金メダルしかいらない

Last-modified: 2021-02-19 (金) 21:12:44

2008年北京五輪の野球日本代表を指揮した、星野仙一による優勝宣言のこと。

概要

アテネ五輪で日本代表監督であった長嶋茂雄が脳梗塞で倒れ途中から急遽指揮を執った中畑清によってオールプロで臨んだ前回のアテネ大会では銅メダルに終わった。
その次の北京五輪代表ではその雪辱を晴らすべく星野に白羽の矢が立つ。この五輪代表でもほぼプロ選手*1が派遣され、満を持しての態勢で臨むこととなった。
しかし星野は短期決戦に非常に弱い*2ことでも知られ、また星野が招集したコーチ陣は東京六大学野球出身の学閥*3で固められ、お友達野球とまで揶揄される。またコーチの山本・田淵・大野豊は指導者としてかねてからその能力に疑問符がついており*4、そのうえ冒頭の宣言と共に前任の中畑を事あるごとに扱き下ろすような発言を繰り返す、「星野JAPAN」の商標登録、山本田淵ともどもカレーのCMに出演*5するなどパフォーマンス先行の行動にファンから不安の声が上がっていた。
結果は4勝5敗、3度のエラーで金メダルどころか前任の中畑体制で獲得した銅メダルすら手にすることができず、4位に終わってフラグを回収。いろんな意味で有言実行となってしまった。

 

北京五輪年のプロ野球の順位に大きな影響を及ぼし、特に最大13ゲーム差と独走しながら逆転された阪神は「オーナー付きシニアディレクター」という職を与えられ高給を食んでいた「身内」に足を引っ張られた*6。また中日は子飼いの川上憲伸岩瀬仁紀に対する理不尽なまでの酷使*7を理由に翌年WBCへの選手派遣を拒否するようになる。星野の酷使によって巨人の逆転優勝をアシストした為に、年月が経過した今でも恨んでいる野球ファンも少なからず存在する。
星野はこの後すぐ行われるWBC日本代表監督続投を志すが、イチロー野村克也による懐疑論を口火に頓挫*8。前任の王貞治の「WBCは現役のプロ野球の監督がいいだろう」との鶴の一声があった結果、WBCの監督は原辰徳*9に決定することとなる。
その王の期待に応えた原はWBCで見事優勝を達成する。原への賞賛を尻目に星野の名声は地に落ち、後に楽天球団初の日本一を果たすまで辛酸を味わうこととなった。

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*1 当時愛知工業大学の4年生であった長谷部康平を除き全員がプロ。長谷部も後に楽天に入団。
*2 2008年当時は日本シリーズに3回出場して全敗。現役時代2回出場を含めても日本一の経験が一度もなかった。
*3 星野は明大出身であり、コーチを務めた山本浩二、田淵幸一は共に法大出身。大学時代から三者は親友として著名。
*4 山本は一次政権時にリーグ優勝の経験はあるが、二次政権目ではBクラスに終始。田淵はダイエー監督を3年務めるが、すべてBクラス。中でも1990年は敗北が勝利の倍以上だった。大野はアテネ五輪の続投ではあったが、広島コーチ3年間の成績はすべて防御率がリーグ最下位。のちに野村謙二郎の下で再登板。
*5 同一のメンツで1994年にも出演したことがある。この時は3人とも在野だった。
*6 特に五輪に招集された新井貴浩が大会期間中に前半戦から患っていた腰痛を悪化させ疲労骨折。大会終了後も戦列復帰ができなかったことは阪神ファンから恨まれており、この点は当時監督だった岡田彰布も激怒している。
*7 星野は相性の悪い相手には勝つまで対戦させ続けるという拘りがあり、こだわり采配の犠牲になる形で岩瀬は2度も韓国代表として出場した李承燁に決勝打を打たれ、その他でもG.G.佐藤は3度もフライを落球、村田修一は風邪によるコンディション不良でありながら出場を強いられ16打数1安打。
*8 特に野村は「星野の続投が既定路線だったかのような会議」だという旨をTVで暴露。野村は星野続投を主導したとされる高田繁の批判を受けるが、世間では野村賞賛とともに星野下ろしの署名運動まで起こった。星野は尚も諦めず渡邉恒雄を味方につけて鶴の一声による寄り切りを図るが、孫が学校でいじめられるなど家族にまで反対されたため断念。
*9 当時巨人の監督。2015年をもって一旦退任するも、2019年に復帰。