アクリル樹脂が流し込まれたような部屋だ、と扉を開けた途端に思った。
部屋の中の調度が冷えて固まるにつれ倦怠を帯びて沈黙していく。
全てがそのままの姿を保ったままに時間を止めて眠りについた部屋。
そんな印象を受けるのも部屋の主がわざとこの部屋にそう振る舞わせているからかも知れない。
窓に厚いカーテンのかかった部屋は日中だというのに真っ暗だ。扉を開けたことでようやく灯りと空気の対流が起き、微睡んでいた闇が慌てふためいていた。
こんな時にいきなり電灯をつけると部屋の主は猛然と機嫌を悪くする。
そもそも電気の灯りというもの自体をあまり好んでいない節があり、日が沈みでもしない限りは室内灯のスイッチを入れたがらない人なのだ。
なので扉を開けたままにして慎重に部屋の中に歩みを進める。つま先立ちで抜き足、差し足。
古いフローリングなので微かにみしりと音が立つ。頑丈すぎるほど造りはよく出来た家なので、床が抜けるとかそういう不安はない。
では何故気をつけて歩まねばならぬかというと、そこかしこに荷物やら実験器具やら、光にはよく分からないものやらが配置されているからだ。
いっそ投げ出されている、散乱している、と言ってもいい。少なくとも本人はそのつもりは無いらしい。
口では「こんなことばかり出来ても」と自嘲う癖にマルチタスクで何事も片付けたがるのでこういうことになるのだ。
占星術由来のものと思しき、今この瞬間も砂時計が時を刻むと同時に表示されている星が遅々とした動きで変わっていく天体図。
以前所属していたという天体科で取り扱っていたものだろうか。部屋のかなりのスペースを占拠している。
では一方でごてごてと並べられたフラスコやらビーカーやらの山は最近齧りだしたという錬金術のものか。
鉱石科に移ることにして云々、と以前食事の席でぼやいていたがその産物らしい。
整理整頓が出来ないのではなく、した結果こうなっているというのがどうやら彼女の業であるらしかった。
ではその彼女が何処にいるのかというと―――いた。
あらゆる魔術に関する道具に占められた部屋において、最も隅っこに唯一人間の生活に纏わるものとして居座っているベッド。
周りに脱ぎ散らかされた女物の服にまず目が行き、次にベッドの上にこんもりと小山を作っているものに視線が吸い寄せられた。
下着姿の女だ。ずぶずぶとシーツの海に俯せ気味に沈み込んでいる。掛け布団代わりのタオルケットを丸めて抱き枕のように抱え込むだらしない寝姿で。
シーツもタオルケットも白なので、女の糖蜜色の肌がコントラストになって鮮やかだ。
たまに肌の色のことを気にするような素振りを見せるが、光は女のこの肌もコケティッシュで綺麗だと思う。
肌だけではなく、背が低く起伏の少ない光の体つきとは対象的な肉体だ。背が高く、肉感的。出るところはかなりはっきりと出ていて、引っ込むところはしっかり引っ込んでいる。
これでもっと素直に表情が浮かべられるなら雑誌のグラビアを飾っていてもおかしくはない。
問題は当人にそうした人に積極的に好かれようとする指向性が全く無いということなのだが……。
「おはよーございまーす……」
そうしてぐったりと眠っている姿を見ると掛ける言葉もなんとなくギリギリ聞こえるような小さな声になってしまった。
肉付きの薄い背中がゆっくり上下を繰り返しているのを見ると、まだ夢の中―――と。
タオルケットを抱きしめていた右手が、まるでゾンビが動き出したかのように持ち上がった。軽く掲げられた後、力尽きてぱたんとシーツに落ちる。
狸寝入り、というわけではないが。全く意識が覚醒していないわけではないらしい。
枕元で軽く嘆息した光はベッドに足をかけ、女の寝姿を跨ぐようにして乗り越えるとカーテンをぐいと引っ張った。
乱暴にカーテンを纏めるとようやく部屋の中がまともに明るくなる。それもそのはず、もう時刻は午前10時を過ぎようとしているのだ。
暗闇の砦を築いて眠りこけていた部屋の主はというと、もぞもぞと蠢き、抱きしめていたタオルケットに鼻先を埋めて未だに惰眠を貪ろうと抵抗している。
仕方ない。最終手段だ。
光は跨った体勢そのままに、黒い下着によって包まれた程よく肉の乗った形の良い尻目掛け、ずしりと腰を下ろした。
「ゔ」
「もう10時ですよ~、起きてくださいラウラさん」
ぺたぺた背中を叩きながらそう言うと、雌のライオンが喉を鳴らすようなごろごろとした不機嫌そうな唸りが返ってくる。
個人的な交流を始めてすぐ気付いたことだが、この女は公の場では事務的ながらぴんと張った姿を示す。
そうすると、こんな姿を見せるというのは光にはだいぶ心を許している証……だったりするのだろうか。相変わらず普段からにこりともしないが。
タオルケットに埋まっていた顔がぐるりとこちらに横顔だけやる。恨めしそうなラウラの視線が背中に腰を下ろす光に注がれた。
---
鬼火が揺れている。
路地裏の怪。魔が暗がりを好むのは古今東西変わりはしない。
元より此の地は霧の街、倫敦。最後の神秘の地。ロンディニウムの都をかつて抱いた島。
残滓は微かなれど脈々と漂い、人類の文明が大地を覆った現代でもその残り香さえ失せるのはまだ先の話。
然して、魔とは平常と相容れず、牙剥くものだ。
……死骸が転がっていた。否、死骸に似た何かが倒れ伏していた。
屍と見紛うほどに生気を失った犬や猫。鼠や鳥。
魂を貪った何者かの姿は見えず、次の生命を求めて煙と消える。
――――次は、もっと。食い出のある人間を。
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「うわ、滅茶苦茶凝ってる」
光の指先が腰の肉にめり込む。ツボに入った。
ぐああ、と我が事ながらまるで可愛げのない悲鳴が上がる。さすがに無様だった。
ラウラの気怠い睡眠に乱入したこの同居人は小柄ながら四肢に馬力がある。内蔵しているモーターの性能が人と違うのではないかと思わせる。
そんなハイトルクの娘の指で凝り固まった腰の筋肉を手早く揉み解されていくのだから、気持ちのやら痛いのやら。
怪我しない程度に、しかし容赦なく施術していく手際には慣れがある。さすがにチームスポーツに長く携わってきただけある。
練習後のクールダウンでチームメイトとマッサージし合う、なんて慣れっこということらしかった。
掌の手首の付け根を利用して体重をかけ背中を揉まれる。押しつぶされるように強張った筋肉から疲労が吐き出されていく。
だが時間をかけて根を張った鬱積は強敵だった。まだ20もギリギリ半ばに届いていないというのに、こんな調子では先が思いやられる。
だが魔導に携わっていながら恥ずかしい話だが、魔術でこれに対処するよりもこうして揉んで貰う方が何倍も効率的なのであった。
手揉みだからまだいい。霊薬よりも栄養ドリンク。呪文よりもプログラミング。神秘の枯渇もむべなるかな。
「今日は何時に帰ってきたんですか?」
「……宝石内に流動する魔力反応のグラフ作りで大掛かりな準備を昨日の夕方から始めて……。
魔術師の魔力のピーク、午前2時に反応とって、その後すぐレポートを作って……。
……で、並行して作ってたものが山場迎えて、それにかかりきりになって……帰ってベッドに倒れ込んだのが……ええと……」
「あ、はい。もういいです。
ばっちり朝帰りだったのはよく分かりました」
食屍鬼のようにおぼつかない喋りが、枕を抱き締めて俯せになっているせいで更にくぐもって響く。
背中に呆れたような光の声が投げかけられ、ラウラがそれに何かを言う前に最も凝っているポイントへ指が入った。
積もった疲弊はラウラに愛らしい声など上げさせるはずもなく、恐るべき色気のなさで呻き声が漏れる。
「道理で鞄も書類もベッドの周りにとっ散らかってたんですねー。
うわ、これなんてなんとなく大事そうな」
「……地下の蔵書置き場から魔本が逃げたとかで、その通達。
発見した際には直ちに確保。尚破損せしめることを禁ずる……とか。外界に逃げ出すような魔本なんて下手な魔獣より強いのに無茶言うわ。
ちなみにそれ時計塔に関わらない人間が見ても意味不明の文字の羅列にしか見えないのよ」
「へー…。魔法のインクみたいな、というかそのまんまなんですね~」
「……仮にも魔術師が魔法とか、軽々しく言うもんじゃない」
光が何気なく手にとっていた書類を横顔だけ見て確認していたラウラがどんよりとした目で光の顔を見る。
ここに来てしばらく経つのに未だに彼女にはそういった魔術師としての観念が希薄であるようだった。
……ラウラとしてはそれを承知の上で連れてきたつもりではある。
光はどこまでも魔術師にはなりきれない。いずれはこの窮屈な時計塔を飛び立って世界に羽ばたいていくのだろう。
まるで根源を目指すつもりを感じられない彼女の家の魔導に関する考え方は全く理解出来ないが、少なくともそれはラウラにとって関係のない話だ。
―――彼女をここに誘ったのがあの日限りの気紛れだったのか、ラウラには分からない。
事実、何度も誘ったことを後で後悔することになった。だが一度誘った以上最後まで面倒を見るのが身に染み込まされた貴族としての教えだ。
血筋に教えられたノブレスオブリージュなど既にあの家にとっては形骸でしかないものとは分かっていても、結局はその生き方から外れることができない。
光が次の道を選ぶまでは責任を取る。今はここで魔導の世界の基礎知識を学んでいる彼女が、次のステージへ向かうまでは。
時間が流れるのは早い。そんなわけでこんな毎日が始まって、もう1年にもなる。
意外と長続きするものだな、というのがラウラの偽らざる感想であった。
「それにしても体ボロボロですよラウラさん。
ちょっとお休みとって運動したほうがいいんじゃないですか?」
「む………」
「ほら、サッカーとか!サッカーならお付き合いしますよ!ロンドンでも休日の公園でよくやってるじゃないですか!」
「………」
冗談ではない。此方は生まれついての日陰者だ。陽の光の下など溶けてしまう。もぞもぞと蠢いて枕に突っ伏し頑なな拒否の姿勢を見せる。
下着姿でしかも腰に伸し掛かられている情けない格好では威厳も何もあったものではないが……。
とはいえ休憩不足に運動不足というのは正鵠を得た言葉であった。ここのところ今回のような徹夜だの、泊まり込みの研究だの。
まるで体を動かさないが体力はひたすらに消耗するという内容ばかりラウラのスケジュールには組み込まれていた。
こうしたところは時計塔といえど普通の大学の研究室とさして変わりはない。研究する内容が科学か魔術かというだけの違いだ。
ラウラは偏屈者ではあったが魔術師らしい合理主義者でもある。肉体、魂、精神。どれを欠いても人体は不調を訴えるもの。
薬やら魔術やらで誤魔化すことが真の魔導探求の道とはとても呼べない。非効率的なのだ。
休息を取ることの効率性を魔術で凌駕するにはラウラはまだまだ未熟……というより、一部の怪物以外はそうしたものだった。
「……運動とかサッカーはともかく、そうね。
少し休んだほうがいいのは確かかもしれない。……で、何が入り用?」
「え、何がですか?」
「とぼけるんじゃない。私がこういうことで貸し借り作るの大嫌いだって分かってるでしょ」
「別に私はしたくてやってるだけなんですけどー」
光としてはそれが本心なのだろう。しかしラウラがそうしたことを厭うのもラウラの本心からのものである。
魔術師とは契約の生物であり、無償のやり取りというものを嫌う。存在するだけで奉仕が成立する関係など雇用主と奴隷の関係のようなものだ。
生来の人懐こさから好んだ相手に世話を焼くのが光の親愛の示し方なら、その対価を支払おうとするのもこの人間嫌いなりの人付き合いに対する誠意だった。
こうしたやり取りも何度目だろう。口を尖らせる光をラウラが半眼で睨むのも日常的な光景となっていた。
光としてはもっと距離を縮めて欲しいし、ラウラとしては適切な距離を保って欲しい。溝は埋まらないまま、奇妙な関係は続いている。
「あ、だったらサッカー観戦にいきましょう!部屋に籠もったままはよくないですし!
チェルシー、アーセナル、トッテナム、ウェストハム、クリスタル・パレス!さすがロンドン、本場ですよねー!」
「………スタジアムに?」
「はい、絶対イヤな顔すると思いました。午後からお出かけして夜にスポーツパブでもどうですか」
人混みを嫌がるラウラへ先回りして光がプランを告げる。
義務以外で個人的に行動することが極端に少ないラウラはこうして誰かが無理矢理外に連れ出されないと一日中家に引きこもってたなんてザラだ。
己が命の謳歌の仕方、日々の中に愉しみを見出そうとする感覚が致命的に欠けているのがラウラという女の宿痾であった。
それでもこの1年は以前に比べて余暇のたびに外出することが増えた。全て学生寮の自室の一角を占拠しているこの陽気の仕業である。
「………まぁ、いいけど」
ぼそりと寝そべったままのラウラがぼやくように言う。
最初は周辺地理の案内という至極自然な内容から入り、次第に拡大してそれがロンドン案内へ。今ではこうして他愛ない理由でも連れ出せる程度には攻略は進んでいた。
もっとも、何処に行って何をしようがにこりともしないのだが。それで気遅れる光ではなかったのがラウラの運の尽きだった。
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鬼火が揺れている。
路地裏の怪。魔が暗がりを好むのは古今東西変わりはしない。
元より此の地は霧の街、倫敦。最後の神秘の地。ロンディニウムの都をかつて抱いた島。
残滓は微かなれど脈々と漂い、人類の文明が大地を覆った現代でもその残り香さえ失せるのはまだ先の話。
然して、魔とは平常と相容れず、牙剥くものだ。
……死骸が転がっていた。否、死骸に似た何かが倒れ伏していた。
屍と見紛うほどに生気を失った人間がひとり、ふたり。
魂を貪った何者かの姿は見えず、次の生命を求めて煙と消える。
――――次は、もっと。食い出のある魔術師を。
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「凄かったですねー!見ましたあの3点目!?後ろに目が付いてるみたいにヘディングで入れて!」
「ん。ああ、うん」
興奮気味の光へ微妙に生返事気味にラウラが答える。ビールを舐めるようにちびちび飲んでいた。
店内の一番奥の隅に位置するこの席……といっても、軽食と酒盃を置ける程度の小さな机とスツールがあるだけなのだが。そこからは店内が一望できた。
不用意に客同士の視線が合わないように照明は適度に落とされている。薄暗い店内を複数の大きな液晶スクリーンが照らしていた。
画面の中では歓喜に湧く選手とスタジアムが交互に映し出されている。試合終了のホイッスルが鳴ったばかりなのだ。
控えめに鳴っているジャズ調の背景音楽も薄闇を満たす騒然に掻き消されて聞こえない。店の中は今まさに客ひとりひとりの悲喜こもごもに揺れていた。
店の客層と各チームのファンの棲み分けは存在するが、それでも全て一色というわけではない。各々の卓の上で繰り広げられるのは複雑な感情の数々。
食い散らかされる料理、卓に置かれる酒盃。客たちのひとつひとつの仕草がそれぞれのざわめきを生んでいる。
店内を暗くするわけである。熱狂的なファンたちがこうも揃っては、闇という仕切りを設けなければちょっとしたことでトラブルに発展しかねない。
しかしその分、このロンドンにおけるサッカーの人気ぶりも如実に伝わってくるのだった。
週末。サッカーのナイター中継の流れるロンドン上のパブならどこでも存在する、ごくありふれた風景だった。
テレビと店内に視線を寄せていた光の耳に冷たく硬く、そして小さな音が届く。ラウラがフォークの先で皿の上のローストビーフをつついていた。
「ヒカルと出掛けるといつも最後はこうなるわね。普通の料理店に行った試しがない」
「だってラウラさん、普通のお店だとメニュー睨んでしばらく唸ってるじゃないですか。こういうとこだとさっさとお酒のつまみで即決しちゃうけど」
光の指摘にラウラが苦い顔を浮かべる。
1年も共に生活していればラウラに関する大抵のことは光の頭に入っている。自分の好きなものを選ぶ、というのが駄目な人間なのだ。
合理的な判断に基づくことならば要領よく取捨選択できるのに、個人的な好みで選ぶべきことになると途端にしかめっ面をしていつまでも悩んでいる。
自分の"好き"が無い、あるいは分からない人なのだな、というのは観察していて得た結論だった。
今日の午後から出発した買い物にしてもそうだ。それが必要なものならリストも無しにてきぱきとラウラは揃えてみせる。
何一つ迷うことがない。状況に即した物品を最速にして最短のルートで回り、効率よく入手する。到着から小一時間で本来の目的は終わってしまったくらいだ。
ただ、残った時間で服を見て回ろうと光が腕を引っ張ると…これはもう駄目だった。
自分ひとりで自分の着たい服というのを全く決められない。着ることが出来ればそれでいい、という無頓着ぶりだ。
そんな調子のせいで、ラウラの自室にある衣装ケースに収められている服はこの1年で実に半分ほどが光の選んだものになっていた。
あまり読んだことのないファッション雑誌を自分ではなくラウラのために読んでみる始末である。お陰で割とその手の事に詳しくなった。
そういうわけで、今日も光が以前選んだ服をラウラは着ている。薄手のカーディガンがよく似合っていると自画自賛しつつ、グラスの底に申し訳程度に残っていたビールを光は煽った。
と、その手元に視線が注がれている。いや、よくよく視線の先を辿れば肘や二の腕だ。
向かいの席のラウラが自分のグラスを傾けながら、飲み干す際に顕になった光の腕をじっと見つめていた。
「………どうしたんですか?」
「いや……ふと目に止まって、だいぶ傷跡も薄れてきたな、と」
小さなスツールの上で足を組んでいたラウラがぽつりと言う。ああ、と光は納得した。
あの戦い…日本の一地方、古綿の土地で行われた聖杯戦争からもう数ヶ月で2年になろうかとしている。
光はあの戦いでサーヴァントの宝具の切っ先を真っ向から浴びた。未だに今こうして生きていることが奇跡のようだ。
あるいは。それは目の前の同じ聖杯戦争参加者のサーヴァントが粉々に砕け散る直前に光に投げた、一輪の薔薇の加護だったのかもしれない。
サーヴァントの宝具とはその英霊の生き様そのもの。駆け抜けた人生が昇華し名を得たもの。
ひとつの時代に名を馳せた英雄の生の重みを叩きつけられて複数箇所の骨折と大小合わせて無数の傷で済んだ理由なんて、そうとしか考えられない。
あれから骨も繋がり、傷も塞がり、しかし傷跡は肌に変色して残り……それも徐々に薄れてゆこうとしている。
光とラウラはそうして互いに敗北し、そして……たまたま運命が交差した結果、こうしてここで顔を突き合わせてビールを飲んでいた。
ラウラと1年前に再会したときはまだ少し目立つ痣となっていたのが、今はもう注意してみなければ気付くのも難しい。
「そうですね。そのうちすっかり消えちゃうと思います。
あ、でもお腹にあるやつはまだまだくっきり残ってますよ!ええっと」
「ここで見せなくていい、ここで見せなくていい……。
ふん、呪詛が残っているわけじゃなし、ただの傷跡なんだから。それこそ消そうと思えばすぐ消せるでしょうに」
「ああ、いや、でも……なんというか、これはなんとなく自分から無理矢理消したくなくて」
シャツを捲ろうとした光をやんわりと静止したラウラだったが、光の苦笑いが含まれた言葉を聞くと瞳の奥に複雑な色の感情を湛えた。
確かに鏡を見て少し目立つなと思ったことは何度かある。ただ光にはどうしてもそれを誤魔化そうという気になれなかった。
勲章と言うほど輝かしい記録ではない。だが例え泥濘に塗れていたとしてもずっと覚えていたいものだった。そのための証のような気がしていた。
自然に消えていくならまだしも、それを自分の都合で消すのはあの日々の記憶を踏みにじるような思いがして、どうしても出来なかった。
という風に光は考えていたのだが……どうやらそれは光の腕を見つめていたラウラも同様であるようだった。
頬杖をつき、薄く靄がかかったような視線を光に向けている。あるいは見つめているのは光ではなく、既に遠くなったあの戦いの日々かもしれない。
「聖杯戦争か。今から思えばひどい狂騒だった。
どう?ヒカルにとって、聖杯戦争ってなんだった?」
「どう、って……うーん、そうですね……」
少しだけ考え込む。答えはすぐに出た。当たり前のような回答だが、光にとっては何にも代えがたい宝だった。
「それまでの自分とそれからの自分、全部変わってしまった切っ掛け……だったと思います。
セイバーと一緒に戦って、怖い思いもして、それでも立ち向かって……。それまでの常識が全部砕かれて。
でもそのお陰でここにいる、みたいな……。ラウラさんはどうですか?」
「私?そうね……私は得たものは無かった。多くを準備して、多くを背負って向かって、全て失って惨めにここへ帰ってきただけ。
たくさんの代償を払ってゼロのラインに辿り着くための戦い………だったのかもね。私にとっての聖杯戦争は」
次に進むための糧を得るための戦い。次を始めるために一番最初へ立ち戻るための戦い。
あの命のやり取りは関わった人間の数だけ表情がある。あの夜、確かに存在を賭けて戦い、昔日を駆け抜けた英霊と共にあった。
形を変えて道は続いている。かつての感銘も嘆きも現在を歩むための原動力になっている。
光は自分のロッカーの奥に大事に保管されている薔薇を想った。あの薔薇の皇帝には似つかわしくない、真っ白に輝く枯れぬ薔薇。
僅かな間であったがふたりの間に沈黙が降りる。決して居心地の悪いものではなかった。無言の会話があった。
「1年……あと2、3ヶ月もしたら2年になるか。ふん。思ったよりあっという間だったな」
「そうですねー。あの時の私は絶対に想像つかないですよ、高校卒業後は海を渡ってロンドンにいるなんて」
「私だって、まさかあの時の縁がこんなことになるなんて考えだにしないわよ。
今は全体基礎科か。ま、あと4年は同じ科ね。……ご感想は?」
「えーと、教えてることが魔術なだけで思ったより普通に大学っぽいなぁ、と」
光が述べたぼんやりとした印象へさもありなんとばかりにラウラが頷く。
勿論一般の大学と違う独特の空気はあり、気をつけなければならないことは逐一ラウラから叩き込まれてはいるが……。
なんだかんだとトラブルはあったものの、案外まっとうなキャンパスライフが続いた1年だった。
魔術師たちの総本山にして最高学府のひとつ、というからどんな魑魅魍魎が揃っているのかと身構えてみれば、学生たちは(一部を除き)どこの大学にもいそうな人たちばかり。
事前にラウラに注意されたように冷ややかな目で光を見る者もいる一方、気さくに接してくる魔術師の卵も多々おり、持ち前のコミュニケーション力の高さで友達もかなり出来た。
さすがに講師陣は一癖も二癖もありそうな人間が登壇するもそれなりに付き合えている……と光は思う。
『全体基礎科は民主主義派のトランベリオの膝下だからね。ある程度ヒカルみたいなのにも寛容なのよ』というのがラウラの弁。
血統を重んじる魔術師の中でもどちらかといえば本人の資質や才能を重んじる学科らしい。
……未だテレビ越しに伝わったピッチ上の興奮が潮騒のように店内をざわめかせている。お陰で隅で話している分には誰にも会話が漏れることはない。
その様子をそれとなく視線を周囲に送って確かめたラウラが会話を続ける。
「そんなものよ。権威主義の温床となって久しいけれど、曲がりなりにも学府ではあるんだから。
軽挙妄動は文字通り命取りというのが時計塔に関わる者の常であり当たり前のリスクだけれども、逆に言えば適度な慎重には適度な安全が約束されるもの。
本番は全体基礎科を出て他の学科に移ってから。今のうちに時計塔の空気は掴んでおきなさい」
「はぁ。やっぱり他の学科に移ると毎日が死と隣合わせ、みたいな感じなんです?」
「そこまで極端なことは言わないけれど周りの誰しもが友好的ではない、くらいには構えておいたほうがいいね。
特にヒカルみたいなのは目をつけられるでしょうから。ただでさえあなたは積んでるエンジン違うもの」
「エンジンですか?」
例えられて光は鳩が豆鉄砲を食らったようなきょとんとした顔をする。
前にも話さなかったっけ、と前置きした上でラウラはビールで唇を湿らせた。
「座学やレポート提出は……試験のたびに付き合ってるから落第ギリギリで免れるレベルなのは知ってるけど。
あなたは他の魔術師たちが理論と経験を重ねてこの世に再現する魔術を、感覚的かつ高い出力で導き出せる。
実戦試験では高得点だってね。満点じゃない理由が、『魔術を行使できた理由を口頭で説明できなかったから』って」
「え、どうしてそれ知ってるんですか?私ラウラさんに言いましたっけ」
「貴族の家の子女ともなるとそれなりのツテは持ってるものよ。それでなくともあなたは今私の預かりなんだから調べるなんてわけないわ。
何度も言っているけれど、自覚は持ちなさい。あなたは他の魔術師の目から見れば特異な存在よ」
―――光に語るほどのことではないが。ラウラからすればそれは憎いほどの才だった。
本物のセンス。時間をかけて磨いてようやく光沢を帯びる石ではなく、最初から眩さを内包している宝石の原石。
空っぽの自分がとりあえずの標に定めただけの空虚なものであるにせよ、根源への到達は普遍的な魔術師と同じくラウラの目標だ。
だが、届かない。この身ではきっと何に魂を売り飛ばしたところで、あるいはあらゆる冒涜に手を染めたとしても根源に至ることはないだろう。
面子を保つために身につける高度な術など何の意味もないのだ。誰もが努力や才覚を延ばした末に得られるようなものでは話にならない。
根源を目指すというのはそういうことだ。本人に自覚はないが、そういう意識においてはラウラは実に魔術師らしい魔術師だった。
そして、そのラウラの目の前には可能性がいる。
勿論容易く届くことはないだろう。万分の1ほどすらない。那由多の先、いっそ不可能と言い切れるほどの地平の彼方。
だとしても、ラウラは確かに感じていた。光はきっとそうしたものだ。あらん限り遠くの確率の先において、根源へ至り得る素材だと。
仮にそれが己にあったとすれば、それがどれだけ遠い可能性であろうと手を伸ばすのが魔術師というものだ。
だからこそラウラは光に言う。憤懣やる方なさそうに。
「凡百の魔術師とはどこか違うシステムで動いている。そうね、蒸気機関車と電車の違いくらい。
あなたが普通の魔術師の家なら、アヤガミの家は大した作品を世に輩出したのだなと感心されるでしょうね」
「え、私が作品ですか?なんだかヤだなぁ、人間扱いされてないみたいで……。
それに私、他の魔術師さんたちが受け継いでるっていう魔術刻印だって持ってないし。そんなラウラさんにべた褒めされるようなことは……」
「それが逆に問題。魔術刻印は代々魔術師が血縁で受け継ぐ『魔術を行使するための器官』みたいなもの。……というのはさすがに習ったでしょう。
その魔術刻印もなしにこれだけのことをするんだから。あと言っておくけれど褒めてるわけじゃない。
私が始終面倒を見るわけじゃないんだから、ある程度自分の現状を認識して自己防衛をしなさいという話。
ファーガセンハイトの家なんて没落一歩手前もいいところなんだから、どこまで盾として機能するか分かったものじゃないわよ」
「むう。はーい」
光が不満そうなのは珍しくラウラが褒めたかと思ったら勘違いだったから。頬を軽く膨らませた。
ふん、とその様を鼻で笑いつつラウラが皿上のローストビーフを再びつつく。あと2切れほど。光のグラスは空だし、ラウラのグラスももう少しで空く。
サッカーの試合もインタビューに移っている段階だ。店内の客も入れ替わりが始まり、ぼちぼち光とラウラも退店という頃合いだろう。
そんな時だった。何やら軽く考え込んだ素振りだったラウラがふと光に向かって疑問を口にした。
「………そういえば、ヒカルの母はルーン魔術を納めている、とか前に言ってたね」
「え?あ、はい。お母さんはそうみたいです。実際に目の前で実演してくれたこともあります。
とはいっても私はルーン魔術をそのまま教えてもらったことはないんですけれど……」
「………そう。
アヤガミなんて家の名は時計塔の何処にも存在しない。時計塔と縁のない極東の魔術師がわざわざルーンか。
妙だな。どこか違和感というか、齟齬というか。そういうものを感じる」
「えーと……ルーン魔術を扱ってるのってそんなにヘンなことなんですか?ラウラさん」
「いや、最近の若い魔術師ならそういうこともないんだけれど……」
こめかみを揉みながらラウラが思考と思考の糸を繋げるようなゆっくりとした口振りで言う。
「補助として習得するならともかく、専攻するのは珍しい。
というのもルーン魔術はここ30年でようやく再評価が進んできた魔術だ。それ以前には時計塔にルーン魔術というジャンルは存在しなかった。
いや、かつてはあったのだろうけど廃れたと言うべきかな。だから、ヒカルの母親の年齢でルーン魔術が専攻というのは首を捻るな。
北欧の魔術の家ならそれでも話は分かる。本場だからね、魔術協会と関係なく扱ってきたということはあるでしょう。実際そうしたルーンの大家が時計塔の門を叩いてきた前例がある。
だけど極東を基盤とする魔術師で…ルーンか。時計塔に関わってるならともかく、魔術協会抜きで個人で扱ってるなんてよほどの物好きか、あるいは………」
話を聞いてもよく分からないという表情の光の前で独り言のようにラウラが話を続ける。
足を組んでスツールに深く腰掛け、左手で右肘を支え右手で口元に触れて頭を支える。視線は卓上へ。
自室でラウラがテキストを読解しているときによく見かける、本格的に考える時の仕草だった。左腕に乳房が乗ってスタイルが強調されるのは…多分気付いていない。
「アヤガミの家は家固有の魔術を持たず、魔術刻印も継承せず、嫡子にそれぞれジャンルの違う魔術を扱わせる。
魔術師としては異端というか、魔術師の積み上げてきた歴史に対する冒涜みたいなやり口だけど。確かそうだったね?」
「そうです。私もほんの触りだけ教えてもらっただけで、これっていう魔術は教えてもらっていません」
「そんな調子の娘に聖杯戦争なんて血みどろの殺し合いへ参加させるのは如何なものかとは思うけれど。
……いや、"それが分かってて"行かせたのか?実際、ヒカルの能力は……。だとしたら……ふぅん。何考えてるんだか……」
「あのう……」
「ん、何?」
「そ、そんなにお母さんのやってるルーンって難しい魔術なんですか?」
「………そうか、全体基礎科もまだ1年過ぎた程度じゃまだ扱わせないわよね」
恐る恐ると言った調子で聞いた光に対し、思考の淵から戻ってきたラウラは自分のポケットを漁りだした。
しばらくして卓上に並べられた皿の間へ置かれたのは、何の変哲もなさそうな石ころ。よくよく見れば紙留めのクリップのような模様が刻まれている。
「言ったでしょ。補助として習得する魔術師は結構多いのよ。
一工程ですぐに効果を発揮するし、こうして何かに刻むことで呪符のようにストックしておけるから便利なの。効果はそれ相応だけどね。
もともと廃れていた分野だったのをアオザキっていう化物中の化物が魔術的に復元して、それから汎く研究されるようになってきたんだけれど……。
これは直感のルーン。危機を知らせるもの。外に逃げた魔本の指名手配にあたって念のために昨日の晩……」
と、その時。
ぴしり、と。細やかでありながら警笛のようにはっきりとその音はふたりの耳に届いた。
それは周囲のざわめきに遮断されて隣席には届かないだろう。しかし、光とラウラには聞き逃すことを許さぬ強制力を伴って響いた。
それは何気なく卓上へ置かれたはずのその石が真っ二つに自然に割れた音だった。
いや、自然ではない。その石は確かに刻まれた魔性の文字に従い、感じ取った事実を術者へ示すために己の役割を果たしたのだ。
光は突然示された事実が分からず、きょとんと小首をかしげた。
ラウラは漂白された表情をした後、俯き気味になって目頭を揉んだ。
「まさか私が貧乏くじを引き当てるとは……」
「え?え?どういうことです?」
「どうもこうもない。店を出るよ。ヒカル、あなたにも一仕事してもらう」
懐を探って普段吸わないはずの紙巻き煙草のパッケージを取り出したラウラは至極面倒そうに席を立った。
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鬼火が揺れている。
路地裏の怪。魔が暗がりを好むのは古今東西変わりはしない。
元より此の地は霧の街、倫敦。最後の神秘の地。ロンディニウムの都をかつて抱いた島。
残滓は微かなれど脈々と漂い、人類の文明が大地を覆った現代でもその残り香さえ失せるのはまだ先の話。
然して、魔とは平常と相容れず、牙剥くものだ。
……美味の香りがする。きめ細やかな魔素の気配がする。
それは動物ではなく、だからこそ機械のような動物性でそれを判断した。より良い効率を。より良い生命を。
それでいて、自己の管理能力を超えた脅威ではない存在を糧としよう。
―――煙立ち込める路地裏にひとり、女が立っていた。
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「――――不味いんだ、これ」
薄く紫煙が烟る路地裏。
薄暮のうちにささやかに降った霧雨によって、停滞している空気には僅かな湿り気が含まれている。
晴れ間から覗く月光に濡れて冷気となりその場で淀んでいた。
氷のようなそれと肺に溜め込んだ空気を入れ替えながら、ちょうど路地裏の真ん中に立った女は苦々しげな口調で言った。
指先には火のついた煙草が無造作に挟まれていて、闇の中で心もとなく灯っていた。
「魔女術で作った煙草でね。普段から持ち歩いてる礼装なんだ。
そら、何かの弾みで紛失しても煙草ならさして怪しまれないでしょ?
煙を吸い込むことで術者へ力を発揮し、煙が漂うことで空間へ力を発揮する。でも味の改良までは至らなくて。
そっちは今後の課題にしておこう。………さて」
もう一度紙巻きを口に咥えて女が煙草を吸う。酸素の供給を受けて先端の火が僅かに赤みを増す。
出来れば今すぐ地面に擦って火を消してしまいたいと言わんばかりの素振りで女は煙を吐き出した。
「占星術で罠を張る場所を選定して、魔女術で自分自身の感覚にドーピング。
錬金術で焚いた薫煙でおびき寄せて、ルーンを四方に刻んでこの場を簡易的な神殿化。
占星術以外は万が一のために入念に準備してたのに、ここまでやって辛うじて存在を感知できるレベル、っていうんだから。
サーヴァントでいうところの気配遮断スキルに似たようなものかな。さすが時計塔の禁庫の蔵書。
現代の魔術師が再現しようとすれば恐ろしく手間のかかる大魔術を平気で内包してるのか。そりゃまともにやっても見つけられないわけだ。
まったく、どんなバカがこんなものを外に逃がしたんだ……」
もしそこに余人がいたとすれば、路地裏の中途に立った褐色気味の肌の女がぶつぶつ独り言を言ってるように見えたろうか。
さぞ不気味な姿だっただろうが、生憎とそこには誰ひとりとしてやってくることはない。
少なくとも『そういった』素養の無い人間以外は立ち入ろうと思えない、そういう機序になっていた。
人払いの結界が刻んだルーンの更に外側から起動している。
コップ1杯の水にアルコールを1滴落としたところで多くの人間は酒精を感じられないのと同じように、ささやかに。
ひとつひとつは基本的なものでも複数の系統の魔術を同時かつ啀み合うことなく共存させる。
このラウラという魔術師のひとつの素養であり、本人がいつまで経ってもかたくなに認めない才能だった。
こんなことばかり出来ても星に手が届かないのでは、何の意味もないと。
「私が見つけられたのは…単に経験があったから、か。
通常の判断なら切り捨てる次元の"揺らぎ"に意味があると捉えた。実際、オマエが今この結界内のどこにいるのか私は分かってないんだよ。
………ホント、我ながら非才だな。ああ、イヤになる」
女が語りかけていた相手は女の後方、頭上から2メートルほど上空から地上を俯瞰していた。
魔本に感情はない。生物ではないのだから。人間でいうところの機械的な存在だ。自身の駆動のために霊気を求め、『より高次の存在へ成ろうとする』。
そのための擬似的な思考を獲得して状況判断は下せても、女のぼやきに何かを感じ入ることはない。
作り物の理性で収穫対象を選別し、作り物の本能で……いずれは器となるものを得、第六架空要素たる悪魔をも目指しかねないもの。
長い年月を経て強力な呪物と化した魔本の暴走は下手な魔術師よりも強力な、一種の魔物と呼んでも差し支えない驚異だ。
時計塔としては絶対にこのロンドンから逃がすわけにはいかない存在だった。そのために恥を承知で指名手配までかけ、高額の報酬だって用意したのだから。
反応は2種類。災いが降りかからないよう防衛手段を探すもの。報酬に目を輝かせて魔術礼装で身を覆ったもの。
ラウラはどちらかといえば前者だったが故に、ぼやきもひとしおであった。
魔本にとって、のこのこと狩場に現れた魔術師など餌が向こうからやってきたようなものだ。
極東生まれの光なら「鴨が葱を背負ってやってきた」などと表現するだろう。
―――魔本が狙いを女に定める。頁に内包された魔術式が駆動を開始し、僅かに燐光を帯びる。
だが、それこそがこの女にとっての狙いだった。
事態は自律で作用する。この魔本を相手取って術式を交わしあったところで女魔術師に勝てる見込みはない。
なら、術式が交わされる前に叩き込めばいい。女の張った結界内に魔本が乗り込んだ時点でそれは準備された筋書きだった。
突如として一斉に暗がりの中から飛び立ち、魔本に突き立ったものがある。正確には魔本が築いた障壁にだ。
獲物を待ち伏せしていた生物のように殺到したそれは鋭角に尖った四角錐の形をしていた。削り出された木の棒である。
「で、これがオガム魔術……ドルイドの秘技さ。ヤドリギの棘は魔性にはよく食らいつくだろ?
いろんな魔術の便利なところだけを齧るようなやり口じゃ神秘から遠ざかっていると言われても仕方ないな。ひどい堕落だ」
ぶつぶつと諦めの悪い博打打ちのようにまだ女魔術師はぼやいている。
北欧において森と共に生きる"樫の賢者"の魔術。樫の木に宿ったヤドリギは彼らの手によってあらゆる魔を打つ牙となる。
時計塔においては相当マイナーなジャンルの魔術になる。だが残念ながら、一度手を付けたなら女は凝り性だった。
かつて告げられた『貴様、一芸を極めるより多くを学んだほうが大成するぞ?』という何気ない一言は大した毒だったと言っていいだろう。
首を突っ込んだ以上、手は抜けない。これも自分では認めようとしない生来の生真面目さが良くも悪くも発揮されてしまったのだ。
少ない資料を血眼になってかき集めた研究成果が今、魔本へと容赦なく襲いかかっていた。
ようやく女が振り向く。外法の求道者特有の、市井の人間とは世界の捉え方が違うどろりとした青い視線が空中の魔本へと注がれた。
同時に指鉄砲を象った右手が対象へと差し向けられる。―――指先へ青白い光が灯り、すぐさまに放たれた。
「ラストだ。『T-G-I-N-Y-S』」
省略法。彼女が元々修めていたカバラの基礎的な魔術。"言葉遊び"、"数字遊び"による高速詠唱はかの魔術の最も得意とするところ。
身震いするような呪波でヤドリギの棘を振り払ったばかりの魔本へと呪いが到達する。躱したり防いだりすることなど出来ようはずもない。
十分な魔力を乗せて放たれたそれは、的確に魔本が内包していた気配を殺す機能へと干渉を開始した。
どれだけ大仰なことが出来るプログラムであろうと、それが複雑になればなるほど砂粒のようなジャンクデータで動きを止めるように。
たったひとつへ狙いを絞れば、僅かな間でもそのシステムを封じることくらいは出来る。
だが――――。
「とはいえ、ここまでだ。最大限お膳立てして地の利を得て、出来ることといえば機能を削いだだけ。私じゃオマエには勝てないよ」
むべなるかな。女魔術師はあくまで研究の輩。戦いに長じているわけではない。
戦いのための魔術は基本的には余剰であり、テーマではないからだ。それは魔術師ではなく、魔術を道具として扱う魔術使いの領域。
研究を進める上で副産物としてそういったことに長けることはあってもあくまで魔術師にはその逆は無い。
各種の呪いをもって戦いの真似事は出来ても、女が持つ手札ではこの魔本を行動不能にするだけの威力を発揮できない。
一時的に封じたのは魔本のひとつきりの機能のみ。すぐさまにこの女魔術師は魔本の繰り出す術式によって打ち倒されることだろう。
彼女が、ひとりなら。
女魔術師は宙を仰ぎ見た。ビルとビルの隙間、切り取られた夜を。星はおろか月の影すら拝めない分厚い曇り空を。
流星が降ってくる。
「………なんて。ふん、柄でもないけど」
煙草を咥えたまま女魔術師は片腕で顔を覆った。
猛烈な勢いで叩きつけられる破砕音、爆風、石礫。星がソラから落ちてきたのだ。それを受け止めた石畳だってタダでは済まない。
でも女がそう感じたのも無理はない。だってきらきらと眩い黄金色に光っていたのだ。
それは敷き詰められた漆黒のビロードのような雨雲の表面を駆ける流れ星。その目の覚めるような輝きを、女は憎々しげに睨んだ。
原理も理屈も無くこれだけの勢い、これだけの威力を叩き出す。経験と理論を食み血と汗を流して奇跡を積み上げていく魔術師への冒涜じゃないかと。
「……手応えない!ちょっと遅かったですか!?」
「いや、これでいい。もともと視野に頼った感覚系なんて持ってないんだからアレに死角など無い。上から降ってくるものを避けるくらいはしてみせる」
3階から自身の身体を強化し、尚有り余る魔力を黄金色の魔力光と変えながら『蹴り』落ちてきた小柄へラウラは煙草の火で道を示した。
路地裏の通路の先、ではなく。東の壁の方へ向かって煙草を突きつける。無理矢理ラウラが魔本へ捩じ込んだ呪詛はそちらの方角へと続いていた。
「気配の遮断は一時的に封じてる。あとは魔本ではなく私の魔力の痕跡を追いなさい。バラバラになるようなことがなければ多少汚しても構わない。
そのくらいは修繕屋に働いてもらおう。とにかく思い切り魔力をぶつけて気絶させること、OK?」
「りょーかい!それじゃ―――行ってきますッ!」
そう元気よく言い残すと、綾上光はまるでパルクールのように建物の壁と壁の間を蹴ってするすると屋上まで登っていく。
踏み切るたびに一瞬きらきらと粒子が飛び散り、まるで電流が奔っていると見紛う。光が肉体強化に使った余剰の魔力が煌めいているのだ。
魔術師にも肉体と精神の合一は重要だと捉え、体を鍛えている肉体派というタイプはいないこともないが……。
それにしても、『本人がどう魔術を発動させているのか理解できていない』のにこれだけの能力を発揮できるのは稀だろう。
「ボランチのボールを受けてゴールに叩き込むのはフォワードの仕事だろ。逃がすなよ」
……その美しい魔力光がビルの頂上に到達し、またたくまに見えなくなるのを見送ってからラウラは最後に煙草を吸った。
すぐさま顔を歪め、さっさと煙を吐き出すと腰を曲げて丹念に石畳へ擦り付けて火種を消す。
吸い殻を投げ捨てていくほど不道徳でもなければ魔術の隠蔽に興味が無いわけでもなかったので、服が汚れないように煙草のパッケージへ再び仕舞い込んだ。
「………不味い。さすがに次作る時は何かフレーバーを足すのを考えよう」
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もともとそういう作戦だった。
ラウラがあの手のこの手で誘引、先手を取って呪式をかける。
しかるのちにラウラが渡した呪符で体から漏れ出る魔力を察知されにくくしていた光が奇襲をかけてゲームセット。
第一段階が成功しなければ全力で逃げよう、と。
そう説明したラウラがあれこれと呪具を服や鞄のあちこちから取り出し始めたのには光もいささか驚いた。
手配書が出回っているためにさすがにいつもより多めだが、普段からある程度こうしたものを持ち歩いているという。
曰く。あれこれと複数揃えていなければならないのは器用貧乏でしかない。単一の礼装で対処できないというのは未熟の証拠。
そう苦々しくラウラは語ったが、光はそうしたラウラの取り組み方を見るのは好きだった。
例え言葉通りだったとしても、だからといって腐らず準備を怠らない。
いつかテレビの特集で見た陶芸家のようだ。どれだけ素晴らしいものが出来ても追い求めるものでなければ価値はないと言い放ち執着しない。
ちょっと真面目すぎるくらいに真面目で、自分に言い訳をしないのだ。きっとそういうところが裏返って人嫌いだったり何事も眇めて見るふうになったりしたのだろう。
1年経った。『光には才がある』と言うラウラの言葉も薄々だが頷けるものを感じつつある。
確かに自分の扱っている業はどうやら周囲とは少し違うらしい、というくらいのものだが。
それでも―――光にとって彼女はどこまでも師だった。
光を本格的な魔導の世界へ連れてきた魔術師。ぶつぶつと文句を言いながら真摯に魔術という学問に取り組み続ける彼女の背中は好ましい。
その姿をして光はラウラを師と思うのだ。本人をそう呼んだら「冗談ではない」と怒られたけれども。
だから……その彼女がこちらを信用してパスしてくれたボールをこの胸でトラップした以上、無駄には出来ない。
「――――こっち!」
逃げた魔本から漂う気配を肌で感じて追う。ビルの屋上からビルの屋上へ、踏み切る足場が一瞬魔力光で黄金に光る。
いつか思うように魔術を行使できない光にラウラは言ったものだ。
『Don't Think.Feel』。自意識に囚われるな。自分がどうしたいかじゃない。"相手がどうなるべきか"をイメージするの。
あなたにとっての魔術はその過程に過ぎない。火を灯したいなら火を灯す工程を追うんじゃない、火が灯るという事実へどうアプローチするか想像する。
魔術を感覚で語れて引き出せるあなたならではの話だけれどもね――――と。
魔本を追う。ラウラが叩きつけた呪波の残り香を鋭敏に感じる。そのための魔術を感覚で行使する。
魔本を追う。それなりに速度を出して遠ざかっている…追いつくためには肉体を強化して走らなければ。そのための魔術を感覚で行使する。
魔本を追う。魔術は隠匿されなければならない、と口を酸っぱくして言われた。そのための魔術を感覚で行使する。
1年前なら覚束なかったそれらの術も、今はこうして意識して発現させることが出来ている。そこに自分の成長を感じた。
3階から4階ほどの高さのビルが居並ぶ区域を駆け抜ける。
軽く下を見ると街灯に照らされたアスファルトが見えた。黒々としたアスファルトは落ちてくるものを手ぐすね引いて待っている怪物の口の中のようだ。
落ちれば常人ではただでは済まないのだろう。だが……今や光は常人ではない。
気合ひとつで道路を挟んで次の屋上へと飛び移る。魔術とはそうしたものだという。まず『出来る』と信じることから始まると。
難なく打ちっぱなしのコンクリートの床を足裏に感じ、感覚の目を凝らしたその時。
「わわっ!?……っと!」
形を取った呪いが3~4発飛んできた。人間でいうところのガンド。指差すことで相手を呪う術に近しいもの。
最上級のものは「フィンの一撃」と呼ばれ、呪いであるのに物理的な破壊力すら有するという、それ。
前方に魔本が浮いている。ようやく追いついた。そして追いつかれたことであちらも攻勢に転じたようだ。狙い過たず、光の着地点目掛けて魔弾が突き刺さる。
銃弾のようにコンクリートに穴を穿ち破砕したそれは人ひとり打ち伏せるには十分な威力を持っているように見えた。
だが光の方が1歩早かった。避ける、という事実を見据え、そのための方法を身体に任せた。ブレーキの勢いもそのまま。
まるで走り高跳びの背面跳びのようにひらりとしなやかに飛び立ち、全弾を回避する。
燕のように跳び、小型の肉食獣の軽やかさで着地すれば、対象の排除に失敗した魔本が屋上の手すりの向こうから真下へと落ちて逃げていくのが見えた。
逃さない。踏切と同時に弾丸のように飛び出した光が屋上の端から端まで到達するのに要した歩数はわずかに3歩。
欄干に一飛びで脚をかけると、躊躇もなく屋上から重力にその身を任せた。
内臓が裏返るような浮遊感と―――鳥のようにページを開いて下降していく魔本の姿が視界に入る。
あれを『蹴る』。サッカーボールを蹴ってゴールの枠内に叩き込む、慣れ親しんだ感覚を四肢に空想させる。
安全に『着地する』。3階からの高さからでもネコのようにしなやかに怪我なく着地する己の姿を脳裏に描く。
ある種の魔術が自分の中で出力を開始したのを感じたが、それに名前をつけることは光には出来ない。
急速に影が迫る、迫る。欄干を蹴った加速と強引に空中を蹴ったのも合わせてぐんぐんと。
同時に地面が迫っていくが――どうやら公園の敷地内だ――恐怖感はない。『出来る』と思えたなら『やれる』。
アドリブでその場に合わせたその場限りの術を起動しているなど普通の魔術師が聞けば仰天するような話らしい。
なんとなく予感はある。自分は彼らと同じ道を歩くわけではない。
今はこうして時計塔で学んでいるけれど、自分という異物をいつまでも受け入れてくれるほどあれは悠長な場所ではない。
それに光としてもそう遠くないうちに何かの切っ掛けで袂を分かってもっと多くのものを見に行くような、そんな気がする。
この1年はそんなふうに、多くを知ったことで視野が広がった1年だった。
ああ、でも……欲を言えば。いつかそうなったとしても。
あの日……変わらぬあの不貞腐れたような顔で名刺を渡して今いる世界へ連れてきてくれた彼女と、友達でいることは許されるだろうか―――
「いっ…………けぇぇぇっ!!」
薄い胸の裡から獅子吼が迸る。
慌てたように放たれた呪詛を身を捩って空中で器用に避けると、その捻りを利用して更に体を撚る。
きらきらと太陽色の魔力光を伴いながら、オーバーヘッドキックの要領で光は鼻先まで来ていた魔本を蹴りぬいた。
轟く破砕音。弩雷のように降り落ちた衝撃。足の甲に感じたのは、薄い氷を割ったような、細くそれでいてくっきりと駆け抜けた確かな感触。
――――――――"手応えあり"。
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「あーあ、こんなにしちゃって」
「や、やりすぎちゃいましたか!?」
「大丈夫、このくらいは修繕屋の仕事の範疇。中身が無事ならなんとかなる」
その後。
連絡を受けてラウラは早足で現場にやってきた。
うんともすんとも言わなくなった魔導書の側へしゃがみ込むと、慎重に指を滑らせて何かを書き込んでいる。
そして装丁のくたびれた魔導書を拾い上げると手で軽く埃を払った。
真っ暗な夜の公園の只中、敷地内にいるのは光とラウラのふたりだけしかいない。
ついさっきここに陽の光に似た眩さが破裂したなど嘘みたいな話だ。
「封印はとりあえずこんなところ。見られてない?」
「大丈夫です!認識阻害とか人払いとかはばっちりと!」
「そうね。いの一番にみっちりと教え込んだものね。魔術の秘匿の意識だけは徹底してもらわないと、法政科に目をつけられるから…」
光のキックを受けて地面にめり込むようにして停止した魔導書は、軽く降った霧雨のせいで泥に塗れているといっても過言ではない。
そのまま鞄の中にしまうのを躊躇ったラウラがしばし考え込む。やがて嘆息しながら商店のロゴマークの入ったビニール袋を取り出して包んだ。
禁書をこんな扱いだなんて神秘への冒涜だな、などとぼやきながら。
そうして側でその作業を見守っていた光へと向き直り、肩をすくめる。
「さて、ご苦労さま。あなたがいて助かった。私ひとりじゃ逃げること以外は考えなかっただろうしね」
「お安い御用ですっ!ラウラさんにはいつもお世話になってるし!」
「ふん。……しかし、本当に大魔術級の術理を内包した魔導書を一撃で……。いや、この子ならむしろ出来て当然か」
「? 何か言いました?」
「なんでも。帰るよ。すぐに時計塔に届けないといけないし。……やれやれ、とんだ一日の終わりになった」
毒づきながら踵を返したラウラの背中を、待ってくださいよぅと光も追う。
「ああ……そういえば報酬が出るんだった。何割かは修繕担当の魔術師に持って行かれるだろうけど。あなたと山分けか」
「おー、どのくらいもらえるんです?」
「………今日から毎食特上ステーキを外食で食べてもしばらくそれで生活できるくらい?ま、貯金しておきなさいな」
夜道に若い魔術使いと魔術師が消えていく。
縁は遥かに。あの日に交わり今日まで続いてきた縁は不思議と分たれることなく続いている。
これが長い付き合いになるか。今はまだ定かではない。