SS-「King.」

Last-modified: 2018-11-03 (土) 01:29:10

 「……………」
 思わずぽかんとした。口をあんぐりと半開きにし、手に下げていたビニール袋の重さも忘れた。
 中身ごと手から滑り落とさなかったのはほとんど奇跡に近かった。
 誓っていいが俺の反応は同年代の男としてそれなりに常識的な線であると思われる。
 想定は可能であった事態であり男子不覚悟と罵られれば誠にその通りなのだが、しかし思考を凍りつかせて棒立ちになったことには情状酌量の余地はあるだろう。
 なんせ、俺が買い物から帰ってくるのと我が家の手狭なユニットバスから物凄い金髪美人がびしょ濡れで出てくるのはほぼ同じタイミングだったのだ。
 「ぬぅ………。
  ヤヒロ、何故外出していた?」
 さて、今腰に手をやって怒りを示している舶来美女の容姿を如何に形容したものだろう。文学は嗜み程度にしか触っていないのが悔やまれる。
 触れれば壊れてしまいそうな、ガラス細工のような、という表現はおそらく妥当でない。
 勝手にバスタオルを拝借し乱暴に髪を拭いていた彼女の裸身は確かに透き通りそうなくらいの真っ白い肌ではあったが、そういった曖昧な儚さはない。
 もっとくっきりとした、明確な存在感を伴ってそこにあった。
 服や鎧の上からは分からなかったものだ。細面に似合わず、全身きちんと鍛えられている。意外と広い肩幅がその証拠だ。
 手足は細く見えるが骨と皮で出来ているがための細さではなく、細くて頑丈なワイヤーを束ねて捻ったような筋肉の発達をしている。
 それは体幹も同じだった。如何にもマッチョという隆々とした肉の付き方はしていない。
 必要なだけの運動能力を持たせたモーターをお互いが干渉しあわないよう緻密に計算されて配置されている。
 175cmある俺の身長より10cmは低いはずの小柄な肉体に詰め込めるだけのトルクを詰め込んである。これほどのバランスがあっていいものなのか。
 おまけにセイバーにはアレがある。あの、炎が。
 「おい、ヤヒロ。
  聞いているのか?聞いていないのであろう。
  我が立場に臆せず物言いをせよとは申し付けたが、しかし無視を決め込まれることに寛容になったわけではないぞ」
 徐々に彼女の憤怒の度合いが増してきたがもうしばらく思考は停止したままだ。凝縮された意識を元に彼女の肉体を見分する。
 そう――――だが、それらは分かりやすくはあるが、それと分かるようには出来ていない。
 そういった獰猛な身体能力を脂肪の紗幕で女性らしく覆っているからだ。薄いセロファンを貼り付けるように隈無く隙無く、筋肉という筋肉に彩色してある。
 極限まで引き絞られた身体にそういった戦いにはきっと無駄な女気を贅を凝らして盛り付けてあるのがひどく扇情的で淫猥だった。
 例えば、朝露のように涼やかな細面を飾る金糸の髪。例えば、鍛え抜かれた胸筋によって形よく整えられた慎ましやかながらも自己主張の激しい乳房。
 例えば、競泳選手のように脂肪のヴェールによって隠された腹筋の下に沿って続いている、髪と同じ色をした金色の茂――――
 「ヤヒロ!」
 「あっ………はいっ!
  いやそうじゃあない!前を隠せっ!前をっ!」
 「ぬ?おお、うむ。
  それもそうか。そうだったな」
 ようやく俺は我に返った。玄関先で回れ右。強烈な磁力を放っていたセイバーの裸身から視線を引き剥がす。
 嫌な脂汗を頬に背中に所構わず垂れ流していた俺の背中に届いたのは、セイバーの訝しげな叱責の声だった。
 「それで、そうとも。話は終わっていないぞヤヒロ。
  何故ひとりで出かけた。今のお前の身は我が身でもあるのだぞ。ヤヒロの見せる一瞬の隙を他のサーヴァントどもは狙っているのだ」
 「お前、まともな下着持ってないじゃないか!
  ひとまずここまでは有り合わせの服で間に合わせたけど、下着くらいちゃんと穿けっ!ブラジャーはコンビニには無かったからとりあえずショーツだけっ!」
 背中を向けたまま適当に狙いを定めてビニール袋を投げつける。まっすぐ、背後に。
 セイバーと相対して背を向けたのだからおおよそ向きは正確なはずだ。かさりと音を立てたのはセイバーが品物を受け取った証か。
 俺とセイバーの間に保たれたしばらくの静寂の中にビニール袋のこすれる軽やかな音やショーツの入った箱を開封するプラスチックの響きが混じる。
 ややあって、ふむ、と合点がいったという風にセイバーの鼻息が聞こえた。
 「これでいいか?穿いたぞヤヒロ」
 「ああ、そうかセイ………」
 少しだけ安心して振り向いた。
 ショーツを身につけただけで乳房は隠さず腕組みをしているセイバーがいた。
 今度は思考停止から素早く復帰する。陛下、下々の身にはその刺激は強すぎてございます。
 それともご生前はもしかして裸族でいらっしゃったのでありましょうか。その場合配下の騎士の方々はどのように思われていたのでありましょうか。
 「前隠せよぉっ!」
 「おっとそうだったな。
  ヤヒロ、適当にヤヒロの服を借りるぞ。構わぬな?」
 「好きにしてくれ!終わったら呼んでくれよっ!」
 俺は過去から教訓を学ぶ男だったようだ。勢い良く玄関の戸を開け外に出て扉に張り付く。
 日も山の稜線に沈みかかって橙色の斜陽を投げかけている。冷え込んだ空気を吸い込むと湯だった脳みそが適度に冷やされた。
 煙草を吸いたい気持ちとはこういうことを言うのだろうか?待っている間はえらく手持ち無沙汰でくすぐったい感覚だった。
 我が家たる古びたアパートの欄干から道行く人々の数を数える無体を始めた頃、蝶番が歯ぎしりを立てる微かな音と共に扉が開く。
 「ヤヒロ、もういいぞ」
 「……本当に大丈夫なんだろうな」
 「男子の癖してみみっちいやつだ。私が大丈夫と言ったら大丈夫なのだ」
 無闇に自身に満ち溢れた声に後押しされ、恐る恐る俺は振り返る。
 「……………」
 「どうした。お前の言うとおりちゃんと前は隠したぞ?文句はあるまい」
 それはそうですが、陛下。
 確かに前は隠れましたが、サイズの大きい俺のTシャツをあたかも貫頭衣のように着ただけというのは年頃の男の情欲を煽るものがございませんでしょうか。
 しかも俺はショーツしか渡していない。胸はTシャツの生地が張り付くまま―――いわゆる、ノーブラである。
 それとも狙ってやっておいでなのでしょうか。いやそれはないという確信がある。短い付き合いではあるが、それはない。
 「………もういいよ、それで」
 「うむ、結構なことだ。
  しかし、このくらいのことであろうとひとりで外出するのはやはり感心できんな。
  私はいかに瑣末な用事であろうと伴えという命を億劫というだけの理由で撥ね付けるつもりはない。次からは私に声をかけるが良い」
 若干呆れたような様子で玄関口に立っていたセイバーが部屋の奥へ戻っていく。
 シャツがぶかぶかなせいで襟から覗く雪のように白い肩口やシャツの裾から覗く牝鹿の脚、ぺたぺたとフローリングを踏む砂糖菓子みたいな裸足が恐ろしく眩しくて仕方ない。
 どうやらこのサーヴァントは自分の身体の魅力がいかにマスターの動揺を誘っているのかまるで分かっていないようだ。
 「……このくらいって、なんだよ。
  言っておくけど、めちゃくちゃ恥ずかしかったんだぞ。コンビニで女物のショーツ買うの。店員の目と最後まで見れなかったんだから」
 その時だった。
 若干非難めいた口調で俺が告げた言葉に対し、セイバーが表情を変えてゆっくりと振り返った。
 厳しくはないものの、真面目以外の色のない表情を浮かべるサーヴァントへ思わず玄関口で靴も脱がずに背筋を伸ばす。
 「それは、ヤヒロの尊厳を損なうような行為か?」
 「……や、そこまでは言わないけれど」
 「いや、相応にヤヒロに恥辱を負わせる行為だったのだろう。私のために魂に恥を背負ったのだろう。
  すまない。どうやら私にもヤヒロに対し気遣いが不足していたようだ」
 そう言ってセイバーは頭こそ下げないものの瞳を伏して確かに謝罪の意思を見せた。
 こんな美人に改まられるとこちらこそ恐縮してしまう。俺はどぎまぎと目を白黒させた。
 その謝り方というのも仰々しくポーズを取らないのがかえって気品を感じてしまって、どこにでもあるLED照明に照らされた狭い我が家がまるで王宮の一室のよう。
 どうにか気を取り直した俺は靴を脱いで部屋に上がりながらセイバーに手振りでもういいと告げた。
 「大したことじゃないのは間違いないんだしさ。
  それより、セイバーのそういうところに驚くよ。王様なんだろ?セイバーは」
 「そうだな。ベルンの王、ディートリヒ・フォン・ベルンとは私の真名だ」
 「なのに如才無く俺に対しても謝るんだもんな。
  今だって、言っちゃ悪いけどそんなずぼらな格好だってのに文句一つ言いやしない。
  不思議というか、感心するというか。もうちょっと王様ってのは尊大なものだと思ってた」
 「ふむ。ヤヒロは私のマスターだ。
  マスターに対して相応の振る舞いをしている、というのもあるが」
 セイバーが部屋の片隅にひっくり返してあった座椅子を手に取ってカーペットの上に置き、腰掛ける。
 脚を伸ばしたまま組んで座るためにすらりと長いおみ足が太ももの付け根から顕になる。形の良い裸足裏もフェティッシュで非常によろしくない。
 気遣いの有無を語るなら、こういったところもどうか意識して欲しい。無理か。駄目か。
 触れれば霜で凍りつきそうな真白い輝きを放つ脚から視線を外して彼女の顔を見つめるのにはそれなりに苦労があった。
 「王らしく無い王、と言えば私はそうかもしれない。
  ヤヒロ、お前は王とは孤独であるものだと思うか?」
 「……分からない。そんなこと想像したこともなかった」
 「ああ、それが当たり前だろう。
  とまれ、私は理想の王とはそういうものなのだろうと思う。万民の思い描く王とは、な。
  民や臣下たち個々人へではなく、国家というものに常に目を向けるもの。人間というよりは機構(システム)だ。それがきっと正しき王の姿というものだ。
  そうあってこそ初めて王国というものは完璧に機能する。人が人のまま治めるには、程度はあれど国というサイズは大きすぎる。
  全てに目端を行き届けさせるには、人というものの機能は不足に過ぎる」
 「……だけど」
 ここ数日だけの付き合い。だが生死を共にした濃密な関係において、彼女の語るその理想像は目の前のサーヴァントには当てはまらなかった。
 奔放にありながら慎重。陽気にありながら冷静。高貴でありながら庶民的。表も裏もありつつその全てが開けっぴろげ。
 どちらかと言えば真逆(まさか)だ。表しか無い人間、裏しか無い人間は勿論、表裏を持つ人間とも彼女の存在は違っていた。
 「だけど、セイバーは違う」
 「そうだ。私は結局、そんな王にはなれなかった。人間でしかあれなかったんだ。
  人に頼り、部下に頼り、友に頼った。その結果多くを得て多くを失った。得たものはともかく、失ったが故は私の責だ。
  ……堅い話抜きに、私の頭がさほど高くないのはずぅっと師に叱られっぱなしだったのもある。王となってからもずっとな。ヒルデブラント、彼は我が友であり師でもあった。
  平民出身にして我が最愛の親友のひとり、ハイメは王としての見識しか知らぬ私に民の目線で語ってくれた。
  彼らより多くを学んだときと同じように、共に戦うヤヒロに対して私は友として接したい。だからこそすべきと感じれば謝りもする」
 返答としてはこれでいいか、とセイバーが微笑みながら言う。
 「服装とて倣うぞ。ヤヒロが着るものを、ヤヒロが選んでくれたものを身につけよう。
  遥か遠方の地ではベルンでの常識など通用しない。召喚される際に得た知識なぞあてになるものか。長旅を続けあちこちに身を寄せる人生だったからな。よく知っているとも。
  そのたびにその土地で出来た友の言葉を信頼した。良いことばかりでもなかったが、それに関しては間違ったことをしたとは今でも思っていない」
 先程、みずぼらしい俺の部屋がセイバーがいるだけでまるで王宮の一室のようだと思った。
 とんでもない。あべこべだ。たまたまここが俺の部屋だというだけで、ここは既に王の自室となっていた。とすれば、まさに俺は王に謁見する平民か。
 至極リラックスした様子で座椅子に脚を投げ出して座っているだけ。ただそれだけで空気に独特の張りが生まれている。
 穏やかに語るセイバーの前にかしこまって座ってみたりもしてしまう。安物のカーペットの上に無造作に投げていた座布団を尻に敷いて、あぐらではあるものの背筋を伸ばす。
 「セイバーは凄いな」
 「うん?なにがだヤヒロ」
 「それだけ隣人を信じられるのは、それだけ自分に自信があるからだ。
  王としては足らない身だと言ったけど、王としての自分に自信を持っていたからの言葉だ。
  俺にはそう聞こえた。とてもじゃないけど俺にはそういう気持ちは持てないからさ」
 「……そうだな。うん。
  こんなことを言うとヒルデブラントにはまた叱られてしまうかもしれないが」
 瞳を細めてセイバーが苦笑する。
 昔日の残照を眺める眩しさがそこにある。多くを背負い、多くと共に生涯を駆け抜けた王にだけ出来る優しい微笑みがそこにある。
 俺の弱さを見つめた上で、それもまた善しと頷く者の鷹揚さがそこにある。王ではなく、人として、人生の先達としての素顔がそこにある。
 「私は『王足り得ぬ王』になろうとしたのだ。
  清廉潔白であろうと努めながら、孤独を是としつつ孤独を選ばず。滅私奉公たらんと目指しながら、全を尊びつつその実は個を愛した。
  理想を識りながら、尚人間として在ろうとした。その姿勢は王として正しくはないが、私には相応しいと考えた。
  自信があるように見えるとすれば、そこだ。そう在った王を多くの仲間が認めてくれたが故だろう。
  矛盾を孕みながらも王として君臨する私を、彼らが認めたのだ」
 今度はこちらが目を細める番だった。
 「ヤヒロ。自信とは己の中に生ずるものではない。
  己自身のみで己を信ずる者がいるとすれば、よほどの傲慢を持つ者か自分以外に世界の無いやつだ。私はそうではなかったし、そういう類の強さは持てなかった。
  私にとって自信とは、他者が、仲間が、与えてくれるものなのだ。
  ヤヒロがどれだけ己を嘆こうと私はヤヒロを信じる。正しくなくとも良い。正しいと思うことを成せば良い。
  そうある限り、ベルンの帝王、ディートリヒ・フォン・ベルンの名のもとに、ヤヒロの生涯において君に自信を授けよう」
 
 
 ―――窓から差し込む夕日と、発光する白い照明の光。
 ―――多くの照明の下にあってなお負けぬ輝きを放ったその微笑を、その在り方の気高さを、きっと俺は一生忘れないだろう。