1985年に阪神タイガースを初の日本一に導いた左打ちの一塁手、ランディ・バース*1のような助っ人の再来を期待し、在阪マスコミによって阪神に入団した助っ人野手に付けられる通称である。
元祖と同じく「左打者の一塁手」である選手を呼ぶことが多いが、少なくとも「主に長打を期待されている外国人野手」という最低条件さえ満たしていれば投打や守備位置の違いがあってもバースのような活躍を願って呼ばれる場合も少なくない。
| 【目次】 |
前史
ランディ・バースは、1982年オフに阪神タイガースが阪急ブレーブスとの争奪戦を制して獲得し、1983年から1988年途中まで在籍した。現在でも語り草となっている1985年4月17日の対巨人戦(阪神甲子園球場)における、掛布雅之・岡田彰布との「バックスクリーン3連発」に代表される、阪神のクリーンナップの中核選手としての活躍が特に知られている。
同年は打率.350、54本塁打、134打点で三冠王を獲得し、日本シリーズ(対西武戦)でも打率.368、3本塁打、9打点を稼いで最高殊勲選手に選ばれ、チームのリーグ優勝とチーム初かつ2022年まで唯一であった日本シリーズ優勝の文字通り立役者となった。翌1986年には、2025年シーズン終了時点でいまだに破られていないNPB記録となる打率.389をマークして2年連続の三冠王を獲得し、実働6年で通算打率.337、202本塁打を放つなど数々の記録と伝説を残しており、2023年にアレックス・ラミレスと共に野球殿堂入り*2を果たした。「日本プロ野球史上最強の助っ人外国人」「神*3」「神様・仏様・バース様」などと称された。
しかし1988年、バースは息子の難病を機に帰国するが、阪神球団側の不手際が原因でそのまま退団が決まる。この年は結果的に、バースの退団騒動が起因となる当時の球団社長の自殺、掛布の現役引退まで重なったことから2年連続最下位*4に終わり、これが決定打となってチームが崩壊・弱体化し、1990年代の暗黒時代に突入。バースの活躍は暗黒期に入る直前の最後の輝きとして語られるようになってしまった。
再来という名のフラグ
この惨状から、デイリースポーツやサンケイスポーツといった在阪マスコミがバースのような外国人選手の大活躍を再び願い、阪神タイガースに入団する(主に一塁手の)助っ人外国人に期待を寄せる際、半ば神格化する形で殺し文句として枕詞的に「バースの再来」の句が使われるようになった。選手本人のデータやプレーを実際に見ていないにも関わらず、(バースと同じ)左打者と聞くだけで「再来」と騒ぐのは毎度の恒例行事であった。しかし、期待を掛けられてこの称号を頂戴した外国人選手は大抵期待を裏切るというジンクスがあり、中には阪神球団に対してシャレにならない損害を出した選手も数々輩出してきた。
1988年のバース退団後に阪神タイガースへ入団し、「バースの再来」などと称された数々の選手を以下の表にまとめた。下表にあるように初代「バースの再来」はルパート・ジョーンズだが、ジョーンズの退団後も「バースの再来」が次々に来日しては目立った実績を残すことなく球団を去る状況に対して、皮肉を込めて「バースの再来の再来*5」と呼ばれる事が増えつつある。
「バースの再来(の再来)」の選手たち
「年次」欄は一軍出場期間のみYYYY/MM(/DD)表記。年だけの場合はシーズンフル。
1988~2000年
| 名前 | 守備位置 | 打席 | 年次 |
|---|---|---|---|
| 成績(打率/本塁打/打点) | |||
| 備考 | |||
| ルパート・ ジョーンズ | 外野 一塁 | 左打 | 1988 |
| .254/8本/26点 | |||
| 元祖「バースの再来」。プロ野球史上初の背番号「00」。 元々は走攻守三拍子揃った選手だが晩年の金本知憲同様、左肩の故障で満足にプレーできる状態ではなく、左翼からの返球は下手投げで試合後には投手顔負けのアイシングを行っていたほど。その後、不慣れな一塁を守らされてエラーを連発(27試合で7失策)し、一塁から二塁への送球も投手への返球も満足に出来なかった。 打率も振るわず、とんがり頭のスキンヘッドという容貌から「00(ゼロゼロ)怪人」と呼ばれる有様だった。 | |||
| マーベル・ウイン | 外野 | 左打 | 1991 |
| .230/13本/44点 | |||
| メジャー通算940試合出場と実績は充分で、当時の佐々木恭介打撃コーチの強いプッシュで入団。しかし同期入団のオマリー*6とは対照的に日本野球に対応できず「凡打製造機」の渾名を付けられてしまった*7。 | |||
| ロブ・ディアー | 外野 | 右打 | 1994 |
| .151/8本/21点 | |||
| メジャー通算226本塁打の大砲。オマリーの紹介でパチョレックの後釜として契約したが三振率.396と粗さが目立ち、ファンからは「2億7000万円の大型扇風機」「オマリーの話し相手」の渾名が授与された。8月に右手親指靭帯の断裂で帰国、退団。 一方でメディアには好意的に対応したり、悩んだ末に首脳陣に自らスタメン落ちを直訴するなどナイスガイで人格的な一面もあった。ディアーは日米双方での「三振のレジェンド」で、かつてはMLBのシーズン最低打率.179を保持していた*8。 ディアーがホームランを放った試合は大半がデーゲームで、ナイトゲームに弱かった事からファンの間では鳥目疑惑が出ていたという。 | |||
| クレイグ・ ワーシントン | 三塁 | 右打 | 1996 |
| .267/3本/12点 | |||
| 1996年シーズン途中に解雇されたデービス&クールボーの後釜。まずまずの成績を残すも8月に肉離れで離脱、最終戦には出場したが結局そのまま解雇となった。 | |||
| ケビン・マース | 一塁 | 左打 | 1996 |
| .245/8本/42点 | |||
| 上記のクレイグと同じ航空機で来日した4番候補。新聞紙上には登録名にかけて「打ってクレイグ、たのんマース」と書かれた。 クレイグ同様、加入直後はそこそこの成績を残すも打てないコースが多過ぎたせいかあっさり攻略されて解雇。応援歌は名前の発音が近いという事だけでバースの応援歌が流用された。 | |||
| フィル・ ハイアット | 三塁 一塁 外野 | 右打 | 1997 |
| .204/11本/30点 | |||
| 長打力はあったが確実性に欠ける打撃で活躍できず、後述のシークリストらに押し出される形で降格、解雇。 2003年途中に、故障で全休した小久保裕紀の代役としてダイエーが獲得を検討したが結局はフリオ・ズレータを獲得した。 | |||
| マイク・ グリーンウェル | 外野 | 左打 | 1997/5/3-5/11 |
| .231/0本/5点 | |||
| もはや説明不要の「伝説の“ダメ”助っ人」。全身ボロボロのロートル助っ人を大枚(推定約3億3,000万円)をはたいて獲得し大失敗した典型的な例。高級マンションの工事費用も加わっている点は特筆に値する。 加齢と過去の度重なる怪我で成績こそ悪かったが、素行不良ではない。 2025年10月10日(日本時間)に62歳で死去。 | |||
| リード・ シークリスト | 三塁 外野 | 左打 | 1997 |
| .192/0本/4点 | |||
| 不調とケガに悩まされたハイアットと「神のお告げ」で退団したグリーンウェルの代役で加入。 前半戦こそ良かったものの後半戦は強力扇風機に化け、シーズン終了を待たず9月に解雇された。 | |||
| デーブ・ハンセン | 三塁 一塁 | 左打 | 1998 |
| .253/11本/55点 | |||
| ハンセン側が阪神球団へ売り込む際、2年連続で同じビデオを見せられた監督の吉田義男が別の映像と思い込み「成長した」と騙されて契約したと言うくだり*9で有名。 打力はともかくシーズン17失策とお粗末な守備で契約を切られた。翌年にドジャースへ復帰するとまさかの代打の神様として大活躍。その後も各球団を転々としながら2005年まで現役を続けた。 | |||
| アロンゾ・パウエル | 外野 | 右打 | 1998 |
| .255/9本/28点 | |||
| 中日時代は3年連続の首位打者に輝くなど安打製造機として活躍したが、獲得前年は膝の故障で低迷。中日が本拠地をナゴヤ球場から広いナゴヤドームに移転したことを意識したせいか打率が急降下し、守備難も目立ったことから解雇され、阪神に拾われた。 だが阪神でも膝の古傷の影響で前年同様パッとしない成績で、坪井智哉の台頭で控えに回ることが多かった。同年8月7日からの対ヤクルト3連戦にスタメン出場したのを最後に球団から別れを告げられた。 | |||
| デジ・ウィルソン | 一塁 外野 | 左打 | 1998 |
| .167/0本/3点 | |||
| デジー・ウィルソンとも。 阪神フロントが欲張って第三の男として契約したのは良いものの、先述のハンセンとパウエルを優先起用した結果、一軍出場は同年8月から9月までの短期間に終わり、オフに球団からサヨナラと言われた。 | |||
| マイク・ ブロワーズ | 三塁 一塁 | 右打 | 1999 |
| .251/10本/43点 | |||
| 当時の野村克也監督と打撃スタイルで揉め、二軍へ落とせないという契約条項でトラブルになったためお払い箱に。彼が去ってからは好調だった後述のジョンソンの成績も下降していった。 ベースからあまりに離れて打席に立つスタイルのため、外角球に全くと言って良いほど対応できなかった。 | |||
| マーク・ ジョンソン | 一塁 外野 | 左打 | 1999 |
| .253/20本/66点 | |||
| 強烈なアッパースイングを武器にシーズン前半は19本塁打と大暴れするも、後半になるとバッチリしっかり対策されて沈黙、僅か1本塁打に終わって球団を去ることになった。 退団の翌年にメジャー復帰。 | |||
| ハワード・バトル | 三塁 | 右打 | 2000 |
| .227/1本/1点 | |||
| ベンチ入りすると勝利する試合が多かったことから、風貌と相まって勝利の大黒様と称された。しかしそのジンクスも長くは続かずシンプルに実力不足で、特に三塁守備はお粗末そのもの。「太りすぎて二軍スタート」という情けないエピソードまである。 あまりの酷さにシーズン途中でお別れとなったが、代役として日本ハムから金銭トレードで獲得したマイカ・フランクリンも移籍直後に早速故障してそのまま鳴尾浜に残り、選手層の薄さから後述のハートキーを使い続ける羽目になった。 なお、バトルの解雇によって阪神は5年連続で外国人選手のシーズン途中解雇という不名誉な記録を作ってしまった。 | |||
| トニー・ タラスコ | 外野 | 左打 | 2000 |
| .239/19本/57点 | |||
| 陽気な性格から「地下足袋トニー」で親しまれた。打撃はオープン戦で披露した逆方向に流し打つシュアなバッティングから一転、シーズン中は何があったか強引に引っ張るバッティングを繰り返したため、安打では無く三振を量産し打率が低迷。 ただし当たれば飛ぶタイプで、シーズン19本塁打は新庄、大豊に次ぐチーム3位だった。俊足好守を活かした外野守備は評価が高く、新庄との右中間は鉄壁そのもの。シーズン中盤からは6番に定着した。 打率こそ低いが本塁打数と守備面での貢献度は高く、「バースの再来の再来」の中ではかなりマシな部類でファンからも残留を望む声が多かったが結局1年で退団となった。後に大麻所持で解雇されたもののニューヨーク・メッツにも復帰した実力者だった。 | |||
| ジェイソン・ ハートキー | 三塁 | 両打 | 2000 |
| .272/4本/27点 | |||
| 「置物」バトルが役に立たず緊急補強で獲得。陽気で派手なタラスコと対照的に地味だが堅実な守備と打撃が定評とされた。 確かにバットに当てるのは上手く打率.272と多少は数字を残したものの、本塁打はたったの4本で併殺は12と助っ人としてはノーパワー。堅実なはずの守備でも慣れないサード*10とはいえ76試合で14失策を記録した。 当時の阪神は深刻な戦力不足で、同時期に在籍していた外国人内野手も使い物にならなかったことから攻守ともに力不足のハートキーをシーズン後半に「3番・サード」で起用せざるを得なかった。 その様子は島田紳助に「あれは助っ人じゃなくて野球ができる外国人をアメリカから連れてきただけ」と貶され、福本豊には名前を忘れられ「心筋梗塞」とまで呼ばれる有様。打率は悪くなく態度も真面目で最低限レベルには野球が出来ていたため「野球ができる外国人」という評価はバッチリ的を得ていたと言えよう。 | |||
2001~2020年
| 名前 | 守備位置 | 打席 | 年次 |
|---|---|---|---|
| 成績(打率/本塁打/打点) | |||
| 備考 | |||
| イバン・クルーズ | 一塁 外野 | 左打 | 2001 |
| .234/14本/34点 | |||
| メジャーに移籍した新庄剛志の後釜として入団。オープン戦では19試合で打率.385、7本塁打、14打点と活躍したが開幕後は不振。 6月の巨人戦では1試合3本塁打を記録するが、同じ試合で清原和博も1試合3本塁打を放ち、結果的にチームも敗れてヒーローになれず、シーズン終盤に左肩を痛めてそのまま退団となった。 当たれば飛ぶだけのパワーは備えて本塁打も14本放ったが、いかんせん打率が低過ぎて三振が多い上に守備の貢献度も低く、前年に在籍したタラスコのほとんど下位互換だった*11で、当時の野村克也監督は「怪我が治れば打つだろう」と残留を検討していた。 その後、2003年に打線の長打力不足に悩む中日ドラゴンズへ移籍。オープン戦では大暴れし、巨人との開幕3連戦でも木佐貫洋から本塁打を放つなど滑り出しは好調だったが、やはり5月途中で打率.180、4本塁打とクルクルーズに逆戻りしてナゴヤ球場行き。最終的には阪神時代以下の成績でシーズン終了を待たず9月に退団。 一応「怪我が治ってから打った」がその後が続かなかった。 | |||
| エドワード ・ペレス | 一塁 三塁 外野 | 右打 | 2001 |
| .222/3本/19点 | |||
| 父親はシンシナティ・レッズの黄金期を支えたトニー・ペレス。どちらかと言えば「オマリーの再来」と呼ばれていた。 なぜか中日の岩瀬仁紀相手には無双していた。2002年からはMLBに復帰したのち、2007年に引退。 | |||
| トム・エバンス | 三塁 | 右打 | 2001-2002 |
| .242/2本/14点 | |||
| 2001年は守備固め要員として活躍したが、翌年はオリックスから移籍してきたアリアス、新入団のホワイトが優先起用されて余剰要員となってしまう。 シーズン途中の5月に交換トレードで西武ライオンズへ移籍すると阪神時代には見られなかった勝負強い打撃と長打力が冴え、怪我で戦線を離脱したマクレーンの穴を埋める活躍で西武の優勝に貢献。 最終的には打率.252、15本塁打、45打点の成績を残したものの、シーズン終盤にマクレーンが復帰し、当時西武へ在籍していた他の外国人選手も軒並み複数年契約期間中だったため、翌年の一軍出場が難しいと判断されて退団となった。 | |||
| デリック・ ホワイト | 外野 一塁 | 右打 | 2002 |
| .227/7本/21点 | |||
| 「チームのためならバケツ運びでもする」とまで言った人格者。風貌などがマイク・タイソンに似ていることから、「トラのタイソン」の渾名も付けられた。 シーズン当初は活躍したが、技術的な行き詰まりと手首痛に悩まされて冷温停止状態に陥り解雇されてしまった。選手としては見切りをつけられたが、骨折しながらもベンチ入りして戦意高揚の声出しに務める姿は当時の田淵幸一コーチを感服させるなど最後まで人柄的には評価されていた。 その後は楽天の駐米スカウトを務め、AJことアンドリュー・ジョーンズやケーシー・マギーを連れてきた。 | |||
| マイク・ キンケード | 三塁 | 右打 | 2004 |
| .233/3本/7点 | |||
| オマリーがスカウトしてきた助っ人選手。 2000年シドニー五輪野球アメリカ代表の金メダル獲得メンバー(正三塁手)。内外野から捕手まで守れるユーティリティプレーヤーで「キンちゃん」の愛称で親しまれる。 オープン戦では打率4割をマークするなど好調だったが、シーズンに入ると来日初打席で上原浩治から死球を受けたのを皮切りに26試合で12死球((うち頭部死球1回で抹消後に2軍で1死球)1未遂(vs山本昌)という当時の2chの野球chのスレでもネタにされる勢いの当たり屋ぶりを発揮。12度目の死球で案の定左手中指骨折との診断が下って離脱。別の意味での「当たり助っ人」だった。 8月に不振のアリアスの代役として一軍復帰するも翌日にダイビングキャッチを試みて再び負傷し、そのまま解雇されるなどスペ体質でもあった。 | |||
| シェーン・ スペンサー | 外野 一塁 | 右打 | 2005-2006 |
| .237/15本/50点 | |||
| オマリーがスカウト(ry。 打率はパッとせず守備走塁でもやらかすが、ムードメーカーとして優勝に貢献した事が評価され残留。さらなる活躍を期待された翌年、開幕直前に車から降りる際に足を踏み外して右足首を捻挫してしまい長期離脱。開幕後の4月に復帰するが、濱中治の活躍で出場機会は代打に限られていた。 交流戦が始まるとスタメンに名を連ねはじめ、交流戦後半から調子を戻して満塁弾も放ったが、この年は好調だった濱中の活躍で出場機会が減少し、9月に降格後はそのまま別れた。 阪神入団前、ピザ屋相手に暴行事件を起こしたことから素行を不安視されたが、打線が沈黙している中でチームメイトを鼓舞したり、延長戦で犠牲バントを試みたり、「スケベ代表」「馬鹿外人」という襷やシャツを着用して登場するなど例によって人柄的には悪くはなかった様子。 | |||
| ルー・フォード | 外野 | 右打 | 2008 |
| .225/3本/11点 | |||
| オマリーが(ry 。 2004年にはメジャーで規定打席に到達して打率.299、15本塁打、72打点をマークしたが、来日後は「ノーパワー・低打率・鈍足・守備難」と全く逆の別人に退化。ダメ外国人の要素を全て兼ね備え、その姓から「廃車」「ポンコツ車」と揶揄され、後述のメンチやコンラッドが入団する前のヘボ外国人の代名詞だった。ある種ベンツの元祖である。 打席に立ってもワンバウンドするボール球に2球続けて手を出して三振に倒れる珍事をやらかし、当時の岡田彰布監督から「1人野球がわかっとらん奴がおる」と痛烈に批判される有様。 日本では振るわなかったが2012年にはメジャー復帰を果たし、ポストシーズンにも出場した。47歳を迎えた2023年まで現役を続け、2024年からは自身も所属していた独立リーグ球団の監督を務めている。 | |||
| ケビン・メンチ | 外野 | 右打 | 2009 |
| .148/0本/2点 | |||
| オマ(ry*12。 本名がケビン・フォード・メンチのため「フォードの再来」とも。 春季キャンプでの紅白戦では盗塁王を5度獲得した赤星憲広を外野からの返球でアウトにするなど肩の強さを見せたが、打撃で速球に対応できない弱点が露呈し、守備においても打球処理にもたつくなどロクに活躍できず。ただし決して怠慢なプレーを見せたことは無く、降格後もコーチにアドバイスを求めながら練習に熱心に取り組んだり、慈善事業に積極的な姿勢を見せるなどこれまた人格面は評価されていた。 | |||
| ブルックス・ コンラッド | 三塁 二塁 | 両打 | 2013 |
| .175/0本/0点 | |||
| 当時の中村勝広GMが4番候補として「ビデオを2分見て決めた選手」と噂されている。 69打席10安打、0打点の伝説を打ち立てた、ある意味で「バースの再来の再来の化身」。 併殺が1つだけにも関わらず印象的なゲッツーだった*13ため、「一打で二度死ぬコンラッド」とネタ*14にされた。ユーティリティとの触れ込みだったがどこを守ってもイージーエラーを連発。実は元々拙守で知られ、MLB時代は基本的に代打要員だった。 解雇後、当時駐米スカウトだったアンディ・シーツに無断で獲得に動いていたことが発覚し、中村の見る目の無さが改めてクローズアップされたのは言うまでもない。このあまりの醜態に次の助っ人外国人は1打点上げたら当たりとネタにされた。 | |||
| ネルソン・ペレス | 外野 一塁 | 左打 | 2015-2016 |
| .000/0本/0点 | |||
| 当時打撃不振に陥っていたマートンとゴメスの両外国人の代わりとして獲得したが直後に両者が復調してしまい、外国人枠の関係で鳴尾浜暮らしが続いた。 一軍で打点どころか安打すら打てなかったのは阪神球団史上初の不名誉記録だが、これはそもそも10打席しかチャンスが無かったためであり、二軍では好成績だった。 | |||
| マット・ヘイグ | 一塁 三塁 | 右打 | 2016 |
| .231/2本/11点 | |||
| 当時の最多安打記録保持者であるマートンの後継となる中距離打者として入団するも、オープン戦は不振。開幕直後こそ好調だったがその後は再び不振に陥り、甲子園と鳴尾浜を往復する日々。守備難もあって結局1年で退団した。 現役引退後はトロント・ブルージェイズ傘下のマイナーリーグ球団の打撃コーチに就任し、的確な指導で評価を上げ、2024年にはブルージェイズの打撃コーチ補佐に就任するなど、選手よりコーチのほうが適任。 | |||
| エリック・ キャンベル | 一塁 三塁 外野 | 右打 | 2017 |
| .191/1本/5点 | |||
| テームズ(元巨人)の獲得が不発に終わり、代役として獲得した。 内外野守れるユーティリティープレイヤーとの触れ込みで入団したものの全く期待されず「ヘイグの再来」を危惧されるほど。5月25日の巨人戦で来日初本塁打を含む3打点を挙げる輝きを見せたが、そこから25打席連続無安打を記録して6月7日に鳴尾浜行きの切符を渡された。当時新人の糸原健斗や大山悠輔にも遠く及ばない惨状で、その後球団が後述のロジャースを緊急補強したため7月以降は復帰出来ず、そのまま戦力外となった。成績自体はメンチ、コンラッド級だが年俸が推定約7,000万円と比較的安価だったのが救いか。 2021年に一旦は引退を表明したものの撤回し、34歳にしてメジャー復帰を果たした。結局同年限りでの引退となったが、現役生活の最後に花を添えた。 | |||
| ジェイソン・ ロジャース | 一塁 外野 | 右打 | 2017/7-11 |
| .252/5本/23点 | |||
| 不振のキャンベルに代わる助っ人として獲得。7月18日の一軍登録当初は活躍して「パンダ」の愛称で親しまれ、7月23日の横浜戦では阪神球団第100代4番打者にも起用された。しかし、死のロードが始まった8月に入ると一転、打撃不振に。その間に新人の大山悠輔にスタメンを奪われて出場機会が減少。 歴代助っ人の中ではマシな成績で年俸もキャンベル同様に割安(推定約3,300万円)だったが、当時監督だった金本知憲からパワー不足と見なされ、後述のロサリオ獲得により球団には不要となった。 | |||
| ウィリン・ ロサリオ | 一塁 捕手 | 右打 | 2018 |
| .242/8本/40点 | |||
| 平成最後の三億円事件。ディアーやクルーズの再来とも。 2017年に韓国で打率.339、37本塁打、111打点、出塁率.414、OPS1.075と無双し、鳴り物入りで阪神に入団。しかし、外に大きく逃げる球、外角の落ちる球、真ん中の球威のある直球全般に弱いという弱点が露呈すると三振やゲッツーを量産、守備面でも拙守を重ね、8月に登録を抹消されるとそのままお役御免となった。 歴代の助っ人に比べるとまずまずの成績を残している他、この年の7月に発生した西日本豪雨の被災者支援を目的に義援金100万円を寄付するなど、歴代助っ人同様のぐう聖ぶりを発揮しているが、さすがに推定年俸約3億4,000万円では割に合わず。 | |||
| エフレン・ ナバーロ | 一塁 外野 | 左打 | 2018-2019 |
| .264/3本/27点 | |||
| どちらかといえばパワーよりもバットコントロールと守備力に優れた選手で、2018年は先述のロサリオの登録抹消後、一塁のレギュラーとして活躍した。 2019年はヤクルトとの開幕戦にスタメン起用。NPB他球団を経ずに阪神へシーズン途中入団した外国人野手がそのまま残留し、翌年の一軍公式戦に出場するのは1961年のマイク・ソロムコ以来58年ぶりだった。 開幕直後こそレギュラーを守っていたものの、怪我で出遅れていたマルテの復帰に伴い4月末に二軍落ち。二軍でも打率1割台と振るわなかったことから戦力外となった。 ただ、人格が優れていたことや第2回プレミア12のメキシコ代表として大活躍したこと、近年の阪神助っ人のそれ以上の不甲斐なさもあり、バースの再来どころか優良助っ人とするファンもいる。2024年からは阪神の駐米スカウトを担当。 | |||
| ヤンハービス ・ソラーテ | 三塁 外野 | 両打 | 2019 |
| .188/4本/9点 | |||
| グリーンウェルの再来。愛称は「セクシー・タイム」。 強打のスイッチヒッターで、一軍登録後即スタメン起用された7月26日の巨人戦(東京ドーム)で決勝2ランを放つと、7月30日の中日戦(阪神甲子園球場)でも1試合2発(1本目は2リーグ制前から数えた球団通算8000号本塁打、2本目は甲子園の左翼ポールを直撃するサヨナラ2ラン)を記録するなど鮮烈デビューを飾る。ところが7月30日の試合ではショートの守備でエラー(後逸とお手玉、一塁への悪送球)を連発し、その度に実況から「ソラァーテェー!!」と絶叫され、僅か1試合だけでエラー集の動画を作られる始末。 その後は左右両打席から三振を量産する体たらくで8月下旬に鳴尾浜行きが決定。 9月6日に一軍昇格したが、当日に当時の監督だった矢野燿大へ「モチベーションが上がらない」と直訴して広島から強制帰阪。球団はこの行為をチームの規律を乱す問題行動と捉え、3日後の9月9日に解雇された。 | |||
| ジャスティン ・ボーア | 一塁 | 左打 | 2020 |
| .243/17本/45点 | |||
| メジャー通算92本塁打を放った大砲だが左投手に極端に弱く、開幕から18打席連続無安打を記録するなど早々に「バースの再来の再来」認定を受けてしまう。 その後は一時的に打率3割を記録するなど総合的には悪くない成績であり、また日本の野球や文化に積極的に馴染もうとするなど人柄もよく残留を望む声もあったが、調子の波や高年俸(推定年俸約2億7,500万円)がネックとなり1年で退団した。これでも近年の阪神助っ人では活躍した部類。 | |||
2021年~
| 名前 | 守備位置 | 打席 | 年次 |
|---|---|---|---|
| 成績(打率/本塁打/打点) | |||
| 備考 | |||
| メル・ ロハス・ジュニア | 外野 | 両打 | 2021-2022 |
| .220/17本/48点 | |||
| 前年に韓国で打率.349、47本塁打、135打点、OPS 1.097という無双状態で本塁打と打点のリーグ二冠王を獲得。ゴールデングラブ賞とシーズンMVPにも輝き、鳴り物入りで阪神へ入団。 しかしコロナ禍での入国制限による来日遅延、それに伴う調整不足の影響で先述のボーアを超える開幕20打席連続無安打を記録。1年目は後半戦こそ持ち直し、2年目も8月のクラスター発生時に救世主となったが全体的な数字は芳しくなく、推定年俸約2億7,000万円では割に合わず退団した。 彼もまた先述のロサリオ同様、ロマック算がおおむね正しいことを実証してしまった*15。 | |||
| シェルドン・ ノイジー | 外野 | 右打 | 2023-2024 |
| .238/10本/64点 | |||
| レギュラーシーズンでは広い守備範囲と強肩を活かし、両リーグトップの12捕殺を記録したが*16、打撃に関してはリーグ5位タイの13併殺を喫するなど、ノーパワー・あへ単・ゲッツーマシンという評価であり、2023年限りの退団が濃厚と思われていた。ところが、この年のオリックスとの日本シリーズで覚醒し、勝負が決まる第7戦で宮城大弥に会心の一撃となる3ランホームランを喰らわせて38年振りの阪神日本一に大きく貢献し*17、この活躍が評価されて日本シリーズ後に急遽残留を勝ち取った。 しかし翌2024年シーズンは出場49試合で9併殺とゲッツーマシン化に磨きがかかり、レフトのポジションも前川右京や井上広大に奪われ、ミエセスとともにお払い箱となった。 レギュラーシーズンでは平凡な成績ながら日本シリーズでは文句なしの活躍を見せたことから、ファンの間でも非常に評価の分かれる選手の一人である*18。 | |||
上で紹介した選手の中にはジョンソン、タラスコ、ハートキー、ナバーロ、ボーアなど、外国人選手としては打率・長打力などに物足りない点こそあれど一軍でそれなりに試合出場しまずまずの成績を残した選手や、クルーズ、スペンサー、ロジャース、ロサリオのように時折光るものを見せた選手もいたものの、やはり「バースの再来」という看板は重く、その多くが1年以内にチームを去っている。特に、高い前評判がありながら散々な結果に終わったグリーンウェル、メンチ、コンラッド、低い前評判通りの悲惨な結果を残したフォード、ヘイグ、キャンベルらはダメ外人の象徴に挙げられやすい。
なお、こんなある種笑いのバラエティに富んだ阪神の助っ人事情であるが、自前外国人には
- 後のMLB大打者セシル・フィルダー
- スカウトとしては先述の「バースの再来の再来」達を送り込みまくっているが、選手としては1992年に暗黒期唯一のシーズン2位と、ヤクルト移籍初年度の1995年に日本一に貢献したトーマス・オマリー
- 1年目に214安打でイチローの持っていた当時のシーズン安打数記録を更新し、その後も安打製造機として6年にわたり活躍したマット・マートン
- マートンとのコンビで109打点を稼ぎ、2014年CS突破の原動力となったマウロ・ゴメス
- 怪我こそ多かったが抜群の選球眼と長打力で3番、4番を打ち、矢野政権4年連続Aクラスに貢献したジェフリー・マルテ*19
他球団から獲得した助っ人には
- オマリーの友人で1992年に暗黒期唯一のシーズン2位に貢献したジェームス・パチョレック
- 平成の3連発メンバーで2003年リーグ優勝に貢献したジョージ・アリアス
- 3年連続でゴールデングラブ賞を獲得し、後に阪神の敏腕スカウトとしてマートンやゴメスを送り込んだアンディ・シーツ
- バース以来の本塁打40本超えと平成のクリーンアップ3連発メンバーであるクレイグ・ブラゼル
また投手に関しても
- 暗黒時代を支えたマット・キーオやベン・リベラ
- ムエンゴに悩まされながらも奮闘したグレッグ・ハンセル
- 投げては2年連続二桁勝利、打席でも野手顔負けのバッティングを見せ、2003年のリーグ優勝に貢献したトレイ・ムーア
- 阪神一筋10年で日本通算98勝と、先発投手陣の大黒柱として活躍したランディ・メッセンジャー
- ジェフ・ウィリアムス、ジェロッド・リガン、スコット・アッチソン、呉昇桓(オ・スンファン)、マルコス・マテオ、ラファエル・ドリス、ピアース・ジョンソン、ロベルト・スアレス*20ら21世紀の阪神を支えたリリーバーたち
など、平成以降だけでも有力な助っ人は多数存在する。
派生
2016年10月29日の日本シリーズ第6戦の8回表、当時日本ハムファイターズの投手であったアンソニー・バース*21が、広島カープのジェイ・ジャクソンからセンター前ヒットを打った際には、「バース緊急来日」とネタにされた。
なお、一応海外スポーツでもスケールの違いはあるが類似のものに、NBAのマイケル・ジョーダンの後継者の登場を願う「ネクスト・ジョーダン」、サッカーアルゼンチン代表だったディエゴ・マラドーナの後継者を望む「マラドーナ二世」などが存在する。