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Last-modified: 2011-02-23 (水) 01:48:43

第七十九景 死桜 しざくら

九月二十三日 江戸

 

千代田城内の一室に 徳川幕府の執政の座に列する三名が鼎座していた
春日局 大奥を支配する将軍家光の乳母
酒井雅楽頭忠世(さかいうたのかみただよ) 上野厩橋十二万二千石の領主にして 若き将軍家光の補佐役
土井大炊頭利勝(どいおおいのかみとしかつ) 下総古河十六万二千石を領する徳川幕府の最高権威
「何とか手を打たねば…」
「筑後はいったい何をしているのでございましょう」
筑後とは朝倉筑後守 幕府から駿河大納言につけられた監督役の家老である
「あわてることもござるまい 少々の乱行は若い中にありがちのこと」
はっ はっ はっ はっ
肥った身体をゆすって笑う利勝の姿は 家光の祖父 家康に酷似していた
利勝の母は家康に仕えていたから 家康の落胤ではないかという噂もある
「大炊頭殿
 お手前さま 大納言さまと密かに文をお交わし遊ばれた候由 まことでございますかの」
「大炊頭殿 駿河大納言殿と内密の連絡をすることは 諸大名さえ固く慎んでおるところですぞ」
「どうも国千代君には甘くてのう」
はっ はっ はっ はっ
三百諸侯に畏怖されるこの利勝は 徳川忠長と密通していた

 

土井大炊頭上屋敷
「わしは駿河大納言殿に謀叛を勧めておる」
「心得てございます」
利勝の前に座するは 柳生但馬守宗矩
若き日は剣一筋に打ち込み 将軍家光の剣の指南役でありながら政治上の顧問的地位をも占め
多くの門弟を諸侯に推薦して各藩の師範たらしめ それらを通じて諸家の事情を絶えず探知している切れ者である
「将軍家重恩の土井大炊頭様さえ大納言殿の味方をすると知れれば
 密かに上様に異図を抱く者 ことごとく駿河に馳せ参ずるでございましょう」
「国千代君 許してたもれよ」
全ては徳川幕府を大盤石の重きに導くためであった
将軍家光の実弟 徳川忠長の存在はあまりに大きく 天下大乱の因子となっていたため
不満分子を一挙に殲滅する手段として 利勝は忠長を擁していた

「明日 駿府で上覧試合が催されまする」

「死桜が咲くのう」

 

駿府 岡倉邸
「そうか 藤木は親に捨てられた子であったのか」
ザ ア ア

 

「伊良子さま
 当道座の方が どうしてもお会いしたいと…」

 

「あ…
 あ あの

 夜分恐れ入りやす あ あっしは」
「蔦の市か」
へ・・
「覚えていてくだすった… あたしのような者を…
 ありがとうごぜえやすう」
ううう
「何用あって参った?」
「へえ…
 どうしてもお伝えしたいことがございます どうしても

 伊良子さまは… “灯”でございます
 お天道さんも照らしてくれなかったあたしらの胸ん中を 初めて照らしてくれた方でございます

 ありがとうごぜえます」
ううう
「顔を上げよ」
ううう
「上げよと申している!

 

 同じなんだ おまえも己も…
 武士も夜鷹も 駿河大納言も当道者も 何も変わりはない
 己の剣はその証…」

 

清玄自身 思いもよらぬ言葉が 肺腑より絞り出された

 

野心を満たすために昇ってきたのではない
人間に優劣をつける階級社会を 否定するために昇ってきたのだ