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Last-modified: 2010-01-26 (火) 01:44:25

第六十六景 大御所 おおごしょ

三重の堀と五重七階の天守を誇る駿府城は
神君 徳川家康の最も愛した城であり
抑々 大御所なる呼び名は
神君 家康の隠居の地である
この駿府城を指す言葉である

 
 

この駿府城の本丸の裏手に
設けられた石牢は

 

懲罰のためのものではなく
城主の趣味のためのものであった

 
 

奥御殿の部屋方 “八重”は
自分がなぜ かかる仕置を
受けているのかわからぬまま凍えていた

 
 

 ム ウ ウ ウ ウ
  ム ウ ウ ウ

 

壁の向こうより 呻き声が漏れ聞こえる

 

駿府城のどこかで"人食い狒々"を
飼育しているという
恐ろしい噂が脳裏をよぎった

 

「お…お お千加さまぁ」

 

山狩によって捕獲された
屈木頑之助である

 
 

この おぞましい光景を眺むる
城主 忠長の表情は
庭園の錦鯉に餌を蒔く時と
全く同じである

 
 
 

舟木道場の一粒種 “千加”が
忠長の閨房に奉仕するようになった経緯は

 

駿河藩槍術指南
笹原修三郎の従兄弟が
屈木頑之助なる凶漢に

 

城下で斬殺された
件が忠長の耳に入り

 

それが一人の乙女を
めぐる争いであることが判明すると

 

「娘の名は?」

 

忠長が女人の名を訊ねたなら
それが家臣の妻であろうと娘であろうと
御殿の奥女中であろうと
風呂番の下婢であろうと
早速閨房に奉仕されるべく
手続きしなければならない

 

駿府城の使者 瀬川三左衛門が
千加を奥御殿に迎える旨を伝えると

 

父 一伝斎は感涙した

 

「光栄至極…」

 
 
 

千加の一部位が男子と化したが
忠長にとっては何の問題も無い

 

怪力の乙女も
神君 徳川家康の血統を継ぐ
五十五万石の太守を押しのけることは
不可能である

 
 
 

駿河大納言 徳川忠長
当代将軍 家光の弟だが
父にも兄にも似ていない

 

絶世の美貌をうたわれた
淀君の妹である
母 於江与に似ていた

 

しかし その目の奥には
得体の知れぬ憎悪が…

 

第二将軍秀忠の
次子 忠長の幼名は
国千代と称し

 

才気も美貌も
兄 竹千代に勝る
存在であった

 

長子相続制の確立していない当時
母 於江与は国千代こそ
将軍家の後嗣と考え溺愛を注ぎ

 

諸大名も それに倣い
国千代君に溢れんばかりの貢ぎ物をする

 

幼き忠長の目に映るのは
“伏す者”のみであった

 
 
 

「血迷うたか」

 

乱心したるは秋山左次郎なる藩士
“勤方不行届”として帰宅した妹“八重”の
変わり果てた姿を目撃したためである

 

これを押さえたのは 
老職 内藤仁兵衛

 

「殿…お離れに」

 

「隠密か…」

 
 

長幼の序を誤るは
家門の乱るる基

 

神君 家康の裁断によって
将軍職は長子竹千代と宣明された

 

それは竹千代の乳母
春日局らの画策であった

 
 
 

駿河藩剣術師範 日向半兵衛正久より
免許を得ている忠長の一刀流の業前は
“義理許し”の域にあらず

 

「お お見事…」

 

驕児は憎悪していた

 

将軍職を奪われた自分の境遇と
神君 家康が最も愛した
この駿府城を