072

Last-modified: 2010-05-24 (月) 01:50:12

第七十二景 巻藁 まきわら

「貴人の御前にて仕る“武芸上覧”なるもの 勝負と心得てはならぬ

 

 木剣にてまともに当てれば 脳汁(しる)が漏れおる
 かくのごときものを 貴人は決して好まれぬ
 卒忽(そこつ)な技を用いることなく ゆるりと間合いを詰めるだけにせよ
 そこで行司役の“止め”が入るゆえ喃
 しかる後 貴人のお気に召すよう己が剣を口上仕れば 仕官の道も開かれようというもの
 腕よりも弁 戦国の世が懐かしいわい」
若き日の源之助が師より授かった 太平の世に於ける武芸上覧の心得は
魔人虎眼さえ階級社会の中では 社会性を無視しえなかった事を証明している

 

駿府 笹原邸
「藤木源之助どのにお目通り願いたし」
四月中旬 笹原邸を訪れたるは 密用方 沼津彦次郎

 

「此度の上覧試合の心得 申し伝えに参った

 

 士(さむらい)たる者 武芸を心懸くべきこと珍しからず
 士たる者 常に死身(しにみ)の心にてなくては成るまじく候
 然るに当世 太平の世となりて士道は緩み候故」

 

長文であった
長文の中に上覧試合の際 真剣使用の義務が差しはさまれていたが
一聴しただけでこれを理解する者は稀であろう

 

「解しかねたでござろう」
「わかり申した」
「いや藤木どの 此度の上覧試合は尋常の…」

 
 

伊良子清玄が真剣使用の意向を聞いたのは 岡倉木斎からであった
「治において乱を忘れず この心得あるべきなり…」
「何と残念な…

 

 由緒ある駿府のお庭先を 虎の血で穢すことになり申す」
きゅうぅ

 
 

魔をもって魔を制す

 

主家より拝借した妖刀を 御前試合に使用することを決意したのは乙女であった

 

斬ってくださいまし

 
 

清玄の元には珍しき客が訪れた
「お約束の品 届けに参った」
江戸虎眼流 金岡雲竜斎である

 

「七分反り 三尺三寸 ほぼ直刀の野太刀 貴殿の技にふさわしかろう」
「刀工は?」
「備前長船 光忠 刀銘 一(いちのじ)」
「いち…」
「『一』を得て天は清く 『一』を得て地は安く
 『一』を得て神は霊となり 『一』を得て王は万人の規範となる」
「天下人の剣か…」

 

カシュ
盲目の剣士は 青白き刃の芳香を吸い込んだ
すると
えも言われぬ高揚が 全身を貫き
「おお…」
湧きたつ血液と 天空に登りつめる感覚に 清玄の肉体が震えた

 

清玄の野心 ついに翼を得たり

 
 
 

笹原邸の土蔵には どす黒く変色した畳が積み重ねられていたが
その理由を問う源之助ではない
「不要の物ゆえ好きにされよ」
「かたじけない」

 

青竹は背骨と同様の強度を持ち
これを畳表で巻くと 人体に酷似した感触の巻藁となる

 
 
 

源之助に見えたるは清玄の首と もう一つ女人の…

 

うぷっ
「藤木さま!」