033

Last-modified: 2007-04-06 (金) 10:43:21

第三十三景 悪童

七日ぶりに掛川に帰還した牛股権左衛門は
竹竿に打ちつけられた門の前で全てを悟った

 

青竹の固さは人骨とほぼ同じであるが
まるで藁のごとくひしゃげた

 

師 岩本虎眼はもうこの世にはいないのだ

 

「う゛うう う゛お゛お゛お゛お゛ 」

 

権左衛門の嗚咽は
人間の声からは
ほど遠いものであった

 

閉門中の出入りは厳禁
門下生無き道場は
寂として声なく

 

三百石から七十石に減封された岩本家に
居残った奉公人は数名のみ

 

当主の血痕が残る縁側には
何事かを秘めた美しき岩本三重

 

虎眼の死に際し
乱心していた士道不覚悟により
蟄居を命ぜられた藤木源之助は
兄弟子の慟哭を耳にすると
虎眼の死後初めて涙を流した

 
 

十数年前

 

掛川領 粟本村

 

この村の子供たちが最も恐れていたのは
藤木源之助である

 

「この百姓めら」
悪童の口癖であった

 

侍の子の父 藤木右京太夫は
元は千石の家老職であり
藩主より知行地を給され支配村より年貢を
徴収する身分であったが

 

ある時"勤方不行届有之村"として
領地没収の上 家老職を解かれ
五十石の捨て扶持を再配され
粟本村への逼塞を命じられた

 

悪童は侍の子らに軽んじられる鬱憤を
農民の子にぶつけていたと見て間違いない

 

たえは柿を取ってこいと命令され
尻に小枝を刺されてしまった

 

与一は
頭上から漬物石ほどある石を落とされた
これなどは一歩間違えれば即死であっただろう

 

しかし どのような目に合わされようと
農民の子は 士の子に 平身低頭して
許しを請うより他ない

 
 

粟本村にはもう一人 源之助と言う童がいた
農民であるため姓を名乗ることは出来ない
この源之助はほとんど声を発しない上
泣く 笑うなどの感情を表さないので
親は愚鈍の子と思い
兄たちに劣る食事を与えていた

 

この源之助は悪童の格好の標的となった
愚鈍と思われている源之助だが
士に会えば頭を下げる

 

しかし 他の童とは違いその表情には
許しを乞うといったへつらいが見当たらない
それが悪童をいらだたせるのだ

 
 

この日悪童源之助はもう一人の源之助の口の中に
馬糞を詰めると 柔を用いて二十数回 失神させた

 

農民の子が動かなくなると
悪童はその場に放置し
そそくさと立ち去った

 
 

源之助が目覚めた時
眼のごとく月が冴えていた

 

山で集めた山菜を籠に戻す
これは自分の勤めである

 

家への帰路は霧に包まれた

 

虎の幻影は農民の子を
家に戻さなかった
その行き先は…

 
 

翌朝
石垣に頭を打ちつけられて
悪童源之助が事切れていた

 

この日 三次という丁稚が
ずた袋を振り回す童の姿を目撃しているが
それが人間であったと知ったのは後のことである

 

「あいィ…」

 

それを見た時
母 むぎは頓狂な呻きを発した

 

愚鈍の子が持ち帰ったものは
頭皮と思しき肉片の付着した
士の髷であったからだ

 

問いただしても何も答えぬ愚鈍の子を
父 孫兵衛は吊るし上げた

 

髷を奪われた士の一族に
自分たちが無礼討ちにされるのを
免れたい一心である

 

二刻もすれば血管が破裂して死ぬ筈である

 

そこへ藩庁の役人と思しき人影

 

「ヒ…」
「ヒィ」

 

「これが藤木右京太夫が仕果たした童か」

 

恐怖のあまり 震えるばかり

 

「この童 いらぬなら 貰うぞ」

 

掛川藩武芸師範 岩本虎眼は
悪童源之助の死を事故として処理させ
跡目なき藤木家に金子を与えて
養子縁組を承知させた

 

その養子とは愚鈍源之助であった

 

貧農の三男が藤木源之助という
士に生まれ変わったのだ

 

「虎眼先生……」