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Last-modified: 2011-02-24 (木) 00:09:32

第八十一景 虎口前 こぐちまえ

この日 駿河大納言は酒気を帯び
童(わらわ)のごとく口元を緩め 眼差しは虚空の一点を見据えるという ただならぬ“仕上がり”であった

 

ビイン スウ
心だに 誠の道に適いなば
祈らずとても 神や守らん
ビイン

 
 

伊良子…
真剣仕合前の研ぎ澄まされた感性のゆえか 突如 源之助は宿敵の本質を見抜いた
伊良子清玄は 他者に命じられて殺めるという行為に 吐き気を催したのだ

何者にも操られぬ宿敵の自我を 源之助は誇らしくさえ思えた

「若先生」
「まずは清玄の下段をはね上がらせるべし」
心得ましてござる

合戦に於ける激戦区を“虎口前”と呼ぶが 虎眼流にとってはそこが“住処”である

 

虎口前の恐怖に怯えていたのはむしろ 忠長に招かれた大名家の重鎮らであった
(これは法に触れる催しではないか…)
(いかに公方様の弟君とはいえこれほどの…)

 

駿府城の庭先を血で汚せば ご公儀への叛意と受け取られましょう

 

忠長に謀叛の嫌疑がかかれば 公儀の詮索はこの催しの陪観者にも及ぶ筈であり
真剣試合を藩主自ら陪観した加藤肥後守忠広などは 後に領国を没収されている

 

ドオオン ドオオン
忠長の入室を告げる陣太鼓が響くと 藩士たちの表情が人形のごとく消失した

 

「ご武運を」

「三重殿 いかがなされた?」
「見えました 藤木さまのお勝ちになる姿が」

「藤木源之助どの お出番にござる」

何処へも行き申さぬ

乙女の不安を呑み干すかのように 剣士は盃を空にした
ドオオン
「西方…」
ドオオン
「藤木源之助」
ドオオン バオオオ
ザスッ ザスッ ザスッ ザスッ
隻腕の剣士に浴びせられる 陪観者たちの視線
ザスッ ザスッ
“不足している者” “劣る者”
誰もが自分を そのような目で見ている
それは幼少時 両親が源之助に注いだ視線と同じもの
しかしそれこそが 事に臨んで躊躇なく他者の生命を切断する 闘技者としての「鬼」を育んできたのだ!

 

「東方 伊良子清玄」
ドオオン

源之助はまだ 宿敵を見ようとはしなかった
ズ ズ
足を引きずる音は さらなる剣技の深化を予感させた
ドクン
何かがあふれそうで
ドクン
何かがちぎれそうな想いが張りつめてゆく

 

ドオオン
「藤木源之助 伊良子清玄
 いざ両名とも心置きなく 御殿のため存分に剣技を尽くされよ」
ドクン ドクン
ついに源之助は 清玄を見た!

 

何事も 皆偽りの 世の中に
死ぬるばかりぞ 誠なりける