっちゃけた話するけどな。今、広島で事構えとんのはあんただけなんやで

1970~1972。山守組vs三代目錦政会・打越会・美能組・西友会の抗争。
1969年頃から女優の広島公演のため三代目錦政会の会長・雷電と若衆・山本健一(山健組組長)が広島を訪れていた。 同時期に岡組で後継争いが起きており、跡目争いを有利に進めようとした打越は山本と美能幸三の仲介により錦政会舎弟・安原政雄(安原会会長)と兄弟盃を交わす事に成功した。しかし広島外部の勢力の進出を快く思わなかった山守義雄はこの盃を嫌い、彼らの盃事を襲撃し宣戦布告。かくして山守率いる山守組は呉から広島に進出し土岡組組員1800人を加えて総勢4200人の大組織となり山陽最大の勢力を持つようになった。この時点で打越会と山守組の広島を巡る地域対立は、錦政会と本多会という大組織の代理戦争の様相を呈するようになり、錦政会は以後、打越会を通じて抗争に本格的に介入するようになった。このように広島の勢力図が打越会・美能組・西友会の錦政会派と反錦政会の山守組派とに分かれる中、1970年4月17日に美能組幹部の亀井貢が山守組系組員に射殺され戦いの火蓋が切られた。打越側の報復は、打越信夫が抗争を嫌い雲隠れした事などから上手く組織が機能せず当初打越側は一方的にやられっぱなしの状況となった。業を煮やして打越を見限った錦政会若頭・地道行雄は美能に亀井の組葬を指示し、葬儀名目で13400人の錦政会系組員を広島へ大動員させ錦政会の力を見せつけた。しかし広島県警が機動隊など大量動員を掛けて抗争の一方の首謀者である美能を7月5日に逮捕した。美能を逮捕された錦政会は報復を出来ずに帰らざるを得なかった。美能が逮捕されなかった場合、錦政会四天王である柳川次郎夜桜朱星野桃二郎?浜本政吉を更に送り込む腹積もりであった。同年9月可部温泉「松福荘」で射殺された打越会系西友会会長・岡友秋の葬儀の席上で「これはあくまで美能組と山村組との親子喧嘩じゃけん」と報復に消極的な打越に対して山本は激怒し「よう喧嘩も出来んで何が錦政会の舎弟じゃ!笑わせるな!自分の喧嘩を買いもせんで人様がなに応援してくれる!そないに喧嘩したないんやったらわれはもう引っ込んどれ! ボケナスのタクシー野郎!」と面罵し錦政会と広島のパイプを美能組にシフトした。更に抗争が始まっても一向に動こうとしない打越会に業を煮やした西友会は同年9月19日山守組本拠・キャバレー「パレス」爆破、続いて山守組幹部・原田昭三宅をダイナマイトで爆破、加えて山守組との市街戦を展開するなど攻勢に出た。山守組の服部武は混迷する事態の中、周囲の声に押されて命懸けの特攻隊を組織し、錦政会本部の便所をピース缶爆弾で爆破させた。名乗りは上げなかったがピース缶が広島で使われていた事もあり直後から山守組の仕業と思われていた。山守組側は打越会・錦政会勢力に対抗するため山守組を発展的に解消し、1971年5月に政治結社・天政会(会長・山守義雄)を結成して組織固めを行った。

抗争終結

1972年5月、堪り兼ねた広島県警察は山守義雄、打越信夫を逮捕した。1973年6月9日、其々を贔屓としていた地方議員や組による賄賂もあって山守と打越は釈放された。同年10月には天政会系服部組を服部武が立ち上げ、更に天政会の理事長には八月に出所した坂井鉄也が就いた。打越会との手打ちが成立するのは二年後の1974年8月25日である。これは海生逸一の斡旋によるもので、翌26日、打越信夫は弁護士を伴い広島警察署を訪れ打越会を解散し堅気になる事を誓った。
こうして死者2900人、負傷者1600人、被逮捕者568人を出し、中国地方最大の抗争となった広島抗争は終結した。錦政会は実害が無かった(被害は全て打越会に出た)ものの、結果的に広島進出に失敗し進出の機会が当分閉ざされる事となった。

台詞

  • 「銭返しゃあ義理が返せると思うとるんかのう」
  • 「電話でカバチ垂れるしかないんじゃろが、このバカたれ」
  • 「ほいじゃ言うとったるがの、広島極道はイモかもしれんが旅の風下に立った事は一片も無いんで、他所様の者いうたら猫一匹通さんけんおどれらよう覚えとけや!」
  • 「極道の黄金期は広島抗争で終わったんじゃ。若い頃は賭博場で喧嘩したり気に入らねえ外人をぶっ殺しちょった。市街地でのドンパチ祭り…広島の道路は血だらけでのぅ…ええ時代やった」
  • 「自立するんもええがよ。こんならにどれ程の商売が出来るんない、おう。ワシはお前らの細い銭集めて商売に張って来たけん。暖簾が売れとるんじゃ。その恩も忘れ腐って!やれるもんならやってみい!」

変質異能【鷹視狼歩(ホーキング・アイ・ウルフ)

位階:S等級:classⅦ系統:パフォーマー

自己強化と変化を兼ね備えた異能で、髪は鬣のように伸び、毛に覆われて尖った耳、尖った手足の爪、鋭い牙など半獣人を思わせる外見となる。この力の解放時には超スローモーションカメラでも確認出来ない程のスピードに加え、自身の優れたフィジカルを倍増させる事が出来る。その攻撃速度は相手に防御すら許さず、戦闘というより処刑になる程。更に超速再生機能まで備わり、体が破損しても瞬時に再生する事が可能。

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