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Last-modified: 2010-01-26 (火) 01:42:54

第六十二景 黒髪 くろかみ

 

元来“伊良子”姓は
医師の家系である

 
 

元和二年 江戸

 
 

町医 伊良子清玄

 

経絡脈を利用した整体治療は内臓疾患をも回復させる効力を持ち
大名の侍医としての勧誘がありながらも町医として献身

 

牛込榎町にある診療所には
治療を請う人々が“雲集して列をなした”と当時の記録にある

 

     パッシャア

 

「戻ったぞ」

 

「お帰りなさい先生」

 

     みいいん みん みん

 

その声は空気を濡らした

 

当時 医業に携わる者は剃髪が基本であったが
その若者の長い髪は何人にも咎められることなく

 

その瞳を見ると

 

10日ほど前に道をたずねてきた初対面の若者を
医師 清玄はその場にて働き手として雇ったのである

 
 

「どこに行くんだい? めかしこんで」
「決まってるさ “清玄さま”のところ」
「あら あたしもだよ」
「あたしもさ」

 

この界隈で女たちが“清玄さま”と口にする時
思い浮かべているのは“黒髪の若者”の方である

 
 

当時は往診が主流であったが
賑やかなものである

 

「いかがなされました」
「む 胸が苦しくて…」

 
 

「次の方」
「胸が苦…」

 

兄弟子 峻安は
患者の経絡脈の滞りを視診のみで看破し
活法を施すべき部位は輝いて見えた

 
 

この頃の診療費は患者からの謝礼のみであり
医師の暮らしは楽ではない

 

「お主は京都の裕福な油屋の倅だそうな…
 一体何が欲しくてかような暮らしを」

 
 

「先生の按法の基になっているのは“骨子術”ではありませんか?」

 

「骨子術は活殺自在 生かすも殺すも己が意のまま
 そのように聞き及んでおります」
「経絡の働きを熟知すれば人の寿命を延ばすことも
 また 縮めることもできる
 しかし殺法は深く究めてはならぬもの」

 

「究めれば“鬼”となり果てる」

 

「手を見せい」

 

     ぐ!

 

     ひく ひく ひく

 

「驚いたであろう…骨子術の殺法はこれほどまでに…」

 

「な 何と 恐ろしい技…
 ぜひ もそっと」

 
 
 
 

「お前の目は不思議じゃ 見つめられると何もかも与えてしまいたくなる」

 

「わしは何かも教え尽くしてしまった 骨子術の秘中の技を全て…」
「全て? 本当に全てお教えくださったのですか?」
「隠せるものか 良い医者になる きっとお前は…」

 

「ありがとうございます」

 

「礼など要らぬ……
 わ わしはただ お前の事が…」
「おかげさまで輝いて見えまする…」

 
 
 

目撃したものの証言で“心中”とされ
二人の死体は上がらなかった

 

“清玄さま”を失った女たちは急速に色褪せ
残された峻安はさびれた長屋で細々と医業を営んでいた

 

ある日 遠州より江戸を訪れた牢人者から捨て置けぬ話を聞いた

 

掛川に伊良子清玄という名の黒髪の美剣士がいて
“師匠殺し”やって剣名を上げたと

 

「奴め! 盗みおった 先生の名前を…」

 

峻安は清玄を討つべく駿府へ向かった

 

この巨漢が清玄を葬ろうと決意したのは
師の仇討ちという理由に非ず

 

「あれは魔の物 この世に居てはならぬ物…」