036

Last-modified: 2007-04-06 (金) 10:58:33

第三十六景  同胞 はらから

袋井宿 遠州灘

 

この日 虎眼流剣士たちは水練を行っていた
虎眼に裂かれた牛股の口の傷が
まだ新しい頃である

 

舟の上で錆びた兜と南蛮銅を
着装しているのは藤木源之助

 

「このあたりがよかろう」

 

鉄の鎧をまとった源之助は
みるみる海底へ没していく

 

虎眼流"水鎧"は
水圧と息苦しさの中
手探りで鎧を脱ぐ

 

訓練の目的はいかなる状況でも
平常心を保つことにあり
虎子たちの稽古の中では
安全な部類に入る

 

しかし
南蛮銅の緒の結び目が
鬼の如き指の力で
締め付けられていて解けない

 

「遅い!」

 

潜りの技を身につけた者でも
重りなしでは十七尋が限度

 

清玄だけが抜きん出た

 

岩本道場の双竜と呼ばれ 二人のうち一方だけが
跡目となることが出来るという状況である

 

「源之助は?」
「追えませぬ!」

 

プーッ

 

「源之助は?」

 
 

蘇生した源之助は
自己の不覚を深々と詫びた

 

この中に鬼の如き指力で
結び目をこしらえた者がいる筈だが
そのような悪意には無頓着な男である

 

「伊良子 よう助けてくれた」

 
 

その夜

 

虎子たちは海亀の
産卵場面に出くわした

 

海亀が常に塩分を排出していることを
知らぬ者にとって これは
苦しみに耐えて命を生み出さんとする
神聖な涙と映る

 

「わしはうれしい おぬしらが並んでいる
 我らは虎子 共に汗を流し剣を磨く同胞ぞ」

 

御前崎から伊良湖畔まで三十里に及ぶ 砂浜に
描かれる風紋は 幻想的ですらある

 

そのような景色に包まれたせいだろうか
自己のみを信じてきた清玄の胸に
牛股の口にした同胞という言葉が響いた

 

虎眼流のやつらは 己が知る士とは違う!
士の家に生まれた そのことだけでふんぞり返り
己を見下している奴らとは違う

 

貧民街の与三という人足は泥酔して
道の中央を歩いていたところ
上級藩士に無礼討ちにされた

 

肩が触れたという理由である

 

あの士とは違う!
あのくず共とは…

 

藤木…

 

山崎九郎衛門と丸子彦兵衛は足軽出身
上級武士に無礼討ちにされても
文句は言えぬ身分

 

興津三十郎と牛股権左衛門は郷士
これも白米などは口に入れられぬ身分

 

藤木源之助は決して過去を語らない
伊良子清玄と同じように

 

「藤木… 知っているか  今や東照大権現として
 神に祀られている大御所 家康はな その実
 簓者の娘と浮浪の祈祷僧の倅から成り上がったのだ

 

 嘘ではない 江戸の楠不伝の道場で聞いた話だ
 我らとて 己の腕で成り上がり 天下を取って
 人の上に立つことが出来る!」

 

清玄が"我ら"と言う言葉を使ったのはこれが始めてである

 

「伊良子 藤木源之助は生まれついての士にござる
 士は貝殻のごときもの 士の家に生まれたる者の
 なすべきは お家を守る これに尽き申す」

 

源之助は貧農の三男であった自分を
士分に取り立ててくれた虎眼の大恩に
報いる覚悟を述べただけであった

 

しかし 最下層出身の清玄にとってこの言葉は…

 
 

封印された屈辱が鮮やかに蘇った
杖すら持たぬ清玄 その歩みは鬼神の如く力強い

 

「のけ」
武芸上覧のため駿府へ向かう
片桐善鬼という剣客である
「なんだ 盲目か」

 
 

掛川

 

藩庁が指定した仇討場には
役人の手により三日がかりで
竹矢来が組み上げられた

 

草刈りを命じられた農民の中に
場にそぐわぬなよなかな女人の姿

 

伊良子清玄に身も心も捧げた美女 いく

 

白魚の如き指は
仇討場に埋まった石を
除去していた

 

刀身を大地に突き立てる
清玄の特殊な斬撃にとっては
女の拳ほどの大きさの石が
技の妨げとなり
命取りとなる可能性もあるのだ