1
理宗宝祐四年(1256)六月、蒙古の諸王イェスンゲ、駙馬イェスルらは宋の征伐を要請した。蒙古の君主は諸王アリク・ブケにカラコルムを守り、アランダールがこれを補佐するよう命じ、自ら南侵の準備を進め、蜀の西部から宋に入った。まず張柔に、クビライに従って鄂(湖北)を攻めて杭州に向かわせ、タガチャルに荊山を攻めさせた。また、ウリヤンカダイに交趾(ベトナム)・広州から兵を引き連れて鄂に集合させ、李全の子李璮を海州(1)・漣水軍(2)などに進攻させた。蒙古の君主は六盤山(3)に駐留し、軍は実際には四万だったが十万と号し、三つの道から宋に入った。蒙古の君主は隴州(4)から散関(5)に向かい、諸王モゲは洋州(6)から米倉に向かい、万戸孛里叉は潼関から沔州(7)に向かった。
(1)海州 江蘇省連雲港市。
(2)漣水軍 江蘇省漣水県。
(3)六盤山 寧夏回族自治区隆徳県の北。
(4)隴州 甘粛省隴県。
(5)散関 甘粛省宝鶏市の南西。
(6)洋州 陝西省洋県。
(7)沔州 陝西省略陽県。
2
六年(1258)二月、蒙古のネウリンは前軍を率い、都元帥阿荅胡と成都で落ち合おうとした。宋軍の蒲択之は、安撫劉整らを送って遂寧江の箭灘渡に拠らせ、東の道を遮断した。このためネウリンの軍が来ると、川を渡ることができなかった。両軍は明け方から暮れまで大いに戦い、劉整らの軍が敗れ、ネウリンは長駆して成都に到着した。蒲択之は楊大淵らに剣門(1)および霊泉山を守らせ、自ら兵を率いて成都を取ろうとした。このとき、阿荅胡が死んだため、ネウリンは諸将を率いて霊雲山で楊大淵らを大いに破り、さらに進んで雲頂山城を包囲し、宋軍の帰路をふさいだ。蒲択之の軍は壊滅した。城中の食糧が尽きると、宋軍の兵たちは主将を殺して投降した。成都・彭(2)・漢(3)・懐(4)・綿(5)などの州、威州(6)・茂州(7)の蛮族はことごとく蒙古に降った。
(1)剣門 四川省剣閣県の北。
(2)彭州 四川省彭州市。
(3)漢州 四川省広漢市。
(4)懐安軍 四川省成都市の東。
(5)綿州 四川省綿陽市。
(6)威州 四川省理県の北。
(7)茂州 四川省茂汶チャン族自治県。
3
十月、蒙古の君主は嘉陵江を渡って白水に行き、総帥汪徳臣に命じて浮橋を造らせてこれを渡り、剣門に駐留した。苦竹隘に到着すると、宋の守将張実が戦死した。
4
十一月、蒙古は兵を進めて長寧山を包囲し、守将王佐・徐昕が戦ったが敗れた。蒙古は進軍して鵞頂堡を攻め、城は降り、王佐が戦死した。これより清居・大良・運山・石泉・龍州が蒙古に降った。
5
十二月、蒙古軍は馬湖を渡って蜀に入った。馬光祖に官署を峡州(1)に移し、向子璧に官署を紹慶府(2)に移すよう命じ、呼応しやすいようにした。馬光祖・向子璧は蒙古軍を迎え撃って房州(3)で戦い、これを破った。
(1)峡州 湖北省宜昌市。
(2)紹慶府 四川省彭水ミャオ族トゥチャ族自治県。
(3)房州 湖北省房県。
6
蒙古の君主は隆州(1)・雅州(2)を取り、また閬州(3)を取り、楊大淵は城を差し出して降った。
(1)隆州 四川省仁寿県。
(2)雅州 四川省雅安市。
(3)閬州 四川省閬中市。
7
開慶元年(1259)春正月五日、蒙古軍は忠州(1)・涪州(2)を攻め、夔州の境に迫った。詔を下した。
「蒲択之・馬光祖は防衛の任務を果たし、自主的な判断で軍務を処理せよ。」
(1)忠州 四川省忠県。
(2)涪州 四川省重慶市涪陵区。
8
二十三日、賈似道を京西・湖南・湖北・四川宣撫大使とし、馬光祖を沿江制置使に移し、賈似道に江西・二広(広東・広西)の軍馬の監督を兼任させた。
9
蒙古軍は利州(1)・隆慶(2)・順慶(3)の諸郡を破った。
(1)利州 四川省広元市。
(2)隆慶 四川省剣閣県。
(3)順慶 四川省南充市。
10
蒙古のウリヤンカダイは四王の兵三千、蛮・僰(少数民族の名)万人を率い、横山(1)を破り、宋の領内を巡回し、勝利に乗じて賓州(2)を破り、静江府(3)に入り、辰州(4)・沅州(5)を破った。官軍はその帰路を遮断したが、ウリヤンカダイは官軍の背後に出て、子のアジュに官軍の前方を側面から攻撃させた。官軍は退却し、潭州(6)城下を防壁とした。
(1)横山 広西チワン族自治区百色市田陽区の東。
(2)賓州 広西チワン族自治区賓陽県。
(3)静江府 広西チワン族自治区桂林市。
(4)辰州 湖南省沅陵県。
(5)沅州 湖南省芷江トン族自治県。
(6)潭州 湖南省長沙市。
11
二月、蒙古の君主は降伏した晋国宝を送って合州(1)を懐柔しようとしたが、守将王堅はこれを殺した。蒙古の君主は大将クンドゥカイに兵二万で六盤山を守らせ、キタイ・ブカに青居山を守らせ、ネウリンに涪州の藺市で浮橋を造らせ、宋の援軍の通る道をふさいだ。蒙古の君主は雞爪灘から川を渡り、合州城に行き、男女万余を捕らえた。王堅は力戦して守り、蒙古は軍を集結してこれを包囲した。
(1)合州 四川省重慶市合川区。
12
六月、四川制置副使呂文徳は兵を率いて涪州の浮橋を攻撃し、力戦して重慶に入った。そして軍船千余を率い、嘉陵江をさかのぼった。蒙古の史天沢は軍を両翼に分け、流れに従って攻撃し、呂文徳は敗れた。
13
秋七月、蒙古軍は合州を包囲し、二月からこの月まで、守将王堅は固守力戦した。蒙古の君主は諸軍を督戦してこれを攻めたが勝てなかった。先鋒の将汪徳臣は兵を選んで夜に外城を登らせ、王堅は兵を率いて迎え撃った。明け方、汪徳臣は単騎で大呼して言った。
「王堅よ、私はお主ら一城の軍民を生かしておくつもりだ。早々に降伏しろ!」
言い終わらないうちに投石が当たりそうになり、汪徳臣はこれがもとで病を得て死んだ。このとき大雨が降り、攻城用の梯子が折れ、後軍も勝ち進むことができず、退却した。
蒙古の君主モンケが合州城下で死去した。あるいは流れ矢に当たって死んだと伝わる。諸王と大臣らは二匹の驢馬を用い、絹で棺を覆い、これを背負わせて北へ向かった。合州の包囲は解けた。勝報が朝廷に届くと、王堅に寧遠軍節度使の称号を与えた。
14
八月、蒙古のクビライは王惟中・郝経を派遣して荊湖・江淮を鎮静させようと考え、帰徳軍を先に長江に向かわせた。郝経はクビライに言った。
「天下のことを事前に図ろうとするのは易く、天下のことを事後に救おうとするのは難しと聞きます。事後のなかに事前があり、去る者を失わず、来る者にやり遂げさせるのは最も難しいことです。わが国は北の砂漠に奮起し、金を滅ぼし、西夏を併合し、荊・襄を取り、成都を攻略し、大理を平らげ、夷狄を制圧し、四海を征伐し、五十年近くをかけ、兵によってこれらを一つにしましたが、亡国の遺民がわが国を脅かしたため、彼らを殺戮し、あわや殲滅するところまで来ました。古来、ここまで長く大きい戦はありませんでした。兵を集め、朝に命令を下して夕方に軍を出撃させ、国を挙げて押し寄せれば、宋を征伐して統一を図ることができます。志をもってすれば鋭く、力をもってすれば強く、手段は尽くされておりません。諸国が平定されたのち、法令・制度を定め、規則を施行し、将軍・宰相を任命し、賢臣・能吏を選べば、用いるに足る租税が得られ、食すに足る屯田が得られ、国内の政治は成功し、外国に対する防備も整います。今、西側の軍が出撃していますが、久しく功績がなく、戦と災いが続き、危うさのなかに安んじています。王は誰かに行在の命を受けさせ、宋に降伏して歳幣を納め、領土を割譲して人質を送り、戦をやめて民を休ませるよう説き、わが国の力を万全にして今後の計画を練るべきです。命令を受けても従わなければ、檄文を頒布して大いなる信用を示し、王が仁に満ちて人を殺す意思を持たないことを知らしめるのです。
一軍が襄州・鄧州から出て、一軍が寿春から出て、一軍が維揚(1)から出て、三つの道から並進し、東西が呼応し、王が一軍を節制とすれば、わが兵力は常に余裕が生じます。このようにすれば、未来の変事を防ぐことができ、過去の過ちを正すことができます。しかし、人は必ず言います、三つの道から並進すれば兵が分散して勢いが弱まり、力を合わせて一丸となれば、わが軍に立ち向かえる者はいない、と。彼らは取国の術と土地を争うのは違うのだということを知りません。力を合わせて一丸となるのは争地の術であり、複数の道から並進するのは取国の術であり、昔、天下を統一した者はみなこれをわきまえていました。晋が呉を取ったのは六つの道から進んだためであり、隋が陳を取ったのは九つの道から進んだためであり、宋が南唐を取ったのは三面から進んだためであり、一軍の衆が国を取ったなど聞いたことがありません。そんなことがあったとすれば、それは僥倖に過ぎません。昔、秦王は荊を討伐することについて王翦に尋ねました。王翦は言いました。
『六十万の兵がなければ不可能です。』
秦王は言いました。
『将軍は老けたな。』
そして李信に二十万の兵を率いて討伐に向かわせましたが勝てず、ついに六十万の兵を王翦に与え、楚を攻略したのです。
(1)維揚 江蘇省揚州市邗江区。
みな必ず用いるべきところがあり、情勢は安易に予想できないのに運よく国を取る者がおります。それゆえ王者の挙兵は必ず万全であり、僥倖を頼んで挙兵する者は崛起無頼の人(取るに足りない者)であります。前に向かって奮い立ち、勢いを強めて武功を挙げようとすれば、一挙にして金陵(2)を下し、臨安(杭州)に入ることができ、上策です。兵力が消耗し、戦が長引けば進むことも引くこともできなくなり、敵に乗ぜられることとなり、後悔することになります。宋の討伐を慎重かつ詳細にご検討ください。」
そして兵を集結して淮河を渡り、クビライは大勝関(3)から、張柔は虎頭関(4)から並進し、官軍は逃げ出した。
このとき、クビライは沿江制置司の文書を入手した。それにはこう書かれていた。
「今夏、間諜は蒙古軍が会議を開くという情報を得た。黄陂(5)の民間船を借りて筏をつなぎ、陽邏堡から川を渡り、鄂州に集まるとのこと。」
クビライは言った。
「これは今までになかったことだ。この言葉の通りにしよう。」
そして黄陂に到着すると、漁師が舟を献上し、案内役となった。
(2)金陵 江蘇省南京市の南。
(3)大勝関 湖北省信陽市の南東。
(4)虎頭関 湖北省武漢市の北東。
(5)黄陂 湖北省武漢市黄陂区。
15
九月、宗王(皇族の王)モゲは、合州から人をやって蒙古の君主の訃報をクビライに知らせ、北へ帰って人望をつなぎ止めるよう要請した。クビライは言った。
「私は命を帯びて南へやってきたのだ。武功を挙げずして帰ることはできん。」
そして自ら香炉山に登り、長江を俯瞰した。長江の北を武湖といい、武湖の東を陽邏堡といい、その南岸は滸黄州にあたり、官軍は大型の舟で長江の渡し場を押さえ、その軍容はたいへん盛んだった。董文炳はクビライに言った。
「長江は天険であり、宋はこれを頼みに国を守り、死守する勢いであり、彼らの士気をくじかねばなりません。ここは私にやらせてください。」
そして決死隊数百人を率いて官軍の先鋒に当たらせ、弟の董文用・董文忠を軍船に乗せ、太鼓を叩きながら急いで進み、大声で叫びながら奮い立った。両軍が矛を交えると、董文炳は兵を率いて岸の方に向かいながら戦い、官軍は大敗した。
翌日、董文炳は諸軍を率いて長江を渡り、進軍して鄂州を包囲し、内外は大いに動揺した。
16
蒙古軍は臨江(1)に到着した。制置使徐敏子は隆興(2)にいたが、兵を留めて進まなかった。知軍事陳元桂は病を押して城に入り、督戦したが、かなわなかった。ある者が陳元桂を抱えて逃げようとしたが、陳元桂は言った。
「死んでも退くことはできん!」
しかし、側近たちは逃げ出した。蒙古兵が来ると、陳元桂は眼を見開いて罵り、蒙古兵の手にかかって死んだ。その首は敵軍の櫓に懸けられた。蒙古軍は瑞州(3)に入った。知府陳昌世は善政を布いていたため、民はこれを抱きかかえて逃げた。
(1)臨江 四川省忠県。
(2)隆興 江西省南昌市。
(3)瑞州 江西省高安市。
17
全国に軍を出撃させて蒙古を防ぐよう命じ、帝室の庫から銀を出して軍をねぎらい、緡銭七千七百万、銀・絹それぞれ百六万両・匹を支出した。
18
冬十月、賈似道を右丞相兼枢密使とし、漢陽(1)に軍を送り鄂(湖北)を援護した。
(1)漢陽 湖北省武漢市漢陽区。
19
このとき、辺境からの報告は日々急を告げ、臨安は義勇兵を組織し、新兵を募集し、平江・紹興(1)・慶元(2)の城壁を増築し、朝野ともに戦慄が走った。内侍董宋臣は四明山(3)に遷都し、敵の鋭鋒を避けるよう要請した。軍器大監(4)何子挙は呉潜に言った。
「陛下が臨安を出るのであれば、都の百万の民は何を頼りにすればよいのだ?」
御史朱貔孫も言った。
「天子が一たび動けば三辺の将士が瓦解し、四方の盗賊が蜂起します。遷都はなりません。」
このとき皇后もまた臨安に留まって民心を安らがせるよう求めたため、帝は思いとどまった。寧海節度判官文天祥は董宋臣を斬るよう求めたが、帝からの返答はなかった。
(1)紹興 浙江省紹興市。
(2)慶元 浙江省寧波市。
(3)四明山 浙江省嵊州市。
(4)軍器大監 軍器監(兵器の製造を司る官署)の長官。正六品。
20
十一月、蒙古は鄂州を包囲し、都統張勝が暫定的に同州を治めていた。鄂州城は危機が旦夕に迫っており、張勝は城に登って蒙古に向かって言った。
「城はすでに貴国のものだが、美女と金品は将軍のものだ。自由に取ってよい。」
蒙古はこれを信じ、城外の民家を焼き払い、引き下がろうとした。このとき高達らが兵を率いて鄂州に到着し、賈似道も漢陽から援護した。このため蒙古は再度鄂州に進攻した。蒙古はクチャ・バートルに、降伏した諭鄂州使とともに降伏を勧告させようとした。使者が城下に着くと、張勝はこれを殺し、軍を出撃させてクチャ・バートルを襲撃したが、敗死した。
高達はその武勇に自信があり、賈似道を見下しており、賈似道が督戦しているのを見るたびに戯れて言った。
「文官に何ができるというのだ!」
これから蒙古軍と戦おうというときは、賈似道が自ら兵をねぎらってからようやく出撃させ、そうでなくば兵たちに賈似道の家の門前で騒がせた。呂文徳は賈似道にへつらい、人に大声で言わせた。
「宣撫はここにおられる。なぜこのようなことをするのだ!」
曹世友・向士璧も軍の中にいたが、このことを朝廷に報告しなかった。このため賈似道はこの三人を恨み、呂文徳に近づいた。
21
このとき、全国の大軍が鄂(湖北)に集結していた。蒙古軍は永州(1)・全州(2)から潭州に到着し、江西は激しく動揺した。呉潜は御史饒応子の言を用い、賈似道を黄州に移した。黄州は長江の下流に位置し、要衝の地であった。孫虎臣は精鋭騎兵七百を蘱草坪に送ったが、斥候がこの先に蒙古兵がいると言うと、賈似道は大いに恐れ、側近に言った。
「どうすべきだ?」
孫虎臣は賈似道を匿い、出戦した。賈似道は嘆じて言った。
「ここで死ぬのか。偉大な才能が日の目を見ないのが惜しまれる。」
そして蒙古軍が来ると、弱兵の部隊が金品と美女を奪って去ってゆき、江西の降将儲再興が牛に乗ってこれを先導した。孫虎臣は儲再興を捕らえ、賈似道は黄州に入った。
(1)永州 湖南省永州市零陵区。
(2)全州 広西チワン族自治区全州市。
22
十二月一日、賈似道は私的に蒙古と和議を結んだ。
このとき、蒙古は激しく城を攻め、城中の死者は一万三千人に達した。賈似道は大いに恐れ、宋京を蒙古の軍営に送り、臣と称し歳幣を納めることを願い出たが、クビライは許さなかった。合州の守臣王堅は阮思聰に急流を越えて鄂(湖北)に向かわせた。蒙古の君主の訃報が届くと、賈似道は再度宋京を派遣した。クビライは、アランダールらがアリク・ブケを君主に立てようとしているのを聞くと、脱忽思に民兵を集めさせ、群臣を呼んで話し合った。郝経は言った。
「『易経』に『進退存亡の道理を知って、その正しさを失わない者は、ただただ聖人だけであろうか。』(1)とあります。わが国は金を平らげて以来、ひたすら進取に努め、軍を疲れさせ財を費やし、三十年が経ちました。今、国内は君主がなく、タガチャル、フラグといった諸王が立ち、不相応にも帝位を望んでいます。彼らに少しでも狡猾な考えがあり、外国に侵入しようとする意図があれば、先人の始めた戦は腹背に敵を受けることとなり、大事が去ろうとしています。また、アリク・ブケは脱里察に尚書省を主管させ、燕京に拠り、戸籍を整え、全国に号令し、皇帝の事業を行っています。大王は人望があり、大軍を握っておられますが、金の世宗・海陵王のことをご存知ないのですか?もし彼らが先帝の遺詔を称して皇帝となり、中原に詔を下し、長江に大赦を行えば、大王は彼らに帰服できますか?大王には国家を憂慮し、宋と和議を結び、淮南、漢水流域、梓州・夔州両路を割譲し、境界と歳幣の額を定め、物資を置き、騎兵を率いて帰り、燕京に直行していただきたく思います。さすれば彼らの陰謀は失敗に終わるでしょう。一軍を送って先帝の棺を載せた輿を迎え、皇帝の印璽を大王の手に収めるのです。使者を送ってフラグ、アリク・ブケ、モゲの諸王を呼び集め、カラコルムで会葬を行うのです。全国に官を派遣し、民を安堵させるのです。王子チンキムに燕京を守らせて大王の力を示せば、帝位は帰着する場所を得て、国家は安定するでしょう。」
クビライはこれに賛同した。
(1)高田真治・後藤基巳訳『易経』(上)乾、岩波文庫、1969年、p.96
このとき、宋京がクビライの軍営に来て、江南を割譲して国境とし、毎年銀・絹それぞれ二十万両・匹を納入することを願い出た。クビライはこれを許し、砦を撤去して引き揚げ、張傑・閻旺を留め置き、主力以外の部隊を置いて湖南のウリヤンカダイの兵が到着するのを待った。賈似道は鄂州の包囲を解くよう上奏した。詔を下し、論功行賞を行った。
23
蒙古のウリヤンカダイは潭州を激しく攻撃した。
向士璧は潭州を治め、力を尽くして守り、飛江軍を置き、斗弩社を募り、朝な夕な自ら城に登って兵をねぎらった。蒙古の後軍が迫っているのを聞くと、王輔佑に五百の兵を率いてその様子をうかがわせた。南岳市でこれと遭遇し、大きな戦いとなり、蒙古はやや退いた。このとき、クビライはテメチにウリヤンカダイの軍を迎えに行かせた。ウリヤンカダイは包囲を解き、湖北へ向かった。
24
景定元年(1260)二月、蒙古の張傑・閻旺は新生磯で浮橋を造り、ウリヤンカダイが到着すると、張傑らは北へ帰った。賈似道は劉整の計を用い、夏貴に命じて水軍を率いて浮橋を破壊し、白鹿磯まで進ませ、蒙古のしんがりの兵百七十人を殺した。
二十三日、蒙古は主力以外の部隊に大理を通り、広南(広東・広西)を経由して衡州(1)に向かわせた。向士璧は劉雄飛の兵とともに道中で迎え撃ち、これを破り、捕虜となっていた多くの民を奪還した。
(1)衡州 湖南省衡陽市。
25
三月、賈似道は蒙古と和議を結び、臣を称して歳幣を納めようとした事実を隠し、蒙古軍の捕虜を殺したうえで上奏した。
「全国で勝利を重ねたことにより、鄂州の包囲は解かれ、長江・漢水流域は平和を取り戻しました。国家は危機に陥ったものの再び安定し、実に万世無窮の幸いであります。」
帝は賈似道が国を再興させた功績を挙げたとして、これを朝廷に呼び戻した。
26
夏四月、賈似道を少師とし、衛国公に封じた。帝は直筆の詔を下した。
「賈似道はわが股肱の臣として王命を宣布する職務に任じられ、隠然と敵を滅ぼし、奮い立ってわが身を顧みることがなかった。わが民はこれを頼って生まれ変わり、王室は再興されたに等しい。」
賈似道が到着すると、百官に郊外まで迎えに行かせ、文彦博の故事にならって厚く待遇した。将兵らには以下の通り官職が与えられた。呂文徳に検校少傅、高達に寧江軍承宣使、劉整に知瀘州兼潼川安撫副使、夏貴に知淮安州兼京東招撫使、孫虎臣に和州防禦使、范文虎に黄州・武定諸軍都統制、向士璧・曹世雄にそれぞれ官職。
これ以前、賈似道は高達が軍中にいたとき常に自分を侮っていたのを憎み、このことを帝に告げて高達を殺そうとしたが、帝は高達に功績があるのを知り、賈似道の意見に従わなかった。このため論功は呂文徳を第一とし、高達をその次とした。
27
賈似道は宰相になると野心家たちを引き立て、賄賂を受け取り、高官らを各所に置き、外戚と子弟を監司・郡守とした。踊り子や自分の息のかかった者に官職を与え、彼らを帝のそばに置いて遊びほうけた。帝を諫める者があれば宣諭使に処罰させ、これを節帖といった。賈似道の権力は国の内外を傾け、小人たちを用い、法令を変えていった。