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Last-modified: 2011-02-23 (水) 01:16:12

第七十八景 刹那 せつな

バシャ バシャ
バシャ バシャ バシャ バシャ
ハァ ハァ
謁見の日
源之助と修三郎は傘もささず帰路を急いだ

 

「戻ったぞ」
「だんな様 お帰りなさいまし」
「藤木さま…」
「いや 実に濡れた!」
下ろし立ての裃が泥まみれである
ハァ ハァ ハァ

 

ぬかるみに足を取られて転ぶような武芸者ではない
死地よりの生還であったのだ

 

一方 清玄は
「お帰りなさいまし」
「まこと愉快な謁見であったぞ」
「御湯殿の支度が出来ております」

 

「捨てろ」

 

(駿河大納言は御狂乱が過ぎる
 いかに将軍の実弟といえども いつまでも放置する公儀ではあるまい)
きゅうう

 
 

「金岡… まことにこれが天下人の剣か!?」
「清玄どの 間違いはござらぬ」
ピュ
「駿河五十五万石に明日は無い…」
「貴殿にはかえって好都合」
「どういう意味だ」
「駿府の旅籠が軒並み貸し切りとなっておる 借り主は他国の大名家
 忠長卿に召され 九月二十四日の真剣御前試合を陪観するためぞ

 貴殿の剣名は一日にして天下に流布されよう
 万が一 大納言家がお取り潰しになろうと 貴殿の高名はそっくりそのまま残り申す
 尾張なり紀州なり 望むままに仕官の道は開かれておるのだ」
尾張徳川家 紀州徳川家
いずれも駿府をしのぐ家格である
(江戸か… 駿河大納言を踏み台にして江戸へ翔ぶ…)

 

盲竜が将軍家光の領する 江戸の景観を思い浮かべた時
江戸を訪れた事のないいくの脳裏にも 清玄のそれと全く同じ景色が映ったのである

 

バッシャア
「泥の染みには水をぶつけるのが一番です 藤木先生っ」

 

バッシャア
謁見の場で突如命を断たれた剣士
あの者にも自分と同じように 闘うべき相手と守るべき家があった筈だ
自己の存在など刹那に散りゆく儚きもの そのように思い知った時
源之助の脳裏に浮かんだものは

 

泥の染みは落とせても 血液の染みは落とせない

 
 

斬ってください
その夜にも あなたの妻となります