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Last-modified: 2010-05-12 (水) 01:56:18

第七十景 更衣 ころもがえ

駿府城

 

「笹原どの」
修三郎を呼び止めたのは 駿河藩武芸師範 日向半兵衛正久
「春とは名ばかりの肌寒さよのう」
「まことにもって」

 

「其方(そなた)の屋敷は二十余名の牢人者を預かっているそうな 賑やかであろうの」
「慣れましてござる」
「一介の武芸者に稽古などつけるは控えるがよかろう
 こちらは勝って当たり前 向こうは かすっただけで名誉ゆえ」
修三郎の顔面が羞恥に紅く染まった
「笹原の槍は誰のものと心得おるか?」

 
 

みりり みりり
ト!
ほう

 

感嘆の声を上げたのは瓜田仁右衛門 源之助と同じく笹原邸に身を寄せる牢人者である
「鉈を押し当てて薪を割るとは…… 貴殿と鍔ぜり合いはしたくないのう」

 

四月の更衣に備えて三重と共に“洗い張り”を行うのは 仁右衛門の妻 茅

 

「いつお生まれになるのでしょう」
「蜩の鳴く頃には
 それまでに仕官が叶うと良いのですが」
「案ずるな 茅! 摂者の腕は笹原さまのお墨つきだ
 これから藤木どのと鯉釣りに行って参る “鯉こく”は乳の出を良くするからの!」
「気の早いことを」
三重が笑うと源之助の頬も幾分か緩んだ

 
 

東丸下 御馬頭 曾根将曹役宅
曾根将曹は家老 朝倉宣正の懐刀であり ある任務に関して笹原修三郎の上役である

 

「修三郎 “怪しと思われる者”突き止めたか?」
“怪しと思われる者”とは隠密を指す
隠密とは将軍や老中の命を受け 大名家の内情を探る者である
「只今身柄を預かりし二十二名の牢人者 いずれも人品骨柄正しく武芸優秀
 笹原の名にかけて“怪しと思われる者”皆無にございまする」

 

「修三郎 殿は 隠密を発見せよ と仰せられたのだ」
江戸は駿河が天下の望みを画策することを恐れているゆえ 必ずや隠密を潜らせる筈と 驕児 忠長は断言した
そうである以上 隠密を発見せねば 一刀流の犠牲(にえ)となりかねない
「牢人台帳見せい」
パラパラ ビッ
「この者 隠密なり」
「な…
 ご ご無体な…」
「修三郎 笹原の槍は誰のものじゃ?」

 

「御殿の槍にございまする」
「指し貫く相手を決定いたすは 主君か? 槍か?」
「槍は心を持ちませぬ 槍はただ鋭く
 御殿 駿河大納言忠長公のお意志(こころ)に従い 働くばかりにございまする」

 
 

「笹原さまにはこたびの徳川家へのご推挙 御礼の申し上げようもございませぬ」
「瓜田どのにお見せしたきものがござる」
「おお “舌切り槍”にございまするか」
「左様に呼ばれておりまするが 大蛇の舌といえどもこの小指に満たぬ大きさ
 そのような的をこの穂先で 貫くことが出来るとお思いか?」
仁右衛門は返答に窮した
無理と言えば礼を欠き 出来ると言えば巧言になろう
「笹原どのの槍は 余人の及ばぬ 精妙な働きをするものと…」
「左様」

 

ビュルル トン
ビュ

 

舌切り槍が 三つの心臓を正確に貫いた

 
 

「瓜田さまはご仕官をなされたご様子
 藤木さま…」
「何よりにござる」