SS-「The Tube ED」

Last-modified: 2018-11-03 (土) 01:37:27

 オルナが到着した時、彼はざくざくとパンケーキを切り刻んで頬張っていた。
 ロンドン郊外。三大魔術協会のひとつ、時計塔を構成する四十を超える学生寮と百を超える学術棟のお膝元。
 ―――から、少し離れたブロックにあるオープンテラスのカフェである。
 学生や一部の職員にとってはそれなりに魔術協会に関わらない買い物や相談をするためにはもってこいの距離だ。
 時計塔の周辺でもそういったことが出来ないことはないが誰の目があるかわからない。
 支障ないことならばそれでも構いはしないが、そうでないならただでさえカビ臭い貴族主義の支配する領域なのだから用心が必要になる。
 それと比するとこのあたりは大したものがあるわけではないが、そういった空気が薄れる。
 『絶対に秘密でなければならないわけではないが時計塔周辺で堂々とするには憚られる』、そういった題目には適した場所だった。路地裏の酒場のようなものだ。
 声を潜めて密談する分にはよっぽどなことがない限りは漏れる心配がない。
 わざわざこの場所を指摘してきたというあたり、どうも彼は時計塔の事情にもそこそこ通じているようだった。
 彼の姿を確認し、オルナはつかつかと石畳を踏んで横切っていく。
 オルナは(友人付き合いが少ないので)この近辺へあまり訪れたことはなかったが、カフェの軒先から突き出た緑のサンルーフの下は風が吹き抜けて快適そうだ。
 共に数日間を過ごしたあのじめじめと空気の淀んだトンネル内とは大違いである。
 さほど長い距離も歩くこと無くサンルーフの生み出す日陰の下にオルナは入った。彼が座っている一席へ辿り着く。
 少し古い趣味のテーブルに指先で触れる。と、彼もようやくオルナの姿に気づいて顔を上げた。
 あるいはよく目の利く彼のことだ、とっくに気づいていてオルナが来るまでパンケーキを腹に詰め込むことに集中していたのかも知れない。
 「や。昨日ぶり」
 「ええ。美味しそうなもの食べてるですね……」
 「この店のはなかなかだよ。注文する?」
 「いえ、お腹減ってはないですから」
 彼――ヤヒロは食べる手を止め、手振りでオルナへ席を勧めた。そのままにオルナも向かいの席へ着席する。
 あのトンネル内では見ることは無かったが意外とナイフとフォークの使い方が達者だ。
 シロップと生クリームがべたべたと塗りたくられたパンケーキが綺麗に切り揃えられていた。
 それなりにいいところの生まれなのかもしれない。尤も曲がりなりにも魔術を扱っている以上彼が魔術師の家の生まれである可能性も高い。
 魔術師とはある程度資金力が無ければ続かない稼業なので表向きは富豪だったり地主だったりというのはよくあることだ。そう驚くべきことでもなかった。
 少し訛りのある英語でウェイターをヤヒロが呼ぶ。ならお茶でも、ということらしい。
 疑心暗鬼の悪癖は外食にしてもそうだ。ついオルナは断ろうとして―――。
 「―――――いえ」
 ―――思い直し、差し当たり無い銘柄を答えた。
 断るオルナを説得するつもりだったのか、特に何も言わずともヤヒロの目が意外そうな光を宿していた。
 む、と言葉が詰まり、顔を伏し目がちにして表情を誤魔化す。
 「なんです?」
 「ううん。お茶も遠慮するかと思ってて」
 「なのにウェイターを呼んだですか?」
 「まぁ、それもそうなんだけど」
 「………別に、大した理由ではないですよ」
 風が吹く。怪訝そうな顔つきのヤヒロとの間に。
 テーブルクロスが緩くはためくのを見ながら(というていで視線をそらしながら)オルナは少し怒ったような調子で言った。
 「すぐ目の前に毒見役がいるです。なら気にすることもないと」
 「……ああ、なるほど?」
 トンネル内で幾度も繰り返したやり取りだ。今更注意しすぎるのも馬鹿らしい。
 ヤヒロは残っていたパンケーキを頬の中に納め、オルナは始終肌身離さず持っている竪琴の入った荷を下ろして一息ついた。
 緩慢な死の蠢くロンドン地下鉄サークル線を象った異界ではない。長閑な、ロンドン郊外の風景だった。
 
 
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 トンネル工事の事故現場を見るかのように異界が圧壊していく。
 この異界を形成していた支柱を完全に失ったのだ。他の構成因子で保つものではない。自重で壊れ潰れていくのは自然の成り行きだった。
 コンクリートの内壁へ亀裂が走り、それがばらばらと一行の元へと降り注いでくる。
 その瓦礫が地上へと落着する前に光の粒子となって空中に溶けていく不思議な光景が始まるのと、セイバーの霊基が粒子を放って溶け始めたのはほぼ同時だった。
 「セイバー!?」
 「む、これは……否、道理である。この異界を元に喚ばれた当方が異界と共に消え失せるのは自明の理」
 「………!」
 「嘆く必要はない。当方の役割は終了した、ただそれだけのこと」
 あっけらかんとそう言ってセイバーは眼鏡――本人曰く"叡智の結晶"――のブリッジを指で押し上げた。
 オルナもヤヒロも泥と埃と血で塗れたひどい姿だったが、顧みること無く光に包まれるセイバーを見つめた。
 この異界騒動の黒幕、『車掌』―――歪んだ聖杯そのものを文字通り光に変え、異界の外壁に巨大な穴を穿った絶大な宝具を放った後だというのに涼しい顔だ。
 勿論それはオルナという優秀なマスターの魔力供給あってのものでもあったが―――視線を受けてセイバーはそれと注意しなければ分からないほど僅かに微笑んだ。
 「感謝。貴殿らの助けがなければかの呪われた盃に意思を剥奪されたまま、悪逆を為し続けるところだった。
  最後に貴殿らに助力したことで多少なりとも犠牲者たちの御霊に救いがあれば良いが」
 「………………」
 「いや、こちらこそ。セイバーがいなければどうなっていたことか。アサシンには…悪いことをしてしまったけれど」
 「否」
 ヤヒロの言葉をセイバーは一言で両断した。
 素っ気なさからどうにもとっつきにくさを最初は感じたものだが……今となっては決して冷淡の顕れでは無いと分かる。
 「かの刃は貴殿をマスターとしていたことを憎からず思っていたように見受ける。
  あの最期にも当人の大いなる納得があったと当方は考察する。良き刃であった。
  どうか貴殿においてはかのサーヴァントを従えたこと、重畳であったと感じていて貰えれば武人としては嬉しい」
 「……そっか。ああ、文句なんか無いよ。
  何度も助けてもらった。あいつと最初に会えてなかったらどうなっていたことか。……伝わっているかな、あいつに」
 「請け合おう」
 セイバーにそう言われてヤヒロは複雑な感情の籠もった微笑みを浮かべる。
 とにかく性格の悪い――アサシンが言うところの、百地丹波というテクスチャを繋ぎ合わせた結果において性格の『悪かった』サーヴァントだった。
 最初から最期までオルナはあのサーヴァントにおちょくられていた気がする。本当に気に入らない英霊だった。
 ただ……今から思えば、未熟を嘲笑う悪どさと同時に後進を見つめる先達としての目もあったような気がする。
 常に足りない部分を指摘されていた。それを誂うように言うものだから憤慨するのだが、言っている事自体は的を得たものだった。
 尤も、思い出の中の故人を多少なりとも美化してしまうのは人の常だ。生前は指導者だったというがどこまで信じたものだかは分からない。
 真意を語る者は既に背後のホームで渾身の宝具により築いた『百地砦(しのびのしろ)』と共に無と消えた。
 この結末を見たなら微笑んだだろうか。それとも…やはり嘲笑っただろうか。
 ヤヒロの横顔を見てアサシンへ追想を飛ばしていたオルナへセイバーがその真っ直ぐで曇りのない視線を向ける。
 「マスター」
 「え!?あ、はい!!」
 「貴殿があの闇の中で当方を観測してくれなければ、当方はずっとあのまま囚われたままだった。
  短い付き合いだったが退去する前に改めて礼を言いたい。心より感謝」
 セイバーはそうして穏やかに目を伏せ、謝意を示した。
 セイバー。北欧神話のひとつ「ヴォルスンガ・サガ」の大英雄。「戦士の王」と讃えられる剣士。真名をシグルド。
 その偉大な名の割に腰が低いことにも、もう驚くことはない。この英霊は僅かな皺もないほどぴんと張られた堅物なのだ。
 何事にもそっけなく合理的ではあるが、だからこそ必要なことは直球で口にする。例えば、謝意など。
 時間にしてたった1日ほど共に過ごしただけでもそのことははっきりと理解できていた。
 正しいものを尊び、邪なるものを排する。絵に描いたような英雄だ。万夫不当のトップサーヴァントはその精神性も金剛石のように揺るぎない。
 ああ、とオルナは今更再認識した。彼が完全に意識を剥奪されシャドウサーヴァントとして振る舞っていた時も尚、どこか加減があったことを思い出す。
 たかだか壊れた聖杯如きでは霊基までは縛れてもこの精神性までは侵せない。この英霊に染み付いた無意識の英雄性が抵抗したのだろう。
 彼はオルナが叫びだしそうになったあの無明の闇の中でずっと待っていたのだ。堕ちてきた無辜の人間を救うために、ずっと。
 朴訥としたあの第一声も最初はなんて緊張感のない、と呆れたっけ。でも冷え切った身体が一気に熱を取り戻したのを覚えている。
 自分の抱いてきたサーヴァントという存在への不信感など、このセイバーの無類の誠意の前にはひどくちっぽけなものでしかない―――。
 最後だからか。驚くほど素直に言葉が出た。
 「………こちらこそです、セイバー。
  言い方は良くないですけど、私を飲み込んだのが貴方の影で良かった。
  そうでなければ今頃どうなっていたか分からないです。本当にありがとう」
 「そうか。首肯。最後にマスターが令呪を行使してまで当方に傾けてくれた信頼でそれは伝わっていた。
  ……トゥアハ・デ・ダナーンの長たる善神ダグザの金の竪琴を今に伝える一族、か」
 レンズ越しにセイバーの碧い視線がオルナが大事に抱えている竪琴へと注がれる。
 一瞬、微かに瞳を細めた際に映った感情は一体なんだったのか。
 「マスター。貴殿の先行きには多くの困難が待っていると当方は予測する。
  その竪琴を爪弾き続ける限りその災いから逃れる術はない。だが当方は手放せとは言うまい」
 「………………」
 「当方は貴殿に善なる道を征くことを期待する。
  林檎の囁き。角持つ框。夏。冬。快き調べを生むもの。この竪琴を構成する全てはその為にある。
  『例えこの竪琴が"嘆き"から生まれたものだとしても』、それはそう扱われねばならない」
 「……!待って!待ってくださいです、セイバー!?
  あなたはまさか、この竪琴がどのように作られたか気づいて……!?」
 それはオルナが最も追い求める、一族の誰もが知らないか、あるいは口を紡ぐ事実―――。
 徐々に構造が緩みだした異界の中、必死にセイバーへ縋り付くように食いつく。しかしセイバーは静かに首を横に振り拒絶を示した。
 「大神より与えられた尽きることなき叡智は確かにそれを導き出した。
  しかし問われたとしても当方からは答えることは出来ない。
  これはマスター、貴殿が己自身で追い求め、過程を踏んで到達するべき情報だ。当方はそのように判断した。
  マスター。強くあれ。心であれ体であれ、善は強き場所より出ずるもの。
  その心がいつか貴殿を大いなる真実とすら戦いうる戦士へと変えるだろう。
  貴殿には大恩あるというのに今や命すら捧げられない当方からの、せめて捧げられる言葉(もの)だ」
 厳かながら真心の籠もった言葉に息を呑んだオルナと黙ってそれを見つめるヤヒロの前でセイバーの霊基が解けていく。
 もうほぼ下半身は存在しない。砂が零れ落ちるような細やかな音すら立てることなくセイバーは世界から消失しようとしていた。
 「提案。そろそろ貴殿らは行くべきだ。此処と現実を繋ぐ穴もいつまで保っているかは不明である。
  最後に当方に報酬があるとするならば、貴殿らが光の方へ歩いていく姿を見送る役目とさせてもらおう」
 「……オルナ」
 「…………はいっ!分かってるですっ!」
 ヤヒロに促されるまでもない。オルナはぎゅっと唇を引き結ぶと、未練を断ち切るように勢いよく背を向けた。
 異界の保持が限界に近いのか、鳴動を伴って揺れ始めた床を思い切り蹴って走り出す。
 一瞬不意をつかれたヤヒロもすぐさま追ってきた。コンパスの長さと筋力の差ですぐさま追いつきオルナの横に並ぶ。
 トンネルの壁から煌々と光を放っている裂け目へ一息で飛び込んだ。
 直後、背後の轟音が更に大きくなる。思わず振り返ると天井から落下する瓦礫の大きさが数倍となっていた。
 それまでは地上に落着するまでに光の粒子に変わっていたものが変わりきれずに床を擲たれ続ける。遠目に見える反対の壁の亀裂も致命的に拡大した。
 瓦礫の雨に打たれながら、胸の上までしかなくなったセイバーが二人の食い入るような視線の中で緩やかに微笑んでいた。
 「感謝。いつかこの大恩、貴殿らに返す機会があればよいが―――」
 それが、あの異界における最後の記憶となった。
 
 
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 「あの後は大変だったなぁ……」
 「大変だったです……」
 ふたりして紅茶のカップを傾けながら胡乱げな顔で溜め息をつく。
 異界から到達したのは深夜のキングス・クロス駅のホーム。地上に続く階段が塞がっているようなことのない、まっとうなホームだ。
 終電後のそんなホームへ投げ出された。全身泥だらけ。一体何処の戦場から帰ってきたのだと言わんばかりの格好で。
 置かれている状況を認識し、ふたり揃って青ざめた。顔を見合わせるなり即座に意見が合致した。
 そこからはハリウッド製スパイムービーもかくやのスニーキングミッションの始まりだ。
 監視カメラを避けたり誤魔化しながら人目をかいくぐり、警備員に暗示をかけ、施錠された扉を突破。
 そうして真っ暗……でもない、深夜だというのに煌々と電灯に照らされた駅領を一気に駆け抜けて外へ転がり出た。
 スコットランドヤードに見つかりでもしたらこんな格好では詰問されること請け合いである。いちいち暗示をかけるのも面倒だ。
 事態解決の余韻に浸る暇もなく、今日この時間に落ち合うことを約束して二手に別れた……というのが、昨晩の顛末であった。
 魔術を駆使しながら暗闇に紛れほうほうのていで自宅の扉の前に辿り着いた時、どっと押し寄せた疲労と共に目尻に涙が浮かびかけたのはさすがに許されるだろう。
 ヤヒロはあれからどうしたのだろうか。初めて会った時より幾らかさっぱりした格好で椅子に腰掛けていた。
 「ま、お互い無事に戻ってこれて何よりだ」
 「そうですね……それはそうと。
  いいんです?今回の事件、全部私の手柄にしてしまって。報酬はゼロですよ?」
 「いいんだ……というと嘘になるな。やっぱり先立つものは欲しい。
  ただね。俺は時計塔には過去にご縁があった人たちが何人かいて睨まれてる。うかつに敷地に入ると呪詛の言葉を呟かれかねないんだ。
  なんで、なるべくは関わりたくない。事後処理を君に押し付けることになるけど……」
 「それは構わないです。調査の依頼を受けた時から大なり小なりそういうことになるのは分かっていたです」
 苦い顔でヤヒロが言う。なるほどこんなところを待ち合わせに指定するわけだ。
 過去に随分なことをやったらしい。数日間共に行動したわけだが、理性的に見えて意外と踏ん切りがいいというか。
 とっさに何かをやりかねない雰囲気は確かに持っている青年だった。
 きっとそれで泡を食った魔術師があの時計塔の敷地内に数人いるのだろう。一体これまでに何をやらかしてきたのやら。
 彼の手によっていくつか儀式が滅茶苦茶にされているとしてもあまり驚かないなとオルナは胸の裡で納得する。
 「なら、何も手元に残らないのが分かっててあの地下鉄の異界に踏み込んだです?」
 疑問を口に出してみてオルナは後悔した。
 ああ、そんなの。この男の答えなんて分かりきっていたのに。
 恥じ入るでもなく格好をつけるでもなく、当然を当然として言うようにヤヒロが口を開いた。
 「ああ。手の届くところに自分が解決できるかも知れない理不尽が横たわってる。
  関わらない理由が何一つ無い。勿論それで貰えるものがあるのは有り難いけど、そのためにやってるわけじゃないからね。
  あくまで、俺は『正しいと思うことをしたい』んだ」
 そんなふうにこの男はハイスクールを卒業してからずっと世界中を旅をしてきたという。
 きっと酸いも甘いも身に染みるほど知ったろう。楽しいことばかりではなかったはずだ。オルナには到底想像のつかない経験であり人生だ。
 同じように同じものを背負って、同じような足取りで彼はこれからも旅路を往くのだろうか。
 ……不意にヤヒロが手元のカップを手の平の中で弄びながら青色の吐息を吐いた。
 「……だから、今朝の朝刊は少しだけありがたかった。見た?」
 「時計塔の方で取り沙汰されているので。あの異界に呑まれた被害者、ですよね」
 「多分ね。それも全員じゃない以上、気休めにしかならないけれど。
  自分の手の届かない部分のことまで嘆くほど傲慢じゃないつもりだが、全てが円満解決だなんて顔は出来ないな」
 「……………」
 それを思うとついお互いの表情も曇る。
 新聞の文句はこうだ。『連続神隠し事件の行方不明者、駅構内で多数発見』。
 サークル線の駅の各ホームに意識不明で行方不明とされていた人間たちが転がっているのが複数発見された。
 原因は不明。犯人も不明。動悸も不明。そもそもどうやって全く同時に行方不明者たちが安置されたかも不明……というもの。
 既に幾人かは意識を回復させているらしい。その後の続報については明日の朝刊待ちだ。
 異界の崩壊と同時に出現したのだから異界に呑まれていた人間たちと考えて差し支えないだろう。
 時計塔でも行方不明になっていた魔術師が複数名発見されたことで朝から法政科が騒がしくしている。
 膝元であのような邪悪な異界が形成されていたことが発覚し現在てんやわんやだ。オルナも渦中の人間として暫く忙しくなるだろう。
 ただ残念ながら行方不明者が全員発見された、というわけではなかったようだが……。
 より深く取り込まれた者は終ぞ現実には帰還せず、あの異界の崩壊と運命を共にしたということか。
 サービスで一緒に提供された茶菓子のクッキーを齧りながらヤヒロはふと少し考える素振りを見せ、言った。
 「そういえば、あの時の話の続きだけど。俺とある聖杯戦争で会ったことがあるっていう」
 「ああ、はいです。あなたよりずっと若かったけれどあなたに間違いは…やっぱり無いと思うです」
 「うん。悪いんだけど、やはり君の顔に俺は覚えはない。
  アーチャー、ランサー、ライダー、キャスター、アサシン、バーサーカー……どのマスターにも君は該当しない。
  というのもね。君が関わった亜種聖杯戦争は『そういう聖杯戦争だった』可能性が高い」
 「………?どういうことです?」
 「一応関わったことのある人間として俺は世界を旅する間に聖杯戦争については詳しく調べた。
  足らないピースを通販で取り寄せるみたいに、過去や違う世界を繋げて参加者を招き寄せる……そういう聖杯戦争が確かに存在する。
  君が見たのは多分、俺と……俺のセイバーの、過去の記録だったのだと思う」
 セイバー、と口にする時、ヤヒロはひどく親愛な響きを口ぶりに滲ませた。
 さすがにオルナでもそれが意味するところは察することが出来る。……ヤヒロとあのセイバーは強い信頼で結ばれていたのだろう。
 かつての夜の記憶が蘇る。苦い敗戦の記憶だったが、今は少し違う印象を持って思い出す事が出来る。
 最後の決戦ではどうにかライダーの宝具の力で圧倒できたが、大剣を隙無く構える姿に大英雄の気配を滲ませるサーヴァントだった。
 あの異界でオルナが契約したサーヴァント、シグルドにも匹敵するかもしれない誇りと威厳を備えた英霊だった。
 ヤヒロが照れたように柔らかく微笑む様を見て思わず口の中で「あ」とオルナは誰にも聞こえないほど小さく呟いてしまった。
 その表情が、何故かかつて見た少年のマツミネ・ヤヒロと完璧に被ったから。
 「……彼女に導いてもらった。今の生き方を選択できたのは彼女のお陰だ。
  彼女に背中を押してもらえたから、俺は今もこうして世界中を誰かの役に立ちながら歩いて回っている。
  でなければ今も俺はあの街で延々と燻っていたと思う。彼女に恥じない生き方を俺はしなくちゃならないんだ」
 「………そう、ですか」
 「君はどうだった?」
 「え?」
 軽々しく理解を示すにはあまりに無垢で迂闊に触れがたい言葉を消化しきれず持て余したオルナへ、何気なくその質問は届く。
 ティーカップの水面へと落としていた視線を上げると、ヤヒロが異界の中で度々見せていたあの微笑みがあった。
 全てが緊張の中にあったあの場においての条件反射というものか。悔しいけれど、その顔を見ると少しだけ落ち着く。
 「君の聖杯戦争とは、なんだった?」
 「………………」
 考える。これまで経てきた経験を。
 良い思い出は少ない。目を覆い耳を塞ぎたくなるような辛いことばかりだ。
 聖杯戦争とは殺し合いなのだから当然だと言われればそれまでだが、それとは関係なしに自分の未熟で胸を軋ませることが多かった。
 自分の拙さを、考えの甘さを、経験不足を、何かあるたびに痛感する。
 計算どおりに行ったことなど一度たりともなく、この金の竪琴すらほんの気休めにしかならない。
 自分がもっと強くあれば勝ち残ることが出来たのだろうか。
 自分がもっと賢くあれば自分のサーヴァントに不自由をさせなかったのだろうか。
 これまでの聖杯戦争とは己の不足を突きつけられるための機会でしか無かったのかもしれない。
 でも―――と。オルナの中に熾る火がある。
 焚き火だ。小さな焚き火だ。木の葉を集め、木の枝を組み合わせ、常に人の手で管理されなければ一晩も越せない弱々しい火。
 だが、この火が遠い昔日において森で一夜を過ごすケルトの人々、ケルトの戦士らを温めた。オルナにはその血が流れている。
 ならば今この火が温めているものは、何か。
 「……苦しいことばかり、辛いことばかりです。
  どれもが私を打ちのめしてきたです。良かったと思えることは、本当に欠片しかないです。
  でもそれで終わりたくない。負けたくない…。
  そうです、私は『強くありたい』!
  知りたいことを知りたい。それに挫けない自分でありたい。今度こそ、私は―――」
 胸中に呟く。『自分を得て、誰かを信じ、信じられたい』。
 脳裏を影が嗤って通り過ぎた。
 忍装束のそいつはへらへらと人を小馬鹿にした態度で歩みながら、オルナの中でオルナへ手を振って別れを告げた。
 負けない。あの最低の性格をしたアサシンにも。
 胸を張れる自分になりたい。己の叫びに答えてくれたあのセイバーにも。これまでに己と縁を結んでくれたサーヴァントたちにも。
 柄にもなく少し声が上擦ってしまった。周りに客がいなくて良かったが、それでもオーディエンスは目の前にいる。
 だが彼は気圧されることも嘲笑うこともなく、いつもの微笑みで小さく頷いてみせた。
 「そうか。……そうだよな。あの大儀式を生き残って何も変わらない人間というのを俺は見たことがない。
  いつだって"サーヴァント(あいつら)"は俺たちに宿題を出していくんだ。
  『俺たちはこのように懸命に生きたぞ。お前はどうする?』って。ホント、困るよな。無視できないんだもの。
  だって共に過ごしたらもう彼らは他人事じゃないんだ。別れたとしてもずっと自分の中に生き続ける……」
 「…………はいです」
 「うん、そうか。そうか。なら、俺が言うことはもう何もないや」
 そうしてヤヒロはティーカップに残っていた茶を一気に飲み干すと、ゆっくり椅子を引いて立ち上がる。
 傍らに置いていた、もうオルナにとっても馴染みの『魔法のバックパック』をゆっくりと確実に背負い込んだ。
 あの何でも出てきて何でも出来るバックパックでまた誰かの助けになりに行くのだろうか。
 「もう行くですか?」
 「ああ。あんまり長居してるとさっき言ったみたく俺を恨んでる連中に嗅ぎつけられかねないからね。
  次はイギリスまで来たついでにスコットランドやアイルランドに行ってみようかな……。
  ああ、途中でグラストンベリーにも立ち寄ろうか。騎士王の墓ってのを一度は拝んでみてもいいだろう。
  それから中国を縦断することになると思う。知り合いに怒鳴られててさ。まぁ、どうなるかは分からないが」
 意気揚々とヤヒロは語る。計画を語るその姿は楽しそうだ。
 彼の旅路は思い描けなかったが彼が行くというアイルランドの風景は想像できた。なんせ、アイルランドはオルナの実家の根城だ。
 ロンドンに比べれば呆れ返るほど長閑な故郷の草原をヤヒロがバックパックを担いでどこまでも歩いていく。ああ、彼らしい。
 事前会計式なので支払いに関して気にする必要はない。旅立つ用意が出来たヤヒロへ、ぽつりとオルナは言った。
 「あの…………」
 「ん?」
 「…ありがとうございました」
 奥底から漏れ出るように告げられた言葉にヤヒロが頷く。また、あの微笑みだ。
 「うん。こちらこそ。君がいなけりゃ俺は今もあのトンネル内に閉じ込められてたかも。
  今回は本当にピンチだった。幸運だったよ。出来れば―――」
 「………あの!」
 「うん?」
 「………ヤヒロさん!次は、『負けませんから』!」
 『あなたを心から信じられるくらい、強くなってみせますから』。
 言葉の裏が伝わったかどうか。少なくともヤヒロは、男臭く強い眼差しで笑ってみせた。
 「……ああ!ケルズ・ダウル・オルナ、だったよな。フルネーム。
  次はオルナのこと、ケルズって呼べるくらい。オルナに見合う程度には、俺も強くなってくるよ」
 「……………!」
 「この世界は広いようで狭い。魔術の世界に携わっていればいつか再会することだってあるだろう。……じゃ、また会おう!」
 ステップを踏むようにしてバックパックを背負い直すと、振り返らずにヤヒロが石畳の道を歩いていく。
 オープンテラスの広がる区画を抜け、道路へ。オルナのいるところから見切れるギリギリで一度だけ振り返り、手を振って去っていった。
 「……その名前、かわいくないのに」
 去りゆくその姿に向けてぽつりと呟いた。誰ひとりとしてそれを耳にする者はいなくなったテラスで。
 ああ、でも……本当に心の底から信じられる相手が出来たとしたら。
 その人に呼ばれるなら、その硬質な響きの名前もようやく好きになれるだろうか――?
 つい先程まで目の前にいた男を思い出す。たびたび彼が浮かべていたその微笑みを。
 ……出会うときも、去るときも。つむじ風のようにあっという間に行く男だと何となしにぼやく。ああ、だが嫌な気分はない。
 独りになった席でほんの少しだけ満足気にオルナは溜め息を付いた。オルナもティーカップの茶を飲み干し、席を立つ。
 連絡先すら交換せず、道は此処に別れた。再び彼と縁が交わるのはまた別の機会になるだろう。
 しかしいつか必ずその機会がやってくるという確信がある。何故か分からないけれどそんな気がするのだ。
 ならその時でいい。オルナがどう考え、どう道を選び……その時に答えが定まっているかは分からないが。どう歩んでいるかを伝えるのは。
 「………さてと」
 やらなければならないことは沢山ある。今回の一連の事件の説明。改めて解決の報告。
 怠って曖昧な点を残せばそれが不審点になりオルナの家名に傷がつく。下手な勘繰りをされてはたまらない。
 あまり調子に乗らずに本当と嘘を混ぜて申告し、変に睨まれぬよう自分の手柄はぼちぼちのところで抑えておいたほうがいいだろう。
 終わったことは終わったこととして、いつまでも余韻に浸っているわけにはいかないのだ。
 こうしている限り世界は続く。あっという間に流れていく時間を無駄には出来ない。どうあれ、強くあろうと決めたのだから。
 まだ他者へ心を完全に許せるほど善きものにはなれないけれど。それでも、きっといつかは。
 よし、と気合を入れて路上に戻った。ヤヒロが歩いていったのは反対の方向、時計塔へ肩で風を切り歩いていく。
 頭上にはこの地域にしては珍しく青空がどこまでも広がっている。頭上を重苦しく塞ぐトンネルの外壁はない。
 背後から強く乾いた風が吹き付ける。落ち葉を巻き上げオルナのスカートの裾を緩やかに靡かせながらその背中を押していった。長閑な、ロンドン郊外の風景だった。