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Last-modified: 2009-09-13 (日) 18:11:03

第六十四景 消失 しょうしつ

 

研屋町裏長屋

 
 

「いく様 虎眼先生がお呼びでございます」

 

「ゆすぎなさい」

 
 

「上がりなさい」

 
 

「脱ぎなさい」

 
 

虎眼流に入門して間もない藤木源之助である

 

虎眼流の内弟子には手加減なき稽古が加えられる

 

研屋町に馳せ参じる道中で吐血して果てたある内弟子は
折れた肋骨が肺に刺さっていた

 

いくは源之助に骨折が無いのを確認すると
ずりむけた左の掌を焼酎で消毒した

 
 

「食べなさい」

 

いくの命令口調は遠慮をさせないためである

 

源之助が食事をしている間に稽古着の綻びをつくろう

 

あまりにも無口なため源之助は感受性に
欠落があるのではと噂されている

 
 

無惨歌の妾いくと顔の腫れた源之助が歩くと
町の者は眉をひそめて道をあけた

 

「虎眼流の跡目はきっと
 源之助 あなたです」

 

源之助の首すじから耳にかけてが紅く染まった

 

無口ではあるが壊れてなどいない
いくはそう確信した

 
 
 

源之助の左掌の皮がぶ厚く生まれ変わった頃

 

「いく様 虎眼先生がお呼びでございます」

 

虎眼の正妻が死去して三回忌を終えて間もない

 

「急を要しまする」
「身を清めますゆえ しばしお待ちを」

 

この頃の虎眼は時に曖昧であり
その相手をする者は覚悟を要した

 
 

源之助は目蓋に甘く馨しき温もりを感じていた

 

目を閉じてなお 太陽の日差しを感じるがごとくに

 
 
 

駿府

 
 

「藤木どの ここは駿府城下 大納言忠長公のお膝元
 何が起ころうとも決して抜いてはなりませぬぞ」

 
 

長谷寺町

 

戸田流道場

 
 

「藤木源之助…」

 

「いく様」

 

思いもよらぬ再会 しかし
かつて いくが手当てした左手は根元から消失し
源之助の目を眩ませた白き背中も また然り

 

「つ 月岡さま これは…」

 

月岡とは星川生之助の旧姓である

 

「いくどのっ これには理由が…」

 
 

「ムッ」
   ズッ
「な…」
   ズ   ズ

 

源之助が抜いたのか
乙女が抜かせたのか

 

「よ よせっ」

 

「たのむ…」

 

「嗚呼…」