その男、波旬という咒のもとに

Last-modified: 2020-12-07 (月) 19:32:29

  
 
 
 
 
 
 

※SS内では残酷・過激な暴力描写がいくつか含まれます。予めご了承の上でお読みください
 
 
 
 
 
 
それが、いつ発生したのかは誰もわからない。
どういう経緯で"こちら"へと湧き出たのかも分からない。
 
分かるのはただ1つ。
それがどうしようもなく、人間にとって害しかもたらさぬものだという事だ。
 
 

 
 
「………………。」
 
それが初めて自分という存在を認識し、自意識と呼べるものを初めて得たのは、大正という世で創り出された1つの特異点だった。
始めこそ理解はできなかった。何故ならそれは、思考という概念すらも持ち合わせない概念。自意識などというものも当然存在しない。
故にその場が何なのか、今がいつなのかは愚か、自分という存在が何かを理解するのにも困難のはずであった。
周囲をゆっくりと見渡すそれの目に、複数の鬼種が跪いて報告する様が映った。
 
「お目覚めですか、星熊童子様。
 酒呑童子、並びに熊童子様、金童子様、虎熊童子様共々、覚醒をお待ちしておりました」
「………………………………」
 
首を傾げながらも、それは周囲を、ひいては自分を見やる。
それが行ったのは、何よりも"自分"という在り方の認識であった。
端的に言ってしまえば、それはこの世の存在ではない。言うならばこの世に許される存在ではない。
だがそれは何万分の一という可能性をすり抜け、何億分の一という奇跡を嘲笑って、こちら側に現出した、言ってしまえば、"バグ"である。
いつ世界に気付かれるかも分からないその意識を保つために、まず必要なことは己という存在を確固たるものとして認識する事。
そうすることでそれはこの世界に根を下ろし、そしてじわり、じわりと浸食を果たす。
"そういう役割"の為に自分はまず初めに此処に或るのだと、それは瞬時に気付いた。
 
「困惑しておいでですか。無理もありませぬ。
 あの日星熊童子様は、酒呑童子様と同じく憎き頼光めに殺戮された故……」
「………………星…」
「ですがご安心を。酒呑童子様の編み上げた無数の幻霊による霊基の補強により、鬼霊四天王は万全なる降臨を果たしました!
 既に虎熊童子様もご降臨済み。酒呑童子様は既に大江山をその手中に収めている! 星熊童子様も揃えばもはや盤石となるでしょう!」
「……幻霊? 補強、……ああ」
 
周囲から流れ出る情報を一字一句咀嚼し、自らの内側に或る情報を余さず理解し、それは思考を1つの着地点へと至らせる。
そうか。自分はそうやって定着したのか。この星なんとかという鬼を補強する微弱な存在の1つとして紛れ込まされたのか。
そしてその多重に折り重なった霊基の頂点として支配権を握ったのが、自分なのかと。彼は理解した。
 
「うん……。うん。ああそっか、分かった分かった。なるほどねー」
「ご理解いただけましたか。流石は星熊童子様、聡明にございます。
 早速ではございますが、酒呑童子様より東北・遠野への遠征の願いが……」
「抑止力から逃れるためには、まずは特異点で生まれるのが早いってわけねぇ。なるほどね。
 よく見ると本来の此れとも違うみたいだし。こいつぁ俺の為の場所なのかな? いや、うーん。分かんないや」
「? 星熊童────」
「あ、君たちは死んでいいよ」
 
短い音が響いた。
星熊童子の名を借り受けて顕現したそれが、自分の好きなように動くのに邪魔な存在を、片手を振るって否定した音だ。
音が響くと同時に鬼どもの霊基は木っ端の如き肉片として微塵に散らばった。その様を見て無邪気にそれは笑う。
 
「あー、うん。まぁ十分だねぇ。悪くない。けど────」
 
ふぅむ、と周囲を見渡しながら、それは首を傾げて頭を掻きながら独りごちる。
 
「なんか違うんだよなぁ。鬼なんか殺した程度じゃ、ちょっと違う気がする。
 良く分からないけど、まぁ色々やってみればわかるでしょ。うん」
 
そう呟きながら、それは大江山を下り、同時に麓にある人里へと降りていった。
 
 

 
 
「や゛めで……や゛め゛でえ゛え゛え゛え゛え゛!
 なんで……どうしで…! どうしでこんな酷い事する゛の……!?」
「五月蠅いな黙っててよ。何処まで皮剥いだら死ぬか確かめてるんだから」
 
その人里は、はっきりと言って地獄というべき光景があった。
 
磔にされ生きたまま臓物を引きづり出された赤子がいた。
脳髄のあるべき場所に無数の蛆を詰め込まれた童女の遺骸があった。
独りだけ助けてやると唆され妻と子を差し出そうとして殺し合った家族がいた。
意識を保ったまま鬼へと変貌させられ、愛する家族を喰らい殺し続けた青年がいた。
地獄絵図と呼ぶにこれ以上の場はないと言っても過言ではない程の汚濁、邪悪、嫌悪がその里にあった。
 
「にしてもさぁ、ちょっと面白いと思わない? 普通人を殺すだけならもっと効率良い方法があると思うんだよ。
 例えば原爆…だっけ? そういうの1つほいと使えばこの場にいる全員よりよっぽど多くの人間を瞬時に殺せる。
 でも俺はもっと時間をかけて、ゆっくりと、いろんな方法で君たちを殺してるんだ。さっきなんでって聞いてたけど、逆になんでだと思う?」
 
ぐじゅり、じゅぐ…と、魔術で生きながらせ続けている女性の内臓を手でかき混ぜながらそれは問う。
狂い死にそうになる痛みの中、死という逃避すら許されず、女性はとうの昔に精神が崩壊しきっていた。
当然それの問いかけに返す声もなく、ただ声にならない悲鳴を上げるのみ。
 
返事のない女性に対し、困ったなぁとまるで他人事のような感想を述べ、それは続けた。
 
「ま、俺も良く分かんないんだけど」
 
時間が惜しいと思ったのか、あるいはただ面倒になったのか、飽きたのか。
それは女性の首をグギリと捻じ曲げて命脈を断ち、そして頭部を両の手で潰し弄びながら思考した。
 
それはこの人里と出会うまでは満たされることがなかった。
暴食を貪ろうが、人を犯そうが、満たされない。ただ人の命をその手で弄び、そして殺すだけでしかそれは満ちる事はなかった。
ただ殺すだけではない。楽しんで、追い詰めて、嘲笑って、そして全霊を以て遊んだうえで、殺す。それこそが、その魂の指向性ともいえる在り方だった。
 
「この在り方を何て言うんだろう。俺の根っこになってくれた鬼の根幹とも違うし。
 うん。自分探しっていうのも面白いね。ねぇ? 君もそう思うだろう?」
 
そう言いながらそれの振り向いた先には、1基のサーヴァントが立っていた。
周囲に広がる地獄にただ静かなる怒りを燃やし、目の前の邪悪に憎悪と言うべき視線を向けるサーヴァントがそこにいた。
女性の英霊であった。同時にその英霊が見据えるその邪悪は、彼女が人間ではない存在だと霊基の質から理解できた。
 
「お姉さんも人間じゃないんでしょ? だったらこれどう思う?
 結構俺としては楽しいんだけど、やっぱ他の人が見ると違うのかな」
「黙りなさい下郎」
 
その凛とした言葉には滾る怒りが込められていた。
明確なる否定の意志。存在の根幹から否定するような感情が其処にはあった。
 
「何故平然とこのような嫌悪を催す下衆なる行為を行えるのか理解し得ません。
 いえ、そもそも根底から異なるのでしょう。"理解しようとすることすら間違っている"。
 ……殺しましょう。万一貴方が私と同じ、特異点を正すべく召喚された英霊であったとしても、
 貴方のような存在は、生きていてはいけない存在だと、理屈ではなく魂で理解が出来る」
「…………………………………。っあー……。なるほどね」
 
人ならざる女性のサーヴァント……"丑御前"の怒りをものともせず。
まるで凪の如く受け流しながら、それはパチンと指を鳴らして数度頷いた。
そして一言、自分が今まで抱いていたナニカに対する答えを、短い言葉で表し出す。
 
「これ、"嫌悪"かぁ」
 
そう悟ると同時に、それの表情は見る見るうちに生気を帯びていった。
口端は下弦の三日月が如く吊り上がり、その眼端は生きる者全てを嘲笑するかのように下がり、
その表情は見る者全てを不快にさせるが如き邪悪極まりなき笑みへと瞬く間に変貌する。
 
「俺がこうするのは、全部そういう根幹かぁ!!」
 
ゲタゲタゲタゲタと下卑た笑いを響かせながら、それは己を理解した。
自分は人を"嫌悪"する。故に"嫌悪"という感情を孕む殺戮をばら撒くのだと。
ただ殺すだけではつまらない。その殺す人間の尊厳を、命を、魂すらも、徹底的に凌辱し踏み躙り甚振り、そして殺す。
人道を真っ向から否定する悪辣なる羅刹。それこそが自分の根幹に根付く指向性であると其れは理解した。
 
そして同時に、己を理解するという事はそれが確固たる己を以てしてこの世界に根付くことを意味する。
今この時を以てして、それはこの世界に正しく名を以て新生したと言える。いつ吹き消されてもおかしくなかった幻霊は、
数多の殺戮と1つの言葉を以てして己を理解し、そしてこの世界に確固たる地盤の下に産声を上げるに至った。
 
「いやありがとうありがとう! 君のおかげで俺は"俺"に成ることが出来たよ!
 これでここにも長くいれそうだぁ! めでたいねぇ! 今日は俺のバースデイだ!!」
「何を支離滅裂な事を……。丑御前、参ります」
「あー、これ名乗った方がいいかな?」
 
丑御前と名乗った英霊の、迅雷の如き攻撃を避けながら、それは思考する。
己という在り方を理解した今、それは名を持つべき段階に至ったのだ。星熊童子という器の名ではない、真なる名を。
何が良いかと戦いながら思考をし、そしてそれは1つの答えへと至る。
 
「ああ、そうだ。此れだ。此れが良い」
 
それは2つの咒を定めた。一つは名を。もう一つは概念を。
名としては、人の正道を嘲笑い堕落へと誘う魔王の名を己のものとした。
概念としては、人類にとって最大の障害になる人知無能の災厄という在り方を選んだ。
 
聞けば前者は、ありとあらゆる形を持つとされる。その名は彼にとっては心地の良いものであった。
聞けば後者は、人に取り憑いて人間の身体を苗床とし受肉するとされる。そのプロセスはまさしく今の自分そのものだった。
どちらも今の己を定義するに相応しい。そう嘲笑いながらこの世界の摂理を受け入れたそれは、自らの"名"を名乗る。
 
「俺の名は、波旬。第六天の魔王にして第六架空要素の具現、"波旬"だ」
 
そう名乗ると同時に、力の奔流があった。
波旬と名乗ったそれの肉体を丑御前の刃が貫いたが、数瞬遅かった。
名乗りそのものが宝具となる"それ"は、既に根幹なき幻霊から、確固たる己を根付かせた"悪"として新生していた。
 
だが、所詮はこの世界の法則に根付いたばかりの悪鬼羅刹。
命こそは無限に等しい程の残機を持つが、戦い方や人への理解は下の下に等しい。
故にこそ、ただ1基の英霊を相手取れば勝利の目こそあったが、カルデアより来たる英霊達を相手取れば敗北は必至。
結果として波旬を名乗った正体不明の命は、この特異点においてはその存在を終えた。
 
 
だが、それは終わりではない。
むしろ、この波旬という咒の存在は、此処から始まったと言ってもいいだろう。
 
 

 
 
「まだあんまよくこの世界が分かっていないところだったから、こいつはちょうどいいや」
 
世界を見渡し、波旬は嗤う。この世界の全ての人間を嘲笑するかのように、口端を吊り上げながら。
その眼前には、本来の世界ではありえない異変が今まさに発生している状況下にあった。
 
人理渾然。2つの世界が、過去と未来が、地の果てと眼前が融和する異常事態。
地母神キュベレーと地母神テルース。2つの世界の地母神が1つとなった事で発生した渾沌。
人類に未曽有の危機が迫る最中に、波旬は呵呵大笑しながら喜びに打ち震えていた。
 
「ひとまずは、いろんなことして俺のやれることを探るとしよっか」
 
そう微笑みながら言い放った波旬は、その宣言通りに行動した。
子供の如き無邪気さで渾然一体となった世界を歩み、縦横無尽に命を弄んだ。
己の内にある嫌悪を確かなものとし、そして世界に対してより深く根付く為に、この世界の命を蹂躙し尽くした。
 
疑心暗鬼を扇動し大勢の死を誘発させる戦争を引き起こした。
悪逆の限りを裏で尽くしたのちに、無辜なる民に罪を擦り付け糾弾し、自らを正義と謡い味方を作り上げた。
匿名の中で人理渾然の主犯として名のある魔術師らをやり玉にあげ、神秘隠匿の崩壊すらも行おうとした。
理由はない。ただ人類という存在を嫌悪するが故に、人類の持つおぞましさを利用して人類を嘲笑い殺すだけ。
そのためだけに波旬という存在は、ありとあらゆる手を以てして人類を殺戮し、蹂躙し、凌辱した。
 
────そして波旬は、己の対峙するべき存在と出会う。
 
「んんー……? おや? もしや……」
「ほう、出会っただけで分かるものだ。君が、そうか」
 
適当な街で人の命を擦り潰すように楽しんで殺していた時の事。
その場に立ち会った1人の男が、波旬の意識の中にくっきりと影を残すように認識された。
スーツ姿の初老の老人ではあったが、その立ち込めるオーラは荘厳なる威容を示していた。
総ての人間を嘲笑い嫌悪する波旬だからこそ分かる。眼前に立つ存在は人間ではない。人間の祈りより生まれた英霊でもない。
自分と同じ、人間の────────否、人間だけではない。この世全ての存在の相反として立つ存在だと直感で理解した。
 
「なるほどなるほど君がぁ! いや、貴方と言った方が良いですかぁ?」
「慣れない敬語はやめたまえ。所詮は同じ存在。ただ分かたれた理由が異なるだけのもの。
 最も、私は人理渾然という特殊な状況下で無ければこちら側に表出することが出来ないほどに"近い"がね」
「なら一応目上として扱うよ? こういうのも、この世界の1つの摂理だろう?」
「好きにしたまえ」
 
その者たちはまるで旧来の友のように語り合い、そして初対面の他人のように互いを述べ合った。
初老の男は名をアーベルデルト・ヴァイスハウプトと名乗り、ある1つの魔術組織の頂点に立つと話した。
その言葉を聞き、波旬はケタケタと笑いはやし立てる。
 
「なるほどなるほど! 貴方はそういう摂理でこちらに根付くという方式を立てたわけかぁ!」
「過去・現在・未来。あるとあらゆる領域が特異点となっているに等しいこの現状、利用しない手立てはない」
「しかし運が良い。このような状態ともなれば抑止の手もこちら側までは届かないでしょ。まぁそもそも俺らは抑止の管轄外かもしれないけど、念のためね」
「ふっ────。さて、本当に運によるものかな?」
「?」
「まぁ良い。同じ存在として出会ったからには、君にも1つ手伝ってもらいたい」
「ほう? それは?」
「この異変の中心に立つ少女を、君のその悪辣なる手腕を用いて誘い出し、そして1つ利用してほしい」
「へぇ。良いね。俺好みだそういうの」
 
喉を鳴らし、波旬は嗤った。
それに対峙するアーベルデルトもまた、口端を上げて笑う。
 
「でも本命は別なんでしょ? それ」
「ああ。私はこの刹那にして那由他の異変の中、1つの組織を作り上げなくてはならない。
 そのために、英霊達はやはり厄介だ。その眼を1点に集中させる事変が、我々には必要になってくる」
「おーけー。良いよ。ただし俺をその新しく生み出される組織のナンバー2にする事。そして好き勝手人を弄らせる事。
 それさえ満たしてくれれば、何だってしてあげるよ。死にさえしなければね」
「良いだろう。約束しよう」
 
斯くして、人理渾然は深度を増してゆき、やがてその異変は1つの修羅求生領域へと収束する。
その中心に波旬はいた。全ての始まりたる女神の自滅因子を携え、2人の魔術師と共に英霊を待っていた。
波旬は英霊すらも嘲笑う。人間を嫌悪するが故に、その祈りより生れ落ちた英霊をも蹂躙する。その行動に、この特異点は絶好の機会だった。
人理の栄光を踏み躙らんとしたその波旬の目論見は、ビースト∀という形で結実をするも、英霊達とそのマスターたちの協力の前に儚くも砕け散った。
 
だが、その背後にて大いなる野望が産声を上げていた。
人理が混ざり合った異変。それは即ち言えば、"彼ら"がこの世界の隅から果てまでに根付く絶好の機会であったと得る。
様々な地に、あらゆる歴史に、遍くコミュニティにそれは影を落とした。そして影は収束し、1つの巨大なる組織となった。
 
 

 
 
「やぁやぁ、君がアザミちゃん? 初めまして。早速だけど仕事やってもらおうかな」
「初めまして。アザミと申します。"人の命を選別する仕事"と聞き及びましたが、よろしくお願いいたします」
「素直で良い子だねぇ」
 
波旬とアーベルデルトの始まりの接触から、"彼らの体感時間"で数ヵ月が経過してからの頃。
人理渾然は終息を迎え、そして彼らもまたある魔術結社の幹部として、この世界に深く根付かせる結果となっていた。
ニコニコと愛想のよい笑顔を振りまく波旬が出迎える少女は、そんな組織の一員として波旬の下に送られた少女であった。
 
「まー分かってると思うけど一応言っておくね。
 俺らサンヘドリンって、要は人類の発展だとかそう言うのを合理的に突き詰める組織なんだけどそこ分かってるよね?」
「はい。一通りアーベルデルト最高統括司令より手渡された資料に目を通してありますので、多少は」
「おっけー。んじゃ君が晴れて最初の職場としてやってきた第2ロッジはどんな研究をしているのかな?」
「人間の肉体的限界を測る場所、ひいては人間の生命的強化を目的とした研究と聞き及んでいます」
「はいその通り。良くできました」
 
そう笑いながら、波旬は厳重に封鎖された扉を幾つも開き、その向こう側へと案内した。
連れられた少女────アザミと呼ばれたその少女は、これから向かう先に対していくらかの覚悟はあった。
ある取引の下に彼女がこの組織より言い渡された指令は、一員となって"人の命の選別をする"事にあった。
その取引からして、これから向かう先に待っているのが並大抵の人間に対する"実験"を行う場ではないと考えていた。
元々倫理観のブレーキが壊れがちの魔術師という領分。そのさらに最奥に位置するブラックボックスたる彼らの奥に、どんな悍ましいものが横たわっていようと気にならないつもりであった。
 
その先に広がる光景は、そんな少女の覚悟が余りにも薄っぺらい事をまざまざと思い知らさせた。
 
扉の向こう側には、何百、何千という数えきれないほどの"検体"がベッドや試験管、檻の中に閉じ込められていた。
そのほとんどがまだ生きており、加えて肉体の形にかろうじて人間としての特徴を残しているが故に、かえって嫌悪感を引き立たせた。
もはや悲鳴すら上げる事を許されないほどに変異させられた肉塊が、助けを懇願するような目でこちらを見つめている光景から、アザミは目を逸らしつつ問う。
 
「……これは」
「人間って脆いっしょ? だから俺たちの間で"強い人間"を創り出そうって言うんだ。
 マンアフターマンとでも言えばいいかな? 次世代の人間を魔術・化学・呪術・工学、あらゆる分野から作り上げようというのがこの研究所さ」
 
こみあげる吐き気を必死に抑えながら、アザミは波旬の後を歩く。
そんな中物音が響き渡り、理性では制止するも不意故にその視線を誘導される。
彼女がみたその先には、並ぶベッドの上に手足が切り取られた女性が何人も寝かされていた。
悲鳴を上げることもできない様子を見るに、喉か舌が切り取られているのだろう。それでもその女性の内の1人が必死に暴れていた。
やがてその膨れ上がった腹部が引き裂け、内部から異形が溢れ出るように出てきた。赤子の頭部を持つ芋虫、蛾の翼と人の手を持つ蛇、何百という目を持つ蜥蜴……。
逃げ出そうとするその生物たちを、指を鳴らすだけで虚空へと飲み込み、波旬は快活に笑った。
 
「ああ安心してよ。君がうちに所属している限りあんな事にはならないから。
 それが俺のルールなんだ。うちの人間には手を出せない。代わりにこういう実験に必要な人材は集まってきてくれる!
 どう? 合理的でしょ? でもあれはちょっと失敗だったなぁ。まぁ楽しいから続けるけど。アザミちゃんはどう思う?」
「………………………………」
 
今まで過酷な人生を歩み、感情を喪失したと自覚していたアザミですら、耐えがたい嫌悪感が其処にはあった。
今すぐここから逃げ出したい想いが彼女の内を満たす。だが逃げたところで、この目の前の悪鬼羅刹から逃げ出せるはずがない事を彼女は理解していた。
加えて、彼の言を信じるのならば、逃げ出すという事はこの組織の一員でなくなること、即ち"ああいった"状態に堕とされる事を意味していた。
それだけは出来ない。あってはならない。目的を果たすまでは。そう考えた故に、アザミは自らを殺し、この組織に追従する。
 
「まぁ、頑張ってね。君には、期待しているんだから」
 
下卑た笑い声が木霊する。この用意された環境は、まさしく波旬にとっては楽園だった。
好きなだけ人類を蹂躙し、嘲笑し、弄び、そしてその命を凌辱できる。阻むのはほんの些細なルールのみ。
即ち大規模な神秘の漏洩を行わないことと、自らに課した縛りの2つ。それ以外は好きなだけ人類を冒涜できる。
ただその現実に波旬は悦び、そして笑いを響かせ続けた。
 
 
此れこそが、この世界に過去より存在すると謡われし、堅牢不可侵たる光明の城の正体。
渾然下に堕天使の残骸を以て力を得た騎士団長の魂の骸を下地として作り上げた侵略の砦の作り上げられた真実。
────────名を、サンヘドリン。外より飛来せし、有り得てはならない命たちの傀儡。
その実在は長らく永遠にして不変であると信じられ続けてきた。
 
 
事実、その存在は長きにわたり神聖不可侵たるものとして機能し続けた。
だが所詮は、外より作り上げられた砂上の楼閣。形あるものはいずれ崩壊を示す。
それは彼らに取っても予想だにしない形で、綻びと称され結実を果たす事となる。
 
 

 
 
「波旬、前から言っていたお前の"面白い事"はいつ為すのだ?」
「ざっと半年後ぐらいかなぁ。捕まえたばかりで、まだ準備の予定あるし。ってかあの実験場見て良く飯食えるね君」
「それは貴様も同じであろう。俺は気にしないだけだが、むしろ貴様は率先して楽しんで飯をかっ喰らいそうだな」
「あっはははは! それ言えてる!」
 
波旬が1人の男と対峙しながら食事をしていた。男の名を霧六岡 六霧。
サンヘドリンの幹部を務めるという意味では、波旬と同じ立場に立つ男である。
彼らは交流が深く、他のサンヘドリンの幹部全員から嫌悪される身でありながら、霧六岡だけは波旬に対し好意的に接しているという特異性がその2人にあった。
 
「まぁあのザドキリアちゃんは特別だからねぇ。堕天の繋がりはこっち側だと少ししかないし」
「ルシファー事変の話か? ああ、俺ももう一つの俺の記憶から知っている! あれはでかい異変だったな!!
 しかし世界を超えても尚爪痕を残すのか! 凄まじいな堕天使というものは! まさに悪の極致といえるだろう!!」
「ああ。前に言っていた2つの記憶がどうの? 俺は良く分からんけどあるんだねそう言うの。珍しい」
「何を言う! 実在を疑うほどの珍しさで言えば貴様に勝るほどのものはなかろうよ!!」
 
ステーキを突き刺したフォークで波旬を指し示し、
その後豪快にステーキを頬張って霧六岡は口端を上げ笑った。
 
「お前ほどの特別など、そうそうないだろう」
「それは、霧六岡君が俺と仲良くする理由?」
「はは! 貴様は嫌われ者だからな! だがそれはまた違う!
 俺が常人ならば貴様を嫌うが常だろうが、生憎俺は狂人だ!
 貴様のような常識はずれな存在には、ただ惹かれるというのみよ!」
「特別なのは怖くないんだ?」
「何を恐れる必要がある! むしろ特別とは進化の兆し!
 率先して触れあい受け入れ取り込むが正しい付き合い方であろう!
 ま、貴様がどう特別なのか知らんがな!! ははははは!!」
「あっはははは! 俺勘の良い奴大嫌いだけど君くらいのならむしろ好きだよ!!」
 
霧六岡の肩をバシバシとはたきながら爆笑する波旬。
普段の嘲笑や挑発を含めた笑みではない、純粋な笑いの感情が其処にはあった。
ふむ、と前置きをしてから、霧六岡は静かに笑って言葉をつづける。
 
「なるほど気に入られたようだ。なれば1つ無礼講を許してくれるか?」
「んー? なんだろ? 別にいいよ。どんどん無礼講しちゃって。そもそもサンヘドリンな君に何もできないけど俺」
「はは言われてみればそうだ! ま、では言葉に甘えよう。波旬、貴様人に対して嫌悪という感情を抱いているな?」
「あ、分かる? そういえば君は感情系の魔術使うんだっけ」
「うむ。だからああいう研究も平然とできるのだろう。……だがな」
 
フゥ、と短く嘆息をし、コーヒーの注がれたカップを静かにおいて、霧六岡は一言だけ告げた。
 
 
「中身のない嫌悪は意味が無いぞ」
 
 
「………………………………どゆこと?」
「理解できぬか。ならば其れに答えぬも無礼講と許せ!
 さてご馳走様だ。またタダメシを食いにくるとしよう」
「えー? んじゃ次に来るときは答え教えてねー!!」
「ああ! 次に此処に来た時にはな!!」
 
そう、声だけは呵呵大笑とした様相で、霧六岡は振り向かずに波旬の元を去って行った。
だがしかし、その表情に笑みはなく、ただ諦観したかの如き冷たい表情が其処にはあった。
事実、彼はこの時を境に波旬のテリトリーともいえるサンヘドリン第二ロッジを訪れることは、一度たりともなかった。
 
理由は簡単だ。彼は波旬の内側の根幹を"見た"からだ。
底が知れる、という表現があるが、まさしくそれに等しい感情を抱いたのだろう。
言うならば、霧六岡はこの瞬間に波旬の限界を知ったのだ。彼が抱く嫌悪にはその中身が無い。故に限界が訪れるとしたらそこまでだと。
ならば、波旬が敗北をするとしたらそれに由来する。そこまで分かれば波旬の結末も大方予想がつく────という風に。
彼はその脳裏で、波旬の末路を幻視したのだ。
 
おそらく彼が万全であれば、波旬の結末は変わっていただろう。
ナサ=ラヴァを冀った憐れなる少女を用いたサンヘドリンの大いなる儀式に彼が介入していれば、あの結末は惨劇に塗り替えられていたかもしれない。
だが、しかし、そうはならなかった。故に波旬は死滅した。滅ぼされた。その存在の根幹から────────。
 
 

 
 
「────────、逝ったか…波旬」
 
独り座し、虚空を見やり言葉を宙へと溶かすアーベルデルト。
彼が呟くと同時刻、日本のとある地方都市にて聖杯が出現し、そして彼と同じ"外なるナニカ"がこの世界から拒絶された。
 
悲しみはない。怒りもない。憐れみもない。あるのはただ1つ、"分かっていた"という納得であった。
アーベルデルトの存在の根幹にあるのは、まだアーベルデルト自身も理解していない。だがこれだけは分かる、理解できないという事は"それだけ根幹が深い"という事。
波旬は言うならば、浅かったのだ。特異点という不安定な地盤の下で投射された故に浅いという事を、彼は理解していたのだ。
その思考を整理するかのように、アーベルデルトは誰に言うでもない言葉を独り呟き続ける。
 
「嫌悪という感情は我らの中でも確かに強い。ああ、私でも拭えない。
 事実この世界に対する憎悪は、抑えきれないほどに我々の根幹といってもいい」
 
だが、と続け
 
「故にこそ制御しなくてはならない……。あるいは、その根幹を理解して己のものと飲み込む必要がある。
 そういう意味では……アレはまだ子供だった……。嘆かわしくはあるが、悲しみはない……」
 
窓の外を見やり、アーベルデルトは街を行く人々を見て呟く。
 
「次は、この失敗を活かすとしよう」
 
 
 
「流転する4つの異界を以てして」