008

Last-modified: 2007-03-29 (木) 19:25:08

第八景 獣 (けだもの) 

掛川宿肴町

 

「伊良子 先生はおぬしか藤木を
 三重どのの婿に考えておられるご様子」
「それがしが虎眼流の跡目…
 もったいのうございまする」
「ひとつ申しのべておく
 研屋町の奥方様のもとへ
 通うのはやめにいたせ」
「はて? 何のことか」
「尾けたのだ 湯屋の帰り…」
「あれは湯あたりなされた奥方様を
 ご自宅へお送りしただけのこと
 その後も足を運びし理由は
 奥方様は いたく天井裏のねずみに
 おびえておりますゆえ 時折それを
 片付けにお伺いしておりまする
 やましいことは何ひとつ」
「とぼけまいぞ」

 

「伊良子 もしもおぬしの所業が先生の耳に漏れたら…」
「委細 承知いたしました 奥方様のもとへは金輪際…
 御免いたします」

 

三重をくれるのか
あの未通娘(おぼこ)を

 

師の仰せとあらば無碍にもできまい

 
 

「お引取りくださいまし もうおいでならないと約束した筈
 なりませぬ このようなこともしだんな様に悟られでもしたら」

 

「伊良子さま これは何のお仕置きにございましょう」
「案ずるな 手荒なまねはいたさぬ」
あ…
「伊良子さまいったい何を」

 

虎眼の跡目 掛川武芸師範 知行三百石
駿河藩剣術師範 田宮対馬守 八百石
将軍家剣術指南 柳生宗矩 三千石
己の剣はどこまで昇る…

 

逆川に面したなめくじ長屋と蔑まれる
貧民集落にお蓉という夜鷹がいた
女は子を孕んだ後も生活のために
客をとらねばならなかった

 

十月十日経っても腹は膨れるばかり
一向に生まれてくる気配が無い

 

常よりも半年おくれて生まれ出でた赤子は
生まれたその日に四つ足で這い歩いた
獣の子がそうであるように
五月目には立ち上がり
四つの時には十三の子供の耳を噛みちぎった
九つの時には定廻り同心の財布を抜き
十二の時には泥酔した浪人者と立会い
これを打ち負かした
盗むよりはるかにたやすいことを知った

 

入門してわずか二年足らずで
夜鷹の子は虎眼流を己のものとしていた

 
 

寛永元年 師走

 

虎眼流の稽古納めに行われる無刀取りの演舞は
この年 藤木源之助と伊良子清玄によってなされた
この際 曖昧な状態にあると思われた虎眼だが…

 

「お父上…」
「…っ」
「ん…」

 

「み 三重どの……」
「た 種え」