甲子園は幼稚園の砂場

Last-modified: 2022-02-11 (金) 08:18:30

1993年オフに阪神タイガース(当時)・松永浩美(元阪急/オリックス→阪神→ダイエー)がFA宣言して福岡ダイエーホークスへ移籍した際に発言したとされる暴言(本人は否定している)。

経緯

松永は1978年、小倉工業高校を中退して阪急ブレーブス(現:オリックス・バファローズ)に練習生*1として入団。一軍デビューを果たした1981年から台頭し、走攻守揃ったスイッチヒッターの三塁手として大活躍し「史上最高のスイッチヒッター」と称された。しかし、球団がオリックスへ身売りし、監督も土井正三(元巨人)に交代して以降は土井とは打撃練習の時間配分を巡って対立*2。さらに、寄付に対する考え方を巡って球団フロントとも対立するようになる*3。1992年オフには野田浩司とのトレードで阪神タイガース(当時の監督:中村勝広)へ移籍した。

阪神移籍直後は記者会見で「トレードを意気に感じている。中村監督を男にしてみせる」などと宣言し、阪神ファンや関西のマスコミからも強力な3番打者として大いに期待されていた。また、すでに控えに甘んじていた岡田彰布に代わるスターとしての期待もあった*4。その期待通り開幕戦ではさっそく5打数5安打を記録する活躍を遂げたが、あろうことか開幕3戦目で負傷して戦線離脱。5月頭に復帰したが1か月後に再び離脱し*5、オールスター明けに復帰し、8月後半には3試合連続先頭打者本塁打の世界記録を樹立。その一方で、二軍で調整中の時に期待の若手だった萩原誠*6に対し「俺はもう来年いないから、お前はしっかり三塁を練習しておけよ」と意味深な発言をしている。
結局、同年は80試合出場にとどまり、前年まで11年連続で続けていた規定打席到達もストップした。

同年オフ、松永は日本球界では初めてフリーエージェント(FA)権を行使したが、11月中旬に阪神と残留交渉を行うと球団からは600万円のダウン提示に加え、「松永君、キミとは縁が無かったんだよ」と突き放されるような発言をされた。これに対し不信感を抱いた松永もマスコミの取材に対し「(FA移籍は)単なる通過点」「阪神とは縁がなかった」などと阪神ファンを突き放すような発言をしたり、「阪神ファンへのメッセージはないのか?」と問われると反発したかのように「何もないね!」などと回答し、そのような姿がメディアで報じられた。このような姿に翌シーズンの活躍を期待していた阪神ファンも反発・批判を強めていた中、「松永が『甲子園は幼稚園の砂場』と発言した」とされる報道が流れたのである。

虎党にとっての聖地である甲子園球場を侮辱するような発言案の定阪神ファンは激怒し、松永もこの言葉を捨て台詞にFAで地元・福岡県に本拠地を置くダイエー(現:ソフトバンク)へ移籍した。松永はオリックスで選手会長を務めていた時に、プロ野球選手会にてフリーエージェント(FA)制度をNPBでも採用することを提案しており、その頃から地元である福岡でのプレーを視野に置いていたとのことであった。
ダイエーでは外様ながらチームリーダーを務め、移籍直後の2年間こそ結果を残した松永だったが、1996年以降は怪我・不振で不本意な成績に終わり、1997年限りでダイエーを自由契約となる。のちMLB挑戦のためにテストを受けたが結果を残せずそのまま引退した。

現在は、阪神時代のチームメイトだった鮎川義文*7(元阪神→ロッテ)と共にアマチュア向けの野球塾を開いている。

松永からの異論

・・・というのが巷で伝えられる「砂場発言」事件の経緯であるが、松永本人はこの「砂場発言」を否定しており、後のインタビューや自ら開設したYouTubeチャンネル(下記動画を参照)にて一部マスコミによる歪曲報道であった旨を主張している*8
当時の阪神はドラフト前に有力選手から入団拒否の構えを示されるほど走攻守すべてにおいて低迷しており(いわゆる「暗黒時代」)*9、せめて相手チームの攻撃力を低下させようと甲子園球場の内野全体の土を軟らかくしていた*10。松永は阪急・オリックス時代に2桁盗塁をコンスタントに記録する俊足選手だった*11が、この甲子園の土の軟らかさに不満を抱き、グラウンドキーパーに対し「一塁からのランニングエリアの土を硬くしてほしい」と要望した。しかしグラウンドキーパーから「(平田勝男*12からの)要望で(土を)軟らかくしている」と回答されたため「試合に出ない人の要望を聞いてどうするの。軟らかすぎて滑るんだよ」と伝えた。その軟らかさについてグラウンドキーパーが「幼稚園の砂場くらいか?」と質問したのに対し、松永は「いや、そこまでではない」と回答した。

「以上のようなやり取りをすっぱ抜いた一部のマスコミがFA騒動時にこのやり取りを歪曲し、まるで自分が甲子園を侮辱する意図で暴言を吐いたかのように報じた」というのが松永本人の主張である。しかしこの「砂場発言」を抜きにしても松永は不本意な成績に終わり、わずか1年でチームを去った一方、彼とは対照的に彼のトレード相手の野田がオリックスのエースとして活躍した*13ことは紛れもない事実であり、このことが多くの阪神ファンにトラウマを与えたこともまた事実である。当時の阪神フロントがあまりにも酷かったこともあり近年はある程度松永を許したり、松永側の言い分に理解を示したりするような意見も多い。しかし、暗黒時代を知るファンからは今なお絶許扱いされることも少なくない。

松永本人による動画

関連項目


*1 現在の育成契約に近いが、野球協約に触れてしまうため、採用当時は「用具係」という扱いで選手扱いされなかった。支配下選手登録は翌年(1979年)からとなる。
*2 土井の監督就任1年目である1991年は確執があったわけではなく、むしろ土井とほかの選手たちの調整役に徹していた。しかしこの年ロッテの平井光親との壮絶な首位打者争いの末に敗れると、タイトル奪取を期して打撃練習を増やすように土井に具申したところ却下されたため、そこから確執が表面化したとされる。
*3 実母が生前に世話となった北九州の医療施設に対して松永が「松永福祉基金」と称して寄付を表明したところ、オリックス本社から出向してきた球団幹部が球団からも寄付金を出すことを条件として寄付先を地元神戸の医療施設へ変更するように打診してきたが、これに対して松永は「趣旨にそぐわない」と断った結果、面子をつぶされた球団幹部の恨みを買う形になった。
*4 当時の松永関連グッズの売り上げは新参の外様ながら真弓明信や新庄剛志などの人気選手をはるかに超えるものであり、後年の金本知憲新井貴浩以上に期待されていたことがわかる。
*5 このとき背番号を「鬼のように強く」と2から02に変更。後の規定改訂もあり、十の桁が0(00を除く)の背番号を着用したのは後にも先にもこの年の松永のみとなる。
*6 元阪神→近鉄。背番号31で「掛布2世」の期待を掛けられていたが大成できず、1997年オフに近鉄へトレードされた。
*7 松永在籍当時の控え三塁手だった。
*8 先述の土井や球団幹部との対立にも現れているが、松永は元来「言いたいことは不満だとしても濁さずハッキリと言う」ような性格であり、阪急時代から記者などと発言趣旨が行き違ってトラブルが頻発し、一部マスコミから「問題児・トラブルメーカー」として扱われていた。変わったところでは1989年にベンツで高速道路を走行中ヤクザに殴られた(週刊新潮1989年34号)と言うエピソードも存在する。
*9 ただし、1992年シーズンはトーマス・オマリーや新庄らの活躍もあって優勝したヤクルトと2ゲーム差の2位(1990年代で唯一のAクラス)に入っている。
*10 安打性の打球の威力を弱め、ダッシュが利かないようにするため。後に赤星憲広の要望で硬めになった。
*11 1985年には38盗塁を記録し、盗塁王を獲得。
*12 現:阪神二軍監督。1993年当時は一軍でわずか29試合出場に終わり、翌1994年限りで現役引退。
*13 野田は阪神時代こそ貧弱打線の影響もあって負け先行の投手だったが、移籍1年目の1993年にオリックスで最多勝(17勝)を獲得し、1995年・1996年にはオリックスのパ・リーグ連覇に貢献した。また、1995年4月21日の対ロッテ戦(千葉マリンスタジアム)では1試合19奪三振の日本新記録を達成している。ただしこの試合では打線の援護が足りず、9回裏に田口壮のエラーにより追いつかれたため勝ち投手にはなれず、試合も延長戦で後続の平井正史が逆転を許しサヨナラ負けを喫した。