Viribus Unitis

Last-modified: 2022-06-29 (水) 22:07:27

テゲトフ級戦艦1番艦 フィリブス・ウニティス

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装甲厚の詳細

Viribus Unitis 001.jpg

性能諸元

性能諸元の数値は、アップグレード・基本特性・艦長スキル・ブースター・迷彩などの補正がかかっていない素の状態の数値を入力してください。
部位ごとの装甲厚や散布界など、ゲーム内には載っていない情報は将来ゲーム内で見れるようになる可能性があるので暫定で0や0-1などとする
・基本性能

Tier4種別プレミアム艦艇
艦種戦艦派生元-
国家ヨーロッパ派生先-
生存性継戦能力35,700
装甲13-280mm
・艦首・艦尾 19-150mm
・上部構造 13-80mm
・砲郭 30-280mm
・主砲 60-280mm
・重要区画 25-150mm
対水雷防御ダメージ低減18%
機動性機関出力27,000馬力[hp]
最大速力20.5ノット[kt]
旋回半径530m
転舵所要時間11.5秒


隠蔽性 通常主砲発砲時火災発生時煙幕内からの主砲発砲時
海面発見距離12.5km14.3km14.5km9.5km
航空発見距離10.2km16.3km13.2km-


射撃管制装置艦体モジュール主砲射程最大散布界
-mod.114.3km0m


主砲艦体口径基数×門数最大ダメージ(火災)装填180度旋回
-305mm/45 Skoda K104基×3門HE弾 4200(23%)
AP弾 8500
30.0秒45.0秒


副砲艦体口径基数×門数最大ダメージ(火災)装填射程
-150mm/50 Skoda K1012基×1門HE弾 2200(11%)10.0秒5.0km


対空砲艦体口径基数×門数秒間平均ダメージ射程
-70 mm/50 Skoda K104基×1門93.0km



・アップグレード

スロット0スロット1スロット2スロット3スロット4
搭載可能アップグレード
1Main Battery Modification 2-min.png主砲改良2+15%:主砲旋回速度
+5%:主砲装填時間
Aiming Systems Modification 1-min.png照準システム改良1-7%:主砲弾の最大散布界
+20%:魚雷発射管旋回速度
+5%:副砲最大射程
-5%:副砲弾の最大散布界
Secondary Battery Modification 2-min.png副砲改良2+20%:副砲最大射程
-20%:副砲弾の最大散布界
AirDefense 2_0.jpg対空砲改良2+20%:対空砲座の最大射程

・消耗品

搭載可能 消耗品

搭載可能 消耗品

十字キー左
応急工作班I.png応急工作班無制限消耗品の動作時間:20 秒
消耗品の準備時間:80 秒
十字キー上
修理班I.png修理班3 回消耗品の動作時間:28 秒
消耗品の準備時間:80 秒
回復:0.5% HP/秒
十字キー右
強化型副砲照準器.png強化型副砲照準器3 回副砲の安定性:+100%
副砲の散布界:-50%
消耗品の動作時間:30秒
消耗品の準備時間:160秒

詳細は消耗品を参照

ゲーム内説明

フィリブス・ウニティスは、オーストリア=ハンガリー帝国海軍としては唯一であった弩級戦艦の艦級のリードシップです。設計者達は、比較的重厚なデザインを適用することで、比較的小型ながらも重装甲であり、305 mm 砲 12 門という強力な兵装を備えた戦艦を実現しました。
就役:1912
同型艦艦数:4

解説

  • 抗堪性
    HPは僅か35700。ティア3戦艦並の値で、ティア7の巡洋艦にも負けうるものである。
    その代わり艦首を中心に全体に装甲が施され上部構造物も少ないために戦艦のAPが貫通弾を出せるところは限定されている。一方で巡洋艦にHEに対する耐性はそこまで高くない。
     
  • 主砲
    305mm砲を3連装4基搭載している。全門斉射には45°前後傾けなければならない一方で、配置は背負式となっているため真正面、真後ろに6門づつ撃てる。これは他のティア4戦艦にはない強みであり、無理に全ての砲門を使わずに生存性を重視したほうが良い場合に役立つ。
    主砲装填時間は30秒、砲旋回速度は4°毎秒と良好。史実と違って12門斉射が可能になっているので安心しよう
    ここで気になるのがAP弾の貫通力だが、意外なことに同ティア内で見てもそこまで悪くない。12インチ砲としては大型巡洋艦のそれを除けば最も貫通力に優れる。同口径、同門数のOktyabrskaya Revolutsiyaと比較すると、信管作動時間の関係上こちらのほうが対戦艦に優れる(逆に言えば対巡洋艦という点においてはあちらに劣る)
  • 副砲
     150mm単装砲を舷側配置で片舷に6基づつ、計12門搭載。砲配置は艦中央部に前向きで3基、後ろ向きで3基というオーソドックスなスタイル。特徴としては砲旋回が同格最低の速度、装填時間も長めだが射程は5kmと同格トップクラスであり、HE弾ダメージは2,200とそこそこ強力(片舷6基を斉射した場合の瞬間火力は13,200)。
    このティアのMM帯だと狭いマップに配置される場合が多く、接近戦がしやすいので副砲特化構成もあり。
    このため射撃機会を逃さないように注意したいものの、砲郭搭載のせいで敵艦の接近してくる方向によっては同時に3門までしか指向できない場合がある。また10000を超えるDPMを活かすためには真横を向いて全門を指向する必要があるが…本艦は後述する低体力故に側面を長時間晒すリスクが大きい。よって他国艦のようにどっしり構えて射撃するというよりは、船体の旋回能力を活かして砲撃と回避運動の合間に補助火力として用いる運用になるだろう。
     
  • 対空
    本艦が沈没したのが1918年。世界初の空母であるフューリアスが実戦投入されたのも1918年。つまりそういうことである。
    あまりにも対空能力がないので対空能力の高い味方にくっつくのが一番だ。
     
  • 機動
    最高速度は21.5ノット(同格のブルターニュと同等)であり決して十分とは言い難いが、船体が非常にコンパクトであるためか旋回半径および転舵所要時間は非常に優秀である。(雀の涙かもしれないが)速度旗で少しでも速力を改善した上で、その小回りの良さを存分に使おう。
     
  • 隠蔽
    素で12.5km、隠蔽専門家および迷彩をつけると11kmを切る。足こそ遅いもののいざというときに逃げれる可能性を秘めている。
     
  • 総評
    弩級戦艦としては破格の攻(主砲火力)と守(装甲および耐性)を備えた艦であるが、走に関しては旋回性能こそ高いものの速度は完全に同格に劣っており、大規模改修を受けていない艦に相応な性能に収まっている。火力はティア5相当であるものの、鈍足と体力の無さ、そして残念な対空性能と同格に及ばぬ点があまりにも多く(だって弩級戦艦だから仕方ないね)、単艦で敵と長時間撃ち合ったり戦線を維持したりすることは不可能である。その名の通り味方と「力を合わせて」戦っていく必要があり、低ティア仏戦のような独特な運用が必要な艦に仕上がっている。
     このため、戦艦初心者にはとてもお勧めできない構成であるが、旧オーストリアや旧ユーゴスラビア圏のユーザーには中々に思い入れのある艦のようで、これらの国のwikiには非常に丁寧な記載がある等、人気の艦となっている。この点に関しては、同時期に就役した「ドレットノート」や「ナッサウ」がティア3としての調整を受けているのに対して、本艦が曲がりなりにも世界最強の弩級戦艦である「エジンコート」や超弩級戦艦を上回るべく設計された「金剛」と同じティアに居るという点を鑑みても、特別な扱いを受けていることを見て取れる筈だ。

史実

艦歴

テゲトフ級戦艦はオーストリア=ハンガリー帝国海軍最初にして最後の弩級戦艦。列強各国の戦艦が大型化を重ね、排水量25,000tを超える艦も登場する中で、本級は21,000tほどと小柄であった。「フィリブス・ウニティス」、「テゲトフ」、「プリンツ・オイゲン」、「セント・イシュトヴァーン」の4隻が建造された。
イタリア艦と同じく作戦海域が地中海にほぼ限定されることから、外洋航行能力は重視されず、武装や防御に余裕のある設計を実現している。一方で他国艦艇では敵より味方を沈める事例が多くなったため廃止されつつあった衝角が装備されているなど、その設計には若干保守的な部分も残っていた。

艦名は当初「テゲトフ」であったが、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の要望で本人のモットーである「フィリブス・ウニティス(羅:Viribus Unitis 「力を合わせて」の意)」と改名された。*1
1916年、妹のテゲトフよりオーストリア・ハンガリー二重帝国海軍旗艦の座を譲り受け、1918年まで旗艦を務めた。
大戦末期、オーストリア=ハンガリー帝国はその崩壊に際して、母港ポーライ*2を始めアドリア海沿岸の領土をすべて失うこととなった。オーストリア=ハンガリー帝国政府は艦隊や港湾施設が協商国の手に渡るのを防ぐため、それらを新独立国であり後にユーゴスラビアとなる、セルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人国海軍へ移籍させた。*3

こうしてフィリブス・ウニティスは戦艦『ユーゴスラビア』として改名し、新生海軍の旗艦として再スタートを切る……はずだった。
戦艦ユーゴスラビアはポーラ軍港にて艦長の着任を受けて数時間後、イタリア工作員の手によって大破、転覆した。*4
その後本艦が復旧されることはなく、1920年代から30年代にかけて解体された。

現在、イタリアのヴェネツィア国立造船所にてフィリブス・ウニティスの艦首の一部が屋外展示されている。

小ネタ

サラエボ事件

1914年6月にフェルディナント大公(フランツ・フェルディナント・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン)を、ボスニア・ヘルツェゴヴィナの主都「サラエボ」で行われる軍事演習の視察のため送り届ける任にあたったのは戦艦「フィリブス・ウニティス」であった。
 オーストリア・ハンガリー帝国は当時オスマン帝国領であったボスニア・ヘルツェゴヴィナを占領(1878年)、共同統治国としていたが1908年に正式に併合すると発表。この発表は後に「ボスニア危機」と呼ばれる混乱をもたらした(この時、欧米列強は争いをバルカン半島内に収める事に成功したものの、紛争の火種は燻り続ける。このため、バルカン半島はヨーロッパの火薬庫と呼ばれることになる)。ボスニア・ヘルツェゴヴィナにはセルビア人も住んでおり、ロシア帝国を後ろ盾として大セルビア主義を標榜するセルビア人民族主義者達にとってオーストリア・ハンガリー帝国はセルビアに対する侵略者であり、大公はオーストリア・ハンガリー帝国に対するテロの格好の標的であった。
 このため、6月28日午前にフェルディナント夫妻を乗せた車がサラエボ市内に入ったのを見計らい、秘密組織「黒手組」は爆弾テロを実行。10時15分にメンバーのネデリュコ・チャブリノヴィッチは大公の車列に爆弾を投げ込むも、爆弾は後続車に当たって乗員が負傷(この時、大公は「爆弾を投げつけるのが君達の歓迎のやり方なのか、と激怒したと言われている)、大公の車は難を逃れ無事に市庁舎に避難する事ができた。その後に大公は爆弾で負傷した人々を見舞うために病院を訪問する事にしたが、その事が運転手に伝わって居なかったことが悲劇を生む。
 10時45分に市庁舎を出発した大公の車は病院に向かうため急遽方向転換のために脇道に入ったところ、脇道のカフェには偶然爆弾テロに失敗して逮捕を免れた「黒手組」のガヴリロ・プリンツィプが休憩していた。このような好機は2度と無いと拳銃を手にした彼は、1発目を大公の妻ゾフィーに、2発目を大公に向けて発射(大公は泣き叫ぶゾフィーの上に身を乗り出し「ゾフィー、死んではいけない。子供たちのために生きなくては」と語りかけるも、間もなく死亡。ゾフィーも病院に向かう途中に死亡した)。
 逮捕された暗殺者への尋問の結果、彼らの使用した武器は「黒手組」指導者でもありセルビア軍大佐でもあるドラグーティン・ディミトリエビッチから提供されたものであることが判明。この事件をもってオーストリア・ハンガリー帝国は報復としてセルビア王国に宣戦布告(各国は開戦を避けるべく調整を行ったものの果たせず(7月危機)、中央同盟国対連合(共商)国との戦いが始まる。そして、欧州列強国間で数十年来に渡って張り巡らされてきた同盟網がドミノ倒しの如く影響し合った結果諸国が次々と参戦し、やがてこれが第一次世界大戦へと発展してしまう)。戦艦「フィリブス・ウニティス」は第一次世界大戦勃発の契機となる事件を見届け、サラエボから2つの棺をトリエステに持ち帰ることになった。

魚雷の背に跨りて

第一次大戦中のイタリア戦線において、カポレットの惨敗と呼ばれる戦いが存在するのをご存じだろうか。この戦いは1917年10月24日から11月9日にかけて行われた戦いで、イタリア王国がオーストリア・ハンガリー帝国およびドイツ帝国の増援軍と交戦した。戦闘の概要としてはドイツ帝国側の指揮官である「オットー・フォン・ベロウ」将軍が浸透戦術(ロシア帝国軍のアレクセイ・ブルシーロフが発案)を使用して後方突破による敵軍殲滅に成功、これによりイゾンツォ戦線の戦況は一変することになった。
 この戦いにおいてイタリア軍はオーストリア軍主力を押し戻すことに成功したものの、ドイツ軍突撃部隊の浸透戦術の意図を見抜く事ができずに対処を後回しにしたことから被害が甚大化、気付いた時には既に前線が幾つも突破され無数の部隊が殲滅された後だった。この「カポレットの惨敗」により、イタリア王国軍は世界から厳しい目を向けられ「弱小軍隊」という評価を下されている(日本軍も同様の評価を下している)。カポレットの惨敗と、国際的な低評価はイタリア人の心に深く大きな傷跡を残した。同時に一人の軍医にとてつもないアイデアを閃かせることになる。

パオルッチ軍医手記
「カポレットの汚辱はまだ私らの頭上に残酷な悪夢のように重しかかっていた。この汚点を洗い去らんがためには、伊国民の真価はその不可解な悲劇とは何らゆかりなきことを世界に示す必要がある。(中略)我ら伊国民は犠牲の精神をもって、諸外国人の前に、我らの名誉を回復せねばならない。(中略)私はフィリベルト艦の士官から、魚雷及び敷設または浮遊機雷に関する諸種の図書を耽読し、研究する便宜を与えられた。その時私の胸中に、泳いでポーラ港に侵入しようという考えが浮かんだのである」

「苦心惨々たる私の本当の必死の努力はこれから始まるのである。それから一カ月の間、雨が降っても風が荒れても、毎晩欠かさず、3時間も4時間も、時としては5時間もぶっ通しに、ラグーナの海で、私は必死となって猛練習をやった。一か月の猛練習ののち、5月の終わりには8kmに達した。私にとってはこれは最大限度だ。そこで私はチャーノ大佐のところに行った。そして次の通りに言った。『ポーラ軍港襲撃の目的のために遊泳すべき、その往復に必要な12kmまでには、私の遊泳力は到底達しえられそうにもありません。しかしいま私は確実に8kmは泳げます。それは往きだけの片道に必要な6kmは十分に通過していますから、どうぞ決行させてください。私は復(かえ)りは断念します。ことをなせば私の望みは遂げます。生還は期しません。』これを聞いてチャーノ大佐はホロホロと涙をこぼされた。『さすがはイタリアの軍人だ。えらい。僕らの決心次第では、君の8kmで往き帰りともに充分だ。なお熱心に練習を続けたまえ。僕らは機雷を制作させようから。』」

チャーノ大佐がパオルッチ軍医に紹介したのはロッセッチ海軍造船少佐であった。少佐はポーラ港内に持って忍びこめるような新しい破壊兵器を考えていたが、その道のりは平坦ではなかった。2人は協力して計画を立てた。その概要はこうである「MAS型自動艇(通称人間魚雷)に乗ってポーラ軍港近くまで移動し、そこから軍港に侵入し機雷を仕掛ける。そこから合流地点まで戻って帰還する」というものだ。この計画の実施にあたって2人は夜間訓練を実に4か月に渡って繰り返した。

パオルッチ軍医手記
「チャーノ大佐が荒々しく私たちに『さあ、もう水に入る時刻だ』と言い放つ。この厳粛な声には、包もうとしても包みきれぬ衷心の強い感激が明らかに聞こえる。時まさに10時『イタリアは祖国のために成そうとする事業を多として、君らを祝福する。生死は天の運。自重してくれたまえ。イタリアは永久に君らの名を忘れることはなかろう。』ロッセッチ氏と私とは水中から『国王万歳! Viva il Ra!』と答えて、今までつかまっていた舷側から手を離した。」

1918年11月1日、イタリア海軍の「MAS型自動艇(通称人間魚雷)」に跨った2人の工作員「パオルッチ軍医」と「ロッセッチ少佐」により戦艦「フィリブス・ウニティス」が撃沈された。イタリア軍を弱小、ヘタリアと侮る人達は彼らの勇気を知ってなお、そのように呼べるのであろうか。

世界初の魚雷

欧州版「人間魚雷」の話が出たついでに説明しておくと、実は歴史上最初に「魚雷」を開発した国はオーストリア・ハンガリー帝国である。といっても、最初の頃は既存の「機雷」に紐を付けて陸上から引っ張って動かそうという何とも時代がかった仕組みであり…この初期段階における「移動式機雷」は問題山積みで非実用的とされ開発は中止されてしまった。しかしこの研究に関わっていた海軍士官「J.ルッピス」氏と英国人技術者の「R.ホワイトヘッド」氏はその後も研究を続け、やがて圧搾空気によって自走する「機雷船」を開発。1866年の海軍委員会において発表を行った(これが世界で初めて公式に発表された自航式魚雷である)。この研究結果を目にしたオーストリア政府はこの発明に投資する事を決定、研究のかいもあって速度や稼働距離がどんどん伸びていった。ホワイトヘッド氏はフィウメに魚雷の製造工場を建造。1870年には工場も稼働し、1881年には国外に輸出を行えるほどになった。参考までに世界初の対洋行艦に対する魚雷攻撃が試みられたのは1877年で、英国の機帆装甲巡洋艦「シャー」からペルー海軍の砲塔艦「ワスカル」に対してであるが、命中はしなかった。

船長室の場所

実はこの艦の艦尾部分を良く見ると、軍艦に似つかわしくない「大きな窓」のようなものが確認できる。これは一体何かというと、船長室兼貴賓室の「展望窓」である。カンの良い艦長は既にお気づきと思うが、本艦には帆船時代からの伝統に従って艦尾に船長室が設けられて居るのだ。参考までに、帆船時代において艦尾部はすべての帆を確認でき舵にも近いという重要な位置であり、最も揺れが少ない事から艦長室は艦尾に配置するのがお約束であった。

コメント欄


*1 「テゲトフ」の名は二番艦に引き継がれている。こちらの名は1866年、リッサ海戦において活躍したヴィルヘルム・フォン・テゲトフ提督に由来する。
*2 イタリア領ポーラ、ユーゴスラビア領を経て、現在はクロアチア領プーラ。
*3 このときセルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人国は大戦における中立を宣言しており、海軍をまるごと移籍させることで、ドイツが後に受けたような協商国による接収を免れようとしたのである。しかし、この国自体はまだ国際社会から承認を受けていなかったため、オーストリア所属だろうがユーゴスラビア所属だろうが自国の隣に大海軍がいる事自体が脅威でしかないイタリアの介入を許してしまう。結局、残存艦隊の大部分は協商国に賠償艦として引き渡されることとなる。
*4 この工作員たちは母港も同じだったからか、中立国へ移管されたことを知らず、オーストリア=ハンガリーの戦艦を攻撃したつもりだったとも言われている。