少女は走っていた。
「はっ、はっ、はっ、はっ………!」
車両の後部へたどり着く。連結部を結ぶ通路の扉がひどく重く感じられる。
気の所為だ。気の迷いだ。
事実その通りだったが、背中から追い立てられる重圧感はそう冷静に感じている部分も気障りに粘つかせる。
まるで犬のように忙しなく荒い息をつき、次の車両――最後尾車両へ転がり込んだ。
"来ている"。
"すぐ後ろまで来ている"。
今後ろ手に閉めた金属製の扉ですら気休めにしか感じられない。簡易的かつ即席であれ、魔術による施錠をしたにもかかわらず、だ。
『アレ』と比べれば先程例えた通りまさに己は逃げ惑う子犬にほかならない。
きゃんきゃんと悲鳴を上げ、迫り来る暴力から生命を保とうと走り回る、やっと歯が揃った程度の、子犬。
魔術の名門オルナ家の次期当主であろうと、神秘そのものを相手にしては同じ力を侍らせていなければ太刀打ちできようか。
「サーヴァント……!」
忌々しげに"その名"を呟いたところで何が変わるわけでもない。
何故こんなことになったのか。何故こうして追い立てられているのか。
きっかけだけは思い出せる。そう難しくない調査だったはずだ。
誇り高き我が家名においても、また己の実力からしても、失敗しようのない……するはずのない、することはできない依頼だった。
それが、何故このようなことに。
生まれてこのかた一度も乗ったことのない、地下鉄などという文明の象徴へ乗ったのが神秘を尊ぶ魔術師としての運の尽きか。
ああそうとも。まず構内の人混みで迷い、電子化された切符売り場で右往左往し、目的の電車に乗ることすら困難だった―――閑話休題。
否。それだとしても大したことのない話だったはずだ。
いくら不可解な痕跡があるとはいえ微々たるもの、それにこのロンドン地下鉄は毎日呆れるほどの人間を吸い込み、吐き出す現代の乗り合い馬車。
神秘など最初から築きにくい場所であるはずだった。せいぜい低級の悪霊か何かが騒いでいる程度、と。
それが――――。
「これじゃ……っ、まるで……っ、『聖杯戦争』……っ、です……っ」
何らかの魔術による作用か、人っ子ひとりいない列車内で息も絶え絶えに呟いた。
あの魔術儀式の最中味わった苦い経験ばかりが脳裏をよぎる。
駄目押しとばかりに。今は我が傍にはマスターとして参加していたならばいて当然の英霊は存在せず、代々伝わる竪琴がひとつあるだけ。
普段なら無類の自信を与えてくれるこの魔術礼装も、サーヴァントが相手では小枝を握っているような気分だ。
例え嘗ての最高神の宝具の複製といえど、繰る者は現代を生きる魔術師である。差は歴然、気休めにしかならない。
逃げなければならない。だが、どうやって。
とりあえず退避できる場所を伝ってこうして列車の最後尾までやってきたが、ここでとうとう行き止まりだ。
電力が不足しているのか、普段より頼りなく灯る電灯。真っ暗よりはマシだがそれでも不安を増長させる。
がたん、ごとん、と列車が線路を走る。高速だ。窓を破り飛び降りることも考えた。
不可能ではない。衝撃の軽減に何らかの魔術を用いれば傷もなく着地可能だ。
だが、追跡者はそれを考えさせる余裕を与えることはない。勤勉に、実直に、狩るべき獲物を求めて狩人は訪れた。
「………………ッ!」
悲鳴を押し殺したのは長年の厳しい訓練の賜物だ。
ぎ、ぎ、ぎ。鋼鉄が金切り声をあげて断末魔の叫びを上げる。車両の連結部の扉がサーヴァントの膂力によってあえなく引きちぎられていく。
紙とは言わない。ダンボール程度の耐久性を示したのはむしろ現代の技術者たちへ諸手をもって拍手を送るべき事実だろう。
後続の車両へ踏み入ったサーヴァントの姿はかろうじて灯る昏い電灯の下でははっきりとしない。
それでも、その機械的な殺意は英霊でなくとも感じ取れた。遠慮はない―――鏖殺以外に意思はない!
突進に際し音もない。難燃性を念頭に置いて設計されているはずの床材ですら焦げ付くほどの踏切だったろう。
スニーカーを履いていればゴムの焼ける焦げ臭い匂いが車内を漂ったはずだ。
憐れな子犬はとうとうその毒牙に引っかかり、引きちぎられ、食い殺される。それが定めだ。
神秘に生きる者と神秘を追う者。そこには永遠の隔たりがある。―――だが。舐めるな、英霊。
「『───来たれ、来たれ、来たれ。契約の元に』」
この術者は既に恐怖は飼いならしている。
皮肉にも、多くの惨い経験が身を強張らせそうになる彼女を支えた。
チャンスは一度。そこに賭ける。トドメに最小限の力を振るわれるような段階になればチェックメイトだ。
必殺の一撃にこそ、最大の好機が生まれる。
無力化であれ、一撃必倒のそれであれ、そこには手加減のない力がある。
「『精霊たちよ、マナよ、今一度神代の姿になりて―――私の敵対者を妨害する障壁となれ!』」
竪琴を鳴らす。必死ではあったが、気が遠くなるほど反復した練習の経験は決してオルナを裏切らなかった。
間に合った。英霊ですら一撃のもとには砕き得ない障壁がすんでのところで形成される。と、同時に。
あらかじめ起動していた、背後の構造物の材質を脆くする術式が起動した。
英霊の暴虐が迫る。障壁が金切り声をあげ、歯を食いしばって受け止めた。腕か、それとも武器か、あるいは宝具か。
この車内の光量、この昏き状況はオルナへその英霊の真名を認識させない。ただとっさに………"勢いへ抗わなかっただけだ"。
神代より伝わる魔術はその耐久性をごっそりと刳り取られたが、確かに英霊の一撃を防ぎきった。
障壁を纏ったまま吹き飛ばされる。背中に感じた感触はまるで綿のよう。おそらくは窓ガラスとその枠だったか、スポンジを引き千切るように―――。
―――車外へ。
……分かっていた。
高速で走る車外。地下鉄だ、外壁までは幾ばくの距離もない。衝撃軽減の魔術も間に合わないだろう。
わずかでも準備の時間があったなら大したことではなかったが、追っているのは超戦力―――サーヴァントだ。
どれだけ外法に通じていたとしてもこれでは間に合うことはない。外壁へ勢いよく叩きつけられ、待っているのは重症か。最悪、死。
それでもあの迫りくる死[サーヴァント]と比べればいくらかはマシだ。
いくらかは生存の可能性が残っている。竪琴を掻き鳴らして必死の応戦をし、魔術師としての名誉すら残らない戦いの果てに無惨に死ぬよりはいい。
覚悟を決め。歯を食いしばった。少女の体を砕く衝撃は―――
――――来なかった。
「え…………?」
「…………」
……地下鉄の車両が遠ざかっていく。
車内を追いかけてきたあの追手のサーヴァントが追ってくる気配はない。カーブの先の暗い通路の先へと、車両は消えていく。
追う気が失せた理由は。列車から飛び降りるのを躊躇したのか。いやサーヴァントならこの程度の速度大した事ではない。なら役割を終えたのか。
呆然とそれを見送った後、ようやく己の自重が他者によって支えられていることを知る。
見上げる。ひと目で分かる東洋人の顔立ち。無造作に切りそろえられた髪、不細工なわけではないがいまいち印象に残りにくい顔立ち。
大樹の根が張るようにしっかりと自分の体重が支えられている感覚は青年の肉体が相応に鍛えられている証拠か。
しかし。
この顔。
この雰囲気。
どこかで見たことが―――ー。
「―――大丈夫?」
「……あ、はい!とりあえずは!?」
「そう。ならいいや」
言葉少なく青年は答えた。よくよく意識を集中させると、微かに魔術を行使した形跡が周囲にある。
衝撃軽減の魔術か。それほど複雑なものではない。初歩的な、しかし幾度も繰り返し鍛錬したことでそこそこの練度を感じるもの。
逆に言えば神代の魔術を一部でも行使するオルナと比べれば天と地ほどもの差がある未熟なもの――あるいは、非才のもの。
青年は列車の走り去った先を注意深く見えていたが、やがて危機が別れを告げたと察するとオルナをその場へと下ろす。
地下鉄が走る地下故にあたりは真っ暗ではあったが、通路に点在する僅かな電灯のおかげで照明の魔術を隔てることなく様子を探ることが出来た。
こうして並んでみれば上背は20cm、いやそれ以上も上にある。オルナとしては見上げるような男だ。
……我が身の無事を知ったことでオルナの頭脳は急速に回転を始めた。
残された魔術の痕跡。クリケットのバットで打ち返されたボールのように車外へ飛び出した自分を怪我なく受け止めた――偶然にできることではない。
高速で走る車両へ人間の肉体で追走しながら、己のことを見ていた……?
「あなた、は」
「ん……」
青年は頼りなく点灯する電灯が辛うじて物の輪郭を映し出す暗闇の中、不思議そうな顔をした。
不思議そうな顔をしたと、闇の中でもすぐに分かった。
「どこかで会ったこと、ない?……気のせいかな。
ま、いいか。この状況に囚われてるなら君も無関係じゃない。魔術に関わってるか、或いは……『聖杯戦争に関係したことがあるか』、だ。
………ううん、ともかくどうしたものか」
青年は少し困ったように右手で頭を掻く。その右手の甲にあったものをオルナは見逃さなかった。
どこか歪な形の赤い痣。十中八九、聖杯戦争における―――令呪とよばれる、サーヴァントへの絶対命令権。
―――かつては。ケルズ・ダウル・オルナも有していたもの―――。
「ともあれ君はあっち側とはとても思えない。なら仲良くなっておこう。
ようこそ。
ロンドン地下鉄の環状線を利用した魔術結界、ならびに限定的な『聖杯戦争』へ――――」