1985年に阪神タイガースを初の日本一に導いた左打ちの一塁手、ランディ・バース*1のような助っ人の再来を期待し、在阪マスコミによって阪神に入団した助っ人野手に付けられる通称である。
元祖と同じく「左打者の一塁手」である選手を呼ぶことが多いが、少なくとも「主に長打を期待されている外国人野手」という最低条件さえ満たしていれば投打や守備位置の違いがあってもバースのような活躍を願って呼ばれる場合も少なくない。
| 【目次】 |
前史
ランディ・バースは、1982年オフに阪神タイガースが阪急ブレーブスとの争奪戦を制して獲得し、1983年から1988年途中まで在籍した。現在でも語り草となっている1985年4月17日の対巨人戦(阪神甲子園球場)における、掛布雅之・岡田彰布との「バックスクリーン3連発」に代表される、阪神のクリーンナップの中核選手としての活躍が特に知られている。
同年は打率.350、54本塁打、134打点で三冠王を獲得し、日本シリーズ(対西武戦)でも打率.368、3本塁打、9打点を稼いで最高殊勲選手に選ばれ、チームのリーグ優勝とチーム初かつ2022年まで唯一であった日本シリーズ優勝の文字通り立役者となった。翌1986年には、2025年シーズン終了時点でいまだに破られていないNPB記録となる打率.389をマークして2年連続の三冠王を獲得し、実働6年で通算打率.337、202本塁打を放つなど数々の記録と伝説を残しており、2023年にアレックス・ラミレスと共に野球殿堂入り*2を果たした。「日本プロ野球史上最強の助っ人外国人」「神*3」「神様・仏様・バース様」などと称された。
しかし1988年、バースは息子の難病を機に帰国するが、阪神球団側の不手際が原因でそのまま退団が決まる。この年は結果的に、バースの退団騒動が起因となる当時の球団社長の自殺、掛布の現役引退まで重なったことから阪神は2年連続最下位*4に終わり、これが決定打となってチームが崩壊・弱体化し、1990年代の暗黒時代に突入。バースの活躍は暗黒期に入る直前の最後の輝きとして語られるようになってしまった。
再来という名のフラグ
この惨状から、デイリースポーツやサンケイスポーツといった在阪マスコミがバースのような外国人選手の大活躍を再び願い、阪神タイガースに入団する(主に一塁手の)助っ人外国人に期待を寄せる際、半ば神格化する形の殺し文句として枕詞的に「バースの再来」の句が使われるようになった。選手本人のデータやプレーを実際に見ていないにもかかわらず、(バースと同じ)左打者と聞くだけで「再来」と騒ぐのは毎度の恒例行事であった。しかし、期待を掛けられてこの称号を与えられた外国人選手は大抵期待を裏切るというジンクスがあり、中には阪神球団に対してシャレにならない損害を出した選手も数々輩出してきた。
1988年のバース退団後に阪神タイガースへ入団し、「バースの再来」などと称された数々の選手を以下の表にまとめた。下表にあるように初代「バースの再来」はルパート・ジョーンズだが、ジョーンズの退団後も「バースの再来」が次々に来日しては目立った実績を残すことなく球団を去る状況に対して、皮肉を込めて「バースの再来の再来*5」と呼ばれる事が増えつつある。
理由
「バースの再来」が繰り返し失敗に終わる原因は、他球団のダメ外国人助っ人に見られるNPB軽視や加齢による衰えに加え、甲子園独特の浜風が左打者と相性が悪い点が大きく影響しているとされる。
実際にマートンのような右打ち助っ人が比較的成功しやすい一方、バースやブラゼルは逆方向への流し打ちを得意としたことで浜風を克服して成果を挙げた。また、当時のチーム事情から慣れない守備位置を強いて負担を増大させ、調子を落とす、首脳陣やコーチと合わない、ファンやメディアの過剰な期待も指摘されている。
「バースの再来(の再来)」の選手たち
「年次」欄は一軍出場期間のみYYYY/MM(/DD)表記。年だけの場合はシーズンフル。
1988~2000年
| 名前 | 守備位置 | 打席 | 年次 |
|---|---|---|---|
| 成績(打率/本塁打/打点) | |||
| 備考 | |||
| ルパート・ ジョーンズ | 外野 一塁 | 左打 | 1988 |
| .254/8本/26点 | |||
| 元祖「バースの再来」。プロ野球史上初の背番号「00」。 元々は走攻守三拍子揃った選手だったが、晩年の金本知憲同様、左肩の故障で満足にプレーできる状態ではなく、左翼からの返球は下手投げで試合後には投手顔負けのアイシングをおこなっていたほど。その後、不慣れな一塁を守らされてエラーを連発(27試合で7失策)し、一塁から二塁への送球も投手への返球も満足に出来なかった。 打率も.254と振るわず、とんがり頭のスキンヘッドという容貌から「00(ゼロゼロ)怪人」と呼ばれる渾名のみが目立った程度で、シーズンオフに解雇された。 | |||
| マーベル・ウイン | 外野 | 左打 | 1991 |
| .230/13本/44点 | |||
| メジャー通算940試合出場と実績は充分で、当時の佐々木恭介打撃コーチの強いプッシュで入団*6。しかし、同期入団のトーマス・オマリー*7とは対照的に日本野球に順応できず「凡打製造機」の渾名を付けられてしまう。一方で、5月19日の対巨人戦ではサイクルヒット未遂*8を記録したり、7月の巨人戦2試合ではチームの勝利の立役者*9になるなど、一瞬の輝きを見せることはあった。それでも、打率.230、13本塁打、44打点*10と年俸(推定約1億2,000万円)に見合う活躍とはならず、シーズンオフに退団となった。 | |||
| ロブ・ディアー | 外野 | 右打 | 1994 |
| .151/8本/21点 | |||
| オマリーの紹介で、ジェームス・パチョレックの後釜として入団。メジャー通算226本塁打の大砲だったが三振率.396と粗さが目立ち、ファンからは「2億7,000万円の大型扇風機」「オマリーの話し相手」と揶揄された。8月に右手親指靭帯の断裂で帰国、退団。 一方でメディアには好意的に対応したり、悩んだ末に首脳陣に自らスタメン落ちを直訴するなどナイスガイで人格的な一面もあった。ディアーは日米双方での「三振のレジェンド」で、かつてはMLBのシーズン最低打率.179を保持していた*11。 ディアーがホームランを放った試合は大半がデーゲームでナイトゲームに弱かった事から、ファンの間では鳥目疑惑が出ていたという。なお、三振の多さは後年この人が継承した。 | |||
| クレイグ・ ワーシントン | 三塁 | 右打 | 1996 |
| .267/3本/12点 | |||
| 1996年シーズン途中に解雇されたグレン・デービスとスコット・クールボーの後釜として入団。22試合の出場でまずまずの成績を残すも8月に肉離れで離脱。シーズン最終戦には出場したが、結局そのまま解雇となった。 | |||
| ケビン・マース | 一塁 | 左打 | 1996 |
| .245/8本/42点 | |||
| 上記のクレイグと同じ航空機で来日した4番候補。新聞紙上では登録名にかけて「打ってクレイグ、たのんマース」と書かれた。 クレイグ同様、加入直後はそこそこの成績を残すも打てないコースが多過ぎたせいかあっさり攻略されて解雇。応援歌は名前の発音が近いという事だけでバースの応援歌が流用された。 | |||
| フィル・ ハイアット | 三塁 一塁 外野 | 右打 | 1997 |
| .204/11本/30点 | |||
| 長打力はあったが確実性に欠ける打撃で活躍できず、後述のリード・シークリストらに押し出される形で二軍降格となり、シーズン終了後解雇。 2003年途中、故障で全休した小久保裕紀の代役としてダイエーが獲得を検討したが、最終的にはフリオ・ズレータを獲得した。 | |||
| マイク・ グリーンウェル | 外野 | 左打 | 1997/5/3-5/11 |
| .231/0本/5点 | |||
| もはや説明不要の「伝説の“ダメ”助っ人」。全身ボロボロのロートル助っ人を大枚(推定約3億3,000万円)をはたいて獲得し大失敗した典型的な例。高級マンションの工事費用も加わっている点は特筆に値する。 ボストン・レッドソックス在籍時の1988年には158試合に出場して打率.325、22本塁打、119打点の成績でシルバースラッガー賞を受賞。また当時のMLB新記録となる23勝利打点も記録している。オールスターゲームにも2度出場するなどチームを代表する選手であったが、1992年以降は度重なる故障に悩まされていた。加齢と度重なる故障、そして衝撃的な引退とファンの印象は最悪だったが、決して素行不良ではない。 引退後は母国で遊園地を建設してオーナーになったり、牧場経営をおこなったりしていた。また、2008年にはボストン・レッドソックスのチーム殿堂入りも果たしていたが、2025年10月10日(日本時間)に甲状腺がんのため62歳で死去。 | |||
| リード・ シークリスト | 三塁 外野 | 左打 | 1997 |
| .192/0本/4点 | |||
| 不調とケガに悩まされたハイアットと「神のお告げ」で退団したグリーンウェルの代役で加入。 入団当初は代打要員だったが、6月下旬から7月上旬にかけてはスタメンでも起用された。だが、7月5日の巨人戦で猛打賞を記録したのを最後にパッタリと当たりが止まり、シーズン後半は大型扇風機と化した。シーズン終了を待たず、9月に解雇。 | |||
| デーブ・ハンセン | 三塁 一塁 | 左打 | 1998 |
| .253/11本/55点 | |||
| ハンセン側が阪神球団へ売り込む際、2年連続で同じビデオを見せられた監督の吉田義男が別の映像と思い込み「成長した」と騙されて契約したと言うくだり*12で有名。 打力はともかくシーズン17失策とお粗末な守備で契約を切られた。翌1999年にドジャースへ復帰すると、まさかの代打の神様として大活躍*13。その後も各球団を転々としながら2005年まで現役を続けた。 | |||
| アロンゾ・パウエル | 外野 | 右打 | 1998 |
| .255/9本/28点 | |||
| 中日時代は3年連続首位打者に輝くなど安打製造機として活躍したが、獲得前年は膝の故障で低迷。中日が本拠地をナゴヤ球場から広いナゴヤドームに移転したことを意識したせいか打率が急降下し、守備難も目立ったことから解雇され、阪神に拾われた。 シーズン当初はスタメンに名を連ねていたものの、膝の古傷の影響で前年同様パッとしない成績で、新人の坪井智哉が台頭してくると控えに回ることが多かった。同年8月7日からの対ヤクルト3連戦にスタメン出場したものの9打数無安打に終わり、シーズン終了を待たずに解雇となった。 | |||
| デジ・ウィルソン | 一塁 外野 | 左打 | 1998 |
| .167/0本/3点 | |||
| デジー・ウィルソンとも。 阪神フロントが欲張って第三の男として契約したものの、先述のハンセンとパウエルとの兼ね合いもあり、一軍出場は同年8月から9月までの短期間に留まる。結局16試合の出場に終わり、シーズン終了後解雇となった。 | |||
| マイク・ ブロワーズ | 三塁 一塁 | 右打 | 1999 |
| .251/10本/43点 | |||
| 2億2,000万円の大型契約で入団したものの、当時の野村克也監督と打撃スタイルで揉め、二軍へ落とせないという契約条項でトラブルになったためシーズン途中の8月でお払い箱に。彼が去ってからは好調だった後述のマーク・ジョンソンの成績も下降していった。 ベースからあまりに離れて打席に立つスタイルのため、外角球にまったくと言って良いほど対応できなかった。 | |||
| マーク・ ジョンソン | 一塁 外野 | 左打 | 1999 |
| .253/20本/66点 | |||
| 入団時には前年まで在籍していたロサンゼルス・エンゼルスでチームメイトだった長谷川滋利から「日本野球への適応力がある」と太鼓判を押されていた*14。強烈なアッパースイングを武器に4試合連続本塁打を記録するなど、シーズン前半は19本塁打と大暴れ。ところがシーズン後半に入ると弱点を研究されたのか、前半戦で猛威を振るっていた打棒が沈黙し、わずか1本塁打に終わってしまう。最終的な成績は打率.253、20本塁打、66打点と及第点を与えられるもので、当時の野村克也監督は残留を希望していたものの、後半戦に攻略されたこと、また一塁には大豊泰昭がいた*15ことから球団を去ることになった。 退団の翌年にメジャー復帰。 | |||
| ハワード・バトル | 三塁 | 右打 | 2000 |
| .227/1本/1点 | |||
| 前年に3Aで24本塁打、また121試合で66三振当時の野村克也監督好みの確実性が高いバッティングを評価されて入団。だが、キャンプもシーズン開幕時も「太りすぎて二軍スタート」という情けない有様で来日直後から実力は疑問視されていた。ベンチ入りすると勝利する試合が多かったことから、風貌と相まって勝利の大黒様と称された。しかし、そのジンクスも長くは続かず予想通りの実力不足で、特に三塁守備はお粗末そのもの。 あまりの酷さにシーズン途中で解雇となったが、代役として日本ハムから金銭トレードで獲得したマイカ・フランクリンも移籍直後に故障離脱してわずか8試合の出場に終わり*16、選手層の薄さから後述のジェイソン・ハートキーを使い続ける羽目になった。 なお、バトルの解雇によって阪神は5年連続で外国人選手のシーズン途中解雇という不名誉な記録を作ってしまった。 | |||
| トニー・ タラスコ | 外野 | 左打 | 2000 |
| .239/19本/57点 | |||
| 強肩と陽気な性格が魅力で「地下足袋トニー」の愛称で親しまれた。打撃はキャンプ・オープン戦では逆方向に流し打つシュアなバッティングを披露し「打率.300は確実」と言われていたが、シーズンが開幕すると一転して強引に引っ張るバッティングを繰り返したため、安打では無く三振を量産して打率が低迷。 ただし当たれば飛ぶタイプで、シーズン19本塁打は新庄、大豊に次ぐチーム3位だった。俊足好守を活かした外野守備は評価が高く、新庄との右中間は鉄壁そのもので新庄自身とも仲が良かった。シーズン中盤からは6番に定着し、打率こそ低いものの本塁打数と守備面での貢献度は高かった。「バースの再来の再来」の中ではかなりマシな部類でファンからも残留を望む声が多かったが、結局1年で退団となった。 アメリカ帰国後の2001年のスプリングトレーニングでは、その年からニューヨーク・メッツに移籍した新庄と再会を果たしている。なお、2002年にはそのニューヨーク・メッツでメジャー復帰を果たしたが、大麻所持で解雇されてそのまま引退となった。 | |||
| ジェイソン・ ハートキー | 三塁 | 両打 | 2000 |
| .272/4本/27点 | |||
| 「置物」バトルが役に立たず緊急補強で獲得。陽気で派手な先述のタラスコとは対照的に、地味だが堅実な守備と打撃が定評とされた。 確かにバットに当てるのは上手く打率.272と多少は数字を残したものの、本塁打はたったの4本で12併殺を喫するなど助っ人としてはノーパワー。堅実なはずの守備も慣れないサード*17とはいえ76試合で14失策を記録した。 当時の阪神は深刻な戦力不足で、同時期に在籍していた外国人内野手も使い物にならなかったことから、攻守ともに力不足のハートキーをシーズン後半には「3番・サード」で起用せざるを得なかった。 その様子は島田紳助に「あれは助っ人じゃなくて野球ができる外国人をアメリカから連れてきただけ」と貶され、福本豊には名前を忘れられ「心筋梗塞」とまで呼ばれる有様。結局、シーズン終盤に脇腹を痛めて離脱し、そのまま退団となった。打率は悪くなく態度も真面目で最低限レベルには野球が出来ていたため「野球ができる外国人」という評価はバッチリ的を得ていたと言える。 | |||
2001~2020年
| 名前 | 守備位置 | 打席 | 年次 |
|---|---|---|---|
| 成績(打率/本塁打/打点) | |||
| 備考 | |||
| イバン・クルーズ | 一塁 外野 | 左打 | 2001 |
| .234/14本/34点 | |||
| ニューヨーク・メッツに移籍した新庄の後釜として入団。オープン戦では19試合で打率.385、7本塁打、14打点と活躍したが開幕後は不振。6月9日の対巨人戦では1試合3本塁打を記録するが、同じ試合で巨人の清原和博も1試合3本塁打を放ち、結果的にチームも敗れてヒーローになれず。シーズン中盤に左肩を痛め、試合には出場していたものの状態が悪化。治療のため7月途中に帰国し、そのまま退団となった。 当たれば飛ぶだけのパワーは持っており、本塁打も14本放ったが、いかんせん打率が低過ぎて三振が多い上に守備の貢献度も低く、前年に在籍したタラスコのほとんど下位互換だった*18で、当時の野村克也監督は「怪我が治れば打つだろう」と残留を検討していた。 その後、2003年に打線の長打力不足に悩む中日ドラゴンズへ移籍。オープン戦では阪神在籍時と同様に大暴れし、巨人との開幕3連戦でも木佐貫洋から本塁打を放つなど滑り出しは好調だったが、やはり5月中旬には打率.180、4本塁打とクルクルーズに逆戻りしてナゴヤ球場行き。最終的には阪神時代同様の成績に終わり、シーズン終了を待たず9月に退団。 一応「怪我が治ってから打った」がその後が続かなかった。 | |||
| エドワード ・ペレス | 一塁 三塁 外野 | 右打 | 2001 |
| .222/3本/19点 | |||
| 父親はシンシナティ・レッズの黄金期を支えたトニー・ペレス。どちらかと言えば「オマリーの再来」と呼ばれていた。春季キャンプでいきなり膝を故障し、その後も「バッターボックスで間合いがまったく取れていない」と指摘されるなど問題点が続出。100打席以上本塁打が出ないなど目立った活躍が出来ず、1年でお払い箱となった。 なぜか中日の岩瀬仁紀相手には無双*19していた。2002年からはセントルイス・カージナルスに復帰したのち、2007年に引退。 | |||
| トム・エバンス | 三塁 | 右打 | 2001-2002 |
| .242/2本/14点 | |||
| 2001年シーズン途中に入団し、打撃成績こそ振るわなかったものの守備固め要員としての活躍が認められ残留*20。だが、翌年はオリックスから移籍してきたジョージ・アリアス、新入団のデリック・ホワイトが優先起用されて余剰要員となってしまう。 シーズン途中の5月に橋本武広との交換トレードで西武ライオンズへ移籍すると、阪神時代には見られなかった勝負強い打撃と長打力が冴え、怪我で戦線を離脱したスコット・マクレーンの穴を埋める活躍で西武の優勝に貢献。 最終的には打率.252、15本塁打、45打点の成績を残したものの、シーズン終盤にマクレーンが復帰し、当時西武へ在籍していた他の外国人選手も軒並み複数年契約期間中だったため、翌年の一軍出場が難しいと判断されて退団となった。 | |||
| デリック・ ホワイト | 外野 一塁 | 右打 | 2002 |
| .227/7本/21点 | |||
| 「チームのためならバケツ運びでもする」とまで言った人格者。風貌などがマイク・タイソンに似ていることから、「トラのタイソン」の渾名も付けられた。 シーズン当初は活躍したが、技術的な行き詰まりと手首痛に悩まされて冷温停止状態に陥り解雇されてしまった。選手としては見切りをつけられたが、骨折しながらもベンチ入りして戦意高揚の声出しに務める姿は当時の田淵幸一コーチを感服させるなど最後まで人柄的には評価されていた。 その後は楽天の駐米スカウトを務め、AJことアンドリュー・ジョーンズやケーシー・マギーの入団に尽力した。 | |||
| マイク・ キンケード | 三塁 | 右打 | 2004 |
| .233/3本/7点 | |||
| オマリーがスカウトしてきた助っ人選手。 2000年シドニーオリンピック野球アメリカ代表の金メダル獲得メンバー(正三塁手)。内外野から捕手まで守れるユーティリティプレーヤーで「キンちゃん」の愛称で親しまれる。 オープン戦では打率4割をマークするなど好調だったが、シーズンに入ると来日初打席で上原浩治から死球を受けたのを皮切りに26試合で12死球(うち頭部死球1回で抹消後に2軍で1死球)1未遂(山本昌との対戦で)という当時の2chにおける野球chのスレでもネタにされる勢いの当たり屋ぶりを発揮。12度目の死球で案の定左手中指骨折との診断が下って離脱。別の意味での「当たり助っ人」だった。 8月に不振のアリアスの代役として一軍復帰するも、翌日にダイビングキャッチを試みて再び負傷。二軍へ逆戻りとなりそのままシーズン終了後、解雇となるなどスペ体質でもあった。 | |||
| シェーン・ スペンサー | 外野 一塁 | 右打 | 2005-2006 |
| .237/15本/50点 | |||
| オマリーがスカウト(ry。 打率はパッとせず守備走塁でもやらかすが、ムードメーカーとして優勝に貢献した事が評価され残留。さらなる活躍を期待された翌年、春季キャンプ終盤に車から降りる際に足を踏み外して右足首を捻挫してしまい離脱。開幕後の4月に復帰するが、濱中治の活躍で出場機会は代打に限られていた。 交流戦が始まるとスタメンに名を連ねはじめ、交流戦後半から調子を戻して満塁弾も放ったが、この年は好調だった濱中の活躍で出場機会が減少。9月に二軍へ降格後、そのまま退団となった。 阪神入団前、ピザ屋相手に暴行事件を起こしたことから素行を不安視されたが、打線が沈黙している中でチームメイトを鼓舞したり、延長戦で犠牲バントを試みたり、「スケベ代表」「馬鹿外人」という襷やシャツを着用して登場するなど例によって人柄的には悪くはなかった様子。 | |||
| ルー・フォード | 外野 | 右打 | 2008 |
| .225/3本/11点 | |||
| オマリーが(ry 。 2004年にはメジャーで規定打席に到達して打率.299、15本塁打、72打点をマークしたが、来日後は「ノーパワー・低打率・鈍足・守備難」とまったくの別人に退化。ダメ外国人の要素をすべて兼ね備え、その姓から「廃車」「ポンコツ車」と揶揄され、後述のケビン・メンチやブルックス・コンラッドが入団する前のヘボ外国人の代名詞だった。ある種ベンツの元祖である。 7月の対中日戦ではワンバウンドするボール球に2球続けて手を出して三振に倒れるという珍事もやらかし、当時の岡田彰布監督から「1人野球がわかっとらん奴がおる」と痛烈に批判される有様。 日本では振るわなかったが2012年にはメジャー復帰を果たし、ポストシーズンにも出場した。47歳を迎えた2023年まで現役を続け、2024年からは自身も所属していた独立リーグ球団の監督を務めている。 | |||
| ケビン・メンチ | 外野 | 右打 | 2009 |
| .148/0本/2点 | |||
| オマ(ry*21。 本名がケビン・フォード・メンチのため「フォードの再来」とも。 春季キャンプの紅白戦では盗塁王を5度獲得した赤星憲広を外野からの返球でアウトにするなど肩の強さを見せたが、オープン戦に入ると速球に対応できない弱点が露呈。シーズン開幕後も右翼の定位置を争う桜井広大、林威助が揃って結果を残せなかったため、しばらくはスタメン出場を続けていたものの、守備においても打球処理にもたつくなどロクに活躍できず。その後、徐々に調子を上げてきた桜井に定位置を奪われ、さらに5月末にはクレイグ・ブラゼルが入団したことで完全にお払い箱状態となり、妻の出産の立ち会うため7月末に帰国してそのまま退団となった。 ただし、決して怠慢なプレーを見せたことは無く、降格後もコーチにアドバイスを求めながら練習に熱心に取り組んだり、慈善事業に積極的な姿勢を見せるなどこれまた人格面は評価されていた。 | |||
| ブルックス・ コンラッド | 三塁 二塁 | 両打 | 2013 |
| .175/0本/0点 | |||
| 当時の中村勝広GMが4番候補として「ビデオを2分見て決めた選手」と噂されている。 オープン戦ではその年のチーム第1号ホームランや満塁ホームランを放つなど結果を残し、開幕スタメンに名を連ねる。ヤクルトとの開幕3連戦では二塁打3本を含む4安打と上々の滑り出しを見せたものの、4月17日の対巨人戦で開幕から58打席連続無打点という、来日1年目の外国人選手としては球団ワーストという不名誉記録を樹立。結果的には69打席10安打、0打点の伝説を打ち立てた、ある意味で「バースの再来の再来の化身」。 併殺が1つだけにもかかわらず印象的なゲッツーだった*22ため、「一打で二度死ぬコンラッド」*23とネタにされた。ユーティリティとの触れ込みだったがどこを守ってもイージーエラーを連発。実は元々拙守で知られ、MLB時代は基本的に代打要員だった。 解雇後、当時駐米スカウトだったアンディ・シーツに無断で獲得に動いていたことが発覚し、中村の見る目の無さが改めてクローズアップされたのは言うまでもない。このあまりの醜態に次の助っ人外国人は1打点上げたら当たりとネタにされた。 | |||
| ネルソン・ペレス | 外野 一塁 | 左打 | 2015-2016 |
| .000/0本/0点 | |||
| 当時打撃不振に陥っていたマット・マートンとマウロ・ゴメスの両外国人の代役として獲得したが、直後に両者が復調してしまい、外国人枠の関係で鳴尾浜暮らしが続いた。翌2016年も契約が継続されたが、結局一軍にお呼びがかからないままシーズン終了後に退団となった。 一軍で打点どころか安打すら打てなかったのは阪神球団史上初の不名誉記録だが、これはそもそも10打席しかチャンスが無かったためであり、二軍では好成績*24だった。 | |||
| マット・ヘイグ | 一塁 三塁 | 右打 | 2016 |
| .231/2本/11点 | |||
| 当時のシーズン最多安打記録保持者であるマット・マートンの後継となる中距離打者として入団するも、オープン戦は不振。中日との開幕3連戦では3試合連続でタイムリーを放つなど4打点と開幕直後こそ好調だったが、その後は再び不振に陥り、甲子園と鳴尾浜を往復する日々。守備難もあって結局1年で退団した。 現役引退後はトロント・ブルージェイズ傘下のマイナーリーグ球団の打撃コーチに就任し、的確な指導で評価を上げ、2024年にはブルージェイズの打撃コーチ補佐に就任するなど、どうやら選手よりコーチのほうが適任だった模様。 | |||
| エリック・ キャンベル | 一塁 三塁 外野 | 右打 | 2017 |
| .191/1本/5点 | |||
| エリック・テームズ(元巨人)の獲得が不調に終わり、代役として獲得。 内外野守れるユーティリティープレイヤーとの触れ込みで入団したもののまったく期待されず「ヘイグの再来」を危惧されるほど。5月25日の巨人戦で来日初本塁打を含む3打点を挙げるなど一瞬の輝きを見せたものの、そこから25打席連続無安打を記録して6月7日に鳴尾浜行きとなった。成績は当時新人の糸原健斗や大山悠輔にも遠く及ばない惨状で、その後球団が後述のジェイソン・ロジャースを緊急補強したため7月以降は復帰出来ず、そのまま退団となった。成績自体はメンチ、コンラッド級だが、年俸が推定約7,000万円と比較的安価だったのが救いか。 2021年に一旦は引退を表明したものの撤回し、34歳にしてメジャー復帰を果たした。結局同年限りで引退となったが、現役生活の最後に花を添えた。 | |||
| ジェイソン・ ロジャース | 一塁 外野 | 右打 | 2017/7-11 |
| .252/5本/23点 | |||
| 先述のキャンベルに代わる助っ人として獲得。7月18日の一軍登録当初は活躍して「パンダ」の愛称で親しまれ、7月23日の横浜戦では阪神球団第100代4番打者にも起用された。しかし、死のロードが始まった8月に入ると一転、打撃不振に。その間に新人の大山悠輔にスタメンを奪われて出場機会が減少。 「バースの再来の再来」の中ではマシな成績で年俸もキャンベル同様に割安(推定約3,300万円)だったが、当時監督だった金本知憲からパワー不足とみなされ、後述のウィリン・ロサリオの獲得が決定的となったため解雇された。 | |||
| ウィリン・ ロサリオ | 一塁 捕手 | 右打 | 2018 |
| .242/8本/40点 | |||
| 平成最後の三億円事件、もしくはディアーやクルーズの再来とも。 2017年に韓国リーグで打率.339、37本塁打、111打点、出塁率.414、OPS1.075と無双し、鳴り物入りで阪神に入団。しかし、外に大きく逃げる球、外角の落ちる球、真ん中の球威のある直球全般に弱いという弱点が露呈すると、三振やゲッツーを量産。守備面でも拙守を重ね、8月に登録を抹消されるとそのままお払い箱となった。 「バースの再来の再来」の中ではまずまずの成績を残している他、この年の7月に発生した西日本豪雨の被災者支援を目的に義援金100万円を寄付するなど、歴代助っ人同様のぐう聖ぶりを発揮しているが、さすがに推定年俸約3億4,000万円では割に合わず。 | |||
| エフレン・ ナバーロ | 一塁 外野 | 左打 | 2018-2019 |
| .264/3本/27点 | |||
| パワーよりもバットコントロールと守備力に優れた選手で、2018年は先述のロサリオの登録抹消後、一塁のレギュラーとして活躍。その働きぶりが認められて翌年の契約を勝ち取り、翌2019年はヤクルトとの開幕戦にスタメン起用された*25。 開幕直後こそスタメンに名を連ねていたものの、怪我で出遅れていたジェフリー・マルテの復帰に伴い4月末に二軍落ち。二軍でも打率1割台と振るわなかったため一軍からお呼びがかからず、シーズン終了前に帰国しそのまま退団となった。 ただ、人格が優れていたことや第2回プレミア12のメキシコ代表として大活躍したこと、近年の阪神助っ人のそれ以上の不甲斐なさもあり、バースの再来どころか優良助っ人とするファンもいる。2024年からは阪神の駐米スカウトを担当。 | |||
| ヤンハービス ・ソラーテ | 三塁 外野 | 両打 | 2019 |
| .188/4本/9点 | |||
| 強打のスイッチヒッターで、愛称は美しく華麗な守備から「セクシー・タイム」*26。 シーズン中盤の7月に入団が決まり、一軍登録後即スタメン起用された7月26日の対巨人戦では田口麗斗から決勝2ランを放つと、7月30日の対中日戦でも1試合2発(1本目は2リーグ制前から数えた球団通算8000号本塁打、2本目は甲子園の左翼ポールを直撃するサヨナラ2ラン)を記録するなど鮮烈デビューを飾る。一方、同日の試合ではショートの守備でエラー(後逸とお手玉、一塁への悪送球)を連発し、その度に実況から「ソラァーテェー!!」と絶叫され、わずか1試合だけでエラー集の動画を作られる始末。 入団直後は冴えていた打棒も、その後は左右両打席から三振を量産する体たらくで8月下旬に鳴尾浜行きが決定。 9月6日に一軍へ招集され、一軍の遠征先である広島まで移動していたが、当日に当時の監督だった矢野燿大へ「モチベーションが上がらない」と直訴してベンチ入りを拒否ししたため、一軍昇格は見送られて広島から強制帰阪。球団はこの行為をチームの規律を乱す問題行動と捉え、3日後の9月9日に解雇された。 | |||
| ジャスティン ・ボーア | 一塁 | 左打 | 2020 |
| .243/17本/45点 | |||
| メジャー通算92本塁打を放った大砲だが左投手に極端に弱く、開幕から18打席連続無安打を記録するなど早々に「バースの再来の再来」認定を受けてしまう。 その後は一時的に打率3割を記録するなど総合的には悪くない成績であり、また日本の野球や文化に積極的に馴染もうとするなど人柄もよく残留を望む声もあったが、調子の波や高年俸(推定約2億7,500万円)がネックとなり1年で退団となった。 | |||
2021年~
| 名前 | 守備位置 | 打席 | 年次 |
|---|---|---|---|
| 成績(打率/本塁打/打点) | |||
| 備考 | |||
| メル・ ロハス・ジュニア | 外野 | 両打 | 2021-2022 |
| .220/17本/48点 | |||
| 前年に韓国リーグで打率.349、47本塁打、135打点、OPS 1.097という圧巻の成績で本塁打と打点のリーグ二冠王を獲得。ゴールデングラブ賞とシーズンMVPにも輝き、鳴り物入りで阪神へ入団した。 しかし来日が遅れたこと、それに伴う調整不足の影響で先述のボーアを超える開幕20打席連続無安打を記録。1年目は後半戦こそ持ち直し、2年目も8月にチーム内で新型コロナウイルス感染クラスターが発生した際には救世主となったが全体的な数字は芳しくなく、推定約2億7,000万円の年俸では割に合わず退団となった。 彼もまた先述のロサリオ同様、ロマック算がおおむね正しいことを実証してしまった*27。 | |||
| シェルドン・ ノイジー | 外野 | 右打 | 2023-2024 |
| .238/10本/64点 | |||
| レギュラーシーズンでは広い守備範囲と強肩を活かし、両リーグトップの12捕殺を記録したが*28、打撃に関してはシーズン序盤こそ好調だったものの6月には月間打率が.152を記録するなど深刻な不振に陥り、リーグ5位タイの13併殺を記録。最終的なシーズン成績は打率.240、9本塁打、56打点と決して悲惨な成績では無かったが、ファンの評価はノーパワー・あへ単・ゲッツーマシンというものであり2023年限りの退団が濃厚と思われていた。 ところがオリックスとの日本シリーズで一気に覚醒。第6戦では山本由伸から空砲となったものの本塁打を放ち、決戦の第7戦では宮城大弥に決勝打となる3ランを喰らわせて阪神38年振りの日本一に大きく貢献*29。この活躍が評価されて優秀選手賞にも輝き、日本シリーズ後に急遽残留を勝ち取った。 しかし2024年は出場49試合で9併殺とゲッツーマシン化に磨きがかかり、レフトのポジションも前川右京などに奪われ、同期のヨハン・ミエセスとともにお払い箱となり退団。その後は長らく音沙汰がなかったものの、2026年6月にアメリカで屋根工事の会社を開業した際に正式に野球選手を引退したと発表。 レギュラーシーズンでは平凡な成績ながら日本シリーズでは文句なしの大活躍を見せたことで強烈な印象を残したため、阪神ファンの間でも非常に評価の分かれる選手となった*30。 | |||
上で紹介した選手の中にはジョンソン、タラスコ、ハートキー、ナバーロ、ボーアなど、外国人選手としては打率・長打力などに物足りない点こそあれど一軍でそれなりに試合出場しまずまずの成績を残した選手や、クルーズ、スペンサー、ロジャース、ロサリオのように時折光るものを見せた選手もいたものの、やはり「バースの再来」という看板は重く、その多くが1年以内にチームを去っている。特に、高い前評判がありながら散々な結果に終わったグリーンウェル、メンチ、コンラッド、低い前評判通りの悲惨な結果を残したフォード、ヘイグ、キャンベルらはダメ外人の象徴に挙げられやすい。
なお、こんなある種笑いのバラエティに富んだ阪神の助っ人事情であるが、自前外国人には
- 後のMLB大打者セシル・フィルダー
- 1992年に暗黒期唯一のシーズン2位と、ヤクルト移籍初年度の1995年に日本一に貢献したトーマス・オマリー*31
- 1年目に214安打でイチローの持っていた当時のシーズン安打数記録を更新し、その後も安打製造機として6年にわたり活躍したマット・マートン
- マートンとのコンビで109打点を稼ぎ、2014年CS突破の原動力となったマウロ・ゴメス
- 怪我こそ多かったが抜群の選球眼と長打力で3番、4番を打ち、矢野政権4年連続Aクラスに貢献したジェフリー・マルテ*32
他球団から獲得した助っ人には
- オマリーの友人で1992年に暗黒期唯一のシーズン2位に貢献したジェームス・パチョレック
- 平成の3連発メンバーで2003年リーグ優勝に貢献したジョージ・アリアス
- 3年連続でゴールデングラブ賞を獲得し、後に阪神の敏腕スカウトとしてマートンやゴメスを送り込んだアンディ・シーツ
- バース以来の本塁打40本超えと平成のクリーンアップ3連発メンバーであるクレイグ・ブラゼル
また投手に関しても
- 暗黒時代を支えたマット・キーオやベン・リベラ
- ムエンゴに悩まされながらも奮闘したグレッグ・ハンセルやジェイソン・スタンリッジ
- 投打で2003年のリーグ優勝に大きく貢献したトレイ・ムーア
- 阪神一筋10年で日本通算98勝と、先発投手陣の大黒柱として活躍したランディ・メッセンジャー
- ジェフ・ウィリアムス、ジェロッド・リガン、スコット・アッチソン、呉昇桓(オ・スンファン)、マルコス・マテオ、ラファエル・ドリス、ピアース・ジョンソン、ロベルト・スアレス*33ら21世紀の阪神を支えたリリーバーたち
など、平成以降だけでも有力な助っ人は多数存在する。
派生
2016年10月29日の日本シリーズ第6戦の8回表、当時日本ハムファイターズの投手であったアンソニー・バース*34が、広島カープのジェイ・ジャクソンからセンター前ヒットを打った際には、「バース緊急来日」とネタにされた。
なお、一応海外スポーツでもスケールの違いはあるが類似のものに、NBAのマイケル・ジョーダンの後継者の登場を願う「ネクスト・ジョーダン」、サッカーアルゼンチン代表だったディエゴ・マラドーナの後継者を望む「マラドーナ二世」などが存在する。