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Last-modified: 2007-04-02 (月) 10:25:59

第二十九景 盲竜

岩本家 公用の間は
血の海と化していた

 

魔剣により重症を負ったいくは
自分はすでに死していて
地獄の光景を見ているのでは
ないかと疑いはじめた

 

鬼の足元で伊吹半心軒の小腸が
大便の臭いを放っている

 

その臭いに清玄は蒼ざめた

 

根尾谷六郎兵衛の首が
踊りかかった

 

肉塊は清玄に命中することなく
天井にぶち当たり落下

 

人間の上半身を枕のごとくはね上げる
虎眼の恐るべき脚力

 

しかし それ以上に
清玄が恐れたものは

 

音である

 

音と臭いでものを見る清玄にとって
天井より滴る血の雨の音は
目標の捕捉を困難にするのだ

 

虎を倒すには絶好の位置にいた
清玄であったが
ここはすでに魔神の庭

 

虎眼がわずかに体重を
前足に乗せた時 清玄は翔んだ

 
 

小刀の狙いは清玄ではなく
清玄の着地点だ

 

肉体(からだ)が覚えていた
ここは かつて虎眼流入門の儀式
"涎小豆"の行われた場所

 
 

間に合う! そう確信していた

 

源之助の俊足はすでに掛川宿に到着

 

待っていろ 伊良子!

 
 

魔神の背後の明かりが消えた
月も翳りはじめた
老境の視力にこの闇は著しい
不利をもたらす筈である

 

伊良子さま ご存分に!

 

この時 魔神の瞳は
猫科動物の如く
拡大していた

 

虎眼の双眸が闇の中
清玄の姿を毛穴まで
鮮明に捕らえた時

 

双眸なき清玄も
また 虎の姿を鮮明に
捕らえていた

 

その耳で その鼻で その舌で その髪で
その肌で その鱗で その逆鱗で

 

もはや明らかに昔日の清玄ではない

 

ただ見れば盲人が杖をついているが如くだが
殺気刀身に満ち 微塵の隙もないのだ

 

ああ あれこそは…

 
 

虎眼が流れ星を同じ相手に二度までも
用いようとするのはこれが始めてである