SS-「The Tube 3話」

Last-modified: 2018-11-03 (土) 01:34:49

 「『───来たれ、来たれ、来たれ。契約の元に』」
 『いいか、三合までだ』と青年―――ヤヒロは言った。
 『三合までなら打ち合える。いや本当は厳しいが、どうにかする。それ以上は受けきれない可能性がある』と。
 『それまでに、俺を助けてくれ』。
 「『精霊たちよ、マナよ、今一度神代の姿になりて―――我が意の元に茨となれ!』」
 竪琴の音は即ち鋭き剣に。掻き鳴らした響きは即ち堅き鎖に。
 『強化』の魔術によって構造を変質させた折りたたみの警棒によって、サーヴァントの剣と鍔迫り合いを演じていたヤヒロが1歩大きく飛び退く。
 直後、オルナの竪琴が叫んだ(ちから)が敵のサーヴァントを我が獲物と見据えて強襲した。
 ぎ、ぎ、ぎ、と、サーヴァントの剣がひとつひとつに角度を変え、軋みをあげさせながら音階の刃を受け止める。きっと理性あれば名うての剣士なのだろう。
 空気に溝を刻みながら奔る空気の刃。剣豪の一閃にも等しいそれが無数に放たれ、しかしサーヴァントは斬り結んでみせる。金切り声に似た音が連続して響く。
 しかしそれでも尚、次の一投を躱すことは不可能だった。なんせこれまでが剣の一振りだったなら、これは鎖鎌の分銅だ。
 撓りながら迫った、魔術によって編まれた空気の鎖がサーヴァントに絡みつく。左腕、両の腿、右足首へ絡みつき動きを縫い止める。
 神秘そのものである英霊といえど、神秘そのものから放たれた呪いは一息に引き千切ることが出来るものではない。
 この竪琴、"ケサルハル"が奏でるのは神代の調べ―――ケルト神話の最高神ダグザが持つ宝具の限りなく近い再現。
 "伝承保菌者(ゴッズホルダー)"という奇跡とオルナ自身の輝ける才能が揃ってこそ為し得た、サーヴァントにすら通ずるこの世ならざる演奏。
 「今ですっ!」
 「分かってるっ!」
 互いに好機と捉え、すぐさま転身。全力で薄暗いトンネルを駆ける。
 獣に追い立てられる脱兎のような情けない姿ではあったが背に腹は代えられない。戦力差は明白である以上、これは戦略的撤退であると言い聞かせる。
 ゴムタイヤが破裂するような音が背後から轟いた。もう拘束をひとつ引き千切ったのか。想像以上に早い。
 猛然と走るヤヒロの背中を追いながら、オルナは駄目押しとばかりに再度竪琴の弦を爪弾いた。
 配給する魔力の量も震わせる弦の本数も、可能な限り足を動かしつつ何ひとつ間違えたりはしない。
 惜しみなく注がれた努力によって育まれた天賦の才能へは若くして既にオルナの中で大樹となっている。多少の不利な条件では小揺るぎもしない。
 「『───来たれ、来たれ、来たれ。契約の元に』」
  『精霊たちよ、マナよ、今一度神代の姿になりて―――嵐よ来たれ、我が息吹と化せ!』」
 何千回、何万回と反復してきた術理は決して裏切らず、今回もオルナの確かな力になった。後方に向けて強靭な突風が放たれる。
 他に要素を持たないただの暴風ではあったが、シンプルであるが故に出力が大きく、持続する。例え英霊であれこの風に逆らって進むのは至難の業となる。
 これなるは大神ダグザの息吹。大いなる北風の前に人はその歩みを止めるものだ。
 影のようにはっきりとした形を持たない英霊とそのマスターを置き去りに、オルナとヤヒロはひたすらに線路を伝って走った。
 
 
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 ―――肩で息をつく。空気を貪るように飲みこみ、吐き出す。酸素をひたすらに求めて胸を大きく上下させる。
 魔術で肉体を強化したとしても走れば息は上がるし疲れもする。走行に使っているのは自分の体なのだ。
 いくらか程度は軽くあったが、オルナの横のヤヒロも似たような調子だった。全力疾走で相応の距離を駆け抜けた。まるで呼吸を乱さないというわけにはいかない。
 「ま……撒けた……です……?」
 「どうかな……確かなことは……言えない……」
 線路上の退避スペースの壁へ背中を預けて互いに荒く呼吸を繰り返す。
 本当の事を言えばこのままずるずると壁に沿って座り込んでしまいたい。しかしまたあの影の存在―――シャドウサーヴァントに追い立てられることを思えば楽はできない。
 ヤヒロは『すぐに拝める』と言っていたが、ようやくその趣旨をオルナは理解した。
 ここまでに遭遇した回数は今のを含めて2回。2回とも同じようにヤヒロが時間を稼ぎオルナが動きを止める、即席の前衛後衛でどうにか凌いで逃げ切った。
 毎度必死だ。まっすぐ向かってくるだけなのが幸いで、これが意思を持っていて複雑な動きをしてくるようだったらと思うとぞっとする。
 そんなサーヴァントがいたりすればヤヒロは一手斬り結ぶことすら怪しかったろうし、前衛が成立しないことでオルナの魔術も容易く躱されていただろう。
 そもそも現代の魔術師や魔術使いがまともな手段で拮抗できる存在ではないのだ、サーヴァントは。
 「こ、ここ……本当にこんなことばっかりです…?」
 「体感、目下悪化中だよ……少しずつ増えていってる。ということは……」
 「取り込まれている人間が増えてるってことですか………」
 これはまずい。さすがにオルナにも状況の深刻さが少しずつ分かってきた。
 どういう機序でこのシステムが動いているのかはさておこう。何がしたいのか、何をしようとしているのか。
 酷く捻れきったこの『聖杯戦争』の真意はまるで読めないが、事態が坂道を転がるように悪辣な結果へ向かって進んでいることは嫌がおうにも肌で感じ取れる。
 外部に脱出するなり連絡を取る手段を見つけるなりして応援を呼ぶ。それが叶わないなら手持ちの手札でこのからくりを破壊する。
 そうでもしなければ何か良からぬことがきっと起こる。この地下空間に充満する冷たく澱んだ空気に加え、粘ついた陰謀も漂っている気がして辟易とした。
 「……それにしても」と。息が整いつつあるヤヒロが感心したような調子で口を開く。
 「君は大したもんだ。程度の差はあれ、サーヴァントに対して現代の魔術は殆ど通用しないのが常だ。
  三騎士クラスともなれば対魔力スキルで完封される。なのに君のその竪琴の魔術はサーヴァントすら縛ってみせる。まるで英霊みたいだ、オルナは」
 「……………」
 「俺ひとりだと息を潜めてやり過ごすか、あの手この手を使ってほうぼうの体で逃げ出すのが精々だ。
  やっぱり本物の魔術師ってのは違うもんだな……。いろいろなところでいろいろな魔術師を見てきたけど、多分才能って点では君は俺の知る限り五本の指に入る。
  いや、俺にはオルナが使ってるその魔術のことはさっぱり分からないんだけどな?」
 ――――――毒だ。これは甘い毒だ、と。そう思った。
 オルナ家200年ぶりの悲願。そう時計塔の魔術師たちはケルズ・ダウル・オルナのことを言う。かつての鬼才の再来と。
 事実、そうなのかもしれない。そう言われて育ち、そう言われて鍛えられ、そう言われて世に出た。完全な環境で完全な調律を受けた、完全な素材から生み出された楽器。
 しかし彼らの言葉は称賛の意とは裏腹にどこか冷ややかだ。そもそも"伝承保菌者"、神代の奇跡を受け継ぐ血筋など、彼らにとっては腫れ物もいいところなのだ。
 権威はある。歴史もある。しかし、それだけだ。権力闘争に明け暮れる時計塔の内部では、オルナのような存在は持て余した宝石でしかない。
 だから、この青年の言葉はひどく危ういものだった。
 乾いた喉を潤す清水のように自然に染み込んでくる。朴訥。飾り気がない。感じたことを感じたままに、だから偽りがない。
 時計塔の魔術師たちのおべんちゃらとはまるで違う、感謝を籠めて穏やかにオルナを認める言葉だ。
 「………………………」
 努めて、オルナは心に蓋をした。視線を足元に落とし、レールの鋼鉄を見つめながら、ピアノの調律をイメージする。狂っている音をチューニングハンマーで調整していく。
 簡単だ。何度もやってきた作業だ。我が身の未熟を嘲笑う。何度も何度も叩きつけられてきた家訓を脳裏に浮かべる。
 惑うのは己の心を律せてない証拠だ。世に送り出されて何かひとつでも信ずるに足るものがあっただろうか?
 半信半疑となりつつあった家の教えは真理だった。たくさんのものがオルナを裏切り、せせら笑うように容易く傷つけた。様々な方向、様々な角度から。
 剥き出しの悪意もあった。無自覚の悪意もあった。ただの偶然ですらオルナを散々に痛めつけた。何が当代きっての天才だ、そんなものは何も防いではくれない。
 この世に信じうるものは血の繋がった者たちが与えるものだけだ。それだけは確かにオルナを裏切らない。
 ………オルナは無意識に腕を抱いていた。この精神のチューニングは実に効果的で、オルナの心に鎧を着せて守ってくれる。
 ただひとつ困ったことがある―――冷えるのだ。血が冷たくなるような感覚、それによって冷たい海水が海底へと沈んでいくように自分の何もかもが重くなる錯覚がある。
 息を吸いこむ肺が重い。鼓動を続ける心臓が重い。そんな錯覚を感じる脳髄が芯から冷え込んで、吐き気がするほど重い。
 自分にこんな思いをさせる彼は何なのだろう。マツミネ・ヤヒロ。かつての戦いで出会った少年。
 東ゴートの覇王、西欧において広く知られた焔の大英雄たるサーヴァントを引き連れてオルナと対峙し、オルナを破り、オルナを逃した男。
 名乗られた時は呆気にとられて聞きそびれた。何か大きな齟齬がある気がする。あの戦いの彼と今目の前にいる彼はどういう関係なのか。どうして自分のことを覚えていないのか。
 ―――思考停止(カット)だ。余計だ。因果関係などどうでもいい。自分はこの男を利用さえ出来れば、それで。そうあるべきだ。
 気を張っているべき状況にありながらぼんやりと瞳を霞ませて思慮の沼に沈んでいたせいで、反応が遅れた。
 「――――っ!」
 「きゃ……っ!?」
 何か大きな生物がオルナに覆いかぶさり、押し倒した。いや、何かなど考えるまでもない。
 今この場で呼吸していた生命は2つきりであり、ひとつはオルナで、もうひとつは横にいたヤヒロのものだ。
 衝撃こそオルナを抱えたヤヒロの腕が吸収したが、冷え冷えとしたコンクリートの床にオルナは強く押し付けられる。
 「ひ――――――――」
 口から悲鳴が漏れるのを抑えられない。
 ザ――――と、ノイズ混じりにフラッシュバックしたのは『あの夜』のこと。
 自分の判断の甘さ、軽率さで、己の女としての尊厳を奪いつくされ陵辱された。踏みにじられ、弄ばれ、蹂躙された。
 胃の中のものを残らず吐いた時の味は今でもはっきりと覚えている。涙が止まらず、生まれてから培ってきたものが無惨にへし折れる音を確かに聞いた。
 強烈なトラウマとなって胸の真ん中に巨大な空洞を穿ったそれを、魔術師としての挟持だけでどうにか奥底に沈めたのだ。
 思い出さないように。足枷にならないように。最新の注意を払って、暗示までかけて。
 だが、今自分に伸し掛かっている『もの』はその再現を実行できる相手。己は女であり、彼は男だ。閉じ込めていたものが噴出しかかった。
 道理や理性的な考えは全て吹き飛んだ。ただただ恐ろしい。先程の感覚は間違いだった。あのひどく手触りのいい、忘れようとした何かは錯覚だった。
 やはり、誰であろうと他者は信ずるべきではないのだ。
 一瞬の中に思考が加速し凝縮され、涙がじわりと浮かぼうとした時、決死の表情でヤヒロが上半身だけ背後へ振り返るのを歪みかけた視界の中に見た。
 彼がいつでも抜けるよう腰にマウントしていた伸縮性の警棒が既に右手には握られており、勢いよく暗闇の中で銀の弧を描いて振り回される。
 それが、途中で止まった。金属と金属が加速をかけてぶつかり合い軋み合う、硬質な音がトンネル内を残響する。
 ぶるぶるとヤヒロの右腕が全力を込めて震えている。ヤヒロの体越しにオルナはその先にいるものを見た。
 「シャドウサーヴァント………!」
 「ぐ………っ!?」
 何の英霊か判別できないくらい黒く染まった霊基がふたりに向けて剣を押し込んでいる。
 何故かヤヒロはサーヴァントを相手にしても多少打ち合うことが出来るが、それは向き合ってのこと。
 こうして技量の関係ない状況に陥れば現代の人間とサーヴァントの間にある致命的な差がはっきりと現れる―――膂力。
 ただでさえヤヒロは不安定な格好なのだ。みるみるうちに刃がヤヒロへ向けて伸びていく。青年の奥歯が砕けよとばかりに噛みしめられる音がオルナにもはっきりと聞こえた。
 竪琴を取り出す隙もない。何か魔術を行使する余裕もない。ヤヒロにも状況を打破する術はない。
 王手(チェックメイト)だった。あとは己のキングを盤面に倒し、降伏(リザイン)を宣言する以外の手が我々には残っていない。
 万事休す―――――。
 
 「――――――『アサシン』ッ!!」
 「合点承知」
 
 それは何処から届いた声だったのだろう。
 少なくともオルナには暗闇の中から突然囁かれたように感じられた。
 小さな影がいつの間にかオルナの視野にいる登場人物に加わっていた。まるでフィルムのコマがぶつ切りになったように、唐突に。
 矢のように鋭く伸びやかに影はシャドウサーヴァントに突き立つ。ヤヒロと圧し合いをしていたところに横からどつかれてはよろめかざるを得ない。
 間髪入れずシャドウサーヴァントが獲物を握っていた腕を目にも留まらない素早さで影は払った。緩く回転しながら宙を舞ったのはシャドウサーヴァントの肘から先だ。
 斬り飛ばされた腕に握られている剣を驚異的な反射速度と判断力でシャドウサーヴァントは取り戻そうとしたが、小さな影の反応はそれよりも更に疾かった。
 伸びた片腕を掴むや否や、その肘の内側の腱を手にした小刀で擦り上げるように切断する。
 両の腕の自由を失いつんのめったシャドウサーヴァントをまるで子供をあやすように小さな影は抱きとめた。その首を、腋で背負い込むように抱えるなり―――。
 体全体で勢いよく捻った。ごぎり、とシャドウサーヴァントの頚椎が真っ二つにへし折れる嫌な音が響く。
 だらりと脱力したシャドウサーヴァントがすぐさま粒子となって闇へと還っていく。気がつけばすぐ傍にいた、やはり黒く染まった人形(マスター)もどろりと溶けていった。
 一瞬の出来事―――その場に残ったのは呆然とするオルナと、安堵のため息を付いてようやく立ち上がろうとするヤヒロと、小刀を血振りをして鞘に収めた小さな影だけ。
 「間に合ったでありますね。アサシン、ただいま偵察より帰還したであります。
  ふふん、しかしなかなかどうしてマスターも隅に置けないでありますなぁ?くひひひひ。
  往けども往けども味気のない洞穴に殺し甲斐の無い敵ばかりと嘆息していたでありますが、花を一輪見落とすとは()れも未だ未熟であります。
  いやいや悪く思ってなどいないでありますよ?結構結構。綺麗どころの女ひとり、無聊の慰めには十分でありましょうや。
  とんだ堅物の主だとは己れの勘違いでありました。どうやら女の匂いにはよく鼻が利くようだと己れは見立てましたが、如何に?」
 「………仕事はできるのに口さがなさだけは最悪だな、このアサシン………」
 戯けたような、人を食ったような。妙に気持ちをざらつかせる、女の声。
 闇の倦怠がぬるりとした触感を以て形をとったような、そんな調子で小さな影はオルナとヤヒロを照らす僅かな照明の下へ姿を表した。
 
 
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 「ご紹介に預かった通りサーヴァントであります。クラスはアサシン……」
 ちら、とアサシンが横目でヤヒロを見る。黙って頷いたヤヒロを確認した上でアサシンはオルナへ視線を戻した。
 「……この状況では真名を隠しても意味はないでありますな。姓は百地、名は丹波。透波の輩、まぁ…平たく言って忍者というやつでありますよ。
  どうぞお見知りおきを、舶来美人殿。ああ、今は己れのほうが舶来者ということになるでありますか。此の地は己れにとっては遠き異国、倫敦でありますから」
 「ニンジャ………本物の!」
 どこか道化染みた声音でアサシンは挨拶をひとしきり終えた。
 世間知らずもいいところ、外界から隔絶された環境で育ったと言ってもいいオルナでもさすがにニンジャという名前くらいは知っている。
 東洋の神秘の国、日本における伝説的なスパイたち。世界中で大人気だ。謎に包まれたその存在はある意味、魔術に通じる神秘といえる。
 眼の前にいるニンジャ、このアサシンはかなり小柄な体格だ。150cmを僅かに超える程度のオルナよりもさらに背が低い。
 そんな一見華奢に見える体躯を動きやすそうなタイトなボディスーツで包み、更にその上からゆったりとしたマントのような上着を羽織っている。
 和装、という様子ではないが、どこかオリエンタルな空気を感じさせる服装だった。先程の小刀はあの大きな上着のどこかに隠しているのか見当たらない。
 解けば長いだろう艷やかな黒髪を頭の後ろでポニーテールに纏めている。稚気と皮肉の混じったような、不思議な瞳をしていた。
 「モモチ・タンバ………女性のニンジャだったです?」
 「……ううん。俺もそれは驚いたんだけど……」
 「ああ、その質問は己れにとっては意味のない問いでありますよ。
  己れという英霊の、少なくとも肉体に関するあらゆる情報は形骸化したも同然であります。そら」
 「――――え?」
 アサシンがくるりと長い上着の裾を翻す。すると―――。
 上着が隠したアサシンの姿が再びふたりの前に現れたとき、そこには先程までの小柄な女性はいなかった。
 姿を見せたのはヤヒロと同じくらいの身長をした青年。先程の女性と同じ瞳でにたにたと笑っている。服装もがらりと変わっていた。
 変わらなかったのはあの大きくゆったりとした羽織と身に纏っている空気感だけだ。声音すら太い男性のものに変化した。
 「服はさすがに早着替えのたぐいでありますよ?
  己れは顔のない英霊であります。千変万化、手乗りの小人や雲をつくような大男とまでいくとさすがに限度があるでありますがね。
  生前から己の肉体の操作にはちょっとした自信がありましたが、伊賀忍術の祖としてあれやこれや、嘘か真かと出鱈目に後世で語られたせいでありましょうか。
  あるいは百地"三太夫"などと遊女のような名も持っていたせいでありましょうか?そもそも忍びとは化かすものでありますしなぁ。
  今や老若男女、あらゆる人間にすぐさま化けることが出来るであります。英霊としての己れは本来の自分の顔すら覚えちゃないでありますよ」
 可笑しそうに笑いながらアサシンが再び外套を翻すと先程までの少女の姿が戻ってきた。
 とりあえず今はこれをデフォルトにしている、ということか。確固とした己の姿を持たないこと自体が己の姿であるというサーヴァント。
 個人としての連続性やアイデンティティー、自己という唯一性を喪失したも同然というのに、このアサシンはなんとも思っていない素振りだ。
 我が身に置き換えて想像すると―――少し背筋が冷たくなった。これでも生まれてこの方、毎日鏡の中に映る自分の顔に愛着はある。
 忍者というものは皆このような恐るべき精神性なのか。あるいは、このサーヴァントが歪な心の持ち主であるだけなのか。
 これまでオルナが携わってきた通り、英霊というものもいろいろいるようだ。こんなサーヴァントもまた有りだということらしい。
 こほん、とヤヒロが咳払いした。
 「今はアサシンの能力のことはいいだろう。
  彼女……彼……一応今は彼女ということにしておくか。こんな格好だし。
  彼女とはこの異界に俺が閉じ込められてすぐに出会った。彼女も偶発的に召喚されたはぐれサーヴァントとしてここにいたらしい。
  状況を打破したい、という思惑が一致したから彼女と協力関係を結ぶことにしたんだ」
 「肉体があるのは久々でありますが、それも1日で飽きたであります。
  外界ならまだしもただただ薄暗いだけの洞穴を彷徨うのも退屈でありますからな。
  どうせ仮初の生、めそめそとこの世を去るくらいなら痛快に仕事をこなして去りたいものでありますよ。
  己れはそのあたり生臭い透波なもので。伊賀の忍びは報酬さえ頂ければ誰の側にもつく忍びでありますれば」
 「というわけで、掴みどころのないサーヴァントだけど信用してもらっていいよ」
 「な、なるほど……。
  確かに先程の動きを見る限り、ううん見なくてもサーヴァントの戦力があるというだけで心強いです」
 「己の意思も持たぬ英霊の影法師に遅れを取るほど伊賀の忍びの頭目は甘くないでありますよ?」
 忍者らしくアサシンが指で印を切る。わざとらしさがあるのは、このアサシンが何もかも芝居がかったふりでいるためか。
 佇まいや口振り、身振り手振りの何もかもがどこか嘘くさい。『掴みどころがない』というヤヒロの評価は頷けるものだった。
 さて、とヤヒロが話を進めるべく口を開く。
 「予定通りアサシンとも合流できた。俺と、オルナと、アサシン。この3人が異界に対して対処できるメンバーだ。
  早速事態に対処していきたい」
 「そうは言いますけれどもマツミネさん、何か心当たりがあるんです?」
 「3日も隅っこで震えてたわけじゃないよ。アサシンがいたのもあるけどな。とりあえずは……」
 ヤヒロは懐から折り畳まれた紙を取り出して広げた。どこの駅のホームにも置いてあるサークル線路線図のパンフレットだ。
 オルナは気を利かせて蛍火を召喚し光源を確保する。あまり強すぎる光はシャドウサーヴァントたちに遠くからでも気づかれる。
 このくらいの淡い光が限界だろう。軽く礼を言ってヤヒロは路線図に指を滑らせた。
 「ひとまずこのサークル線は半分歩いて回ってみた。本来は地上部分にあるはずの場所やホームの他の路線、地上に出るための階段も残らず潰されていた。
  今いるところと同じトンネル風景がずっと続いているんだ。
  この異界をなんとかしないと脱出できないってことだろうな。もう半分を確かめてみないとはっきりとは分からないけれど……」
 「それらしい異常や綻びなんかは無かったんです?」
 「俺やアサシンの感覚ではね。オルナの感覚だとまた違うかも知れないけれど。現状は閉じている異界だと思っている。
  で、目下一番怪しんでいるのは……」
 路線をなぞる指がある駅で止まる。記されていた駅名をオルナは囁くように読み上げた。
 「"エッジウェア・ロード"……」
 「そう。今から……何年前だったかな。
  ハマースミス&シティ線と繋がった駅だ。これでサークル線は環状線の0型から6の字を描く線路に変わった。
  ここを通ったとき、路線はちゃんとパディントン駅へ続いていた。他の地上への解放部や別の路線みたいに潰されているということは無かった。
  ひとまずこの環状線部分を調べ尽くすことを優先してあえて無視したけれど、この先が怪しいと俺は思う」
 「……………………」
 一旦落ち着いてしまえばオルナは決して愚鈍な女ではない。予期しない困難に不慣れなだけで元々の頭の回転は早いほうだ。
 ヤヒロに加え手練れのアサシンという戦力がバックについたことでいつものケルズ・ダウル・オルナが戻りつつあった。
 手に入っている情報から、ヤヒロがこの先を怪しいとする根拠を先回りして考える。
 「……そうか。環状線のぐるぐる延々と電車が回り続ける構造を魔術的に捉えるなら、この先に続いている路線は余計になるです。
  完全な輪が乱れて術式が破綻する原因、蛇足でしかない。この異界を閉じた世界として成立させるなら邪魔なだけ………」
 「さすが。だから、残しておくなら何か理由があるはずだ。
  当面は残りの半周部分の調査と、この先の探索。それと………」
 「………?それと?」
 「……食料と安全圏の随時確保。ホームの売店に残っているものを集めながらの道中になる。
  アサシンはともかく俺たちには食事も睡眠も必要だからね……」
 「くひひ。魔術師殿ふたりが眠っている間の寝ずの番はお任せあれ。
  忍びたるもの三日三晩眠らず動き続けるのも仕事のうちでありますが、まったくサーヴァントの体というのは便利なものでありますなぁ。
  食料も己れが狩ってきてもいいでありますよ?まぁ……大抵は鼠や蝙蝠になりますが」
 「いや……」
 「それは……」
 くつくつとアサシンはシニカルに笑う。引き攣った顔をオルナとヤヒロは浮かべた。
 さすがにそんな肉を積極的に食べるのは現代人には厳しい覚悟であった。両者とも形は違えど今の文明の下で育った人間である。
 駅のひとつひとつに売店は存在するのだ。腐らないような携帯食料もある。当分はなんとかなる…はず。世に出て知ったがああいうものの味は馬鹿にできないのだ。
 オルナの実家が知ったら「毒された」と怒りそうな話だが………閑話休題。相談は再開する。
 「……と、とにかく。ではそちらに向けて出発するということです?」
 「俺たちとは違う君の眼、感覚で判断してみてもらいたいし、もののついでだ。まずは残り半周を調べよう。アサシンもそれでいいな?」
 「委細承知。まずは余白を塗りつぶしてから本題にという姿勢は嫌いではないでありますよ」
 方針は定まった。何にせよ、すべき目的があるのは良いことだ。おまけに明確な役割を与えられたとあればオルナの心も奮う。
 内心でその精神的未熟をアサシンは笑っていたが、一方でヤヒロは先程までと違って精彩を取り戻してきたオルナの表情に混じり気のない微笑みを返した。
 「アサシンが先頭で敵に対処、オルナは魔術でそれを支えてくれ。俺は魔術を行使するオルナのカバーや奇襲に応じる」
 「い……いいでしょう、妥当な作戦だと思うです。引き続き状況限定の相互強力を継続、ということで!」
 「………………………………くひひ」
 (いや、これはなかなか面白い……どちらも青い青い)
 黙ったままそうほくそ笑むアサシンを他所に、若者は頷きあって1歩を踏み出す。
 人工の洞窟の闇は未だ深く。最後に待ち受けているものをまだ彼らは、知らない。