SS-「王様の休日」

Last-modified: 2018-11-03 (土) 00:56:38

 「陛下~」
 「………」
 セイバーは動かない。
 「へいか~。王様~」
 「………」
 セイバーはやはり動かない。
 べったりとガラス窓に張り付いててこでもこの場から離れぬ構えだ。
 店頭販売用の大きなガラスの向こう、今まさに鉄板の上の大判焼きをひっくり返している初老の店員もちらちらと視線を送っている。
 ガラスにべったりと指紋をつけて穴が空くほどに作業の手元を見つめているガイジンを、だ。当然だろう。
 ただのガイジンではない。この街は比較的外国人が多く住んでいるが、その中でも飛び抜けた超美人である。
 まさに明眸皓歯・沈魚落雁の体現、舶来の人形もかくやといった風の麗人が今、ガラス窓を吐息で白く烟らせてぽかんと呆けていた。
 とろりと蕩けてしまいそうな涅色の瞳をまんまるに開いて大判焼きが焼きあがっていくさまを見つめている。
 おおよその作業が二巡目に突入した頃、ようやくセイバーは黙っていた俺の方へ振り向いた。
 「はー…………。凄いなぁ」
 ご満悦である。どうやら王様は下々の営みから生まれた他愛ない軽食の調理工程にいたく感動なされたようだった。
 「念のため聞いてみるけど、何が?」
 「何がって、ヤヒロは驚かないのか?
  こんなに安くてこんなに美味いものをこんな短時間でこんなにたくさん作っているのだぞ。
  惜しい……私が未だ王であったならばこの者らを城内に召し抱えて多大な給金を与えていた」
 ため息を漏らしながらセイバーは俺に預けていた大判焼きの残り半分を取り戻して再び齧り始めた。
 まさかここの店員たちも東欧におけるかつての大英雄から時代を超えて最大限の評価をされているなんて思いもしないだろう。
 いや、大英雄というのは百歩以上譲ったとしてもこんな美人と街を歩いていること自体が俺自身思いもよらない事なのだけれども。
 「言っておくとこれチェーン店だから日本国中どこの街にもあるんだぞ」
 「なんと!これらを国中に配備しているというのか!
  ううむ……侮れないなニホン、さすが我がベルンよりも栄えているだけある……さては神々の築きし楽土か」
 「いやそこまで上等なものじゃないけれど」
 難しい顔でセイバーが唸る。セイバーの目には我らが日本はどのように映っているのだろう。
 いちいちリアクションが大きいセイバーを見ていると飽きない。ころころと表情を変える姿に戦闘中の烈火の如き苛烈さは綺麗さっぱり見当たらなかった。
 大判焼き(赤あん)を胃に納めきった王様は「ふむ」と満足げに鼻を鳴らし……いや、微塵も満足げではなかった。
 興味を次なる対象へと向けての鼻息であった。
 「ヤヒロ、アカアンを食したからにはやはりシロアンも口にしたい。
  何事も自分の目で見、自分の耳で聞き、自分の舌で味わってみて初めて経験となるものだ。では、私に献上することを許すぞ?」
 「はいはい、かしこまりました陛下」
 「うむ!」
 んふー、と今度こそ満ち足りた様子でセイバーは朗らかに笑う。
 少しも悪びれないその姿に苦笑しながら、俺はがま口の蓋を開けた。きっとこんな調子だったから、彼女の騎士たちもセイバーについていったのだろうと空想しながら。
 
 
 ---
 
 
 事の発端は今朝早くに起こった。
 「あ、洗剤がない」
 「どうしたヤヒロ、物資の枯渇か?いけないぞ、兵站の遣り繰りは戦いの基本だ」
 セイバーの言はともかく、俺は首を傾げて悩む。
 ここのところ(散々セイバーには通学することについて文句を言われたが)学校と夜の街の巡回の往復で日常業務を放りっぱなしにしていた。
 というわけで休日を利用して怠っていた掃除を行い、しかし狭い我が家の掃除など大掛かりにやるのでもなければすぐに終わるものであり、さてでは次にと洗濯物をやっつける。
 という段になって洗剤の目盛りが底を突いていることに気づいたのである。
 よくよく思い返せば備蓄のあれやこれやがここしばらくの補給不足で心もとないことになりつつあるのを思い出す。
 「………………」
 さて、困ったことになった。
 買い出しに行けばいい、というのが直接にして抜本的な解決案だ。
 しかし俺は現在特殊な状況に置かれている身である。すなわち、聖杯戦争の参加者という、殺し合いの獲物のひとりだ。
 それをもう少し自覚せよと怒鳴られたのがつい昨晩の話。
 この戦いをノーサイドで終わらせる、と宣言したのも俺だが、しかしそれを全ての者たちが承諾してくれるというのが虫の良い話であるのはさすがの俺にも分かる。
 ……しばらく考えた後、そう怒鳴った相手に直接お伺いを立てることにした。
 セイバーの視線を受けながらちゃぶ台の上に放り投げてあった自分の小型電話端末を手にとって弄る。昨日の晩に手に入れたばかりの連絡先をクリックした。
 しばらくコール音があった後、粘り続けた俺に根負けしたのか端末のスピーカーから不機嫌そうな声が漏れ出てくる。
 「あ~………真楽?」
 『……何。こんな朝早くから』
 まるで地獄の子鬼がぐうぐう唸っているような声である。寝起きか。女の子がこんな声出しちゃいけません。
 昨晩協調路線を取ることを決めたアサシンのマスター、真楽瑞穂以外に聖杯戦争について現状俺が頼れる人間などひとりとしていなかったのだ。
 昨晩までは俺とセイバーのふたりきりでやってきた。なるほど、朝起きて掃除をすることに思い当たったのは曲がりなりにも仲間ができて心に余裕ができたからかもしれない。
 「うん、朝早くにごめん、ごめんな。
  え~………っと、その………買い物に、行きたいんだけど」
 『行けばいいじゃない。子供じゃあるまいしひとりで行けるでしょ。勝手にしなさいよ』
 「だってほら、今は昼間じゃあるけど聖杯戦争の真っ最中だし……」
 『セイバー連れていけばいいじゃない……何のためのサーヴァントよ……馬鹿じゃないの』
 あくび混じりの返答は既に二度寝モードへと突入の準備を始めていた。ちらりとセイバーを見る。
 きょとんとして俺を見返すセイバーの服装は、美人が台無し……というわけでもなくこんな美人が着ると何でも似合うのだが、だぼだぼの赤色スウェットの上下であった。
 不具合により霊体化できないセイバーに俺が価格と運動性能最優先で用意した代物である。女物の審美眼なぞ分かるはずもないのでこうなった。赤色はセイバー唯一の注文である。
 寸法の勝手も分からず買ったためにワンサイズ大きいのを無理やりベルトで留めて着ているという有様であった。こんな姿を彼女の騎士たちが見たら俺は八つ裂きにされること請け合いだ。
 「言ったろ。セイバー、霊体化できないから服を着てもらう必要があってだな……」
 『着せればいいじゃない……もうなんだって……』
 「でもさすがに上も下もスウェットで街中を連れ回すのは抵抗が……」
 『………待って』
 低血圧の影響かむにゃむにゃしていた真楽の声が急にしゃっきりと線が通った。
 『あんた、そんな格好でここ数日セイバーを外に出してたの?』
 「し、仕方ないだろ……男手じゃ何着せたらいいのかさっぱり分からないしそもそも高くて手が出ないし……」
 『だからセイバーを置いてひとりで買い物に出ようと?』
 「ち、ちょっとうろつくくらいならともかくこんな格好で日中の街を歩かせるのは如何なものかと思うくらいの良識は俺にもあってだな……」
 『……………………………………………………っ』
 声にならぬ声、叫びにならぬ叫びが形を伴わずに俺の耳へと届く。
 そう、その時まではセイバーに留守番させてひとりで出かけるつもりだったのだ。
 勿論今から考えれば「マスターの生死がかかっているのに私の格好など大した問題ではない」と怒ったろうが、この時まではそういうつもりだった。
 ややあって、端末のスピーカーは真楽の怒りだか諦めだか判別しがたい感情をそっくりそのまま表現して届けた。
 『………………………連れてきなさい!セイバー!ボクの家に!今から!』
 
 
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 運良くバスを捕まえ、真楽宅の玄関の前にたどり着くまで20分ほど。
 朝の真楽宅へとあのみずぼらしい格好でやってきたセイバーは真楽の手によってあっという間に屋敷の奥へと引きずり込まれ、少なくとも装いだけはまるきり別人となって戻ってきた。
 丈の長いニットのタートルネック(勿論赤色!)にミニスカートを合わせ、黒のニーハイブーツを履いている。
 頭の上にちょこんと乗ったキャスケット帽がまた可愛らしい。セイバーはスカートとブーツの間の俗に言う絶対領域が眩しい、今時のお洒落な少女となってしまったのだ。
 コーディネートを担当した真楽が不機嫌とも上機嫌とも読めない調子で語ったものだ。きっと本人にもどちらか分かっていない。
 「だいたいボクと背格好も同じ、足のサイズもほとんど一緒なのが判明したのが運がいいと言うか、運の尽きと言うか。
  とりあえず適当に見繕ってあげたけれど、いい?これは貸しよ。覚えておきなさい。いつか絶対に倍にして返してもらうわ。
  ………ねえ聞いてるの、そこのぼんくら2人」
 ごめんな真楽、あの時の俺はお前の話を聞いてなかった。ちょっとはにかみながら真楽の後ろからやってきたセイバーの、妖精もかくやという姿に目を奪われていたのだ。
 ちなみに2人というのは俺と同じように外へ叩き出されたアサシンのことである。俺みたいにあんぐりと口を開けた間抜け顔こそ晒さなかったものの、瞳孔が収縮してぱちぱちと瞬きしていた。
 待ってる間に少し話をしたのだが、抱いた感想は「意外と腰が低くて話せる人」というものだった。
 なんというか、セイバーと同じように王の気風というものはどことなく漂ってはいるものの他愛ない話にも口下手ながら割と付き合ってくれる。
 見た目の厳つさとは裏腹にセイバーの鷹揚さとはまた違った親近感をこちらに与えるサーヴァントだった。
 セイバーと違い問題なく霊体化できるはずなのにわざわざ実体化して俺に付き合ってくれるのがその証拠である。
 「ヤヒロはともかく、アサシンにまでまじまじと見られるのはさすがに少し気恥ずかしいな。
  ん…………どうだ、女らしい服装は慣れぬ格好だが…………似合っているだろうか……?」
 「――――」
 「――――」
 「……何ぼけっとしてるのよ」
 底抜けの馬鹿を見ているような真楽の調子に我に返る。
 なかなか帰ってこない返事に緊張の色を帯びてきたセイバーへ慌てて返事をする。
 「に、似合ってる。すごく。うん。似合ってる。すごく似合ってる、思う」
 強すぎる感動は俺の言葉から語彙力や接続詞を奪っていった。
 仕方ないのだ。白く焼き付いた思考が通常の回転速度を取り戻すまであと数秒はかかる。
 「まさかあのヴォルムスの薔薇園で戦った勇者のこんな姿を目にする日が来るとは……」
 横にいたアサシンはなにやら感慨深げに唸っていた。
 「ま、ボクの手にかかればこのくらい当然………と言いたいところだけど、さすがに今回はそこまで豪語しないわ。
  元の素材がいいから何着ても映えるのがまた腹立つわよね。どうなってるのよこの顔に髪に身体。喧嘩売ってるの?
  こうやって並ぶと造形物としての差を見せつけられてるようで気に入らないわ。ボクが全然可愛くないみたいに見えるじゃない。服貸してあげたの失敗だった」
 「そうか?私はミズホとて実に可憐な娘だと思うが?」
 「な」
 いつもの皮肉を並べ立てようとした真楽の表情がセイバーのあっけらかんとした言葉によって固まる。
 真楽の鼻は冬の朝の冷気のせいで赤いが、この硬直は冷たさのせいではないらしい。
 「そうだぞ、卑下は良くない。
  俺も真楽のこと可愛くないなんて全然思わないぞ。今だってその服似合ってると思うし」
 「んが」
 俺も心に浮かんだ実にまっとうな意見をそのまま口にしたところ、潤滑油不足の機械のように硬い動きで真楽が俺の方へ顔を向けた。
 嘘もお世辞もない。玄関先に出てきた真楽が羽織っているモノトーンのコートはなんというか、実に真楽らしい似合い方をしていた。
 皮肉屋だがお節介な彼女らしい几帳面さというか。上手くは言えない。
 しかし我らがセイバー陣営の言葉は彼女にとってお気に召さなかったようで、やがてうつむいてぷるぷると震えだした。
 着火まで5秒前。いや、既に3秒前だったか。
 「いいからさっさと行っちゃいなさいよ馬鹿セイバーども!
  服汚したら承知しないわよ!クリーニング代まで全部耳揃えて返してもらうわよ!破きでもしたら新品に替えてもらうんだから!
  言っておくけれどそれ全部高いのよ!覚悟しなさい!何をぼさっと突っ立ってるの、いいからボクの前から消えろ!しっしっ!」
 
 
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 「まったく、本当にどうしようもない奴らね。手を組んだのは早計だったかしら。
  ………アサシン!何にやにや笑ってるのよ!」
 「……?そうか、俺は笑っていたか。すまない」
 
 
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 「む、どうしたヤヒロ。何を呆けている」
 先を行くセイバーが振り返る。スカートの裾がひらりと舞う、ただそれだけの仕草が一枚の絵画のように完成されていて、どうにもくらりと目眩がする。
 ごく普通の綿のパンツにジャケットという自分がこの上なくセイバーの引き立て役となっていることを自覚しつつ、なんでもないと答えた。
 「ただ今朝のことを思い出していただけさ。
  真楽のやつ、よく服を貸してくれたなって。昨日の夜に歩調をあわせたばかりだったのに」
 「ああ、そのことか」
 ブーツの靴底がアーケードのタイルを小気味よく鳴らす。くるりとその場で回ってセイバーがこちらへ向き正対する。
 休日でこそあるものの午前中なので彼我の距離が少し空いていてもまだ人混みに遮られるようなことはない。もっとも、密集率は高まりつつあり時間の問題ではあった。
 「私の見立てではミズホはそういう女だ。
  気難しいが己へ向けて伸ばされた手は振り払わない。振り払えないのではなく振り払わないのだ。
  それが強者からの請願なら己の評価に満足して意気揚々と話に乗るし、弱者からの請願なら小馬鹿にし悪態をつきながらも面倒を見るだろう」
 「……それ褒めてるのか?」
 「褒めているとも。どうにも小心な部分はあるがな。
  言ったろう。助けを求める手を振り払えないのではなく振り払わないのだ。握るべき手を間違えない目を持っているのだ。
  勘違いするなよ。助ける相手を選り好みするわけではない。それが本当に彼我にとって必要なことなのかを判断できるということだ。
  さほど多くの言葉を交わしたわけではないがこちらが信頼を置く限りは信用できる人間と思えた」
 セイバーは間違いないと頷く。俺も彼女の有り様を思い出す。
 俺はセイバーほど人を見る目があるわけではないが、それでも自分の気持ちを正直に述べるならばセイバーと同じ心境に至る。
 「俺も……そう、かな。
  真楽のことは信じるし、信じたいと思う」
 「うん。ならその感覚は大事にしてやれ。向けられた信頼の分だけあの娘は応えてくれるし成長する。
  魔術師としては良くて二流といった才ではあるが、いつか多くに認められた時そんな狭い枠に留まらぬ女になるだろう。
  おそらくあの高慢は一生治らないだろうが、何。人間なぞ玉に瑕があったほうが味があるというものだ」
 そうして年配の教師のように優しく微笑む。
 多くの人間と向き合い続けた経験から来るものか。外見こそ二十歳そこそこの女性といった様子だがそこには人の伸び代を慈しむ感嘆があった。
 たびたびひどく年上の人間と会話をしている気分になるのは道理だろう。彼女はひとつの時代を駆け抜けた英傑なのだ―――こんなに可愛らしくても。
 「ふぅん。そうか、セイバーは真楽のことが気に入ってるのか」
 「そうだな、うん。その通りだ。人というのは多少困った部分があったほうが面白い。
  陰湿な女というのは好かない人種ではあるのだが、あの娘は悪ではあっても邪悪ではない。そのあたりさっぱりしている。だから好きだ。
  ……なんだヤヒロ、妬いているのか?安心しろ!私の一番はヤヒロだ!」
 それが一転、けたけたと悪戯っ子のように笑い出す。おもむろに俺のすぐ胸元まで寄ってきてばしばしと肩を叩かれた。
 こんな近くまで寄ってこられるとあの端整な顔が間近に迫ってさすがに気恥ずかしい。
 相反する側面をいくつも併せ持ち、事あるごとにくるくるとそれらが入れ替わるのはセイバーの魅力のひとつだ。
 なんというか、たまにとても眩しいものを見ている気になる。
 「痛いってばセイバー……。
  …………さて、これからどうしようか?」
 「む?兵站の調達という話ではなかったのか?」
 はて、と小首を傾げるセイバー。いやまったくその通りであるのだが、状況は今朝の想定よりも大きく変わっていた。
 最たる原因は目の前の同行人である。
 「そうなんだけど、そのほとんどは食料品だからな。
  夕飯の用意も兼ねて帰りがけにまとめて買っちまえばいい。あとは日用品が少しだからそう時間はかかりゃしない。
  それよりも、だ。最大の誤算はなだ。真楽がここまで気合を入れてセイバーにお洒落をさせたことでさ」
 「何か問題があるのか?」
 大アリです、陛下。
 このまま買い物だけしてさっさと帰ってきました、となれば真楽先生の皮肉が絶好調となり、勢いを増して俺へ向けて突き刺さることになります。
 「勿体無い。
  買い物だけっていうのは、セイバーのその格好に失礼ってもんだ。せっかく似合ってるんだしな。
  セイバーにもこの街のことをいろいろ見てもらいたい。夜の戦いだけじゃなくて、昼間の人の賑わいってやつをさ。
  人通りの少ない場所は避けるし、それに万が一のことがあってもセイバーがいるなら大丈夫だろ?」
 「ふん、当然だ。並のサーヴァントなら2,3体纏めてかかってこようが相手にはならない。
  白昼堂々、周りの被害も顧みずという不逞の輩ならば尚更だ。しかしそうか、そうだな……うむ。
  そういうことならば諸手を挙げて賛成だ。君の気遣い感謝するぞ。確かに用事だけ済ませて帰還するなぞ味気ない。
  ヤヒロに案内してもらえるというのならば願ってもない話だよ。よろしく、ヤヒロ」
 そう言ってセイバーは微笑みつつ俺へ向けて右の掌を差し出した。
 一瞬手を繋ごうという事かと早合点しどきりとしたが、やがてそれが握手を求めているのだと気づく。
 まじまじと指先を見つめる。まるで氷細工で出来てるかのように白くて細い指先。この手が鎧篭手の上からあの仰々しい剛剣を握っているなんてとても思えない。
 本当に丈が長いのかわざとなのか、それとも真楽の指示なのか、若干袖余りのニットから覗く指を取ることに多少の緊張感があったことは否めない。
 「………ああ。任せておいてくれ、セイバー」
 「うむ!」
 手を握り返されたセイバーが心底嬉しそうに笑う。真冬の冷気に負けぬ太陽がそこにあった。
 しかし、これ。よく考えたら、デートってことなんだよな。
 握ったセイバーの手はひんやりと冷たく、そして意外なほどしっとりとした温もりが感じられてどぎまぎせざるを得なかった。
 
 
 ---
 
 
 そうして俺は、セイバーの想像以上の好奇心旺盛さについて侮っていたことを理解するのだった。
 「………」
 またセイバーが黙りこくったまま張り付いている。
 ペットショップの熱帯魚のコーナー、大型水槽の中で鱗をぬらぬらと怪しく光らせて泳ぐアロワナを、穴が空くほどの勢いで観察していた。
 興味の惹かれることを見つけるとセイバーはすぐにこういう仕草を示した。気の済むまでじっと見つめる。手に取ることができるなら果敢に手に取ってみる。
 この大型複合ショッピングモールに入ってからずっとこの調子だった。服や家電、ちょっとしたインテリアに至るまで。
 未知に対しての強い憧憬の気持ちをくりくりとよく動く瞳に浮かべ、そうして自分の中で合点が行くと後ろで控えている俺に振り返り決まってこう言う。
 「はー。凄いなぁ」
 「それ食用じゃないからな」
 「ヤヒロは私を侮りすぎだ」
 さすがに今度ばかりはセイバーも憧れではなく非難めいた視線を俺に送ってきた。
 「これが観賞用の魚ということは理解している。しかし、うむ。世界は存外に広かったのだな。
  このような怪魚がごろごろいるような土地があるとは……。如何な秘境だ。幻想種の一匹や二匹いても驚かないぞ」
 「そこまで無茶苦茶じゃないけれど、こいつはアマゾンにいるわけだから……実際今でも秘境といえば秘境だよ」
 「ほう」
 ますます楽しげな様子でじぃっと魚を見つめる。アロワナの方はじろじろ不躾に眺められているのも気にせずゆうゆうと大型水槽の中を独り占めして泳いでいた。
 魚が水槽の中を左右へ行ったり来たりするのに合わせてセイバーの小柄な身体もひょこひょこと移動するのが後ろで見ていてなんだか可笑しい。ひとりでに微笑んでしまう。
 「私も多くの旅をし、多くを見てきたつもりだったがこうしてみると我が見識の狭さを思い知らされるな。
  世界のつま先くらいは知ったつもりだったがその実は髪の毛の先ほども体験していないとは。悔しいやら嬉しいやら」
 「悔しいのは分かるけど、嬉しいのか」
 「それはそうだろう」
 再度怪魚から視線を切り、セイバーが俺へ横顔を向ける。
 このモールに入ってから途切れることのない、見知らぬものへの感動がある。
 「冒険はいい。未知への探求心で胸焦がすのに理由は要らない。
  邪悪なる巨人を倒すためだの、武者修行のためだの。
  毎度なにかしら名目はあったし大変なこともたくさんあったが、旅先で未知を学ぶのはいつだって私の楽しみだった」
 「ふぅん………」
 なんだかセイバーの話は遠い空の下の匂いがした。
 馬に跨って野を駆け、森を抜け、山河を渡り。地平線の彼方、霧の狭間から現れた美しき白亜の城を目の当たりにして冷たい深緑の空気を胸いっぱいに吸い込む。
 配下の騎士たちの歓声を背中に聞きながら、この先に待ち受ける脅威と希望を想像して気を引き締める。しかし逸る心によって知らずと口の端には笑みが浮かぶのだ。
 きっとセイバーが体験したであろう、そういう朝露の香りが不思議と難なく想像できた。
 俺とセイバーの間で繋がりがあるから、などという現実的な話ではない。その言葉のひとつひとつにセイバーの歓喜がこもっていればこそ、誰にだって想像できたろう。
 「他人事のように聞こえるかもしれないが、此度の冒険もまた楽しからずや。
  見知らぬ土地の空気を吸い、見知らぬ強敵たちと渡り合い、見知らぬ友らと語り合い、見知らぬ文化の洗礼を浴び、見知らぬ食事に舌鼓を打つ。
  我が晩年はそういったことからも離れていたからな。やはり遠征とはこうでなくては。
  ヤヒロも今のような些末な戦いなど早々にけりを付け、いずれこの広大なる世界を旅してみるがいい。
  お前が言うからには、我ら霊長らが万里を制した今でも未踏の領域は残っているのだろう?いや、前人が足跡をつけた場所でも構いはしない。
  ひとつひとつの足跡はそれぞれ刻んだ各々のものだ。意味が無いということはない。探求する心さえあれば遍く世界が君を待っている。
  ヤヒロには私のように王などという堅苦しい肩書はない。いっそ羨ましいくらいだ」
 また笑顔の種類が変わっていた。師が弟子を見守る時の顔。
 俺は空想してみる。セイバーのように、自分の足で様々な土地を渡り歩く。
 セイバーのように、自分の狭い世界をあっさりと砕いてしまうようなカルチャーショックと向き合い続ける。
 セイバーのように、若芽からこぼれ落ちた朝露の匂いを嗅いで目を覚ます。
 この誇り高き王が胸に抱いた数々の感動の追体験をする。それは何故だかとても、俺には魅力的な話のように聞こえた。
 「そんな人生設計、考えたこともなかったな。
  でも楽しそうだ。セイバーの言葉を借りるようだけど、楽しそうだ」
 「そうだろう?ふふっ。
  さあて、このでかぶつが如何に獰猛に飯を食らうのか見てみたい気もするがそこまでは店員に頼み込めまい。
  次に行くとしようヤヒロ!何、爬虫類だと?面妖な、隅々まで見届けてくれる!」
 俺がくすぐったいような妙な温かみを胸の中に感じている間に、あっという間にセイバーはガキ大将のノリへ戻ってしまった。
 俺の手をその細い指でしっかり掴むとその小柄な身体に秘められた強靭なトルクでもってぐいぐいと引っ張っていく。
 その手のひらの柔らかさに感じ入る暇もない。快活なる我が陛下はお供の騎士たる俺を連れて遊びまわるのに夢中なのだ。
 「ちょ、セイバー………ぐえっ」
 「なんだこいつは。ベルツノ……なに?
  ヤヒロ!なんだこのふてぶてしい面の生き物は!トカゲか!」
 「え、ええっと確かカエルだったはず……」
 「カエル!この風体でか!
  貴様、そんななりで泳げるのだろうな?小川のせせらぎにも押し流される姿しか思い浮かばないぞ」
 「活発に泳ぎ回るんじゃなくて、陸上の湿ったところに潜んで餌が通りかかるのを待ち伏せする…んだったかな」
 「……なんと……このずんぐりむっくりとした身体にして暗殺者であったか……できる」
 深く感じ入っていらっしゃるが、俺はそれどころではない。
 貴様もよく見てみよとばかりに肩に腕を回されて脇に抱かれているため、俺が視線をすぐ横に向ければセイバーの曲眉豊頬とした顔があるのだ。
 近い。滅茶苦茶近い。この距離だと赤みの差した頬の艶やかさや品良く伸びた睫毛、金糸の髪の輝きまでつぶさに感じ取れてしまう。
 「セイバー、あの、セイバーさん?王様、陛下、あの、その」
 「なんだヤヒロ、そのように他人行儀に。
  お、こちらは今度こそトカゲか?明り取りに照らされてなかなか贅沢な暮らしをしているではないか。
  知っているかヤヒロ、トカゲは案外美味いんだぞ。旅の間はよくハイメが獲ってきては調理してくれてな!
  『保存食など下の下、森にいる間は森のものを、河原を進む時は川のものを食べればいいのです』とやつが言うので成程郷に入っては郷に従おうと思い立ち、トカゲの炙りをもりもりと」
 話がやたら生臭い。反比例するように状況は砂糖菓子を溶かし込んだようなことになりつつある。
 ふわりと漂って俺の鼻をくすぐる甘い香り。セイバーの髪の匂いだと気づいて耳まで赤くなったのが鏡を見ずとも分かる。
 首に腕が巻きついているため、片頬には地上の万物よりも柔らかいと思われる何かの感触すらある。セイバーの胸にふたつ乗っているあれである。
 駄目です王様。そのように男友達の間でするような振る舞いを遠慮なく俺にされては困ります。無自覚なのでしょうが俺は口から心臓が飛び出そうです。
 「こちらは亀か?亀も美味いぞヤヒロ。
  しかしこやつはこんな乾いた環境にいていいのか?亀とは沼地にいるものではないか。
  だが鮮やかな甲羅をしたやつだ。肉を食べた後はこれで細工を職人にさせたいものだな」
 「せ、せせせセイバー?セイバー!?ねえちょっと落ち着いて!セイバー!?」
 「ははっ、ヤヒロ!ここは面白いものに溢れているなぁ!」
 ―――結局その後もショッピングモールをこんな勢いで俺は連れ回された。
 元気いっぱいのセイバーに引っ張られたりくっつかれれたりするたび解説どころじゃ無かったことは言わずもがなである。
 脳味噌を甘く煮溶かされるような経験であったと、後の俺は述懐する。
 
 
 ---
 
 
 「…………よく食ったなぁ」
 「うむ、美味い美味い!
  ヤヒロの作る料理も良いが、職人の作る料理も捨てがたい!ここはなんたる美食の都か!」
 ただのケンタでキーなお店のチキンだけどね。職人というか、大量生産品だけどね。
 ともあれ、セイバーはご満悦のようである。備えつけのベンチで俺の隣に座った彼女が行儀悪く指を舐めているのに苦笑しつつウェットティッシュを渡す。
 この上奮発して高級店の食事を振る舞ったらセイバーはどんな顔をするのだろう。見てみたい気もするが、しかし予算の都合がそれを許さないのだった。
 カーネルおじさんちでメニューを渡されるなりあれもこれもと吟味するセイバーの顔つきがあまりに真剣だったので、ついつい彼女が欲するもの全部買ってしまった。
 こんな調子で高級店でも目移りされたら俺は破産しかねない。ただでさえセイバーは何かと食欲旺盛かつ底なしの胃袋でいらっしゃるのだ。
 セイバーがストローでプラスチックのドリンク容器からコーラを啜る。すぼまった桜貝の唇へついつい目をやりながら俺はクリスピーの最後のひとかけらを口の中に放り込んだ。
 ―――昼食をどうするか、という話になって俺が出した結論は以下のようなものである。
 すなわち、ショッピングモールのフードコートにあるカーネルおじさんちでテイクアウトし、モールの近くにある公園でお天道様の下で食べる。
 さすがに使える金にも限りがあるので何でもかんでも食べさせてあげるわけにはいかず、さりとてせっかくなのでそれらしいことがしたいという希望の摺り合わせが行われた結果であった。
 こうしてセイバーの様子を見る限りには正解だったように見える。横顔をちらりと伺うと公園内でシートを広げる家族連れや遊歩道を歩くカップルをセイバーはのんびり眺めていた。
 ひだまりの温度だ。戦いにおいては刃のごとくきりりと引き締まる双眸が、今や溶けたバターのように穏やかな蕩け方をしていた。営みを送る民を見やる王の目。
 実際今日はよく晴れていて外にいると気持ちがいい。ピクニックの用意でもしてやってきていたら相当晴れやかな気持ちになれただろう。
 「平和だな」
 呟いたセイバーの声も心なしか輪郭がはっきりとしておらず曖昧な響きだ。心境の隙間から漏れ出たみたいなあやふやさ。
 なんと返事するのが適当か分からず、俺も「うん」と面白みもない相槌を打つに留まる。
 夜になるとこの街で魔術師同士の戦争が行われているなんて悪い冗談のようだ。しばらくそうして俺とセイバーの間に沈黙が保たれたまま、ふたりして公園の賑わいの中に身を委ねる。
 届くのは風に吹かれて植木の枝が囁く音。公園内で憩う人々の声。あとはたまに沿道から響いてくる車のクラクションの気が抜けた音くらい。平穏そのものだった。
 ふとした拍子に「ふむ」とセイバーが鼻を鳴らしたので何の気なしに俺はそちらの方を向いた。
 「どうしたのさセイバー」
 「うん。そのまま動くなよヤヒロ。いいから動くな」
 そう言ってセイバーはしばらくベンチの上の汚れ具合を手で擦ったりして確かめていた。
 ひとしきり調べ終わって納得行ったのか。よしと小さく頷いたセイバーは直後、想像だにしなかったとんでもない行動に出る。
 ベンチの上に手をついて身体を反転させたセイバーは、そのまま身を横たえて仰向けに寝そべった。
 その頭部は、ベンチの端に腰掛けていた俺の膝の上に。ころんと。さも当然、というふうに。
 脱いだ帽子を胸の上に乗せ、後頭部の感触を確かめて委細問題なしと彼女は頷いた。
 俺の膝がセイバーの小さな頭の重みを感じて状況を把握するまで、若干のラグが発生したのは仕様上仕方のないことである。
 「せっ………せ、せせせせせせ」
 続きは言えなかった。
 ひんやりとした感触を唇に感じ、ただでさえ回っていなかった舌が完全硬直したためだ。
 そのどこか心地の良い冷たさはセイバーの人差し指を発信源としている。俺の膝の上から半眼で見上げているセイバーの左手が俺の口元まで伸びて触れていた。
 「いいじゃないか、このくらい。腹ごなしにしばらく横にならせてくれ。
  こんなことをしたのは生を受けてからこの方、今が初めてだ。なんせ、男として生きてきたからな」
 ふやけた視線で俺を見つめているセイバーが言う。その白い頬へ僅かに朱が差しているのを見た時、ほんの少しだけ浮ついた気持ちが斜めにスライドして静まった。
 そうだ。これは驚くべきことに、デートなのだ。いつまでもセイバーの一挙一投足にばたついていてどうする。
 セイバーほどの度胸を今すぐ備えよと言われると厳しいが、せめて少しはしっかりしたところを見せねば。
 彼女の頭の座りがいいように腰を落ち着ける。おや、とセイバーの瞳が微かに丸くなった。
 「突然のことで、びっくりしたけど。
  セイバーがこんなことで満たされるなら、気の済むまで乗っけてるといい。うん」
 「そうか。その、なんだ。得難い経験をありがとう」
 セイバーと俺で釣り合いが取れているかといえば、まったく取れてはいないわけだけれども。
 どういうつもりでこんなことをしたのかはさっぱり見当つかないわけだけれども。それでも、セイバーの気まぐれに付き合えるぐらいには意地の張れる男でありたかった。
 時間だけが過ぎていく。先程まで身近にあった公園の喧騒も今は遠い。
 布越しに感じるセイバーの温もりと重みにすべての神経が集中していた。結構軽いんだな、とか。ちょっと痛くはあるけど我慢しなきゃな、とか。
 普通こういうのはする側とされる側が反対なのではないかとも思うが、かといって俺がセイバーに膝枕を頼めるかと言えばかなり厳しい。そこまで洒脱な男にすぐにはなれない。
 セイバーはリラックスした様子で俺の膝の上で目を閉じている。眠っているのかとも思って一瞬遠慮しかけたが、俺は沈黙を破ることにした。
 「……そうだよな。セイバーは死ぬまでずっと男装して生きたんだよな」
 「ああ。王位を継ぐには女の身では出来なかったからな。
  5つの頃だったか。我が父ディートマル王の元へやってきたヒルデブラントに私は才能とやらを見出された。それ以来はずっと男として過ごした人生だ。
  人前で服を脱ぐということは無かったし、こんなことは以ての外だ」
 俺の膝に頭を預けたままセイバーが肩をすくめる。
 「お陰で髭の1本たりとも無い貧相な王とたびたび馬鹿にされたものだ。蓄えられた髭こそが男の象徴という風潮の世界だったから」
 「髭かぁ……そりゃ付け髭とかしない限り無理だよなぁ。
  あ、そういえば結婚はどうしたんだ?セイバーの生きてた頃なら、未婚ってわけにもいかないだろ」
 「なかなか痛いところをついてくるな。ああ、勿論式を挙げたよ。生涯に2回結婚した。
  一人目の妻、ウィルギナルは本気で私のことを愛してくれた。まあ、彼女はエルフの一族だったからな。
  私の本当の性別を打ち明けても動揺は薄かった。彼女にとっては性別はさほど重要なことではなかったのだろう。
  私もそんな彼女のことを愛していたが、あまり長くは続かなかった」
 「あー……あまり面白くない話になりそうか?」
 「面白くはないが、きっとヤヒロが思ってるような破局という形ではない。病による離別だ。
  私が叔父の国の奸計によって国を追われた頃の話だ。心労が祟ったのだ。悪いことをしてしまった」
 瞳を閉じたまま滔々とセイバーが語る。
 おそらく務めて無感情を保ち言葉を発しているのだろうが、俺にはそれらがどことなく寂しげに見えた。
 ただ口をつむぐ気は無いようでセイバーの舌は止まらない。公園のざわめきが更に遠ざかった。
 「二人目の妻イゾルデは私が祖国へようやく戻ってきてから娶った女だ。
  彼女の国の危機を私が助けたことにイゾルデは恩義を感じていたようで、私の性別を知った上で我が国のために殉じてくれた。
  女としての幸せは終ぞくれてやれなかった。やはり彼女に対してもすまなかったと……今でも思っている」
 伏せられた瞼の下では、かつての悲しみが蘇っているのだろうか。
 ここでようやく俺は気がついた。あまりの察しの悪さに我ながら内心ため息が出る。
 ほんの僅か、隙間ほどではあったが。セイバーは今、心の柔らかい部分。弱みを意識的に俺へ見せていた。
 そのためにこんな慣れない真似をしているのだろうか。いや、彼女にとってはこういう場でなければ出来ないことなのだ。
 口ばかりの俺を常に奮い立たせてくれたセイバーをずっと見ていれば嫌でもわかる。セイバーは戦場では決して心の動揺など晒さない。
 堅固を通り越していっそ呪いのように、王たる己が膝を付けば配下の騎士に弱気が伝染するのを知っているかのように、彼女は絶対に弱音を吐いたりしない。
 そんなセイバーだからこそ。王という立場も男という立場もなく、戦場の緊張感も遠く。
 そして俺で分相応かどうかは分からないが―――信頼できる人間が側にいる今は彼女にとって心をありのままに吐き出す千載一遇の機会なのだと。そう、気づいた。
 何故かそれが俺には誇りに思えた。誰かへ弱さを吐露できるセイバーの気高さに敬意を覚え、その相手に選ばれた栄誉に感じ入った。
 「セイバーは、男として生きたことを後悔しているのか?」
 「それはない。ディートリヒ・フォン・ベルンという“人間”の人生自体に後悔はない。そこには男も女もない。
  私はただ我武者羅に己が立場を全うし、精一杯駆け抜けたつもりだ。―――ただ、そこに夢想の自由があるとするなら。
  女として生きた私がどのような人生を歩んだか、興味が無いとは言わないな」
 「そうだなぁ……」
 セイバーがもし女性だったら。……いや、今でも女性ではあるのだけれど。
 今俺の膝を枕にして目を細めているこの女の子がそういう道を辿っていたとしたら。どういった人間になっていたのだろう。
 セイバーが夢想の自由を仮定したように俺もその権利を行使し、想像に思いを馳せる。
 「……やっぱり、大した女傑になっていたんじゃないかなぁ。
  男として生きようが女として生きようが、セイバーの鮮烈さに変わりはなかったと思う。そんなことでどうにかなる軟なキャラクターしてないよ、セイバーは。
  きっとものすごく格好いい女騎士になって常識なんのそので暴れまわっていたに違いない」
 「はは、素直に喜んでいいのかよく分からないな」
 「喜んで欲しいかな。
  俺はきっと、セイバーがどっちであっても………今みたいに憧れていたと思う」
 「………そうか」
 そよ風が公園を撫でていく。ベンチひとつを占領して午後のひとときを過ごす俺たちのことも。
 セイバーに膝を枕とされた動揺はいつの間にか過ぎ去っていた。くすぐったさは未だ残るものの、それは俺の中で心地よい感覚へと変わっていた。
 風がそよぐたびに俺の鼻腔に届くセイバーの華やかな香りや膝に乗っている信頼という重み。そういったひとつひとつがひどく大事なものに感じられた。
 その中で俺は思い当たる。
 セイバーが内心を語ってくれている今こそ、聞かねばならないことがひとつある。
 「なあ、セイバー」
 「うん?」
 彼女の相槌を待ってから、恐る恐る俺は口にした。
 「セイバーの、聖杯にかける望みって一体なんだったんだ」
 「そのことか。それはもういい。私はヤヒロの犠牲者なしにこの戦いを終わらせるという意思に賛同したんだ」
 「いいや」
 それでは駄目だ。
 きっとその願いとは、聖杯に頼らねばならないほどの奇跡とは、彼女の一番の未練だろう。
 「俺は、セイバーの口からそれを聞かなきゃならないんだ」
 その未練を晴らす機会を奪ってしまった俺だから、聞き届ける必要がある。
 例えこの聖杯戦争がどういう結末になったとしても、それをずっと覚えていなくてはならない義務があるんだ。
 セイバーの涅色の瞳が真っ直ぐに俺を見上げてくる。何の感情も篭っていない透き通った眼だ。鏡のように映った者の心を映し出す光だ。俺はその視線を真っ向から見つめ返した。
 ……やがてセイバーは根負けしたとばかりに小さなため息を付いた。
 「……私の聖杯にかけた願いはな。
  ――――今度こそ、真の意味で死にたい。そういうものだった」
 「…………どういうこと?」
 要領を得ないセイバーの返答にオウム返しに聞き返す。
 俺の目を見つめたまま、セイバーは微笑んだ。それがどうにも物悲しいものに見えて仕方がなかった。
 「そういう契約なんだよ。私は戦神オーディンとそういう約束を交わした。
  多くの力を得る代わりに、私はその生の終わりに彼の眷属となって吹きすさぶ嵐の化身となる。まっとうな意味では永遠に死ねない王。それがディートリヒという王なのさ。
  かの迎えである黒馬が私のもとへやってくるまでは覚悟をしていたことだった。当然のことだと。約束を今こそ果たそうと。
  だがいざ目の前にしてみると、人間というのは罪深いものでな。
  思ってしまうんだよ。出来ることならば、我が友たちの元へ逝きたいと」
 「…………………………」
 嵐を思う。台風の風巻が轟々と鳴り響くさまを。
 あれは蹄の音。セイバーが、ディートリヒが駆る馬の蹄の音なのだという。
 セイバーに死の安息はない。死後の安寧をかなぐり捨てて彼女は運命と戦い続けた。そういう英霊なのだと語る。
 「聖杯はあらゆる願望を叶えるという。
  その権能ならば、あるいは。遍く空を駆け続ける私を射殺し、友らの前へと連れて行ってくれるのではないか。
  そう、愚にもつかない事を願ったのだ」
 きっとこれは、たかだか17年と少ししか生きてはいない俺が軽々しく立ち入ることのできる話ではない。
 きっとこれは、その希望を砕いた俺が関われる話ではない。
 夢でも見ているかのようにセイバーはぼんやりと青空を眺めている。誇り高く誠実な彼女が聖杯に縋り付くほどに切望した願い。
 ありとあらゆる思いがあるのだろう。ありとあらゆる記憶があるのだろう。
 国のために民のためにあらん限りの力で駆け続けた最期の報酬が永遠の孤独。彼女はそれを当然と言うが、俺にはそうは思えない。
 その権利が無いと知りながら、俺は口を開いた。
 「やっぱり、死んでも独りっていうのは寂しい?」
 「うん。我が生涯は仲間と共にあったものだ。
  それはきっと億万分にひとつの限りない幸運だったのだろう。我が一生は多くの試練に晒されたが、彼らがいたからこそ私がある。
  ああ、だが告白すれば不安でもある。私という人間に関わらなければそれぞれにあったろう、彼らの人並みの幸せを燃やし尽くして私はベルンという国を守った。
  私は王として前に進むことに精一杯でなにひとつ報いてはやれなかった。私を前にして何と言うかな、彼らは……」
 「別に何も言わないんじゃない?」
 「…………え?」
 蒼穹の向こうに茫洋とした視線を送っていたセイバーが、我に返って俺の顔を見た。
 目を零れ落ちそうなくらい開き、ぽかんと呆けて俺の顔をまじまじとセイバーが見ている。
 自分でも何でこんなことを言ったのか分からない。深海の底からふつりと立ち昇った気泡が海面へ到達するように、ごく自然と口から溢れた。
 あるいは。セイバーが俺を彼らと同列に扱ってくれるからこそ、彼らによって背を押されたのか。
 「きっとすごく喜んでくれるだけで、何も言わないと思うよ。
  だって、そりゃそうだろ。戦ったんだよ。
  皆きっと、セイバーが好きだから一緒に戦ったんだよ。
  友だって、仲間だって。いつも口を酸っぱくしてそう言ってる癖に何でそれに気づかないのさ。
  セイバーとともに歩むと決めたときからもう報酬はもらってたんだよ。きっと」
 きっと。きっと今の俺がセイバーに万感の思いを抱くように、彼らもまた感じたのだ。
 押し寄せる荒波にも吹き付ける逆風にも屈せず、果てなき荒野を確かな足取りで歩いて行くセイバーが示す未来を見てみたいと。
 この小さな背に多くの可能性を見出して胸を熱くしたのだろう。この王にこそついていきたいと一もニもなく剣を捧げたのだろう。
 決して全てを幸せに導いたわけではなかったけれども、ひとつの結実を創り上げたセイバーへ言うべきことなどないはずだ。
 この王の騎士ならば、例外はあるかもしれないけれど、きっとそうあるはずだ。
 気の抜けた顔をするセイバーは今まで見てきた表情の中で一番あどけなく、俺と同年代の少女にしか見えやしない。
 素直に可愛いと思った。なんて綺麗な女の子なのだろうと、心底から頷けた。
 成り行きで参加したこの聖杯戦争ではあったけれど、共に戦う相棒がこのセイバーで良かった。そう、しみじみと感じ入った。
 「分かるよ。
  あなたが言ったんだ。俺も、セイバーの隣に立っている友なんだって。立っていていいんだって。だから、分かるよ」
 だから平気でこんなことも出来てしまったのか。手を伸ばし、風に吹かれて柔らかくそよぐセイバーの髪を撫で付ける。
 俺がこんなことをしていいのかと一瞬迷いもしたが、構うものか。金砂で出来た髪はその見た目通り絹糸のような触り心地だった。
 「そうか…………」
 俺の言葉を受けてしばらくセイバーは瞳を閉じ、きっと遥か彼方の追憶に思いを馳せ。
 「そうか」
 撫でられるままに撫でられながら短く呟き、ほんの少しだけ満足げに微笑んだ。
 
 
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 「ヤヒロ、いいのか?ひとつくらい持つぞ」
 「いいんだ。こういうのは左右のバランスが崩れたほうがかえってしんどいんだ」
 両手の指に感じるのはたらふく品物を飲み込んだ買い物袋の重み。
 予想以上に嵩張った。あらかじめ丈夫な買い物袋を持参していなければ今頃ビニール袋の頼りない耐久力にひやひやしていたことだろう。
 バス停から降りてセイバーと並び家路につく。
 結局一日中歩きまわった上にこれから今度は夜の街へ繰り出すわけだが、疲労感や緊張感こそあるものの気分は軽い。
 気づけばもう夕方で、斜陽の明かりが俺たちを照らしていた。ぼちぼち街灯も点灯を始めるだろう。
 ――あれからもセイバーには散々振り回された。
 身体のどこにそんなバイタリティがあるんだと聞きたいくらい。ランジェリーショップに突撃した時はさすがに頭を抱えたものだ。
 しかも店員とあっという間に打ち解けて試着までして、それを俺に……回想はこのへんでやめておこう。夜が眠れなくなる。
 「しかしだな。こう言っては何だが私はヤヒロより膂力という点では数段勝るぞ?やはり役割分担としては……」
 「いいんだ。
  何かあった時にセイバーにはすぐ動けるようであってもらわなきゃ困るし、それに…………」
 「それに?」
 押し黙った俺へ懐疑の視線をセイバーが差し向ける。
 さすがに少し照れくさくて、それでもひとつ咳払いして続けた。
 「……今日一日はセイバーは俺にとってデートの相手だから。
  女の子には、きちんと見栄を張りたい。重たい荷物を持たせるなんてもってのほかだ」
 「……………」
 沈黙があった。
 前を向いたまま歩き続ける。セイバーはどんな顔をしているのだろうか。恐る恐る顔を上げてちらりと横目で伺った。
 「……………」
 不思議な表情をしていた。不思議な、としか言いようがなかった。
 微笑みではあるのだけれど、嬉しそうな、悲しそうな、楽しそうな、寂しそうな。重なり合った色の滲んだ水彩画のような。
 そのまま小さく息を吸い込んでセイバーの胸が上下する。複雑な重さをした吐息を静かに、ほんの少し漏らした。
 「そうか。ならば、何も言うまい」
 不思議な色をしているのは表情だけではない。
 濃い茶色の瞳孔が夕日を反射させてきらきら輝いている。セイバーにはこの夕日に染まった景色がどう映っているのだろうか。
 少なくとも、この光景を目に焼き付けておこうとする意思をそこに感じた。過ぎ去る特別な一日を惜しむ意思を。
 「ヤヒロ。ヤヒロは楽しかったか?
  この一日、私と一緒に街を歩いて」
 ほんの一呼吸ほどの僅かな時間浮かべていた感情を切り替え、セイバーがいつもの芯の通った笑顔で俺に問う。
 楽しめたかどうか、と聞かれれば答えはひとつきりしか無い。
 「……うん。それは掛け値なしに。
  女の子とデートするなんて生まれて初めての経験だったけど、その相手がセイバーで良かった」
 伝える言葉を特に考える必要はなかった。思ったことをそのまま口にしただけだ。
 それが偽りのない俺の本心である。
 「そうか。私もだ。
  なるほど―――奇跡とは、こういう味がするのか」
 セイバーが何の気無く言ったであろう台詞によって諸々が腑に落ちた。
 奇跡と言った。成程、この一日はセイバーにとってあり得ざる一日だった。
 ディートリヒ・フォン・ベルンが男であった事実は永劫の不変である。この世界では普遍的で、どこにでも転がっている、だが彼女にとっての、歴史には刻まれない奇跡。
 それを、セイバーは楽しかったと語ったのだ。たった一言、たったそれだけの言葉でこの一日に別れを告げた。
 その奇跡の相手が俺でよかったと、セイバーはそう言ってくれた。
 ああ、俺も覚えていよう。
 セイバーが大事そうに目に焼き付けたように、俺も焼き付けておこう。
 彼女がそれを奇跡と呼んだように、俺も彼女と過ごしたこの日々を大事に記憶しておこう。
 どんな過酷が立ちはだかったとしても、今こうして夕日に照らされている美しき剣の佇まいを思い出せるように。
 落陽の輝きに既視感を覚えて、嗚呼と納得する。
 世界を僅かな間塗りかえるこの陽光の明かりは、セイバーが放つ炎熱の色によく似ていた。
 ……街灯に明かりが灯る。俺の住まい、古びたアパートが見えてきた。
 これから荷物を置いて夜の街へと繰り出す。聖杯戦争を終わらせるために。
 真楽との示し合わせは済んでいる。今晩からは俺とセイバーだけではなく彼女とアサシンも一緒だ。それだけで随分気が楽だ。
 セイバーが口を開けば友のことを言うのは間違いではないらしい。協力してくれる友がいるのはいいものだ。
 「……さあ。ヤヒロ。我がマスターよ」
 前を歩いていたセイバーがアパートの階段を前にして振り返る。
 もうそこにこの得難い一日を共にした元気な女の子の面影はない。歴戦の騎士、厳かなる王の力強い笑みがある。
 「夜が来る。この戦いに幕を引きに行こう。
  ヤヒロの力の限りを示すがいい。私はお前の剣だ。お前に危険が及べばひとりでに抜けて主の身を守る剣だ。
  この戦争を剣ではなく、なるたけ言葉で終わらせようとする君を私は肯定する。我はヤヒロと共にある」
 誇りに満ちたその宣言に頷いて応える。
 横にセイバーがついていてくれるならば何も怖くはない。俺の全幅の信頼にセイバーは全力をもって共に戦ってくれる。
 あとは彼女が俺の肩に乗せてくれた期待へ報いるだけだ。まだ無力の俺にとって、それだけがこの夕焼け色の王に見せることのできる姿勢となる。
 アパートの階段を上がろうと一段目に足をかけた俺に、すでに昇りきっていたセイバーが上から声をかけてきた。
 「それと、ヤヒロ」
 「うん?」
 それは沈みきった夕日の放つ残光が見せた錯覚か。
 「ありがとう」
 こちらを向いていたセイバーは、今日一日俺と街を歩いて元気にはしゃいでいた女の子の顔に見えた。