●登場人物
ピスティス・ソフィア:メイド。
ルピナス・カートライト=ルピノ:主人。狼。
《ティータイムと弟の記憶》
紅茶には美味しく淹れるコツというものがある。
まず水は基本中の基本だろう。紅茶には軟水が良いとされる。
……柔らかい水とは何だ、という疑問が聞こえた気がしたので、その点も詳しく説明しよう。
まず、水は硬水と軟水に分類される。何を以て区別するのかと言うと、
水中のマグネシウム、およびカルシウムの含有量だ。
一般的にこれらを引っ括めてミネラルと呼称し、
ミネラルが一定量の水を硬水、少ない水を軟水と呼ぶ。
詳しい違いの説明は割愛するとして、一般的に紅茶には軟水が適している、と言われている。
硬水は性質上アクとクセが強くなりがちで、
繊細な紅茶の味わいを壊し、味と香りの薄い紅茶になるからである。
案じなくても良い。基本的に日常的に手に入る水は基本的に軟水だ。
地域差はあるものの、日本の水道水やミネラルウォーターは基本的に軟水が中心となっている。
これは和食は繊細な味付けを信条とする以上、
旨味を引き出すことに長けた軟水が重視されたからだと言われる。
……いや、そも日本で日常的に手に入る水が軟水だったからこそ、
和食は繊細な味付けになったのだとも言える。
ならば紅茶には無条件で軟水が良い……と言われると、それも違うだろう。
喫茶文化が発展したのは大貿易時代のイギリスだ。
当時、彼の国では「東洋の漢方」として紅茶を嗜む者が多かった。
しかし17世紀のイギリス、そこで紅茶に革命が起こる……ポルトガル王女キャサリンの手によって。
砂糖だ。
かのキャサリン王女は紅茶に砂糖を入れて嗜むというスタイルを提唱し、
18世紀に入る頃にはイギリスの貴族でこの飲み方が流行していた。
当時は紅茶も砂糖も貴重品……、
貴族たちはコーヒーハウスに集い、この贅沢な「趣味」を仲間間で嗜んだ。
その賑わいたるや、東インド会社は17世紀から19世紀までの間、
茶葉の輸入を独占したことでイギリスに多大な利益をもたらしたほどである。
アフタヌーンティー文化の発祥もまた19世紀のイギリスである。
女性同士の語らい、またオペラ鑑賞の前の小腹満たしとしての役割として、
軽食や菓子と共に紅茶を嗜む文化は広まっていった。
また、食事と共に紅茶を楽しむ「ハイ・ティー」という文化も同時に存在していたのである。
話を戻そう。
このように喫茶文明が発展したのはイギリスだが、イギリスでは手に入る水に問題があった。
そう、イギリスで手に入る飲料水はその大半が硬水だったのだ。
硬水で紅茶を淹れると味と香りが薄くなる……とは先程も言ったが、もう一つ問題がある。
成分の一つであるタンニンとミネラル成分が反応し、水面に薄い被膜を作るようになる。
こうなると……まぁ、率直に言って飲むのが不安な見た目になるだろう。
だが、紅茶大好きな英国人はこれも解決する手段を編み出した。
この被膜はミルクを入れることで消すことができる……よって、大量の茶葉とミルクで抽出し、
不足する味わいと強いクセを贅沢に砂糖を使って甘めにすることで解決した飲料が登場する。
つまり、ミルクティーの誕生だ。このように硬水を使っても、飲めない紅茶ができないわけではない。
そして、ここまで挙げたのは19世紀頃までの話。今はそう、21世紀。時代は進歩している。
イギリスの茶屋も苦慮し、硬水で美味しく飲めるブレンドの紅茶も存在している…というより、
今のイギリスで手に入る茶葉は概ねそれを前提としていると思っても良いだろう。
無論、硬水で抽出することを念頭に置いたそれは、軟水で抽出すると繊細なバランスが壊れてしまう。
故に輸入茶葉を使用する場合、硬水を使うことも十分に選択肢に入り得るということである。
◆
「話が長い!」
クッションをバンバンと叩き、ルピナス・カートライト=ルピノは騒いだ。
ホコリが舞い、ピスティス・ソフィアはしかめっ面をしながらティーカップに余っていたソーサーで蓋をしてやる。
「私は今すぐ美味しい紅茶が飲みたいの! 校長先生みたいな長話とか御役御免!!」
「さいですか」
ご主人様に心のなかで罵詈雑言を毒付きながら、ソフィアは湯気を立てているティーポットを手に取る。
ガラス製のティーポットの中では茶葉が上へ下へと動いているのが見て取れた───美味しい紅茶が出ている証明、「ジャンピング」である。
そしてポットの蓋を開けティースプーンでひと混ぜすると、
2人分のティーカップに空気を含ませるようにしながら注ぎ込んでいく。
基本的に紅茶は使い切るのがポイントだ。
特に、ポットから出る最後の一滴……茶葉の旨味が濃縮された「ベスト・ドロップ」は確実に出しておかねばならない。
「お待たせしました、ご主人様」
ソフィアは巨乳を揺らし、ルゥの前に優しい手付きで紅茶を差し出す。
ルゥは躊躇いなく角砂糖を数個溶かし入れ、優雅な手付きでそれを口にした。
「………美味しい」
思わず、そんな声が口から溢れる。
「驚きました、こんなに美味しい紅茶があったなんて」
「当然です。私が淹れたのですから」
胸を跳ねるように張って(ルゥは若干イラッとした)、ソフィアは鼻高々に告げる。
だが、すぐにソフィアの顔が曇る。
「私は弟に比べればまだ未熟でした。……いえ、母の淹れたあの茶を、私は再現しきれたとは言えません」
そして、ソフィアは想う。
弟のことを。そして、養子である自分にも、教会についても一から十まで教えてくれた、あの優しい義母のことを。
父から受けた「愛情」は歪んでいて苦手だったが、母から受けた「愛情」は素晴らしいものであった。
母と兄弟2人の3人で日常的に嗜んでいたティータイムのことを思い浮かべ、ソフィアは郷愁にかられる。
「ルゥのところから離れたい?」
その声で我に返り、ソフィアは自らの主を見やる。
ルゥが満面の悪意(えがお)に満ちた表情で自らの巨乳メイドを眺めていた。
「そんな訳はありようもございません」
ソフィアは慌てず、冷静に否定する。
「この身は『狼』に誓った身。この魂、この身命はご主人様のために」
「ふぅん。つまらないの」
そしてルゥはずずずと甘口となった紅茶をひと啜り、ぼふっとクッションに大きく身を任せる。
「でも拾ってやった甲斐はあったようね。また、この紅茶を淹れなさい」
「喜んで」ソフィアはお辞儀しながら答える。
そう、今の自分にとってルピナス・カートライト=ルピノとは家族のようなものだ。
嘗てのソフィア・エスター・フィッツサイモン……現在のピスティス・ソフィアはゆっくり目を閉じる。
……とりあえず、紅茶は気に入ってもらえたようで何よりだ。
次は茶菓子として、サンドイッチとスコーンに手を付けてみようか……?
《ティータイムと弟の記憶》 Fin