073

Last-modified: 2010-05-25 (火) 01:33:16

第七十三景 化身 けしん

ハア ハア ハア ハア  ハア ハア

 

ずぶぶ
ゴボ…
ずぶぶ

 
 

笹原邸
「藤木源之助の容体は?」
「片腕を無くすほどの深手を負った者は 傷口がふさがろうとも 長命は望めぬものと心得て頂きたい」

 

源之助は昏睡していた
わずか一年の間に 師と左腕と 兄を失い
それでもなお戦い続けた虎の肉体と精神は 限界以上に消耗していたのだ

 

ザアア
斬って下さいまし
憎い憎い伊良子を
ビクン

 

雨音に紛れて物音がした
同じ庵に逗留する牢人者は居ない筈である

 

笹原一族は参拝のため留守である
外部からの侵入者だろうか
濃尾無双 岩本虎眼の一人娘の心臓は このような際にも冷静である

 

長い髪と 白い肌は 女のものと思われたが
その皮膚の下に秘められた 筋肉と骨格は 一流の剣士の
「お おまえは…」
父の仇が突然目の前にいた!
乙女との婚約を結びながら 父の妾と密通した憎き仇!
「伊良子清玄…」
「その声は三重どの!」
仇は無防備であった あまりに無防備であるがゆえに
乙女はその肉に懐剣を突き立てることが出来ず 身を震わせるしかなかった
「雨に濡れ申した故…」
「な… 何用あって…」
ザアア

 

ザアア
「藤木源之助どの病と聞き及び 薬を届けに参った
「藤木源之助は伏せってなどおらぬ すぐに去ねよ!」
カシュ
「狒々の“霜(そう)”にござる」

 

「霜」とは“黒焼”であり
古来霊長類の黒焼は万病に効く薬種として重宝され 「天印」と呼ばれる頭部は最も治癒力を秘めているとされていた
戦国の世における生首の黒焼の神秘的効能については 父 虎眼より念入りに聞かされている乙女である
「これほどの天印霜は大名でも手に入るものではござらぬ
 拙者はこれを 駿河大納言忠長公より賜り申した」
医師に見放され昏睡する源之助を救うためには 喉から手が出るほど手に入れたい妙薬である
「仇の情は受けぬ 去ねよ」
「三重どのに仇と呼ばれると 何よりも胸が痛み申す
 摂者は誓うて不義などしておらぬ
 しかし虎眼先生にそのように思われてしまったのは 摂者の不徳の招いたことゆえ
 誰も恨んではおり申さぬ」

 

「いくと暮らしているのは…」
「いくどのは師の“想いもの”ゆえ 大切にお預かりするより他ありません」

 

毒が入っていないことを示すため 舌に乗せゆっくりと咀嚼する清玄
ザアア

 

ザアア ザアア
サアア

 

「雨が止みまするな」

 

「摂者は雨も風も花も 音と匂いで見ることができ申す
 ただどうしても“あれ”だけは見え申さぬ
 “あれ”をもう一度見とうござるな」
「“あれ”とは?」

 

虹…

 

この日乙女が見た虹竜(こうりゅう)は 伊良子清玄の化身 あるいは幻視(まぼろし)か