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Last-modified: 2009-02-03 (火) 12:45:55

第五十八景 大蛇

 

駿河大納言徳川忠長が久能山の家康廟に詣でた折のこと
山頂に通ずる石段の真ん中に一丈に余る大蛇が鎌首をもたげていた

 

行手を阻まれた若き主君は
家臣の者は金縛りの如く動けない 主君の前で失態は許されない上に
畏れ多くも神君家康侯の眠る霊山で 殺生は不可能である

 

列の後方から大蛇の正面に立ったのは 馬廻役笹原修三郎
その槍は 一瞬炎のように閃いた舌を突き刺し
一滴の血もこぼさず 大蛇を石段から退かせた

 

“笹原の舌切り槍”とは この時頂戴した呼び名である

 

なお 家康廟を守護るこの蛇は 忠長の命により 全身の骨を砕かれ果てた

 
 

笹原権八郎は修三郎の従弟であり 舟木兵馬 数馬とは親友であった

 

「権八郎 何しに参った」

 

権八郎の恐るべき嗅覚は 千加の美しい内臓を見透かし未通女であることを看破した

 

「何卒 千加どのを我が嫁に」
「笹原さま… 左様なことを申されると…」
「聞き及んでおりまする」
「やれるのか権八郎…」
にゅっ

 

「下手人は心憎きまで剣先の働きを会得した奴…
 剣は下へ向かう程威力を失うものゆえ
 このように 地に低く身を伏せて脚を狙えば」

 

この姿に 乙女はある者の姿を重ね合わせた
屈木頑之助…

 

乙女と結ばれるためには成し遂げねばならぬ事がある

 

槍は下方の敵に対しても全く威力を失わない

 
 

千加と権八郎の婚約は たちまち駿府城下に知れ渡った

 

笹原権八郎は いついかなる時も若党佐助に槍を持たせ
凶漢の襲撃に備えた

 

目眩を催す毒臭に権八郎は顔を覆った

 

敵の得意手は戦う前に奪う! がま剣法とは合戦の心得なり!

 

舌を噛み切る事で 権八郎は気力を復活せしめた

 
 

権八郎の大刀は回転する甲羅のごとき瘡蓋に弾き折られた

 
 

千加さまは 頑之助と結ばれる運命
この頑之助を置いて 他の男と契れば
対手の男 何者であろうと
鼻を削ぎ 脚を斬って息の根を止めるぞ

 

屈木頑之助と乙女 千加の運命が決するのは
寛永六年の九月二十四日…

 

その日こそ駿府城で前代未聞の真剣御前試合が催される日である