交錯する螺旋番外-物語(とき)を紡げ、天駆ける星-

Last-modified: 2018-12-15 (土) 13:33:46
 
 

 ――から、からりと。
 乾いた鐘の音が、どこか寂しく谺する。

 

 それは木漏れ日の彩る喫茶店である。
 昼を前にする店内は俄に賑わいを見せ始め、
 先程に鳴った鐘の音も、忙しなくその報せを届けていた。

 

 まばらにして日の光が差し込む店内の照明は控え目に、
 外食店特有の香ばしい匂いと、珈琲豆の挽かれた芳香が甘味を含んで良く香る。
 整然と並べられたテーブルは、開放的でありながらも寂しくならないような絶妙の配置。
 一つ一つは平凡と言えるが、それ故に調和された落ち着きをその店内に投げかけている。

 

 今の世と在っては特に代わり映えもしない、どこにでもあるような喫茶店の内でしかし。
 一際に目を引かれるのが、溶け込むような柔和の少年と、対になるような浮き彫りの男である。

 

 丁度、日の当たらぬ場所。
 淡い照明が木目調を煌めかせる隅の席の二つ。
 良く磨かれたテーブルを挟んで、その少年と男は他愛もない談笑を交わしていた。

 

 空を震わす音律は一つの音楽のようでありながら、
 その内容はいつかのどこかにも語られているようなありきたりの会話。
 アナンシ、と男は少年をそう呼んで。 カール、と少年は男をそう呼んだ。
 時折に流れるどこか浮世離れしたそれが、お互いの名前であるに違いはなかった。

 

「そんでそんでねー? 僕が楽しみにしてたゲームまぁた延期してー」

 

 アナンシ。 黄金色を揺らす彼。
 今に流される子供のような格好をした柔和の少年。
 あるいは少女と、そう言い換えても良いくらいには外見よりの性差はつかない。
 あらゆるが混ざったその果てに、お互いの特徴を忘れてしまったかのような中性のカタチ。
 いっそ神々しいとも言える柔らかな様も、その結果であるのかもしれない。
 
「来年の8月以降ですか……。 ああ、それはお気の毒に……」

 

 カール。 カール・クラフト。
 烏羽色を影に揺らす、陰鬱を描いたような浮き彫りの男。
 漂わせる雰囲気はどこか浮いていて、不透明に仄暗い胡乱さに満ちている。
 対面の少年とは真逆のように見えてしかし、この二人が揃えば不思議と日常に溶け込んだ。

 

 お互いが、気の置ける友人と会話をしているかのようであった。
 少年の黄金色が陽の煌めきを流して。 男の烏羽色が黒漆に揺らいで蠢く。
 対照的であると言える光景は、日常の最中に度々と現れる絵画のような美しさを思い起こさせる。

 

「……む」

 

 そんな美しきを裂くようにして鳴った、一つの電子音。
 活気付きながらも未だ閑散とした場にそぐわぬ機械的なそれは、今やに男が取り出した携帯機器より響いているようである。
 視線がいちどきに彼らへと集まれば、黄金色の少年は苦笑を浮かべながら頭を下げつつ、烏羽色の彼を叱咤する。
 珍しいとはいえ、そんな喧騒もまた、ありふれた日常の一幕に過ぎなかった。

 

 ――しかしてそれは、現実の方が虚構をなぞるように。
 電子音のその先。 彼方よりの声。 遥か遠縁からの報せが。
 日常を打ち砕く変革を、あるいは凶兆を告げる喇叭の音色に等しくなければ。

 

「はい。 こちらメルクリウス……」
『た、大変です! 大変です大参謀殿!!』
「どうしたんですか? そんなに慌てて」
「も、申し上げます! ブリテン島にて、"奴"に動きが発生しましたぁ!!」
「――なに!?」

 

 ガタリ、と動揺を多分に含む音。
 それに加わる一際に大きな硬質の短音は、彼が思わずとその携帯機器を落とした音か。
 焦りを知らないような彼だった。 戸惑いを分からぬような烏羽色であった。
 それが今や、その余裕を崩されたかのようにして驚愕を色濃く顔と声とに張り付かせている。

 

「ど、どうしたのカール!?」

 

 付き合いの長い少年の驚きは一入であったろう。
 およそ、そんな有様を初めて見たかのようだった。
 再び視線を集めていることにすら気を向けられずに彼を見て――更に、異変。

 

「フッ……ハハッ……ハッハッハッハッハ……!
 未知が……此処にも……! ハハッ! ハハハハハハ!!」
「か、かーる……?」

 

 空を掴んでいた左手が顔を覆い、喉の震えは呵呵とした大笑に変わった。
 驚愕より急転した歓喜と興奮。 人目も憚らずここでないどこかを視て嗤っているその様は狂気にも似る。
 永久に続くかと思われたそれはしかし、電子に掠れた遥かの声によって急遽に転落を見せた。

 

『い、如何なさいましょうか!』
「同行の監視と――あぁ、“何故動き出したか”の原因究明を、早急に」
「は、はい! 了解しました!!」
「……はぁ。
 なぁんだ、やっぱいつものカールじゃん」

 

 沈着に、冷静に。 けれどどこかに反する感情を湛えているような。
 少年がよく知っている、先程の日常と変わらぬ烏羽色の彼。
 どこか浮いていて、どこか不気味で、不透明に胡乱な男。
 日常という平穏と乖離しながらもしかし、それに溶け込んだ影色の姿こそが何時もの彼であると、少年は息を付いた。

 

「……あ」

 

 そうして漸くに、自分たちが視線を集めていることに気づく。
 先程とは打って変わった困惑と好奇に満ちた瞳の数多。
 乾いた笑いを浮かべながら、どうしようかと周りを見渡して――はたと、視線を止める。

 

「――」

 

 ――赤い少女だった。 陽だまりの少女であった。
 太陽のように鮮烈ではなくて。 月のように静やかではないけれど。
 夜空に浮かんで、見る人に夢を見せてくれるような――そんな、星の少女だった。

 

 栗色の髪が陽光を受けて仄明るく、
 第一印象である赤色は温もりに満ちた暖色となって彼女を飾っている。
 非現実的な装いはしかし、その少女が着れば不思議にすとんと日常へ落ちるのだった。
 未だ幼さを残す顔が困惑を浮かばせ、これまた赤色の瞳が心配の揺らぎを少年と男とに投げかけている。

 

 直感に似て、一目惚れに遠い。
 背筋に走ったそれが、自身と似たものに対する共感の痺れであることを少年は知った。
 古く懐かしい図書のように香るそれは、紙魚の、インクの、本の――物語の匂い。
 人は自らと似たものに好感を抱くという。 少年のように、人でないものであってもそれは変わらないようであった。

 

 困惑と好奇が混在する中に在って、
 唯一とも言えた心配を覗かせる双眸を、少年は興味深くに見つめ返す。
 怪訝が入り混じっていくそれを見て、あぁ、自らは笑っていたか、と今更に少年は綻びに揺れた。

 

「――くふ。
 あぁ、ごめんねぇ、ウチの奴がメーワクかけちゃってさ。
 まぁ、その……たまにある病気のようなものだと思ってくれたらありがたいんだけど」
「は、はぁ……ええ、と、その。
 ……大丈夫、なんですか……?」
「ふふ、心配ありがとう。
 いやぁ、最初僕もビックリしちゃったんだけどねぇ。
 何かもーいつもの感じに戻ってるし、大丈夫なんじゃないかなぁ。 ね、どうなのさ、カール?」
「ふむ……そうですね」

 

 少年がその影色に話しかけて漸く。
 男の視線がこちらを刺している事に少女は気づいた。
 その姿を瞳に収めていたはずなのに。どこまでも不透明でありながら、不自然なまでに透明な所作。
 少女が思わず後退る。 警戒と、僅かながらの怯えを少年は赤い瞳に見た。

 

「そう警戒しないでくれたまえ……と、言いたいところであるが。
 先程の醜態を見られていては仕方がない、か。
 ……しかし、病気とは悪意を感じる表現です。 訂正を要求しますよ、アナンシ」
「えぇー? どうみても病気っていうか、思春期にかかるアレっていうか。
 “機関が遂に動き出したか……”的な感じだったよねぇ。
               ・・・・・・・・
 君もそう思うだろ? ねぇ――ストリードちゃん?」
「え、あ、ええと……。
 ……。
 …………。
 ……え……?」

 

 覗く赤色に驚きの混色。
 それを見て、目を眩ますような黄金色の少年は笑みを深めた。
 茶目っ気をたっぷりに。 純粋さ故の悍ましさを多分に含みながら。
 巣にかかった獲物を絡め取ろうとする“蜘蛛”のように、言の葉を並び立てていく。

 

「――『ストリード・ミトリカル・ブーリテレク』。
 そういう名前だろう? 言の葉の魔女。 語り部の君」
「な――ど、どうして」
「わからない?」

 

 くるりと、幼子がするように身を一つ。
 中性のカタチを見せびらかすようにして、子供のようなあどけなさで回るように揺蕩う。
 微笑ましい光景だと言うものもいるだろう。 けれど、少女にはそれが超越者の嘲笑に見えてならない。
 ――それなのに。 少年は自身を少女と同じであると謳うのだ。

 

「そう、僕は君と同じ。
 文章に揺蕩って、行間に泳ぐ語り部の蜘蛛。
 名乗り上げるとするのならば、僕こそは物語の――」
「――アナンシ」

 

 かつりと一つ、鋭く机を叩く音。
 高らかに謳われる少年の声を拉ぐようにして放たれた咎めの言葉。
 その机を挟んで交わされていた響きとは打って変わった、酷く重苦しい名前の音律。
 打ち付けるようなそれにすら、少年は笑って答えた。 楽しそうに、愉しそうに、嗤って。

 

「――くふ。 そうだね、きっとまだ早い。
 物語を白けさせてしまうようなことなんて、とてもではないが僕にはできないとも。
 うん、こういう時は、そう――『今は、語るべき時ではない』。 とでも言えばいいかな?」
「……」
「けれど、それでも、さ。 カール。
 この邂逅は言わば秩序を錐穿つ白兎の巣穴。
 空白に進む幻想の時間につかの間僕たちは落ち始めてしまったのさ。
 あぁ――ならば。 僕は闇夜に満ちる今にこそ幕開けを言祝がなければならない。
 ――カール、極視の君よ。 いつまでも観客気分じゃあいけない。 君は既に役者として舞台に取り込まれた」

 

 そう、巫山戯るような笑みにすら、真剣さを滲ませて。
 大仰に、芝居じみて語られる声は男とも女とも聞こえる中性のアルト。
 朗々に響き渡るそれは正しく観客を前にした役者のそれであり、
 薄くしかし底のない微笑みに付随するゆったりとした身振りと手振りは、
 観客席に座っていた烏羽色の男に、舞台の楽しさを知ってもらおうと手を伸ばす様を幻視させた。

 

「――それとも。
 釈迦に説法というやつだったかな、カール?」
「いえ。
 ……縁、ですか?」
「因縁と。 そう言い換えてもいいかもしれないね。
 似ているようで、けれどほんの少し違う。
 胡蝶の羽ばたきは万華鏡の如くに、些細を広大に変え得るものだ。
 この僕こそがそれを保証するとも。 さて――漸くに、役者は揃ったようだ」

 

「――どうか、しましたか」

 

 幻影を断ち切るようにして振り下ろされたのは冷然の低音域。
 およそ、感情を感じさせない声だった。
 合理にも似た、平坦さに満ちた氷の声であった。
 ――それに含まれた、仄かな暖かさは。 少女にしか、聞こえてはいないようだった。

 

「あ、ふ、フラウスさん……」
「……申し訳ありません。 遅れました」

 

 黄金色の少年とも烏羽色の男とも打って変わった、朴訥の青年だった。
 赤色に飾られてないというのに、少女と並び立つと何故か、それを思い起こさせる氷の青年であった。
 少女を見つめるその顔は、先程の声と同じく感情の見られない静謐の色。
 まるで感情の表し方を、表情の動かし方を忘れてしまっていたかのような伽藍の名残。
 鋭利を見せる銀色の髪に、印象と違わぬ蒼氷色の瞳。 精悍に小さく残す幼さは、成長してゆく過程に見られる特有の残滓であったか。
 作られたかのような端正さはしかし、その冷たさを増長させているようですらある。

 

「そんなことは……あ、いえ、でも」
「大丈夫ですよ」

 

 青年は、何も浮かべなかった。
 口だけが言の葉を紡ぎ出し、その声音すら掠れた平坦さに満ちる。
 合理の氷。 機能だけを残した冷徹の雪月花。 人らしい熱を感じられない、白色の凍て空。
 少年と男が対照的なように。 陽だまりの少女と冷然の青年は、どこまでも対照的な交差を引く。

 

 ――まるで、物語に出てくるような魔女と、その騎士。
 どこまでも対比を重ねているからこそ、どこまでも分かち合う心の二つ。
 故にか動かぬと見える青年の、ほんの僅かな微笑みを瞳に映したのは。
 声音に含まれた仄かの温もりのように。 表情に湛えられた遠くも確かな熱を感じられたのは。
 分かち合う心の片方である、赤き陽だまりの少女だけだった。

 

「あ……」

 

 見惚れていた陽が名残を零して、
 氷は視線を鋭く少年と男に投げかけた。
 少女にしかわからぬ熱は最早に消え、彼女を庇うように立ちはだかるは凍てつく銀色の冷然。

 

 言の葉の魔女と氷の騎士。
 方やにして物語の王と極視の氷獄天。
 黄金色の少年は、その様を変わらぬ笑みを以て見つめている。
 そして、男は――。

 

「……なるほど。 ヘルト・クリーガーか」
「――……」

 

 かつ、かつり。
 鋭く机を叩く音が、一つ、二つ。
 諦観の冷徹を軸に、達観の虚空を多分に含みながら。
 見定めた獲物を丸ごとに飲み込もうとする“蛇”のように、言の葉を積み立てていく。

 

「人造英霊兵団。 第三帝国が実現させ得る魔導兵器。
 私の知っているそれは生体部品を用いて霊核を仮想的に再現した継ぎ接ぎの怪物が如き代物であったが。
 君のそれは違うな。 ホムンクルス、フラスコの小人。 霊核の再現に白紙の紙を用意したか。
 それならば確かに。 英霊という色彩も、その魂に嘸や描きやすいだろう」

 

 かつ、かつ、かつり。
 鋭く机を叩く音が、一つ、二つ、三つ。
 それと同じように訥々と語られる言の葉が、正鵠を射るように開陳されてゆく。
 推理にも似たそれはしかし、ただの答え合わせに過ぎぬと言うように。
 虚空が男の黒漆に零れ落ちては溶け込んで、その陰影を一層に富ましては蠢くように悶え震える。

 

「最も――私の記憶にある限りでは。
               ・・・・・・・
 そこまでに至った第三帝国は、視たことがない」
「……貴方は、一体」

 

 最早、机を叩く音は響かず。
 代わりにように鳴らされた立ち上がりの衣擦れが、所要の終わったことを言外に告げた。

 

「――事態はおよそ理解した。
 縁というものは。 因縁というものは、どこまで行こうとも私を縛り付けるらしい。
 ……この、沸き立つ未知の最中に在ってさえ。
 君も、そうは思わないかね。 第三帝国の遺産、名も知らぬ人造英霊よ」
「……フラウスです。 フラウス・ドレッセル」
「フラウス(明るき)・ドレッセル(騎士)か。 良い名を付けるものだ」

 

 そうして男は、初めて青年の方を向いた。
 視線ではなくその心。 混沌にも似る影色が青年を包んで離さない。
 それは些細な気まぐれか。 この縁に対する、この因縁に対する小さな興味か。
 あるいは――酷く薄い、相身互いをその身の上に見たか。
 夜闇を嘯く黒暗淵の男は、月のような冷然の青年に借問を囁いた。

 

 ――その氷に、何かを求めるようにして。

 

「貴方は。
 ……オレと、似ています」
「ほう」
「貴方の思考には熱がない。
 まるで全てを視てきたかのように。 目の前のことを、俯瞰した風景のように感慨もなく見つめている。
 ……合理にも似た、氷のような。 それでも――例外というものは、あるのかもしれないですが」

 

 青年の右手が帽子を被り直すようにして空を切る。
 まるで人間のようにも見える細やかな癖の一つ、その下で。
 氷の瞳が男を見ていた。 氷柱の視線が男を貫いていた。
 睨むにも似た眦の決し。 陽を流す銀色が、鋭く穿つ蒼氷色が。
 凍てついているのにも関わらず焼け付くような言の葉が、男の韜晦を糺すべくに放たれる。

 

 ――その影に、何かを見出そうとして。

 

「……未知、と貴方は言いましたね。
 それが貴方の心の熱なんでしょう。 それを持っている分、昔のオレよりは遥かにマシだ。
 ……けれど、それは陽だまりのような暖かさじゃない。 ――全てを焼く、黒い太陽だ」
「くっく。
 中々に言い当てられてるんじゃないかな、カール?」
「……」

 

 男は、何も浮かべなかった。
 どこまでも仄暗く、どこまでも不透明で、不愉快に胡乱な烏羽色。
 静謐に在る影であってすら、男のモノと在っては隠然に蠢く不気味な影絵そのものだった。
 暴き立てる銀色を。穿ち貫く蒼氷色を。 焼け付くような青年の言葉にすら。 その黒色は受け止めてなおも揺らがない。
 祈りも届かぬ深淵の無間。 定形なき虚ろの曠空き。 底のない――夜の、帳。

 

「――『かつてあったことは、これからもあり、
 かつて起こったことは、これからも起こる。 太陽の下、新しいものは何ひとつない』。
 これが縁だと言うのなら。 きっとこれからも君たちと関わるだろう。
 これが因縁だと言うのなら。 地獄の機械が如きそれは、どこまでも私たちを関わらせるだろう」

 

 最早、質量すら帯び始めるかという鬱屈の中。
 語られた言の葉は、男が発しながらも男のものではなかった。
 それを引用すること自体、男にとってはある種の皮肉のようなもので。
 だからこそ、虚偽に満ちた男から出た唯の真なのかもしれなかった。

 

「最後に一つ聞いておきたい。
 君にとって。 かつてきっと英霊という色彩に塗りつぶされたホムンクルスにとって。
 嵐の中、時を奪うような雨と風の最中に在った孤独の氷にとって。
 その娘は――どういった存在かね」
「……決まっています」

 

 それを聞きたくて。
 烏羽色の男は青年の何かを求めようとしたのかもしれなかった。

 

 それを胸に秘めて。
 氷の青年は男の何かを見出そうとしたのかもしれなかった。

 

「――オレの、一番大切な人だ」

 

 迷いもなければ、それは揺らぎすらなく。
 決意が如くに紡がれた言の葉は、最早にして氷を解かすに足る熱量を以て響いた。
 凍てついた分厚い氷塊の裡に隠されていたのは、暗闇を照らす温もりの焔火。
 今やにそれは少女だけでなく少年にも男にも伝わるほどに周囲を焦がして。
 少年は、背後に守られていた少女の顔が朱に染まるのを見逃さず。 男は、そんな光景を見て――。

 

「……そうか」

 

 ――虚空に堕ちる、一言を零した。

 

 かつての輝きを、男は見たのかもしれない。
 そしてそれでも、既に過ぎ去った過去という名の影であると、男は諦観したのかもしれない。
 眩しいものを見るようにして目を細め、そのまま瞳を閉じて。
 刹那の静寂にどんな想いが馳せられたのかは、誰にもわからない。
 瞼が開けられた時にはもう、光彩を絶つ韜晦に覆われて。 感情の色すら、見ることは叶わなかった。

 

「『神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる』。
 精々、大切を取り零さぬよう守り通すといい。 フラウス・ドレッセル」
「……」
「行きましょう、アナンシ。 きっと忙しくなる」
「――くふ。 あぁ、そうだねぇ。
 ……じゃあ、またね。 ストリードちゃん」

 

 用は済んだと告げるようにして、烏羽色の男は背を向けた。
 名残惜しくも別れを告げるようにして、黄金色の少年は手を振った。
 決裂にも近く、しかれど縁は別れた今にあっても続いているのだと。
 から、からりと鳴る鐘の音が、どこか淡い幻想のように谺して。
 一時の邂逅は、一先ずの終わりに朧と溶けていった。

 

 ――静謐の嵐は過ぎ去った。
 閑やかに見えたそれはしかし、地に確かな傷跡を残して彼方へと消えて。
 人々は離散し、残された二人は次なるそれの予感に思いを抱えて沈思する。
 二人の間に蟠る仄暗い感情。 それの含まれた沈黙は、苦にならぬはずのそれに重苦しさを強いていた。
 溢れそうになっているその暗雲が、言葉一つで決壊してしまうのではないかと、躊躇の逡巡が交差する。

 

「……あの。
 フラウス……さん」

 

 やはり、と言うべきか。
 暗雲を晴らしたのは、少女の声であった。
 透明色とも言える透き通ったソプラノ。 鈴を転がすかのようなそれが断絶を埋めるように響いて、
 手を伸ばすように、意思を届けるように、蟠る影色を払ってゆく。

 

 迷いを見せる言の葉には、しかし強い意思が秘められていた。
 青年を見つめる赤い瞳。 物を言うそれに則るのならば、それは決意の表れか。
 暗闇の中でなおも輝こうとする星の光。 青年が見てきた、彼女の輝きそのもの。

 

「……わかっています。
 貴方は、きっとそうするだろうと」

 

 予想はついていたと言うように、青年はそう告げた。
 少女がこういう時にどうしようとするのか。 それに救われた青年だからこそ、何よりもと。

 

「はっきりと……事態を理解できているわけではありません。
 けれど、間違いなく危険なことが起こっているということは、わかります。
 今までと同じくらいか……あるいは、それを超えるくらいの危難が満ちているのかもしれない。
 ……正直に、言えば。 オレは……貴方には、そんなことに関わってほしくはない」

 

 だからこそ、言わなければならなかった。
 その輝きを見てきたからこそ。 その手に救われてきたからこそ。
 少しずつ染み込んでいったそれを朽ちさせることは、少女であるからこそ、できない。

 

「人の命というものは、あっさりと失われてしまうものです。
 たとえ強くても、弱くても。 今のオレはそれを知っています。
 ……いえ。 それ以上に惨いことなんて、幾らでもあるでしょう。
 そんな凄惨が、貴方のその身に、その心に向かわないなんて保証はどこにもない」

 

 青年の胸に巣食う仄暗い感情の名を、不安という。

 

 自らの手を取ってくれた少女にしかし。
 先程の男の熱が太陽のように見えたからこそ。
 少女のそれが、少女自身を焼いてしまうのではないかと恐れを湛えて。
 青年は氷を込めて、否定の冷然を陽だまりに向ける。

 

 ――この時だけは。
 目の前の少女が折れてほしいと、青年は切に願った。

 

「……これまでも。
 危ない場面は何度もあった。
 紙一重で、貴方に深刻が及びそうなこともあれば。
 もしかしたら、貴方の尊厳が汚されてしまうようなことだって。
 だから、今までは――運が良かっただけだ」
「それ、は……」
「……貴方の――」

 

 思わず、青年の口が噤まれた。
 それを言ってしまうことは。 目の前の大切に傷を付ける行為であると、青年のどこかが訴えている。
 血が出るほどに拳を握りしめ、砕ける程に歯を食いしばる。 それ以上に軋む部分を、青年は氷で覆い隠した。
 表面上の薄い、薄い感情の変化は、誰にもわからない。

 

「……貴方の優しさが踏み躙られなかったのは、本当にそれだけだ。
 今までのように、今度もなんて考えは捨てるべきです。
 ……大切な人がいるでしょう。 家族だって、貴方にはいる」
「っ……」
「貴方が助けた人が、そうすることだってあり得る。
 悪意があろうとなかろうと。 そうする、そう出来る人たちを……かつてのオレは見ています。
 ……だからもう、止めにすべきだ。 貴方の優しさは、貴方をきっと傷付ける」

 

 青年にとって少女が大切であるように。
 少女にとっても、青年は大事な人だった。
 だから、それを受け止めた時の少女の心は如何ほどだったろう。
 その冷たさに震えただろうか。 支えだと思っていた青年に裏切られたと傷ついただろうか。

 

「……ごめん、なさい」

 

 謝りの言葉は、柔らかくけれど拒絶の意思を示した。
 震えたわけでも、傷ついたわけでもなければ、青年の冷然に怯えたわけでもない。
 きっと優しさを含んでいるのだと知って。 けれどそれを撥ね付けなければならないことが、少女には何よりも心苦しくて痛かった。
 俯かれた顔は、せめてそれを青年には見せぬようにとする健気だっただろうか。

 

「何かが起こっているのだとしたら。
 きっと困っている人がいると思います。
 きっと理不尽に嘆く人がいると思います。
 ――きっと。 救いを求める人が、いると思うんです」
「……」
「怖くないってわけでは、ないんです。
 怖いです。 すごく。 今にも、震えてしまいそうなくらい。
 今にも……泣いて、しまいそうなくらい」

 

 机の置かれた小さな手はか細く握られている。
 今にもと言ったけれど。 それでも震えていたのかもしれない。
 今にもと言ったけれど。 それでも泣いていたのかもしれない。

 

 その表情は――栗色の髪に隠されて、見ることは叶わない。

 

「それが、当たり前なのかもしれません。
 目を閉じれば、色んな光景が、幾つも浮かび上がってきて……。
 今までのこととか、これからのこととか。
 ほんの小さなことだったり、輝くような思い出だったり。
 服の色だとか、料理の香りだとか、些細な予定なんかも含んで。
 ……貴方と過ごしてきた日々や、貴方と過ごしていく未来だって、その一つなんです」

 

 少女が言った言葉の通りに、それは当たり前の感情であるに違いない。
 今を生きる人間のありふれた恐怖であり、だからこそ、それは何よりも人の心を強く苛むものだと。
 ――青年が忘れていたものの一つ。 凍てついていて動かなかった、恐怖という名の鼓動を、少女は言葉で表そうとする。

 

「未練だとか、心残りだとか。
 言葉にするには少し、曖昧すぎて。
 けれど、それがあるからこそ終わりたくないと願う。
 平穏な日常が変わってしまうことを、怖いと、思ってしまって。
 ……もっと、貴方と話したいと思うのに。 物語を書いたり、手紙を送ったり。 服に悩んだり、家事を教えたり。
 ……ふふ、やっぱり、言葉にするのは難しいです。 笑っちゃいますよね、言霊使いだっていうのに」
「そんな、ことは……」
「……。
 ……ただ。 ただ、それはきっと……」
「……」
「怖くて……寂しいものなんだと、私は思うんです」
「……なら」
「あ……」

 

 その痛みを、青年はもう知っていて。
 その辛さを、青年は既に分かっていた。
 だから、それから守るように。 だから、それを和らげるようにと。
 少女の手に添えられた青年のそれは冷たさにも満ちて、
 けれど少女にとっては何よりも優しい温もりを湛えた手であったことは、思わず顔を上げてしまった所作に見て取れた。

 

 氷のような視線は真っ直ぐと。
 腫らされたそれを。 赤くなった悲痛を、青年は確かに見て。
 手の中に在る小さな温度を逃さぬよう、強く握りしめる。 祈りにも似て、願うようにも見えた。

 

「なら、ここで止まっても良いはずです。
 たとえ立ち止まってしまっても、誰も責めません。
 ……オレが、貴方を責めさせません」
「フラウス、さん」
「貴方は……!
 ……十分に、頑張ってきたはずです。
 その全てを知っているとはいいませんが、慕われている貴方を見れば、オレにだってわかります。
 だから……だからもう、貴方が頑張らなくても」
「……はい。 その通りであるのかも、しれません」

 

 青年の言葉に少女が相好を崩し、柔らかな微笑みが悲痛に濡れた顔に咲く。
 握られた手を包み込み、慈しむように頬ずりを一つすれば、青年のそれが怯えるように震えを見せた。
 不安という名の強張りを梳かすように、固い氷のような指を一本一本と、滑らかな細きが丁寧にほどいてゆく。
 少女と比べて一回りも二回りも大きな、戦いの痕が残る手のひら。 それを、柔らかい白磁がゆっくりと撫でる。
 祈るように、願うように。 戦うために作られた彼に残る傷を。 そのまま、彼の人生にも等しいそれを、なぞってゆく。

 

 小さな手は、それでも大きな手を包み込むようにして。
 か細い指は、それでも暖かさを分け与えるように絡み合う。
 くすぐるように、擦り付くように。 成すがまま、成されるがままに。

 

「……」

 

 伏せられた赤い瞳は僅かの透明色に揺れている。
 眉は緩やかに弧を描き、僅かに濡れて艶と流れる唇が、淡い微笑みを形作っていた。
 嫋やかに揺らめく栗色は、陽の光を受けて金糸に煌めき、少女に華やかを彩っている。
 そんな光景に、呆然の最中にある青年はどうしてか――騒ぎ立てる鼓動を、抑えることができない。
 どうか、それがこの手より伝わらないようにと祈りながら。 赤色の虹彩は、それに気づかぬように机の上の曖昧なカタチを見つめている。

 

 少女の方が、それを小さく握ってみれば。
 青年の方も、戸惑うようにおずと握り返した。
 こそばゆいようなそれに、赤い瞳が嬉しそうに細められる。
 青年の裡に沈んでいる、不器用な優しさを確かめるように。 指の一つ一つが絡まって、手の二つが織り合わされて。
 拙く、いっそいじらしいほどに。 甘いようなくすぐったさを、溶け合うような心地よさを分かち合う。

 

「……」

 

 言葉にもできぬ、曖昧のカタチ。
 それを何かと形容してしまえば、きっと壊れてしまうだろうと、どちらもが分かっていた。
 些細な一つ、言葉の一つ、声の一つ。 ただのそれだけで、この時間が崩れてしまいそうだから。
 ゆっくりと。 音もなければ声もなく。 寄り添うように触れて、抱きしめるように絡め合う。

 

 ――いつまで、そうしていただろう。
 数秒とも、数分とも。 数時間とも感じたそれがもう少しで終わってしまうことを、少女と青年は予感して。
 せめて、忘れないようにしようと。 この静かな時間を、ずっと胸に仕舞っておこうと。 どちらもの想いが交差した。

 

「……ぁ」

 

 小さな、ほんの小さな名残は、果たしてどちらが零したか。

 

 泣くように、痛みが走れば。
 涙のように、切なさが溢れる。
 そして、それが零れ落ちるようにして――縺れ合っていた手は、一つと一つに離れていった。

 

 蕩け合うようで、けれどどこまでも分かつ冷熱の差異。
 それを、寂しさと言い表すには、あまりにも哀しかった。

 

 ――少女が、言の葉を紡ぐ。
 沈み込むように響く透明色のソプラノ。 紡がれたそれが、夢の終わり。
 薄氷のような時間は。 それだけで砕け散った。

 

「私が泣いても、世界は美しくて。
 ……私が死んでも。 日はまた登って沈むのでしょう。
 けれど――そうなってしまったら。
 フラウスさんの見る世界は、変わってしまいます……よね」
「……」

 

 それを想像してしまうのが、青年には怖かった。
 掴んだ手の小ささが。 絡み合った指の細さが。 少女の――その、微笑みの儚さが。
 青年の心を何よりも掴んで放さない。 それを考えてしまう度に、感情は千々に乱れ飛ぶ。
 薄氷の破片が、ジレンマとなって鼓動に刺さった。

 

 少女の強さを、青年は知っている。
 少女の弱さを、青年は恐れてしまった。
 それまでは見落としてしまっていて、少女と過ごして気づいたことであった。

 

 強く、大きく見えていた。
 いつも、困難に立ち向かう彼女は太陽のように。
 いつも、手を差し伸べようとする様は月のように。
 そのどちらもが本当で、けれど目の前にいる少女はそれよりも遥かに小さい。

 

 十六を数える歳に比べてその背は小さく、それについて悩んでいた姿を青年は覚えている。
 柔らかな曲線を描く華奢は、同時に脆さも内包しているようだった。
 今、こうして。 恐怖している自身のように、怯えている小さな彼女もまた本当なのだろうと。
 ずっと強い人間はいないのだという当たり前に、当たり前を知らなかった青年は恐怖した。

 

 大切なものの脆さ。
 恐怖にも似て、焦燥にも近いそれが。
 少女で言うところの未練や心残り――青年にとっての楔であるのかもしれなかった。

 

「――それでも」

 

 それを、打ち砕くようにして響いたのは。
 あまりにも力強い、魔法のように輝く言葉。
 御伽噺のようなそれが、彼女が積み上げてきた奇跡であったに違いない。

 

「私は、痛みを受け止める人でありたい。
 手を……差し伸ばす人で、ありたいんです」
「……」

 

 ――掴んでくれた手の温もりを、覚えている。

 

 それは痛みであったのかもしれない。
 蝋の翼を以て、陽の輝きへと向かって飛ぶように。
 出会いとは、どうしたって自分というものを差異によって浮き彫りにする。
 ホムンクルスの彼にとって、それは何も入っていない空の鞄にも等しかった。

 

 生きる理由がわからず、故に死への恐怖を解さない。
 普通の触れ方も知らず、自身が泣きそうになっていることに自ら何故を唱える。
 青年の氷は、そのように凍てついていた。

 

「私は皆を照らし続ける『太陽(ヒーロー)』のようにはなれないし、
 暗い夜闇を切り拓く『月(ヒロイン)』のようにもなれません。
 ……けれど、私は。
 見上げた人に、勇気を与えてあげられるような――そんな、『星』のようにありたい」

 

 ――流れ星のような言葉を、きっと忘れない。

 

 それは憧憬であったかもしれない。
 何も無いからこそ、輝かしく見えたものに手を伸ばす。
 ある者は、それを成長だと喜んだかもしれない。 ある者は、それを壊れゆく機械だと断じたかもしれない。
 失ってはいけないと庇って、潰さぬように抱きしめて、空であった鞄は次第に重くなってゆく。
 青年の氷は、そのように解けていって。

 

「世界を救う、なんて願いは大きくて。
 それでも私を突き動かしてきたのは、そんな星のような想いの一欠片なんです。
 それでも私が突き進んでいけたのは、その想いを、支える人たちがいたからです」

 

 ――どこまでも凍てついた氷の騎士は。
 どこまでも暖かな陽だまりの魔女に憧れたのだ。

 

「……これがきっと、曲げられない『私』です。
 だから、ごめんなさい。 私は、貴方の……フラウスさんの言葉を、聞いてあげられない」
「……はい」

 

 少女がそのような選択をすることを、青年はわかっていた。
 それが、青年の見てきた少女であったから。
 それが――青年の、暖かな陽だまりであったから。

 

「あれから……一年が経ちます」
「……」
「色んなことがありました。
 だから、色んなことを見ました。 だから、色んなことを学びました。
 ……貴方と、一緒に」

 

 だから、青年も答えねばならなかった。
 言葉は未だ拙く、感情は朧気にあろうとも。
 少女のようにそれでもと心の中で唱えれば、奮い立つものが湧いてくる気がした。

 

「空の青さを知った。
 世界が広く、大きいことも。
 物語というものが面白くて、心が踊るということも。
 料理というものが殊の外難しくて、奥が深いことも。
 些細なこと。 大きなこと。 気づいていなかったこと。 気づいていても、わかっていなかったこと。
 ……今まで、見落としてしまっていたものも」
「……」
「病める貝にのみ真珠は宿ると人は言う。
 失うことで、気づくこともあるのでしょう。
 けれど、失わなくともそれに気づけるのならば、それはきっと強さだと思います。
 ……オレは失いたくないから、その強さに少しでも近づきたい」
「それは……」
「……子供のような理屈です。
 相棒が聞けばきっと笑う。 えぇ、アダンだってきっと。
 けれど、そう。 貴方に習って言えば――それでも、です」
「あ……」
「貴方は強い。
 たとえこの場にオレがいなくとも、悩んだ末に立ち直っていたでしょう。
 立ち直って、困っている人を助けようとしたはずだ。
 ……そんな貴方を守れると言えるほど、オレはまだ強くない。
 だから――せめて。 二人一緒ならもっと強いということを、オレは証明したい」
「フラウス、さん……」
「貴方が星のように輝くのならば。
 オレは、それを支える『夜空』でいい。
 だから――どうか。 貴方には、笑っていてほしい」

 

 ――どうか、笑っていてほしい。
   貴方は、大切な人だから。

 

 同じ言葉を繰り返そう。
 それは、いつかの日に受け取った暖かさだった。
 青年は、その温もりを保ったままに少女へと返した。

 

 今までを顧眄すれば、駆け巡る色彩が青年にはある。
 様々な出会いが。 受け取ってきた言葉が。 魅せられた信念の数々が。
 人であっても。 そして英霊であっても。 そこには『彼ら』があったのだと。
 たとえ短い歩みであっても構わない。 受け取ってきたものは、未だこの裡に在る。

 

 気づいたこと、気づけたことを何度も反芻しながら。
 それに呑まれぬように、自分という熱を確立してゆく。
 示された道もあっただろう。 けれど、それをそのまま歩む必要はないのだと、支えてくれた相棒に教わった。

 

 肯定があり、否定があり、そのどちらでもない想いがあった。
 それがきっと、作られた体であろうとも持ち得た自らの意思であると。
 積み上がったそれが、今の自分に出せる精一杯であるのだと青年は信じた。

 

「悲しまないように、側に居ます。
 たとえ悲しんでしまっても、支えてあげられるように、ずっと。
 だから、貴方のその笑顔を……オレに、守らせてください」

 

 紡がれたそれは。
 そんな信念の、魂の、命で叫んだ誓いの言葉。
 少女の強さを信頼し、少女の弱さを支えるのだという、朴訥の青年らしいシンプルな答え。

 

「――……」

 

 驚きは果たして刹那であったか。
 青年が少女を見てきたように、少女もそんな青年を見てきた。
 それでもなお、気づけなかったその姿、その言葉、その信念に。

 

「男の子は。
 ……すぐに、成長しちゃいますね」

 

 彼には決して聞こえぬよう、そっと、小さく、噛み締めるように。
 嬉しいような、寂しいような。 それらが綯い交ぜとなったような。
 少女本人にもわからない、くしゃりとした気持ちが零れ落ちた。

 

「……ふふ。
 なら、お互いに頑張らなきゃ、ですね。
 ……ありがとうございます、フラウスさん」
「……いえ。
 オレも、ストリードさんに伝えたいことを……伝えられた気がします」
「……」
「……」
「と、とりあえず、帰りましょうか! フラウスさん!」
「そ、そうですね。 はい、では……」

 

 再びに、から、からりと谺するは鐘の音。
 気づけは陽は高くへと登り、雲の一つない晴天が地の人々を睥睨している。
 澄んだ空気が肌に刺さる感覚に、二人は冬を思い出した。

 

 帰路につくその足取りは、寒さに急ぐものではなく。
 ささやかな、愛おしい時間を。 少しでも延ばそうとするようにして、二人は穏やかに歩を進めていく。
 太陽の下、二人に投げかけられた影には。 ひっそりとして、けれど確かな繋がりが見て取れた。

 

 ――星空の誓いは此処に成った。
 静謐の嵐は傷跡を残したのかもしれない。
 しかしそれは、同時に暗雲を吹き飛ばす要因にもなる。
 それを見て、きっと人は手を繋ぎ合うのだろう。 星を見上げ、勇気を貰い、次の嵐に立ち向かえるように――。

 

 ・
 ・
 ・

 

 ――語りて曰く。
 それは世界の裏側にて存在する理想主義者たちの楽園。
 友愛を謳う石工結社の更に奥。 その最奥に潜む13席の魔人たちによる新世界の花園。
 『新世界秩序同盟O-13』とも、呼ばれるそれに。 アナンシと呼ばれた少年と、カールと呼ばれた男は席を置いていた。
 その佞智、その奸詐。 如何なる狂気を以て齎されるか。
 絶対的秩序の謳いは俄に水面を揺らさず、張られた根はのべつに幕なく蠢いている。

 

 ――語りて曰く。
 言の葉の魔女は星を謳い、氷解の騎士は夜空に誓う。
 堕落に到達する地平に少女は希望を語り、天冥に連なる子葉の七つを見て青年は空の鞄を自覚する。
 女神の謳う天征が悪窟を明津へと転生させる最中に少女の御伽噺が一つ、響き渡って。
 人間の叫ぶ新生が幻夢の境界を原初に作り変える最中に青年の想いが一つ、鳴り響く。
 虹彩に溺れる童話の幻想に言の葉の少女は別れを覚え、日の帰るような可能性の交差する街で氷の騎士は陽だまりに触れた。
 幾つも言葉を交わして。 何度も熱を分け合って。 その果てに、永久に語られゆく冬の驚異に立ち向かったのが、一年前。

 

 ――語りて、曰く。
 赤き少女と氷の青年は、『新世界秩序同盟O-13』という組織を知らなかった。
 黄金色の少年は少女に見た物語を知らず、烏羽色の男は青年に視た可能性を知らなかった。
 何故ならば。 最初から、お互いにそんなものなどありはしなかったのだから。

 

 それはきっと、致命的なかけ違い。
 全く違う本と本を引き裂いて、無理矢理に繋げたかのような綻びの交差。
 その最中に在って。 言の葉の魔女は星の光を綴り、物語の王は溶け合う神話に揺蕩いながら微笑む。
 第三帝国の遺産たる氷解の騎士は誓いを胸に、ライヒの亡霊たる極視の男は沸き立つ未知に歓喜する。
 それはあらゆるが綯い交ぜとなった攪拌する乳海の最中に点在する出会いの一つ。
 此よりに紡ぎ出されしは似たもの同士の共通交差路。 邂逅の先に待つ未だ来たらぬ未来という名の光の輝きは、誰も知らない。

 

 そうして、黄金色の少年が嘯いた。
 過去は影。 未来は光。 故ならば、現在とは融和する二つの夜明け。
 祈りを束ねて人は行く。 祈りを受け取って英雄は征く。 祈りに反して怪物は往く。

 

 幸なるかな。 聖なるかな。 邪なるかな。
 人はただ、祈るだけ? 英雄はただ、勝ち得るだけ? 怪物はただ、倒されるだけ?
 それはナイナイ! 人も英雄も怪物も。 いやさ此度は神すら含んで等しい御役。
 わたしくアナンシが語ります。 それらが織り成す極彩色を、どうか御覧くださいますよう。

 
 

 ――から、からりと。
 乾いた鐘の音が、どこか寂しく谺する。
 朧の余韻に響く舞台の上で、黄金色の少年が手を振った。

 

 『われら役者は 影法師、
  皆様がたの お目がもし
  お気に召さずば ただ夢を 見たと思って お許しを』

 

 泥のように微睡む影の中。
 誰かが見た夢を、貴方は見た。